日曜日, 2月 28, 2010

八王子散歩;湧水を巡るⅡ

先日の八王子湧水散歩では日没時間切れのため、川口川脇にある清水公園、加住南丘陵の小宮公園、そして、八王子駅近くの子安神社など、いくつかの湧水ポイントが残った。湧水散歩の第二回。スタート地点は圏央道の少し手前、川口川に架かる川口橋あたりとする。近くには武蔵七党のひとつ西党・川口氏の館址がある、と言う。湧水散歩もさることながら、どうせのことなら、武蔵七党・西党が割拠した川口川流域をも辿ろう、ということに。
川口川流域の歴史は古い。流域には中田遺跡、長房遺跡、楢原遺跡、宇津木遺跡、春日台遺跡など幾多の古代住居跡が残る。川口郷の地名が記録に登場するのは承平5年、と言うから平安時代の後半の頃(935年)。源順(したがう)により撰述された『和名類聚抄』に川口郷の名が残る。
多摩は国造の抗争に勝利した笠原直使主(かさいのあたいおみ)により天皇家に献上された屯倉の地である。645年、大化の改新によって国・郡・郷が成立したわけだから、川口郷の歴史は此の頃からはじまったのだろう。旧屯倉の地域は奈良、平安時代に庄園や牧へと変わり、その地を拠点に武蔵七党と呼ばれる武士団が登場する。川口郷も、奈良・平安には藤原荘園の船木田庄へと変わり、その地に広がる由比牧には武蔵七党の西党・由比氏が入植。庄園の庄官・牧の別当(管理者)として力をつけていった。
今回訪ねる川口氏はその由比氏を祖とする、と言う。その名のとおり、川口川流域に居を構え、川口郷の地頭として鎌倉末期から南北朝、室町時代にかけて武名を残した。
大雑把なルートは、川口川中流域を清水公園まで辿り、そこから加住南丘陵へと進み、市内に戻るといったもの。さて、散歩にでかける。




本日のルート;八王子駅>川口橋>川口氏館址>鳥栖観音>法蓮寺>安養寺>都道46号線>清水公園>甲ノ原>国道16号線・谷野街道入口南>小宮公園・大谷弁天池>浅川大橋>永福稲荷神社>竹の鼻の一里塚碑>子安神社>京王八王子駅

川口橋
八王子駅からバスに乗り甲州街道を西に進む。本郷横町で甲州街道を右に折れ秋川街道に。秋川街道は川口街道とも五日市街道とも呼ばれていた。川口川に沿って西に進み、小峰峠を越えて秋川筋の武蔵五日市に至る。
元本郷町を北に進み荻原橋で北浅川を渡る。萩原橋は明治初期の実業家の名前から。一代で財をなすも、晩年は零落した、と。中野地区を進むと道脇に日本機械工業の工場。現在は消防自動車の製造工場であるがは、その昔、片倉財閥の製糸工場であった。八王子は養蚕、絹織物で名高い「桑都」であったわけだ。
中央高速をくぐり、楢原地区に入る。道の南は楢原台地。比高差20m弱の、わずかなる地形のうねりではあるが、北浅川と川口川の分水界となる。湧水のある清水公園は楢原台地の逆サイド、秋川街道の少し北を流れる川口川脇にある。後ほど、川筋を戻ってくることになる。 都道46号線・八王子あきる野線を越え更に進む。川口小学校の辺りまで進むと秋川街道は川口川に急接近。これより先、秋川街道は川口川に沿って走ることになる。このあたりが川口氏の館があったところ。川口橋バス停で下りる。

