今回は散歩のコースを事前に、少々真面目にチェックする。WEBには「分水界を歩く」とか「王禅寺の丘陵を歩く」とか、思いのほか多くのコースが案内されている。「分水界」とは、河川流域の境となる尾根筋のこと。ここで言えば、鶴見川と多摩川の流域の境となる尾根筋である。また、「王禅寺の丘陵」コースも魅力的。その名前だけで大いに魅かれる。で、今回は、分水界&尾根道&丘陵歩き、ということにする。小田急線・柿生駅からスタートし、麻生川筋をのぼり、新百合ヶ丘へと進む。そこからは、尾根道に乗り、王禅寺に向かい、あとは丘陵をアップダウンしながら小田急線・柿生駅まで戻る、といった段取りとする。(月曜日, 8月 13, 2007のブルグを修正)
本日のルート;小田急線・柿生駅>麻生川>麻生川を北に>小田急線交差>隠れ谷公園>小田急線交差>檜山公園>弘法松公園>生田南郵便局前>王禅寺東一丁目>日吉の辻>王禅寺>王禅寺ふるさと公園>琴平神社>籠口の池公園>真福寺川交差>月読神社>おっ越山ふれあいの森>秋葉神社>小田急線・柿生駅
小田急線柿生駅
小田急線・柿生駅で下車。北口に出るとすぐ前に「津久井道」。江戸時代、神奈川県西部の津久井、愛甲地方の産物、とくに絹を江戸に運ぶルートとして栄えた道。東京の三軒茶屋で国道246号線(大山道)から分れ、多摩川を多摩水道橋で渡り、狛江市、川崎市多摩区、麻生区、町田市を経て津久井に進む。甲州街道の脇往還として使われた。現在、三軒茶屋から多摩川までは世田谷通り、その先、鶴川までを「津久井道」と呼ばれている。
麻生川
津久井道をすこし北に進み、麻生川脇に。川筋の両側に遊歩道が整備されている。「麻生」は「あそう」ではなく「あさお」。地名の由来は「麻」が生える地、ってこと。8世紀、朝廷への調・貢ぎ物であった麻布の原材料である麻の産地であった。南北朝時代には麻生郷という地名が記録に残っている。地名の由来といえば、駅名の「柿生」。これも「柿」故のもの。鎌倉時代に王禅寺の等海上人が見つけた「禅寺丸柿」がその名の由来である。
麻生川を柿生新橋、麻生川橋と北に進む。桜の並木が続く。桜の名所であるらしい。川筋の両サイドには丘陵地が見え隠れする。川の東の丘陵地が鶴見川と多摩川の分水界かとも思った。が、東の丘陵のその東には真福寺川が流れている。ということは、東の丘陵は未だ鶴見川流域である、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
小田急多摩線
小田急多摩線下をくぐり、津久井道との交差の少し手前で川筋を離れ右に迫る台地にのぼる。「隠れ谷公園」と。「かくれだに」ではなく「かくれやと」公園。谷戸というほどの、切り込んだ谷地は実感できなかった。地形図でチェックすると、どうもこのあたりが「分水界」の尾根道の始まりのよう。
こやのさ緑道
小田急線柿生駅
小田急線・柿生駅で下車。北口に出るとすぐ前に「津久井道」。江戸時代、神奈川県西部の津久井、愛甲地方の産物、とくに絹を江戸に運ぶルートとして栄えた道。東京の三軒茶屋で国道246号線(大山道)から分れ、多摩川を多摩水道橋で渡り、狛江市、川崎市多摩区、麻生区、町田市を経て津久井に進む。甲州街道の脇往還として使われた。現在、三軒茶屋から多摩川までは世田谷通り、その先、鶴川までを「津久井道」と呼ばれている。
麻生川
津久井道をすこし北に進み、麻生川脇に。川筋の両側に遊歩道が整備されている。「麻生」は「あそう」ではなく「あさお」。地名の由来は「麻」が生える地、ってこと。8世紀、朝廷への調・貢ぎ物であった麻布の原材料である麻の産地であった。南北朝時代には麻生郷という地名が記録に残っている。地名の由来といえば、駅名の「柿生」。これも「柿」故のもの。鎌倉時代に王禅寺の等海上人が見つけた「禅寺丸柿」がその名の由来である。
麻生川を柿生新橋、麻生川橋と北に進む。桜の並木が続く。桜の名所であるらしい。川筋の両サイドには丘陵地が見え隠れする。川の東の丘陵地が鶴見川と多摩川の分水界かとも思った。が、東の丘陵のその東には真福寺川が流れている。ということは、東の丘陵は未だ鶴見川流域である、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
