火曜日, 4月 02, 2013

神田川散歩そのⅣ;青梅街道・淀橋から目白台地下・関口大洗堰まで

神田川散歩そのⅣ;青梅街道・淀橋から目白台地下・関口大洗堰まで
本日は環七を越えた神田川が、行く手を淀橋台地に阻まれ流路を変えて北に向かい、目白台地下を東流してきた善福寺川と落合の地で、文字通り落ち合い、目白台地下を関口大洗堰跡までメモする。
武蔵野台地が流れによって開析されてできた台地の中でも、目白台地はその急峻な崖面をその特徴とするが、その先端部近くにあるのが関口大洗堰である。井の頭の池を水源とし、武蔵野台地の開析谷を流れる自然河川を繋ぎ合わせ、妙正寺川、そして善福寺川の水を合わせた神田上水の水路は関口大洗堰で上水貯水場となる。
今回の散歩にメモは、水戸の上屋敷に引かれ、その先は神田・日本橋地区の人を潤す上水路と、余水を流す神田川に分かれる分岐点である関口大洗堰までとする、
本日のルート;栄橋>伏見橋・高歩院>末広橋・桃園川合流>柏木橋>新開橋>万亀橋>東中野・中央線>小瀧橋>久保前橋・落合水再生センター>せせらぎ橋>新掘橋・高田馬場放水路>善福寺川・高田馬場放水路合流点>滝沢橋>落合橋>宮田橋>田島橋>清水川橋>神高橋>高塚橋>戸田平橋>源水橋>高田橋>高戸橋>曙橋>面影橋>三島橋>中之橋>豊橋>駒塚橋>大滝橋

栄橋・伏見橋
今回の散歩の出発点である淀橋を過ぎ栄橋を越えると伏見橋。明治時代の後半、皇族「伏見宮家」の広大な別邸が存在したことが名前の由来、とか。神田川左岸、小淀山の高歩院の辺りにあったようである。紀尾井町・井伊家屋敷跡(ニューオータニの敷地)にあった伏見宮家の別邸だったのだろう、か。また、この伏見宮別邸の辺りには明治までは明治天皇の侍従である山岡鉄舟も住んでいた、とのこと。高歩院の「高歩(たかゆき)」は鉄舟の諱(山岡哲太郎高歩)。禅道場とか剣道場はあるものの、お寺様といった趣きではない。

蜀江坂
伏見橋の右岸、大久保通り・蜀江園交差点を南に進むと緩やかにカーブした、誠に緩やかなる坂がある。この坂が蜀江坂。蜀江坂と呼ばれるようになった由来は、このあたり一帯の台地の紅葉が美しく、将軍家光が蜀江の錦に例え、以来、蜀江山と呼ばれ、その坂を蜀江坂とした、とか、平将門(ないし弟将頼)が、このあたりに陣を敷いたとき、敵襲が素早く、鎧を着けるまもなく応戦したため、蜀江錦の衣の袖が切り落としたため、とか、例によってあれこれ。蜀江とは蜀の首都、成都を流れる川であるが、この蜀江付近の特産の絹織物が紅葉のような緋色であったため、と言う。今となっては、旧家を壊し再開発が行われる北新宿に昔日の趣は、ない。
いつだったか、この蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込み、訪ねたことがある。理由は、「蜀」という特異な文字と、先回散歩でメモしたように、新宿十二社熊野神社に蜀山人ゆかりの手水鉢などがあり、蜀山人はこのあたりを彷徨ったはず、と推論したわけである。実際は、この蜀江坂は蜀山人とは全く関係なく、中国の三国志で知られる蜀の首都、成都を流れる川である蜀江から、であった。
野口武彦さんの書いた本に『蜀山残雨(新潮社)』がある。その冒頭あたりに、蜀江坂が蜀山人ゆかりの地ではないことがわかり、がっかりした、といった記述があった。野口武彦もそう思い込んだ根拠は、この「蜀」という文字面と、この柏木成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸があったりしたことがそのひとつであった、と記していた。蜀江坂は大田南畝こと蜀山人ゆかりの地と思い込んだのが自分だけでなかったようである。

末広橋
大久保通りに架かる末広橋の手前で桃園川緑道が合流する。排水口は末広橋の北に見える。合流点の辺りに南こうせつのフォークソング「神田川」の歌碑がある。この「神田川」ゆかりの銭湯は先ほどの菖蒲橋の辺りとメモしたが、これも諸説あるようだ。

桃園川緑道は、元来杉並区天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し、阿佐ヶ谷駅の東で中央線を南に越え、南東に下って環七・大久保通り交差点の少し北で環七と交差。その後はおおよそ大久保通りに沿って進み末広橋脇(中野区)で神田川と合流する。源流点の弁天沼(現在は公園と成っている)から中央線を越えるまでは暗渠というか、道路として埋められているが、中央線を越えたあたりから「桃園川緑道」として神田川合流点まで続く。

桃園川の名前の由来は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があった、ため。(その後桃園は中野に移されている)。江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められた。大正末期になると関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消した。

桃園川を最初に歩いたのはいつの頃だっただろ。当時は源流点は西武グループの堤義明さんの杉並のお屋敷の中にあり、池を見ることはできなかったが、二度目の時はお屋敷を壊し更地にする真っ最中。三度目には公園と様変わりしていた。

末広橋を少し東に向かった蜀江園跡と記される大久保通との交差点北に、明治の司法卿・江藤新平旧居跡(新宿区北新宿 3-10-18から20)とか、大町桂月旧居跡(新宿区北新宿 3-13-22から25)とか、南には内村鑑三終焉の地(新宿区北新宿 1-30-25)などがあるようだが、あれこれ彷徨うも、案内もなく、見つけることはできなかった。

柏木橋・新開橋・万亀橋

柏橋、新開橋、万亀橋と進む。明治の地図には柏橋あたりに小橋が架かっている。柏橋だろう、か。それはともあれ、神田川の右岸の北新宿は、その昔は柏木と呼ばれた。柏木と名前のついた公共施設が昔の名残を伝える。中央線と神田川が交差するところに柏木不動尊という、ささやかな祠が祀られていた。また、万亀橋近くのJR総武線・東中野駅も甲武鉄道当時は柏木駅と呼ばれていたようで、東中野となったのは大正6年(1917)になってからである。




円照寺
柏木の地名の由来には諸説あるが、一説には神田川右岸にある円照寺がその館跡とも伝わる柏木右衛門佐頼秀から。柏木右衛門佐は平安時代の地頭職であった、とも伝わる。円照寺には藤原秀郷にまつわる縁起が伝わる。「江戸名所図会」によれば、円照寺のあたりには醍醐天皇の頃に祀られた薬師如来の祠があった、とか。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門討伐軍を率いて出陣の途中、中野の辺りで病に伏すも、霊示によりこの祠にて祈ると苦痛が消え去り、将門討伐も達成。凱旋の後に堂塔を建立し、円照寺とした。藤原秀郷って、我々団塊世代の人間には「俵藤太のむかで退治」としての印象が強い。もとより、周囲の若者は俵藤太って誰?と応える、のみ。

