金曜日, 6月 03, 2011

新宿区散歩そのⅡ;市ヶ谷台地を辿り、大久保から北新宿へ

新宿散歩の2回目。市ヶ谷の駅を始点に、市谷の台地を辿り、その昔の大久保村から柏木村(北新宿)へと進み、中野区との境をなす神田川あたりまで進もうと思う。市谷台地とは靖国通りの北、現在防衛省のある市谷本村町周辺一帯の台地を指す。地形図を見るに、住吉町、富久町の辺り、そして市ヶ谷御門の外濠を下った長延寺坂あたりに谷筋が切れ込んでいる。住吉町、富久町辺りの谷筋はその昔、市谷台地の南、現在の靖国通りを流れていた紅葉川に合わさる支流であろうし、また、逆に現在の外苑東通りの道筋を市谷台地の北へと流れ、神田川に注ぐ加二川の谷筋であろう。
谷筋が細かく刻む市谷台地を越えると抜弁天の先辺りから、蟹川(金川)が刻む大きな窪地・大久保に下る。幅200mほどの大窪を辿れば明治通りのあたりで再び淀橋の台地に上り、ルートの最後は神田川の谷筋に向かって北新宿へと下ることになる。
本日は、結構複雑な地形のルートである。凸凹の複雑な地形に残る時=歴史、空=地形、時空散歩が楽しめそうである。



本日のルート;JR市ヶ谷駅>市ヶ谷見附>市ヶ谷亀岡八幡>佐内坂>長延寺坂>浄瑠璃寺坂>浄瑠璃寺の仇討ち跡>鼠坂>中根坂>近藤勇・試衛館跡>焼餅坂>経王寺>常楽寺>法身寺>幸国寺>月桂寺>フジテレビ跡>念仏坂>安養寺>安養寺坂>長井荷風旧居跡>台町坂>西迎寺>全勝寺>新坂>善慶寺>成女学園_小泉八雲旧居跡>自証院>禿坂>西光庵>西向天神>大聖院>専念寺>専福寺>法養寺>抜弁天>大久保の犬御用屋敷>永福寺>九左衛門坂>島崎藤村の旧居跡>鬼王稲荷>小泉八雲終焉の地>コリアンタウン>皆中稲荷>鎧神社>円照寺>蜀江園跡地>内村鑑三終焉の地>蜀江坂>成子天神

JR市ヶ谷駅
JR市ヶ谷駅で下車。住所は千代田区五番町。市ヶ谷駅が五番町にあったり、法政大学市谷キャンパスが外濠の南の土手堤の上にあったりするので、市谷って、この駅の辺り、かとも思っていたのだが、実際は上でメモしたように、防衛省のある外濠北の台地であった。江戸の頃、市ヶ谷駅のあたりには通称江戸城36見附(実際は50とも90とも)のひとつ市ヶ谷見附があった。市ヶ谷見附は寛永13年、美作津山藩主・森長継が築造したもの。桜の御門とも呼ばれ、楓(カエデ)の御門と呼ばれた牛込見附門とは春秋一対の御門であった。
御門は枡形。門(高麗門)をくぐると、直角に曲り、もう一つの門(櫓門)をくぐるという防御を重視した構造である。明治4年(1871)に道路拡張に伴い撤去されたが、形が烏帽子(えぼし)に似た巨大な「烏帽子石」は撤去時に日比谷公園に移設されて、現在に至る。

外濠
外濠に架かる市ヶ谷橋、と言うか土堤を渡る。江戸の町普請は家康入府した天正18年(1590)よりはじまるが、家康入府当初は江戸城の普請や日比谷の入り江の埋め立など、すべては家康家臣の普請ではあった。その江戸の築城・町普請も慶長8年(1604)、家康が豊臣家を倒し天下を握っての以降は、全国の大名を動員した「天下普請」となる。
数度に及ぶ天下普請の中で、この外濠工事は第五期の事業。寛永13年(1636)、三代将軍家光の命により、外濠石垣普請は西国61の大名に、濠の開削は東国52の大名が分担して工事を開始。この外濠工事は江戸城の総構えを締めくくるものであり、江戸城の西側、今回散歩の対象あたりとしては、牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂の見附御門の石垣、牛込~赤坂間の濠の開削が行われている。牛込~赤坂間の濠の開削は、石垣の完成を待って伊達政宗を初めとする52家が、7組に分かれて開始した。
橋から外濠の東西を見やる。橋の東の牛込から市ヶ谷あたりまでは往昔、紅葉川の流れる自然の谷筋であり、その湿地を開削するわけで、それほどのこともないと思うのだが、西に見える市ヶ谷の谷筋から四谷の麹町台地尾根道を穿ち、赤坂へと開削する外濠工事はさぞや大変であったろうと思う。実際に、濠の開削は予想を超える難工事であったようで、各大名は開始早々に国元へ人夫増員を指示した、とか。

市谷亀岡八幡
外堀通を少し西に折れ市谷八幡町交差点に。通りを少し入ったところに市谷亀岡八幡がある。男坂と呼ぶ急な石段途中の金比羅様や茶ノ木稲荷にお参りし、上り切ったところの銅造りの鳥居を潜り境内に。鳥居のそばには幕府公認の『時の鐘』があった、とか。上野寛永寺の鐘、新宿の天竜寺の鐘とともに、江戸三代名鐘のひとつ。ちなみに、天龍寺では、実際の時刻より少し早めに鐘を撞いた、と言う。お城へも距離があり、悪所での名残を早めに済ませ、登城遅参相成らず、との老婆心、か。

神社の創建は文明11年(1479)、鎌倉の鶴岡八幡を勧請。鶴岡八幡への一対でもあろうか、亀岡八幡宮とした。もともとの創建の地は千代田区の番町であったが、徳川幕府の時代となり、大がかりな城普請の結果、番町が武家屋敷となるにおよび、現在の地に移る。この地には元々、茶ノ木稲荷神社という社がり、その境内に遷座したとのことである。
茶ノ木稲荷は弘法大師の縁起も伝わる古い社であり、鎌倉時代、市谷氏が所領し市買村と呼ばれたこの地の鎮守であった、とも。茶ノ木稲荷には、神の使いである白狐が、あやまって茶の木で目を痛め、以来稲荷社を崇敬するものは正月の三が日は茶を飲むのを控えた、との話が伝わる。茶ノ木八幡は眼病の人には霊験があらたか、とのことであるが、如何なるロジックで災いのもとであった茶の木が、福の神となったのだろう、か。
境内を歩くと、出世稲荷という、如何にも有り難そうな稲荷の祠もある。今でこそ静かな境内であるが江戸の頃は、芝居小屋や茶屋が並んだ賑やかな場であった、と。

