水曜日, 12月 01, 2010

旧中川散歩 そのⅠ;小松川排水機場から木下川排水機場まで

休日の午後、時間ができた。それでは何処を歩こうか、といっても特段、どこといって候補先が想い浮かばない。地図を拡げ眺めていると、荒川の東西を蛇行する川筋が目に入った。昔の自然河川の名残を残すこの蛇行流路は旧中川である。旧中川は荒川放水路によって切り離された中川の下流部分であり、墨田区と境を接する江戸川区平井の木下川排水機場・水門で荒川から分かれ、江東区大島の小名木川排水機場で再び荒川に合流する6.68キロの水路である。

先日、旧中川と荒川に挟まれた江東区の平井の辺りを彷徨ったとき、平井の聖天さまには訪れたのだが、五色不動のひとつである平井の目黄不動・最勝寺を見逃していた。成り行き任せの散歩によくある「後の祭り」の一例である。それではと、今回は、旧中川の流路を辿りながら目黄不動を訪れることにした。ルートは、旧中川が荒川放水路と合流点する地点からはじめ、蛇行する流路を遡り、途中で目黄不動などに立ち寄り、再び旧中川をのぼり荒川放水路分岐地点まで、とする。中川は荒川放水路の東側にも蛇行流路が更に続き、葛飾・青砥で人工的に開削された新中川が分岐するのだが、今回はそこまで進む時間の余裕はなさそうであり、次回のお楽しみとする。

今回歩く中川であるが、そもそも中川と言う川は、元からあったわけではない。江戸時代の初めまで、利根川と荒川は流路定まることなく現在の中川下流域へと流れ込んでいた。その利根川と荒川を、利根川は銚子方面へと流れる常陸川筋に付け替える利根川東遷事業、荒川は入間川・隅田川筋へと付け替える西遷事業が実施され、結果、元荒川、古利根川、庄内古川など源流から切り離された川が生まれた。源流を断ち切られ、現在の中川水系一帯に「取り残された」川筋は、古利根川(元荒川が合流)、島川、庄内古川に分かれていた。大正・昭和になって中川水系へと付け替えられた島川、庄内古川は、江戸の頃は江戸川に合流しており、江戸の中頃は元荒川、古利根川の合流地点から下流を「中川」と呼んでいたようである。

源流点を羽生市6丁目、羽生南小学校辺りとする現在の中川筋ができるのは大正5年(1916)から昭和4年(1929)にかけての河川工事による。中川水系の水田地帯を潤し、そこからの排水を集め、江戸川へと注いでいた島川と庄内古川を古利根川へ付け替える工事が行われた。江戸川の水位が高く洪水時には逆流水のため島川、庄内古川流域に発生する洪水被害を防ぐためである。
島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新たに開削して庄内古川につながれ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロして古利根川につながれた。こうして「中川」ができあがった。
昭和22年(1947)カスリーン台風の大洪水のあと、昭和24年から37年にかけて放水路として新中川も開削され、中川も都内西小岩から河口までの約7.6キロ、荒川放水路計画の中で放水路に平行して付け替えて綾瀬川を合流させ、現在の姿となった。
ちなみに、中川って、江戸川と荒川の「中」にあったから。とか。大雑把に言って、利根川の東遷事業、荒川の西遷事業によって「取り残された」埼玉中央部の川筋を、まとめ直した川筋を中川水系、と言ってもいいだろう。

本日のコース;都営新宿線東大島>旧中川堤>中川大橋>中川船番所>小名木川合流点>東京都小名木川排水機場>荒川ロックゲート>大島小松川公園旧小松川閘門>都営新宿線>新大橋通り船堀橋>首都高速7号線小松川線>京葉道路中川新橋>浅間神社>白髭神社>最勝寺目黄不動>成就寺>善通寺>総武本線>蔵前橋通り>北十間川合流点>旧中川かさ上げ護岸跡>平井橋>平井の渡し跡>東漸寺>白髭神社>中平井橋>木下川排水機場>荒川堤>天祖神社>安養寺>平井聖天燈明寺>諏訪神社>総武本線平井駅

都営新宿線東大島
旧中川が荒川放水路に合流する最寄の駅、都営新宿線の東大島で下車。駅は江東区と江戸川区の区境である旧中川を跨ぐ河川橋上駅。川を挟んで西の江東区は大島、東の江戸川区は小松川。東大島との名の通り、駅は江東区大島となっていた。
大島の名前の由来は低湿地に浮かぶ小島、から。家康入府以前の江東区域はほぼ全域が浅瀬の低湿地帯であったわけで、大島は中川などによって形成された自然堤防か微高地であったのだろう。また、小松川は中世の頃に葛飾区の新小岩辺りに小松村があり、中川の低湿地を流れる川を小松川と呼んだため、と言う。その小松は、小松殿と称せられた平重盛に由来すると説く人もいる。
いつだったか、新小岩駅の東と千葉街道・菅原橋あたりの二か所から流れがひとつにまとまり、荒川まで続く小松川境川親水公園を歩いたことがあるが、それが小松川の川筋跡ではあろう。もっとも、古地図には境川としか書かれていないようだ。現在も西小松川と東小松川地区の境となっており、往昔、村の境を流れていた故での命名であろう、か。