鎧神社

円照寺のすぐお隣に鎧神社がある。柏木村の鎮守と言う。江戸の頃までは「鎧大明神」と称された。社名の由来は、日本武尊命が東征してきた際に、この地に甲ちゅうを納めたことによる、とも。また、天慶3年(940年)、藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しむ秀郷が、境内に将門の鎧を埋めてその霊を弔ったところ病が全快した、など、あれこれ。そのほか、天慶の乱のとき、将門の弟である将頼の陣を敷いた場所とも伝わる。
この辺りには鬼王神社(明治通り地下鉄東新宿駅近く)など含め、将門にまつわるエピソードが多い。この神社を南に下った蜀江坂のあたりにも将門にまつわる伝説が伝わる。単なる伝説なのか、何かを示すシンボルなのか、はてさて。境内の天神社には一対の狛犬型の答申塔が建つ。散歩の折々に、多くの庚申塔をみたが、狛犬型の庚申塔ははじめてである。


大東橋・南小滝橋・亀齢橋
中央本線を越えると大東橋。かつての地名・大塚の東にあったから、とか。南小滝橋、亀齢橋と続く。

百人町
神田川右岸、中央線、山手線、早稲田通りに東西南北を囲まれた大久保方面には、百人町と昔の地名が残るが、これは徳川家康江戸入城の際に内藤清成が率いる伊賀の鉄砲百人隊の屋敷地であったことによる。
JR大久保駅近く、大久保通りから続く細長い参道をちょっと進むと皆中稲荷神社がある。「みなあたる」稲荷、と読む。社伝によると、その昔、天文2年(1533)、大窪とよばれたこの地に、伊勢の御師の御旅所があり、伊勢参りの手配や御札配ったりと、あれこれしているうちに次第に多くの人が集まるようになり、御旅所を社と造り直した。その後、寛永年間というから17世紀の前半、鉄砲百人組がこの一帯に移り住んだ頃、射撃の訓練をするに際して、この社にお参りすると射撃の腕が上がった、とか。ために、社の名前も「皆中(みなあたる)」稲荷神社となった、とか。

小滝橋
早稲田通りに架かるのが小滝橋。その昔、橋の下に堰があり、そこがちょっとした滝のようであったのが名前の由来。江戸の頃は、橋の周囲に茶屋が並び、大いに賑わった、とか。
この橋は「姿見(すがたみ)の橋」と呼ばれる。神田川を少し上った淀橋が、別名「姿見ずの橋」と呼ばれているのと対をなす。淀橋こと「姿見ずの橋」は上でメモしたように、14世紀の末から15世紀の初頭にかけ、熊野よりこの地に来たりて、原野を開拓し艱難辛苦の末、中野長者と呼ばれるまでになった鈴木九郎が、十二社の熊野神社を建立するほど蓄えたその財産を、下男に隠し場所に運ばせては口封じのため殺めた。その数は10名を超えた、とか。橋を渡る姿は見たが、戻る姿が見えなかったの青梅街道に架かる淀橋こと「姿見ずの橋」。一方、この小滝橋こと、この「姿見の橋」は、親の因果が子に報い、というわけで、鈴木九郎の娘の小笹が婚礼の日に蛇と化身し、川に身を投げた。その姿が見つかったのが、この「姿見の橋」、だとか。
江戸から明治にかけては、この小滝橋から下流の田島橋まで橋は、ない。

久保前橋・落合水再生センター
早稲田通りを過ぎると久保前橋の手前から神田川左岸に落合水再生センター。この施設では新宿区、世田谷区、渋谷区の全体、中野区の大部分とそして杉並区、豊島区、練馬区の一部の地域の下水処理を行っている。ここで高度処理された下水は再生水として新宿副都心のビル群のトイレ用水として再利用。また、東京の城南地区の三河川の清流復活事業の養水として渋谷川、目黒川、呑川に導水されている。
西落合水再生センターからの導水をはじめて知ったのは呑川を河口から遡り、大岡山の東京工業大学のあたりで開渠が暗渠となるあたり。その地の案内に、落合水再生センターから水が送られる、とあった。はるばる落合から。と、結構驚いた。
その後、烏山川と北沢川を辿ったとき、このふたつの暗渠河川が、池尻あたりで合流し開渠となると、それまで痕跡もなかった水が突然流れはじめるが、それが落合水再生センターからの高度処理水であった。烏山川と北沢川が合わさって目黒川となり、246号との交差あたりから急に水量を増して流れていた。

渋谷川も落合水再生センターからの水である。そういえば、渋谷川に合流する春の小川の部舞台となった甲骨川も、宇田川も初台川も、富ヶ谷川、原宿川もすべて暗渠で、水が流れる痕跡もなかったが、渋谷川となって渋谷の駅前で開渠となった時には、水が流れていたなあ、などと、今更納得。
西落合水再生センターの処理施設はコンクリートで蓋を被せ、その上に野球場やテニスコートを整備した緑の公園となっている。落合中央公園と呼ばれるこの公園は、住宅街に処理施設を造ることに反対した住民に対し、強行手段で処理施設を造った都当局の環境整備施策ではあろう。

月見岡八幡神社
中央公園の西に月見岡八幡神社。名前の由来は元の境内池に湧井があり、その水面に映える月光があまりに美しかった、ため。元は現在地より少し南東にあったが、その地が水道局落合水再生センターの用地となったため、現在地に遷座した。
創建年代は不明ではあるが、源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたと伝わる。旧上落合村の鎮守であり、祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇と、八幡さまのメーンの神様である応神天皇の女房・子供で構成される。八幡系の御霊社である葛谷御霊神社や中井御霊神社が応神天皇の女房と父親が祭神となっているのと、少々組み合わせが異なっている。
境内社として明治39年(1906)に北野神社、昭和2年(1927)には浅間神社と富士塚を合祀した。浅間神社は山手通りと早稲田通りの交差するあたりにあり、その富士塚は寛政2年(1790)、大塚古墳をもとに造られたために、「落合富士」と呼ばれていたようである。散歩を初めて、都内・都下に数多く残されている富士塚に出合い、江戸の頃の富士講の繁栄振りが偲ばれる。
境内には正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔、また、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口、そして、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が残る。谷文晃は江戸中期の文人画家。上方文人画家に対し、江戸画家の中心として弟子の指導にあたる。門人には渡辺崋山、酒井抱一、蜀山人などがいる。

月見岡八幡といえば、江戸の頃、この神社の北には泰雲寺があった。明治になって港区の瑞聖寺に合併され、今は名残もないが、このお寺には美しき尼僧にまつわる話がある。女性の名前は葛山総。出家を願うも、その美貌故に修行僧の妨げになると入門を断られた総は、自ら火鏝(ひごて)で顔を焼き、やっと駒込の白翁禅師の大休庵に入門を許され「了善尼」となる。白翁禅師のもとで修行を積んだ了然尼は、此の落合の地に篤志家によって建てたれ泰雲寺の初代住職となった白翁禅師の後を継ぎ、二代住職となり、社会活動などで地元に貢献した、と伝わる。目黒不動近くの黄檗宗・海福寺の山門の扁額は、「泰雲」は、泰雲寺の扁額から「寺」を削ったもの、とか。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23情使、第631号)」)


