日曜日, 2月 28, 2010

八王子散歩;湧水を巡るⅠ

先日、日野を歩いたとき、多摩川に沿って段丘面を小宮まで進んだ。で、小宮の駅から八高線に乗り家路へと向かう時、車窓から見た八王子一帯の地形がなんとなく気になった。西には遠く関東山地の山並みが並び、近くは樹枝状台地(丘陵)が迫る。東は大きく開かれ、北と南は丘陵で遮られる。東に開かれた一帯は、浅川水系の幾筋もの河川により形づくられた複合型扇状地。八王子の街はその河岸段丘面に広がる。なかなかに複雑で、地形のうねりの全体像がすぐには思い描けない。これはもう、実際歩くに莫如(しくはなし)。 さて、どこから。ふと八王子湧水巡りを想う。いつだったか八王子の古本屋を訪ねた時、今となっては何処であったかも定かではないのだが「八王子湧水マップ」を目にしたのを思い出した。湧水点は丘陵崖下とか、川筋の谷頭などである。湧水を辿れば丘陵や、その丘陵を開析した川筋、そしてその川筋がつくりだした河岸段丘など、複雑に入り組んだ八王子の地形も少しわかるだろう。ということで、冬のとある週末、八王子へと。



本日のルート;京王線めじろ台>万葉公園>真覚寺湧水>長安寺>南浅川>水無瀬橋>横川弁天池児童公園>北浅川>大沢川>中央高速>叶谷榎池>西蓮寺・薬師堂>叶谷>中央高速>三村橋西交差点>追分>京王八王子駅

京王線めじろ台駅
めじろ台で下車。駅の周辺は宅地が広がる。駅名ともなった「めじろ台」の住宅街。昭和42年、京王高尾線の開通にもとない造成された。造成前は一面の荒れ野であった、とか。駅を北に進む。前方に小高い丘陵地。南高尾から流れ出した南浅川と湯殿川の分水界となっている。

万葉公園
丘陵に上る。丘陵南面は児童公園といった雰囲気。万葉公園と呼ばれている。旧南多摩村が八王子市に合併するとき、それを記念して公園に万葉集・東歌の記念碑を建てたのが名前の由来。「赤駒を山野に放しとりかにて多摩の横山かしゆかやらん」、というあの有名な歌である。「馬を山野に放して見失い、夫は多摩の横山を歩いていくことになった(ごめんなさい)」といった意味。防人として旅立つ夫を見送る妻が詠んだ歌。防人は馬で往来することが許されていたようである。
多摩を歩いていると、万葉集と言うか、防人の話がよく出てくる。何故に多摩=防人なのか、ちょっと考えてみる。その昔、武蔵の国造の地位を巡って笠原直使主(かさいのあたいおみ)と小杵(おぎ)が争った。直使主は大和の天皇に、一方小杵は上野(こうずけ;群馬)の豪族上野毛君小熊(小君)に助けを求める。戦に勝利した直使主は天皇家に対し、そのお礼として、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の地を領地(屯倉;みやけ)として献上した。橘花、倉樔は川崎や横浜、そして横渟と多氷が多摩地域である。つまりはこの八王子のあたり一帯は天皇家の東国での前進基地・戦略地域となった、とでいうこと。天皇家の直轄地であれば農民を西国警備に徴兵しやすいだろう。多摩=防人の関連は、こういったこと、か。とはいえ、単なる妄想。根拠なし。

