土曜日, 1月 22, 2011

武蔵野新田散歩そのⅡ;箱根ヶ崎から残堀川を砂川新田に

残堀川散歩;先日、何も考えず国立駅から始めた散歩で、思わず知らず、国分寺の台地に開かれた新田や分水を辿り、これまた思わず知らず立川の砂川新田まで進んだ。結果的は日没時間切れのため、五日市街道に沿って開かれた砂川新田散歩が中途で終わってしまった。砂川新田の守り神である阿豆佐味神社は、境内に入ることもできなかった。
今回は砂川新田を辿ろう、と思う。砂川新田の開拓は狭山丘陵の麓にある村山郷岸村(現在の武蔵村山市岸)の人々によってなされた。阿豆佐味神社も本家本元は岸の隣(現在の瑞穂町殿ヶ谷)にある、という。また、砂川新田開発の水は玉川上水・砂川分水ができる前は瑞穂町箱根ヶ崎を源流点とする残堀川に拠っていた、とのことである。これはもう、箱根ヶ崎からはじめ、殿ヶ谷、岸をかすめながら残堀川を下り砂川新田へと進むべし、と。江戸の頃、砂川新田が開発されていったプロセスを想いながらの時空散歩を楽しむ。



本日のルート:八高線・箱根ヶ崎>青梅街道>円福寺>狭山池>吉野岳地蔵堂>福正寺>須賀神社>阿豆佐味神社>堀川橋>伊奈平橋>日産自動車村山工場跡地>西武拝島線>玉川上水と交差>西武拝島線武蔵砂川駅>見影橋>天王橋>砂川新田>流泉寺>阿豆佐味神社

八高線・箱根ヶ崎
JR青梅線の拝島駅で八高線に乗り換え箱根ヶ崎駅に。東口に下り、残堀川の水源である狭山池に向かう。駅前には国道16号東京環状が走る。箱根ヶ崎は東京環状の他、国道16号線、青梅街道、新青梅街道、岩蔵街道(成木街道)、羽村街道と多くの道筋が交差する交通の要衝である。昔も、鎌倉街道、旧日光街道、青梅街道などが通り、9軒の宿からなる箱根ケ崎宿があった、と言う。狭山神社、須賀神社といった神社も多く、また円福寺といった堂々としたお寺様も残る。旧日光街道は、八王子から日光勤番に出かける八王子千人同心が往還した道筋。青梅街道は江戸城の漆喰塀に必要な青梅・成木村の石灰を江戸に運んだ道である。
箱根ケ崎という地名は、源義家が奥州征伐のとき、この地で箱根権現の夢を見、この地に箱根(筥根)大神を勧請したことに由来する。箱根(筥根)大神は現在の狭山神社である、と伝わる。また、瑞穂市教育委員会編「瑞穂の地名」によれば、この地の地形が箱根に似ており、また箱根より先(都より遠くはなれた)であるので、「はこねがさき」となったとの説もある。地名の由来は例によって諸説、定まること、なし。カシミールでつくった地形図を見るにつけ、地形はいかにも「箱」の姿を呈している。

青梅街道
東京環状を北に向かう。箱根ヶ崎辺りでは国道16号・東京環状は瑞穂バイパスとなり、駅の西側を迂回する。駅前を通る東京環状は都道166号・瑞穂あきるの八王子線となっている。先に進み青梅街道との箱根ヶ崎交差点の手前にささやかなる社。杉山稲荷神社とある。川崎市近辺にはその地区ローカルな杉山神社がある。まさか、その流れではないだろけれど、とチェック。杉山某さん由来の神社ではあった。

円福寺
箱根ヶ崎交差点を少し下った街道脇に円福寺がある。いつだったか狭山湖周遊の折、六道山から箱根ヶ崎に下った時、一度訪れたことがある。いい構えのお寺さまであり、今回もなんらかの発見があるものかと、再び訪れる。仁王門をくぐり大きな本堂にお参り。臨済宗建長寺派のお寺様であった。
この円福寺は幕末の動乱時、振武隊の一時駐屯地となった。振武隊は彰義隊からわかれた幕府軍の一派。上野を離れた後、隊長の渋沢成一郎に率いられ、田無をへてこの地に来たる。軍資金集めなど少々不可解な行動をとりながら、三日ほど円福寺に滞在。上野の戦い勃発の報に接し、この地をはなれて上野に赴いた。進軍途中、上野での彰義隊敗走の報を受け転進。田無を経て、飯能へ下り、その地での飯能戦争で壊滅する。

