土曜日, 10月 31, 2009

日光街道 千住宿を歩く そのⅡ;北千住から竹の塚、そして毛長川まで

日光街道・千住宿散歩の2回目は北千住の千住本宿のあったあたりからはじめ、宿場を越えて昔の幕府天領・淵江領の村々を北に進み東京都足立区と埼玉の境を流れる毛長川に進もうと。途中関屋の里へと大きく寄り道をしたり、奥州古道の道筋をかすめたりと、ゆったりした散歩を楽しんだ。



本日のルート;北千住駅>森鴎外旧居橘井堂森医院跡>勝専寺>本陣跡>千住本氷川神社>伝馬屋敷跡>水戸街道分岐>甲良屋敷跡>西光院・牛田薬師>安養院>下妻道分岐>大川町氷川神社>千住新橋・荒川放水路>川田橋交差点>石不動>赤不動>梅田神明社>梅田掘>佐竹稲荷>環七交差>国土安穏寺>陣屋跡>鷲神社>増田橋跡>保木間氷川神社>十三仏堂>大曲>水神社>毛長川

北千住駅
北千住駅を西に下りる。駅前の商店や家屋が密集する一角に金蔵寺。三ノ輪の浄閑寺と同じく千住宿の遊女が眠る。千住宿はここ千住本宿と南千住近辺の小塚原・中村町といった千住新宿(下宿)を含め戸数350、住民数1700名弱。そのうち遊女(食売女)は50から70軒の食売旅籠に150人ほどいたと、言う。なんだか、なあ。

森鴎外旧居橘井堂森医院跡
日光街道へと道なりに進む。と、都税事務所脇に案内。見ると、「森鴎外旧居橘井堂森医院跡」。偶然出会った。鴎外旧居とはいうものの、正確には鴎外の父の家。維新後、津和野より上京し向島の小梅村をへて、この地に居を構えた。東大医学部を卒業し、軍医官となった鴎外が、ドイツ留学するまでここから陸軍病院に通ったところ。鴎外の家って、本郷団子坂の観潮楼が知られるが、それはドイツから帰国後のことである。

勝専寺
旧日光街道跡に戻り、少し東に進み勝専寺に。赤い三門ゆえに、「赤門寺」とも。この寺の千手観音が、千住の名前の由来、とか。13世紀とも14世紀とも定かではないが、ともあれ隅田川から拾い上げられたもの。浅草・浅草寺の観音縁起もそうだが、観音さま、って、川から拾い上げられるのが、有難いパターンであったのだろう、か。
境内にある閻魔堂の「おえんま様」は、その昔、藪入りで休みをもらった小僧さんで賑わった、と。閻魔って梵語で「静息」の意味。地獄さえ安息する、ということから、藪入休日と結びついた信仰だった、と(『足立の史話』)

本陣跡
再び旧街道筋に戻り北に進む。駅前の賑やかな商店街である。北に進み、北千住駅から西に、先回の散歩で訪れた千住龍田町交差点へと進む道筋を越えたあたりに本陣跡がある、と言う。ちょっと辺りを見渡すが、それっぽい案内は見つからず。
本陣って、なんとなく有難そうではあるが、身入りは良くなかった、と。そもそもが、御大名の参勤交代は、食料什器、寝具から風呂おけ、漬物樽に至るまで、すべて持参。本陣は宿賃をもらうだけ。その宿賃も安く、中には無料で宿を供することもあり、準備の割には身入りが少なかった、と言う(『足立の史話』)。

千住本氷川神社
千住3丁目へと。街道筋を少し東に入ったところに氷川神社。千住本氷川神社。この神社、

元々は北千住の東、墨堤通りを東に進み京成牛田駅、関屋駅あたり、牛田薬師で知られる西光院の近くにあった、よう。で、江戸時代に牛田氷川神社あたりの地域がこの千住3丁目に移転。ために、この地に分社。荒川神社と呼ばれた、と。その後、荒川放水路建設のため
牛田にあった氷川神社がこの地に移り合祀された。境内の古い社がそれ。新しい社殿は昭和45年に建てられたもの。

