湯殿川の北には高尾の山稜から舌状に張り出した子安丘陵。南浅川との分水界となる。南には小比企丘陵。樹枝状の開析谷が入り組んだ丘陵は多摩丘陵へと連なる。丘陵や谷戸、河岸段丘面や段丘崖。地形のうねりの妙に惹かれて湯殿川を源流点へと辿ることにする。
本日ルート;京王線長沼駅>浅川・湯殿川の合流点>京王線北野駅>北野街道と野猿街道>兵衛川合流点>片倉城址>松門寺>小比企町>椚田遺跡公園>御嶽社>宝泉寺>龍見寺>浄泉寺>御霊神社>町田街道>湯殿川上流端(拓殖大構内)>鎌倉街道山の道>京王線高尾駅
京王線長沼駅
京王線長沼駅で下り、浅川と湯殿川の合流点に向かう。長沼の名前の由来には浅川の伏流水による大きな沼があったから、との説がある、また、武蔵七党・西党の長沼氏から、とも。京王線稲毛駅近くに長沼五郎宗政の館もあった、とか。五郎宗政は源頼朝に仕えた武将とも伝わるが、詳しいことは不明。
湯殿川と浅川の合流点
駅を出て湯殿川が浅川に合流する地点へと向かう。合流点に長沼橋。広々とした浅川流域の段丘面のその先に豊田の段丘崖が見える。崖線に沿って黒川の湧水を辿ったことがなつかしい。それにしても広々とした浅川の段丘面である。気の遠くなるような長い年月をかけて形作られたのであろう。
浅川は浅川水系の幾筋もの河川が合流してつくられる。水系は北から川口川、山入川・小津川を集めた北浅川、そして南浅川。これらの河川が八王子中央部で合わさり、浅川となり南東に下る。この長沼の地で湯殿川を合わせた川筋は、多摩丘陵に遮られ北西へと流路を変え、高幡不動辺りで多摩川へと合流する。
京王線・北野駅
浅川との合流点から湯殿川に沿って進む。ふたつの人道橋を見ながら進み都道174号線・春日橋に。北に進めば京王線八王子駅近くの明神町向かう道。京王線の高架下を進み都道173号線・北野街道に。先に進むと八王子バイパス・打越交差点。すぐ北に京王線・北野駅がある。北野の地名は北野天神から。横山党が京都の北野天満宮を勧請した。
この北野駅前・打越交差点には東西南北から道が集まる。東西に走る北野街道には都道160号線・野猿街道が南東から合流し、南北には八王子バイパスの高架橋が走る。地形での制約でもあるのかと、地形図をチェックする。 北東から進み南西に向かう浅川の川筋、開析された谷間を西へと延びる湯殿川の川筋、北西へと下る兵衛川の川筋。道は川筋に沿って延びるわけで、その交点が北野駅あたり、ということだろう。交差点の「打越」も、打=狭い谷・崖、越=ふもと・崖、といった意味もある。谷間からの川筋=道筋が、この地で合流・交差する所以である。
東橋で兵衛川が合流
打越大橋、時見橋、八幡橋をやり過ごしJR横浜線をくぐり打越橋で北野街道にあたる。北野街道はここから西は湯殿川の北を進むことになる。先にすすむと東橋。橋の少し西で兵衛川が湯殿川に合流。御殿峠近くの源流点から、南北に深く切れ込んだ谷筋を下る。合流点を越えると新山王橋。南に下ればJR横浜線片倉駅前に出る。
片倉城址
その先、住吉橋で東京環状16号線に。住吉橋は少し南の片倉城址に鎮座する住吉神社、から。片倉城は鎌倉幕府開幕時の重臣、大江広元の子孫・長井氏の築城、と。元は此のあたり一帯は、横山党の領地であったが、和田義盛と北条の抗争に際し、和田方に与力し敗北。その地を北条勝利に貢献した大広元に与えられもの。
住吉神社は室町期、城主長井氏が摂津の住吉社を勧請したとか、大江某が領地・長門の住吉社を勧請したとか、あれこれ。片倉城の鬼門除けとしてまつられた。住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。住吉神社は全国に2,100ほどもあるそうだ。
松門寺