狭山池
成り行きで東京環状に戻り、残堀川を跨ぐ橋脇から川筋に下りる。護岸工事が施された川筋を少し進み狭山池に。池の畔に一九世紀中頃の馬頭観音や常夜塔。常夜灯はもとは、残堀川と日光街道が交わるあたりに建てられたものをこの地に移した。
狭山池は残堀川の水源となる池である。鎌倉時代に「冬深み 筥の池辺を朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」と歌われているように、昔は「筥の池」と呼ばれていた。箱根ヶ崎の地名の由来にもあるように、この地が古くから伊豆の箱根(筥 根)となんらかの関係があったのか、それとも、狭山池一帯の「箱形」の地形故のネーミングであろうか。
狭山ヶ池の案内板に「この辺一帯は、古多摩川が流れていた頃、深くえぐられ窪地となった所である。大雨が降ると、周辺の水が集まり、丸池を中心とした約18ヘクタールは水びたしになり、粘土質のため、水はけが悪く耕作できず、芝池になっていた」、とある。カシミール3Dで地形図を書いてみると、誠にそのとおり。狭山台地が青梅丘陵にその?(やじり)の尖端を差し込んだような形状となり、周囲が囲まれている。丘陵から流れ込む水のはけ口としては往古、狭山丘陵の北を流れる不老川(としとらず)に流れていた、とも言われる。江戸の頃になると、狭山丘陵からの流れを集める残堀川に堀割で通し、狭山池に溜まる水の捌け口としたようである。またそれは玉川上水の養水として機能したとのことでもある。
残堀川の名前はこの狭山ヶ池の伝説に由来する。その昔、この池に棲んでいた大蛇を蛇喰次右衛門が退治。その際に大量の血が流れ「じゃぼり」>「ざんぼり」に。また大雨の度に流路定まることなく、蛇の如くうねった、が故に「じゃぼり」となった、とも。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)

残堀川
残堀川を下る。現在の流路は狭山池からはじめ、武蔵村山市西部、立川市北西部、昭島市東部、立川市南西部を経て、日野橋上流で多摩川へと合流する、流域面積34.77km2、流路延長12.7km の一級河川。瑞穂町内で狭山谷川・夕日台川・峰田川・滝田川の4河川、武蔵村山市内で横丁川、立川市内で3用水(昭和用水・昭和用水支流・立川堀分水支流)が合流する。
もともと残堀川は、狭山谷川、夕日台川といった狭山丘陵の水を集めて東南に下り砂川三番の御影橋付近に至り、曙町を経て矢川につながり、国立の青柳から谷保を抜けて府中用水に流れ込んでいたといわれる。江戸時代の承応3 (1654)年、玉川上水が開通した際、愛宕松付近(現在の伊奈平橋付近)で川筋を南に曲げ、現在の天王橋(五日市街道との交差部)付近で玉川上水につなぎ代えた。同時に掘割を通して狭山池の水を残堀川に繋ぎ玉川上水の助水として利用した。明治に入ると残堀川の水が汚れてきたため、明治26(1893)年から明治41(1908)年にかけて、玉川上水の下に交差させ、立川の富士見町へ至る工事が施された。富士見町から立川段丘の崖を落ちた水は段丘沿いに流れる根川に合流していた、とのことである。昭和に入ると、生活排水の流入を避けるため、昭和38(1963)年、水量が安定している玉川上水を下に通すことになった。
残堀川の流路は、青梅付近を頂点として東に緩く傾斜する武蔵野段丘の南側、武蔵野段丘より一段低い立川段丘面を立川断層に沿って流れる、と言う。立川段丘の上層は立川ローム層(関東ローム層)で覆われ、その下には透水性の大きい立川礫層が存在しているため、台地上は一般に地下水位が低く乏水性台地となっている。残堀川の源泉である狭山池の湧水も立川断層と小手指断層の交叉部分であることに因る、と言う(「多摩川水流実態解明キャラバン 残堀川(多摩川流域協議会)」より)。