川口氏館址
バス停から辺りを見渡す。川口川もこの辺りでは川幅もささやか。川の両側に丘陵が迫る。北は川口丘陵。秋川丘陵へと続き、秋川水系との分水界となっている。滝山街道・戸吹から秋川丘陵の尾根道を進み網代、五日市へと抜ける中世の甲州道を辿ったことが懐かしい。一方、川口川の南の丘陵は南浅川との分水界。丘陵を越えた南浅川流域一帯は往古の由比牧。川口氏の祖でもある武蔵七党のひとつ、西党・由比氏が牧の別当として勢を養ったところ、である。 川口氏館址を探す。場所は川口小学校あたり、とか。秋川街道を少し戻り、小学校手前の道を折れ丘陵に向かう。道は丘陵にどんどん入っていく。これといって城址といった場所は見当たらない。道も行き止まりの、よう。引き返す。
後からわかったのだが、川口氏館址は小学校の東、調(ととのい)台という舌状台地の先端あたり。文献によれば、高尾、丹沢の山々も遠望できる場所、と言う。そこには川口氏館跡の碑が残る、とか。
川口氏は武蔵七党のひとつ西党・由比氏をその祖とする。由比氏は浅川流域、由比牧の別当として八王子市弐部方に館を構えた。甲州街道・追分の分岐から北西に一直線に進む陣馬街道が浅川に当たる手前、直角に曲がる切り通し上の日枝神社がその館址とも。この由比氏も和田合戦に横山氏共々、和田義盛に与力し戦いに敗れる。ために、牧の別当の地位も失い、子孫は八王子由木村に移り由木氏を称した、と。川口氏はこの由木氏の末裔が川口川流域に移住。川口氏と称し、代々勢力を広げていった、とのことである。

鳥栖(とりのす)観音
川口川を渡り鳥栖観音に。長福寺の西脇、山の中腹に鳥栖観音堂がある。本尊は千手観音の立像。行基の作とも伝えられる。この観音様は「火防(ひぶせ)」の観音さまとして知られる。幾度か火事に見舞われるも、この観音様は常に類火を免れたとの伝説が伝わる。鳥栖の名前の由来は、火事を逃れ飛び移ったところが鳥の巣であった、ため。長福寺は別名「萩寺」と呼ばれる。仙台の「宮城野萩」が移された、と。



法蓮寺
長福寺の少し東に法蓮寺。山門をくくり本堂へ。本堂は平成10年に再建されている。この寺は鎌倉時代、川口氏が造立したもの。往時、時宗の道場として大きな構えを誇った、と。時宗は鎌倉末期におこった浄土教の一宗派。一遍上人をその祖とする。日々を常に命終える「時」と心得、念仏を唱えるべし、と。
この法蓮寺は仁科五郎信盛の娘、督姫(小督)が出家したところ。仁科信盛は武田信玄の五男。相次ぐ重臣の裏切りの中、最後まで武田家のために奮戦し高遠城にて討ち死。その娘・督姫は信玄の娘・松姫に導かれ甲斐を逃れ、山中の難路を越えて案下の里に辿り着く。案下の金昇庵、川原宿の心源院、市内の信松院などを経て、この法蓮院で出家した、と。武田家にゆかりのこの寺にはふたりの千人同心も眠る。千人同心って旧武田家家臣である。

安養寺
丘陵の裾を成り行きで東に向かう。ほどなく安養寺。いい雰囲気のお寺様。六地蔵が佇む。このお寺には困民党・塩野倉之助の碑がある。困民党といえば秩父困民党が知られる。知られる、と言うか、それしか知らなかった。が、この川口の地もそうだが、困民党って全国規模の騒乱であった。
明治17年、世界恐慌の影響もあり明治日本は維新以来はじめての不景気に襲われる。未だ基盤の脆弱な日本経済、特に農業は深刻な不況に見舞われ、多くの農民が困窮に喘ぐ。折からの自由民権運動の影響もあり、農民が集まり結成した政治組織が困民党。活動は全国に広がったが、養蚕農家が多く生糸急落の被害を被った武蔵・相模の農民の困窮は特に深刻。武装蜂起ともなった秩父困民党事件、数千人が八王子・御殿峠に集結した武相困民党など歴史を刻む事件が起きることになる。で、この川口川流域で起きたのが川口困民党。この地の豪農・塩野倉之助のもとに集まり決起を計るも官憲の弾圧で鎮圧される。この寺の碑は昭和29年、指導者塩野倉之助の徳を称え建てられた。

清水公園
寺のすぐ南に川口川が流れる。川に沿って進み都道46号線・明治橋北詰に。この辺りの地名は犬目。なんと面妖な、とは思えども犬目は「井の目」からとの説がある。「井」は「居る」、「(水が)溜まる・集まる」。「井の目」って、「地面の裂け目から水が集まる・湧き出るところ」、と言った意味。犬目丘陵の裂け目・崖線からの湧水が多いのだろう、か。湧水に期待を抱かせるような地名である。