片倉城址は先日の散歩で訪れたので今回はパス。住吉川を越えると川筋の南に公園。その南に片倉城址の丘。比高差20m程度だろう。道の先には寺の甍が見える。風原橋を越え時田大橋で南に折れ、台地上のお寺様に。松門寺(しょうもんじ)。15世紀末、八王子駅近くの子安町に開基し、16世紀末には寺町に移る。第二次世界大戦の八王子大空襲で焼失。1969年、八王子の区画整理にともないこの地に移る。元は密教系の寺院であったものが、下恩方・川原宿近くの心源院から高僧を請し、曹洞宗の寺院となった。参禅会が盛んに行われている遠因だろう、か。
由井
お寺を離れ川筋に戻る。先に進むとカタクリ橋。このあたりが片倉町と小比企町の境となる。稲荷橋の脇には稲荷神社の森。少し寄り道しお参り。神社の横には由井第三小学校。そういえば、このあたりに由井と名前の付いた学校が多い。京王片倉駅の北に由井中学校、南に由井第二小学校。片倉に何故、由井?調べてみると、南北朝の頃、このあたり一帯は由井郷(由比郷)と呼ばれた。後北条の頃、由井領(由比領)となり明治の頃は由比村であった。片倉町となったのは由比村が八王子市に合併されてから。 ちなみに、「ゆい」の語源は、湧水地帯、湿地帯、清らかな水辺、といった意味、と。湯殿川と兵衛川に囲まれた低湿地であったのだろう。
小比企町
稲荷橋に戻り先に進む。周囲は大きく開ける。湯殿川が流路定まらなく流れた往古、気の遠くなるような時間をかけて形づくられた河岸段丘であろう。このあたりの湯殿川の川筋は一直線に進む。河川改修の結果だろうが、それって蛇行し水害の多い一帯であった、ということの証でもあろう。
川の北は崖線が続く。湯殿川の段丘崖。この辺り、小比企町と呼ばれるが、「ヒキ」は「ハケ=崖」から、と言われる。言い得て妙なる地名である。ちなみに片倉の地名も「カタクラ=集落の片方が崖」とも。カタクリの群生する地、という地名の由来説より納得感が高い。
一直線の川筋を殿田橋、釜土橋と過ごし大橋に。大橋を越えると北野街道が接近。湯殿川もだいぶ細くなる。細くなるに従い、水の汚れが気になる。実際、湯殿川に生活用水が流されなくなったのは、それほど遠い昔のことではないようだ。河床の地質なのか、汚れなのか、もやっとした水の色がちょっと気になる、
椚田町
大橋を越えると小比企町から椚田町へ入る。白旗橋の先で寺田川が合流。寺田川の源流点は鍛冶谷戸。合流点を南西に下った寺田西交差点の奥にある。丘陵から浸み出した流れは谷戸奥に集まり、開析された谷筋を下ってくる。流れを囲む丘陵には東は「グリーンヒル寺田」、西は「ゆりのき台」といった今風の名前の宅地が開発され、のどかな、というか、のどかだった寺田町も少々様変わりしている、よう。
椚田遺跡公園
先に進み船橋、椚田橋へと。次の目的地は椚田遺跡公園。ちょっと川筋を離れることになる。椚田中学の東脇を進み北野街道を渡り成り行きで北に進み段丘崖を上る。比高差30m弱といったところ。現在の湯殿川では想像できないのだが、往古の湯殿川って、どういった規模の川であったのだろう。
いつだったか、津久井湖の近くの串川を歩いたことがある。この串川流域の発達した河岸段丘には誠に魅せられた。今ではささやかな川筋ではあるが、往古、現在の相模川の川筋をも集めた大きな規模の川であった、とか。湯殿川にはどのような地形のドラマがあったのだろう、か。
段丘崖を上る。椚田遺跡通りを越え椚田遺跡公園に。1975年、区画整理の時にこの地で縄文中期から古墳時代後期の遺跡が見つかった、と。現在は埋め返され公園となっていた。ここで発掘された土器や土偶は八王子の郷土資料館に展示されているとのこと。女性の土偶では、足や腕が意図的に欠けているものが多い、とか。豊穣や多産を祈った、との説がある。
ちなみに、椚=クヌギ、そのクヌギの実(ドングリ)は縄文時代の主食のひとつ。縄文土器もドングリの灰汁抜きにも使われた、とも言われる。往古、このあたりは椚田郷と呼ばれたわけで、クヌギの群生する一帯であったのだろう。八王子には北の加住丘陵のほうには椚谷遺跡もある。
館町