高宰神社
万葉公園はピークを境に、広場というか公園から雑木林に変わる。眼下の広がりは南浅川によって開かれた西八王子の市街。東西に甲州街道とかJR中央線が走る。雑木林を真覚寺の甍を探しながら成り行きで下る。丘陵を下りきる辺り、寺の手前に神社がある。何気なく神社の名前をチェックする。高宰(たかさい)神社とある。なんとなく気になる名前。調べてみると、元は京王線山田駅近くの広園寺にあり、「古座主明神(おくらぬしの明神)と称していた、と。この地に遷座したのは江戸の頃。そのとき神社名を改めた。とはいうものの、ご神体ははっきりしない。一説には南北朝時代、古刹・広園寺に落ち延び落籍した南朝派貴族をまつる、と言う。
古来、広園寺あたりを御所水と呼び、南朝貴族の館とされる桜林御所があったとされる。万里小路大納言藤房卿とか、安察師大納言信房卿といった貴族がこの地に配流されたとか、流れ落ちたといった話が伝わる。そういえば、いつだったか多摩の南大沢辺りの戦車道を歩いていたとき、小山内裏公園といった地名が登場し、この「内裏」ってなんだ?と思ったことがある。そのときはよくわからなかったのだが、この南朝貴族の落人伝説となんらか関係があるか、とも。歩いていると、あれこれ襷がつながっていく。

真覚寺の心字池
高宰神社を離れ真覚寺に下る。お寺を入ったところに八王子の見所マップの案内。千人同心屋敷跡などが紹介されている。今回はいけるかどうか、成り行き次第。境内に入り本堂でお参りを済ませ池に向かう。湧水点を探すと池脇の石塔あたりから水が流れ出ている。丘陵の崖線下から湧き出た水のよう。この池は江戸の頃、蛙合戦で有名であった、とか。数万匹とも言われる蛙がこの池に集まる様が合戦さながらであった、から。現在ではめじろ台の宅地開発の影響なのか、それほどの蛙は集まらないようである。

池の畔で次の湧水点を調べる。南浅川と北浅川の合流点の少し南の横川に横川弁天池。更にその少し北、中央高速を越えたあたりに叶谷榎池がある。城山川と大沢川が合流し北浅川に流れ込む流路と北浅川に挟まれた三角州といったところ。これらの湧水は幾筋もの川筋からの伏流水なのだろう、か。距離も4キロ程度。ちょうどいい、ということでまずは横川弁天池に進む。

長安寺
成り行きで北に進み、JR中央線を越え国道20号線・甲州街道に。並木町交差点を越えると道脇に長安寺。大久保長安になんらかの関係があるのかと、境内に入る。案内はなにも、なし。あれこれチェックする。大久保長安の回向をとむらうため、なくなって13年後に建てられた、とか。
屋根の上に葵の御紋。江戸時代、御朱印10石を賜ったとの記録があるので、その証かとも思うのだが、家康の寵を失い、なくなった後は天下の罪人として一門にまで累が及んだことを考えると、さて、どういうことだろう、少々思い悩む。ま、そのうちにわかる、かと。

千人町
甲州街道を東に進む。街道の北は千人町。八王子千人同心の屋敷があったところ。千人同心のはじまりは江戸の「西門」である八王子防御であったが、太平の頃になると、その役割も変わり、日光勤番として東照宮の警護・防火にあたった、とか。町中になんらかの名残でも、とは思うのだが、これといってフックのかかるようなものは何も、なし。歩きながら、ふと信松院を訪ねようと思った。信松院は武田信玄の六女・松姫の終の棲家。寺は千人町を東に進んだ追分交差点の少し南にある。
東に進み追分交差点に。ここは甲州街道と陣馬街道の分岐点。陣馬街道は往古、案下道とも呼ばれ、浅川に沿って恩方から陣馬高原下を経て和田峠に上り上野原へと続く。江戸時代、取り締まりの厳しかった小仏の関を避ける人馬が往来したため、甲州裏街道とも称される。 追分交差点に追分道標。「左 甲州道中高尾山道 右あんげ道」とある。また、案下道・人馬街道を少し入ったところに「八王子千人同心屋敷跡記念碑」もあった。