中川船番所記念館
東大島駅前は再開発され高層マンションが並ぶ。線路に沿って少し西に戻り、旧中川散歩の始点となる旧中川が荒川放水路に合流する地点へと南へ下る。少し進むと中川大橋の西詰、小高く盛り上がった「大島小松川わんさか広場」の南に中川船番所記念館。中川番所を中心に関東の河川海運と江東区の郷土史の資料を展示している。中川のコーナーには中川番所の再現ジオラマを中心に出土遺物、番所に関する資料が展示されている。江戸をめぐる水運のコーナーには、江戸を巡る河川水運について、海辺大工町や川浚い関する資料。江戸から東京へのコーナーには、蒸気船の登場などによる水運の近代化を通運丸や小名木川の古写真を中心に紹介してある。

中川船番所跡
資料館前の道を旧中川に沿ってすこし南に中川船番所跡。資料館の番所略史の抜粋:中川番所は、寛文元年(1661)に小名木川の隅田川口にあった幕府の「深川口人改之御番所」が、中川口に移転したもの。番所の役人には、寄合の旗本3?5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めていた。普段は、旗本の家臣が派遣され、小名木川縁には番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張る。おもに夜間の通船、女性の通行、鉄砲などの武器や武具の通関を取り締まり、また船で運ばれる荷物と人を改めていた。「通ります通れ葛西のあふむ石」と川柳に詠まれたように、通船の増加により通関手続きは形式化(あふむ=鸚鵡返し)していったようである。 因みに、江戸の時代小説などによれば、この船番所の役人は閑職であった、とのこと。

小名木川
中川船番所跡の南を東西に走り、旧中川に合流するのが小名木川。小名木川は隅田川から荒川、正確には荒川の手前の旧中川まで江東区を東西に横断する長さ5キロ弱の一級河川である。とは言え、川といっても自然の川ではなく、家康が江戸開幕の折に開削した運河。千葉の行徳の塩を江戸に運ぶためつくったものであり、江戸城の和田倉門から道三堀、日本橋川を経て隅田川、隅田川から荒川まで小名木川、荒川を越え新川(船堀川)から旧江戸川を経て行徳まで連なる「塩の道」の一部である。
小名木川の開削は入府当時、家康の最重要事業であった、という。塩は生活の必需品であるから、だろう。当時の海岸線、といっても陸地側も浅瀬の低湿地ではあるが、ともあれ、その渚に沿って運河が掘られる。で、開削された残土を葦生い茂る湿地の埋め立てに使う。小名木川以北が江戸の埋め立て事業の最初に行われたのは、こういった事情もあったの、では。小名木川の名前の由来は、家康の命によりこの運河を開削したのが小名木四郎兵衛の名前から。もっとも、これも諸説あり、うなぎがよく採れたのでうなぎ川、それがなまったという説などいろいろ。
小名木川は後に、関西地方から江戸に塩がもたらされ、塩の道の役割が少なくなってからも、東北や北関東からの生活物資を江戸に運ぶ重要河川として新たな船運の役割を担った。房総、浦賀といった太平洋の海の難所を避け、銚子あたりで内陸に入り、利根川・江戸川経由で小名木川、そして江戸に続く、いわゆる奥川廻し、この内陸水路をつかった水運ネットワークの一環として機能した。いつだったか、日本橋川から小名木川筋を進み、行徳まで歩いた「塩の道散歩(Ⅲ)」が懐かしい。

平成橋
中川大橋を下ると平成橋に。平成橋から小名木川排水機場が見える。手前の建設工事は小松川第二ポンプ場、とか。排水機場って、水位低下河川の水位を維持し、氾濫を防止、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設。小松川第二ポンプ場を建設しているということは、小名木川排水機場に替わる、ということであろうか。