せせらぎ橋・新掘橋・高田馬場分水路
せせらぎ橋の左手に「せせらぎの里公苑」。落合水再生センターで高度処理された水を使い親水公園がつくられている。せせらぎ橋に続く新堀橋の手前に高田馬場分水路。増水で堰を越えた水を分水し、落合駅の東、妙正寺川に架かる辰巳橋辺りで妙正寺川と合わさり、すく暗渠となり、本流に沿って進み、下流・目白通りに架かる高田橋で本流に再び戻る。妙正寺川との合流点辺りで分水路に落合水再生センターの高度処理水が放流されているようである。




北流してきた神田川は現在、新掘橋辺りで流路を東へと変える。昭和初期の頃までは西武池袋線の北側辺りまで蛇行していたようであり、西から流れてきた妙正川とは当時、下落合駅の南辺り(滝沢橋と落合橋の間とも)で合流していたようである。

妙正寺川
妙正寺川は杉並区の妙正寺公園内にある妙正寺池を源流とし、途中中野区松が丘で江古田川を合わせ、武蔵野台地の開析谷を下り、この地で神田川と合わさる。合流地点は大雨の度に氾濫を繰り返し、ために神田川は新たに水路を掘り新堀橋辺りから東へと流路を変え、一方妙正寺川も目白通り下を流し、下流の高田橋あたりで神田川に合流するように流れを付け替えた。新堀橋は、新たに水路を掘り起こしたことに、由来するのであろう。

滝沢橋・落合橋
滝沢橋を越え落合橋に。落合とは日本全国にあるが、基本は「ふたつの流れが落ち合うところ」。かつてはこの橋の少し上流辺りが神田川と妙正寺川の合流点であった名残であろう。「江戸名所図解」の「落合惣図」には、田地の中を蛇行する神田川と妙正寺川が描かれるが、その落ち合うところに橋は架かっていない。

落合文化村(目白文化村)
落合と言えば、落合橋からは少し離れるが、山手通の西、の目白台地にはかつて落合文化村と呼ばれる一帯があった。『わが住む界隈』で林芙美子が、「私は冗談に自分の町をムウドンの丘(注;パリの南西にあるロダンのアトリエがあったことでも有名な町)だと云っている。沢山、石の段々のある町で、どの家も庭があって、遠くから眺めると、昼間はムウドンであり、夜はハイデルベルヒのようだ。住めば都で、私もこの下落合には六、七年も腰を落ち着けているがなかなか住みいい処だ」、と描く林芙美子記念館のあるあたりは、落合文化村と呼ばれていた。大正11年(1922)頃より、箱根土地株式会社(現・株式会社コクド)によって下落合3~4丁目(現・中落合2~4丁目および中井の一部)に開発された新興住宅街である。東急電鉄(渋沢秀雄)が開発した田園調布がパリの街並みを模したのに対し、こちらはロスのビバリーヒルズを目指した、と。結果、当時としては「中流の上」の人々がこの地に移り、多くの学者、作家、画家が西洋風の外環の邸宅を建てた、とのことである。
文化村は大きく3区画に分かれ、山手通りと新目白通りのクロスする左上(中落合3丁目あたり)が第一文化村、左下の中井駅方面(中落合4丁目と中井)が第二文化村、右上の中落合4丁目方面が第三文化村と呼ばれた。林芙美子が住んでいたあたりは第二文化村の南端のあたり、だろう。第一文化村には画家の佐伯祐三邸、第二文化村には安部能成や石橋湛山、武者小路実篤宅があった、とか。もともと、落合第一小学校の辺りに自宅を持っていた会津八一は落合(目白)第一文化村の南端あたりに引っ越したところ、改正道路(現在の山手通り)の工事地区にあたり、立ち退きを余儀なくされ、第一文化村の中央部に移るも、戦災で焼失した。文化村に少々翻弄された感がある。

宮田橋
落合橋に次いで宮田橋。この辺りは山手線を越えるまで川沿いに進む道はないので、あちこち迂回しながら橋に出る。橋の名前の由来は、橋の北に氷川神社があるので、その社に由来するのかとも思ったのだが、実際はかつてこの橋の南に諏訪神社(現在は高田馬場1丁目。明治通り諏訪町交差点近く)の旧地であったことによる、とか。

下落合氷川神社
落合橋の北、新目白通りの北には下落合氷川神社。この下落合氷川神社は、第5代孝昭天皇の御代の創建と伝えられ、といっても考昭天皇って紀元前のことであるし、それはないにしても、江戸時代には下落合村の鎮守ともなっているので、古き社ではあろう。江戸期には豊島区高田の高田氷川神社を男体の宮、当社を女体の宮として、夫婦一対神として信仰されていた、と。高田の氷川神社が素戔嗚尊を主神、こちらの落合の氷川神社はその妻の奇稲田姫命となっている。

七曲坂
氷川神社の裏から「おとめ山」の高台に上がる七曲坂(ななまがりざか)は、落合では最も古い坂道のひとつであり、江戸時代には周囲の高台が紅葉の名所として知られていたという。現在は緩やかなカーブとなっており、七曲がりの趣は今は、ない。周辺には相馬坂、九七坂、西坂、霞坂、市郎兵衛坂、見晴坂、六天坂など少々惹かれる名前の坂道が多い

薬王院・東長谷寺
氷川神社の西に薬王院・東長谷寺。江戸の散歩の達人・村尾嘉陵も「ひろ前をくだりに猶ゆけば、みちのかたへに寺あり。石しきなみて、見入いとよし。薬王院といふ」と記す。
薬王院は真言宗豊山派瑠璃山東長谷寺と称し、奈良・長谷寺の末寺で、開山は鎌倉時代、相模国(神奈川県)大山寺を中興した願行上人。 本堂は昭和40年に、奈良・長谷寺と京都・清水寺の見所を取り入れて建立されたものという。寺域は下落合崖線に位置して傾斜地にあり、墓地は最も高いところにある。境内ではもともと薬用として栽培されたといわれる鎌倉・長谷寺の牡丹の株100株を拝領し数多く、現在では1000株にまで増えその美しさから別名「牡丹寺」とも呼ばれる。しだれ桜も見事、とか。

田島橋
宮田橋の次に田島橋。川沿いに道はないので、南に大廻りしながら田島橋に出る。橋脇の案内によれば、江戸時代、鼠山(寝不見山;目白・下落合付近)に下屋敷があった安藤但馬の守がよくこの橋を渡ったため、「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついた、とか。この橋は江戸時代の初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めた、と。この橋の上流には犀が淵という深い淵があり、江戸時代には高田十二景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうである。