信松院
追分交差点を過ぎ、成り行きで甲州街道を離れ南に向かう。ほどなく信松院に。お寺に近づくと結構な人波。散歩愛好家のグループにちょっと遠慮しながらお参り。信松院は武田家滅亡後、家康により召し抱えられた旧武田家臣・八王子千人同心が松姫のために開基したもの。
松姫は甲斐を逃れ、山を越え案下の里の金昇庵に辿り着く。その後、案下道脇・川原宿(河原宿)の心源院にて髪をおろし、更にこの地に移り余生を過ごす。恩方第二小学校校庭隅にある金昇庵址・碑文によれば、「信玄第六女松姫ら、勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け、和田峠を下り、高留金昇庵に仮の夢を結ぶ。故郷の風雪はるかに偲び肌寒きを受け、転じて河原宿心源院の高僧に参禅し、更に転じて横山(八王子)御所水に移り住み、機織りの手作りに弟妹を育つ。(中略)徳川氏江戸に入府と共に甲斐の旧臣八王子千人同心を結び、八王子守衛に来り住し、松姫の安否を尋ね、米塩の資を助く」、と。元武田家家臣であった千人同心の屋敷町近くで心安らかに余生を送ったのだろう。頼朝の娘・大姫とともに、なんとなく気になる姫である。

宗格寺
信松院を離れ、横川に向かう。再び追分交差点に。陣馬街道はどうせのこと、帰り道を歩いて戻ることになる。であれば、ということで甲州街道を少し西に進み、成り行きで北に折れる。
先に進むと南浅川の手前に宗格寺。千人同心ゆかりの寺。境内には大久保長安が築いた土手跡が残る。河岸段丘上に広がる八王子の街は水害に弱く、洪水から街を護るため八王子に陣屋をおいた大久保長安が築いたもの。石見守であった長安の名を取り石見土手と呼ばれる。
石見土手を探し境内を歩く。あれこれ探すがなかなか見つからない。iPhoneで検索。「本堂北にある」、と。本堂には隣接し庫裡というか、住職の私宅がある。誠に、誠に遠慮しながら私宅前をお邪魔し、家と塀の間にある石見土手を見つける。土手と言うより、花壇といったもの。浅川本流に築いた土手はすべて失われ、この宗格寺の土手跡は浅川の支流に築いたもの、とか。それにしても、それにしても、如何にもつつましやか。

横川弁天池
境内をはなれ通りに出る。この宗格寺前の通りは馬場横町と呼ばれる。このあたりに千人同心の馬場があった、から。南浅川を渡り北に進み陣馬街道に。水無瀬橋西詰めの少し西、南浅川に沿って北上する道を上ると道脇に横川弁天池。予想に反して児童公園といった雰囲気。どこかで写真を見たのだが、その昔は希少植物の「タコノアシ」などが繁茂し、オオサンショウウオが東京で初めて発見されたところ、といった野趣豊かな池であった、よう。北浅川からの伏流水の浸透量が減り、乾期には水がなくなるといった環境の悪化を受け、「整備」されたとのこと。相当に想像力をたくましくしなければ湧水とは見えない、かも。

南浅川・北浅川の合流点
横川弁天池の直ぐ近く、南浅川を隔てた東側に多賀神社がある。八王子の西半分の鎮守で「西の総社」と呼ばれているようだ。高宰神社を勧請したもの、と言うし、ちょっと寄りたい気もするのだが、時間が厳しそう。次回、ということに。
道を真っすぐ北に進み、団地の中を抜けると川筋にあたる。南浅川と北浅川の合流点。合流した流れは浅川となって下り、川口川を合わせ多摩川に合流する。浅川水系によって形つくられた複合型扇状地の段丘面には、その昔、桑畑が一面に広がっていたとのことだが、今はその面影はなく、一面の住宅地、となっている。