小田急多摩線
小田急多摩線下をくぐり、津久井道との交差の少し手前で川筋を離れ右に迫る台地にのぼる。「隠れ谷公園」と。「かくれだに」ではなく「かくれやと」公園。谷戸というほどの、切り込んだ谷地は実感できなかった。地形図でチェックすると、どうもこのあたりが「分水界」の尾根道の始まりのよう。
こやのさ緑道
公園を抜け、麻生小学校前の道路に出る。再び小田急線を跨ぐ橋を越え、線路の南に。山口白山公園脇の道を南に下り、麻生スポーツセンター入口交差点に。五差路。右から左から、南や東から上ってくる車、北や西から下ってくる車とで混雑している。東に進み、成行きで進むと緑道に。小田急線に平行に緑道を北東に進む。
1キロほど続くこの道は、「こやのさ緑道」と呼ばれる。宅地開発の前はこの周辺は細長い沢道。周辺の山には茅を刈るための共有地があり、その管理「小屋」があったため、「小屋のある沢」>「こやのさ」、と。新百合ヶ丘の駅前に近づくと人通りも多くなる。さらに進むと住宅街に。駅からそれほど離れてはいないのだが、閑静な住宅街となっている。少し進むと「檜山公園」に着く。
万福寺檜山公園
「檜山公園」は崖線上にある。比高差は結構ある。この崖の東は多摩川流域だろう。分水界の上に立っている、という、誰とも共有できない、であろう、故なき感慨に浸る。現在は雑木林や松が生い茂るこの公園は、かつて、この尾根筋に檜を植えた山があった、とか。開発で消えた美しい檜山を惜しんで名付けられた、ということだ。
弘法松公園
公園を離れ、尾根道を「弘法松公園」に向かう。住宅街を南東に進む道筋の南に小高い緑の丘。そこが弘法松公園であろう、とおもうのだが、道の先に展望台のような場所が見える。標高もこのあたりでは最も高いよう。ちょっと寄り道、のつもりで進む。が、結局、そこが「弘法松公園」であった。
展望台の休憩所で一休み。さすがに眺めは素晴らしい。西が鶴見川流域。東は多摩川流域。分水界に立つ、ってイメージをあらためて実感。それにしても、いい景観である。「弘法松公園」と思い込んでいた緑の丘も眼下に一望のもと。単なる思い込みではあったのだが、その堂々とした山容ゆえに惹かれ、それゆえに「弘法松」を意識するようになり、再びの歩みとなり、素晴らしき景観を堪能できたわけである。「思い込みも」それなりに意味あった、よう。
公園につつましやかな松。それが弘法の松。昭和37年に植えられたもの。伝説の弘法松は昭和31年に火難に遭い、その後、枯れてしまった、と。
弘法松の由来:弘法大師ゆかりの伝説が残る。大師がこの地に訪れる。百の谷があればお寺を建てよう、と。が、九十九の谷しかない。で、お寺のかわりに松を植えた、と。なにを言いたい伝説なのか、よくわからない。もっとも、「江海之所以能為百谷王者、以其善下之。故能為百谷王。(容納百川)」;(大河や海が百川の水を集め得るのは、つつましやかに低地にいるから。だからこそ、百川に帝王としていられるのだ)、といったフレーズもあるわけで、仏教では「百の谷」って、なんらか意味があるのかも。とはいうものの、弘法大師が関東に来たってことはないようだ。伝説は所詮伝説として楽しむべし、ということか。
弘法松はかつての都築郡と橘樹郡(たちばな)の境界にあたる峠であり、旅人にこの巨松はよき道標であった、と。都築郡は横浜市の北西部、橘樹郡は川崎市全域と横浜市の北東部。ちなみに橘樹郡って、先般、行田市の「さきたま古墳群」を歩いたときメモした、笠原直使主が朝廷に献上した4箇所の「屯倉(みやけ)」のひとつ。武蔵国造・笠原直使主が同族の小杵(おぎ)と争ったとき、助けてくれた、と言っても暗殺者を派遣し小杵を殺めた、ということなのだが、ともあれ朝廷への感謝のために献上した地域である。また、そのときに献上した久良岐の地は、現在の横浜市の東南部である。
生田南郵便局交差点
