土曜日, 10月 31, 2009

日光街道 千住宿を歩く そのⅠ;南千住から北千住に

荒川区の南千住と足立区の北千住。散歩の折々に「顔を出す」地名である。浅草を歩き、仕上げにと吉原遊女の投げ込み寺である浄閑寺を訪ねたときなど、散歩の終点として南千住に辿り着いた。東京と埼玉の境を流れる毛長川周辺の伊興遺跡や、その昔お酉さまで賑わった鷲神社を訪ねる散歩のスタート地点として北千住を訪ねたこともある。散歩の始点、終点として北千住・南千住を「かすめた」ことは数限りない。
南千住から北千住にかけ江戸四宿のひとつである千住宿があったことも知ってはいた。が、なんとなくそこを歩いてみようといった気持ちはあまり起こらなかった。どうせのこと、なんということのない街並みが続くだけであろう、といった想いではあった。むしろ、日光街道の少し東、隅田川の自然堤防の上を走る奥州古道のほうが面白そう、ということで、足立区・竹の塚から南千住まで歩いたことがある。前九年・後三年の役の奥州征伐に進む八幡太郎義家のゆかりの地や武蔵千葉氏の居城のあった淵江城跡(中曽根神社)などそれなりに時空散歩が楽しめた。関原不動尊で見た「オビンズル様」も記憶に残る。
? ことほど左様に、どうもねえ、といった塩梅であった日光街道・千住宿を歩いてみようと思ったきっかけは、古書展示会で偶然手に入れた『足立の史話:勝山準四郎(東京都足立区役所)』。副題は「日光街道を訪ねて」とある。足立区内の日光街道周辺のガイドでもあるので、千住宿だけでなく、荒川を越えて竹の塚から埼玉県境までの日光街道のあれこれが紹介されている。この本があればありふれた商店街の風景の中にも、なんらかの「古きノイズ」を感じられるかとも思い、『足立の史話』を小脇に抱え、と言うか、リュックのサイドポケットに差しこんで散歩に出かけることにした。



本日のルート;南千住駅>回向院>小塚原刑場跡>鰻屋「尾花」>浄閑寺>三ノ輪>三ノ輪橋跡>百観音・円通寺>スサノオ神社>誓願寺>熊野神社>千住大橋>芭蕉・奥の細道出立の地>やっちゃ場跡>掃部堤跡(墨堤通り)>関屋天神>源長寺>大正記念道碑>お竹の渡し>熊谷堤跡>問屋場跡>北千住駅

日比谷線南千住駅
南千住駅で下車。北口駅前にわずかに昭和の風情が残るが、周辺は都市開発がどんどん進んでいる。駅も新しくなっていた。空き地と迷路のような下町の街並みが広がると言われた南千住も次第に様変わりしている。駅を離れ小塚原の回向院と刑場跡に向かう。

回向院
駅の直ぐ隣り、吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところでもある。

小塚原刑場跡
小塚原刑場は線路のど真ん中。常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋手前、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。 小塚原刑場跡は現在延命寺となっている。これは回向院の境内が常磐線建設で分断されたとき、分院独立した、と。
刑場は諸説あるが、大きくても間口100m程度、奥行き50m程度。刑場自体はそれほど広くない。とはいうものの、明治期に刑場が廃されるまでに埋葬された受刑者数はおよそ20万人にのぼるといわれる。刑場を含めた一帯は結構な広さがあったのだろう。現在では、線路に挟まれた、まことに「無機質」な一帯ではあるが、往時、周囲は荒涼とした風景が広がっていたのだろう。

昔の風景を想う。戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜など、隅田川(当時は、荒川とも入間川とも)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側、千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。南千住駅の東一帯を「汐入地区」と呼ぶ所以である。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川・荒川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。刑場の周囲は「荒涼」といった乾いた風情、と言うよりも、低湿地・泥湿地帯と言ったほうがよさそう、だ。
この小塚原もそうだが、品川の鈴が森の刑場も、昔の刑場跡は線路や道路に挟まれた狭隘な場所として残る。これら刑場は日光街道や東海道といた主要街道脇にあったわけで、それって見せしめのためには人目の多いところがよかろう、といった考えもあったのだろうが、それが都市化が進むに際し、道路拡張などのためイの一番に潰されていったのだろう、か。もっとも、何十万もの受刑者が眠る地の再利用は、道路にするか、この小塚原のように操車場にするしか、術はないかもしれない。