荒川ロックゲート
平成橋から東に向かい荒川放水路の堤防へと向かう。荒川放水路は500mほどの幅である。広々とした河川風景を見やりながら堤防を南に下ると巨大が塔が見えるが、それが荒川ロックゲート。ロックゲートとは水門で水位を調節しながら、水位の異なる川筋を結び通船を可能とする施設。「水位差のある箇所をふたつの水門で囲う。片方の水門を開けて船を入れる。このときの水位は水を入れた側と同じ。次に水門を閉じポンプで水を注入する、あるいは排水して反対側の水位と合わす。水位が合うと、出る側の水門を開き船を通す」といったものである。
荒川ロックゲート(閘門)が造られた背景は、船運の盛んであった荒川流域が荒川放水路開削により荒川と旧中川に水位差ができてしまった、ため。荒川と旧中川の水位差は3.1mにもなった、と言う。そのため、水位調節機能をもった小松川閘門が昭和5年(1930)完成し通船していたが、昭和50年閉鎖。その後、水路を利用した災害復旧機能が見直され、平成17年(2005)にこの荒川ロックゲートが完成し、墨田川と荒川を結んだ水路のネットワークが整備された。

散歩の折々にロックゲート(閘門)に出合う。小名木川にも扇橋閘門があった、埼玉散歩では東西の見沼用水を繋ぐ見沼通船堀で、小規模ではあるが、江戸の頃というから、スエズ運河より早い時期に作られた木製の閘門に出合った。因みにロックゲートはrock ではなく、lockが英語のスペルである。

荒川放水路は明治44年(1911)から昭和5年(1930)にかけて建設された人口の川(放水路)である。昔、荒川の本流は隅田川であった。が、隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったため、大雨や台風の洪水を防ぐことができなかった。ために、北区の岩淵水門で隅田川と別れ河口までの約22km、人工の川(放水路)を20年の歳月、延べ310万人の労働力により開削した。
放水路建設のきっかけは明治43年(1910)の大洪水。埼玉県名栗で1212mmの総雨量を記録し、荒川のほとんどの堤防があふれ、決壊した堤数十箇所、と言う。利根川、中川、荒川の低地、東京の下町は水没し、流出・全壊家屋1679戸、浸水家屋27万戸、と言う甚大な被害をもたらした。
荒川放水路の川幅は500m。こんな大規模な工事を、明治にどのようにして建設したのか、ということだが、第一フェーズは人力で、川岸の部分を平らにする。掘った土を堤防となる場所へ盛る。第二フェーズは平らになった川岸に線路を敷き、蒸気掘削機を動かして、水路を掘る。掘った土はトロッコで運ばれて、堤防を作る。そして第三フェーズでは水を引き込み、浚渫船で、更に深く掘る。掘った土は、土運船やポンプを使い、沿岸の低地や沼地に運び埋め立てした。とのことである。

江戸時代の荒川
江戸時代以前の荒川は、現在の元荒川筋を流れ、越谷付近で当時の利根川(古利根川)に合流していた。寛永6年(1629)、荒川を利根川から分離する付け替え工事をおこない、久下村地先(熊谷市)において元荒川の河道を締め切り、入間川の支流に流路を合わせ、墨田川をへて東京湾に注ぐ流路に変えた。荒川の西遷事業と呼ばれるものである。以来荒川の河道が現在のものとほぼ同様のものになり、埼玉東部低湿地帯は穀倉地帯に、整備された水路は船運で栄えた。明治から昭和にかけては明治43年(1910)の大洪水をきっかけに荒川放水路が造られ現在に至る。

小松川閘門

荒川ロックゲートを離れ、旧中川散歩をはじめる。少し北に進み小高い台地となっている都立大島小松川公園に入る。都立大島小松川公園は旧中川の西の江東区側にも公園が広がっているため、「大島小松川」と両地名併記となっているのだろう。この公園は江東地区の防災市街地再開発事業により設置され、通常はレクレーションの場、災害時は避難場所となっている。
公園を歩いていると前方に重厚な石造りらしき建造物があり、近づくと小石川閘門跡とあった。ということは、この辺りがもともとの荒川と旧中川の合流点であったのだろう。この閘門は昭和5年(1930)に完成し昭和50年(1975)まで使用された。2つの扉の開閉によって機能を果たしていたが、この建物はそのうちの1つが残る。また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっている。洪水対策である荒川スーパー堤防の余波だろう、か。スーパー堤防って、堤防の高さのおよそ30倍の幅(高さ10mの堤防であれば、おおよそ200mから300mの幅)を盛土し、緩斜面をつくる、とのことであるので、この推論はそれほど間違っているようには思えない。

新大橋通り・船堀橋
都立大島小松川公園を下り中川大橋東詰めに戻る。先ほど下ってきた道筋を逆に都営新宿線方面へと進む。新大橋通りに架かるのは船堀橋。旧中川から荒川放水路・新中川を超える区間を一括して船堀橋と呼ぶようである。
この船堀橋が昭和46年(1971)に開通する前は、荒川放水路の開削に合わせ、大正12年(1923)には下流300mのところに荒川を渡る船堀大橋と、旧中川を渡る船堀小橋という木橋が架かっていた、と言う。場所は江戸川区船堀の陣屋橋通りの延長線上。船堀大橋は、今は無いが、船堀小橋は「中川大橋」として再架橋されている。中川大橋は中川船番所脇の橋である。