公園内を成行きで歩く。南側は崖となっている。石段を下りると弘法松交差点。交差点の西は丘陵を下る道。東の尾根道を進む。王禅寺西2丁目と百合丘3丁目の間の尾根道・車道を進む。眺めが素晴らしい。生田南郵便局交差点はすぐ近く。どうでもいいことなのだが、この郵便局が、なぜ生田南局というのか、わからない。近くに生田区とか、多摩区西生田といった地名はあるものの、ここはまだ麻生区百合丘である。
生田南郵便局交差点から北東方向に車道が続く。交通量も結構多い。標高も高くなっており、尾根道は生田のほうに続いている。どういった地形かチェックするため、交差点から少し尾根道を先に進む。道を少しはずれると崖上に。確かに生田方面に尾根道が続く。このまま進んでみたい、という思いはあるものの、本日のメーンエベント「王禅寺」は真逆の方向。生田方面への尾根道散歩は次の機会のお楽しみとして、交差点に戻る。
日吉交差点
交差点を南に下る。しばらく進むと尻手黒川道路と交差。王禅寺東1丁目交差点。交差点を越え、更に南に進むと日吉交差点。道の両側に丘陵が迫る。いままでこれでもか、って住宅街を歩いてきたので、急激なコントラスト。谷戸の雰囲気が残る。道の東に川筋。黒須田川。この辺りを源流とし、市ヶ尾高校近くで鶴見川に合流する。
王禅寺
しばらく歩くとT字路。日吉の辻。南東に折れ、少々の坂をのぼる。車の交通量も多い。そのわりに歩道がないので、ちょっと怖い。坂を上りきったところに南からの道が合流する。その上り道をちょっと進み、すぐに緑の中に続く道に移る。案内もなく、よくわからないままに進むと王禅寺の入口になっていた。あたりは一面の鬱蒼とした森である。王禅寺の寺域であったのだろう。
星宿山華厳院王禅寺。名前のどれを取っても、有り難そう。真言豊山派の古刹。はじまりは古い。考謙天皇(718-770)の勅命により、都築郡二本松で見つかった銅つくりの聖観音像をまつったのがはじまり。中世には禅・律・真言三宗兼学の道場として西の高野山とも呼ばれた、とか。王禅寺といえば、「禅寺丸柿」というほど、柿の話で名高いが、古い寺歴があったわけだ。
弘法松はかつての都築郡と橘樹郡(たちばな)の境界にあたる峠であり、旅人にこの巨松はよき道標であった、と。都築郡は横浜市の北西部、橘樹郡は川崎市全域と横浜市の北東部。ちなみに橘樹郡って、先般、行田市の「さきたま古墳群」を歩いたときメモした、笠原直使主が朝廷に献上した4箇所の「屯倉(みやけ)」のひとつ。武蔵国造・笠原直使主が同族の小杵(おぎ)と争ったとき、助けてくれた、と言っても暗殺者を派遣し小杵を殺めた、ということなのだが、ともあれ朝廷への感謝のために献上した地域である。また、そのときに献上した久良岐の地は、現在の横浜市の東南部である。
生田南郵便局交差点
公園内を成行きで歩く。南側は崖となっている。石段を下りると弘法松交差点。交差点の西は丘陵を下る道。東の尾根道を進む。王禅寺西2丁目と百合丘3丁目の間の尾根道・車道を進む。眺めが素晴らしい。生田南郵便局交差点はすぐ近く。どうでもいいことなのだが、この郵便局が、なぜ生田南局というのか、わからない。近くに生田区とか、多摩区西生田といった地名はあるものの、ここはまだ麻生区百合丘である。
生田南郵便局交差点から北東方向に車道が続く。交通量も結構多い。標高も高くなっており、尾根道は生田のほうに続いている。どういった地形かチェックするため、交差点から少し尾根道を先に進む。道を少しはずれると崖上に。確かに生田方面に尾根道が続く。このまま進んでみたい、という思いはあるものの、本日のメーンエベント「王禅寺」は真逆の方向。生田方面への尾根道散歩は次の機会のお楽しみとして、交差点に戻る。
日吉交差点
交差点を南に下る。しばらく進むと尻手黒川道路と交差。王禅寺東1丁目交差点。交差点を越え、更に南に進むと日吉交差点。道の両側に丘陵が迫る。いままでこれでもか、って住宅街を歩いてきたので、急激なコントラスト。谷戸の雰囲気が残る。道の東に川筋。黒須田川。この辺りを源流とし、市ヶ尾高校近くで鶴見川に合流する。
王禅寺
しばらく歩くとT字路。日吉の辻。南東に折れ、少々の坂をのぼる。車の交通量も多い。そのわりに歩道がないので、ちょっと怖い。坂を上りきったところに南からの道が合流する。その上り道をちょっと進み、すぐに緑の中に続く道に移る。案内もなく、よくわからないままに進むと王禅寺の入口になっていた。あたりは一面の鬱蒼とした森である。王禅寺の寺域であったのだろう。
