スタート地点は戸倉神社と決めた。さてゴールは何処に、と地図を眺める。立川の北、砂川四番あたりに阿豆佐味神社が目にとまる。散歩で結構神社を辿ったが、阿豆佐味神社とは、はじめての名前。いかなる社かと、訪ねることに。
事ほど左様に、誠にお気軽に、成り行きで決めた散歩のルートではあったのだが、終わってみれば国分寺崖線あり、たまたま古本屋で手に入れ読み始めていた、川崎平右衛門(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』)ゆかりの地あり、玉川上水や砂川分水、武蔵野新田、そして砂川新田など、といった誠に思いがけない幸運と出会う一日となった。成り行き任せの散歩の妙、セレンディピティ(serendipity;別のものを探しているときに、偶然に素晴らしい幸運に巡り合ったり、素晴らしいものを発見したりすることのできる、その人の持つ才能。)を感じる一日ではあった。
本日ルート;JR国立駅>都道222号>光町1丁目交差点>稲荷神社>富士本2丁目交差点>戸倉通り>並木町・神明社>満福寺>戸倉神社>玉川上水>妙法寺>水源>用水>鳳林寺>高木神社>西町3丁目交差点>観音寺>けやき台小前交差点>五日市街道・けやき台団地北交差点>砂川九番>砂川七番・芋窪街道・多摩モノレール>砂川五番>砂川四番交番交差点>中央南北線北詰>阿豆佐味天神社
JR国立駅
国立駅南口に下りる。駅前から南には大通りと桜並木が続く。少し下ったところには一橋大学もある。如何にも学園都市の雰囲気であるが、その昔は一面の雑木林。雑木林が拡がる谷保村北部のこの地が開かれたのは大正時代末期。1926年(大正15年)、箱根土地開発(西武グループの前身といったところ)が学園都市を構想、国立駅も開く。1927年(昭和2年)には東京商科大学(一橋大学)が移転し、学園を中心にした宅地分譲が整備された。1951年(昭和26年)には国立町、1965年(昭和40年)、国立市となる。先日歩いた練馬の大泉学園もおなじく箱根土地開発が学園都市を構想したが、そこは大学の誘致が叶わず、学園(大学)のない駅名だけが残った。
駅を下り、とりあえず駅前の古本屋に立ち寄る。ビルの通路の壁に並ぶ郷土史関係の書籍が、割と自分の趣味に近く、折に触れ立ち寄っている。今回もシュライバー著『道の文化史』を手に入れる。
崖線
散歩に出発。最初の目的地である戸倉神社は駅の北東方向。線路に沿って少し国分寺方面に戻り、成り行きで中央線のガードを潜り線路の北(国立市北1丁目交差点)に出る。
歩きはじめると、右手が小高く盛り上がっている。道を北に進んだところに「はけ通り 樹林地」といった地名もある(「はけ」とは崖、と言った意味)。何だ、これは?戸倉新田と言うくらいであるとすれば、水の便の悪い台地上にあるのは少々不可思議?このあたりは台地となっているが、戸倉新田は台地を再び下ったところにあるのだろう、などと思いながら、とりあえずそれを確かめるべく成り行きで崖の階段を上る。
結構比高差のある崖線上にのぼり、あたりを見渡す。台地は東にも北にも下る気配は、なにも、ない。どうなっているのだろう、と少々混乱。先ほどの崖下まで戻り、崖の切れ目まで進み、崖下、と言うか台地下を東に進み戸倉新田へと進むコースを想い描く。成り行きで都道222号に進み、坂を下り元の崖下辺りまで引き返す。国立市北1丁目交差点から北に延びる道を進む。住所は国分寺市光町であり、国立市ではない。地図をチェックすると、国立市はほとんどが中央線より南。中央線の北は北町という地域がちょっと飛び出しているくらいであった。国立を歩くつもりが、国分寺散歩となってしまったようだ。
稲荷神社
