月曜日, 12月 16, 2013

愛媛・銅山川疏水散歩 そのⅠ;戸川公園から新長谷寺まで銅山川疏水西部幹線を辿る

数か月前のこと、愛媛の田舎に帰省の折、弟の運転で母と共に四国霊場札所65番三角寺と札所66番雲辺寺を訪ねた。四国中央市の法皇山脈の山中にある四国霊場札所65番三角寺から金生川の谷筋に下り、境目トンネルで分水嶺を越え、馬路川筋に沿って進み、阿讃山脈標高927mの雲辺寺山にある札所66番雲辺寺(徳島県三好市池田町)を訪れたわけだが、その際、四国中央市から三角寺への山道を上る途中で偶然、「戸川公園:疏水公園」に出合った。その公園は銅山川疏水を記念する公園であった。
いつだったか、阿波の忌部神社を辿った時、池田町の池田ダムをきっかけに吉野川総合開発計画のことを知り、そのコンテキストの中で吉野川の水を巡る徳島県と他の四国3県の鬩ぎ合い、池田ダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち香川に水を通した香川用水、また、吉野川水系銅山川の柳瀬ダムや新宮ダムから法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している銅山川分水・疏水のことを知った。戸川公園は法皇山脈の隧道を抜けた銅山川からの分水が、標高293m当たりで発電用水と農業用水(疏水)に分かれて下る麓にあった。
用水フリークとしては偶然の幸せ、Serendipityに感謝し、戸川公園のことをチェックすると、この公園の辺りから東西に用水路が伸びているとのこと。東には川之江の方面に5キロほどの東部幹線が、西には土居方面に向かって14キロほどの西部幹線が伸びている。で、今回は、銅山川疏水の西部幹線を辿ることにした。
ルートを調べるに、WEBにはしっかりしたルート図が見つからない。唯一「農林水産省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」には水路橋などのルート記載があるのだが、地図とリンクしていないため、場所がわからず、ひとり歩きではどうしようもない。
仕方なくGoogle Mapを見ると、戸川公園の辺りから、如何にも用水路らしき水路が途切れ度切れに重石川辺りまでは辿れる。しかし、その先は山中の隧道に入るのか、はたまた松山自動車道傍に途切れ途切れ見える水路に沿って長谷川沿いにある新長谷寺の辺りまで進むのか、ルートは今一つはっきりしない。が、いつもの散歩の基本である成り行き任せ、行けば何とかなるかと疏水を辿ったのだが、案の定重石川から先は、水路がさっぱりわからなかった。
後日、田舎の新居浜の図書館、三島の中央図書館などを訪れ文献を調べたのだが結局疏水流路ついての情報は全く見当たらなかったため、迷惑も顧みずWEBで見つけた「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疎水の歴史探訪」のページにあった愛媛県四国中央市農林土木課(実際疏水産課)に勇気を奮って電話。疏水担当の紀井正明氏に親切に応対頂き、その資料をもとに、重石川までの水路橋などの施設の名称、重石川から先の山中を進む隧道が沢を越えるときに現れる水路橋の場所などをお教え頂き、戸川公園から新長谷寺までのルートを辿ることができた。
以下、紀井正明氏のご厚意により作成した銅山川疏水のルートを提示し,銅山川疏水の概要をまとめたあと、2回に渡る銅山川疏水散歩の試行錯誤、ドタバタを反省も込めて時系列にそのままメモする。新長谷寺から土居方面、戸川公園から川之江方面への散歩は次回のお楽しみである。

銅山川疏水西部幹線

銅山川疏水西部幹線ルート;銅山川疏水分流点>柱尾分水口>境川水路橋>小広尾川分水口>小広尾川水路橋>古川水路橋>野々首分水口>琵琶谷川水路橋>琵琶谷川分水>岡の坊水路橋>岡の坊分水口>不老谷川分水口>不老川谷水路橋>世水吐>古池分水口>サイフォン>石床橋水路橋>的の尾分水口>スクリーン>大谷西分水>大谷川サイフォン>山田川水路橋>山田分水口スクリーン>桶尾谷川水路橋>重石川水路橋>楠谷川分水口>楠谷川水路橋>大倉川水路橋>小倉川サイフォン>長谷川水路橋>西谷川分水口>東谷分水口>中井出分水口>豊岡川水路橋>豊岡川分水口>サイフォン>耳神分水口>鎌谷川水路橋>中山分水口>岡銅分水口>隅田川水路橋>長田分水口