吉野岳地蔵堂
残堀川に沿って下る。次の目的地は阿豆佐味神社。砂川新田を開発した村山郷岸村の鎮守様。しばし川筋を進み、途中で青梅街道にそれて社に辿ろう、と。東京環状を越え、先ほど訪れた円福寺の裏手を進む。進行方向左手の狭山丘陵の緑を見やり、狭山丘陵を周遊し、六道山辺りを彷徨ったことを思い出す。山麓の須賀神が記憶に残る。
道を進み青梅街道との交差点に吉野岳地蔵堂。江戸時代、この地・石畑村の名主であった吉岡某が子供の病気平癒を願って建立した。小堂ながら正確な唐様模様を残し、殿ヶ谷・福正寺観音堂と同様の仏寺建築、とのことである。地図を見ると青梅街道を少し進んだ丘陵に福正寺がある。また、その脇には須賀神社もある。先回訪れた須賀の社ではないようでもある。ついでのことではあるので、阿豆佐味神社に直行しないで、ちょっと寄り道。

福正寺
青梅街道・石畑地区を進む。細流を越えた後、成り行きで丘陵方面に向かい福正寺に。結構な構えのお寺さま。総門を入り新築の山門をくぐり本堂前に。本堂の左手の石段を上ると観音堂。品のいいお堂であった。その少し上には興福寺の五重塔を模したと言う、ミニスケールの五重塔があった。
境内から瑞穂の町を眺める。昭和15年(1940年)、箱根ヶ崎村、石畑村、殿ヶ谷村、長岡村が合わさり瑞穂町となる。瑞穂の由来は、瑞々しい稲穂の実る地、との説、また、低地で水が溜まりやすく「水保」と呼ばれていたのだ、その由来との説も。相変わらず地名の由来は諸説定まること、なし
このお寺様、武蔵七党のひとつ村山党の本拠地と言われている。桓武平氏の後裔・平頼任が村山郷(入間川流域)に住み村山氏を名乗ったが村山党のはじまり。主な一族に、金子丘陵を拠点とする金子氏、現在の川越あたりに勢を張った仙波市、狭山の山口氏などがいるが、この地の村山党は金子氏の流れと伝わる。戦国期、寺の境内あたりに村山土佐守が城を構えた、とある。本堂のあたりが腰曲輪、その上に本郭があった、と伝わる。村山土佐守は後北条、滝山城主の北条氏照に仕えていた。また、先ほど訪れた円福寺あたりに村山氏の館があった、との説もあるようだ。円福寺と言えば、幕末の振武隊の円福寺駐屯の折、部隊との交渉を引き受けた名主の村山氏は、村山党の後裔とのことである。

須賀神社
福正禅寺前の坂を下り、道なりに須賀神社へ向かう。ほどなく崖下に小さな公園。玉林寺公園とある。奥に玉林寺遺址とあった。室町の頃、このあたりの殿ヶ谷に創建された臨済宗建長寺派のお寺さま。殿ヶ谷の人々が砂川の地に移り、殿ヶ谷新田を開発したとき、お寺も移したようだ。そういえば、先日夕闇の中、砂川四番あたりの阿豆佐味神社に向かう途中、玉林寺があった。公園前には須賀神社の道案内が出てはいるのだが、いまひとつわかりにくい。公園の辺りを少し行き来し、公園脇の小径を丘陵へと上る。気持ちのいい樹林の中を早喜に進むと道脇に鳥居。鳥居を潜り参道を進み須賀神社に。
誠にあっさりとした社が佇む。先日この近くの六道山を彷徨ったときにも須賀神社があった。この社を下った阿豆佐味神社の先にも須賀神社がある。須賀神社はスサノオを祭神として祀る。神仏習合において、スサノオ=祇園精舎の守護神である牛頭天王、とみなされ、スサノオを祀る神社はその昔、(牛頭)天王さまと呼ばれたことが多い。この地域には天王祭りがあるとのことであり、ここの須賀神社も明治の神仏分離令以前は、天王の社とでも呼ばれていたのだろう。
天王様って、その多くは人の集まるところ、市場神として祭られる、ってことをどこかで聞いたことがある。人が集まるところでの疱瘡除けの御利益の神として祭られたようではある。この地、交通の要衝として多くの人の往来があるところ故の神様であったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。ちなみに、「**神社」という名称は明治以降の呼び名である。