伝馬屋敷跡
北に進み千住4丁目に入る。このあたりまで来ると商店街も途切れ、ちょっと静かな屋並みとなる。と、いかにも昔風の家屋。家の前に案内板。横山屋敷、と。昔の伝馬屋敷跡。伝馬とは、幕府の公用の往来に供する人馬のこと。伝馬屋敷は、その宿役である、伝馬役、歩行役(人足役)を担った家のこと。一定の税を免除されるかわりに、その宿役を行った、と言う。この横山家は地紙問屋であった、とか。

水戸街道分岐
横山家の筋向いに人だかり。「かどやの槍かけだんご」とある。つつましやかなお店ではある。街道からちょっと東に入り、長円寺とその隣の氷川神社におまいりし、街道に戻る。十字路脇に石碑。「水戸海道」とある。日光街道はこのまま先に進むが、水戸街道はここで日光街道と分かれ東に折れる。交差点を東に進む細路が、それ。葛飾の新宿、松戸、小金をへて国道6号線筋を水戸に向かう。
荒川放水路を前にし、水戸街道分岐点で少々迷う。このまま日光街道を先に進むか、水戸街道を折れ北千住駅の東側の風景を眺めるか。とくに、先ほど千住本氷側神社で「出会った」、牛田の西光院が気になった。そこには石出帯刀の墓がある、と言う。伝馬町牢屋敷の長官。また、牛田の地は関屋の里。京成関屋駅、東武牛田駅がそのあたりだと。西光院も駅の近くにある。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵も西光院・牛田薬師を訪ねている。それは行かずば、と言うことで、少々大回りとはなるが、関屋の里と石出帯刀ゆかりの地を巡るにことにする。

甲良屋敷跡
水戸街道跡の細路を東に向かう。ほどなく地下鉄千代田線、そして東武伊勢崎線のガードをくぐり、北千住駅の東側に。道なりに牛田・関屋の駅へと南に下る。足立学園の東を進む。と、南に巨大な空き地。JTの跡地。東京電機大学のキャンパスができるよう。北千住西口の東京芸大、東口の電機大と、北千住は大きく動いている。
電機大学キャンパス予定地の東に千寿常東小学校。このあたりに甲良屋敷があった、とか。甲良氏とは江戸城や日光東照宮の造営をおこなった江戸幕府の作事方大棟梁。その別荘がこの地にあった。一万坪といった大規模なお屋敷。現在は殺風景な工事現場のシールドが続くが、往古、風光明美なところであったのだろう。

西光院・牛田薬師
道なりに進み東武伊勢崎線の牛田駅、そしてすぐ隣の京成線関屋の駅に。周辺は北千寿住駅周辺の再開発とは別世界の「昭和」の雰囲気が色濃く残る。ちょっと前までの千住地区って、こういう街並みであった、かと。
東武線と京成線の間の道を進み、京成線のガードをくぐり、都道314号線を越え東武伊勢崎線堀切駅方面に。住宅の密集する一角に西光院・牛田薬師があった。
お江戸の散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に「牛田薬師・関屋天神手向けの尾花」という記事がある。この牛田薬師や、今は千住仲町に移った関屋天神を訪ねている。風光明媚な地に遊んだのだろう。
悠々自適の隠居のお坊さん・十方庵がたっぷりの余暇を生かし江戸近郊を散策し表した『遊暦雑記』には、牛田を愛でる記事がある。「此の双方の堤(掃部堤、隅田堤)の眺望風色言わん方なく、なかんづく遥かに南面すれば綾瀬川のうねりて、右に関屋の里を見渡す勝景、天然にして論なし(『足立の史話』)」、と。想えども、描けども、その景観は現れず。 
西光院は山号・千葉山。本尊薬師は千葉介常胤の守護仏、と。千葉介常胤、って上総権介広常とともに源頼朝の武蔵侵攻の立役者。頼朝は常胤を「師父」と称した、ほど。由緒あるお寺さまである。
で、石出帯刀。常胤の流れ、と言う。小伝馬町牢屋敷の牢屋奉行。明暦の大火のおり、牢屋を開け放ち、猛火から収監者を救った。囚人の戻りを信じてのこと、と言う。牢屋奉行と言うので、結構強面の人を想像していたのだが、国学者としても有名で、晩年はこの地で著作に没頭した、と(『足立の史話』)。