佐内坂
八幡様を離れて次の目的地である「浄瑠璃坂の仇討ち跡」に向かう。外濠通りから市谷の台地には幾多の坂が上る。市谷見附交差点からすぐに北に上る急坂は左内坂。江戸の頃、この地を開墾した名主である島田左内の名をとったもの。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗った。

長延寺坂
左内坂の隣に長延寺坂。左内坂と比べては、穏やかな坂である。往昔、長延寺(明治末に杉並区和田に移転)が台地上にあったのが坂の名の由来。現在このあたりの地名は長延寺町と呼ばれるが、明治13年の陸地測量部の地図を見ると、長延寺谷町とあった。実際、慶長の頃までは長延寺坂の谷筋には大きな沼があったようである。
長延寺坂を上り、現在では大日本印刷の工場のある、往昔の長延寺谷町あたりを通ることも多いのだが、台地の中程に窪地があり、如何にも大沼の面影を残す。大沼と言われただけあって、谷幅は100mほどあるかと思う。この長延寺谷を堀った土は九段、麹町、番町の土手の土塁とした、とのことである。

この長延寺谷は市谷の地名の由来との説がある。改撰江戸史によると、このあたりには四つの谷があり、市谷はその「一の谷」から名づいたもので、その「一の谷」とは長延寺谷、別称市ケ谷と称する大きな谷を指すとも言う。長延寺谷が大きく、またその土が九段、麹町、番町の土塁となり、江戸のお城の総構に大きく貢献したとのことであれば、この長延寺谷をもって市谷の地名とするのが自分としては心地、よい。そのほか、市谷の地名由来としては、鎌倉時代末の古文書にある市谷氏(孫四郎)がその由来との説、毎月六回開かれた六斎日(ろくさいじつ)から、市買であるという説など、例によって諸説あり、定まること無し。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)


砂土原町
長延寺坂を成り行きで右に折れ、浄瑠璃坂に向かう。このあたりは現在市谷砂土原町と呼ばれる。江戸時代、ここに家康の名参謀・本多佐渡守正信の別邸があったのが、その由来。その後、本多屋敷跡の土を利用し、外濠沿いの市谷田町あたりの低湿地を埋め立てたため、土(砂土)取場と呼ばれるようになり、後に砂土原と転化したとのことである。田町には岡場所もあった、とか。

くらやみ坂・闇坂
砂土原1丁目と2丁目の境の浄瑠璃坂を上る。坂道の名前の由来は、その昔この坂で「あやつり浄瑠璃」の興業があったから、とか、近くの光円寺のご本尊である薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため、など例によってあれこれ。
浄瑠璃坂の仇討ち跡へと坂を上る途中に「くらやみ坂・闇坂」があった。市谷砂土原町1丁目と市谷鷹匠町の境を長延寺谷へと向かう坂。樹木が多く薄暗かったのが名前の由来。そのほか、付近にゴミ捨て場があったので、「ごみ坂」とも。往昔、ごみは湿地帯埋め立ての重要な「資源」のひとつである。その坂は先に進むと大日本印刷の工場を横切る歩道橋となっている。

浄瑠璃坂の仇討ち跡
浄瑠璃坂を上り切り左に折れ少し進むと、道脇に江戸三代仇討ちのひとつとして有名な「浄瑠璃坂の仇討ち跡」の案内板が、いかにも普通の街角、大日本印刷の社宅の塀の前に立っていた。この辺りは市谷鷹匠町。鷹匠頭・戸田七之助の屋敷が仇討ちの舞台となったという。
仇討ち事件の発端は寛文8年(1668)、宇都宮藩主・奥平忠昌の法要の席での重臣同士の刃傷事件。重臣の一方である奥平隼人の侮辱発言に、その相手であるこれも重臣・奥平内蔵允が立腹し抜刀するも、思いは果たせず、奥平内蔵允は当日自刃して果てる。この刃傷事件の裁定は奥平隼人が改易、他方の奥平内蔵允の遺児・源八が家禄没収の上追放と決定。が、しかし、この処置が喧嘩両成敗にあらず、と奥平内蔵允の遺児・源八が奥平隼人一統を仇として追い求めることになる。
寛文9年(1669)には、隼人の実弟・奥平主馬允を出羽の国で討ち取る(奥平主馬允は改易されず、奥平家の転封先出羽国に移っていた)。そして寛文12年(1672)、この地の鷹匠頭宅に保護を求めていた隼人を討ち果たすべく、同士42名とともに討ち入った。が、隼人は不在。隼人の父を討ち果たし屋敷を引き上げたところ、事件を聞き及んだ隼人が手勢を率いて一党に向かい牛込御門で戦いとなり、結果隼人が討ち取られる。同士が42名もいた、ということは事件処理が不公平であると憤慨する家臣が多くいた、ということであろう、か。事件後、源八ら一党は幕府に出頭し裁きを受ける。当時の大老・井伊直澄は源八らに穏便であり、死罪を免じ伊豆大島への流罪の沙汰を下す。そしてその6年後には千姫13回忌法要による恩赦を受け、井伊家に召し抱えられた。

この事件は寛永11年(1634)、渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った、「鍵屋の辻の決闘」、そして元禄15年(1703)の「赤穂浪士の討ち入り」とともに「江戸三大仇討ち」として知られる。「鍵屋の辻の決闘」は『天下騒乱;鍵屋ノ辻(池宮彰一郎)』に詳しい。また、世に浄瑠璃坂の仇討ちでの幕府の穏便な沙汰が赤穂事件の討ち入り決断の大きな要因でもあった、との説がある。その当否はわからないが、事件の発端となった奥平忠昌の妻女は鳥居忠政(関ヶ原の役のとき、伏見城を死守した鳥居彦衛門の)の娘。その鳥居忠政の弟である忠勝の娘が嫁いだ先が赤穂の大石良欽。大石良雄はその孫。幼い良雄は祖母から実家の仇討ち話を聞かされて育った、かも。単なる妄想。根拠なし。

鼠坂
浄瑠璃坂の仇討ち跡を先に進み、左に折れ鼠坂を下る。往昔、狭くて細く、鼠が通れるほどの坂であったことが、その名の由来。現在は幅も拡げ市谷鷹匠町と納戸町の境を長延寺谷に下る。納戸町は納戸役同心の組屋敷があった、から。納戸役とは将軍家の金銀・衣服・調度品・諸大名からの献上品、諸役人への下賜品の管理を司る役職。納戸町は牛込・天龍寺が内藤新宿に移った跡地である。

