月曜日, 1月 10, 2011

白子川散歩;大泉学園から湧水を辿り新河岸川との合流点に

いつだったか和光の白子の宿を歩いた。散歩随筆の達人、岩本素白さんの「独り行く(二)白子の宿」の書き出し、「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或いは旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全く無くなってしまったのである」といったフレーズの断片を思い起こしながら、あちこちと彷徨った。白子川に出合ったのはそのときである。
白子川は練馬区大泉学園の南西、大泉井頭公園をその源流点に、練馬区そして和光市・板橋区の境を進み、板橋区三園で新河岸川に合流する。全長10キロ、武蔵野台地の湧水を集めて流れる白子川は昭和30年代までは豊かな田園風景の中を流れる清流であった。大泉の地名も白子川を流れる湧水の、その豊かさ故に名付けられたものである。その清流・白子川も昭和30年代の後半から40年代かけ大きくその姿を変える。高度成長に伴い、急速に工場の拡大・宅地開発が進むも下水道設備がその速度に追いつかず、川は工場排水、生活排水で汚染。昭和50年から58年にかけては都内で水質ワースト一位といったあまりうれしくない「タグ」付けされたりしている。現在は下水処理も完備し、地域住民の白子川の環境をよくする運動なども盛んに行われている、と聞く。清流復活の姿を感じてみたいと思う。また、川沿いの湧水も辿りたい。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになる。で、新座郡の中で、現在の成増の辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となる。志未は志楽の草書体からきたもの、とか。 「白子」も「しらぎ」が変化した地名と云われている。古い歴史をもつ一帯である。川沿いに幾多の遺跡も残る、とのこと。古本屋で見つけた『練馬区の歴史;練馬郷土史研究会(名著出版)』を手元に、白子川流域を辿り自然と歴史を楽しむことにする。



本日のルート;大泉学園駅>妙延寺>北野神社>白子川>井頭池>妙福寺>諏訪神社>四面塔>大乗院>本照寺>中島橋>旧大泉村役場>善行院>法性院>学園橋>外山橋>教学院>氷川神社>びくに公園>八の釜湧水>」比丘尼橋下流調整池>関越・外環・目白通り>清水憩いの森公園>稲荷山憩いの森>中里幼稚園の湧水>越後山憩いの森緑地>笹目通り>白子の宿>新河岸川合流点

西武池袋線・大泉学園駅
池袋より西武池袋線に乗り、大泉学園駅で下車。駅前は再開発され大きなショッピングセンターなどが並ぶ。北口に下りると、住所は東大泉となっている。駅の名前の大泉学園町は駅のはるか北、関越道を越え都立大泉公園や陸上自衛隊朝霞駐屯地近くにある。小学校や中学校はあるものの、取り立てて「学園」と銘打つほどのものではない。それにはそれなりの理由があるようだ。 1924年(大正13年)、箱根土地会社(後のコクド。現在はプリンスホテルと合併)は、関東大震災後の郊外宅地へのニーズに応えるべく、当時の東京府北豊島郡大泉村の地に学園都市の開発を始める。大学の誘致し学園都市をつくる、というのが基本構想。開発地は大泉学園の最北端。駅から一直線の道を通し、両側を桜並木とし、宅地を坪10円で売り出した。駅(東大泉駅)も建設し、当時の武蔵野鉄道に寄贈した。
大泉学園町という地名が誕生したのは昭和7年(1932)板橋区成立のときである。駅名も東大泉駅から大泉学園駅に改められた。かくして、一大学園都市を構想した大泉学園町ではあるが、大学誘致は不首尾に終わる。また、折からの不況の影響も受け宅地販売も不調。開発途中で投げ出された土地は遊休地として残った。それではもったいないと、企画したのが一坪農園。昭和9年(1934年)頃、「学園用地跡」を都民に売り出した。それが都民農園である。学園ならぬ農園となったわけである。現在都民農園はバス停にその名残を残すだけであり、その跡地は都立大泉公園となっている。大泉学園には大学が無く、都民公園近くに都民農園というバス停が残るのは、こういった経緯を踏まえてのことである。ちなみに、現在このあたりは板板橋区ではなく練馬区になっている。練馬区ができたのは1947年(昭和22年。板橋区の一部を分離して発足した。