鰻屋「尾花」
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。先回このあたりを歩いたとき、とほうもない行列のつづく店があった。あまり食べ物に興味がないため、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に出た。あとで調べてみる

と、「尾花」という有名な鰻屋さんであった。今回はどうだろう、と前を通る。休日でお店は閉まっていた。いかにもお店を探している、っぽい一団が、お店の前で途方に暮れていた。

浄閑寺
日光街道に出る前に、ちょっと浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。
このお寺に向かうのは、「投げ込み寺」へのおまいり、もさることがら、往古、このあたりを流れていた川筋に想いをはせる、ため。石神井川から分水された水路である「音無川」が王子から京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこからは台東区と荒川区の境、昔の根岸の里を経て三ノ輪に。水路はそこで二手に分かれ、ひとつは「思川」となり明治通りの道筋を進み、泪橋をへて隅田に注ぐ。もう一方は、山谷掘となる。いまはすべて暗渠ではある。

三ノ輪
浄閑寺を離れ三ノ輪交差点に。明治通り、元の山谷掘筋からの道筋、昭和通り、そして国際通りがこの地で合流し日光街道となり北に向かう。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。

三ノ輪橋跡
交差点道脇に「三ノ輪橋跡」の碑を確認。昔、音無川に架かる橋。現在は暗渠となっている。先にメモしたように、王子から流れてきた音無川は、この先浄閑寺前でふた手わかれ、一筋は「思川」、あと一筋は「山谷堀」となり、ともに隅田川に流れこむ。

百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源(八幡太郎)義家が奥州平

の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺に会津小鉄のお墓があった。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。

素盞雄(スサノオ)神社
少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命・飛鳥大神(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
江戸名所図会には「飛鳥社小塚原天王宮」と書かれている。「てんのうさま」と呼ばれる所以である。素盞雄(スサノオ)神社は明治になって作られた名称だろう。そもそも「神社」って名称は明治になってから。「天王」さまでは、音読みで「天皇」と同じ。それでは少々不敬にあたるだろう。で、何かいい名称は?そうそう、朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られており、スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれる。であれば、ということで、「天王宮」を「素盞雄(スサノオ)神社、としたのではないだろう、か。単なる空想。根拠なし。
瑞光石と言えば、散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。隅田川の自然堤防上、周囲低湿地・泥湿地帯に囲まれた砂州に古墳がつくられていたのだろう。

誓願寺
神社の裏手に荒川ふるさと文化館。ちょっと立ち寄った後、千住大橋の袂の誓願寺に。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。

熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次が成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸であった。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの山王社(日枝神社)前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。
川越夜舟は急行、鈍行取り混ぜての船運であるが、川越を午後4時に出発し、翌朝千住河岸に着く便が多いので、こう呼ばれたのだろう。新河岸川を川越からはじめ和光まで下ったことが懐かしい。

千住大橋
千住大橋に。荒川ふるさと文化館で購入した「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮を執る。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。 千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。
千住大橋建設のスポンサーは仙台伊達藩。参勤交代でこの街道を通ることになる64の諸侯のうちでも最大の大藩ゆえ、受益者負担といったことで幕府から下命があったのだろう。その見返りに、帰国の際にこの橋の上で火縄50発の空砲を撃つことが許されていた、とか。「立つときに雀大きな羽音させ(仙台藩の紋章は竹に雀)」といった川柳が残る(『足立の史話』)。

松尾芭蕉・奥の細道出立の地
橋を渡り足立区に。橋の北詰めの護岸に少々無粋なペイント。よくよく見ると松尾芭蕉・ 奥の細道旅立ちを記念する文言。「弥生も末の七日、千じゅという云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに泪をそそく。行春や鳥啼 魚の目に泪」。世に知られる出立の章である。元禄2年、と言うから1689年、芭蕉46歳の春のこと。