水際の遊歩道
川沿いの道を歩きながら眼下の旧中川を見遣る。と、水際・低水路に沿って遊歩道が整備されている。振り返って見ると都営線のあたりから水辺の道がはじまっているようである。旧中川の水位は平常時水位を人工的にA.P.-1mまで低下させ、地域に安全を確保している、とのこと。
A.P.とはArakawa Peilの略。Peilはオランダ語で「基準」の意味。荒川の水位を表す基準のことで、A.P0(zero)は明治の頃、荒川の河口だった霊岸島(現在の中央区新川)に水位観測所を設け測定された潮の干潮時の最も水位の低いところ。明治の頃オランダ人河川技師によって定められた。荒川干潮時は東京湾の海抜-1.13mと言うから、A.P.-1mは海抜-2mといったところ、だろう。
所謂隅田川と荒川に挟まれた江東三角地帯には小名木川、北十間川、横十間川そしてこの旧中川などの内部河川が縦横に流れているが、隅田川は押上付近にある源森川水門で北十間川を、小名木川水門で小名木川を締切り、先ほど訪れた小名木川排水機場と、これから辿る木下川排水機場で荒川放水路と旧中川を締切っている。このような締切りの結果、旧中川の水位は海抜-2mに保たれている、ということである。

逆井の渡し跡
首都高速7号・小松川線下に進む。高速の少し北に架かる鉄橋・逆井橋の辺りは昔の「逆井の渡し」跡。江戸から佐倉、成田へと向かう「佐倉往還」の渡しがあったところである。歌川広重の「名所江戸百景 逆井のわたし」には、白鷺らしき鳥が舞う風光明媚なこの地が描かれる。八代将軍吉宗が小松川に最初の鷹狩りに来たときは、本所堅川からこの逆井の渡しを経て西小松川に向かった、とか。
明治12年(1879)には渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止。架橋当時は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋であった、と言う。明治27年(1894)に橋銭徴収を止め、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられ、昭和43年(1968)には鉄橋となった。

千葉街道
先に進み、国道14号・京葉道路に架かる中川新橋を超える。国道14号は都内の両国橋を起点とし江戸川区松島の東小松川交差点で同じ14号として二方向に分岐し、一方は千葉街道として市川へと上り、そこから江戸川に沿って南東へと下る。もう一方は国道14号・京葉道路として東進し、谷河内から側道として高速道路に併設され、篠崎ICで高速道路の区間と接続する。ふたつに分かれた道は習志野・千葉市境(幕張IC)で交差する。
ところで、東小松川で北東へと進む千葉街道のルートが少し気になった。千葉街道とは言いながら、千葉へと直線に進むのではなく、市川を三角形の頂点とするように大回りをする。この大回りの理由が気になった。市川にあった下総国府に向かうのが主目的であったのか、はたまた直進する一帯は低湿地で江戸の頃に埋め立てが行われるまでは直線ルートは進むに進めなかったのだろうか。または、そもそもが、市川の渡しより下流に渡しがなかったのだろうか。あれこれ妄想は膨らむ。
チェックすると、この14号・千葉街道は江戸から成田に向かう「元佐倉道」の道筋であった、よう。両国橋を渡り、竪川通りを東進して旧中川の「逆井の渡し」から四股(荒川放水路と中川放水路の間の中州・千葉街道と行徳道の交差点)、五分一、八蔵橋、菅原橋を経て小岩市川の渡しを渡り、市川、佐倉をへて成田へと向かった、と。千葉街道と呼ばれるようになったのは明治になってから、であった。市川の渡しより下流に渡しがあったかどうか、未だ不明ではある。

浅間神社
新大橋通りを北に越え、今回の散歩のきっかけともなった平井の目黄不動・最勝寺にやっと近づいた。場所は新大橋通りの北の荒川側。旧中川とは反対側でもあるので、近場にどこか見所はと地図をチェック。旧中川を少し北に進んだところに浅間神社と白髭神社がある。ふたつの社に立ち寄り目黄不動へと進むことにする。
旧中川の堤を離れ、堤下を走る車道に沿って浅間神社がある。浅間神社とは言うものの、コンクリートで囲われた富士塚であり、その上に浅間神社の祠が祀られる。富士塚に上ると旧中川が見渡せる。道路脇の案内に、「高さ約5m、区内で最大のもの。建造年代は不明だが、「当山再築小松川村」と記した明治17年(1884)の碑があり、区内で最も古い築造。登山道は、塚の正面に直線で設けられ、石段になっている。頂上の部分を玉垣で方形にとり囲み、石祠を祀る。登山道の両側には、数多くの石碑が建てられ、地元の丸岩講のほか、小松川山元講や平井丸富講の碑もある。この逆井の富士塚そのものが浅間神社であり、旧逆井村の人々が、現在でもその維持にあたる。7月1日に幟を立てて祭礼を行いる。石積み型の大型なものであり、倒壊防止のため、昭和30年代にコンクリートで覆った(江戸川区教育委員会)」とあった。