通水
「馬瀬に集う人々の顔はみんながみんな喜悦に輝いている。隧道口にしゃがんで水の出を待つ人々の眼は百年もの長い間待ちに待った歴史的な光さえも帯びているようだ。 あっ!水だ!出たぞ、瞬間の歓声で宇摩郡民にとっては正に手にすくい上げては喜び合う人々の顔、歓声のルツボである。一升瓶に詰め込まれ水は黄金の流れだ、手に手各自の家々に持ち帰られるであろうが、この水で、今夜の一家団欒は、一層の賑やかさを醸し出すことだろう」。これは合田正良著『銅山川疏水史』の一節。昭和25年(1950)、銅山川の水が法皇山脈を掘り抜いた2900mの隧道を抜け、宇摩地方に水が流れ出した時のことを描いたものである。
銅山川の水を、峰を越えて分水する隧道工事が開始されたのは昭和12年(1937)のこと。分水とは、水系を越えて他の地域に水を分けることをいう。同年8月に馬瀬谷の分水吐出口切取りよりはじまった隧道工事は断層に遭遇し湧水が多く工事が難航、加えて昭和17年(1942)には戦争により工事中断することになった。
戦後、昭和23年(1948)に工事が再開され、昭和24年(1949)には隧道が貫通。貫通時の様子は「坑内は工事が長くのびた為、資材の腐朽と雨のような湧水の為、計算上残すところ二m以下の筈であったこの坑道内に入る者がない。時に同二四年六月三〇日午前九時であった。仕方なく三人の責任者だけで一二五〇mの奥で腐臭と削岩機の騒音に耐えて作業した。午後一一時四〇分、向うのハッパの煙がこちらの穴へ出た(愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶;銅山分水と水資源」)、とある。そして昭和25年(1950))には、仮通水の後、8月に内部仕上げが終結し通水式が行われた、とのことである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

安政2年(1855)に遡る銅山川分水構想
隧道工事が完成し通水されたのは工事開始から23年後のことであるが、銅山川の水を峰を越えて宇摩に通そうとする構想が持ち上がったのは遥か昔、安政2年(1855)に遡る。
安政2年(1855)、宇摩地方は大干ばつに見舞われた。井戸は涸れ、池も底をついた。農民たちは雨乞いをしたが効果はなく、峰一つ越した銅山川に流れている水を引き入れることができればと考えた。そこで、三島・中曽根・松柏・妻鳥の庄屋たちが立ち上がり、連名で三島代官所に「大川河水利用もくろみ書」を差し出した。これはノミと鍬で法皇山脈をくり抜こうとするもので、代官から一蹴されたが、銅山川疏水の着想はこの時が始まりとなった(四国災害アーカイブス;安政2年の干ばつ)。
三島村の庄屋、喜兵衛らが作成した『目論目書』には「宇摩の河川は流域短小かつ勾配急竣なるを以て、降雨あるや直ちに出水し、晴るればたちまち断水し、夏期干天には河底に点滴を止めざる状態にあり、……ニ年ないし五年毎には干害を免るること能わざるも、百姓なるが故に不 安焦慮の中に伝来の天職を継続しつつあり、……しかるに南方にそびゆる法皇の分水嶺を越ゆれば大川なり。よって水源をこの川に求め、法皇の山嶺に隧道をうがち導水して、水田の用水補給を行い、その干害を除去して毎年の損失を除き……」、とある。

宇摩地方の地形的・機構的特徴
『目論見書』にもあるように、地形的特徴としての宇摩地方は、瀬戸内海と法皇山脈とが近接し、海岸から5キロもいかないうちに切り立った山に入り、大河がなく川は細い。その上、中央構造線に沿う断層崖の地形として名高い法皇山脈の北側斜面は、切り立った急峻な崖が連続し、そこを流れ下る河川は急流で平野部に流入する。ために、谷口を頂点として多量の砂礫を堆積し形成された扇状地は地下水位が深く水の取得に困難を極めたようである。
さらに、同地方の気候的特徴は瀬戸内式気候に属する温暖少雨の気象であり、地形・気象的条件が相まって水に苦しむ宇摩地方は峰の向こうを流れる銅山川にその活路を求めることになる(愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」)。

幕末から明治時代
安政2年(1855)に構想され、100年近くかけて実現した銅山川からの分水の歴史を,合田正良著『銅山川疎水史などを参考に』時系列でまとめてみるに、上にメモしたように安政2年(1855)、宇摩の三庄屋が今治藩三島代官所に出した疏水事業の目論見書は幕末の混乱期でもあり、特に進展はなかったようだ。明治期も地元有志や商社の動きはあるものの、具体的な進展は見られず、分水事業が具体的に動きはじめたのは大正に入ってからである。