中根坂
鼠坂を下り、大日本印刷の工場群の真ん中に出る。坂を降りきったところ、北は牛込三中角交差点、南は市谷左内町へと続く道筋は中央部が凹地形となっており、北から中央に下る部分を中根坂、中央から南に上る部分を安藤坂と呼ぶ。安藤坂の由来は安藤弘三郎から。中根坂は旗本・中根家の屋敷に由来する。安藤弘三郎のことはよくわからない。
一方、中根家は幕末に歴史上に登場する。中根市之丞がその主人公。文久3年(1863)、長州藩による関門海峡外国船砲撃事件の詰問使として幕府の軍艦・朝陽に乗船し長州に赴くも、長州軍の砲撃の後、奇兵隊の襲撃を受け下船。その後詰問使一行は宿舎にて襲撃に遭い数名が死亡。難を逃れ船に戻った市之丞も最後には暗殺されてしまった。った、と言う。長州には自ら請うて赴任。武芸に長じ、気概をもち、6000石の禄を有する名門28歳の青年旗本であった、とか。

市谷加賀町
中根坂を上り、市谷三中交差点左に折れる。この辺りの市谷加賀町は、江戸時代に金沢・加賀藩前田光高の夫人の屋敷があったことに由来する。夫人は水戸黄門頼房の娘であり、三代将軍家光の養女として前田家に嫁ぐも、30歳の若さで亡くなったため、加賀屋敷跡はみな武家地となった、とか。
先に進むと、立派な長屋門のもつお屋敷がある。門の両側が長屋となり家臣や下男が住まいした。幕末は御典医のお屋敷であった、とか。なお、この屋敷には中国革命の父と称される孫文が日本に亡命したとき、一時隠れ住んでいた、との話が伝わる。神楽坂の筑土八幡界隈にも、孫文が隠れ住んだと伝わる屋敷もあるようだ。

誠衛館跡
外苑東通りの一筋手前の道を大久保通り・焼餅坂へと向かう。北に向かう小径は市谷柳町と市谷甲良町の境といったところである。と、道脇に史跡案内。「誠衛館跡」とある。案内文には;「幕末に新撰組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市谷甲良屋敷内(現市谷柳町25番)のこのあたりにありました。この道場で、後に新撰組の主力となる土方歳三、沖田総三などが剣術の腕を磨いていました」、と。

近藤勇は天然理心流の遣い手。その創始は近藤内蔵助による。遠江国より江戸に出て、寛政年間(18世紀末)、両国薬研堀に道場を開いた。二代は近藤三助。江戸に道場を開いた天然理心流が、何故多摩で盛んになったのか、少々疑問に思っていたのだが、最近読んだ時代小説(『算盤侍影御用 婿殿開眼;牧秀彦(双葉文庫)』)に、「天然理心流は、当時江戸御府内では士分以外の武芸修練が禁じられ、それではと、取り締まりの及ばない御府内外の村々を訪れ、地元の名主などが用意する道場で出稽古を積極的におこなった」、といった記述があった。天然理心流が多摩の農村部で裕福な農民層を中心に盛んとなった理由がなんとなくわかった気がする。
近藤周助が天然理心流の三代目を継いだのが天保元年(1830)。この市谷甲良屋敷に移ったのは天保10年(1839)のことである。市谷甲良屋敷とは、大棟梁甲良氏が幕府から拝領した土地故の地名。拝領地を町屋として賃貸した一角に、近藤周助の身元保証人の山田屋権兵衛所有の敷地があり、その蔵の裏手に道場を移したようだ。最近古本屋で買った『幕末奇談;子母澤寛(桃源社)』に、近藤周助は一代に女房9人、愛妾4目。隠居宅には妻と愛妾3名が同居し、酒乱も甚だしきなり、と。

その三代目近藤周助が宮川勝五郎こと近藤勇を養子に迎え(当初周助の実家である嶋崎。後に近藤)、四代目として代を譲ったのは文久元年(1861)のこと。その後文久3年(1863)年には浪士隊を組織して京へ出立しており、近藤勇が道場主として教えたのは3年程度。勇が上洛の後は、佐藤彦五郎と幕臣寺尾安次郎が留守を預かり、慶応3(1867)年まで存続した。現在では、石積道の奥にはささやかな稲荷の祠があるも、民家が建ち並び往昔の面影はなにも、ない。ちなみに、この試衛館という名称は、明治に小島某が明治6年刊の『両雄士伝』の中で、「構場(号試衛)江都市谷柳街...」と注を入れた資料が唯一であり、江戸の頃に試衛館として道場名が出ることはないようではある。

多摩を歩くと天然理心流のゆかりの地に出合うことも多い。八王子戸吹町の桂福寺には天然理心流初代・内蔵助と二代目の近藤三助が眠っていた。町田の小野路で出合った名主・小島家当主・小島鹿之助は近藤周助の門人として、屋敷内に道場ももっていた。日野宿で出合った名主・佐藤彦五郎も天然理心流の門人であり、近藤勇との交誼だけでなく土方歳三の姉と縁を結ぶなど新撰組との結びつきも深め、鳥羽伏見の戦いで破れ、甲州鎮撫隊として甲州に向かう新撰組を助け、また、自らも義勇軍・春日隊を率いて幕軍を助けた。とまれ、小島家・佐藤家は天然理心流の多摩での拠点であり、近藤勇も周助の門人として小島鹿之助と佐藤彦五郎深い交誼を続け、義兄弟の契りを交わしている。


焼餅坂
先に進み大久保通りに突き当たると、外苑東通り・市谷柳橋交差点に下る焼餅坂にでる。赤根坂が本来の名前とのことだが、江戸から明治にかけて焼餅を売る店があったため、焼餅坂と呼ばれるようになった。現在でも結構急坂ではあるが、これでも明治に道路改修をおこない、勾配を緩やかにしたとのことである。
市谷柳町交差点は焼餅坂が下り、交差点を境に再び上りに転じる窪地となっている、川田ヶ窪町とも呼ばれていた。柳町となったのは往昔、外苑東通りを流れていた加二川にそって柳があったのだろう、か。いまは、その面影は、ない。

常楽寺
大久保通りを一筋南へ離れ、常楽寺へと向かう。剣豪浅利又七郎が眠る、と言う。が、構えはビルというか、マンションというか、あまりにモダンなアプローチでもあり、少々立ち入るのが憚れる雰囲気でもあるので、即撤退。

経王寺
大久保通りに戻り、西に少し進むと道脇に大黒天の案内。もとは市谷田町で開基。振り袖火事はじめ多くの火災に見舞われるも福の神の大黒様は焼けずに残り、「火伏せの大黒天」として庶民の信仰を集め、現在も山の手七福神のひとつとして信仰を集める。ちなみに、山の手七副神とは善国寺・毘沙門天(神楽坂)、経王寺・大黒天(原町)、厳島神社・弁財天(余丁町・西向天神社)、永福寺・福禄寿(新宿)、法善寺・布袋(新宿)、鬼王神社・恵比寿様(新宿)、である。



