日曜日、例によって散歩にでかけようとした。が、少々の野暮用がありあまり時間がない。近場でどこか、と地図をチェック。川崎と横浜の境、横浜市青葉区に「寺家ふるさと村」がある。里山が美しいといった記事をどこかで読んだ。小田急の新百合ヶ丘から歩けば5キロ程度。で、ふるさと村から田園都市線・青葉台まで歩けば、合計で10キロ程度になるだろうか。距離も丁度いい、ということで、本日は川崎市麻生区から横浜市青葉区への散歩にでかける。(木曜日,8月 09, 2007のブログを修正)
本日のルート;小田急・新百合ヶ丘駅>南口>上麻生1丁目>弘法松公園>南百合丘小学校>吹込>真福寺小西>真福寺>真福寺川>不動橋>宿地橋>鶴見川合流>水車橋>寺家町>(寺家ふるさと村)>ふるさと村郷土文化舘>熊野神社>むじな池>河内橋・鶴見川交差>横浜上麻生道路>桐蔭各園入口>中里学園入口>佐藤春夫・「田園の憂鬱」由来の碑>黒須田川交差>稲荷前古墳群>市ヶ尾横穴古墳群>地蔵堂下>国道246号線・市ヶ尾駅前>田園都市線・市ヶ尾駅
小田急線・新百合ヶ丘駅
小田急線・新百合ヶ丘駅。以前、駅の北東、2キロ強のところにある読売ランド方面からスタートし、千代ヶ丘の香林寺の五重塔を眺め、この新百合ヶ丘駅まで歩いたことがある。五重塔から眺めた丘陵下の風景はまことに美しかった。それはそれとして、そのときは新百合ヶ丘駅の北口しか見ていなかったのだが、今回降りた南口は全く様変わり。津久井道の走る北口とは異なり、南口駅前は一大ショッピングセンターである。事実、首都圏でも特に目覚しい発展をした街である、とか。新百合山手といった巨大住宅開発が実施され、丘陵を切り崩し巨大な住宅地が丘の上に開けている。ちなみに、百合丘の地名の由来であるが、百人の地権者がこの地の開発に力を合わせたとか、県の花であるヤマユリが自生していたから、とか、百の丘があったからとか、例によって諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
吹込交差点
南口に降り、大型商業施設の中を成行きで南に向かう。成り行きで進み少し大きい車道に出る。坂道を南西に向かって下る。南百合丘小学校脇を下り最初の大きな交差点に。吹込交差点。王禅寺西2丁目と3丁目の境にあるこの交差点からは大きな車道の一筋南に進む道に入る。しばらく進むと南に下る大きな車道に出る。この道が、目的地・寺家ふるさと村に向かってのオンコース。ちなみに王禅寺の地名の由来は、古刹・王禅寺、より。
小田急線・新百合ヶ丘駅
小田急線・新百合ヶ丘駅。以前、駅の北東、2キロ強のところにある読売ランド方面からスタートし、千代ヶ丘の香林寺の五重塔を眺め、この新百合ヶ丘駅まで歩いたことがある。五重塔から眺めた丘陵下の風景はまことに美しかった。それはそれとして、そのときは新百合ヶ丘駅の北口しか見ていなかったのだが、今回降りた南口は全く様変わり。津久井道の走る北口とは異なり、南口駅前は一大ショッピングセンターである。事実、首都圏でも特に目覚しい発展をした街である、とか。新百合山手といった巨大住宅開発が実施され、丘陵を切り崩し巨大な住宅地が丘の上に開けている。ちなみに、百合丘の地名の由来であるが、百人の地権者がこの地の開発に力を合わせたとか、県の花であるヤマユリが自生していたから、とか、百の丘があったからとか、例によって諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
吹込交差点
南口に降り、大型商業施設の中を成行きで南に向かう。成り行きで進み少し大きい車道に出る。坂道を南西に向かって下る。南百合丘小学校脇を下り最初の大きな交差点に。吹込交差点。王禅寺西2丁目と3丁目の境にあるこの交差点からは大きな車道の一筋南に進む道に入る。しばらく進むと南に下る大きな車道に出る。この道が、目的地・寺家ふるさと村に向かってのオンコース。ちなみに王禅寺の地名の由来は、古刹・王禅寺、より。
真福寺川
しばらく進むと、道脇に真福寺小学校。小学校の裏 手には豊かな緑が見える。後から地図をチェックすると、「むじなが池」や白
しばらく進むと、道脇に真福寺小学校。小学校の裏 手には豊かな緑が見える。後から地図をチェックすると、「むじなが池」や白
山神社などがある。いつか歩いてみたい。道に沿って川筋がある。真福寺川。麻生区百合丘カントリークラブあたりを水源とし下麻生で鶴見川に合流する2.5キロの川。真福寺小学校を超えたあたりで、西に折れまたすぐ南に。