妙延寺
駅前でiPhoneを開き、近辺の神社・仏閣などをチェック。駅を少し北に上った通りに妙延寺がある。山門など全体にモダンな構え。本堂もインド風(?)。正確には和風重層唐破風造りとのことである。案内によると、「開基は永禄11年(1568)の日蓮宗のお寺さま。本堂前には樹齢400年を経た大銀杏。幕末から私塾(寺子屋)が開かれており、明治7年(1874)には区内最初の私立明倫学校となる。同9年からは公立豊西小学校に昇格。現在の区立大泉小学校の前身、と。寺の門前を東西に通る道路は清戸道。昔から大泉や石神井の人々が農産物を江戸へ運ぶ重要な路であった」、と。
永禄11年と言えば結構古いと思うのだが、それでも大泉近辺の日蓮宗の寺院の中では最も新しいもの、と言う。新しい開基ではあるが、このお寺様は上土支田村の鎮守様の別当寺としてこの辺り一帯の信仰を集めていた、よう。『新編武蔵風土記』に、「三十番神社(現北野神社)、村ノ鎮守ナリ。妙延寺ノ持。」との記載がある。
また、明治初年頃の「妙延寺境内図」によると、寺は、スギ、ケヤキ、ヒノキなどの樹木に覆われていた、よう。現在その面影はなく、本堂前の大銀杏が唯一の名残、かと。

清戸道
お寺の前を東西に走る道は、清戸道とある。文京区関口の江戸川橋を起点に、武蔵国多摩郡清戸村(現在の清瀬市清戸)を結ぶ道。清戸村にあった尾張藩の鷹場への道、とも言われるが、近郊の野菜を江戸に運ぶ道として使われた。距離が20キロ強、といったものであり、夜明けに村を発ち、大江戸に野菜を運び、その日の内に村に帰るのに丁度いい距離であった、とか。帰り道には江戸野町の下肥を引き取って村に運ぶため、尾籠な話で恐縮ではあるが、別名「汚穢(おわい)道」とも呼ばれた。
道筋は、江戸川橋から椿山荘へと上り、目白通りの道筋を進む。山手通りを越えた先、中落合郵便局あたりで右に別れ、目白通りに平行に進み中野通りに交差するところで千川通りに入る。西武池袋線と平行に千川通りを進み、環七通りを越え西武池袋線・練馬駅の先の豊玉北6丁目交差点で再び目白通りに合流。
西武線を越え、中杉通りとの合流の少し手前で右にわかれ、向山を北西に登り石神井川を渡った先で再び目白通りと合流。笹目通りを越え、谷原小交差点先で目白通りから左に分岐、都道24号線を大泉学園駅北の妙延寺前に。妙延寺から先は都道24号線に沿って北に進み四面塔稲荷交差点に。そこから先の道筋は今ひとつよくわかっていない。が、直進する道筋も、大きく迂回する道筋も、どうしたところで、清瀬は指呼の間、である。

北野神社
都道24号線を西に進む。大泉学園町に向かって北に延びる大泉学園通りと交差したその先に北野神社がある。現在は菅原道真を祭神とするが、江戸の頃は番神様として地元の信仰を集めていた。明治になり神仏分離の令により、三十番神を妙福寺に返上。ために、祭神不在となり、さて如何にしたものかと思案の末、菅原道真を祭神に勧請し北野天神となった、とか。
三十番神とは神仏習合の30柱の神々。日替わりで現れ国家・国民を守るとされる。元々は最澄が比叡山に祀ったのが始まりであるが、中世以降は特に日蓮宗で重要視された。京に日蓮宗をひろめるべく比叡の神々を取り入れた、とのことである。1日目の熱田大明神(本地仏;大日如来)からはじまり30日目の吉備大明神(虚空蔵菩薩)に至るまで、全国の神々大集合と言った案配である。