やっちゃ場跡
日光街道に戻る。このあたりは千住橋戸町。文字通り橋の戸口といった意味であろう。日光街道の東に中央卸売市場足立市場。橋戸町の北、河原町にあった青物市場(やっちゃ場)と大橋を少し上った尾竹橋の北にあった魚市場を統合しできたもの。
足立市場交差点で日光街道は国道4号線と離れる。このあたりは千住河原町。道の両側に往時の「やっちゃ場(青物市場)」の名残をとどめるいかにも問屋っぽい建屋が点在する。
やっちゃ場の歴史は古い。小田原北条氏の頃に遡る、とも。とはいってもそのころは朝市といった程度。本格的に市場っぽくなったのは、千住大橋ができ、人馬の往来が盛んになった江戸の中頃、とのことである。
『千寿住宿始末記 純情浪人 朽木三四郎;早見優(竹書房)』の中に、幕府から定市場として公認された見返りの冥加金(税)として、江戸城に青物・川魚をおさめる行列を描く場面があった。この行列を横切ることは無礼にあたる、といった「お行列」である。このお行列の上納品からもわかるように、やっちゃ場・青物市場、とは言うものの、扱うものは野菜だけでなく川魚、米穀も含まれていたようである。ちなみに、やっちゃ場の由来
は、掛け声から。せりの場で「やっちゃ やっちゃ」と叫んでいた、と言う。

掃部堤跡(墨堤通り)
京成線のガードをくぐり、先にすすむと「墨堤通り」に当たる。この通りは江戸の頃、「掃部堤」と呼ばれた隅田川、と言うか、昔の荒川・入間川の堤防があった。名前の由来は、この堤を築いた石出掃部介(かもんのすけ)、より。
石部掃部介は小田原北条の遺臣。江戸時代にこの地に移り、新田を開発。場所は、元の隅田川・荒川の堤であった熊谷堤(現在の区役所通りにあたる)と掃部堤に囲まれた一帯。掃部堤もその新田・掃部新田を水害から防ぐため築かれたものであろう。
往時は高さ4mもあったと言われる掃部堤であるが、現在は墨堤通り。堤の名残などなにもない、とは思いながらも、往古の堤上を歩こう、と。やっちゃ場のある河原町や橋戸町も文字通り堤外の「河原」にあったわけで、そう思えば、街並みも少々違った風景に見えるかも、といった思いであった。


関屋天神
日光街道と掃部堤の交差点・千住仲町交差点で右に進むか、左に進むか少し迷う。が、なんとなく関屋天神の名前に惹かれ右に折れる。少し進むと千住仲町公園。隣に氷川神社。石出掃部介が勧請したもの。関屋天神は氷川神社の境内にある。
関屋天神は、もともとは関屋の里に祀られていたものがこの地に移されたもの。関屋の里って、源頼朝の命を受け、江戸太郎重長が奥州防備のため関所を設けたところ。が、いまひとつ場所が特定されていない。とはいうものの関屋の里って、このあたりではあろう。ということで、切手にもなった、北斎の「富嶽三十六景 隅田川関屋の里」が描く土手の景色に昔を想う。

源長寺
関屋天神から掃部堤を引き返し、千住仲町交差点に戻る。そのまま直進し、掃部堤跡を西へと向かう。墨堤通りを進めば千住桜木町。そのあたりには「おばけ煙突」跡がある。東京電力の発電所の4本の煙突が、方向によってその見える本数が変わった、と言う。今となっては煙突もないのだが、なんとなく雰囲気を感じ、そこから熊谷堤跡を再び日光街道に戻るコースを思い描く。 ほどなく源長寺。石出掃部介が眠る。で、このお寺さま、石出掃部介が関東郡代・伊奈忠次の菩提をとむらうため建てたもの。源長は忠次の法号。そういえば、川口市赤山に伊奈氏の陣屋跡を訪ねたとき、そこにも源長寺という伊奈家の菩提寺があった。