■大正時代
大正時代の分水事業の推進は篤志家を核にした私人・私企業に拠るもののようである。大正3年(1914)には地元民の懇請により岡山在住の篤志家紀伊為一郎氏が分水計画を愛媛県に提出。紀伊氏が川之江出身ということもあり、地元の渇水を苦慮し私財を投げうち事業を推進するも、進展は捗々しくなく、結局は大正13年(1924)には宇摩郡の全町村長、議員連盟で分水計画を内閣に提出、宇摩郡疏水組合結成に到る。篤志家・私企業での事業推進から自治体での事業推進へのシフトと言えよう。

大正末期から昭和25年(1950)の隧道通水まで
大正末期から昭和25年(1950)の隧道完成までは地方自治体・県主体の事業計画推進となる。
大正14年(1925)、宇摩郡疏水組合事業を県営に委譲。銅山川疏水事業期成同盟会結成。法皇山脈を貫く導水事業を行政に働きかける。
昭和3年(1928)、期成同盟の話を受け、愛媛県が柳瀬ダムによる分水計画提出。利水・発電を目論む。
昭和6年(1931)、愛媛県知事、徳島県知事が協議。仮協定の覚書締結。しかし、事前に県会の承認を受ける内務省令の手順を踏まなかったため、徳島県議会は同意せず。
昭和7年(1932)、徳島県議会全会一致で分水反対案を可決。 昭和10年(1935)、疏水組合に替り、愛媛県が徳島県との交渉の主役に。同年,内務省が、愛媛県に計画縮小を指示。発電計画の中止。分水量縮小で両県に斡旋を図る
昭和11年(1936)、第一次分水協定締結。灌漑用水のみ分水、柳瀬ダムの建設、下流放流義務化を合意。
昭和12年(1937)、愛媛県により宇摩への隧道建設着工。柳瀬ダム建設開始。 昭和20年(1945)、戦時下の電力需要により軍需省が発電要請。発電を含めた第二次分水協定締結。
昭和22年(1947)、第三次分水協定締結。内務省は吉野川の治水の必要性から未着工であった柳瀬ダム事業を,洪水調整を含んだ多目的ダムとし、第一次分水協定と同量の下流放水量に戻したものとなる。
昭和24年(1949)、愛媛県の委託で建設省が柳瀬ダム建設に着工。 昭和25年(1950)、仮通水。宇摩地方に水が流れる。安政2年(1855)以来96年ぶりに峰の向うの水が流れることになった。

昭和25年(1950)から吉野川総合開発へ
昭和26年(1951)、柳瀬ダムの完成を待たず、隧道貫通後分水を可能とする第四次分水協定の成立。工業用水利用の道を開く。
昭和28年(1953)、柳瀬ダム完成。銅山川第一発電所竣工。 昭和29年(1954)、銅山川第二発電所竣工。
昭和33年(1958)、ダムよりの責放流を一定とせず、吉野川中流域の流量による調整放流が可能となる第五次分水協定締結。
昭和39年(1964)、分水増量となり川之江へ分水する幹線水路完成。 昭和41年(1966)、吉野川総合開発計画策定。早明浦ダム建設に愛媛県が参加することより、下流への責任放流の義務がなくなる。

以上銅山川からの分水事業の歴史を見るに、基本は分水を求める愛媛県と、それを是としない徳島県の鬩ぎあいの歴史でもある。「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この基本にあるのは銅山川も含めた吉野川水系全体の分水事業が徳島県に与えるその影響と、その他の愛媛・香川・徳島に与える影響が全く異なることにある。

吉野川水系の徳島に及ばす影響と、その他四国3県の関係
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のこととを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。銅山川分水をめぐる愛媛と徳島の協議が難航した要因はここにある(「藍より青く吉野川」を参考にさせてもらいました)。

吉野川総合開発計画

この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。(「藍より青く吉野川」)。

■現状
以上のような歴史的経緯により銅山川より分水されることになった水は、柳瀬ダムから隧道を抜け、計画高水流量2600m3(毎秒)のうち1200m3(毎秒)の洪水調節を行い、宇摩地方の水道用水として最大0.35m3(毎秒)、工業用水として最大2.55m3(毎秒)、灌漑用水として年間 650万m3を供給し、銅山川第1発電所最大出力1万 700KW、銅山川第2発電所最大出力2600KWの発電を行っている。

銅山川疏水の銅山川分水事業における位置づけなどあれこれ考えているうちにイントロが長くなってしまった。灌漑用水、水道用水、工業用水、発電用水として供給され、宇摩地方の農業、工業、産業、そして日常生活の基礎をなしている銅山川の分水のうち、農業用の灌漑用水として流れる銅山川疏水の散歩に出かけることにする。

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