富士講とは霊峰富士への信仰のための信者集団のこと。御師のガイドで富士への参拝の旅にでかける。富士塚は富士に似せた塚をつくり、富士に見たててお参りをする。富士信仰のはじまりは江戸の初期、長谷川角行による。その60年後、享保年間(17世紀全般)になって富士講は、角行の後継者ふたりによって発展。ひとりは直系・村上光清。組織を強化し浅間神社新築などをおこなう。もうひとりは直系・旺心(がんしん)の弟子である食行身禄。食行身禄は村上光清と異なり孤高の修行を続け、富士に入定(即身成仏)。この入定が契機となり富士講が飛躍的に発展することになる。
食行身禄の入定の3年後、弟子の高田藤四郎は江戸に「身禄同行」という講社をつくる。これが富士講のはじめ。安永8年(1779)には富士塚を発願し高田富士(新宿区西早稲田の水稲荷神社境内)を完成。これが身禄富士塚のはじまり、と伝わる。その後も講は拡大し、文化・文政の頃には「江戸八百八講」と呼ばれるほどの繁栄を迎える。食行身禄の話は『富士に死す:新田次郎著』に詳しい。

白髭神社
逆井の富士塚から道路を隔てた東側に白髭神社。如何にも、あっさりとした境内に社殿が建つ。白髭神社に最初に出合ったのは埼玉県日高市・高麗の里にある高麗神社。この神社に祀られるのは高麗王・若光。716年、というから奈良時代の初め、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人が武蔵國に遷され、高麗郡が設置された。高麗王若光は高麗郡の郡長に任命され、武蔵の国の開発に尽力し、この地で没した。若光が晩年白髭を垂れたため、その遺徳を偲んで高麗神社は白髭神社とも呼ばれる。この日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある、とのこと。

大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入った、と言われる。一説には、朝廷の命により、浅草湊に上陸した高麗からの帰化人は、一群は荒川水系を新座、入間、高麗といった埼玉県方面に。別の一派は利根川水系を妻沼、深谷、太田、本庄といった群馬県方面に進んだ、とか。
このあたりの白髭神社は旧利根川水系の旧中川、綾瀬川流域を分け入った一派ではあろう。墨田区の白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。これらの高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したのが散歩の折々に出合う白髯神社であり、白髭神社である。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
因みに、「しろひげ」には「白髭」神社と「白髯」神社のふたつの表記がある。「髭」は「口ひげ」、「髯」は「あごひげ」、とか。なにか違いがあるのだろうか。

都道449号・補助120号線
白髭神社を後に、黄目不動へと向かう。民家の間を成り行きで進むと総武本線・平井駅前から南に下る商店街の道筋が都道449号と合わさるところに出た。この都道449号・江戸川区民館前交差点に北から斜めに交差する道筋はかつての西井戸堀用水跡。葛飾区水元公園の小合溜を水源とし、上下之用水として流れ出し、下って小岩用水、東井堀用水、中井堀用水などに分流し地域を潤した用水の一流である。

通常、都道449号は通常、新荒川堤防線と呼ばれ、江東区東砂と東京都北区志茂との間を荒川右岸に沿って進む。この平井駅付近を通る都道449は正式には都道449号・補助120号線。小松川3丁目から平井7丁目まで進む。この都道449号・補助120号線は隅田川沿いにある東白髭公園一帯に計画された江東地区防災拠点へのアクセスルートを増やすために施行されたもの、とのこと。江東地区防災拠点は公園東側には13階建ての高層住宅が並び、大地震時などの火勢を防ぎ住民の安全を図る。

成就寺
都道449号・江戸川区民館前交差点を越え、黄目不動方面へ成り行きで進むと寺町に入り込む。お寺に挟まれた小道を進むと成就寺に。結構大きな本堂と墓地が通りを隔てて泣き別れとなっており、なんとなく不思議な構え。元は本所にあったものが、明治14年に墓地だけがこの地に移り、本堂は関東大震災の後、この地に移った。泣き別れの理由は移転の時間差、ということだろう、か。
この天台宗の寺は、慈覚大師が東国巡拝の折、浅草寺の対岸に草創されたとの伝えがある古き寺ではあり、寺の回りに植えられた枳(からたち)故に、「からたち寺」とも呼ばれた、と。本尊は縁寺である木母寺により招来されたもの、と言う。因みに、木母寺って、能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地でもある。