大正記念道碑
掃部堤跡・墨堤通りを進む。千住宮元町交差点で国道4号線に交差。交差点脇の河原稲荷にちょっとお参りし、先に進む。土手の趣など何も、なし。ひたすらに車の往来が激しい、だけ。
先に進み、千住緑町3丁目交差点に。道脇に「大正記念道碑」。荒川脇・千住大川

町にある氷川神社からまっ直ぐに宮元町に下る道。元の西掃部掘を埋め立ててつくったもの。掘を埋め立ていくつもの道路をつくったろうに、何故この大正道のみがフィーチャーされるのか、ということだが、どうも、この碑文を書いたのが森鴎外であることにその因があるよう、だ。とはいえ、「父が千住に住んでいたので、馴染みがあり辞退もできず碑文を書いた」といったトーン、ではある。鴎外の父が居を構え、医院を開いていたところは北千住駅の近くらしい。後から寄ってみる。

お竹の渡し跡
千住龍田町交差点に。北千住駅からまっすぐ西に延び、北に走る墨堤通りと交差する地点。この道筋と墨堤通りの間を、斜めに下るのが熊谷堤跡の道筋である。はてさて、交差点で思い悩む。先に進むか、熊谷堤跡を戻るか。
結局、交差点を左に折れ、隅田川の堤防に出ることにした。隅田川の風景を見たかったこともさることながら、このあたりって、お竹の渡しがあったところ、と。尾竹橋の400程度下流にあった、ということだから場所としてはそれほど違いなないだろう、と。千寿桜小学校の脇を堤防に。隅田川が大きく湾曲する姿は、なかなか、いい。それなりに船泊まり、って雰囲気を勝手に思い込む。 上流を眺め、見えない「お化け煙突」を思い描く。大正15年に建設された煙突は83.5m。当時東京で最も高い建造物であった。これまたそれなりの感慨に浸り、再び千住龍田町交差点に戻る。ちなみに、お竹の渡しは、近くにあったお茶屋の看板娘の名前、から。尾竹橋も、お竹から、とも言われる。

熊谷堤跡
千住龍田交差点から南東に一直線に延びる道、これが熊谷堤跡。これがもともとの隅田川(荒川・入間川)の堤防である。天正2年、と言うから、1574年、北条氏政により築かれたもの、と言う。埼玉県の熊谷から墨田の吾妻橋あたりまで、自然堤防をつないで土手とした。完成に数年を要した、と。
熊谷堤跡の道は大師道とも呼ばれる。西新井の御大師さんへの道筋、と言うことであろう北斎の「関屋の里」の土手を想い描きながら国道4号線を越え、区役所通りを東に進む。途中、道を離れ立葵の紋を持ち、城北鎮護寺であった慈眼寺や不動院を訪ねた後、旧日光街道の道筋へと戻る。

問屋場跡
熊谷堤跡と旧日光街道の交差点あたりに、一里塚の跡とか高札場の跡がある、と言う。あたりをちょっと見渡したのだが、それっぽい案内も見当たらず交差点を北に。このあたりは千住宿の中心地といったところ。
交差点の直ぐ北に、ちょっとした公園。そこに問屋場の案内。千住宿の事務センターといったところ、か。千住宿が正式に宿場と定められたのは寛永2年、と言うから1625年。三代将軍家光の頃である。公用の往来の便宜を図るため、毎日人足50人と馬50疋を用意し、差配した。千住宿は参勤交代だけでなく、日光東照宮参詣のお世話もあるわけで、4月など参勤交代だけでなく家康の命日に向け日光東照宮に向かう将軍の直参・代参、御供の諸侯のお世話も重なり、結構大変であったろう。

北千住駅
はてさて日も暮れた。後は次回に廻し本日の散歩はこれでお終いとし、北千住駅に向かう。向かいながら、区役所通り、とは言うものの、それっぽい建物が見つからない。かわりに、東京芸術センターとか東京芸術大学千住キャンパスと言った建物が目に付く。区役所は1996年に千住から足立本町に移転したようで、その跡地に東京芸術センターが入った、と。芸大は千寿小学校跡地、とか。?

0 件のコメント:

コメントを投稿