先ほどの車道の一筋西を真福寺川に沿って下る。左手には白山南緑地の緑。それほど美しくもない川筋を進む。王禅寺地区から下麻生地区に。不動橋の西に見える小高い緑の中には月読神社がある、という。「月読」って名前も神秘的。また、月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。結構面白そうな神様ではある。
寺家ふるさと村
宿地橋を過ぎると真福寺川は鶴見川に合流。水車橋を渡り、鶴見川の西岸に移る。橋を渡ってすぐの民家の脇に「寺家ふるさと村」の石碑。道の西には小高い里山が迫る。山裾を南に進む。桜ゴルフコースの案内を眺めながら南に。里山の南端に。田圃を隔てて南にもうひとつの里山。その間に田圃が西に続く。典型的な谷戸の景観。山の端を西に進むと「ふるさと村郷土文化舘」に。文化舘とはいうものの、おみやげ物の展示が中心。併設される喫茶で一休み。
「ふるさと村郷土文化舘」を出る。南に進み、田圃で隔てられた、もう一方の里山に移る。入口にある熊野神社を眺めながら、山裾を進む。「むじな池 右折」の案内。里山に入る。雑木林の道を上る。すぐさま尾根筋に。尾根、というのはおこがましいほど、つつましやかな「尾根」を越え、少し下ると「むじな池」。どうということのない、こじんまりした池。池の前には田圃が広がる。「ふるさと村郷土文化舘」前の道筋を真っ直ぐ進むと、ここにあたる。
それにしても、典型的な谷戸の姿である。これほど長く切れ込んだ谷戸って、あまりお目にかかったことがない。「むじな池」に限らず、「大池」とか「新池」とか「熊野池」とか、水源があり、そこから流れる水が谷地を潤す。心休まる景観。ちなみに、寺家は「じけ」と読む。「寺領」の意味。どこかのお寺の「寺域」であった土地。寺家町の中心には古くから東円寺というお寺があった、とか。
鶴見川
田圃の畦道に腰を下ろし、次の予定を考える。このまま青葉台の駅に進み、おとなしく家路に向かうのも、いまひとつ盛り上がりに欠ける。はてさて、どこか見どころは、と地図をチェック。田園都市線・市ヶ尾駅近くに、稲荷前古墳群と市ヶ尾横穴古墳群。とりあえず市ケ尾方面に進むことに。
「ふるさと村」前の道を東に進む。しばらく進むと鶴見川。河内橋を渡り、横浜上麻生道路に。環状4号入口交差点手前で、台地下を走る道路に入る。台地下とはいうものの、ちゃんとした車道。台地の上は横浜桐蔭学園。
佐藤春夫・田園の憂鬱の碑
桐蔭学園入口交差点を越え、中里学園交差点に。佐藤春夫の「田園の憂鬱」由来の地の記念碑があった。いつだったか古本屋で『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』という本を買った。その中で、「佐藤春夫の近郊の風景」という箇所があった。なんとなく「田園の憂鬱」のことを書いていたのでは、と思い本棚から取り出した。まさしくその通りであった。「田園の憂鬱」は大正5年の晩春から晩秋までの半年ほど居住した神奈川県都築郡の寒村の生活を回想したもの。このあたりの風景を描いたところをメモする。
主人公が移り住むのは、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとするところにある、山の辺の草深い農村である」「それは、TとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとえば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目にできた真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりと置かれているのである」「この丘つづき、空と、雑木林と、田と、畑と、雲雀と村は、実に小さな散文詩であった」「とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた」「フェアリー・ランドの丘は、今日は紺碧の空に、女の脇腹のような線を一しおくっきりと。浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に聳えて末広に茂った梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける」
それにしても、典型的な谷戸の姿である。これほど長く切れ込んだ谷戸って、あまりお目にかかったことがない。「むじな池」に限らず、「大池」とか「新池」とか「熊野池」とか、水源があり、そこから流れる水が谷地を潤す。心休まる景観。ちなみに、寺家は「じけ」と読む。「寺領」の意味。どこかのお寺の「寺域」であった土地。寺家町の中心には古くから東円寺というお寺があった、とか。
鶴見川