阿豆佐味天神社
丘陵を下り道なりに阿豆佐味神社に。立川の砂川新田でたまたま出合い、その本家本元への想いより、今回の散歩のフックとなった社。なにも知らず訪れたのだが、誠に古い歴史を持つ社であった。社伝によると、寛平4年(892年)、桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜る。武家平氏の始祖)の創建とされる。平安時代の中頃,延長5年(西暦927年)に完成した『延喜式』において多摩地区八座のひとつとされる政府公認の社である。
アヅサミという名称の起源は不明。古代には梓の木で作った弓〔梓弓〕を鳴らし神意を占ったことを起源とする説、楸繁茂していたことを起源とする説などがある。また、「阿豆」は「甘い」の意であり、「佐」は味の接頭語、「味」は弥で水の意味、とし、狭山丘陵から流れる湧水を祀ったことを起源とする説もある。水に恵まれていないこの地のことを知るにつけ、結構納得感がある。神社の名前も元は阿豆佐弥と呼ばれていた、とも。実際、この社では水を崇めている、とのことである。神社の祭神は少彦名命、スサノオ命、大己貴命となっているが、それは時代とともに、出雲族の武蔵進出に伴い部族神である少彦名命・スサノオ命・大己貴命などを祭ったり、大和朝廷の勢力拡大に伴い天ッ神=天神様をまつったりと、あれこれポリテックスを織り込み変化を遂げていったのだろう。
鎌倉期には武州村山郷の鎮守として武蔵七党・村山党の篤い信仰を受ける。その後この地の支配者は関東管領・扇谷上杉氏、滝山城主・大石氏、大石氏に替わった北条氏照、そして江戸時代の代官・江川太郎左右衛門と替わるも、この社は変わることなく篤く敬われる。そして、この地の民が砂川新田を開くときも、地元民の心の支えとしてこの地より勧請し砂川に社を建てた、ということである。

堀川橋
長い参道を進み青梅街道・阿豆佐味天神社前交差点に出る。ここからは残堀川筋に戻って一路砂川新田へ下ることにする。先に進み新青梅街道を越え、橋を三つほどやり過ごすし堀川橋に。この橋に通じる道は東西に一直線に走る。この道は野山北公園自転車道。道の下には東京都水道局の羽村線という玉川と多摩湖・狭山湖を結ぶ水道管が埋められている。地形図には東京水道とある。元々は多摩湖・狭山湖を建設するときにつくられた軽便鉄道の跡地である。

伊奈平橋
先に進み新残堀橋に。橋の上が広場風に造られている。いささか趣きの乏しい都市型河川に沿って進んできた川筋も、左手前方にイオンモールの姿を認め伊奈平橋近づくにつれ、桜などが植えられ緑道っぽい感じになってくる。
伊奈平橋の名前の由来は、橋の西にある伊奈平地区から、だろう。また、その地区名は秋川筋の伊奈宿へと続く「伊奈海道」が通っていたことに由来する。現在は伊奈平と秋川筋の伊奈の間は横田基地によって分断されているが、往古、この道は五日市街道の原型ともなった道。
秋川の伊奈、といえば石工で名高い。江戸城普請の際には、伊奈の石工が江戸との間を頻繁に往来したことだろう。また、秋川筋・伊奈の石工の本家本元は信州伊那谷高遠付近。石切職人(石工)として名高い伊那の衆が秋川・伊奈の伊那石に目を付け、移住し故郷の地名を村の名とした、との説がある。