幸国寺
日蓮宗小湊の誕生寺の末寺。開山は戦国武将・加藤清正と伝わる。山門は明治維新時に譲り受けた田安家の屋敷門。本堂の日蓮上人像(木像)は古くから「布引きの御影」として知られる。房総半島で疫病が流行り、鎌倉にいた日蓮上人に救いを求める。上人は仏師に我が身に似せた像を彫らせ、南無妙法蓮華経という題目を書いた白布を懸け、房総の地に送ると疫病退散。像は誕生寺に安置されていたが、寛永7年幸国寺に移された。堀の内妙法寺、谷中瑞輪寺の両祖師とともに江戸の三高祖の一つとして知られる。




法身寺
臨済宗のこのお寺は、江戸時代青梅にあった普化宗鈴法寺の江戸番所の菩提寺もあった。鈴法寺では、虚無僧の弔いをしないため、ここ法身寺が菩提寺となっていた。「鉄道唱歌」の作詞者として有名な、詩人大和田建樹(1857~1910)が眠る。

外苑東通り
寺を離れ大久保通を南に越え、成城学園脇を成り行きで南に下り月桂寺に向かう。市谷柳町交差点から南に続く外苑東通りの市谷柳町、市谷薬王寺町のあたりは、神田川の谷から南に延び牛込台地を開析する浅い支谷の谷頭部。新宿散歩その壱でメモした加二川の源頭部である。現在は外苑東通りとして切り開かれた谷筋は崖面が続き、比高差5m弱ともなっている。谷筋に沿っていくつもの寺が並ぶが、地名となった薬王寺は廃寺となり、町名に名を残す、のみ。

月桂寺
道なりに進み月桂寺に。鎌倉円覚寺末寺で関東十刹のひとつ。豊臣秀吉の側室・嶋女の法名である月桂院が寺名の由来。嶋女は足利氏古河公方の分家、小弓公方・喜連川(きつれがわ)家の姫君。塩谷家に嫁ぐも、秀吉小田原征伐の折り、旦那は逃亡。残された嶋女は秀吉の側室となる。嶋女への秀吉の寵愛並々ならず、嶋女に喜連川3800石の化粧料(所領)を与え、嶋女はこの所領を弟に継がせ、喜連川藩5000石として江戸時代へと続く。嶋女は秀吉に侍した後、家康に召され、振姫付老女として会津にも赴いている。また、元禄年間には柳沢吉保もこの寺の檀家となっている。
境内は一般公開していないようであったので入らなかったが、境内には切支丹燈籠といわれる織部燈篭がある、という。切支丹燈籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタン信者がひそかに礼拝したもので、十字架を変形しており、下部にはキリスト像のカモフラージュが刻まれている、とか。

河田町
月桂寺を離れ、東西に走る道路に出ると、目の前が大きく開ける。大きなスーパーやマンションが広い空間に建つ。ここはフジテレビの本社があった。往昔は尾張徳川家の抱屋敷跡があった。河田町(旧市谷河田町)、と言えば、とのフジテレビも今はお台場に移った。
河田町はその昔、牛込村川田窪と呼ばれていた。川の傍らの窪地、浅い湿地帯に田圃があったのだろう。地形から見るに、牛込台地と麹町台地を穿ち市谷へと流れる紅葉川への支流が流れ下っていたの、かも。市谷河田町となったのは明治5年。尾張藩抱屋敷の一部、小倉小笠原藩下屋敷跡などを合わせて成立した。

市谷仲野町
元のフジテレビ敷地東端、河田町と市谷仲野町の境の道を南に下る。仲野町の名前の由来は、河田町と、外苑東通りの東、現在防衛省のある市谷本村町にあった尾張藩徳川家上屋敷の間にあった、から。


念仏坂
成り行きで進むと民家の軒下を下る石段。念仏坂とある。『新撰東京名所図会』によれば、昔、近くに住む老僧念仏を唱えていたから、とか、両側が切り立った崖場であり、危難避けに念仏を唱えたから、とか諸説ある。地元では「念仏だんだん(段々)」と呼ばれていた、と。永井荷風がこの坂を、「どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまはないやうにと私はひそかに念じてゐる。(岩波版『全集』11巻より)」、と描く。坂を上りきった余丁町に永井荷風旧居跡がある。自宅への往来にこの坂を上り、気に入っていたのだろう。

住吉町
石段を降りきると商店街に出る。この商店街は、江戸の頃には安養寺の門前町。江戸中期には岡場所もあった、とか。現在の地名は住吉町ではあるが、当時の地名は市ヶ谷谷町。牛込台地と麹町台地に挟まれ、幾多の坂道が合流する、如何にもの名称である。住吉町としたのは地名を変えるに際し、よく使われる地名。最近では清瀬散歩の折、旧地名を「縁起のいい」住吉という地名するに際し、すったもんだの経緯にも出合った。旧名への想いは強いのではあろう。商店街の脇道を入り安養寺に。浄土宗知恩院末寺。もとは市谷左内町富士見坂のあたりに開かれたが、その地が尾張藩邸となり、現在地に移ったという。

市谷台町
お参りをすませ、先を急ぐ。商店街を少し北に進むと左に上る坂。安養寺坂と呼ぶ。『新編東京名所図会』には 「安養寺坂は念仏坂の少しく北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。 傍らに安養寺あるに因めり」、と。坂を上り先に進む。このあたりは市谷台町と呼ばれる。大正11年、市谷谷町から分かれて地名を成した。谷町ではなく、台地上であるとの表明であろう、か。道なりに進むと大きな通りに出る。道を新宿方面へ進めば余丁町から抜弁天へと進む。この道筋の少し先に永井荷風旧居跡がある。