井頭のヤナギ
北野神社横を北に向かう都道24号線と別れ、都道233号線を西に進む。ほどなく白子川に架かる泉橋に。川の両側はフェンスで囲まれ、これといった趣は、ない。左に折れて源頭部へと進みたい、とは思えども橋の南は西武池袋線が走り、道はない。都道233号線を少し西に進み踏み切りを渡り、成り行きで川筋へと戻る。
川筋に沿って緑橋、松殿橋、火之橋と進む。火之橋を越えると公園の中を通る。水草も多い。ほどなく暗渠。その先に井頭橋。井頭橋を越えると「井頭のヤナギ(二株)」の案内。川の両岸に立つ。マルバヤナギは低地の川岸や池沼岸、放棄水田などの多湿地に多く成育する。

大泉井頭公園
公園脇の白子川は湧水池の趣を呈している。河床や護岸から湧き出るのか、豊かな水に水草が茂る。池には木橋を渡し、その上で子供達が遊んでいる。公園付近には昔、井頭池と呼ばれる湧水地があった、とか。東大泉7丁目38番地あたりには縄文中期の集落址があり、集落址のほか祭祀址などの遺構・遺物も出土している。井頭池豊かな湧水を中心に日々を過ごしていたのだろう。
白子川の源流点というか源頭部は井頭池とされる。井頭池が大きな水源であったことはまちがいない。が、実際はその上流部にも水路があったようだ。白子川源頭部はコンクリート蓋水路で遮られているが、それは生活排水で汚れた上流部の水を池に落とさないようにしたもの、と言う。下水道の整備により、生活排水の迂回は不要となったため、現在は大雨時の雨水排水口のみが残っている、とのことである。

新川
コンクリート蓋水路の先に橋。七福橋とある。橋の上流を興に任せ成り行きで進む。いかにも川跡といった趣きの道を旧早稲田通りあたりまで進み、軽く得心して井頭公園にに戻る。跡からチェックするとこの川筋は新川とも呼ばれる白子川の上流部であった。源頭部は東大農場あたりであり、田無市の東から保谷市、というか今では西東京市となっている一帯を経て、この地に続く。

妙福寺
大泉井頭公園に戻り、来た道筋を白子川に沿って都道233号線に架かる泉橋まで戻る。泉橋の少し北西に妙福寺がある。境内に足を踏み入れると、誠に「結構」な構え。案内によると、西の中山と呼ばれるほどの日蓮宗の名刹であった。案内をメモ;元は大覚寺と称する天台の寺。開基は嘉祥3年(850)と伝わる。その後、鎌倉時代の元亨2年(1322)、日祐上人により法種山妙福寺として日蓮宗となり、以来この地での日蓮宗の中心となり、「西の中山」とも称される(中山とは千葉・中山の法華経寺)。現在の山号も「西中山」となっている。天正年間(1573-92)より寺領21石5斗を与えられ、3代将軍徳川家光から14代家茂に至る9通の朱印状(写)も残る。
寺域には祖師堂、本堂、仁王門、鬼子母神堂、鐘楼などがあり、庫裏の玄関に残る「からかさ造り」と呼ばれる小屋組は元禄14年(1701)の上棟と伝えられる貴重なもの」、と。「からかさ造り」とは、芯柱を中心に、唐傘を広げたような形で屋根の支えが組まれている。吹き抜けのため暖をとるのに難儀したようだ。
鬼子母神は日蓮宗によく見られる。江戸の三代鬼子母神と呼ばれる雑司ヶ谷・法明寺も入谷・真源院も、そして千葉中山・法華経寺も日蓮宗のお寺さまであった。それと、仁王門の左には三十番神堂があった。先ほど訪れた北野神社から移したものである。

