先日清瀬を彷徨ったとき、滝の城跡に出合った。柳瀬川の段丘崖上に縄張りをしたこの城は柳瀬川を前面に配し、天然の要害であった、とする。それはそれで納得できるが、柳瀬川と逆側は台地が広がり、それほど険阻な地形とは思えない。北の台地方面から攻め込めば、それほど侵攻が困難とは思えなかった。唯一北方からの進出を阻む可能性があるとすれば、所沢の台地を開く東川(あずまかわ)の、その谷筋が険しく、北からの進出を阻んでいたのであろうか、などと妄想したわけだが、どうせのことならその東川の開析の程度などを実際に目で見ようと思った。
本日のルート;西武池袋線・西所沢>東川>弘法祠堂>国道463号>東川地下河川流入立坑>新光寺>所沢神明社>峰の坂>実蔵院>江戸道・小金井街道>明治天皇行在所>有楽町>薬王寺>曽根の坂>西武線・所沢駅>所沢陸橋>牛沼市民の森>長栄寺>柳瀬民俗資料館>城地区>滝の城>JR武蔵野線新座駅
西武池袋線・西所沢
電車を乗り継ぎ西所沢に。西武球場前へと向かう西武狭山線が分岐する。この西所沢駅は設立当初、小手指駅と呼ばれていた。この辺りはその昔、小手指村の東端であったことによる。その後、小手指村が所沢と合併し、現在の小手指駅ができるにおよび、西所沢と駅名を変えた。この駅は映画『失楽園』のロケや缶コーヒー「WANDA」のCM撮影に使われている、とのことである。通常使用しないホームがあるのが撮影に便利というのが、その理由とか。
所沢台地の地下水の本水は地表面から20mから30mのあたりではあったわけだが、東川や柳瀬川沿いの低地には地表面から5~10m程度掘り進めれば水が湧いて出るところが点在していたようである。宙水とか中水(ちゅうみず)と呼ばれるようであるが、この弘法大師の井戸もこういった宙水のことを指しているのだろう、か。それはともあれ、宙水を利用した井戸とともに集落を形成していった所沢の町も、人口が増えるにつれ宙水だけでは賄いきれなくなり、本水も利用するようになる。宙水か本水を利用したものか詳細は不明だが、所沢には明治初期に30弱、大正には150ほどの井戸があった、とのことである。ともあれ、昭和12年に所沢に水道ができるまでは、所沢では水の苦労が続いたのであろう。
国道463号国道463号に架かる弘法橋に進む。国道463号は埼玉県越谷から埼玉南部を横断し、埼玉の入間に進む国道である。この国道を「行政道路」呼ぶ。なんのことだろうとチェックすると、日米安全保障条約に基づき締結された日米行政協定(1952年;昭和27年)と関係がある、と。埼玉に点在する米軍基地間の便宜のために建設されたものだろう。行政道路は行政協定に由来する名称、かと。
新光寺地下河川流入立坑を越えると、民家に挟まれ心持ち水路は狭くなる。鉄製の人道橋はなかなか風情がある。ふたつほど続く古い人道橋に思わずシャッターを切る。成り行きで先に進むみ新光寺に。
ちなみに、この新光寺は馬の観音様としても知られる。鎌倉街道の往還や、江戸道(所沢道)が交差する交通の要衝であるこの地は馬の継ぎ場でもあろうし、それ故に馬の健康や行路の安全を祈ったものではあろう。交通といえば、境内には航空殉難供養塔がある。昭和2年、飛行訓練中に所沢飛行場を目前に新光寺に墜落した練習機の乗員である畑大尉、伊藤中尉を供養するためのものである。
所沢神明社は江戸の頃は所沢総鎮守として大いに栄えたとのことではある。が、文政9年(1826年)の火災ですべて焼失し、詳細は不詳である。現在の社殿は昭和9年に造営された。境内には巨大なケヤキが目をひく。特に県道6号よりに参道をくぐった左側にあるケヤキは誠に印象に残るご神木である。