崖線に沿って先に進む。比高差は次第に低くなってはくるが、それでも台地はなかなか切れない。光町2丁目交差点あたりまで進んでも台地が切れる雰囲気はない。その先の五叉路に稲荷神社。江戸の頃、平兵衛新田(ひょうべい)と呼ばれたこのあたりの守り神であった、と言う。鳥居の下には橋の欄干らしきもの。崖に沿って用水が流れていたのだろう。玉川上水からの分水(後には玉川上水からの分水である砂川分水)から別れた、中藤分水の末流に平兵衛分水がある、とのことであるので、その流路であろう、か。もっとも、こういった分水とか新田は散歩を終えてメモをするときになってわかった、こと。散歩の時は、この用水跡らしきものは何だ?といった問題意識があった、だけではあった。
稲荷神社のあたりは光町と呼ばれる。光町となった由来は、町内にある旧国鉄の鉄道総合技術研究所から。東海道新幹線の技術開発に大きな役割を果たしたこの研究所故に、新幹線「ひかり」を以て町名とした、とある。
戸倉通り
五叉路を崖線に沿ってもう少々進みたい、崖の切れ目を確認したい、とは思えども、さすがにそれでは目的地の戸倉からは離れすぎる。ということで、崖を上る坂道を北東に進む。市立第二小学校脇を過ぎると、少々奇妙な交差点。江戸の頃は四軒屋と呼ばれていた、とのこと。この辺りには農家が四軒しかなかった、ため。四軒しか、とはいうものの、府中の是政新田は草分け農家が二軒しかなかったわけで、それからすれば、四軒も、とも言える、かも。
交差点から東に進む道は「戸倉通り」とある。先に進むと「内藤橋街道」。西国分寺駅の内藤町からJR中央線を跨ぐ内藤橋を経て北西に上る。江戸の頃、中央線を挟んで南の内藤町、北の日吉町一帯は内藤新田が開かれた。
"> 交差点を先に進む。道を進めども、どちらを向いても台地面が拡がるだけで、台地を下る雰囲気はみじんも、ない。ひょっとして、台地が盛り上がっているのではなく、国立駅あたりが、そもそも一段低いのではないか、ひょっとして国立駅前から南が立川段丘面であり、現在歩いているところが武蔵野段丘面ではなかろうか、などと思い始める。武蔵野台地には、遙か昔、多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘があり、その低位面が立川段丘(面)、高位面が武蔵野段丘(面)、そして立川面と武蔵野面を区切る崖線が国分寺崖線である。ということはひょっとして、先ほどの崖線って国分寺崖線?少々頭が混乱しながらも、もう少々実際に歩いて結論を出してみよう、などと思い込む。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
満福寺
国分寺五中交差点を過ぎ満福寺の案内を目安に右に折れ、畑地の中を進む。満福寺の表の道路脇には寒念仏供養塔(「寒念仏」とは、もっとも寒さの厳しい小寒から節分までの一月に渡り、念仏を唱えながら巡回する修行のこと)、馬頭観音、地蔵菩薩を兼ねた道標が佇む。
満福寺は秋川筋、檜原村・吉祥寺の末。元は吉祥寺住職の隠居寺であったようだが、この地に戸倉新田を開いた檜原村の農民の願いに応え、檜原より引寺された。いつだったか檜原村の吉祥寺を訪れたことがある。寺の土蔵に「三ツ鱗」の紋。これって北条氏の家紋。創建は応安6年(1373年)、臨済宗建長寺派の古刹であった。寺の裏山に檜原城址、と言うか、狼煙台跡といった城址があった。
戸倉神社
満福寺の境内を抜け横にある戸倉神社に。今回の散歩のきっかけとなった神社ではある。この神社は将軍吉宗のもと、新田開発が盛んに行われた享保の頃、檜原村戸倉にある三島神社を勧請した。元は山王大権現とでも呼ばれていたのではあろうが、明治になって戸倉神社となった(「**神社」との名称は明治になってから)。戸倉神社の由来は崖の入口でも何でもなく、檜原村戸倉の農民が開いた戸倉新田から、であった。