さて次はどこに行こう、と思案する。付近に見どころなどないものかとiPhoneのマップをチェック。妙福寺を北に進んだところに四面塔稲荷前という地名がある。四面塔題目碑って碑があるようだ。また、道の途中に諏訪神社とか、ちょっと東に入ったところに本照寺というお寺さまもある。神社仏閣はそれとして、この道筋は清戸道。先ほど訪れた妙延寺を西に進み、北野神社手前を北に上り、白子川を越えたところで西に折れる。そうして本照寺の前を通り、その先の小泉橋交差点で北に折れ、諏訪神社前を進み四面塔交差点へと進むことになる。

本照寺
ということで、妙福寺前の道を北に進み小泉橋交差点に。少し東に折れ商店街の間にある道を少し北に入ると本照寺の山門。本堂の前には幾多の水子地蔵が佇む。案内をメモ;本山は身延山久遠寺(旧中山法華経寺)で、昔から中山法華経寺の隠居寺であった。とはいうものの、現住職の境野姓は、田安家城代家老境野某より出ている、と。江戸末期から昭和初期にかけて武士の転籍が多く、この寺もその一例であるとのこと。開基は、天正10年(1582)と伝わる。本堂は小榑村(現在の大泉学園町・西大泉・南大泉)の役場として使われたこともあった、とか。

諏訪神社
小泉橋交差点に戻り北に進み諏訪神社に。広い境内に樹木が茂る。往古、大樹に蔽われた鎮守の森であった名残を伝える。この神社も北野神社と同じく、もとは「三十番神」であったが、明治の神仏分離令で三十番神を返上する際に、三十番神のひとつ、2日目に登場する諏訪大明神を勧請し祭神とした、と。境内には稲荷社とともに三十番神社も祀られていた。それにしても、この大泉の地で三十番神さまに幾度も出会った。三十番神さま、と言えば日蓮宗、ってことは刷り込まれたように思う。

四面塔稲荷
諏訪神社から少し北に進むと四面塔稲荷交差点。脇に堤稲荷神社がある。その昔、この境内に四面塔題目碑があったため、四面塔稲荷とも呼ばれる。四面塔とはお題目を刻した石塔。境内に四面塔の実物を見ることはできなかったが、池袋駅の東口にあった四面塔は正面がお題目、左右は道標として道案内が刻まれていた。題目とは日蓮宗・法華宗の勤行に使われる「南無妙法蓮華経」のフレーズ。なお四面塔は大泉西小学校北側、瀧島家の墓地内に安置されている、とか。また、堤稲荷と呼ばれるのは、昔はこの辺は小榑(こぐれ)村の小名である「堤村」と呼ばれていた、から。

大乗院
さて、次はどちらに。マップを見ると四面塔交差点を南西に下ったところに大乗院がある。関宿藩主・久世大和守の祈願所と言う。ちょっと遠回りとなるが、寄ってみることにする。道なり・成り行きで進む。道脇に芝生が多い。どこかでこのあたりの西大泉の農産物は芝生、大根、キャベツ等との記事を読んだことがある。芝生栽培の「畑」などだろう。
成り行きで進み大乗院に。開基は永徳2年(1382)というから結構古い。小じんまりとはしているが、開創以来600年の古刹。慶長年間(16世紀末から17世紀初頭)に関宿藩主・久世大和守の祈願所となった、と言う。本堂、庫裡は明治に焼失し後に建てられたものだが、山門は宝暦8年(1758)の姿を残す。帝釈堂には柴又帝釈天題経寺の帝釈天の御分身である帝釈天王像が祀られており、庚申の日には信者の人びとによって帝釈天例祭が行なわれている、と言う。
久世大和の祈願所となった経緯はよくわからない。よくわからないが、想像はできる。久世大和が生まれたのは東久留米の南沢と言う。父親が家康の勘気を被り、東久留米の前沢に蟄居していたわけだ。東久留米には南沢の氷川神社などに寄進者として久世大和の名前が残る。大乗院が祈願所となったのは、かくのごとき「地縁」故であろう、か。単なる妄想。根拠なし。