この神社は「飛行機の神社」としても知られる。明治44年、日本初の飛行場が所沢に建設され、徳川好敏陸軍大尉の操縦する仏製・アンリファルマン機の初飛行の無事を祈願したことによる、と。境内には明治17年に建てられた、所沢の「(と)講」という富士講祈念碑もある。富士塚は築かれてなかったが、神社の小高い斜面それ自体を富士と見立てた、とも伝わる。
緩やかな勾配の坂を上る。往昔、東川の谷筋から見上げると、峰のように急な斜面の坂であり、馬方や手車引き、牛車など「荷」を運ぶ人達にとって難所であった、とか。この道筋は所沢との商い高も大きい川越へと続く道筋でもあり、昭和初期(4年とか7年とかの記録がある)に道路改修工事を行い斜面を削り、現在のような緩やかな勾配になった。 ところで、所沢の地名が歴史上最初に現れるのは鎌倉時代の嘉元3年(1305年)。「小杉本淡路古文書」に「久米郷所澤」とある。先日、柳瀬川を歩いたとき長久寺脇から一直線に所沢の新光寺向かう道が鎌倉街道とメモしたが、鎌倉街道と東川の流れの交差するあたりに集落が形成されていったのであろう。
往昔、新光寺や所沢神明社のあるあたりを河原宿と呼ばれたようであるが、この河原町(現在の宮本町)や、東側の南の本宿(現在の金山町)が所沢の最初の集落とされる。弘法大師の三ッ井戸の伝説、頼朝や新田義貞の新光寺にまつわる伝説など、このあたりが古くからの集落であったことを示す伝説も多い。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
伝説だけでなく、文書にも残る。文明18年(1486年)、聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅんこう)が東国巡幸の途次、この地(野老澤;河原宿)を訪れ、観音院(新光寺だろう)の修験者と席を共にし、「野遊のさかなに山のいもそえて ほりもとめたる野老澤かな」と詠った記述が『廻国雑記』にある。道興准后さんには散歩の折々に出合う。山伏の総元締めとして組織強化のための東国巡幸ではあろうが、旅先での武蔵野の情景描写に往昔の武蔵野を想う。
江戸時代の「武蔵野話(斎藤鶴磯)」の中にも、新光寺が描かれる。「此寺(新光寺)の東南の道を本宿といふ。元野老澤村の民家は此所に在しと。今は江戸道の方へ皆居住する事になりぬ。」とある。江戸の頃は、鎌倉街道から江戸道へと往来の主流は移っていったのではあろうが、ともあれ、所沢の始まりの地は、この河原宿(宮本町)のあたりではあったようである。
参道では所沢伝統の三八市が現在でも開かれている、と。市の成立した時期は定かではない。寛永16年(1639年)には市神さまの繁栄を祈る祭分が残るので、その頃には既に市が立っていたのであろう。三と八のつく日に開催される市では日用品だけでなく、所沢名産の所沢飛白(かすり)の商いが盛んに行われた。
江戸の末期には、江戸道に沿った集落では、穀商、肥料商、織物商、荒物、糸、油、薬種、鉄物、魚、瀬戸物、青物、煙草を扱う多くの商人が商いに励んだと言う。なかでも、多摩郡村山地方から所沢地方伝わったと言われる絣(かすり)木綿は前述の三八市を通じて取引され、明治期には所沢飛白として全国に知られるようになった、とのことである。