公園を離れ成り行きで段丘崖を下る。坂の途中に社の屋根。坂を下りきったところから石段をのぼり御嶽社に。お参りをすませ湯殿川・境橋に。この辺りから椚田町を離れ館町に入る。南の丘陵上にトヨタ東京自動車大学校。自動車整備の専門学校。
田中橋の先には横山第一小学校。なぜ、この椚田に横山が?チェックすると、明治の頃、この辺り一帯、北の散田、長房、椚田、南の館、寺田、大船地区は横山村であった。ということは、この小学校って、この地の明治の歴史を今に伝えるってこと、か。
新田中橋を越え新関橋に進むと、その先に殿入川の合流点。殿入谷戸から開析谷を下ってくる。殿入谷戸のもつ典型的な谷戸の景観が印象に残る。
龍見寺
新関橋の先に和合橋。この辺りには神社・仏閣が点在する。北野街道脇に宝泉寺。室町後期の開基、とか。本堂を街道から見やり、湯殿川に戻り南の龍見寺に進む。木々の茂る小さな丘を目安に道を進むと道脇にお堂に向かう小径。道を上ると龍見寺の大日堂前にでる。
雰囲気のあるお堂。中には都文化財、藤原時代末期の作と伝わる大日如来座像が鎮座する。寺伝によると、横山党の横山経兼が、前九年の役に源頼義に従い奥州に出陣。湯殿山で戦利品として持ち帰った、と。湯殿川の名前の由来も、ここにあると言う。大日堂を下った本堂前に池がある。その昔、大日堂付近にも湧水があり、そこが湯殿川の水源のひとつでもあった、とのこと。その名残であろう。
この龍見寺一帯は横山氏の館があった、とも。地名が館であるだけに、妙に説得力がある。実際、椚田、高尾、初沢、東浅川一帯は横山庄椚田郷と称し、横山党をその祖とする椚田氏が館を構えた、と。高尾駅近くの初沢城は椚田氏の城、といった説もある。もっとも、八王子であれば、どこを掘っても横山氏には出会うだろう、が。
浄泉寺
龍見寺を離れ民家の間の小径を縫って進む。丘の上に浄泉寺。寺域には平安末期、桓武平氏の末裔と伝わる鎌倉五郎影政の館があった、と伝わる。影正は前九年の役、源頼義に従い出陣、また、後三年の役では八幡太郎義家に従軍し討ち死にした、と。勇猛の士として知られる。なんだか、龍見寺に伝わる横山某の縁起と良く似た話である。
時代は下って戦国末期、八王子城主・北条氏照の家臣、近藤出羽守助実がこの地に館を構える。近藤砦とも呼ばれるのは、八王子城の出城でもあったのだろう、か。出羽守は八王子城合戦の時は城に籠もり討ち死にした、と。浄泉寺は近藤出羽守助実の開基、とも。
打越大橋、時見橋、八幡橋をやり過ごしJR横浜線をくぐり打越橋で北野街道にあたる。北野街道はここから西は湯殿川の北を進むことになる。先にすすむと東橋。橋の少し西で兵衛川が湯殿川に合流。御殿峠近くの源流点から、南北に深く切れ込んだ谷筋を下る。合流点を越えると新山王橋。南に下ればJR横浜線片倉駅前に出る。
片倉城址
その先、住吉橋で東京環状16号線に。住吉橋は少し南の片倉城址に鎮座する住吉神社、から。片倉城は鎌倉幕府開幕時の重臣、大江広元の子孫・長井氏の築城、と。元は此のあたり一帯は、横山党の領地であったが、和田義盛と北条の抗争に際し、和田方に与力し敗北。その地を北条勝利に貢献した大広元に与えられもの。
住吉神社は室町期、城主長井氏が摂津の住吉社を勧請したとか、大江某が領地・長門の住吉社を勧請したとか、あれこれ。片倉城の鬼門除けとしてまつられた。住吉神社の祭神って、伊邪那岐大神の子供である底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命。神功皇后が三韓征伐の際、この住吉三柱の守護により無事に目的達成。摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)におまつりしたのがはじまり、と。住吉神社は全国に2,100ほどもあるそうだ。
松門寺