大泉堀との合流点
大乗院を離れ、道なりに小泉橋交差点に戻る。そこからは成り行きで白子川に戻る。相変わらず周囲をフェンスで囲まれた、少々趣きに欠ける風景。水は澄み、水草が揺れる。泉橋の先には宮本橋、日の出橋、一新橋と続く。一新橋の先に開口部が現れる。白子川の支流である大泉堀(だいぜんぼり)の合流点。西武線ひばりヶ丘辺りを上流端とし、西東京市をほぼ西から東に進み、白子川と繋ぐ。「下保谷窪地のシマッポ」(シマッポとは窪地の底にある小川のこと) などとも呼ばれたようだが、現在はすべて暗渠となっている。

中島橋
人道橋である「みやの橋」を越え中島橋に。駅前方面からの人や車の往来が結構ある。この道筋は清戸道でもあり、橋を渡ったT字路を少し東に寄ったところに旧大泉村役場があったくらいだから、往古このあたりが地域の中心地であったのだろう。
T字路の東を左に折れ少し北にいったところに善行院と法性院。ともにこの地に多い加藤氏とつながりがある。善行寺の開基に加藤氏の名前があり、また法性院は加藤氏の氏寺、とか。大泉には元々大きな地主が五つあり、加藤はその筆頭とも。四面塔を安置する瀧島家もそのひとつ、と。旧石器、縄文期の遺跡である大泉中島遺跡もこのあたり、とか。

都営東大泉アパート
東西橋、前田橋、大泉学園橋と進む。北豊島橋のあたりの右手には都営東大泉アパートが並ぶ。御園橋、月見橋と都営アパートは続く。都営アパートに囲まれたところに、東大泉弁天池公園がある。その昔湧水池であった弁天池と白子川によって作られた低湿地からは縄文時代の遺物が出土している。縄文時代後期、中世・近世の複合遺跡、と言う。また、平成9年から10年にかけての都営アパートの建て替え工事のとき調査された外山遺跡からは、石器時代の黒曜石や縄文時代の遺構が見つかった、とか。

東映大泉撮影所
外山橋を越えると洒落た風情のマンションが川脇に建つ。プラウドシティ大泉学園と呼ぶようだ。400戸以上もあるという大型レジデンスの裏手には東映大泉撮影所がある。このレジデンスは撮影所の敷地を使ったものだろう。撮影所といえば、その昔、学園都市として売り出すのに、軽佻浮薄なる撮影所があるとは何事ぞ、と大泉学園の駅に学園エリアと区分けした出口を、設置したとか、しない、とか。
外山橋の下にある排水口は弁天池(昔は久保の池と呼ばれたようだ)からの流路。昔は湧水からなる白子川の一支流。現在は地下から汲み上げられた水を白子川に流す。

北大泉氷川神社
外山橋からちょっと寄り道。目白通り・放射七号線の北に北大泉氷川神社に向かう。なにがどう、ということはないのだが、氷川とか熊野といった社にはとりあえず歩を進めることにしている。成り行きで進み氷川神社に。この社は、土地の旧家・荘一族がこの地に入ったとき、一族の番神として鬼門に祀った、とも言われる。「新編武蔵風土記稿」橋戸村の項に「氷川社 村民庄忠右衛門ガ宅地ノ内ニアル小祠。祭神は在五中将ナリ。其家ニテハ。中将東国下向ノ時。庄春日江古田ト云3人ノモノ慕ヒ来リテ。此地ニ祭リシト相伝レドモ。信ズベカラズ」、とある。縁起には少々疑問符が付けられてはいるが、この庄、とは荘氏のことだろう。社はこの地・橋戸村の村社として住民の信仰を集めた。境内には伊賀組奉納の御手洗が残るmとか。