永井荷風旧居跡
道を右に折れ余丁町14-3にあると謂う、荷風旧居跡を探す。案内もあるとのことだが、結局見付けられなかった。荷風はこの地にあった父親の屋敷に、フラランスから帰国した明治41年から大正7年まで暮らした。敷地は広く500坪以上もあった、とか。
大通りから小径に入ると郵政省の官舎が建っているが、このあたり一帯が屋敷であったのだろう。昭和天皇の侍従長で名エッセイストでもある入江相政の『余丁町停留所』に、「・・・牛込余丁町に落ちついた。いまは新宿区余丁町、大正七年のこと。亡父は永井荷風から地所の半分の五百余坪を譲り受けた。私は小学六年生。当然ながら越してからしばらくは、見るともなく、庭を散歩する荷風の姿を見たものだった」、とある。ということは、500坪以上と言うか、1000坪近くあったのかもしれない。
父の命にて実業家をめざし欧米へ留学するも、帰国後はその意に背き慶応大学で教鞭をとるかたわら創作活動に励んだ。邸内に『断腸亭』と呼ぶ離れを建てる。荷風と言えば、『断腸亭日記』というほど有名な名前であるが、その心は、荷風が腸を病みがちであった、ことによる。随筆「断腸亭雑藁」(大正7年刊)の中で、「我家は山の手のはずれ、三月、春泥容易に乾かず、五月、早くも蚊に襲われ、市ヶ谷のラッパは入相の鐘の余韻を乱し、従来の軍馬は門前の草を食み、塀を蹴破る。昔は貧乏御家人の跋扈せし処、もとより何の風情あらんや。」と、当時の屋敷周辺を描く。
それにしても荷風の旧居には見付けるのに苦労する。市川でも結構彷徨ったのだが、結局見つからなかった。余丁町の名前の由来は、江戸の頃、御旗組屋敷の横町・路地が四筋あり、大久保四丁町として使われていたが、四=死は縁起が悪いと余丁とした、とある。

靖国通り・住吉町交差点
荷風旧居跡を離れ台町坂方面に戻る。文学者つながり、というわけではないのだが、靖国通り沿いに小泉八雲旧居跡がある、というので戻ることにした。靖国通り・住吉町交差点にむかって下る台町坂を下る。台町坂と呼ばれるこの坂は道路整備と拡張されたのだろう、江戸の坂といった趣は、ない。
靖国通り・住吉町交差点に下り、地図を見ると、牛込台地と逆側、甲州街道の尾根道が通る台地側にもいくつかのお寺様が見受けられる。小泉八雲旧邸に行く道すがら、道の両側のお寺様にお参りをすることに。

西迎寺
交差点を渡り西迎寺に。このお寺さまは、延徳2年(1490)、太田道灌の菩提をとむらうため、江戸城紅葉山に西迎法師が開いた西光院がそのはじまり。歴史は古いが本堂はちょっとモダン。

全勝寺
西迎寺を離れ、坂を上り外苑東通りに面したところに全勝寺。江戸中期の兵学者・尊皇論者として知られる山県大弐が眠る。宝歴8年(1758)『柳子新論』を著し、尊王論と幕政批判を説き、ために、明和3年(1766)捕縛され、翌年没した。門下生に苫田松陰などが出たため、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになった。
山県大弐に散歩で最初に出合ったのは墨田区立花の吾嬬神社。そこに山県大弐により建立された「吾嬬の森」の碑があった。吾嬬の森は江戸を代表する社の森として「江戸名所図会」などに紹介されている。碑の内容は、日本武尊の東征の折、走水の海域(横須賀から千葉への東京湾)にて突如暴風雨。尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれている。
このお寺さまには明治の頃、四谷鮫河谷のスラムに集まった子供の教育のための三銭学校の教場として使われたこともある、と言う。授業料が三銭であったのが、名前の由来。

善慶寺
全勝寺を離れ、外苑東通りの一筋西の坂を靖国通に下る。「新坂」と呼ばれるこの坂は明治になってできたもの。新坂を下りきり、住吉町交差点辺りのお寺さまへの立ち寄りはこの程度にして、靖国通りを西に向かう。
道の北、崖の上に善慶寺。平秩東作が眠る、とのことであるので、靖国通と平行した坂を上る。が、なんとなく境内に入るのを憚られる雰囲気であったので、即撤退。平秩東作(へづつとうさく)は江戸の戯作者。平賀源内、大田南畝とも親交があり、江戸戯作の草分け的存在である。「世の中の人とたばこのよしあしは けむりとなりて後にこそ知れ」は平秩東作の作。



小泉八雲の碑
靖国通り脇、明治32年創立の成女学園校門の脇に小泉八雲の碑。この地が小泉八雲の東京での最初の住居であった。明治23年(1890)、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンはアメリカの出版社特派員として来日。来日後、その契約をすぐに破棄し、島根県松江中学校、そして熊本の第五中学校で教鞭をとる。日本人セツと結婚し、明治29年(1896)に日本に帰化し小泉八雲と名乗り、同年9月には東京帝国大学文学部の講師として招かれ上京、この地に住んだ。

富久町交差
成女学園の先の富久町交差点あたりは靖国通りを流れていた紅葉川の谷頭部だろうか。交差点からは幾条もの坂が台地に向かう。靖国通りも安保坂となって新宿・淀橋台地に向かって上る。富久町の台地を刻む谷は、現在の靖国通りを流れていた紅葉川渓谷の中で最大のものと言われ、四谷の一谷をなすものと、考えられている。カシミール3Dでつくった地形図をみると、新宿御苑あたりから富久町交差点の先を通り、北に若松町の先まで、標高30m強の細長い支尾根が延びており、このあたりでの最高標高点となっている。
安保坂を先に進めば新宿の繁華街。左の坂を上れば大木戸坂下交差点をへて四谷四丁目・四谷大木戸跡に続く。安保坂の地名の由来は、男爵安保清種海軍大将の屋敷から。



自証院
成女学園の東を上ると自証院。現在の自証院はつつましやかな寺域ではあるが、「江戸名所図会」を見ると、靖国通りから段坂の長い参道が続き、広い境内に総門、中門、本堂、方丈、庫裡が描かれている。
もとは牛込榎町にあった日蓮宗・法常寺をその起源とするが、寛永17年(1640)、三代将軍家光の側室であるお振の方(法名;自証院)をまつり、家光の命によりこの地に移る。法常寺は京の妙覚寺の日奥を開祖とする、日蓮宗不受不施派のお寺様。不受不施とは、日蓮宗以外の者から施しを受けず(不受)、また日蓮宗以外の僧侶に施しをしない(不施)というものであり、封建制度の為政者にとっては厄介なものであり幕府により禁制となったため、元文年間、というから18世紀の前半にこの寺は天台宗に改宗した。
「江戸名所図会」には『昔は山林に桜多かりし由、諸書に見えたれども、多くは枯れ失せて今わずかに古木二三株存せるのみ。』とある。「江戸名所図会」描かれた天保5年(1834)~7年には、樹木も枯れ失せた、とのことではあるが、小泉八雲は、老杉が鬱蒼と生い茂り、苔むした庭をこの自証院の風致を好んだとのことであるので、明治の頃まではそれ相応の自然の美を保っていたのであろう。瘤寺(こぶてら)とも呼ばれるように、皮を剥いただけで、樹木の節がそのままの檜丸太を集めて組み立てられた建物も気に入っていたようである。
寺が経済的理由で杉を切り倒すのを嘆き、「なぜこの木切りました。私、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るなとあなた頼み下され」(小泉節子「思い出の記」)とセツに懇願した、とも。この杉の木伐採事件がきっかけとなり、明治35年(1902)西大久保に転居したとも言われる。八雲の葬儀は自証院で親しくしていた旧住職の元で行われた。小金井公園にはお振の方の「旧自証院御霊屋(おたまや)」が移された。日光東照宮の如き黒漆塗りの極彩色の建物である。