「江戸名所図会」の「落合惣図」を見るに、蛇行する神田川とそこに合流する妙正寺川、その合流点に架かる「一枚岩」、その上流の妙正寺川に土橋、そしてこの「田島橋」が描かれている。また「薬王院」「氷川」も描かれる。同じく「江戸名所図会」には「落合蛍」が描かれる。場所はこの田島橋の少し下流のようである。
太田南畝こと蜀山人は「大江戸には王子のふもと石神井川又谷中の蛍沢に多くありといへども、此処のにくらぶれば及びかたかるべし」、と記しており、蛍の名所であった。月の名所で蛍の名所。今、その面影を想うのは少々難しい。
田島橋の北詰はスペースがあるのだが、南のさかえ通りの方は狭く、少々アンバランスである。その理由は、新目白通りをこの橋の辺りで神田川を渡り早稲田通りと繋ぐ計画であったが、それが中止となり、その用地が名残としてスペースとして残っている、とのことである。

清水川橋
田島橋を越え、「さかえ通り」に迂回し清水川橋に。清水橋の辺りは川筋を狭め、往昔、高田馬場渓谷なとど呼ばれた趣を伝える。洪水多発であった所以である。清水川橋の名前の由来は目白台地の崖下からの湧水に因む字名から、とか。明治時代の高田馬場停車場辺りは字清水川となっている。当時は、神田川の川筋はもう少し北を蛇行している。現在の「さかえ通り」の辺りに小川が流れるが、この流れが清水川であろう、か。



おとめ山
湧水と言えば、目白台地から神田川を望む南面傾斜の崖線に湧水池で知られる「おとめ山」がある。楢、椎、椚などの落葉樹が生い茂り、その中心に湧水池。回遊式庭園と呼ぶのだろう。池脇の湧水点からの、かすかな流れがなかなか、いい。公園は道を隔てた西と東に別れ、東の湧水池からの水は西の公園にある弁天池へと導かれている。
おとめ山の名前の由来は「御留」、から。江戸の頃はこのあたりは将軍家の狩猟地であり、立ち入り禁止故の「御留」であった。明治には御留山の東を近衛家、西を相馬家が所有。相馬家が林泉園と称し庭園とした、と。戦後は荒れ果てたままであったようだが、地元の人々の努力により公園として整備された。

東山藤稲荷神社
おとめ山公園のすぐ東に東山藤稲荷神社という社がある。現在は誠につつましやかな境内ではあるが、往昔、おとめ山の多くを有し結構なる社であった、とのこと。清和源氏の祖六孫王・源経基が、延長5年(927)、東国源氏の氏神として祀った、ということである。
この源経基、平将門ファンにとっては好ましからざる人物として伝わる。将門を反逆者として誣告したのも経基、その後、あれこれの経緯もあり将門が兵を起こすと征伐軍の副将として乱の平定に赴く。が、乱は既に平定されており、活躍する場はなかったようである。それはともあれ将門は朝廷への逆賊として長き間不遇の時代を送った訳であり、それ故にも、逆賊平定の貢献者でもある経基の建てたこの社が栄えたのであろう。藤稲神社とも、富士稲荷神社とも呼ばれたようだが、東山の由来は不明。
ちなみに、江戸のお散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に『藤稲荷に詣でし道くさ(文政7年(1824)9月12日)』がある;「落合村の七まがり(地名)に、虫聞に行けば、老をたすけてともになど、もとの同僚畑秀充のいひしも、いつしか十あまり五とせばかりのむかしとは成けり。げに、とし波の流れてはやきためしをおもへば、かたときのいとまをも、あだにすぐすべしやは、わかきとき、日を惜しめるは勤にあり、老いての今はたのしみもて、こゝろをやしなひ、終わりをよくせんとなるべしや」、と。七曲がりとは、上でメモした東山藤稲荷神社の西、新目白通りのそばにある氷川神社から北の崖線を上る坂である。

神高橋
山手線、西武新宿線を越えると神高橋。高田馬場駅の東口より北に上る大きな道筋に橋が架かる。明治の頃までは、田島橋から下流の山手通りを越えた面影橋まで橋はなく、一面の田圃が広がっていた、とのこと。この辺りの神田川は現在より南側を流れていていたようあるが、この橋の辺りには用水堰があり、川の北を用水路が流れ下流の源水橋の付近で合流していたという。

落合から神高橋までの旧神田川流路
久保前橋辺りで左右に蛇行しながら北流した神田川は、落合橋から南東に下ってきた妙正寺川と下落合駅の南で合流し、合流した流れは現在の妙正寺川に架かる千代久保橋あたりまで弧を描いて上り、そこを頂点に南東方向へ流路を変え、神田川に架かる落合橋の南、戸塚第三小学校まで南東方向に下り、戸塚第三小学校を回り込むように弧を描き、宮田橋公園に向かって北東へと上り、神田川を越えるとほどなく流路を南に変え田島橋辺りまで下り、そこで再び北に向かい氷川橋の北を頂点に神高橋へと南東へと下ってゆく。

高塚橋
神高橋に続く高塚橋は、「高田」と「戸塚」からであろう。「高田」の地名の由来には、高台にある田という地形に由来するという説と、高畑からの転化との説、徳川家康の六男で越後高田藩主であった松平忠輝が生母である高田殿のために、景色を愛でる公園を造ったことに由来する、とか例によってあれこれ。戸塚(とづか)は、「富塚」とも書き、神田川南側から戸山大久保方面にかけての地名で、明治22年、旧来の戸塚村(とづか)、下戸塚村、源兵衛村、諏訪村が合併して「戸塚村」が成立した。富塚は水稲荷神社内にあった富塚と呼ばれる塚(元は小円墳とも)に由来する。水稲荷神社は元は早稲田大学構内にあった、とのことだが、現在は早稲田大学の西に遷座している。

戸田平橋
大正8年(1919年)に作られたもので、名前の由来は新宿区の戸塚、豊島区の高田、そしてこの橋の建設に関係した平野与三吉に由来するという。
この橋の少し下流に右岸に排水口が見える。これは江戸の頃は「秣川(まつかわ)」、明治には「馬尿川(ばしがわ)と呼ばれてい細流の跡。川筋は戸山公園の大久保通り辺りを源流点に、戸山公園をへて諏訪神社をかすめ、此の地で神田川に注いでいた、とのことである。流れの西側一帯を「字秣川(あざまつかわ)」と称していたという。現在は、源水橋(げんすいばし)の「まつ川公園」にかろうじてその名前が残る。

源水橋
源水橋は、護岸工事で新しく作り変えられた橋。名前の由来は、この橋の付近にあった「源兵衛村(げんべいむら)」と「水車(すいしゃ)」を組み合わせた言葉から来ているという説もある。橋の欄干には水車と花のモチーフが描かれている。何の水車だろう、か。有名な「神田川」の歌詞中に出てくる3畳一間のアパートはこの界隈にあった、との説もあるらしい。