明治天皇行在所江戸道、というか銀座通りを東に進む。この通りは往昔、蔵造りの商家も多かった、とのことではあるが、現在では道の両側に屹立する高層マンションが目に付く。道脇に明治天皇の御在所跡の案内。明治16年(1883年)、近衛兵の演習天覧のため飯能に行幸し、その際の行在所とされた地元有力者の家の跡、とのこと。現在はすこし寂しき趣となっていた。
有楽町銀座通りの雰囲気を感じ、再び東川筋へと戻る。川に沿って周囲を彷徨う。町の風情は住宅街というよりは、飲食街といった印象。チェックすると、戦前、所沢は陸軍飛行学校を中心とした軍都であり、戦後は駐留軍の基地であり、基地の軍人のための歓楽街であった、とか。現在は有楽町(ゆうらくちょう)と呼ばれるが、その昔は裏町>浦町と呼ばれたよう。うら>有楽>ゆうらく、と転化していったのだろう、か。
このお寺様は新田義宗終焉の地、とされる。小手指ヶ原の合戦で足利尊氏に敗れた新田義宗は、僧の姿に身を隠し再起を図る。が、その願い叶わず、持仏の薬師如来を本尊として遁世した、と伝わる。江戸の頃は、尾張徳川家の藩主鷹狩りの折の休憩所ともなった。幕末動乱期には、旧幕府脱走兵などからなる仁義隊が薬王寺に駐屯し、軍資金をあつめをおこなった、と。幕末に飯能戦争などをおこなった旧幕臣の振武軍は散歩の折々で出合うのだが、仁義隊ってはじめて聞く名前である。そのうちに調べてみようと思う。
曽根の坂薬王寺を離れ、曽根の坂に向かう。東川の低地からゆるやかな坂をのぼり尾根筋に、往昔、石ころだらけの坂ではあったようで、「石ころだらけの痩せた土地」を「そね」と呼ぶことから坂の名前が付けられた、とのことである。尾根筋の国道463号を東に進めば所沢交通公園、戦前の陸軍航空学校の飛行場跡地ではあるが、いつだったか一度訪れたこともあるので、今回はパス。坂を再び下り、銀座通りファルマン交差点に。名前の由来は明治44年、所沢飛行場で試験飛行をおこなったフランス製アンリファルマン練習機、より。
西武線・所沢駅ファルマン交差点から所沢駅へ向かう。東川の低地と所沢台地の比高差を実際に感じてみたい、ということもさるころながら、往路の西武線で見かけた、駅東口のビルで行われる埼玉古書フェアを覗く、ため。ファルマン交差点から所沢駅へと上る道は「プロペ通り」。飛行機のプロペラに由来するのは、言うまでもないだろう。
車道を離れ駅へと続く商店街を歩く。秩父や、たまに越谷あたりで手に入る田舎饅頭を売る店があり、誠に嬉しかった。祖母がよく作ってくれた故郷の味である。駅を東口に渡り、古書フェアの会場で郷土史関係の書籍を探し、しばしの時を過ごす。
西武鉄道東口を離れ、成り行きで東へと進み所沢駅東口入口交差点を北に折れ所沢陸橋へと向かう。陸橋下には西武池袋線が台地崖線に沿って台地を大きく迂回し所沢駅へと向かう。昔の機関車は非力故、台地の傾斜を上るのを避けるのは、それなりに納得はできるのだが、それにしても、西武池袋線の所沢駅へのアプローチは少々不自然である。気になってチェックすると、西武鉄道成立の歴史ならではの興味深い話が現れた。
結論を先に言えば、所沢駅へのこの不自然なアプローチの原因は、現在は西武鉄道として同じ会社となっている西武新宿線、西武池袋線は、もともと別の会社であったことにある。西武新宿線と呼ばれる路線は、もともと川越鉄道と呼ばれ、甲武鉄道(新宿~八王子; 1889(明治22)年開通)の支線として国分寺から、当時の物流の集散地である川越へと結ばれた。1895(明治28)年のことである。所沢駅はそのとき作られた。
