スタート地点は何処に、と地図を眺める。哲学堂の東、落合台地の葛谷御霊神社に目がとまる。名前が如何にも、いい。また、淀橋台地と豊島台地を南北に区切る神田川の低地には月見岡神社。これも、その名前に惹かれる。ということで、今回の大雑把なコースはこのふたつのポイントを目安に、あとは成り行きで、戸山ヶ原へと、といった、いつものお気楽な基本スタイルで散歩に出かける。
本日のルート;葛谷御霊神社>自性院>中井出世不動尊>六の坂>中井御霊神社>八の坂>七の坂>五の坂>林芙美子記念館>四の坂>三の坂>中井駅>最勝寺>妙正寺川>月見岡八幡神社>落合処理場>小瀧橋>西戸山遺跡跡>戸山公園_大久保地区>戸山公園_箱根山地区
西武新宿線新井薬師駅自
宅を出て、電車を乗り継ぎ新井薬師駅で下車。駅を南に下ったところに新井薬師がある。本尊の薬師如来は子育て、眼病に御利益あり、と。薬師様には幾度となく訪れており、且つ、本日は北に進むためお参りはパスし、駅前の道を妙正寺にかかる四村橋に向かう。道の左右には、中野散歩(中野散歩1:沼袋・江古田・荒井地区)で歩いた寺社が地図上に点在する。緩やかな坂を下りきったところに妙正寺川に架かる四村橋。橋の西側北岸が昔の江古田村、南岸は片山村、橋の東側北岸が葛ヶ谷村、南岸が上高田村といった四つの村の境であることが、名前の由来。橋の北には妙正寺川が開析した豊島台地の崖面、哲学堂公園の緑が拡がる。南の段丘面は運動公園兼調整池。沼袋からこのあたりまで妙正寺が大きく湾曲しているが、それって、傾斜が緩く洪水時などに水が溜まり場所である、ということだろう。
葛谷御霊神社
妙正寺川を越え、左手に哲学道公園を眺めながら坂を上る。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。昭和50年には中野区の区立公園となる。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。この地は往昔、源頼朝の重臣である和田義盛の城、というか、館が、あっった、とか。哲学堂も数回訪れており、今回はパス。葛谷御霊神社は、この哲学堂公園の東端を上る坂より一筋東に入ったところにある。
八幡社がどうして御霊社となったのか?なんとなくすっきりしないので、あれこれ妄想。この地に留まった一族の旧地は山城国桂の里(山城国葛野郡)。桂の里(山城国葛野郡)って秦氏の勢力下。で、秦氏って、祇園社の大スポンサー。そして、祇園社って、御霊信仰の総本家。ということで、桂の里(山城国葛野郡)の一族の信仰の社として御霊社となった、と自分なりに納得しようとしたのだが、祭神がスサノオであれば問題ないのだが、上メモしたような祭神のラインアップであれば、いまひとつこの妄想はだめ、っぽい。
で、あれこれチェックすると、八幡信仰と御霊信仰は結構深い関係であった、と。八幡さまは八幡宮、八幡社、若宮社とも呼ばれるが、若宮信仰って御霊信仰と同義といったもの。平安時代の飢餓や疫病の蔓延とともに旧来の神社の中に庶民を救ってくれる神として登場したもので、多くは御霊信仰に基づく神であり、民衆やその後の御家人層の信仰を集めていた。鎌倉の鶴ヶ丘八幡も、実際は京の石清水八幡宮より、その「若宮」を勧請したもの。八幡社>若宮社>御霊社、といった流れで、八幡さまが葛谷御霊神社となったのであろう、と我流妄想をクロージングする。
この神社は備射祭が知られる。備射祭は、馬に乗らず矢を射る歩射(ぶしゃ)がなまって備射となった、とのこと。鳥居に掲げた的を射る、とのことである。境内の力石は、備射祭の当日、力自慢を競ったものである。境内にあった疣天神社は昔この地域の村に在ったものを神社に移転したとのこと。八幡社、田中稲荷社、浅間社、三峰社と合わせて五社として祀っている。
葛谷の名前は、往昔のこの辺りの地名である葛ヶ谷村、から。葛ヶ谷は、この地に棲み着いた一族の旧地である葛野(かどの)、から。葛野を「かつらがや」と読み、葛ヶ谷村となったのだろう。葛ヶ谷が文献に最初に登場するのは永禄年間(1558~70年)の「小田原所領役帳。高田内葛ヶ谷、とある。明治にはいり、豊多摩郡落合村大字葛ヶ谷、昭和7年(1932年)の淀橋区の成立に伴い、西落合となり、葛ヶ谷は地名から消え、現在も西落合となっている。
西落合