高田橋・妙正寺川と高田馬場分水路が合流
新目白通りには高田橋が架かる。この橋の辺りで妙正寺川、高田馬場分水路が神田川に合流している。高田馬場分水路の吐口のプレートには昭和53年(1978)の文字が見える。分水路が完成した年であろう。高田馬場の合流点では高田馬場分水路と妙正寺川の吐口は別になっているが、このふたつの流れは落合駅の東で一度合流している。暗渠下で分かれているのだろう、か。実際、高田馬場分水路の吐口には水草が多いが、妙正川の吐口はそうでも、ない。一説には、落合水処理センターの水と妙正寺川の水は混ざり合うことなく、高度処理水が高田馬場分水路の吐口から流れ出す、とも。高田橋から先の神田川は、近年の護岸工事により両側に歩道が整備されている。

高戸橋・曙橋
高戸橋は明治通りを渡す橋である。橋の名前は、高田と戸塚の双方の頭文字をとったものとされている。高戸橋を越えると曙橋。かつてこの辺りには一枚岩と称する巨岩で知られていた、と言う。現在は護岸工事のために当時の面影は無いが、川底から亀の甲羅のような岩の露出が数箇所あり、高田一枚岩、戸塚一枚岩、落合一枚岩などと呼ばれていたらしい。現在も曙橋の鉄橋の下に大きな岩の痕跡のようなものが残る。一枚岩の名残、か。

高田氷川神社
曙橋の北に高田氷川神社。創建年代は不詳。江戸の『名所図会』には高田村の鎮守、氷川大明神とある。主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)。先ほどメモした落合氷川神社の主祭神・奇稲田姫は素戔嗚尊の妃であり「夫婦の宮」の一対をなす。明治の頃に氷川神社と改名。昭和20年の空襲で被災するも、昭和29年に再建された。
因みに、社の祭神が男神か女神かを見分けるには社の屋根両端でV字に交差する木(千木)を見るのがわかりやすい。千木の先端が地面に対し垂直に削られるのが男神、水平が女神、とのことである。

金乗院・目白不動
高田氷川神社から目白通りへと崖道を上る途中に真言宗豊山派の金乗院。山門を通り本堂にお参り。天正年間(1573-92)の創建と伝わる。本堂脇に倶利伽羅不動庚申が佇む。倶利伽羅不動尊って、サンスクリット語で「剣に黒龍の巻き付いた不動尊」の意味。黒龍が昇天する姿が、倶利伽羅不動、そのものであったのだろう。
本堂の横には江戸五色不動のひとつ、目白不動が祀られる。目白不動堂は、元は文京区関口駒井町にあった東豊山浄滝院新長谷寺から移したもの。目白不動堂は元和4年(1618)、大和長谷寺代世が中興したものだが、昭和20年の空襲により焼失し、この寺に合わされた。
五色不動とは、目黒不動(天台宗龍泉寺:目黒区目黒3丁目)、目白不動(真言宗豊山派金乗院。もとは文京区関口の新長谷寺にあったが戦災で廃寺となったため移された)、目青不動(天台宗教学院。世田谷区太子堂4丁目。もとは麻布の勧行寺、または、正善寺にあったものが青山にあった教学院に移され。その後教学院が太子堂に移った)、目赤不動(天台宗南谷寺。文京区本駒込1丁目。もともと三重県の赤目不動が本尊。家光の命で目赤に)、そしてこの目黄不動。
もっとも、目黄不動だけは複数あり、この最勝寺だけでなく、台東区三ノ輪2丁目の天台宗・永久寺、渋谷の龍眼寺とこの最勝寺など全部で六箇所あるとも言われる。それと、江戸の頃に五色不動と言った記録はなく、江戸時代には目がつく不動は目黒・目白・目赤の3つしかなく、また、それをセットとして語る例もなかったようではある。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものとの説もある。

面影橋
曙橋に続くのが面影橋。神田川にかかる橋でも、最も名高い橋のひとつである。「江戸名所図会」には「俤(おもかげ)の橋」と記されている。歌川広重も『名所江戸百景』に「俤の橋」を描いており、のどかな風景に江戸の昔を思いやる。また、このあたりは流れ蛍でも知られ、広重も蛍狩りの絵を描いている。面影橋の名の由来には、諸説ある。在原業平が我が姿を水面に映した逸話からとの説、鷹狩りの折に将軍家光が命名したとの説、戦国の頃、此の地に落ち延びた和田靱負(ゆきえ)の美しき一人娘・於戸姫(おとひめ)が我が身の悲劇を嘆き、この川に身を映し詠んだ和歌によるとの説など様々。
「変わりぬる姿見よやと行く水にうつす鏡の影に恨(うらめ)し」が、於戸姫(おとひめ)が詠んだ歌。そしてなき夫を偲び入水の際に詠んだ「かぎりあれば月も今宵はいでにけりきよう見し人の今は亡き世に」、といった、夫の面影を偲ぶ於戸姫の心情を憐れんで、面影橋と名付けた、とか。於戸姫は、その美貌に迷った夫の友により、夫を殺されその仇討ちを果たした後に入水した、とのことである。
橋の名前の由来は諸説ある、とメモしたが、橋名自体も「俤(面影)の橋」とも「姿見の橋」とも呼ばれる。江戸の頃の此の地の絵図には、大橋とその近くに小橋が描かれ、小橋が「姿見の橋」、大橋が「面影の橋」との説もあれば、いやいや、於戸姫伝説で「変わりぬる姿見よやと。。。」と詠われる「姿見(の橋)」が、小橋では格好が悪いので、大橋が「姿見の橋」であるなど諸説ある。結論は出てはいないようだが、『嘉永・慶応 新江戸切絵図(人文社)』にも、面影橋とは書かず姿見橋とあるように、江戸の頃は大橋が「姿見の橋」と呼ばれていたようである。それが、面影橋となったのは、明治政府の地図に「面影橋」と記された、ため。地元に人も大正の頃まで江戸の名残を引き継ぎ「姿見の橋」と呼ぶ人もいたようだが、現在は面影橋となっている。

橋の北側に太田道灌の「山吹の里」の碑。太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。
話としては面白いのだが、もとより真偽の程は定かではない。それに、このエピソードというか伝説は散歩の折々に出合った。太田道灌ゆかりの地である埼玉の越谷横浜の六浦上行寺あたり、豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋あたり、であったろうか。伝説は所詮伝説であるし、それほど道潅が人々に愛されていた、ということであろう、か。

都電荒川線・面影橋駅
面影橋の南に都電荒川線・面影橋駅がある。荒川区南千住から新宿区西早稲田の早稲田駅の間、12.2キロを結ぶ。明治40年(1907)に営業免許が下りた王子電気軌道を、後に東京市が買収したもの。かつて東京23区を縦横に結んでいた都電路面電車も、現在はこの路線を残すのみである。
王子電気軌道の歴史を眺めていると、営業認可の後、軌道事業が開始される明治44年(1911)まで、電灯電力の供給事業や発電所の設置などを行っている。この王子電気軌道に限らず、京成、東急、小田急、京王などの鉄道会社は昔は軌道事業とともに電気事業を行っており、軌道事業より電気事業のほうが大きな収益を上げている会社もある。王子電気鉄道も電灯電力事業が主で、軌道事業は副業といったものであったようである。
それはともあれ、都電荒川線の軌道幅は1372mm。これは京王線の軌道幅と同じである。その昔、京王線は東京都内の路面電車と結ぶ計画があったため、軌道を合わせた。結局その計画は実施されずに終わったが改軌の手間が大変ということで軌道はそのままとなった。世田谷線も1372mmであるが、それは今は廃止された市電玉川線の支線であったためである。因みに1372mmとした理由は、設立当初は馬車鉄道であり、広軌幅である1435mmでは馬の蹄がレールにあたり不便であり、1372mmが丁度よかった、とか。