星宿山華厳院王禅寺。名前のどれを取っても、有り難そう。真言豊山派の古刹。はじまりは古い。考謙天皇(718-770)の勅命により、都築郡二本松で見つかった銅つくりの聖観音像をまつったのがはじまり。中世には禅・律・真言三宗兼学の道場として西の高野山とも呼ばれた、とか。王禅寺といえば、「禅寺丸柿」というほど、柿の話で名高いが、古い寺歴があったわけだ。
「禅寺丸柿」の話をまとめておく;禅寺丸柿とは王禅寺中興の祖・等海上人が見つけた甘柿。新田義貞の鎌倉攻めのとき焼失した堂宇再建のため山中で木材を探していたとき見つけた、とか。建保2年(1214年)のことである。村人に栽培を奨励し、この地で柿の栽培が盛んになった。地名に「柿生」が生まれる所以である。境内には禅寺丸柿の原木が残されている。その傍らには、王禅寺の自然を愛して度々訪れた北原白秋の句碑がある。
白秋も散歩のいたるところで出会う。最初は世田谷の砧、次に杉並の阿佐ヶ谷。江戸川の小岩でも、そして市川でも出会った。東京で23回も引越しを繰り返したわけで、当たり前といえば当たり前である、ということか。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」は、白秋のフレーズであった、かと。
王禅寺ふるさと公園
王禅寺を離れて、王禅寺ふるさと公園に向かう。寺域と接しており、成行きで進めばなんとかなるだろう、と、雑木林をのんびりと歩く。石段を下り、如何にも谷戸といった雰囲気の里を進む。しばらくすると寺の入口に。それにしても、これが表門だろうか。よくわからない。ともあれ、入口を出て、寺域というか緑に沿って西に進む。すこしの上り。のぼり切ったあたりで、これも成行きで公園に入る。整地されていない雑木林。いい感じ。どんどん進む。が、結局行き止り。これまた成行きで引き返していると、大きな道にでた。道を進むとトンネル。トンネルを抜けると、そこは如何にも「公園」といった風景が広がっていた。
公園の案内をチェック。「見晴らし広場」の名前に惹かれて、北に向かう。小高い場所ではあるが、見晴らす対象は公園の景色であった。引き返すのもなんだかなあ、ということで、これも成行きで北に。なんとなく裏門通りの方面に出る。次の目的地は琴平神社。公園の南西端にある。公園に沿って南に下る。道の西に「化粧面谷公園」。これって、「化粧料(面>免)除」ってこと。江戸時代この王禅寺あたりが二代将軍秀忠夫人・お江与の方の「御化粧領地」であり、幕府から諸役負担の一部が免除されていた、から。
白秋も散歩のいたるところで出会う。最初は世田谷の砧、次に杉並の阿佐ヶ谷。江戸川の小岩でも、そして市川でも出会った。東京で23回も引越しを繰り返したわけで、当たり前といえば当たり前である、ということか。「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド」は、白秋のフレーズであった、かと。
王禅寺ふるさと公園
王禅寺を離れて、王禅寺ふるさと公園に向かう。寺域と接しており、成行きで進めばなんとかなるだろう、と、雑木林をのんびりと歩く。石段を下り、如何にも谷戸といった雰囲気の里を進む。しばらくすると寺の入口に。それにしても、これが表門だろうか。よくわからない。ともあれ、入口を出て、寺域というか緑に沿って西に進む。すこしの上り。のぼり切ったあたりで、これも成行きで公園に入る。整地されていない雑木林。いい感じ。どんどん進む。が、結局行き止り。これまた成行きで引き返していると、大きな道にでた。道を進むとトンネル。トンネルを抜けると、そこは如何にも「公園」といった風景が広がっていた。
公園の案内をチェック。「見晴らし広場」の名前に惹かれて、北に向かう。小高い場所ではあるが、見晴らす対象は公園の景色であった。引き返すのもなんだかなあ、ということで、これも成行きで北に。なんとなく裏門通りの方面に出る。次の目的地は琴平神社。公園の南西端にある。公園に沿って南に下る。道の西に「化粧面谷公園」。これって、「化粧料(面>免)除」ってこと。江戸時代この王禅寺あたりが二代将軍秀忠夫人・お江与の方の「御化粧領地」であり、幕府から諸役負担の一部が免除されていた、から。