養院
荒川を目前に、なんとなく気になった牛田・関屋の地もカバーし、早足で水戸街道分岐点まで戻る。分岐点を北に進む前に、分岐点の少し西にある安養院に。根拠はないのだが、板橋にしろ、鎌倉にしろいままで訪ねた安養院って、雰囲気いいお寺様であった。で、このお寺は鎌倉時代、北条時頼によって創建。千住で最古のお寺様。元はこの地の西、元宿(千住元町)にあり長福寺と呼ばれていたが、この地に移り安養院となった。

下妻道分岐
分岐点に戻り、街道跡を北に。ほどなく道は二つに分かれる。接骨で名高い名倉の総本家の少し手前である。分岐点を直進する道は昔の下妻道。北に進み、五反野の駅から流山を経て水戸徳川家ゆかりの地・下妻に続く。
日光街道は左に折れる道。西北に大きくカーブし千住新橋をクロスし、荒川に架かる千住新橋の少し上流、川田排水機場あたりに続く。現在、荒川が流れているが、この川は人工放水路。明治からはじまり昭和5年に完成したわけで、日光街道の往還賑やかなりし頃は、その姿、影もなし。

大川町氷川神社
道を進み荒川堤防手前に。川を渡る前に少し西、堤防脇にある氷川神社に。ここは、いつだったか、竹の塚から奥州古道に沿って下ったときに訪れたことがある。西新井橋を渡り、軒先をかすめるがごとく、って有様の千住元町を通り、元宿神社におまいりし大川町のこの氷川神社を訪ねた。
もとは現在地より北にあったものが、荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移された。境内の浅間社も同じあたりから移されたもの。ちなみに、元宿の元宿神社も同じく荒川放水路工事のために移された。土手下で、なんとなく窮屈な感じがする。
浅間社脇には富士塚も残る。富士信仰の名残り。富士山は古来神の宿る霊山として信仰の対象となっていた。富士山参詣による民間の信仰組織がつくられていたのだが、それが富士講。とは言うものの、誰もが富士に行ける訳でもない。で、近場に富士山をつくり、それをお参りする。それが富士塚である。
散歩の折々で富士塚に出会う。葛飾(南水元)の富士神社にある「飯塚の富士塚」や、埼玉・川口にある木曾呂の富士塚、狭山の荒幡富士塚など、結構規模が大きかった。富士講は江戸時代に急に拡大した。「江戸は広くて八百八町 江戸は多くて八百八講」とか、「江戸にゃ 旗本八万騎 江戸にゃ 講中八万人」と。
境内に「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。

千住新橋・荒川放水路
大川町氷川神社を離れ、千住新橋に戻り荒川を渡る。この荒川は人工の川である。昔、荒川の本流は隅田川へと下る。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐ ことができなかった。江戸の頃、上流で荒川の流路を西に移し、入間川の川筋に流すようにしたためである。ために、暴れ川・荒川の水が入間川をへて下流の隅田川へと押し寄せる。
これを避けるため、明治44 年から昭和5年にかけて、河口までの約22km、人工の川(放水路)を作る。大雨のとき、あふれそうになった水をこの放水路(現在の荒川)に流すことにした、わけだ( 上で、現在の隅田川の名前を荒川と言うべきか、入間川というべきか、ということで、「隅田川(荒川・入間川)」といった表記にしたのは、こういった事情である)。