朝亮院
都電荒川線の面影橋停留所から新目白通りを南へ渡り、ゆるやかな坂をのぼると右手に赤い門構えのお寺様。その門ゆえに、「赤門さん」とも賞された朝亮院である。このお寺さまは、「高田七面堂」として知られる。身延山久遠寺の末のこの寺には身延山七面山の七面明神が祀られる。七面山での修行のお上人さまが、現在の戸山公園あたりに七面堂を建てたのがはじまり。江戸に疱瘡がはやった明暦の頃には、将軍家の祈祷所ともなった、と。その後、もとの寺域が尾張徳川家の下屋敷となったため現在地に移った。境内には七面堂、その両脇に石造りの金剛力士像が屹立する。宝永二年(1705)に作られたものとのことである。

南蔵院
面影橋を北に進み、高田氷川神社の東に南蔵院。江戸時代の『江戸名所図会』の「高田」には、南蔵院の境内、薬師堂、鶯宿梅、石橋、高札場が描かれる。薬師堂は奥州藤原氏の持仏とされる薬師如来が本尊として祀られる、と。鶯宿梅は三代将軍徳川家光お手植えの梅ゆかりのもの、とか。この寺は別名「八ッ門寺」とも呼ばれたようで、鷹狩りに訪れた家光が、あちこちから寺に入るため、それぞれを門とした。幕末には上野で敗れ、この地まで逃れた力尽きた彰義隊士8名がとむらわる。

南蔵院は明治の名落語家・三遊亭円朝の代表作『怪談乳房榎木』の舞台として有名。『怪談乳房榎木』は円朝が南蔵院旧本堂天井の龍の絵を見て創作した、と言う。あらすじは、ここ南蔵院の天井画を依頼された絵師(菱川重信)、そしてその妻(おせき)と弟子(磯貝浪江)の不義、落合蛍見物にことよせての師匠の謀殺。浪江に脅され一度は絵師の子(真与太郎)亡きものにと、十二社の大滝に投げ込む爺(正介)に、絵師の亡霊が現れ「この子をして仇討ちすべし」との言。改心した爺(正介)は子を連れ赤塚村(板橋)に逃れ、その地の名刹・松月院の門番に。寺の境内には榎があり、乳房の形をした瘤から流れる雫を飲んでその子は成長し、やがて父の亡霊に助けられ仇を討つ、といった復讐譚。
いつだったか、板橋区の赤塚辺りを彷徨ったことがある。その地の赤塚城主・千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請した赤塚の氷川神社を訪れたとき、桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木があった。その脇に明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑があった。乳房の病に霊験あらたか、とあった。その乳房榎は近くの松月院の境内にあった、とのことであるが、この松月院は立派な構え、品のいいお寺さんであった。延徳4年(1492年)、武蔵千葉氏の千葉自胤が寺領し中興し、幕末には高島秋帆が高島平で西洋式砲術訓練をおこなったときの本陣。下村湖人が『次郎物語』の構想を練ったお寺さまでもある。

『怪談乳房榎木』の舞台は、この南蔵院や板橋の松月院に限らず、散歩の折々に出合う。浪江とおせきが出会う墨田区・木母寺の梅若詣り,でのおきせが口説かれる柳島の妙見山辺り,謀殺の密談がおこなわれる高田馬場下での,落合の蛍狩りは神田川,上でメモした子捨てを図る十二社の大滝などなど。『怪談乳房榎木』巡りの散歩もいい、かも。

三島橋
このあたりのかつての字名(あざな)は三島であり、橋のそばに立つ掲示板にも「三島町会」の名前が見られる。古く房総(ぼうそう)から武蔵国(むさしのくに)に入った源頼朝がこの地で軍勢を整えた際、三島神社を勧請したことからこの字名になった、とか。後にこの神社は、東海道三島宿(現静岡県三島市)に移されたが、現在も水稲荷(みずいなり)神社境内に末社として祠(ほこら)が残されている。

甘泉園
三島橋の南に甘泉園。この水と緑に囲まれた回遊式庭園は、もとは徳川御三卿の清水家の下屋敷。敷地は崖上にある水稲荷神社境内と甘泉園を含む広大なものであった。明治30年(1897)頃には相馬侯爵邸となり、昭和13年(1938)には、早稲田大学がこの土地を譲り受け、昭和36年には、大学構内にあった水稲荷神社と土地交換が行われ、昭和38年(1963)に水稲荷神社が甘泉園内に移転した。
甘泉園の名前は、庭園の中央からの湧き水が、お茶に適していたことに由来する。甘泉園のあたりはその昔、三島山と呼ばれていた。その三島山の西に泉があり、山吹の井と呼ばれた。その一帯は山吹の里とも呼ばれ、先ほど面影橋でメモした道灌と言えば、との山吹の逸話が残る。

水稲荷神社
甘泉園から崖を成り行きで上ると水稲荷神社。表参道は今風のつくり。境内を進むと「堀部安兵衛助太刀の場所の碑」がある。元禄七年(1694)、安兵衛(当時は中山姓)は高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門(田舎の新居浜市に近い伊予西条藩士)の果し合いに助太刀。この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、浅野藩士堀部家の婿養子に懇請され堀部屋安兵衛となる。その後元禄15年、赤穂浪士として吉良邸に討ち入った話は世に知られるとおり。この碑は明治43年(1910)、旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されたものが、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移された。先に進むと社殿がある。もとは早稲田大学9号館裏のあたりの小高い丘にあった水稲荷神社は、昭和38年(1963)7月25日、早稲田大学との土地交換により、西早稲田三丁目の甘泉園内の現在の場所に移転したもの。