橋戸村・小榑(こぐれ)村・上支田村
橋戸村とか小榑(こぐれ)村、そして散歩の最初に訪れた妙延寺あたりは上支田村。大泉一帯の昔の地名を練馬区のホームページを参考にちょっと整理しておく。
上支田村は現在の東大泉、そして三原台、大泉町の一部。大雑把に言って白子川の南の地域である。その昔は豊島郡に属する。明治初年上支田村、明治22年の町村制施行のとき、石神井村と合併し石神井村となる。上支田の名前の由来は土器をつくる「土師」からとか諸説あるが、いまひとつしっくりこないのでパス。
小榑(こぐれ)村は現在の大泉学園、西大泉、南大泉。白子川の北。その昔は新座郡に属する。江戸の頃は幕府直轄領であったが、元禄16年(1703年)、武州久喜藩主米津(よねづ)氏の領地となり幕末まで続く。地名の由来は諸説ある。練馬区のHPによれば以下の通り;「榑(くれ)とは山出しの木材や薪(まき)のこと。地名はそうした作業を行った所と解する説が有力である。一方、クレは呉に通じ、帰化人に関係あるとする説もある。天平宝字2年(758年)新羅(しらぎ)の帰化僧らを武蔵国に移し新羅郡を置いた(続日本紀)。新羅郡はのちに新座郡となった。座はザともクラとも読み、今も隣接して新座市があり、和光市に新倉(にいくら)の地名がある。これに対して小榑は「ふるい(古)クレ」か、という。
橋戸村は現在の大泉町一帯。江戸の頃、幕府直轄の小榑村とは異なり私領である伊賀組の給地。氷川神社に伊賀正組奉納の御手洗が残るのはそのため、とか。地名に由来は白子川の地形から。「端の瀬戸」が転化した、と。
明治22年の町村制の施行のとき、小榑と橋戸村が合併し埼玉県榑橋村(くれはしむら)となる。同24年には東京府に編入。このときに元の土支田村(石神井村)も合併する。きっかけは小学校運営のコスト負担軽減。上支田村の妙延寺と、その隣り合わせの榑橋村の本照寺に小学校があり、村費に占める割合が大きいため、ひとつにしてコストカットを計った、とか。結果、埼玉県榑橋村が東京府に編入し、大泉村が成立した。三村が合わさって新しい村をつくるとき、名前をどうするか、あれこれ案があった、よう。はじめは湧水の「泉」に三村の中で一番大きい「小榑村」を足し、「小泉」との案があったようだが、小泉=コイズミ>オイズミ、ということで、大泉となった、とか(練馬区HPより)

教学院
帰りの道すがら教学院に。日蓮宗の多いこの地にあって真言宗の寺院であった。案内によると、正平9年(1354)、児玉郡本荘城主・荘弘泰、広朝親子が武蔵野合戦の後、橋戸村に土着し、この寺を菩提寺にした、とある。武蔵野合戦とは14世紀の中頃、足利尊氏ら北朝方と新田義興らの南朝方の軍勢が武蔵・相模を舞台に相争った一連の合戦のことである。

比丘尼橋上流調整池
川筋に戻り東映橋、水道橋、三ッ橋と進み「びくに公園」に。地表はテニスコートや運動公園として使われているが、公園は調整池となっており、本河川が増水すれば公園内に流れ込む。比丘尼橋上流調整池と呼ばれる。
白子川は神田川、渋谷川・古河、石神井川、目黒川、呑川、野川とともに洪水重点対策地域として指定されている。昭和55年に1時間30mm対応の河川として整備されたが、洪水重点対策の施策として1時間に50mmの降雨に対処することとなった。とはいうものの、下流部分の河道拡張が長期間を要するため、この地に調整池を設け洪水の一部を貯めることにした。この比丘尼橋上流調整池、関越と目白通りの間に地下調整池、そして関越の北には比丘尼橋下流調整池が計画され上・下調整池は完成し、地下調整池は現在工事中とのこと。
ちなみに東京の洪水は現在下町地域ではあまり発生していない。従前よりその対策を講じ、被害が誠に少なくなっている。上でメモした洪水重点地域からもわかるように、中野や杉並、そしてこの白子川のように武蔵野台地を開析する河川流域が洪水多発地帯となっている。下町低地=洪水、といった図式は既に無くなっているようである。