琴平神社
しばらく歩くと琴平神社。地元の名主・志村文之丞が、文政9年(1826)に讃岐の金刀比羅宮を勧請したもの。入口に立ち入り禁止のサイン。どうも放火で焼失したようであった。金刀比羅>金毘羅とはサンスクリット語の「クンビー ラ」の音を模したもの。ガンジス川に住むワニを神とみなし、仏教の守護神としたもの。
しばらく歩くと琴平神社。地元の名主・志村文之丞が、文政9年(1826)に讃岐の金刀比羅宮を勧請したもの。入口に立ち入り禁止のサイン。どうも放火で焼失したようであった。金刀比羅>金毘羅とはサンスクリット語の「クンビー ラ」の音を模したもの。ガンジス川に住むワニを神とみなし、仏教の守護神としたもの。
稲荷森稲荷社
琴平神社を離れ、神社の儀式殿の前を通る道を南西に下る。少し進み、消防団の倉庫のところを右に入る。緑地の裾を西に進む。神明神社の祠を見ながら進み、稲荷森稲荷社に。ちょっとした台地上に鎮座する。石段を上りおまいり。周囲は竹。立ち入り禁止のため、石段を下り先に進む。
籠口の池公園
道なりに進み、ジグザグ道を上る。のぼりきったところで西に進むと「籠口の池公園」に着く。こんな丘の上に何故池が、などと思ったのだが、池は公園を下ったところにあった。池も昔はこのあたり下麻生の田畑の灌漑用に使われたのであろうが、現在は雨水の調整池。
月読神社
池からの水路である暗渠に沿って下り東柿生小学校交差点に。少し北に進み、すぐ西に折れる。下麻生花鳥公園脇を進み、真福寺川に架かる不動橋を渡り「月読神社」を目指す。
神社は台地の上にある。雑木林の中の石段を登る。素朴なる祠程度かと思っていたのだが、結構立派な構え。1534年、麻生郷領主小島佐渡守によって伊勢神宮の別宮
から勧請されたもの。
今まで散歩し、結構神社で休んではいるのだが、「月読神社」に出会ったのはこれが初めて。古事記によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が天照大神の次に産んだのが月読尊(つくよみのみこと)と。あとひとりの兄弟である素盞嗚尊(すさのおのみこと)と合わせ、三兄弟というか三貴子と呼ばれている。有力なる神様であったわけだ。元々は壱岐の島の海上の神様であったようだが、渡来氏族、特に秦氏の力もあって、山城の地にもたらされた、と。古代京都の神仰や、渡来文化を考える上で重要な意味を持つ神様であるよう。姉の天照が太陽・お昼、この月読がお月さん・夜をつかさどる。夜のうちに作物が育ち、暦が変わるといったアナロジーで「成長・再生」のイメージをもっているのだろう。で、この神様の普及には、出羽三山の修験道が大きな役割を果たしたよう。修験者とともに全国各地に月山神社と月読神社が広まっていた、とか。
源内谷公園神社を離れ、西に進み麻生台団地の端を北に折れる。少し進むと、雑木林に入る。源内谷公園脇を進む。右手は崖。左手は鬱蒼とした谷戸、といった地形。結構な比高差がある。尾根道を進むと左手下にお寺か神社といった屋根が見える。尾根道をはずれ南に下る坂道を少し進むと秋葉神社。
秋葉神社
紅葉の中に秋葉神社。日除けの神様。江戸時代、領主三井家が遠州秋葉神社の火伏の神を勧請したもの。『神社の由来がわかる小事典:三橋健(PHP新書)』によれば、静岡県周智郡・秋葉山に鎮座する秋葉神社が「本家」。江戸時代に秋葉山の神輿が京と江戸に向かって渡御したことがきっかけとなって秋葉神は全国に勧請され有名になった、とか。江戸の中期には東海道や信州から秋葉詣でが盛んに行われた、という。
浄慶寺
秋葉神社のすぐ隣、というか同じ敷地内に浄慶寺。j神仏習合の名残であろうmか。小ぶりではあるが落ち着いた雰囲気のお寺様。千本を越えるアジサイが植えられ、「柿生のあじさい寺」と呼ばれている、とか。
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