この社が水稲荷と呼ばれるに至る経緯は、元禄15年(1702)に境内の大椋から水が湧き、その水が眼病に効能あり、ということで、江戸市中で大評判となった、ため。この霊水にも太田道灌ゆかりの話が登場する。道灌が散策の折り、冨塚古墳のそば(以前、水稲荷神社があった場所。現在の早大9号館の裏手。)に榎を植えた、とか。「道灌つかみさしの榎」と呼ばれるこの榎を神木として関東管領の上杉良朝が稲荷の社を再興。そして、この神木からわき出した霊水が眼病に効果があり、水稲荷と呼ばれるようになった、と言う。
水稲荷の境内には富塚古墳や高田富士など、旧地から移されたものが残る。富塚古墳は既にメモしたように、戸塚の由来ともなった塚。元早稲田大学脇にある宝泉寺はその塚の上に建てられた、とか。「高田富士」は、安永九年(1780)、植木屋の青山藤四郎が富士講の人たちとともに、富士山から岩や土を運び、冨塚古墳の上に盛土して造ったもの。江戸市中で、最大、最古の富士塚であった。江戸時代中期以降、江戸で富士信仰がさかんになり、各地で富士講が組織され、富士塚という富士を模した山が造られた。残念ながら普段は高田富士には上れない。7月下旬の高田富士祭りのときの、お山開きとだけ、とのことである。
境内にはいくつかの末社がまつられる。浅間神社は富士塚の麓に鎮座していたもの。現在も高田富士の入口にある。三島神社は現在の水稲荷のある敷地である甘泉園所有者・旧清水家所有の守護神。源頼朝が治承四年(1180)、鎌倉への進軍の途中、高田馬場跡から甘泉園一帯に立ち寄ったとされ、その時に、この地に三島神社を創建したと、伝えられる。三島神社はその後静岡の三島市に移されたが、その跡地に石の祠が建てられ、その後この地に移された。

仲之橋
仲之橋の右岸は新宿区西早稲田、左岸は豊島区高田。「豊橋(ゆたかばし)」と「三島橋(みしまばし)」もしくは「面影橋(おもかげばし)」の間に架けられたという意味、かと。橋を北に進むと「富士見坂」。目白通りと不忍通りが交差する目白台2丁目交差点辺りから南東へ、目白台の崖線を下るこの坂は、富士は見えないようだが、都内屈指の眺め、とか。因みに都内に富士見坂と名付けられた坂は20弱ある、と言う。

仲之橋左岸、少し手前に「東京染ものがたり博物館」。大正3年創業の東京染小紋の老舗「富田染工芸」工房の隣にある。工房や博物館では、江戸の伝統を伝える東京染小紋や江戸更紗の作品の展示や染色の工程が展示されている。
江戸の染色業は江戸の頃、神田紺屋町の地名が示すように神田・浅草を中心に発展するも、明治以降は川の汚染の影響もあり染色業者は水洗いに適した清流を求め神田川を遡上し、大正から昭和にかけて落合や西早稲田あたりに移り住み、それ以降、染色業は新宿区の地場産業となった。神田川の水質は硬水であり、水中に含まれる鉄分が染めの過程で化学反応を起こし、独特の「渋味」を作り出した、とか。

江戸小紋とは江戸時代、諸大名が着用した絹の裃の染の技法。目立つことなく、かつ華麗な文様ということで、遠目には無地に見えるように細かな模様をその特色とする。ために、高度な技法が開発されることになった。後には庶民も小紋のお洒落を楽しんだ、とか。江戸更紗は、インドから伝わった技法。江戸の中期から末期にかけて材料の木綿を五彩に染めあげた、とか。
染め物と言えば、『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』に「染め物の町」という記事があった。そこには西武新宿線の下落合駅から中井駅に架けての染め物の町が描かれる。昭和32年(1957年)頃には未だ染め物工場が35軒もあった、とのこと。最盛期は昭和初年から戦争の始まった昭和16年頃。妙正寺川や神田川が汚れた現在は工場は埼玉県狭山などに移っている、とのことである。因みに、『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』には「染料によくない鉄分がなるべく少ない、弱アルカリ性から中性の水を追って、神田川の大曲付近へ、そして江戸川橋の辺りからさらにいまの落合へと、流れをさかのぼってきた」とある。上で鉄分が独特の渋みを作り出した、と少々矛盾。染料を繊維に定着させる媒染剤に鉄分が使われる、と言うことであろう、か。門外漢には不明である。

豊橋
橋の南には都電荒川線の始発・終点である早稲田駅がある。橋を北に進むと豊川稲荷があり、目白女子大に続く豊坂がある。此の辺りは高田豊川町とも呼ばれていたようで、豊橋は豊川稲荷に由来するのだろう。
豊川稲荷は愛知県豊川市にある曹洞宗妙厳寺を勧請したもの。曹洞宗妙厳寺は稲荷神社で名高い伏見稲荷神社と異なり、豊川稲荷は曹洞宗妙厳寺というお寺さまの境内にある稲荷堂の?枳尼天(だきにてん)が名高く、通称豊川稲荷で知られることになった。?枳尼天(だきにてん)が豊川稲荷に祀られるに至った経緯は、鎌倉時代に入宋した禅僧が帰国の途上、?枳尼天(だきにてん)の加護により無事帰国。この禅僧の6代目の法孫がこの曹洞宗妙厳寺開山に際し、山門に?枳尼天(だきにてん)を鎮守として祀ったことによる。信長、秀吉、家康、大岡忠相などの庇護を受けた、と言う。

早稲田田圃
早稲田大学のキャンパスの辺りは、その昔早稲田田圃と呼ばれたように、低湿地であり、名前の通りの「早稲田」であった。大隈重信が明治15年(1882)に、早稲田大学の前身である東京専門学校を開いたときも、低湿地・山林・畑地を埋め立てた。
早稲田は田圃だけでなく、ミョウガの特産地でもあったこの地を随筆家・内田百閒は「砂利場大将」という一文に「砂利場のどぶ川のほとり(中略)到る処に細い溝が流れ(中略)大雨が降ると、すぐあたり一面泥海になった。外から歸つて、終點で電車を降りてから、砂利場に近づくに従ひ、水は段段深くなつて、下宿の玄關に入るには、股の邊りまで水に漬けなければならない。下宿はさう云ふ地勢を承知の上で建てたものらしく、縁の下は大人が起つて歩ける位の高さがあつた。だから、まだ疊の上に水が乘つた事はなかつたのである。(中略)水が引いた後も、中中道が乾かなかった。夕方になると(中略)足元を気にしながら、泥濘の小路を曲がって。。。」と、低湿地の姿を描く。このあたりから高田馬場にかけて新宿区と豊島区の区境がうねうねと蛇行しているのは、以前は、この区境を川が流れていた、ということである(『神田川;朝日新聞社会部編(未来社)』)。

新江戸川公園

豊橋を越えると神田川左岸新江戸川公園に向かう。江戸の頃、熊本藩細川家の下屋敷であったが、現在は文京区が管理している。目白台の崖線を活用し、傾斜面を活かし、台地からの湧水を池に取り入れた回遊式泉水庭園として景観学の書籍などでしばしば取り上げられている名園。
「明暦の大火後どの大名も中屋敷、下屋敷をもつようになると、山の手の条件のよい場所は次々と大名屋敷によって占められていった。それらは武蔵野丘陵の豊かな自然をとりこみ庭園を配した私邸あるいは別邸としての役割をもった(中略)。多くの場合、大名屋敷は高台の尾根道に面して立地する。そこでは敷地内の斜面となるところに、高低差による湧水を生かして池をつくり、回遊式の庭園を設けることができるのである。しかも、できるかぎり尾根道の南側に立地し、敷地内の北寄りに位置する高台平坦部に建物を置いて、その南の斜面に庭園をつくろうとする傾向が読みとれる(『東京の空間人類学:陣内秀秀信(ちくま学術文庫)』)、と。
園内の遊歩道も尾根道風であり誠に、いい。元は3000坪程度であったようだが、次第に拡張し最終的には38000坪といった広大な敷地となった。