檜原村の吉祥寺を訪れたとき、戸倉の三島神社辺りを彷徨ったことがある。戸倉にある光厳寺の裏山にある戸倉城に上ったのだが、頂上付近に岩場があり、結構怖い思いをしたことを思い出す。倉って、「切り立った岩」とは言い得て妙ではあった。戸倉とは、まさしく、切りたった岩場地帯への入口、であった。
散歩に出かけると神社仏閣を訪ねることが多い。とりたてて信仰心が深い訳でもないわけで、人に気兼ねすることなく休むことができ、かつまた、社寺の縁起や由来の案内があるわけで、事前のお勉強をすることなく、誠にお気軽に散歩を楽しむ我が身にとっては誠に重宝なるところではあるのだが、それはそれとして、神社仏閣がその地を開いた人々の心の拠り所、ってことが今ひとつ実感として感じることがなかった。古代、武蔵の国に移り住んだ出雲族が、故郷の簸川(ひかわ;現在の斐伊川)の氷川神社をその開拓の地に祀った、といっても、あまりに遠い昔のことであり、リアリティが感じられなかったのだが、この戸倉神社は江戸の頃、一度訪れたことのある檜原・戸倉の人々がこの地に新田を開き、故郷の寺や社、それも一度訪れたことのある社寺を引寺・勧請した、とあれば、ぐんと身近に、少々オーバーではあるが、「日常の風景」として感じられるようになった。
次は何処へと想いやる。最終目的地は砂川四番辺りの阿豆佐味神社ではあるのだけれど、ストレートに進むのも、何だかなあ、ということで、地図で辺りチェックする。北東方向に神明社。由来も何も知らないのだが、取り敢えず寄ってみよう、と。結果的にはこの成り行き任せのお気楽チョイスが五日市街道に出合い、用水に出合い、玉川上水に出合い、川崎平右衛門ゆかりの地に出合い、そして、そのときは、それぞれなんの繋がりもわからず、ひたすら歩いただけではあるのだが、後になってみると、玉川上水>用水=砂川分水>新田開発>川崎平右衛門、とすべてが予定調和の如くつながっていた。誠に以て、セレンディピティ(serendipity)と言うべけん、や。
五日市街道
戸倉通りを道なりに進み、戸倉四丁目で左に折れ先に進むと、車の往来の多い道に出る。五日市街道であった。五日市街道は、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭を江戸の町に運ぶため整備されたもの。また秋川筋・伊奈の石工が江戸城の普請に往来した街道でもある。武蔵野台地の新田開発は五日市街道に沿って進んだ、と言われる。言われたとしても、先ほどの神社仏閣ではないけれど、今ひとつ実感がなかったのだが、玉川上水、そしてその分水を目にし、五日市街道に沿った新田の地を実際に歩くことにより、結構リアリティをもって感じられるようになった。もっとも、それは歩いているときではなく、メモしはじめて、なんとなくわかってきたことである。宮本常一さんの「歩く 見る 聞く」ではないけれど、「歩く・見る・書く」を以て瞑すべし。 神明社五日市街道脇に神明社。境内に水路が通る。散歩の時は、この用水って何?と思っていたのではあるが、調べてみると、このあたりは野中新田と呼ばれたようで、玉川上水の小川橋の辺りで分水された野中新田用水とのことで、あった。
少し休憩しながら地図を見る。この社の少し北に玉川上水が流れている。そのときは分水との関係とか、新田との関係とか、何にもわからず、ついでのことであるといった程度で、玉川上水まで進む事にした。
玉川上水