禿坂
自証院を離れて富久町を成り行きで彷徨う。名前の由来は、「久しく富む」といった願い、から。先に進むと禿坂に。その昔、自証院横に小さな池があり、水遊びに来る童の髪型が禿のように、おかっぱを短く切りそろえていたから、と。
禿坂を進み、成り行きで右に折れ小径に入る。このあたり、市谷台町から富久町の小石川工高跡にかけて、その昔、といっても明治から昭和にかけて、ではあるが、市谷監獄があった。明治8年に日本橋伝馬町にあった牢屋敷をここに移し、市谷監獄としたが、昭和12年に廃止された。
刑務所正門は町を東西に通る台町坂にあった、とか。荷風の旧居にも近く、欧州留学に旅立つときは影も形もなかったものが、帰国後に屋敷前面に聳え立つ獄舎を見て『監獄署の裏』を書いた。大逆事件で知られる幸徳秋水もここで処刑された。荷風の『花火』の中には大逆事件についてのコメントもある。そのほか、明治45年には北原白秋が姦通罪で収監されている。お隣の婦人に横恋慕しての罪。示談にはなったようだ。明治の毒婦高橋お伝もここで執行された。明治12年、日本で最後の斬首刑であった。



西光庵
禿坂を進み東京医科大の塀に沿って道なりに進み西光庵に。落ち着いたいい雰囲気のお寺様。尾張藩14代主徳川慶勝と、その子で戊辰戦争の折に官軍として東海道先鋒をつとめた義宣が眠る。慶勝は長州征伐の際の総督。尾張藩の支藩である美濃高須藩主松平義建の次男であり、兄弟には会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、15代尾張藩主徳川茂徳とともに、名君・高須四兄弟として知られる。

西向天神
西光庵を離れ、そのすぐ北にある西向天神に向かう。崖面上の境内に佇む社は古く、安貞年間、というから、13世紀前半、鎌倉時代に京都栂尾の明恵上人が祀ったもの、と伝わる。その後、豊島氏、牛込氏、大田道灌といった、時代の覇者の尊崇・庇護を受けるも、16世紀後半の天正年間には兵火により焼失。その後、江戸時代の前期、聖護院宮道晃法親王が江戸に下った時、大僧都元信に命じ社殿を再建。

境内にある大聖院は往時の西向天神の別当寺。寛正年間(1460~1465)に牛込八郎重次(あるいは重行か)による創建、と伝わるが、江戸の頃は聖護院宮を開基とする門跡寺院となり、本山修験派の江戸の拠点となっていた。
この社は「棗(なつめ)の天神」とも呼ばれた。三代将軍家光も鷹狩りで訪れ、社殿の修理にと棗(なつめ)の茶器を下されたのが、その由来。境内には「紅皿の碑」が建つ。紅皿とは、太田道灌の山吹の里伝説、「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」を詠った女性の名前である。己の教養の足らざるを恥じた道灌は、その後紅皿を城に招き、歌の共にした、とのことである。山吹の里伝説は散歩の折々に出合う。道灌人気のバロメーター、か。

大窪
「江戸名所図会」にはこの西向天神は「大窪天満宮」とある。「江戸名所図会」には神社の下に小川が描かれている。これが江戸の頃の蟹川(金川)の流れであろう。西武新宿駅付近にあった池を水源とし、新宿ゴールデン街の北と太宗寺の池から水を集め、戸山ハイツから早稲田鶴巻町へと下る。この川が開析した谷地が大きな窪地となっていたため大窪と呼ばれたのだろう。大久保もこの大窪から、との説もある。カシミール3Dで地形をチェックすると、誠に大きな窪地が見て取れる。蟹川に沿って鎌倉街道が通っていた、とも。
この台地端からの景観を大町桂月は「新宿附近唯一の眺望よき処也(『東京遊行記;明治39年』)」、永井荷風は「タ日の美しきを見るがために人の知る所となった(『日和下駄;大正4年』)、と描く。

法善寺
一度天神前の蟹川の谷筋に下り、再び坂を上り台地上の都道302号・抜弁天交差点に。交差点の周囲には専念寺や専福寺、法善寺などのお寺さまが集まる。専福寺は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年が眠る。
法善寺は「江戸名所図会」に七面大明神社とも、大久保七面宮として描かれている。七面明神とは日蓮宗の守護神の一つであり、七面天女、七面大菩薩ともいう。日蓮宗の総本山である身延山の北にある七面山に住む天女であるが、日蓮上人の説法により救われたことを徳とし、龍に姿を変えて身延山を守護した、と。江戸にいくつかある七面明神の中で最初に祀られたものである。
「江戸名所図会」には奥に七面明神、手前に法善寺本堂が描かれている。法善寺は、もとは大森にあったとされるが、鳥取藩主池田伯耆守綱清の依頼により、身延山久遠寺から七面明神像をこの地に移し、七面堂を建てて安置。その後大森から法善寺が移ってきた、との説もある。



抜弁天
抜弁天交差点脇に抜弁天厳島神社のささやかな祠。第二次世界大戦の戦災により水鉢を残す、のみ。抜弁天の由来は奥州征伐に向かった八幡太郎義家が戦勝を祈願して厳島神社の弁天様を勧請したことよる。抜弁天と呼ばれるのは義家が苦戦を切り抜けたから、とか、往還が集まり、どちらにも通り抜けできたから、とか説はあれこれ。江戸の頃には江戸六弁天(本所・洲崎・滝野川・冬木・上野・東大久保)、山之手七福神として人々の信仰を集めた。

散歩をすると八幡太郎義家ゆかりの地に出合うことも多い。最初は「またか」、などと、少々うんざりしていたのだが、足立を散歩したとき、義家も含め奥州征伐へ向かう源氏の棟梁のゆかりの地を繋ぐと、奥州古道の道筋になっていた。伝説も見方を変えると別の情報源として意味あるものになる。この抜弁天も西向天神下の谷筋を鎌倉街道が通っていたとの説がある。義家が登場するのであれば、鎌倉街道かどうかは別にして、往昔の往還があったことは、それほど違和感は、ない。
それはそれとして弁天様って、水の神様。だいたい、どこの弁天様も湧水池がある。で、この抜弁天であるが、昔は湧水があった、と伝わる。地形図を見ると、新宿御苑のあたりからこの抜弁天、そしてその北の若松町、最北端は国立国際医療センターあたりまで標高30m強の尾根筋が続く。その尾根筋の水がこのあたりで湧き出たのであろう、か。
そういえば、この抜弁天のすぐ北に大久保の犬小屋跡があった。「生類憐みの令」で江戸市中から集めた数万匹の犬を「大切」に飼うには大量の水が必要だろうし、そのためには、この台地上では湧水地がなければ犬小屋など設置できやしない。ということは、このあたりには湧水点があったに違いない、とのロジックにて抜弁天に湧水あり、と我流妄想で、一応問題解決としておく。真偽の程定か成らず、は言うまでもない。