相即寺
浅川の合流点を離れ川筋に沿って少し西に進む。この川筋は城山川。両浅川の合流点近くで北浅川に合流する。最初の橋を渡り成り行きで北に進む。北浅川と城山川によって形つくられた三角州といった辺りを北西に進む。中央高速をくぐり住宅街とも町工場街とも、といった風情の街並みを抜けると、道脇にお寺の甍。何気なく境内に入る。相即寺。品のいいお寺さま。本堂の姿が誠に美しい。お散歩で結構な数のお寺様を見てきたが、印象に残るお寺さまのひとつ。八王子城の北東にあり、城の鬼門除けとして城主北条氏照の祈願所であった、と言うし、江戸期には家光より朱印状を拝領したとのこと。それゆえの寺格なのであろう、か。
山門左手に延命閣地蔵堂。八王子城落城のとき、徹底的な殲滅戦でなくなった北条方将士を供養するためつくられた。地蔵は150体ほどあった、とのこと。そのなかに、「ランドセル地蔵」と呼ばれるお地蔵様がある、と言う。米軍機の機銃掃射でなくなった我が子の面影をお地蔵様に中に見つけ、そのお地蔵様にランドセルをかけて回向した、と。第二次世界大戦の八王子空襲と時のことである。
八王子合戦で豊臣方軍勢は徹底的な殺戮戦を行ったと伝わる。寄居の鉢形城攻防戦での「寛容」なる城攻めに不興であった秀吉を怖れ、この八王子では一転情け容赦のない攻撃を行った、と。秀吉の小田原攻めでの唯一の殲滅戦であった、とか。

叶谷榎湧水
住宅街を進み叶谷榎池に。名前のとおり、湧水池脇に榎の大木が斜めに生えている。樹齢200年、と。北浅川の段丘面にある低い崖線下、と言うか道路脇の池から湧き出ている。低地面に入り込んだ北浅川の支流の先端部なのだろう。大雑把に言えば、北浅川からの伏流水。榎の根元やその周辺から浸み出すように水が湧く。浅川の合流点を見た後だけに、地下を流れる支流・伏流水のイメージも容易。

住吉神社
さて、此の先は、と思う。北東2キロほど進んだ川口川脇の清水公園や、加住南丘陵の小宮公園に湧水点がある、と言う。とはいえ、もう時間切れ。この近辺の見どころをチェックしながら、八王子へと戻ることにする。
叶谷榎湧水の近くに住吉神社。平安の頃、源頼の創建とも伝えられる古い社。その昔は、このあたり一帯は鬱蒼と木々が茂り、大きな沼があった、とか。鵜が棲み、ために鵜の森神社とも呼ばれた、よう。その沼は既になく、また大火だったか洪水だったか忘れたが、木々もなくなり、周囲はなんとなく公園といったものになっている。

西蓮寺
少し南に下ると西蓮寺。昔ながらの佇まいを残す山門を入ると右に薬師堂。安土桃山期の様式を伝える。秀吉勢の八王子城攻めのときは、ここが上杉景勝軍の宿営地。西蓮寺住職は宝生寺(陣馬街道を西に、北浅川と山入川の合流点付近にある)の住職とともの八王子合戦のとき城に籠り勝利の護摩祈願。大火に包まれるもその場を離れず壮絶な最期をとげた、と。
西蓮寺は大幡宝生寺の末寺。元は少し北の四谷にあった、と言う。現在の西蓮寺の寺域は金谷寺のものであったが、廃寺となっていた。明治になって西蓮寺がここに移った、と。ということは薬師堂って金谷寺の遺構ということ、か。ちなみに、叶谷は金谷、から。

三村橋西交差点
寺を離れ山門前の道を陣馬街道・三村橋西交差点に進む。山門前の道を逆に向かえば相即寺に続く。三村橋西交差点で陣馬街道と分岐したこの道は昔の案下道。現在の陣馬街道ができる前、案下道は相即寺へと上り、そこで西に折れ四谷、諏訪へと進んだ、と。

水無瀬橋
陣馬街道を八王子へと戻る。中央高速をくぐり、城山川を越え北浅川の水無瀬橋に。この橋には弘法大師の話が残る。その昔、全国を行脚するお大師さんがこの地を訪れる。喉の渇きを覚え橋の袂にいた老婆に水を所望。が、吝嗇なるその老婆、無下に断り、川の水でも飲め、と。お大師さんは川の水で喉を潤し、杖をひと突きし、その場を立ち去る。あら不思議、川から水が消えてしまった、と。これが水無瀬の由来。とはいうものの、橋ができたのは明治39年のこと、ではある。横川と日吉をつなぐ水無瀬橋を渡り、追分交差点で甲州街道を八王子駅へとあるき、本日の散歩を終える。

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