片倉城址は先日の散歩で訪れたので今回はパス。住吉川を越えると川筋の南に公園。その南に片倉城址の丘。比高差20m程度だろう。道の先には寺の甍が見える。風原橋を越え時田大橋で南に折れ、台地上のお寺様に。松門寺(しょうもんじ)。15世紀末、八王子駅近くの子安町に開基し、16世紀末には寺町に移る。第二次世界大戦の八王子大空襲で焼失。1969年、八王子の区画整理にともないこの地に移る。元は密教系の寺院であったものが、下恩方・川原宿近くの心源院から高僧を請し、曹洞宗の寺院となった。参禅会が盛んに行われている遠因だろう、か。
由井
お寺を離れ川筋に戻る。先に進むとカタクリ橋。このあたりが片倉町と小比企町の境となる。稲荷橋の脇には稲荷神社の森。少し寄り道しお参り。神社の横には由井第三小学校。そういえば、このあたりに由井と名前の付いた学校が多い。京王片倉駅の北に由井中学校、南に由井第二小学校。片倉に何故、由井?調べてみると、南北朝の頃、このあたり一帯は由井郷(由比郷)と呼ばれた。後北条の頃、由井領(由比領)となり明治の頃は由比村であった。片倉町となったのは由比村が八王子市に合併されてから。 ちなみに、「ゆい」の語源は、湧水地帯、湿地帯、清らかな水辺、といった意味、と。湯殿川と兵衛川に囲まれた低湿地であったのだろう。
小比企町
稲荷橋に戻り先に進む。周囲は大きく開ける。湯殿川が流路定まらなく流れた往古、気の遠くなるような時間をかけて形づくられた河岸段丘であろう。このあたりの湯殿川の川筋は一直線に進む。河川改修の結果だろうが、それって蛇行し水害の多い一帯であった、ということの証でもあろう。
川の北は崖線が続く。湯殿川の段丘崖。この辺り、小比企町と呼ばれるが、「ヒキ」は「ハケ=崖」から、と言われる。言い得て妙なる地名である。ちなみに片倉の地名も「カタクラ=集落の片方が崖」とも。カタクリの群生する地、という地名の由来説より納得感が高い。
一直線の川筋を殿田橋、釜土橋と過ごし大橋に。大橋を越えると北野街道が接近。湯殿川もだいぶ細くなる。細くなるに従い、水の汚れが気になる。実際、湯殿川に生活用水が流されなくなったのは、それほど遠い昔のことではないようだ。河床の地質なのか、汚れなのか、もやっとした水の色がちょっと気になる、
椚田町
大橋を越えると小比企町から椚田町へ入る。白旗橋の先で寺田川が合流。寺田川の源流点は鍛冶谷戸。合流点を南西に下った寺田西交差点の奥にある。丘陵から浸み出した流れは谷戸奥に集まり、開析された谷筋を下ってくる。流れを囲む丘陵には東は「グリーンヒル寺田」、西は「ゆりのき台」といった今風の名前の宅地が開発され、のどかな、というか、のどかだった寺田町も少々様変わりしている、よう。
椚田遺跡公園
先に進み船橋、椚田橋へと。次の目的地は椚田遺跡公園。ちょっと川筋を離れることになる。椚田中学の東脇を進み北野街道を渡り成り行きで北に進み段丘崖を上る。比高差30m弱といったところ。現在の湯殿川では想像できないのだが、往古の湯殿川って、どういった規模の川であったのだろう。
いつだったか、津久井湖の近くの串川を歩いたことがある。この串川流域の発達した河岸段丘には誠に魅せられた。今ではささやかな川筋ではあるが、往古、現在の相模川の川筋をも集めた大きな規模の川であった、とか。湯殿川にはどのような地形のドラマがあったのだろう、か。
段丘崖を上る。椚田遺跡通りを越え椚田遺跡公園に。1975年、区画整理の時にこの地で縄文中期から古墳時代後期の遺跡が見つかった、と。現在は埋め返され公園となっていた。ここで発掘された土器や土偶は八王子の郷土資料館に展示されているとのこと。女性の土偶では、足や腕が意図的に欠けているものが多い、とか。豊穣や多産を祈った、との説がある。
ちなみに、椚=クヌギ、そのクヌギの実(ドングリ)は縄文時代の主食のひとつ。縄文土器もドングリの灰汁抜きにも使われた、とも言われる。往古、このあたりは椚田郷と呼ばれたわけで、クヌギの群生する一帯であったのだろう。八王子には北の加住丘陵のほうには椚谷遺跡もある。
館町
公園を離れ成り行きで段丘崖を下る。坂の途中に社の屋根。坂を下りきったところから石段をのぼり御嶽社に。お参りをすませ湯殿川・境橋に。この辺りから椚田町を離れ館町に入る。南の丘陵上にトヨタ東京自動車大学校。自動車整備の専門学校。