日産自動車村山工場跡地
伊奈平橋を越えると川筋はまっすぐ南下する。源頭部から伊奈平橋まで自然なカーブで南東へと下っていた流れからすれば、いかにも不自然。また、川筋は南東へと走る立川断層に沿って下るとも言うし、その点からも不自然。上でメモしたように、もともとの川筋はこの伊奈良平橋から南東に下っていた、とのことである。
その流路を変えた理由は残堀川の水を玉川上水に落とすため。旧路では玉川上水の河床より残堀川の河床が低くなる。ために、流路を標高の高いところに付け替えた、ということである。塀に沿って一路南下する。塀の向こうには日産自動車の工場があった、とか。20年近くスカイラインGT-R(32タイプ)に乗っていたのだが、昨年タクシーにぶつけられ廃車処分となってしまった。グーグルアースに今でも自宅前に残るR32GT-Rを見るにつけ、少々の感慨がよぎる。それはともあれ、このあたりになると残堀川の水はほとんど見えなくなってきた。河床に潜っているのだろう、時々浸み出すように、川床に水気が僅かに顔をのぞかせている。

西武拝島線
日産村山工場の塀に沿って進んだ川筋が、東に向かって弧を描き再び南下するあたり、川筋から少し離れたところに橋跡らしきものが残る。これって何だろう?道を少し東に進むと水路がある。先ほど見た橋の流路とは異なるが、日産村山工場敷地跡から、弧を描いて残堀川に進んでいるようだ。
川筋に戻って先に進むと、残堀川が西武拝島線に交差する手前、公園脇から水路が残堀川に合流する。先ほど見た工場跡からの流路であろう。この水路って、単なる工場からの水を逃がすためのものだろうか、それとも、残堀川の流路変遷の一過程のものだろう、か。玉川上水に水を流すため流路を変えた残堀川は、玉川上水・天王橋のあたりに流れた、と言う。現在の残堀川の流路は天王橋の数百メートル東で玉川上水と交差する。これは明治の頃、水が汚れてきたため残堀川を玉川上水の下に通すために再び付け替えられた川筋であろうから、江戸の頃の流路は現在より少し西に向かう必要がある。工場からの水路の方向は、如何にも天王橋方面へと向かっている。江戸の頃の流路の名残なのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

玉川上水と交差
西武線を越えるとほどなく残堀川は玉川上水と交差する。明治の頃は残堀川が玉川上水の下を通ったが、現在は逆に玉川上水が下を通る。もう何年前になるだろう、玉川上水を羽村の取水口から四谷大木戸まで辿ったことがある。その途中、この地で玉川が残堀川の下を潜るのを見て少々感激した。感激した、とはいっても、単に川が別の川の下を潜る、ってことに単純に驚いただけのことではあるが、その背景には、明治や昭和の頃の残堀川を取り巻く環境が大きく影響していた。明治には、残堀川の汚れのため玉川上水から切り離し、上水の下を潜る。昭和になると、残堀川の溢れ水による上水の汚れを防ぐため、逆に上を通す、といった歴史があった。物事にはすべて、それなりの理由がある、ということだろう。

西武拝島線武蔵砂川駅
今回の砂川新田散歩、どうせのことならと、箱根ヶ崎から下った散歩も、やっと砂川新田あたりに辿り付いた。さて、いまから砂川新田を、とは思えども、その前に玉川上水の見影橋あたりに下っていた、という残堀川の旧路をちょっと見ておこう、と。
玉川上水に沿って東に進む。南に立派な屋敷林が見える。砂川新田を開いた有力農家の屋敷林ではあろう。そこには後で辿る、ということで先に進む。成り行き北に折れて西武拝島線武蔵砂川駅に。駅のガードを潜り、駅北に抜け、西武線に沿って道なりに少し東に進む。西武線を潜る車道に続く道が如何にも水路跡といった雰囲気。後になってわかったのだが、その道を少し北に進んだ畑のあたりに残堀川旧路を示す案内があったようだ。