田圃の畦道に腰を下ろし、次の予定を考える。このまま青葉台の駅に進み、おとなしく家路に向かうのも、いまひとつ盛り上がりに欠ける。はてさて、どこか見どころは、と地図をチェック。田園都市線・市ヶ尾駅近くに、稲荷前古墳群と市ヶ尾横穴古墳群。とりあえず市ケ尾方面に進むことに。
「ふるさと村」前の道を東に進む。しばらく進むと鶴見川。河内橋を渡り、横浜上麻生道路に。環状4号入口交差点手前で、台地下を走る道路に入る。台地下とはいうものの、ちゃんとした車道。台地の上は横浜桐蔭学園。
佐藤春夫・田園の憂鬱の碑
桐蔭学園入口交差点を越え、中里学園交差点に。佐藤春夫の「田園の憂鬱」由来の地の記念碑があった。いつだったか古本屋で『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』という本を買った。その中で、「佐藤春夫の近郊の風景」という箇所があった。なんとなく「田園の憂鬱」のことを書いていたのでは、と思い本棚から取り出した。まさしくその通りであった。「田園の憂鬱」は大正5年の晩春から晩秋までの半年ほど居住した神奈川県都築郡の寒村の生活を回想したもの。このあたりの風景を描いたところをメモする。
主人公が移り住むのは、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとするところにある、山の辺の草深い農村である」「それは、TとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとえば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目にできた真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりと置かれているのである」「この丘つづき、空と、雑木林と、田と、畑と、雲雀と村は、実に小さな散文詩であった」「とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた」「フェアリー・ランドの丘は、今日は紺碧の空に、女の脇腹のような線を一しおくっきりと。浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に聳えて末広に茂った梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける」
『田園の憂鬱』ではないが、同じ頃書いた短編『西班牙(スペイン)犬の家』には、このあたりの雑木林を描いた箇所がある。メモする。「何でも一面の雑木林である。その雑木林はかなり深いようだ。正午に間もない優しい春の日ざしが、楡や樫や栗や白樺などの芽生したばかりの爽やかな葉の透間から、煙のように、また匂いのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向との加減が、ちょっと口では言えない種類の美しさである」、と。
当時佐藤春夫が住んでいたという家の周りを映した写真があるが、まっこと純正の「田園」である。佐藤春夫というか主人公は多摩の丘陵や美しい雑木林で癒されていた、ようだ。急激な市街地化が起きる前の、ほんとうに静かな田園の景観が目に浮かぶ。ちなみに上でメモしたTは東京、Yは横浜、Hは八王子である。
稲荷前古墳群
稲荷前古墳群
中里学園交差点を越え、南に進む。川筋と交差。黒須田川。王禅寺の日吉あたりに源を発し、市ヶ尾高校のところで鶴見川に合流している。川を越えるとすぐ道の左手の住宅の建つ台地上に緑の一角。稲荷前古墳群であろう。道を離れ、住宅地の中を台地にむかって上る。入口から石段をのぼると雑草に覆われた丘となっている。
ここが前方後円墳をふくめた三つの古墳跡、という。そう言われれば、そうかなあ、と思う程度の知識しかない。発見当時は前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基、横穴墓9基が発見され、「古墳の博物館」と呼ばれたようだが、現在では市街地開発で失われ、三基が残る、のみ。このあたりの古墳は4世紀から6世紀の頃のもの。近畿地方に遅れること1世紀、ということである。鶴見川(谷本川)を見下ろす丘の上に力をつけた首長が登場していた、ということ、か。
市ヶ尾横穴古墳群
丘の上に座り、しばしのんびり。得がたいひと時。丘からの眺めを楽しみ、次の目的地・市ヶ尾横穴古墳群へと向かう。住宅街を下り、薬王寺脇を通り大場川を渡り、大雑把に言えば南東に進む。一度丘を下り、低地で川を渡りふたたび丘に上る、って感じ。横浜市青葉区市ヶ尾町の北端、市ヶ尾小学校の北側に「市ヶ尾横穴古墳群」がある。六世紀後半から七世紀後半にかけての、いわゆる「古墳時代」の末期に造られたもの、と。市ヶ尾遺跡公園となっており、園内に入ると散策路が延び、その奧に広場がある。このあたりは鶴見川を見下ろす丘陵地であるのだが、公園前に建つ住宅のために、眺望はあまりよくない。家々の間から、かろうじての丘陵下の景色が見える。ただ、それだけでも結構爽快ではある。