放水路建設のきっかけは明治43年の大洪水。埼玉県名栗で1,212mmの総雨量を記録。荒川のほとんどの堤防があふれ、破堤数十箇所。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没した。流出・全壊家屋1,679戸。浸水家屋27万戸、といったもの。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、気になり調べたことがある。その時のメモ;第一フェーズ)人力で、川岸の部分を平 らにする。 掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズ)平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防 を作る。第三フェーズ)水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てする。浚渫船がポイン トのような気がした。
荒川放水路工事でもっとも印象に残ったのは青山士(あきら)さん。荒川放水路工事に多大の貢献をした技術者。明治36年、単身でパナマに移 り、日本人でただひとり、パナマ運河建設工事に参加した人物。はじめは単なる測量員からスタート。次第に力を認められ後年、ガツンダムおよび閘門の測量調 査、閘門設計に従事するまでに。明治45年、帰国後荒川放水路建設工事に従事。旧岩淵水門の設計もおこなう。氏の設計したこの水門は関東大震災にも耐えた 堅牢なものであった。
業績もさることながら、公益のために無私の心で奉仕する、といった思想が潔い。無協会主義の内村鑑三氏に強い影響を受けたと される。荒川放水路の記念碑にも、「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」と、自分の名前は載せていない。2冊ほど伝記が出版されているよう。晩年の生活はそれほど豊 かではなかった、と。ちなみに、日露戦争において学徒兵として最初に戦死した市川紀元二はお兄さん、とか。

川田橋交差点
千住新橋北詰を左に折れ、堤防上を進む。右手下に川田橋排水場を見ながら、善立寺あたりで堤防を降りる。川田橋交差点。川もなにもない。昔の千住掘本流が流れていた名残り、かと。見沼代用水を水源とする千住掘はここから大川町の氷川神社のあたりに下り、中居掘となる。そこからは元の区役所前を流れ牛田で隅田川に落ちていた。旧日光街道は川田橋から千住掘にそって北に進む。

梅田
荒川を渡れば千住から梅田となる。昔は淵江領梅田村。現在は荒川の堤防が聳え、家屋が軒を連ねる住宅街ではあるが、昔は野趣豊かな一帯であった。「のどかさや 千住曲がれば野が見える」とは正岡子規の句。新編武蔵野風土記稿には「当村(梅田村)は往古は海に沿えたる地。後寄洲となりて開けし故、淵江村と唱えり」と。湿地や深田が目立つ一帯であった、と(『足立の史話』)。

石不動
湿地中の縄手(田圃の中の一本道)といった街道を想いながら先に進む。縄手とはいいながら、街道は5間と定められていたようだし、そうであれば幅9m。結構広い。ともあれ、街道を北に。ほどなく道脇に小祠。石不動。まことにつつましやかなお堂。耳の病に効能あった、とか。お堂の扉にかかる竹筒は、願が成就したときにお礼にお酒を入れてここに奉納した、と。

赤不動
お堂の脇にある「八彦尊道」の道標を目印に左に折れ、八彦尊のある赤不動・明王院に向かう。道なりに西に向かって500mほどすすむと赤不動。境内に八彦尊の祠。子育てと咳病みに効能あり、と。赤不動の由来は、本尊であるお不動様のある不動堂が赤く塗られていた、から。で、このお不動さんは弘法大師の作とする。縁起は縁起、とはいうものの、回向院で出開帳(でがいちょう)が開けたくらいだから、まことに有難い仏様であったのだろう。幕府の御朱印寺でもあった。
この寺の歴史は古い。源頼朝の叔父である志田先生(せんじょう)義広が源家の祈願所として一宇を立てたことにはじまる。志田三郎義広はその後、木曽義仲に従い転戦、宇治川の合戦で敗れ伊賀に敗走、その地で果てる。
その後、義広の子孫がこの地に戻り、寺脇に天神様を勧請。紋所である「梅」ゆえに、梅田の姓に改めた。梅田の地名の由来、と言う。
ちなみに、赤不動が出開帳をおこなった回向院は墨田区両国にある。全国のお寺の秘仏を公開する出開帳(でがいちょう)の寺院として大いに賑わったお寺。幕末までの200年間に計160回の出開帳(でがいちょう)を実施。出開帳を主催する寺・「宿寺」として日本でナンバーワンの実績。あと、深川永代寺、浅草・浅草寺と宿寺ランキングが続く。ちなみに、江戸出開帳の中でも、圧倒的集客を誇ったお寺・秘仏は京都・嵯峨清涼寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来、身延山久遠寺の祖師像、成田山新勝寺の不動明王の四つと『観光都市江戸の誕生:安藤優一郎(新潮新書)』に書いていた。出開帳はビッグビジネスでもあった、とか。