坪内逍遙宅跡・文芸協会演劇研究所跡
抜弁天のすぐ横あたりに坪内逍遙宅跡・文芸協会演劇研究所跡がある。明治22年(1889)、文京区散歩の折に訪れた炭団坂脇の屋敷からこの地に移った。小説をから離れ新しい演劇を興すために、明治42年、この屋敷内に文芸協会演劇研究所を建てた。第一期生には松井須磨子もいた、と言うが、大正9年には逍遥は熱海に居を移し。協会も解散。現在は民家が立ち並び、往時を偲ばせる物はなにも、ない。



大久保の犬小屋跡
抜弁天から現在都営大江戸線が地下を走る道筋を、大久保通り若松町交差点方面に少し東に進むと警視庁第八機動隊と余丁町小学校のあたりに大久保の犬御用屋敷跡の案内。案内によると;抜弁天の東側一帯(1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊(1万3千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後、世継ぎに恵まれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞亨4年(1687年)、「生類憐れみの令」を発し、生物の殺生を固く禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため、犬を重視した。これに伴い、元禄8年(1695)、飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯。旧囲町)の三カ所に「犬御用屋敷」を設置した。大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし、次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役割を移し、元禄十年十月に閉鎖され、跡地は武家居屋敷となった(新宿教育委員会)」、と。工事手伝いとして越中富山の前田利通、総奉行は側衆米倉丹後守伊昌、藤堂伊予守良直が任じられた。

永福寺
抜弁天交差点に戻り、交差点北にある山ノ手七福神のひとつ永福寺に。境内には大日如来の坐像と半跏趺坐の地蔵菩薩像、そして福禄寿の祀られる祠にお参り。七福神信仰は室町末期頃から始まったもので、インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入りまじって形成された、いかにも日本的な信仰の姿である。福禄寿は南極星の化身。長寿の神として親しまれた。



九左衛門坂
蟹川(金川)の谷筋を感じてみようと、都道302号を離れ、永福寺脇の坂を下る。道の脇に九左衛門坂とあった。九左衛門が造った故の命名。九左衛門は今回の散歩のはじめに出合った、左内坂の由来ともなった名主・島田左内の兄であり、大窪村の名主であった。
島田と言えば、現在防衛省のある市谷台(市谷本町)を開いたのが島田主計等7人の浪人と言われる。江戸時代以前の事で、家康入府の時には川崎まで出迎えた、とか。この島田主計と左内・九左衛門が関係あるのか無いのか、そのエビデンスは未だ目にしたことが、ない。

坂をのんびり下る。江戸の散歩の達人、村尾嘉陵もこの坂を下ったようで、『江戸近郊道しるべ』には、「久左衛門坂近くの大久寺境内には大きな松があったと」と描くが、松もなければ大久寺も、今は、ない。坂の周囲は、こじんまりとした商店街。この商店街の一隅に川端康成が住んでいた、と言う。全寮制の一高卒業後、東京帝国大学に入学し、下宿が決まるまで、この坂の近くにあった友人の下宿に同居させてもらっていた、とのことである。



島崎藤村の旧居跡
おおよそ200mほどの窪地を辿り、再び明治通りの走る台地へと上る。比高差は5mから10mといったところ。明治通りを越えて旧居跡を探す。ほどなく道脇、この道筋を職安通と呼ぶようだが、とまれ、大通りの脇、ビルの前に「島崎藤村旧居跡の案内と石碑」があった。案内によると「詩人・・小説家の島崎藤村(1872~1943)は、馬込(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)「文学界」の創刊に参加。明治30年の「若菜集」にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職した藤村は家族とともに上京し、翌39年10月2日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。この頃から小説に転向した藤村は、ここで長編社会小説「破戒」を完成し、作家として名声を不動のものとした。 しかし、一方で、転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった( 新宿区教委区委員会)」、と。
「破戒」は夏目漱石などから高い評価を受け、田山花袋の「蒲団」と共に、自然主義文学の代表作として知られる。藤村はその後、この大久保を離れ、「賑やかな粋な柳橋の芸者屋街に移転された(『思いいづるまま;三宅克己』)」、とのことである。明治39年の浅草区新片町のことである。



鬼王稲荷
地図を見ると、島崎藤村の旧居のすぐ近くに鬼王稲荷という社がある。「鬼王」という名前に惹かれて、職安通りから少し南に入り境内に。まずは、「鬼王」って何だ?とチェックすると、鬼王権現とは月夜見命・大物主命・天手力男命という三神合体の強力な神仏混淆の神さま、というか仏様。月夜見命は天照大御神の弟神で、天手力男命は天の岩戸をこじ開けた怪力の神様、大物主命は大国主命のこと。大黒様でもある。古来より大久保村の氏神として稲荷社が祀られていたこの地に、宝歴二年(一七五二年)、当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から紀州熊野より鬼王権現を勧請し、稲荷社と合祀し稲荷鬼王神社とした。
鬼王と言った、少々「特異」な名前の権現様を勧請できたのは、もともと、この地に幼少時に鬼王丸と称した将門公との因縁があったから、との説もある。北新宿、昔の柏木村に将門伝説とか将門討伐の将・藤原秀郷ゆかりの地が伝わる。この鬼王も、その一環であろう、か。

境内入り口に祀られる鬼の手水鉢は誠に面白い。鬼の頭に手水鉢が載っかっている。新宿区教委区委員会の案内によると;「この水鉢は文政の頃より旗本加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・」とある。この水鉢は、高さ1メートル余、安山岩でできている。

鬼王神社には「豆腐断ち」(鬼王神社に豆腐を献納し、治るまで豆腐を食べるのを我慢すれば、湿疹・腫れ物がなおる)の御利益が伝えられる。失明した滝川(曲亭)馬琴の口述筆記で知られる滝沢(土岐村)路の『路女日記には』、「おさち同道。自大久保鬼王権現江参詣。豆腐を納む。右鬼王権現ハ、腫れ物ニテ難儀致候者、全快ヲ祈候ヘバ、利益アリ。此故ニ、おさち疱瘡全快祈候所、ほど無く平癒ニ付、今日為礼参り豆ふヲ納、参詣す」、とある。効能あったのだろう。つい最近、馬琴と路を描いた時代小説を読んだばかりなのだが、どうしても書名が出てこない。なんだったか、なあ?群ようこさんの『馬琴の嫁』?