田中橋の先には横山第一小学校。なぜ、この椚田に横山が?チェックすると、明治の頃、この辺り一帯、北の散田、長房、椚田、南の館、寺田、大船地区は横山村であった。ということは、この小学校って、この地の明治の歴史を今に伝えるってこと、か。
新田中橋を越え新関橋に進むと、その先に殿入川の合流点。殿入谷戸から開析谷を下ってくる。殿入谷戸のもつ典型的な谷戸の景観が印象に残る。
龍見寺
新関橋の先に和合橋。この辺りには神社・仏閣が点在する。北野街道脇に宝泉寺。室町後期の開基、とか。本堂を街道から見やり、湯殿川に戻り南の龍見寺に進む。木々の茂る小さな丘を目安に道を進むと道脇にお堂に向かう小径。道を上ると龍見寺の大日堂前にでる。
雰囲気のあるお堂。中には都文化財、藤原時代末期の作と伝わる大日如来座像が鎮座する。寺伝によると、横山党の横山経兼が、前九年の役に源頼義に従い奥州に出陣。湯殿山で戦利品として持ち帰った、と。湯殿川の名前の由来も、ここにあると言う。大日堂を下った本堂前に池がある。その昔、大日堂付近にも湧水があり、そこが湯殿川の水源のひとつでもあった、とのこと。その名残であろう。
この龍見寺一帯は横山氏の館があった、とも。地名が館であるだけに、妙に説得力がある。実際、椚田、高尾、初沢、東浅川一帯は横山庄椚田郷と称し、横山党をその祖とする椚田氏が館を構えた、と。高尾駅近くの初沢城は椚田氏の城、といった説もある。もっとも、八王子であれば、どこを掘っても横山氏には出会うだろう、が。
浄泉寺
龍見寺を離れ民家の間の小径を縫って進む。丘の上に浄泉寺。寺域には平安末期、桓武平氏の末裔と伝わる鎌倉五郎影政の館があった、と伝わる。影正は前九年の役、源頼義に従い出陣、また、後三年の役では八幡太郎義家に従軍し討ち死にした、と。勇猛の士として知られる。なんだか、龍見寺に伝わる横山某の縁起と良く似た話である。
時代は下って戦国末期、八王子城主・北条氏照の家臣、近藤出羽守助実がこの地に館を構える。近藤砦とも呼ばれるのは、八王子城の出城でもあったのだろう、か。出羽守は八王子城合戦の時は城に籠もり討ち死にした、と。浄泉寺は近藤出羽守助実の開基、とも。
御霊神社
寺を離れ民家の間の小径を進み御霊神社に。鎌倉権五郎影政を祀る。天正時代、八王子城の南の外郭、御霊谷戸に祀られていた御霊神社を、近藤出羽守がこの地に勧請した、と。
御霊谷戸に祀られていた御霊神社って、鎌倉時代、梶原景時が鎌倉から勧請したわけで、その祭神は鎌倉権五郎。おや??鎌倉権五郎って、ひょっとして鎌倉の地名の由来ともなった、あの鎌倉氏?梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏とともに関東五平氏とも呼ばれた、あの鎌倉氏?とすれば館は鎌倉である。浄福寺が鎌倉権五郎の館址って話には大いなる疑問符。鎌倉権五郎館伝説は、近藤出羽守が勇猛・勝利の守り神として御霊神社をこの地に勧請した結果、いつしか祭神鎌倉権五郎が一人歩きし、館址といった話ができたのでは、と思う。
御霊谷戸に祀られていた御霊神社って、鎌倉時代、梶原景時が鎌倉から勧請したわけで、その祭神は鎌倉権五郎。おや??鎌倉権五郎って、ひょっとして鎌倉の地名の由来ともなった、あの鎌倉氏?梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏とともに関東五平氏とも呼ばれた、あの鎌倉氏?とすれば館は鎌倉である。浄福寺が鎌倉権五郎の館址って話には大いなる疑問符。鎌倉権五郎館伝説は、近藤出羽守が勇猛・勝利の守り神として御霊神社をこの地に勧請した結果、いつしか祭神鎌倉権五郎が一人歩きし、館址といった話ができたのでは、と思う。
ついでのことながら、御霊神社って、全国にある。大きく分けて怨霊鎮護のものと、祖先神を祀るもののふたつ。鎌倉の御霊神社は祖先神系。