公園内の各所に、市ヶ尾横穴古墳群の案内板があった。メモ;市ヶ尾の周辺には丘陵の谷間の崖面に造られた横穴墓群が多く、この「市ヶ尾横穴古墳群」はその代表的なもの、と。この地方の有力農民の墓ではないかという。公園内には「A群」12基、「B群」7基の横穴式古墳が残されている。横穴の周囲はコンクリートで固められてあり、少々情緒に欠ける。公園の中に案内が。
丘の上に座り、しばしのんびり。得がたいひと時。丘からの眺めを楽しみ、次の目的地・市ヶ尾横穴古墳群へと向かう。住宅街を下り、薬王寺脇を通り大場川を渡り、大雑把に言えば南東に進む。一度丘を下り、低地で川を渡りふたたび丘に上る、って感じ。横浜市青葉区市ヶ尾町の北端、市ヶ尾小学校の北側に「市ヶ尾横穴古墳群」がある。六世紀後半から七世紀後半にかけての、いわゆる「古墳時代」の末期に造られたもの、と。市ヶ尾遺跡公園となっており、園内に入ると散策路が延び、その奧に広場がある。このあたりは鶴見川を見下ろす丘陵地であるのだが、公園前に建つ住宅のために、眺望はあまりよくない。家々の間から、かろうじての丘陵下の景色が見える。ただ、それだけでも結構爽快ではある。
公園内の各所に、市ヶ尾横穴古墳群の案内板があった。メモ;市ヶ尾の周辺には丘陵の谷間の崖面に造られた横穴墓群が多く、この「市ヶ尾横穴古墳群」はその代表的なもの、と。この地方の有力農民の墓ではないかという。公園内には「A群」12基、「B群」7基の横穴式古墳が残されている。横穴の周囲はコンクリートで固められてあり、少々情緒に欠ける。公園の中に案内が。
抜粋メモする。「市ヶ尾横穴古墳群は禅当寺谷の奥まった崖面にある。谷本川(鶴見川)の平地と富士山や丹沢が眺められる。
周辺にはいくつかの横穴群。東北には小黒谷横穴群、尾根を越えた北側に大場横穴群が背中合わせにならび、稲荷前には前方後円墳を含む稲荷前古墳群がある。南には朝光寺古墳群。
付近の台地の上には鹿ケ谷遺跡をはじめとする古代遺跡が発見されている。そしてこれらの東方に掘立柱建の残る長者ケ原遺跡が発見されている。これは律令時代の郡役所跡」と。「古墳時代の後期になると、豪族のもとで貧富の差が広がり、家父長を中心とする農民の家族が成長してゆく。古墳が盛んに作られた時代を古墳時代(4世紀―7世紀)という。古墳は九州から東北まで広がる。古墳は、支配する地域を見渡すような場所に、自然の地形を利用したり、人工的に土を盛り上げたりしてつくられた。彼らは水田耕作に適した中・下流域ばかりでなく、上流域の丘陵地帯にも耕地を開き、集落を営み横穴墓や円墳などの群集墳をつくった」、と。
東急田園都市線・市が尾駅
東急田園都市線・市が尾駅
公園を離れ、道なりに東急田園都市線・市が尾駅に進み、本日の予定は終了とする。それにしても、何も考えず、特に何があるとも思わず歩きはじめたわけだが、川あり、里山あり、古墳ありといった盛りだくさんの一日となった。が、それよりなりより印象に残ったのは急激な市街地化。丘陵を切り崩し、住宅地を開発していたわけだ。
丁度読んでいた『都市と水;高橋裕(岩波新書)』にこの鶴見川流域の記事があった。抜粋:「鶴見川は1975年より実施された全国14河川の総合治水対策の先駆的事例。高度成長期を経て顕著な都市化が進行、かつ低平地を流れているため、江戸時代以
来、氾濫対策に苦慮していた、と。鶴見川は町田市内の多摩丘陵に源。長さ43キロ弱。流域の7割が丘陵、台地、残りが下流の沖積低地。標高は80mから70mといった低い丘陵が分水界。
全流域がきわめて平坦。流域は宅地化の最も激しかった地域。この流域の土地利用は1950年以来急変。宅地化が山林、低平地の水田などで進行。
65年以降、毎年流域の2ないし5パーセントが新しい市街地に変わる。特に恩田川流域が激しかった。鶴見川流域全体では、55年までは流域の10%。66年には20%。75年には60%。85年には75%まで市街化されていた」と。最近では宅地化が85%にまでなっていると、どこかで読んだことがある。50年で一面の山林・水田が宅地に変わった、ということ、である。新百合ヶ丘駅前で受けた、一体全体この賑わいは何?と思った素朴な驚きは、結構「当たり」であったわけである。散歩って、
あれこれとした発見がある。
あれこれとした発見がある。
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