西落合の住宅地を東に進み、新青梅街道近くにある自性院を目指す。成り行きで歩いていると、西落合1丁目、道脇の会社敷地内に実物の電車が展示されている。社名を、見るとKATO、とあった。鉄道模型の専門会社である株式会社カトーとのこと。株式会社カトーと株式会社関水金属と併記されていた。もとは文京区関口水道町で鉄道模型の部品工場としてはじまった株式会社関水金属が生産会社。株式会社カトーはその販売会社となっている。関水金属の関水は関口水道町、カトーは創業者の名前、から。
自性院
赤い山門をくぐり境内に。真言宗豊山派のこのお寺さまは秘仏である「猫地蔵」を安置し、「ねこ寺」として知られる。文明9年(1477)、この寺の北にある新青梅街道を進み、哲学堂公園の先、江古田川が妙正寺川と合流する地で、太田道灌と、この地方の古くからの豪族・豊島氏との間で合戦が行われた。世に言う、江古田ヶ原の合戦である。合戦は道灌勝利に終わったが、合戦の折、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れ、自性院に導き危難を救った、と。秘仏である猫地蔵は、道灌がその恩を忘れず地蔵さまを造り、奉納したものである、と伝わる。
この寺のこれら二体の猫地蔵尊は江戸市中に大そう評判となり、ご利益をもたらす招き猫として多くに人々が参詣に訪れた、とか。由来からいえば、取り立てて招き猫のトーンはないのだが、自性院のあたりでは室町時代後期の頃、私年号と呼ばれるその地方の豪族や寺社が設ける私的年号があり、その年号が「福徳」といった、如何にも有り難そうな名前でもあり、猫地蔵尊を招き猫としてマーケティング戦略を実行していったのだろう。江戸の招き猫として名赤い世田谷豪徳寺にしても、浅草(現在は西巣鴨)の西方寺の招き猫も、事情は同じ。井伊直孝が猫のガイドで雷雨を避け雨宿りした豪徳寺で上人の有り難き法話に接し、豪徳寺を井伊家の菩提寺にしたのは事実のようではあるが、豪徳寺の招き猫が宣伝されはじめたのは、明治になって豪徳寺が井伊家の庇護を失ってから、とも言うし、西方寺の招き猫に至っては、もともとは遊女薄雲を蛇から守った猫の話で、招き猫との何も関係のない話である。それが、遊女の贔屓のお大尽がつくった猫像に似せた招き猫を、商売人が歳の市で売り始めて人気を呼び、招き猫の代表となってゆく。あれこれの由来の、あれこれは、誠に面白い。
中井出世不動尊
中井御霊神社
ところで、中井御霊神社って、その昔はどのように呼ばれていたのだろう。「**神社」は明治以降の名称である。中井は、落合村の字名として、頭に付けられただけであろうし、とあれこれ、チェックする。
バッケ(崖線)
林芙美子記念館
台地の崖線の「八の坂」を下り、次に「七の坂」を上り、と順にアップダウンを楽しむ。「四の坂」の途中には林芙美子記念館があった。林芙美子と言えば、『放浪記』であり、尾道で育った、とか、「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき.」といってフレーズを知っている程度であり、如何に記念館とは言え、京風・数寄屋つくりのお屋敷は、少々敷居が高い。中島敦という作家も、その作品である『山月記』も、つい最近、こどもとの話ではじめて知った、といった、文学と無縁のB級・散文路線の我が身は、入館を躊躇い、門外から眺めるだけにした。
落合文化村(目白文化村)
『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。
山手通り
林芙美子記念館の坂を下り、「三の坂」から「二の坂」、そして山手通りより脇に上る「一の坂」をアップダウン。どのあたりまでが落合・目白文化村の区画なのか定かではないが、林芙美子の住んだ第二文化村が開発されるとともに、文化村の周辺、落合川へと下る崖線斜面。中井駅から下落合の駅のあたりにも、文化村を意識した瀟洒な家屋が建てられていったようである。このあたりには小説家の尾崎翠、壺井栄、吉川英治、細野孝二郎、林房雄、平林彪吾など、詩人では壺井繁治、中野重治、松下文子、安藤一郎、柳瀬正夢、野川隆、川路柳虹など、劇作家では村山知義、俳人では松本義一、そのほか丘の上や下には評論家の神近市子や青柳優、歌人の半田良平、小説家の藤森成吉、宮本百合子、鹿地亘、武田麟太郎などが住んでいた。如何にも「文化村」ではある。どこに邸宅があったのか不明ではあるし、そもそもが、第三文化村の一部を残し、戦災で全焼しているわけであるから往昔の痕跡など探し求めることもなく、ひたすら崖線を彷徨う、のみ。