梅田神明社
赤不動を離れ道なりに北に向かう。ほどなく東西に神明通り商店街の道が通る。この昔の王子道に沿って梅田神明神社。江戸時代、禊教の祖、井上正鉄(まさかね)が神明社の神職をしていた。天保の頃、と言うから19世紀のはじめのことである。「吐菩加美神道」という名前ではじまったこの神道は、一般庶民から幕閣の中にまで大きな影響を与える。その勢いに幕府は、倒幕運動のおそれあり、と。井上正鉄は三宅島に流罪、その地で病没した。

梅田掘
王子道を西に進み遍照院や稲荷神社におまいり。稲荷神社の先を北に折れる。この通りは昔の梅田掘の跡。梅田掘を西掘とも呼ぶるのは、梅田の西の端、関原との境を流れていた、から。道脇に立つマンションの敷地も、もとは池であった、とか。梅田の低湿地帯を思い描く。道の西は関原。先回、竹の塚から奥州古道を南に下ったときに訪れた関原の関原不動尊大聖寺は目と鼻の先。オビンズル様が懐かしい。

佐竹稲荷
道なりに先に進み、成り行きで右に折れ旧日光街道筋へ戻る。旧街道の少し手前に佐竹稲荷神社。構えはささやかではあるが、小さな鳥居の連なりは、それなりの趣が残る。この地は往時、一万坪にも及ぶと言われる秋田藩・佐竹氏梅田抱屋敷跡。抱屋敷とは上屋敷や下屋敷といった幕府から拝領された屋敷ではなく、秋田藩が私的に購入したもの。上屋敷って、上野の近く、元の三味線掘のところにあったわけで、場所も比較的近い。ここで野菜などをつくっていたのだろう、か。
もっとも、足立のこのあたりって、佐竹氏と縁のある地ではある。足立の北東、花畑の大鷲(おおとり)神社が、それ。つながりは平安の昔、佐竹公の遠祖と言われる新羅三郎の伝説まで遡る。後三年の役で戦う兄、八幡太郎義家を助けるために奥州に向かう途中、この社に立ち寄り戦勝祈願。凱旋の折には武具を献じた。これがきっかけとなり、その後、遠祖ゆかりの神社ということもあり、改築などを佐竹藩が行っている。神社の紋も佐竹氏と同じ「扇に日の丸」と言う。
この大鷲神社は浅草の「お酉さま」発祥の地。お殿様も屋形船に乗り綾瀬川を遡り、お酉さまに詣でた、と。「常はかじけたる貧村といへども、霜月の例祭の日は諸商人五七町の間畷側に居ならび天地もなく振ふ様は、市といへど左ながら町続のごとし、依て酉の市を転語して酉の町といひならはせしもしるべからず(『十方庵遊歴雑記』)」、といった雑踏の中、佐竹のお殿様も縁日を楽しんだのだろう。こういった縁もあり、この地に抱え屋敷をもったのだろう、か。空想では、ある。ちなみに、酉の市の賑わいの一因、というか主因は「賭博」公認にある、と。賭博が禁止されると、この地のお酉さまは急速に元気を失った、とか。