八の釜湧水
びくに公園に沿って進み、目白通り・放射7号線の下前で右に折れ崖線に沿って進む。八の釜憩いの森とも呼ばれる緑の崖下には豊かな湧水。かつて、この辺りは「橋戸村字谷(や、やつ)」と呼ばれていたようで、湧水を意味する「釜」と合わさり「谷(や)の釜」と呼ばれていたものが、いつしか「八(や)の釜」と。釜から流れ出す水は放射7号線に沿って大泉氷川橋下で白子川に落ちている。その昔は放射7号を潜り先に進んでいたが、外環道路建設に伴い流路を変えた、とか。

関越・外環・目白通り
目白通りを越え関越道と東京外環道路とが合わさる辺りを進む。一度川筋を離れ、目白通りを少し東に戻り外環に沿って進み、関越道の下を潜り精進場稲荷神社のあたりに進む。精進場稲荷神社の由来ははっきりしないが、先ほどの八つ釜の湧水は富士や御嶽への参拝に向かう人たちが水垢離した精進の場であったというから、そのこととなにか関係があるのか、とも。
坂道を成り行き出下り、川筋に戻る。この辺り一帯では、関越や外環道工事の時にいくつもの遺跡が見つかっている。この関越と外環が交差するあたりには比丘尼遺跡、外環道路を北に進んだ一帯にもいくつもの遺跡が見つかっている。どれも石器から近世までの複合遺跡、とか。
関越道と外環に囲まれたところの比丘尼橋、関越道をくぐった直後の新橋戸橋を超えると川の両側に大泉橋戸公園。川の西側の公園のところに比丘尼橋下流調整池がある、柵を越えた水が施設の地下に入っていく。その先にある弥生橋右岸の先は行き止まり。左岸に移り進むと向下橋。右岸の「あかまつ緑地」をかすめて全薬橋に。全薬工業がある。工場内の池からの支流がある、とか。

清水憩いの森公園
その先は行き止まり。右岸に移り万年橋に。その先の中里橋を越えると中里泉公園。泉という名前に惹かれて階段を上り、公園脇の泉を確認し元に戻る。次の橋は別荘橋。別段、分限者の別荘があった、というわけではなく、橋戸村の荘さんと区別するため。別の荘さん、と言うことだ。別荘橋に下る坂は別荘坂。ここは引又道の道筋。土支田で生産した産物を志木の引又に送られ、引又からは新河岸川の船便で江戸に運ばれた。
別荘橋を越えると清水憩いの森公園。不動橋手前の入り口から公園に入る。湧水の水をためた池で子供が遊ぶ。泥濘に足をとられ泥まみれ。誠に楽しそう。公園内を細流に沿って湧水点まで進み、北斜面の雑木林の崖下より浸み出す湧水をしばし眺める。東京の名湧水57選のひとつ、とか。

稲荷山憩いの森
下中里橋を越えると稲荷山憩いの森。入り口が今ひとつわからず結局八坂中学あたりまで進み、八坂小学校との間を進み、坂を上る。坂の途中に土支田八幡宮。その昔は、天神社・明治になり北野神社。土支田八幡宮となったのは昭和10年以降だ、とか。
成り行き出稲荷山憩いの森へと進む。あれこれと彷徨ったのだが、森の中にある、と言う湧水池を見つけることができなかった。近くには縄文時代の住居址である稲荷山遺跡もあったようだ。