見影橋
如何にも水路跡といった道を、西武線を抜けて玉川上水に向かう。橋は見影橋。橋の脇に案内;見影橋は江戸の頃からあった。上流から四番目であったので、四の橋、とも。四番目というのは、砂川村内を流れる上水の上流から数えて、ということだろう。また、名主の屋敷が近くにあったので「旦那橋」とも。玉川上水の水見回り役も兼ねていた砂川家のために架けられた橋、とも言われる。また、その昔には、明治の頃の名主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」もあった、とか。砂川家専用の分水である。
玉川上水が開削される前は、ここを流れていた残堀川の旧路の水をもとに、砂川新田が五日市街道に沿って開かれていった。道を南に進むと砂川三番あたりである。玉川上水からの砂川分水ができる前の砂川新田は、名主村野家(後の砂川家)を中心にしてその砂川三番、四番あたりから開発されていった、とか。ちなみに、見影橋の少し東で玉川上水が崖地を迂回する。このあたりは立川断層であり、上水は幅300メートル、比高差5メートルほどの断層を迂回して進んでいるようである。

天王橋
旧水路跡を確認し、玉川上水を西に折り返し、砂川分水の分岐点である天王橋へと向かう。現在、砂川分水はもうひとつ西の松中橋のあたりにある、という。そこから玉川上水に沿って進み、この天王橋のあたりで玉川上水を離れ五日市街道に沿って下った、と。どうせのことなら、分水口まで足を延ばしたい、とは思えども、玉川上水散歩で一度訪れたこともあるし、なにより日暮れも近い。ということで、天王橋から五日市街道に沿って下ることにする。




砂川新田
砂川新田は五日市街道に沿って開かれた。開発の時期は三期に別れる、と。最初は慶長14年(1609)~寛永3年(1626)。村山郷「岸(きし)」(現在の武蔵村山市)に住む三右衛門(村野、後に砂川)が新田の開発を幕府に願い出る。ただ、この時期は計画段階といったものであった、よう。
その次が寛永4年(1627)~明暦2年(1656)の頃。この頃にはぼちぼち開発が始まった、とはいうものの、未だ玉川上水も通っておらず、つまりは砂川分水もなく、水の確保が十分でない。開発がはじまった、といった段階だろう。新田開発に必要な水は、残堀川の水量を頼りにするしかないわけで、開発は現在の砂川三番とか四番あたり、からはじまった。そのあたりに村野家(砂川家)があるのも、その根拠のひとつではある。
そして第三段階、承応元年(1652年)玉川上水が通り、明暦3年(1657)には、玉川上水から砂川分水が許可され、砂川新田の開発が本格的に動き始める。明暦3年(1657)~元禄2年(1689)の事と言われる。
かくして開発が進んだ砂川新田は元文元年(1736年)には砂川村となる。きっかけは亨保7年(1722)、日本橋に立った新田開発の高札。八代将軍吉宗による新田開発奨励策を受け、砂川新田の一番から八番まで開発を終えていた砂川の人々が、その東、砂川九番、十番あたりに開発の手を延ばす。これら新しい新田を「砂川新田」、その東を「砂川前新田」などと呼ぶようになったため、それと区別できるように従来の新田を「砂川村」としたようである。砂川三番、四番を中心に村の母体ができて百年後のことであった。先回の散歩で出遭った川崎平右衛門が活躍したものこの頃だろう。

流泉寺
五日市街道に沿って進む。残堀川を越え先に進むと、天王橋から別れ、暗渠となっている砂川分水が砂川九小交差点の先で開渠となる。立派な屋敷林をもつ農家の中を進んでいる。ほどなく、これはまことに豪壮な農家というかお屋敷が現れる。砂川新田の開発に尽くした村野家、後の砂川家のお屋敷である。
お屋敷の道路を隔てた南に流泉寺。開発農民の心の支えとして、砂川新田開拓民の菩提寺となる。「砂川開発の節、名主、惣百姓相談仕り候おもむきは、所々方々の者共当村へまかり出で居り申しそうらえば、其の村々寺々へ付け届き難儀にござ候ゆえ、菩提寺一ヵ寺にしたきよし」、とは流泉寺から奉行へ提出された菩提寺開基を願う書面である。

阿豆佐味神社
砂川三番交差点を越え、砂川四番交番前交差点手前、先日、日没閉門のためお参りできなかった阿豆佐味神社にお参り。瑞穂の阿豆佐味神社を勧請したのは前述の通りである、頃は新年。年明けの参賀の人々で賑わっていた。お参りをすませ、先回と同じく砂川四番のバス停から立川に戻り、一路家路へ急ぐ。




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