成り行きで北に進む。前方に東西に続く林が見える。玉川上水の堤を彩る雑木林ではあろう。先に進み玉川上水・新小川橋に。玉川上水は、もとは江戸の町に上水を供給するため造られたもの。羽村から武蔵野台地の尾根道を43キロほど、四谷の大木戸まで開削した人工の水路である。元は上水用として開削されたが、灌漑用水として分水することにより武蔵野台地の新田開発に大きな役割を果たした。玉川上水に沿って少し西に向かう。玉川上水は羽村から四谷まで三回に分けて歩いたり、立川・小平監視所から野火止用水へと進んだり、西東京・境橋から千川上水へと別れたり、とあれこれ歩いている。ということで、今回は、ちょっと雰囲気を感じるだけでほんの少し西に向かい、東京創価小学校を越えたあたりで左に折れ、五日市街道へ戻ることに。
妙法寺
成り行きで、誠に成り行きで道なりに南に進む。と、五日市街道手前にお寺さま。何げなく境内に。お参りを済ませ、そのときは足早に寺を出たのだが、このメモをするときに、国分寺北町?妙法寺?たまたま古本屋で、誠に何気なく買い求め読み始めていた川崎平右衛門(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』)ゆかりの寺であった。境内には「川崎・伊奈両代官感謝塔」がある、と言う。享保年間、武蔵野新田開発に際し、農民を保護し、農営指導に尽力した川崎平右衛門、伊奈半左衛門の両代官に感謝して造立された宝篋印塔である。
川崎平右衛門は、もとは府中押立村の名主。農民を保護し、農営指導するその力量を評価され、享保年間、大岡越前とともに武蔵野の新田開発、というか立て直しに尽力した。
武蔵野の新田開発は享保年間以前、明暦の頃より始まった。武蔵野に82の開拓村ができた、と言う。とはいうものの、入植した1320余戸のうち生活できたのはわずかに35戸しかなかった、と言う。こういった村の状況を更に悪くしたのが元文3年(1738年)の大飢饉。村は壊滅的状況になった。
その窮状を立て直すべく大岡越前守に抜擢されたのが川崎平右衛門。時の代官上坂安左衛門(この人物も何となく魅力的)の助力のもと、農民救済に成果を示し、名字帯刀を許され、1743年(寛保3年)、大岡越前守の支配下関東三万石の支配勘定格の代官になった。また、不手際・職務怠慢ということで水元役を解かれた玉川兄弟に代わり、玉川上水の維持管理にも深く携わる。桜の名所とし有名な小金井堤の桜を植えたのも川崎平右衛門である。後には美濃や石見にも代官として派遣され仁政を行った(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』、より)。誠に魅力的な人物である。散歩の時は何もわからず訪れ、なにもわからず立ち去ったが、ともあれ、思わず知らずゆかりの寺に足を運んだわけで、これまたセレンディピティ(serendipity)と言える、だろう。
名代官と称された川崎平右衛門であるが、中野散歩の時、新田開発とは全く関係のないコンテキストで現れたことがある。中野長者・鈴木九郎ゆかりの寺、中野・成願寺を訪れたとき、そのすぐ脇の朝日が丘公園(中野区本町2-32)に象小屋跡の案内があった。亨保の頃、タイより象が長崎に到着。街道を歩き、京都で天皇の天覧を拝した後、江戸に下り将軍・幕閣にお目見え。その後13年ほどは幕府が飼育するも、維持費が大変、ということで払い下げ。希望者の中から選ばれたのが川崎平右衛門。縁故者の百姓源助が象を見せ物とし、大いに賑わった、とか。
また川崎平右衛門は象の糞尿にて丸薬をつくり、疱瘡の妙薬として売り出した。幕府の宣伝もあり、大いに商売は繁盛し、観覧料や丸薬の売り上げで上がった利益で府中・大国魂神社の随神門の造営妃費として寄進された、と(『代官川崎平右衛門の事績;渡辺紀彦(自費出版)』より)。ちなみに、川崎平右衛門とともに祀られていた伊奈半左衛門。この人物も武蔵野を散歩するときに折に触れて現れる。関東郡代として、武蔵野の河川改修などに手腕を振るう。その魅力に惹かれ、馬喰町の関東郡代屋敷跡や川口・赤山の赤山陣屋跡を訪ねたことを思い出す。
野中分水