環七交差
旧日光街道筋に戻る。先に進むと東武伊勢崎線・梅島駅。このあたりの地名、梅島は梅田と島根に挟まれた地故に、「梅」田+「島」根>梅島、と。地名でよくある、足して弐で割る、といったもの。
先に進むと道脇に「大正新道記念碑」。千住で鴎外の書いた「大正道記念碑」もそうだが、道づくりの記念碑が目につく。大正の頃、低湿地に新道がつくられ、このあたりが開かれていったのだろう、か。記念碑から100mほどで環七にあたる。

国土安穏寺
環七を越えると島根に入る。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。先に進むと、「将軍家御成橋」の碑。日光街道はこのあたりでは、道の西側は千住掘、東側は竹の塚掘りが流れていたわけで、この橋は千住掘にかかる橋。左に折れると、葵の紋を許された御朱印寺・国土安穏寺への御成り道となる。
もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっ かけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都 宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言 忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山 国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。
落ち着いたいい雰囲気のお寺様。これで2度目ではあるが、今回は本堂の建て替え工事の最中であった(2009年9月)。

陣屋
国土安穏寺を西に進む。T字路に。直ぐ南に立派な枝ぶりの松が門前にある御屋敷。もと名主の御屋敷。陣屋跡と言うことで、どこの旗本の陣屋かと、などと思ったのだが、どうも八幡太郎義家が陣を置いたところ、とか。
それにしても今回歩いた道筋には義家とその父・頼義親子ゆかりの地が多い。荒川区南千住1丁目の円通寺>南千住6丁目の若宮八幡>南千住8丁目の熊野神社>足立区千住宮元町の白旗八幡>島根の陣屋。そして、ここから北は先回、といっても数年前の散歩で出会った六月3丁目の炎天寺>竹の塚6丁目の竹塚神社>伊興の白旗塚と実相院>花畑の大鷲神社、などなど。その時は、なんと同じ類の伝説が現れるものよ、などとメモした覚えがあるが、よくよく考えれば、このゆかりの地を繋げば、これって奥州古道の道筋、かと。伝説も見方を変えれば、違った世界が見えてきた。

鷲神社
陣屋から北に進む。古の奥州古道跡を歩いていると、思い込む。成り行きで東に進み旧街道に戻る。島根鷲神社の看板。街道から少し西に寄り道。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、 このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。花畑の大鷲神社も立派だったが、鷲の宮町の鷲神社がいかにも鷲神社の本家本元といった風情があった。この鷲神社もそこから勧請されたものであろう、か。

六月
鷲神社を越えると昔の淵江郷島根村を越え淵江郷六月村に入る。六月村と言えは、日光街道の西に炎天寺や八幡さま、西光院、常楽寺、万福寺といった神社仏閣が連なる。奥州古道沿いに集落が開けていたのだろう。この寺町は以前歩いたことがあるので、今回はパス。日光街道を一路北に進む。昔は六月村の街道のどこかに一里塚があった、はず。「一里塚。日光海道の左右に対して築けり。塚上に榎を植置けり」と風土記にある一里塚も、今はその場所不明。

増田橋跡
南北に短い元の六月村を越えると次は元淵江郷竹の塚村。竹の塚3丁目交差点に。ここから西北に続く道は赤山街道。川口の赤山にある関東郡代・伊奈氏の陣屋・赤山陣屋に続く道。散歩の折々に出会う名代官の家系の陣屋跡を訪ねたのは数年前。緑に囲まれた赤山城址は落ち着いた、いい雰囲気であった。
竹の塚3丁目交差点は往古、増田橋のあったところ。赤山街道に沿って南側を千住掘、北側を竹の塚掘が流れていた。どちらも赤山の先から続く見沼代用水を水源とする用水である。千住掘はこの交差点で道なりに曲がり、日光街道の西側を下る。竹の塚掘は日光街道を横断し、一部はそのまま東に、残りは街道の東側を南に下る。街道を横断する竹の塚掘にかかっていたのが増田橋であった。五差路となっている竹の塚3丁目交差点には、その面影は、今は、ない。