その後、 1915(大正4)年、現在の西武池袋線の前身である武蔵野鉄道が池袋から飯能へと開通。計画では飯能へと直線で進み、川越鉄道の所沢駅を通る予定ではなかったようであるが、なにせ鉄道は当時の輸送の根幹となるもの。貨物輸送の乗り入れをするにも、このふたつの線路を接続する必要があり、国の命令なのか要請なのか、ともあれ、後発の武蔵野鉄道は既に駅のあった川越鉄道の所沢駅に接続することになった。ために、台地崖線を進み駅の前後で大きく迂回して、「無理矢理」、川越鉄道の所沢駅に繋げた、とのことである。 不自然な急カーブはこれにて一件落着ではあるが、所沢駅で結ばれたふたつの鉄道会社が西武鉄道となるまでは、あれこれの軋轢があったようである。池袋へと繋がる武蔵野鉄道に対抗して、1927(昭和2)年、川越鉄道(1920年。武蔵水電に吸収され、その後西武軌道を合併。1922年には西武鉄道(旧)という社名になっていた)は、村山線(東村山~高田馬場)を開通。東京方面への乗客を確保せんとした。このとき所沢駅での両社のお客様の争奪戦は結構激しかったようである。
所沢陸橋西武線を跨ぐ陸橋から、弧を描き所沢駅へと向かう線路を眺める。その昔、弧の最高点のあたりに「所沢飛行場」という駅があった。台地上の陸軍所沢飛行場への最寄り駅であった、とか。武蔵野線がこの地に駅を作れば、川越鉄道は西武新宿線が東川を渡るところに「所沢飛行場前駅」をつくり、お客獲得合戦を繰り広げたとか。今は昔の物語である。
道なりに進む。川の北側、河岸段丘面が次第に拡がり、段丘崖の林など、風景が少し自然豊かな赴きとなる。神明社の名前に惹かれて鎮守の林へ向かうと神社の周囲は牛沼市民の森とあった。国道463号から東川の低地にかけてのなだらかな傾斜の雑木林にはクヌギ、コナラ、シラカシなどの混合林、そして、神明社には竹林が広がる。
柳瀬民俗資料館川に沿って東へと進む。段丘面が拡がり、川の周囲に広がりがでてくる。開析の度合いはそれほど深くない。ちょっと見た目には谷筋とは思えないような、台地にちょっと入った切れ目といった川筋である。松郷地区、新郷地区と川筋を進み亀ヶ谷地区に。川筋の少し北に柳瀬民俗資料館がある。川筋を離れ、御嶽神社の小さな祠をお参りし、すぐそばの資料館に。残念ながら休館となっていた。何故に亀ヶ谷に柳瀬資料館と言えば、往昔、このあたりは埼玉県入間郡柳瀬村であった、から。
橋を渡り、滝の城への道案内に従い、雑木林のゆるやかな坂をのぼる。畑の中の小径を成り行きで進み、県道179号に。いかにも丘陵地といった赴きで進むに困難なことはなにも、ない。新編武蔵国風土記稿には、「不慮に北の方、大手の前より襲い来たりしかば、按に相違して暫時に落城せり」とあった。それはそうだろう、と実感した。
滝の城は室町から戦国時代にかけて、木曾義仲の後裔と称した大石氏の築城と伝わる。加住丘陵の滝山城を本城とした大石定重がこの地に築いた支城である、とも。大石氏は、関東管領上杉家の重臣として小田原北条に備えるも、定重の次の定久の頃、上杉管領勢は川越夜戦に完敗。主家上杉家も上野に逃れるにおよび、大石定久は小田原北条と和を結ぶ。北条氏康の次男氏照を女婿に迎え、滝山城を譲り自らは五日市の戸倉城に隠棲した。上杉管領家滅亡後も岩槻城を拠点に北条と抗う太田資正に対しては、最前線の境の城として重要な拠点となったようだが、その太田氏も北条に下るにおよび、滝の城は川越(河越)城、岩槻城、江戸城との継ぎの城として機能した。滝の城は北条家の関東北進策を進める拠点、清戸の番所として整備された。城に残る遺構はこの時代につくられたようである。
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