慈覚大師
慈覚大師って、目黒不動や高幡不動、それに浅草の浅草寺など。散歩の折々に現れる。第三代天台座主であり、最澄が開いた天台宗を大成させた高僧である。45歳の時、最後の遣唐使として唐に渡る。三度目のトライであった、とか。9年半におよぶ唐での苦闘を記録した『入唐求法巡礼記』で知られる。
慈覚大師円仁が開いたというお寺は関東だけで200強、東北には300以上ある、と言う。江戸時代の初期、幕府が各お寺さんに、その開基をレポートしろ、と言った、とか。円仁の人気と権威にあやかりたいと、我も我もと「わが寺の開基は、円仁さまで...」ということで、こういった途方もない数の開基縁起とはなったのだろう
。それはそれとしてもう少し円仁さんのこと。日本で初めての「大師」号を受けたお坊さん、と言う。とはいうものの、円仁さんって最澄こと伝教大師のお弟子さん。弟子が師匠を差し置いて?また、「大師」と言えば弘法大師とも云われる空海を差し置いて?チェックする。大師号って、入定(なくなって)してから朝廷より与えられるもの。円仁の入定年は864年。大師号を受けたのが866年。最澄の入定年は862年。大師号を受けたのが866年。と言うことは、円仁は最澄とともに大師号を受けた、ということ、か。一方、空海の入定年は835年。大師号を受けたのが921年。大師と言えば、の空海が大師号を受けるのに、結構時間がかかっているのが意外ではある。どういったポリテックスが働いた結果なのだろう。


最勝寺・目黄不動
本堂と道を隔てた墓地を抜け車道に出る。目的の目黄不動は東隣にあった。入口の格子の中に佇む仁王像にお参りし、境内に入る。本堂も落ち着いた雰囲気が、誠にいい。本堂横には不動堂が並び、堂中に目黄不動が祀られる。この目黄不動は名僧・良弁の作との言い伝えがある。東大寺の初代別当であり、鑑真とともに大僧都と称された良弁僧都が東国を訪れた記録は特にないようだが、それはそれとして、僧都が隅田川のほとりで夢に不動明王が現れ、「わが姿を三体刻み、一体をこの地に祀るべし」と言うことで、不動像を刻み堂宇に祀った、と。
先ほどの成就院と同じく、この寺も慈覚大師の建立と伝わる。縁起は縁起としてよし、とするも、このお寺さまは本所の牛嶋神社の別当寺であり、その牛嶋神社は源頼朝が社殿を寄進するといった由緒ある社であるので、慈覚大師との縁起も、それなりに納得。この寺に、どのような歴史を経て木造不動明王坐像が祀られるようになったかはっきりしない。はっきりしないが、享保17年(1732年)江戸砂子に「最勝寺の不動明王」、天保7年(1836年)江戸名所図絵に「最勝寺の不動明王」が記載あるので。江戸の頃には牛嶋神社別当である最勝寺に不動明王は祀られていたようである。
この不動明王は目黄不動と称され、江戸御府内の五色不動のひとつと言われる。五色不動とは、目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、そしてこの目黄不動。
もっとも、目黄不動だけは複数あり、この最勝寺だけでなく、台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺、渋谷の龍眼寺とこの最勝寺など全部で六箇所あるとも言われる。それと、江戸の頃に五色不動と言った記録はなく、江戸時代には目がつく不動は目黒・目白・目赤の3つしかなく、また、それをセットとして語る例もなかったようではある。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものとの説もある。

大法寺
黄目不動を離れ、成就院の寺域の西に大法寺がある。もとは本所にあったものが昭和4年(1929)にこの地に移った日蓮宗の古刹である。寺伝によれば、日蓮上人が下総・清澄山より鎌倉へ向かう途中、亀戸の地で上人に帰依した千葉氏に「南無妙法蓮華経」の題目を書き渡した、とか。千葉氏はそれを石に刻み宝塔を建てたとのことだが、人々はそれを「広宣布石」と呼び参拝祈願した、と言う。「広宣布石」には疱瘡によりむなしくなった千葉某の甦生伝説などもあり、疱瘡の守護神として人々の信仰を集めた、とのことである。

善通寺
大法寺の隣に浄土真宗本願寺派の善通寺。なんとなくインド風の本堂。築地の本願寺もインド風であり、何故にとチェックしたことがあるのだが、20世紀初頭、浄土真宗本願寺派の法主を隊長とする「大谷探検隊」の中央アジアの学術探検の実績を考えれば、インド風の構えも納得できる。