五日市街道を南に渡る。街道脇の鳳林寺の手前に用水路。そもそも、この用水を見て、これって何だろう?玉川上水からの分水だろうか、などと思い始めたのが、今回の散歩で用水と新田の関係をあれこれ調べだしたきっかけ。この用水は野中新田分水の一流。玉川上水から小川橋で分かれた野中新田分水は南東に下り、五日市街道と合わさる手前で二流に分かれ、五日市街道の南北を街道に平行に進む。先ほど神明社で見た用水は、街道の北を進む分水。そしてこの用水は街道の北を進む分水であった。
鳳林寺
用水を眺め、あれこれと妄想を逞しくした後、すぐそばの鳳林寺に。道脇の馬頭観音とか庚申塔。馬頭観音は道標も兼ねており「是より八王子・ふちう道」、と。割と構えの大きなお寺さま。庫裡、書院、鐘楼、そして毘沙門堂なども並ぶ。木造だろうと思うが、本堂は趣がある。このお寺様は野中新田開発のきっかけ、となったお寺様でもある。上谷保(現在の国立市谷保)の矢沢某が出家し(異説もあるようだが)、小平に円成院を建てる。大堅和尚である。で、その大堅和尚が仲間を募り新田開発を願い出る。順調に事が運べば、矢沢新田となったはずではあるが、新田開発の冥加金、というか権利金が払えず江戸の穀物商野中六左衛門に援助を受け新田を開発。名前が野中新田と相成った所以である。
では何故に、川崎平右衛門の謝恩塔がこのお寺ではなく通りの向こうの妙法寺にあるのだろう?チェックすると、野中新田は大きく三組に分かれていた。で、名主間で少々の諍いがあり寺を分け、道を隔てたところに妙法寺を建てた、とか。宗派も鳳林寺は黄檗宗。妙法寺は曹洞宗である。
高木八幡神社
鳳林院から南に下り、新町3丁目交差点右折、西へと進む。若葉町2丁目、高木交差点を越え、けやき台団地交差点に。高木神社はその脇にある。誠にあっさりした社。昔は鬱蒼とした森があったように思える佇まいではあるが、現在はきれいさっぱり切り取られている。このあたりは東大和市高木地区の農民がこの地に移り新田開発をおこなったところ。高木八幡神社は明治になってからの名称であろうが、昔の名前はよくわからない。開発新田は高木新田とも、野中新田の三組のひとつである鳳林寺の属する野中新田六左衛門組の一部ではあった、とも。境内入口脇に子育地蔵の祠。厳しい開拓生活の中、我が子の健やかな成長を祈ったものだろう。
八小入口南交差点
高木神社を離れ西に進む。予想では、ほどなく崖線にあたるだろう、と。ゆるやかに坂を下り八小入口南交差点に。このあたりが崖線下。交差点を崖線に沿って北に進むか、南に少し下り崖線をもう少々見ようか、なとど思い悩む。と、南に崖線に沿ったあたりに観音寺。何となく名前に惹かれ、崖線見物を楽しみながら進むことに。これまた、ちょっとしたセレンディピティ(serendipity)となるのだが、それは後の話。
観音寺
崖線に沿って南に下る。左手の崖面は豊かな農家の敷地が多い。ほどなく観音寺の森。境内手前に神明社。このあたりにあった中藤新田の鎮守さま。お参りをすませ横の観音寺に。現在は神社とお寺に別れてはいるが、明治の神仏分離令までは神仏習合、一体のものではあったのだろう。
観音寺の構えは立派。この寺は北条氏照の居城である滝山城の鬼門を護る寺として武蔵村山の中藤に創建されたものではあるが、新田開発に伴いこの地に移った。朱の山門は八王子城にあったものを移した、と伝わる。北条氏照は甲州筋からの武田の攻撃への備えのため、滝山城から八王子城にその主力移したわけであるから、理にはかなっている。
この寺も川崎平右衛門ゆかりの地であった。妙法寺と同じく川崎平右衛門の謝恩塔が残る。観音寺が中藤村からこの地・中藤新田移転に尽力した、と。
日暮れも近く、足早に寺を離れ、これも先ほどの妙法寺と同じく実物を目にすることはできなかった。実物を見ることはできなかったが、それにしても成り行きで歩き、結果、この地に進んだわけで、これまた、セレンディピティ(serendipity)と言うべけん、や。