江郷保木間村
北に進む。竹の塚駅一帯は以前の散歩で歩いた。竹の「塚」の地名の由来でもある、伊興の古墳跡も印象に残る。寺町、見沼代用水跡に造られた親水公園など思わぬ見どころも多く、再び廻ってみたいのだが、今回はパス。
北に進む。ほどなく旧竹の塚村を離れ淵江郷保木間村に入る。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵」のこと。一面の湿地帯を開拓し集落をつくったときに、集落を護るこの柵のことを地名とした、のだろうか。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」、と。

保木間氷川神社
竹の塚5丁目交差点を越えると淵江小学校。その手前に東に折れる細路。流山道とも成田道とも呼ばれる古道跡。東には花畑の大鷲神社や成田さん、西には西新井のお大師さんに続く信仰の道。少し歩くと氷川神社と宝積院。同じ境内といった風情。いかにも神仏習合といった名残を残す。点前の境内を進み氷川神社に。
保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で活躍した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。
後に、天神様をまつる菅原神社、江戸の頃には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士?お隣の宝積院は氷川神社の別当寺。山号は北斗山。妙見様は北斗七星のことであるので、神仏渾然一体を名前で示す。
氷川神社と宝積院の一帯は足尾鉱毒事件のゆかりの地。鉱毒被害を訴えるため東京へと向かう栃木・渡良瀬の農民3,000余名を田中正造が制止したのがこの地。境内を埋め尽くす農民に正造が自重を促す演説。この懇請を受け、農民は渡良瀬へと引き返した。
十三仏堂
旧街道に戻り北に。淵江小学校を越えてすぐ、道脇に十三仏堂。堂宇には十三仏信仰のよすがとなる十三の仏様が安置していたのであろう。現在は数体欠ける、とか。
十三仏信仰は、平安末期の十王信仰からはじまる。人は没後、閻魔大王など十王の裁きを受ける。で、その十王は同時に仏の化身であり(閻魔大王=地蔵菩薩なと)、生前にその十王・十仏を祀ることにより、その裁きを軽くしてもらおう、というのが十王信仰。
その後室町に三王・三仏が加わり十三仏信仰となった、とか。風土記には「行基の作れる虚空蔵の木像を案す」とあり。結構古い御堂なのだろう、か。

大曲
北に進む。西保木間3丁目交差点に。バス停に「大曲」、と。道は右にカーブする。現在はありふれた街並みが続くが、往古、旧街道を作る時はこのあたり一帯に湿地が広がり、大きく曲がるしか術はなかった、と(『足立の史話』)。実際、直ぐ北に毛長川の流れがあるわけで、毛長川流域の湿地が一帯に広がっていたのだろう。

水神社
往古、湿地帯であったろうところに建て並ぶ小学校、清掃工場、スポーツセンターなどを眺めながらカーブを大きく曲がり先に進む。ほどなく国道4号線バイパス。国道を越え都道・県道49号線に合流する手前に水神社。風土記稿に「今社傍に二畝許の沼あり、土人水神ガ池と云う。此辺の水殊に清冷にして、煎茶の売家あり、人これを水神カ茶屋と云」とある(『足立の史話』)。] 今となっては沼もないし、ましてや茶屋などあるわけもないのだが、この沼には水神伝説が残る。
昔、このあたりに小宮某という元北面の武士が住んでいた。ある日、釣りをしているとき、森より蛇が襲う。腕に自信の小宮某は蛇を切り殺す。が、毒臭に冒され日ならずしてなくなる。小宮某を祀るために榎が植えられ、蛇の霊を祀って水神社とした、と。もとより、この小宮榎、現在は跡かたも、なし(『足立の史話』)。

毛長川
水神社から元国道4号線である都道49号線を北に。直ぐ毛長川に。この川は東京都と埼玉県の境。川に架かる毛長橋を渡れば埼玉

県草加市。道も県道49号線となる。南千住からはじめた日光街道散歩も、これでお終い、とする。成り行きで北千住駅まで戻る。ありふれた街並みも『足立の史話』のおかげで少々の想像力とともに時空散歩が楽しめた2日でありました。

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