明治公園を越え川口川に沿って進むと清水公園。予想に反し整備された公園。池は自然の湧水を集めたもの、とのこと。公園を辿り湧水源を探すが、それらしき場所は見あたらない。チェックする。この公園は往時、井戸尻湧水跡とも呼ばれる大湧水地であった。が、昭和30年代後半からはじまった都市開発の影響を受け、大学や宅地開発に伴う道路工事、川口川の河川改修工事などにより湧水地は地下に埋没してしまった、と。昔はいざ知らず、現在も「八王子の湧水」にリストアップされているのは、ちょっと無理がある「湧水地」ではあった。

甲の原
次の目的地は小宮公園。川口川を離れ丘陵地の中ほどを進むことになる。公園の西の端から裏手の工学院大学、隣接する戸板女子短大のグランドに沿って丘陵を上る。丘陵といっても周囲は宅地開発されており、野趣豊かな趣はまるで、なし。東西に走る道路には車の交通量も多い。
工学院キャンパスの交差点を越え甲ノ原中入口交差点に。この名のとおり、この辺りは「甲ノ原」と呼ばれる。現在は「こうのはら」ではあるが、往時は「かぶとがはら」と呼ばれていた。小田原北条軍が武田軍の追撃を避けるため、この地の桑の木に甲をかけ、あたかも大軍の備えがあるように偽装したというのが地名の由来。追撃は小田原攻めの時の上杉景勝軍、との説もある。いずれにしても、このあたりは滝山城から八王子城への往還路であった、と言うことだろう。

谷野街道入口南
甲ノ原の台地を成り行きで進み中央高速脇に。iPhoneのマップに子安神社の表示。先を急ぐあまりパスしてしまったのだが、この神社は湧水ポイントとして有名であった。中野の明神様として知られるこの神社には「明神様の泉」がある、と。後日Webでチェックするに、なかなかもって素敵な湧水。また、この神社には安養寺で出会った困民党の指導者・塩野倉之助の碑も残る、とか。塩野倉之助を先頭に農民二百数十名がこの地に集結したとのことである。機会を見つけて訪ねてみようと思う。

中央高速を交差することなく、高速に沿って少し進み、台地を下り気味に進む。開析されたような地形である。一筋北の開析谷には谷地川の支流が残っている。この道筋もその昔は川が流れていたのではないか、などと思いを巡らせながら進み、国道16号線の谷野街道入口南交差点に出る。
谷野街道は都道166号線のうち、谷野街道入口交差点から滝山城址脇の峠を抜け、あきるの市二宮に至る区間。二宮神社から高月城、滝山城へ下ったとき、この道筋を辿ったことがある。ここに続いていたのか、などと故なく懐かしい。

小宮公園・大谷弁天池
谷野街道南入口交差点から国道16号線を南に進む。道は峠の切り通しを越える。峠を越え、八王子の市街を見渡しながら下りながら、東に折れる道を探す。最初にみつけた道筋を左に折れ、再び台地へと上る。稲荷坂と呼ばれている。曲がりくねった舗装道路を進み小宮公園に。 整地された公園を進む。成り行きで進むと左手の雑木林に向かう道。谷へと下っている、よう。行き止まりの不安を抱きながらも、とりあえず進む。なんとなく谷へと続いている、よう。周囲は誠に野趣豊かな景観。浅川北岸の加住丘陵に位置するこの公園は20ヘクタール程の広さがある、と言う。確かに、歩けども歩けども雑木林が続く。
谷戸に下りるといくつもの散策路。沢に沿って木道が雑木林の中に幾筋も延びている。散策路脇の水路を辿り上流に向かい、滲みる出るが如き湧水をみて少々和む。沢を辿り源流点へ、とは思えども日暮れが近い。そのうちに、大谷沢とか、ひよどり沢といった沢を進み源流をチェックしたい、と思う。中野の子安神社共々、次回のお楽しみ、である。

木道を引き返し大谷弁天池に向かう。池は大谷沢の湧水を集めたもの、と。この池は、天明年間(18世紀の後半)、八王子千人同心頭・萩原氏が干魃に困窮する農民を助けるため掘ったもの。池の畔には弁財天をまつるお堂が佇む。