上落合
最勝寺
江戸の頃は、中井御霊神社、下落合の東山藤稲荷神社の別当寺。明治初年には廃寺となった内藤新宿・花園神社の別当寺三光院の大師堂をこの寺に受け入れた。三光院が御府内八十八カ所霊場24番札所であったため、現在最勝寺がその札所を引き継いでいる。御府内八十八カ所霊場は港区髙輪の高野山東京別院を起点とする江戸の遍路巡礼の霊場である。18世紀の中頃に開創した、と伝わる。
妙正寺川
月見岡八幡神社
大正橋を渡り、上落合2丁目を成り行きで進み月見岡八幡神社へと向かう。名前に惹かれて訪れたわけだが、名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年に北野神社、昭和2年には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。
落合水再生センター
月見岡八幡のすぐ東に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。渋谷川も落合水再生センターからの水とは、はじめて知った。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。
神田川
落合水再生センターをぐるっと一周、神田川へと出る。吉祥寺の井の頭池を水源に杉並区の永福町あたりまでは南東に下り、そこからは北西に方向を変え、環七の東で善福寺川を合わせ、淀橋台地に沿って落合まで北流。落合で妙正寺川を合わせて江戸川橋に東流、そこからは飯田橋、水道橋、そしてお茶の水の切り通しを越えて隅田川に注ぐ。
江戸の頃は神田上水として、埋め立て地で真水の乏しい江戸の町を潤した。玉川上水のように新たに開削したというより、もともと流れていた自然河川を整備、繋ぎ直して流路を造った、とか。江戸川橋の近くの関口に大洗の堰跡が残るが、そこまでは開渠で、その先は石樋、木樋で江戸の町に送水した。関口の大洗堰は、満潮時に上ってくる海の水を堰止めるためのものでもあった。
小滝橋
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。名前の由来は中野長者と呼ばれた鈴木九郎にまつわる伝説による。応永年間と言うから、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになったのが鈴木九郎。十二社の熊野神社を建立するほど蓄えた財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため人を殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったのが「姿見ずの橋」と呼ばれた。淀橋と名を改めたのは将軍家光が、この不吉な名前を嫌い、この橋の近くの水車が、京の淀川にかかる水車と似ている、ということで淀橋とした。
「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。ちなみに、神田川を少し下った面影橋を姿見橋とも呼ぶ。『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあった。面影橋は姿見橋と混同されることも多かったようだが、歌川広重の『名所江戸百景』の「高田姿見のはし、俤(おもかげ)の橋砂利場」には面影橋の北側に、小川にかかる姿見の橋が描かれているので、小滝橋が姿見の橋ではあった、ようだ。
西戸山遺跡
橋を渡り、小滝橋交差点に。小滝橋交差点は、北東へと高田馬場駅に向かう早稲田通り、南へと淀橋市場前交差点先でJR中央線とクロスし、その後はJR中央線に沿って新宿大ガード西方面へと下る小滝橋通り、そして橋から真っ直ぐに東ヘ進み、緩やかな坂となる三叉路となっている。
道を真っ直ぐ進み、坂の途中、西戸山社会教育会館の入口近くに、「縄文式文化の跡 西戸山遺跡」とある。昭和31年に、このあたりで横穴式住居跡が発見された。神田川に臨む台地の突端は古代の人々にとっては住みやすい場所であったのだろう。
そういえば、神田川の対岸の目白・落合の台地にもいくつもの古代遺跡が残る。先回の散歩で訪れた下落合の薬王院の近くでも8世紀頃の、横穴式古墳が発見されている。今回の散歩で歩いた目白学園のあたりには落合遺跡がある。台地の端にあるこの遺跡は縄文、弥生、古墳時代といった複合型住居跡が見つかっている。