北十間川合流点
逆井の富士塚辺りを目安に旧中川筋に戻る。川面のそばの遊歩道に下り、東京スカイタワーを借景に進み、総武線、蔵前橋通りに架かる江東新橋を越えると左手から北十間川が合流する。北十間川とは言うものの、この川筋は自然河川ではなく江戸の頃人工的に開削された運河である。
江戸以前はこの北十間川辺りが渚、というか臨海部。これより南は低湿地帯である。江戸になり、正保年間(1644年から)柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)あたりの埋め立てが進み、明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わった。
十間川の名称は、「北」は本所の北、「十間」は川幅を指した。現在は隅田川と旧中川を結ぶが、江戸の頃は南北に通る横十間川の西を源森川(源兵衛堀)、東を北十間川と呼んだ。当初は両河川はつながっていたが、隅田川の洪水被害が頻発し、17世紀後半分断されることになる。明治になって再び接続され、業平駅での鉄道貨物を船運で運ぶ重要な水路となったが、水運の衰退とともにその役割を終え、1978年(昭和53年)には大横川との分流点に北十間川樋門が設定されるにおよび、再び水路は東西に分断されることになった。
上でメモしたように、隅田川と荒川に挟まれた水害多発地帯である江東三角地帯を守るべく、隅田川と荒川とつながる内部河川を締切り水位を下げているが、この北十間川は押上付近にある源森川水門で隅田川を締切っている。

旧中川「かさ上げ護岸」跡
蔵前通りの北沿いにある島忠ホームセンターの旧中川側堤防下の高水敷(こうすいじき)案内がある。何かとチェックすると切り取られた堤防跡と旧中川「かさあげ護岸」の歴史の説明があった。
「旧中川が流れるこの辺りは、乱流する荒川(墨田川)、中川、利根川(江戸川)に囲まれた三角州に町ができたため、低地であり高潮や洪水の被害が頻発。また、明治末期よりの工場地帯として過剰な地下水の汲み上げによる地盤低下がすすみ、荒川と隅田川に囲まれた江東デルタ地帯は東京湾の満潮水位以下となり、江東零メートル地帯と呼ばれるに至った。
地下水揚水規制、水溶性天然ガスの採取停止を実施し、昭和48年から地盤沈下は停止するも、江東零メートル地帯となった町を守るため、江東内部河川の護岸は、かさ上げ工事が行われた。しかし度重なる応急措置の護岸かさ上げにより、高い堤防により町と川が分断、また構造的に脆弱化し地震発生時の護岸崩壊による水害の危険性が増した。この対策として、昭和46年より都は江東内部河川整備に着手し、北十間川閘門及び扇橋閘門より東側を流れる江東内部河川については、荒川など周辺河川から締切り、平常時の水位を周辺地盤より低く保つ「水位低下対策」を実施し、平成5年に完成。その後、旧中川は水位低下対策によって不要となった「かさ上げ護岸」の上部を切り取り、広い高水敷と緩傾斜堤防を整備し、安全で潤いのある親水空間を創出した。ここに残された「かさ上げ護岸」は、緩傾斜堤防の整備完了を記念し、地域をまもってきた護岸を後世に伝えるために残された」とのことである。
説明とともに掲示されている水位低下対策以前の写真では、堤防ぎりぎりまで水位が迫っている。今歩いている辺りは水の底である。上の説明にあるように、隅田川や荒川放水路を締切り、両河川に挟まれた地帯を流れる内部河川・運河の水位を下げたわけである、何気なく歩いている低水路沿いの高水敷や緑豊かな緩斜面堤防にも、それに至る歴史がある、ということである。

平井橋・平井の渡し
旧中川の堤防の内側、低水路脇の遊歩道を進むと平井橋。明治32年(1899)木橋が架けられ、大正14年(1925)鉄橋に架け替えられる。現在の橋は昭和55年(1980)に架けられたものである。橋の中央に車道と人道を区切る青い鉄の構造物が出っ張っている。これは橋を支える梁。通常は梁の上に橋を造るわけだが、地盤沈下と関連あるのだろうか。実際、この平井辺りが墨田区では最も地盤沈下が激しく、昭和40年頃には海抜マイナス80センチといった記録もある。
明治32年(1899)に木橋が架けられるまでは、橋の少し手前に「平井の渡し」があった。「平井の渡し」は行徳道が下平井村で中川を渡り、墨田区・葛西川村を結ぶもの。渡船1艘での渡しであった、とか。平井を進んだ行徳道は現在は四股(荒川放水路と中川放水路の中州。京葉道路小松川橋の少し北)で千葉街道(元佐倉道)と交差し、その先は京葉道路・中川放水路東詰から南東に一直線に下る今井道を経て行徳に至る。