国分寺崖線
観音寺を離れ、崖線下を八小入口南交差点まで戻る。さらに北に、五日市街道へと向かう。この道筋にはその昔、中藤分水が通っていた、と。古地図でチェックすると小川橋の少し上流で分水され南へと下る水路がある。また、この水路は後には砂川分水から別れるようになった、とも。それはともあれ、進むにつれて崖との比高差は低くなってくる。けやき台小学校脇を抜け、五日市街道の一筋手前に出るあたりまでは、かすかに比高差が感じられるが、道路道に出たあたりでは差はほとんどなくなった。
国分寺崖線は太古、多摩川が武蔵野台地を浸食してできた浸食崖。上流は武蔵村山市の残堀あたり、とか、緑が丘あたりで始まり、西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅付近を通り、国分寺市内西町5丁目、光町1丁目 、西元町及び東元町1丁目と南町の境へと続き、さらに南に野川の東岸に沿って大田区丸子橋付近まで伸びている。全長30キロほど。立川など上部ではほとんど比高差がなくなっているが、国分寺市内西町5丁目では高さ約5m、光町1丁目では高さ約11m 、西元町では高さ約12m及び東元町1丁目と南町の境では高さ約16mと結構な比高差がある。
カシミール3Dて地形図をつくってみた、国分寺から上野毛あたりまでは弧を描いてくっきりと比高差が現れているが、国分寺から上は、ほとんど境がわからない。この崖線が国分寺崖線と喚ばれるのは、比高差が国分寺あたりではっきりするため、であろう、か。
崖線は「はけ;ハケ」とも呼ばれる。ハケに沿っていくつもの湧水がある。国分寺駅近辺のお鷹の井、小金井の貫井神社の湧水、野川公園に湧水、世田谷大蔵の湧水など、国分寺崖線に沿って歩いた2005年の事をちょっと思い出す。
阿豆佐味神社
北に進み五日市街道・砂川九番交差点に。日没が近い。日暮れまでに阿豆佐味神社に着けるかどうか、少々心許ない。西に沈む太陽と競争するように、砂川八番を越え、砂川七番で多摩モノレールを見やり、ひたすら先に進む。街道に沿って屋敷林が目立つ。ゆっくりみたいとは思えども、そんな余裕はまるで、なし。後々でわかったことではあるのだが、江戸の頃の新田開発は、この五日市街道に沿って進められた。玉川上水の水を松中橋で分水し、天王橋で五日市街道沿いに流し、その水を灌漑用水として開発していった、と言う。その名残の屋敷林ではあろう。夕日の中に薄ぼんやりと樹林が浮かぶ。
跳ぶがごとく砂川四番を越え、阿豆佐味神社に。あたりは真っ暗。神社も閉まっていた。お寺が閉まることはよくあることではあるが、神社はあまりないのでちょっと油断。残念ながら暗闇向かってシャッターを押す、のみ。
これまた、あとでわかったことではあるのだが、阿豆佐味神社って、元は狭山丘陵の麓の村山郷(瑞穂町殿ヶ谷)にあったもの、その地の農民が砂川の地を開くに際し勧請された。砂川村の開発はこの阿豆佐味神社のある砂川四番あたりからはじまった。開発の当初は玉川上水が通って居らず、箱根ヶ崎から流れる残堀川の水を拠り所としたため、その旧路と五日市街道が交差する砂川四番あたりから村が始まった、と言う。
阿豆佐味神社は時間切れ、また、急ぐ余り街道沿いの雰囲気をゆっくり楽しむ余裕もなかった。次回は、砂川の阿豆佐味神社の本家でもある瑞穂町・殿ヶ谷の阿豆佐味神社からはじめ、残堀川を下り、砂川村まで、武蔵野新田開発・砂川新田への道を辿る、べし。ということで、本日の散歩を終了。砂川四番バス停よりバスに乗り立川駅に戻り、家路を急ぐ。
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