図書館にいけばなんとかなるだろうと、新居浜市の図書館に行くも、『銅山川疏水史』といった疏水成立までの経緯をまとめた大作はあるも、流路に関する資料は皆無。それではと、伊予三島、今の四国中央市の図書館に行けば疏水の地元であり、なんらかの資料があるだろうと訪ねるが流路に関する資料はなかった。

その資料をもとに、重石川までの水路橋などの施設名称、重石川から先の山中を進む隧道が沢を越えるときに現れる水路橋の場所などをお教え頂き、戸川公園から西に向かう銅山川疏水の施設名と位置が確認できた。散歩の時は単なる水路橋としかわからなかったものに名称をつけてメモすることができたるようになった。深謝!
で、今回の散歩は未達区間である重石川水路橋から新長谷寺までの水路橋を辿ることにする。紀井氏に教えて頂き地図上に施設マークがあるので、万全と思いきや、先回の散歩でメモしたように、楠谷川水路橋のある沢が完全に頭から抜け去っていたため、結構大騒動となってしまった。ちゃんと地図を読むといった基本を思い起こすためにも、ドタバタの顛末も含めメモを始める。
本日のルート;新長谷寺>長谷川水路橋>沢遡上>小倉川堰堤の先の沢遡上>楠谷川水路橋>楠谷川分水口>大倉川水路橋>小倉川サイフォン>新長谷寺
新長谷寺
水路は境内で3つの水路に分かれ、さらに分岐をしながら西寒川地区の生活水として流れていたようである。何度かメモしたように、この地区の特徴である発達した扇状地の厚く堆積した砂礫故に地下水位が深く、井戸を掘るのが困難であり、生活用水は河川の谷口、扇状地の扇頂から取り入れた水路を頼りとせざるを得ないため、各家庭は水路の水を「くみじ」を設けて引き込み、上水道が完備するまでは飲料水としても利用していたという。「くみじ」は長さ1.5m、幅70~80cm程度の長方形の水溜であり、水路の一角であったり、屋敷内に引き込んだりして造り、そこで汲み上げられた水は水瓶で濾過されて飲用された、とある。
長谷川水路橋
水路橋はここから西は再び隧道に入り、西谷川の川筋で再び姿を現す。長谷川水路橋から西の疏水と、戸川分水工から東の川之江方面に向かう銅山川東部幹線は次回帰省のときのお楽しみとする。
沢遡上
で、結果として堰堤のある小倉川である川を大倉川と思い込んだ結果、そこまでの間に「小倉川」を見つけ出さなければならない。ということで、何とか沢筋がないものかと進むと、山からの落水により人がひとり通れるかどうかといった「沢」を見つけ、そこに這い上がる。山から流れる水によって、誠に狭いながらも「沢」とはなっており、その狭さ故に「小倉川」と呼ばれるのであろうと妄想し、沢をよじ登る。
道から15分ほど、比高差で30mほど沢を這い上がるが、水路橋など何も見当たらない。結局あえなく撤退。次の大倉川(本当はこれが小倉川)で堰堤の先を進み水路橋を見つけ、そこから「小倉川水路橋」へのあたりをつけようとの思惑である。
小倉川堰堤の先の沢遡上
堰堤での標高112m,時刻12時10分に沢を上り始める。途中、沢が分かれたり、水が切れたりするも、ひたすらに沢筋を這い上がる。が、いくら登っても水路橋は見つからない。ここで見つけないことには、と思うあまり、標高から考えても、疏水がこんな高いところを通るはずはないのはわかっていながらも、先に見えるものがすべて水路橋と見える有様。
ほとんど意地になって沢を這い上がった結果、気が付けば標高300m。40分近く沢を上っていた。結局この沢も水路橋をみつけられないまま撤退。下りは転びつつ、まろびつつといった有様で足元は泥だらけとなって堰堤まで下り、少々悔しい思いをしながら道に戻る。道に戻ると時刻は13時15分となっていた。1時間ほど山中の沢を彷徨ったことになる。
楠谷川水路橋
で、気分も新たに、ということで楠谷川から西に順に水路橋を辿ろうと、喜蔵川左岸に。川に沿って先に進むと楠谷川水路橋が現れた。ここさえ先回きちんと辿っておれば本日のドタバタは無かったかとも思うが、後の祭りである。
楠谷川分水口
大倉川水路橋
小倉川サイフォン
道を進むと護岸工事された川筋となり、そこを水路橋を求めて堰堤下まで進むがそれらしき橋は見つからない。堰堤下で引き返し、護岸工事の川筋を戻る途中、ちょっと気になる構造物が川筋の左右にある。ひょっとしたら水路橋ではなくサイホンでは。勝手な想像だが、堰堤ができるときに、その下流に架かる水路橋をサイフォンとして川筋の下を潜り、大水の被害を受けないようにしたのではと思う(後日、紀井氏より、平成16年(2004)、護岸工事の際、水路橋では洪水に耐え切れないとの理由でサイフォンとなった、との連絡を頂いた)。後からチェックするとWEBの「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」のページにも「小倉川サイフォン」となっていた。
新長谷寺
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