都立戸山公園・大久保地区
道なりに東に進む。百人町4丁目と高田馬場4丁目の境を道は進む。小滝橋から大久保にかけての百人町は伊賀の鉄砲百人隊の組屋敷のあったところ。先回の散歩で訪れた「皆中(みなあたる)神社」は、百発百中を願う鉄砲組ならではの神社であったなあ、などと先回の散歩を想いながら、先に進みJRの線路をくぐると都立戸山公園に出る。
戸山ヶ原は起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で陸軍が使わないときは結構民間人が散策に訪れた。トンボ、セミ、バッタ、カブト虫を追っかける子ども達の遊び場でもあったようである。
戸川秋骨(1870~1939。詩人・英文学者)の「そのままの記」に霜の戸山ヶ原という一章がある; 戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。(中略。)戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹がたくさんある。大きくはないが喬木が立ち籠めて叢林をなしたところもある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものはここにそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草をもって蔽われていて、春は摘み草に児女の自由に遊ぶに適し、秋は雅人のほしいままに散歩するに任す。四季のいつと言わず、絵画の学生がここそこにカンヴァスを携えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。(中略)。しかるにいかにして大久保のほとりに、かかるほとんど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議なことにはこれが俗中の俗なる陸軍の賜である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分はほとんど不用の地であるかのごとく、市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が、大久保柏木の小路を隊をなして馳せ廻るのは、甚だ五月蠅い(うるさい)ものである。否五月蠅ではない癪にさわる」などと描く。
戸川秋骨は射撃場を戸山学校のもの、と書いているが、実際は近衛連隊が設置したものであり、戸山学校や砲学校の生徒たちも使用した、ということであろう。それはともあれ、軍の敷地とはいいながら、軍国主義が台頭する昭和のはじめの頃までは、結構、のんびりとしたものであったのだろう。明治15年(1882)に近衛連隊射撃場ができる前、明治12年から17年までは現在の西早稲田キャンパスのあたりには戸山学校競馬場があった。米大統領グランド将軍の歓迎行事が行われた、と。明治43年には、日野熊蔵大尉が自ら製作した日本最初の飛行機の飛行実験を射撃場で行っている。もっとも、わずか200㍍の滑走路でもあり、滑走には成功したが飛行しなかった。日本最初の飛行が出来たのは同年12月、代々木錬兵場で実施された。
また、大正13年には、ゴルファーが陸軍の用地に出没し、「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」などをつくり、兵士の訓練のないときを狙って練兵場に潜り込んでゴルフをはじめた、とか。はじめは黙認していた陸軍も、あまりに大ぴらに活動を始めるにおよび、ゴルフ禁止の処置をとった、とか。
昭和に入り陸軍の敷地として軍の施設の建ち並んだこの戸山ヶ原も、戦後には団地や早稲田大学理工学部などの教育機関、そしてこの戸山公園などに姿を変えた。
戸山公園・箱根山地区
戸山公園(大久保地区)の中を東に進む。新宿スポーツセンターを越え、早稲田大学理工学部の建物を右手に見ながら進み、明治通りに。通りの向こう側には学習院女子大や戸山高校の建物が見える。学習院女子大学や戸山高校は近衛騎兵連隊の兵舎跡とのこと。当初は学内に馬小屋も残っていた、と。