中里幼稚園の湧水
八坂小学校あたりの川筋に戻り先に進む。川向こうの護岸から勢いのいい水が川に注がれている。その向こうには崖線がある。ひょっとして湧水、かとも思い、八坂歩道橋を渡り崖下に。誠に豊かな水量である。残念ながら水辺は工事中。崖上からアプローチしようと池に沿って坂を上る。崖上からなんとか池まで行けないかとあらこれ道を探すが、進むことはできなかった。この湧水は中里幼稚園の湧水と呼ばれるようだ。幼稚園は坂を上がりきったところにあり、幼稚園のプールも湧水で供給されている。

越後山憩いの森緑地
崖上の道をちょっと進む。緑の雑木林は越後山憩いの森緑地と呼ばれる。弥生時代を中心にした複合遺跡がある、と言う。しばし彷徨い、中里幼稚園まで戻り、坂を下り再び川筋へ。先に進むと越後橋。このあたりは練馬区と和光市の境。越後橋を越えると舗装から一転砂利道に。一時的ではあるが「深い自然」の一帯となる。


笹目通り
芝屋橋を越えると笹目通り。オリンピック道路とも呼ばれるこの道には向山橋が架かる。笹目通りを越え、八雲神社あたりを見やりながら小源治橋に。趣のある石橋。橋からは黒格子の旧家や白壁土蔵の眺めが落ち着いて美しい。橋の名前の由来は橋を造った人の名前。天保2年(1831年)、白子牛房(ごぼう)の富沢小源治が板橋では覚束ないと石橋として整備したから。先に進み、子安橋に。川の対岸には出世稲荷や妙安寺、そしてそこには白子道が通るとのことではあるが、そろそろ日暮れが心配になってきた。先を急ぎ川越街道に。

白子の宿
川越街道は江戸の頃、日本橋を起点に中山道を進み、板橋宿の平尾追分で別れ川越を結ぶ街道である。いつだったか白子の宿から川越街道を平林寺まで歩いたことが懐かしい。それはともあれ、川越街道を通す新東埼橋を見やり、川越街道を渡り、旧川越街道に架かる東埼橋に。橋の名は東京と埼玉を足して二で割った名前である。ここから先は川に沿って道がるのだが、ルートは東京都と埼玉県を行き来することになる。都県境が昔の白子川の川筋であるから、新しく付け替えられた川筋は都県を交互にすすんでいるのだろう。地域の境界を川とするのは散歩の折々で出会う。
東埼橋のあたり一帯は昔の白子の宿である。いつだったかこの辺りを彷徨い、川越街道と旧川越街道に挟まれた「大阪ふれあいの森」や熊野神社の湧水を巡ったことを思い出す。白子川と出会ったのも、金子みすずと出会ったのも、そして散歩エッセーの達人として知られる岩本素白と出会ったのもこの地である。白子の宿も再び、というか三度歩きたいとは思えども、誠に以て日暮れが近い。先を急ぐ。



新河岸川との合流点
東埼橋の先には白子橋。橋脇に清水かつら記念碑があった。童謡「靴が鳴る」の作詞家である。その先にが東部東上線の高架橋。その先に寺前橋。寺前橋あたりからは、典型的な都市河川となる。城口橋、大成橋、成和橋、水木橋、藤木橋と跳ぶがごとく駆け抜ける。白藤橋を越え都営成増団地を見やり、成増橋に。東に向かえば吹上観音。溝下橋を越え、三園橋に。ここでふたたび笹目通りと交差。橋を少しすすんだところに三園浄水場。荒川の秋ヶ瀬取水堰で取水された水は朝霞水路に導かれ、三園浄水場に。ここで浄水された水は、玉川浄水場からの処理水とブレンドされ、練馬給水所、板橋給水所に送られ配水される。浄水場の先に落合橋。白子川はこの先で新河岸川に合流する。日暮れ寸前。滑り込みで間に合った。後は見知った白子の町を成り行きで成増駅に戻り、本日の散歩を終える。

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