もともとは五霊神社と呼ばれていたように、関東五平氏の祖先神を祀っていた。その後、名前も御霊、祭神も武勇で知られる鎌倉権五郎ひとりとなった。梶原氏が御霊神社を勧請したのは、もとの祖先神を祀るためであろう。
湯殿川上流端
神社裏手から湯殿川に出る。西明神橋。現在工事中。この辺りは水路脇には道はない。道なりに進み民家の間を進むと湯殿川に。人ひとり通れる人道橋・地蔵橋を渡ると小さい公園。上館公園。公園先を成り行きで進むと町田街道に出る。
町田街道に掛かる橋・湯島橋で湯殿川をチェックし、町田街道を離れ拓殖大学に通じる道を進む。と、道を跨ぎ巨大な橋桁が建設中。南バイパス館高架橋。圏央道に繋げるようである。 拓殖大学の構内を少し進むと石橋。山王橋と呼ばれるこの橋の脇に「湯殿川上流端」の標識があった。石橋の先は地下水路。湯殿川は地下水路をくぐり拓殖大学の構内に導かれる。地図を見ると構内とその先に調整池がある。南の調整池の先に水路が見える。源流はその水路が切れるあたりだろう。ふたつの調整池の間は水路が切れている。キャンパス造成で水路が途切れたのだろうが、暗渠で繋がっているか、とも。
源流点へ行きたしと思えども、日暮れも近い。地図を見ると、調整池から辿るか、源流点東の権現谷戸とか西の初沢川経由でも源流点に行けるような、行けないような。
『流域紀行八王子;馬場喜信(かたくら書店。1982)』に「館のバス停から車のひんぱんに行き交う鎌倉街道を渡って旧道に入る。しばらくすると「一級河川湯殿川上流端」の木標があり、 そこからいよいよ水源への道となる。T大学敷地の造成工事中だった。しばらく歩くとその騒音も背後に去って、両側からおおいかぶさるような樹林の中を、 山道が川沿いに確実に続いていた。これなら水源の山を越えて、向こうの谷に抜けられると思った。ところが流れが狭まり谷が2つに分かれる所で、道はばったり途絶えていた」、とあった。結構厳しそう。薮漕ぎ承知で、そのうちに、ということで、本日の湯殿川散歩はこれでお終い
神社裏手から湯殿川に出る。西明神橋。現在工事中。この辺りは水路脇には道はない。道なりに進み民家の間を進むと湯殿川に。人ひとり通れる人道橋・地蔵橋を渡ると小さい公園。上館公園。公園先を成り行きで進むと町田街道に出る。
町田街道に掛かる橋・湯島橋で湯殿川をチェックし、町田街道を離れ拓殖大学に通じる道を進む。と、道を跨ぎ巨大な橋桁が建設中。南バイパス館高架橋。圏央道に繋げるようである。 拓殖大学の構内を少し進むと石橋。山王橋と呼ばれるこの橋の脇に「湯殿川上流端」の標識があった。石橋の先は地下水路。湯殿川は地下水路をくぐり拓殖大学の構内に導かれる。地図を見ると構内とその先に調整池がある。南の調整池の先に水路が見える。源流はその水路が切れるあたりだろう。ふたつの調整池の間は水路が切れている。キャンパス造成で水路が途切れたのだろうが、暗渠で繋がっているか、とも。
源流点へ行きたしと思えども、日暮れも近い。地図を見ると、調整池から辿るか、源流点東の権現谷戸とか西の初沢川経由でも源流点に行けるような、行けないような。
『流域紀行八王子;馬場喜信(かたくら書店。1982)』に「館のバス停から車のひんぱんに行き交う鎌倉街道を渡って旧道に入る。しばらくすると「一級河川湯殿川上流端」の木標があり、 そこからいよいよ水源への道となる。T大学敷地の造成工事中だった。しばらく歩くとその騒音も背後に去って、両側からおおいかぶさるような樹林の中を、 山道が川沿いに確実に続いていた。これなら水源の山を越えて、向こうの谷に抜けられると思った。ところが流れが狭まり谷が2つに分かれる所で、道はばったり途絶えていた」、とあった。結構厳しそう。薮漕ぎ承知で、そのうちに、ということで、本日の湯殿川散歩はこれでお終い
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