戸山高校の南を成り行きで進む。南に並ぶ高層住宅は戸山ハイツ。戦前は陸軍幼年学校、陸軍戸山学校であった跡地に、住宅難への対策として、戦後の1949年、団地のはしりともなった戸山ハイツが完成。1970年には鉄筋コンクリートの中層・高層住宅に建て替えられた。道なりに進み、都立戸山公園に進む。明治通りの戸山公園が大久保地区と呼ばれているが、こちらの戸山公園は箱根山地区と呼ばれる。大久保地区と箱根山地区とわかれるも、共に「戸山公園」と総称されるのは、広義の「戸山ヶ原」の名残であろう、か。
戸山公園に入ると、「戸山山荘跡・尾張藩主徳川家下屋敷跡」の案内。大久保通りと明治通りが交差するあたりから、早稲田通りの穴八幡に向かって斜め帯状に続く都立戸山公園の面積はおよそ18万平方キロ。これでも結構広いのだが、江戸の頃、この地にあった尾張徳川家下屋敷の「戸山荘」は広さ、およそ45万平方キロ。現在の公園の倍以上の規模であった、とか。公園の中に小高い築山が残る。箱根山である。坂道を上ると道脇に「箱根山の碑」と「陸軍戸山学校址」。
この「戸山荘」は、寛文九年(一六六九)に工事を始め、天和(一六八一~一六八三)・貞享(一六八四~一六八七)の時代を経て元禄年間(一六八八~一七〇三)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を私、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した二十五の景勝地が作られていた。なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
その後、一時荒廃したが、寛政年間(一七八九~一八〇〇)の初め第十一代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以って第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。安政年間(一八五四~一八五九)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(一八六八)を迎えた。明治七年(一八七四)からは陸軍戸山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一郡が昭和二十九年から今日の公園となった。陸軍用地の頃から誰ともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている」、と。
戸山公園の中には旧軍の痕跡は、あまり残っていないが、箱根山の南にある日本基督教団戸山教会の施設の一部に旧陸軍の会議室跡が残っているようだ。石造りの如何にも頑丈な建造物は戸山学校の将校会議室跡とのことである。また、今回は見落としたが、園内には陸軍軍楽学校の野外音楽堂跡が残っている、と。戸山学校と音楽堂?チェックすると、戸山学校は日本陸軍の歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術)、体育、歩兵部隊の戦術、軍楽の教官育成をその目的としていた。その後、大正元年には戦術科、射撃科、教導大隊を陸軍歩兵学校として分離し、戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括した。音楽堂の所以である。
本日の散歩はこれでお終い。往昔の戸山ヶ原を、成り行きで新宿駅へと向かう。歩きながら、若山牧水が早稲田大学に入ったものの、ほとんど引きこもりのような生活であったものが、ある日、戸山ヶ原の広大な原野を見つけ、大いに気に入り、散策を楽しむようになった、といった記事(「東京の郊外を想ふ」)を想い起こす。散策は戸山ヶ原だけでなく、もう少し足をのばして目白や落合へと、雑木林の拡がる原野を楽しんだ、とのこと。
とは言うものの、田山花袋が『東京の近郊』で描く頃は、「昔歩いた戸山の原あたりも以前のやうな野趣を持つてゐなかつた。私の知つてゐる林はすつかり切り倒されてゐた。諏訪の森から目白台を見た景色はちよつと好い感じのするところであつたけれど、今では二階屋だの大きな家だのが建てられて、畠道をずつと横ぎつて行くことも出来なくなつていた」、と、原野も開かれていたようではある。本が出版されたのが大正5年の事であるので、その頃には、戸山ヶ原の原野も、少し様変わりし始めていたのだろう、などと想いを巡らせながら、新大久保の喧噪の街並みを抜けて新宿へと向かい、一路家路へと。
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