小泉八雲終焉の地
職安通りを隔てた北、大久保小学校の正門脇に小泉八雲終焉の地がある。先ほど訪ねた八雲旧居跡より明治35年にこの地に移るも、2年後の明治37年、この地にてなくなった。

百人町
山手線や西武新宿線が走るガードをくぐり、線路に沿って北に折れ、百人町を大久保通りへと向かう。百人町は江戸の昔、内藤清成が率いる伊賀組百人鉄砲隊の組屋敷があったところ。現在では、コリアンタウンと呼ばれる一部となっている。

皆中稲荷
大久保通りから続く細長い参道をちょっと進むと社がある。「みなあたる」稲荷、と読む。社伝によると、その昔、天文2年(1533)、大窪とよばれたこの地に、伊勢の御師の御旅所があり、伊勢参りの手配や御札配ったりと、あれこれしているうちに次第に多くの人が集まるようになり、御旅所を社と造り直した。その後、寛永年間というから17世紀の前半、鉄砲百人組がこの一帯に移り住んだ頃、射撃の訓練をするに際して、この社にお参りすると射撃の腕が上がった、とか。ために、社の名前も「皆中(みなあたる)」稲荷神社となった、とか。

鎧神社
日も暮れてきた。そろそろ家路へと思えども、地図を見ると皆中稲荷神社から西に進み、中央線が神田川を渡る少し手前に鎧神社がある。柏木村の鎮守と言うが、それよりなにより、鬼王神社や皆中稲荷神社と同じく、その名前に惹かれてもう少々散歩を続けることに。
現在の北新宿、昔の柏木村を成り行きで進むと神田川の右岸斜面上に鎧神社があった。江戸の頃までは「鎧大時明神」と称された、と。社名の由来は、日本武尊命が東征してきた際に、この地に甲ちゅう六具を納めたことによる、とも。また、天慶3年(940年)、藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しむ秀郷が、境内に将門の鎧を埋めてその霊を弔ったところ病が全快した、など、あれこれ。そのほか、天慶の乱のとき、将門の弟である将頼の陣を敷いた場所とも伝わる。先ほどの鬼王神社も含め、将門にまつわるエピソードが多いが、この神社を南に下った蜀江坂のあたりにも将門にまつわる伝説が伝わる。単なる伝説なのか、何かを示すシンボルなのか、問題意識としてもっておこう、と思う。

円照寺
鎧神社のすぐ南に円照寺。この寺院には藤原秀郷にまつわる縁起が伝わる。「江戸名所図会う」によれば、円照寺のあたりには醍醐天皇の頃に祀られた薬師如来の祠があった、とか。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門討伐軍を率いて出陣の途中、中野の辺りで病に伏すも、霊示によりこの祠にて祈ると苦痛が消え去り、将門討伐も達成。凱旋の後に堂塔を建立し、圓照寺とした。旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えられる。藤原秀郷って、我々団塊世代の人間には「俵藤太のむかで退治」としての印象が強い。もとより、周囲の若者は俵藤太って誰?と応える、のみ。

蜀江坂
円照寺を離れ蜀江坂に向かう。実の所、この蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込み、それゆえに疲れた足を引きずりながら新宿の西端まで辿ってきた。理由は、「蜀」という特異な文字と、いつかの散歩の折、新宿十二社熊野神社に蜀山人ゆかりの手水鉢などがあり、蜀山人はこのあたりを彷徨ったはず、と推論したわけである。実際は、この蜀江坂は蜀山人とは全く関係なく、中国の三国志で知られる蜀の首都、成都を流れる川である蜀江から、とのこと。蜀江付近の特産の絹織物が紅葉のような緋色であった、と言う。
野口武彦さんの書いた本に『蜀山残雨(新潮社)』がある。その冒頭あたりに、蜀江坂が蜀山人ゆかりの地ではないことがわかり、がっかりした、といった記述があった。野口武彦もそう思い込んだ根拠は、この「蜀」という文字面と、この柏木成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸があったりしたことがそのひとつであった、と記していた。蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込んだのが自分だけでないことがわかり、なんとなく心嬉しい。
蜀江坂は円照寺を南に下り、大久保通りを越えた先にある。蜀江園跡と記される大久保通との交差点北に、明治の司法卿・江藤新平旧居跡(新宿区北新宿 3-10-18から20)とか、大町桂月旧居跡(新宿区北新宿 3-13-22から25)とか、南には内村鑑三終焉の地(新宿区北新宿 1-30-25)などがあるようだが、あれこれ彷徨うも、案内もなく、日も暮れ始めてきたので、結局あきらめて先に進む。大町桂月の紀行文は誠に、いい。
大久保通りを越え先に進むと緩やかにカーブした、誠に緩やかなる坂がある。この坂が蜀江坂。蜀江坂と呼ばれるようになった由来は、このあたり一帯の台地の紅葉が美しく、将軍家光が蜀江の錦に例え、以来、蜀江山と呼ばれ、その坂を蜀江坂とした、とか、平将門(ないし弟将頼)が、このあたりに陣を敷いたとき、敵襲が素早く、鎧を着けるまもなく応戦したため、蜀江錦の衣の袖が切り落としたため、とか、例によってあれこれ。今となっては、旧家を壊し再開発が行われる北新宿の一画であり、昔日の趣は、ない。

成子天神
蜀江坂を下り、後は一路家路へと新宿駅に。成り行きで青梅街道に出て東に向かうと、街道脇に成子天神の石碑。ビルに囲まれた細長い参道を進むと本殿がある。延喜3年(903年)の創建と伝わるこの社は、祭神は菅原道真。建久8年(1197年)に源頼朝が社殿を造営したとも言われるが、詳しいことは不明。ちなみに、菅原道真の係累も将門との関わりも、結構深かった気がする。
富士塚が本殿の裏手にあるようだが、普段は公開していないようだ。神社は神楽坂散歩のときに赤城神社で見たような、境内敷地に高層マンションを建設する計画があるよう。本殿もそのうちに赤城神社のようなモダンな風情と変わってしまう、かも。
成子坂
神社を離れ、成子坂、これって濁り坂の商いの合図に「鳴子」を取り付けたことが名前の由来のようだが、現在は車の往来の激しい青梅街道喧噪が響く、のみ。坂を進み新宿駅から一路家路へと。
本日は距離の割には、長い、距離が長いというより思いの外メモが長くなった散歩となってしまった。次回の四谷散歩もどうなることやら。

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