駒塚橋
新江戸川公園を離れ神田川筋に出ると駒塚橋に。『江戸名所図会』には駒留橋(こまどめばし)と記される。名前の由来は、この周辺がかつては砂利採集の盛んな場所で、近くに馬(駒)を繋ぐ者が多かったことから来たという説の他、将軍が鷹狩に訪れる際に、この橋に馬(駒)を繋いで休息したことにちなむという説もある。江戸の頃は、現在地より下流100m、椿山荘の辺りに架かっていたようである。

胸突坂

駒塚橋の北に目白崖線を下る急坂がある。胸突坂。「むなつきさか」と読む。急坂故の名前だろう。案内には、「坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である」、と。また、「胸を突かれたように息ができない」といった説もある。坂を通したのは元禄10年(1697)のことである。
坂を登りきったあたりに永青文庫。熊本藩主細川家が収集した日本・東洋の美術品が並ぶ。和敬塾やこの永青文庫、そしてその下に広がる新江戸川公園を含め、この辺り一帯は熊本藩細川家の屋敷跡である。あまりに重厚というか静かな佇まいであり、門外漢が気楽に足を踏み入れるという雰囲気ではない。永青文庫の名前は建仁寺塔頭である「永」源院と細川藤高の居城・「青」龍寺から。永青文庫の北、目白通りの間に和敬塾。首都圏の男子大学生の学生寮といったもの。旧細川侯爵邸跡でもあり、細川家の発意かとも思っていたのだが、前川製作所創業者一族が創始者であった。前途有為なる学生を支援したもの、か。

水神社
胸突坂の途中に水神様。神田上水の工事の安全を祈り祀られた。大きな銀杏の木も茂り、こぶりながら祠もあり趣もそれなりに、ある。神田上水を守る水神様はこの付近に二カ所ある。この関口と目白台。目白台の水神様には行ったことはないのだが、目白通りの関口フランスパンのあたりという。そこには、まだ湧水がわいているとも聞いた。そのうち行ってみたい。

芭蕉庵
胸突坂を隔てて水神社の向かいに関口芭蕉庵。「ご自由に」とは言われても,少々足を踏み入れにくいしっかりした構えの門を入り、野趣豊かな園内を歩く。ひょうたん池の周囲を一回りし、さみだれ塚とか芭蕉堂を辿る。

さみだれ塚は芭蕉の句である「さみだれに隠れぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓としたもの。芭蕉庵の前面に広がる早稲田田圃を琵琶湖にみたて詠んだもの。「庵の前には上水の流横たわり、南に早稲田の耕地を望み、西に芙蓉の白峯を顧みる。東は堰口にして水音冷々として禅心を澄ましめ、後は目白の台聳(そび)えたり。月の夕、雪の朝の風光もまた備われり」は「江戸名所図会」に描かれる芭蕉庵あたりの景観である。芭蕉堂は芭蕉の33回忌を記念して弟子が建てたもの。
芭蕉庵には今までに数回訪れたことがある。神田上水を井の頭の水源から下り、この地を訪ねた。また、関口台地からの湧水が芭蕉庵中にわき出ると、湧水を見るためだけにこの地を訪ねたこともある。この庵の案内を見て、芭蕉が神田上水の改修工事に参画していたことは記憶に残ってはいたのだが、俳人の芭蕉と利水技術者との関連がよくわからない。いい機会なのでチェックする。
文京区教育委員会の案内によれば、「芭蕉は延宝5年から8年(1677から1680)まで神田上水の改修に参加し、龍穏庵という庵に住む」と言う。松尾甚七郎と称する伊賀・藤堂藩の侍であった、とする説もあるが、この頃にはすでに藤堂家を致仕している。俳諧で身をたてんと江戸に下り、藤堂家時代に身につけた水利技術で身過ぎ世過ぎを過ごしていたのだろう。本拠地は日本橋。俳句仲間の魚問屋の貸家に住み、ときどきこの地に出向き後に龍穏庵とよばれるようになる「庵」で寝泊まりしていたようだ。ちなみに、俳号「芭蕉」を使い俳句で一本立ちしたのは、この改修事業の2年後のことである。

椿山荘
芭蕉庵前をかすめ先に進むと左手崖面に椿山荘。北に広がる目白台の傾斜地は鎌倉時代から椿の名所として知られ、太田道灌はこのあたりの椿の陰に敵対していた練馬氏の伏兵が潜みやすいから気をつけるようにと家臣に対して命じていたといわれている。江戸の頃、上総・久留里藩黒田家の下屋敷であったものを明治になって元勲山形有朋が購入し、「椿山荘」と名付けた。『江戸砂子』に「椿は椿山、牛込関口の近所、水神あり。此の山の前後、一向に椿なり。此所を向ふ椿山といふ・・・』ともあるように、この地は南北朝の頃から椿山と称される椿の名所であった、よう。
地形図を見るに、椿山荘の辺りで短い谷筋が切り込み、池も点在する。椿山荘の園内にはふたつの谷筋が幽翠池に注いでいるが、これは椿山荘の西側にある講談社野間記念館(昔の田中光顕邸跡)辺りからの湧水を引いている、とか。

大滝橋・関口大洗堰
大滝橋は神田上水の取水口、関口大洗堰のあった場所に架かる橋。名前の由来は、堰から流れ落ちる水の様子を滝に見立てたもの。「江戸名所図会」の「目白下大洗堰」には、堰の部分が大きな段差となり、滝のように流れ落ちる様子が描かれている。江戸の頃には名所でもあった、よう。
関口大洗堰跡は井の頭から引かれた神田上水の水を保つとともに、江戸湾からの海水を防いだ。今でこそ東京湾の渚はこの地からはるか彼方ではあるが、江戸開闢の頃は現在の日比谷あたりは一面の入り江であったわけで、この関口のあたりまで海水が押し寄せるのはそれほど不自然ではない。関口の名前の由来も堰があったことから。
神田上水はこの地で二手に分かれ、ひとつは上水として後楽園にあった水戸藩江戸屋敷に引かれ、その後水道橋で懸樋にて神田川を渡り、石樋・木樋をもって神田や日本橋へと水を導いた。もうひとつは神田川の流れとなり、お茶の水の切り通しを抜けて大川に注いだ。
神田上水は明治時代に廃止され、大正8年(1919)にこの一帯が「江戸川公園」として整備された折に、大洗堰は史跡としていったん残されるも、昭和12年の江戸川改修工事により、現在では「由来碑」とともに公園には堰跡を残す、のみ。
本日の散歩はこれでお終い。次回は余水を集めた神田川に沿って隅田川との合流点までをメモしようと思う。

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