妙光寺
橋の少し南に妙光寺。慶長3年(1598年)創建のお寺さま。由来書に、元禄年間(1688 - 1704年)の津波で堂宇を消失。大正4年(1913)に再興。本堂は床を高くしているが、これは水害予防のため、昭和41年(1966)に改修された、とか。
津波被害をもたらした地震とは元禄16年(1703)11月の発生した元禄大地震ではあろう。関東地方を襲ったこの地震は、マグニチュード8.1といった関東大震災クラスの大地震であり、津波も東京湾入口の浦賀で、4.5m。江戸湾内でも、本所、深川、両国で1.5m、品川、浦安で2m、隅田川の遡上も記録されている、と言う。

浅草道石造道標
妙光寺と同じく、この辺りにある諏訪神社や平井聖天さんには数年前に訪れてはいるのだが、平井橋からもそれほど離れていないので、ちょっと立ち寄る。平井橋から諏訪神社へと向かう民家の間に、「下平井の観世音菩薩 浅草道石造道標」。まことにささやかな祠。浅草方面から行徳道への道標ではあろう。


諏訪神社と平井聖天
このふたつの寺社は隣合って並ぶ。諏訪神社はお隣の平井聖天・燈明寺の恵祐法印が、享保年間(1716-1735年)に出身地である信州諏訪大社から神霊を勧請したのがはじまりと伝えられている。
平井聖天は草創が平安の頃と伝えられる真儀真言宗の古刹燈明寺の中にある。本堂の不動明王は胎内に弘法大師作の不動明王が安置されている、とも。本堂は関東大震災で倒壊し、昭和4年に再建。各時代の様式が取り入れられている。平井の聖天さんは燈明寺の別堂。平安時代の創建と伝えられ埼玉県・妻沼聖天、浅草の待乳山聖天とともに関東三大聖天のひとつ、と言われる。聖天さまとは夫婦和合の神様。将軍鷹狩のときの御膳所として使われたほか、幾多の文人墨客が訪れている。歴代将軍の御膳所として使用された他、里見八犬伝の物語や桧山騒動の相馬大作の祈願したことなどでもその名を知られ、江戸図会名所にも描かれているなど、昔から多くの人の信仰を集めている。



中平井橋
平井橋南詰に戻り、再び旧中川の堤防内遊歩道を進む。平井橋のすぐ東にある水道管橋を見遣りながら進むと、流路は大きく湾曲する。湾曲し終えた水路西岸に白髭神社がある。立花の白髭神社であり、葛西川村の鎮守であった。この社は先日の墨田区散歩で訪れたので、今回はパスし先に進む。
前方に墨田清掃工場の高い煙突を眺めながら進み、中平井橋に。昭和13年(1938)に造られたこの橋は老朽化委し、平成20年(2008)に架け替えられた。中平井橋は平井橋と上平井橋の間、といことではあろうが、上平井橋って、荒川放水路を隔てた葛飾区の中川・綾瀬川が合流している辺りにある。

ゆりのき橋ワンド(湾処)と言うには少々つつましやか、ではあるが、それでも川の本流とは繋がりながらもささやかな池のようになり葦の生い茂る親水公園などを眺めながら歩を進める。再び水路が大きく湾曲する辺りに「ゆりのき橋」。先ほど平井駅辺りで出合った都道449号・補助120号線が通る。平成13年に架設されたもの。鐘ヶ淵通りとつながり、上でメモしたように、防災拠点となっている白髭地区に通じる防災避難道路である。橋名の由来は、墨田区側に道路に植えられた「ゆりの木」、から。



木下川排水機場
先に進むと水路は塵芥を取り除くゲートで遮断され、その先は木下川(きねがわ)排水機場となる。木下川排水機場は江東デルタ地帯の内部河川の水位を維持し、氾濫を防止、水質浄化のため取水した流入水を排水するためのポンプ施設。24時間稼働している。成り行きで川面より結構比高差のある都道449号・荒川堤防線に上り、荒川放水路からの水を遮断する木下川水門に。小名木川排水機場・荒川ロックゲートから始めた旧中川散歩もこれで一応終了。荒川放水路を眺めながら、次回は荒川放水路を越え、中川を新中川との分岐点まで辿ることにする。
ちなみに、「木下川」を「きねがわ」と読むのはどのような由来かと気になりチェック。もとは「木毛河(きげがわ)」、とか「木毛川」と呼ばれていたのが、「木毛河」を「きねがわ」と読み違え、また、「げ」を「下」と書き表し、「木下川=きげがわ>きねがわ」となった、との説があるが、はっきりしない。

JR総武線・平井駅
堤防を離れ平井駅へと成り行きで進む途中、先回の散歩で訪れた平井の天祖神社や安養寺などに再び出合ったので、ちょっと立ち寄りながら、駅に到着し、一路家路へと。

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