ひよどり山
弁天池を離れ公園前の道を西に、国道16号線に向かう。緩やかな坂の切り通しに橋が架かる。石造りの水道橋かとも思ったのだがクリート製の橋。1980年の頃までは吊り橋であった、というから水道橋でもないようだ。
切り通しを越えると下り坂。成り行きで進むとトンネル。全長1028mの「ひよどり山トンネル」。中央高速八王子インターなどもあり交通量の多い国道16号線の渋滞を緩和するためにつくられた。とは言うものの、このロケーションって、地元の人しかわからないのでは、とも思える。
それはそれとして、「ひよどり山」って、川口困民党の塩野倉之助を筆頭に二百数十名の農民が集結したところ。小宮公園のある丘陵地に集結したのだろう、か。雑木林とは言いながら、現在では「公園」っぽい景観の小宮公園ではあるが、かつては昼なお暗い森であった、と言う。「ひよどり山」、って別名、明神山とも呼ばれる。その場所は子安明神の北にある現在の「みつい台」の辺りとの説もある。「ヒヨドリ山」って、大雑把に「このあたり一帯」ということで、とりあえず納得しておく。

永福稲荷神社
先に進み浅川に掛かる浅川大橋を渡る。浅川大橋南交差点を越え、成り行きで左に折れる。新町を進むと道脇に永福稲荷神社。境内には松尾芭蕉の句碑や江戸中期に活躍した八王子ゆかりの力士、八光山権五郎の碑があった。江戸を代表する力士であった、とか。この神社が勝負の神様と崇められるのは、この力士の実力ゆえのことであろうか。それとも、この神社を寄進したのが八光山である、ということがその理由であろうか。この神社では9月に「しょうが祭り」が行われている。古来、生姜は邪気除けの薬味であった、よう。


竹の鼻の一里塚の碑
神社横の公園に碑がある。何気なく見やると、「竹の鼻の一里塚」、と。江戸の頃、五街道に一里おきに整備された目印の塚。通常は塚が築かれその上に木が茂るわけだが、その名残は既に、ない。
お江戸日本橋から数えて12番目のこの一里塚は、甲州街道八王子宿の入口。当時の甲州街道は大和田橋南詰めを西に折れ、現在の八王子市立第五中学校の先、市立五中交差点を左斜めに入り、この永福稲荷神社の前に進む。その先のT字路を南に下り、現在の甲州街道で西に折れ八王子三宿である横山、八日市、八幡と続いた、と。横山、八日市、八幡は滝山城にも八王子城にもあった城下町の宿。秀吉の小田原攻めの折、壊滅的被害を被った八王子城下町より、江戸開幕時にこの地に移された。
ちなみに、この八王子三宿は後に八王子横山十五宿とも呼ばれるようになる。横山宿、新町、ホ宿、八日市宿、寺町、八幡宿、八木宿、横町、島の坊宿、小門宿、馬乗宿、子安宿、久保宿、本郷宿、上野原宿など十五の宿である。大久保長安が宿の建設に取り組み、甲州街道に沿って何町も連なる街道随一の宿場町となった、ということだ。

子安神社
一里塚跡を離れ南に下り、八王子駅入口東交差点あたりで甲州街道を渡り、少し進むと子安神社。八王子最古の神社。天平宝字3年、と言うから西暦759年、淳仁天皇の皇后・粟田諸姉(あわたのもろね)の安産祈願のために、橘右京少輔が創祀したと伝えられる。多西郡(多摩川の西側一帯)の総鎮守として武将の崇敬も篤く、八幡太郎義家が奥州出兵の折、戦勝を祈念するためこの神社に参拝したとの伝説も残る。
湧水を探す。本殿脇、一段下ったところに池。池の上には建物が建っているため、全容はよくわからないが、結構大きな池である。子安大明神の池と呼ばれる。往古、この池を取り巻く欅の大樹があった、そう。木々は船の形に立ち並び、ために「船森」とも呼ばれていた。森は竹の鼻の一里塚のあたりまで続いていた、と伝わる。
本日の散歩はこれでお終い。中野の子安明神は小宮公園の湧水源流チェックと合わせ、そのうちに再訪、ということにする。

0 件のコメント:

コメントを投稿