太鼓尾根にはいくつかの堀切、そして太鼓曲輪がある、と言う。また太鼓尾根の中腹には城への登城路であった「上の道」が続く、とも。現在八王子城址へは霊園口バス停から宗閑寺をへて城山方面に広い道が開かれているが、大正の頃までは道と言えるような道もなかったようである。戦国の頃はこの太鼓尾根の東端にある「上ノ山」の麓に大手口があり、そこから太鼓尾根の北の山腹を辿る「上の道」がメーンルートであった、とか。
現在では「上の道」は藪で覆われているとのことだし、太鼓尾根のルートもはっきりしない。人によっては険路、とあったり、何ということのない「軽い」ルートなどコメントもさまざま。念のためロープとハーネスと、ちょっと大層な準備をして散歩に出かける。
本日の本日のルート;JR高尾駅>宮の前バス停>梶原八幡>御霊谷神社>太鼓尾根への取りつき口>中央高速にかかる不思議な橋>上の山>太鼓尾根の尾根道>第一堀切>片堀切>第二堀切>第三堀切>太鼓曲輪>第四堀切>第五堀切>見晴らし所>太鼓尾根分岐>荒井バス停分岐>城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)>城山川北沢への分岐(標識なし)>小下沢道分岐(悪路)>富士見台>詰の橋・大堀切>堀切>馬廻り道(下段)>高丸>中の曲輪>八王子神社>山頂曲輪>小宮曲輪>松木曲輪>見晴らし所>八合目・棚門台跡>殿の道>山王曲輪>殿の道>御主殿跡>御主殿の滝>曳橋>大手道・大手門跡>上の道>大手道・大手門跡>山下曲輪>近藤曲輪>八王子城址ガイダンス施設>宗閑寺>中山勘解由屋敷跡>霊園口バス停
JR中央線高尾駅
JR中央線高尾駅で下車。駅前のバス乗り場より、最初の目的地である御霊谷の太鼓曲輪取り付き口の最寄りのバス停である「宮の前」に向かう。バスは大久保行きのほか、陣馬高原行き、室生寺団地行き、恩方車庫行き、美山行きなど、でも川原宿大橋のバス停に行くようではある。
駅前を離れ、バスは北に向かう。この道は都道46号、別名、「高尾街道」と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り「滝山街道」の戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。
廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中には「廿里(とどり)古戦場の碑」がある。小田原北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点である滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦が大きな要因、とか。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。
宮の前バス停
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先にも上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、バスは高尾街道を離れ、都道61号に乗り換え三叉路を北西方向に進む。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前バス停。太鼓尾根への取り付き口に進む前に、宮の前の名前の由来でもある梶原八幡様に向かう。
梶原八幡_午前9時24分
御霊谷と逆方向の東側に道を渡り参道を八幡様に。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。 どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。
御霊谷の谷戸
梶原八幡からバス停まで戻り、バス停脇の雑貨店の南の道を御霊谷の集落に。この御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 当時の家臣の登城道はこの御霊谷門を大手口とし、御霊谷地区の北の太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」の鞍部を経て太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城山の麓にあった御主殿へと続いていたようである。
御霊谷(ごりやつ)神社_午前9時40分
御霊谷地区に入り、太鼓尾根やその東端の「上の山」を見やり、御霊谷地区の谷戸を進む。道が中央高速をくぐる手前に御霊谷神社。まずはお参り。古き趣のこの社は、梶原景時の祖先神である坂東八平氏のひとり、鎌倉を拠点とした故に「鎌倉権五郎影政」と称された平安後期の武将を祀る。神社の裏手にはいくつかのささやかな社が祀られるが、稲荷の裏手には、「北条菱」が刻まれた石塔が建つ、とのことだが見逃した。
天正18年(1590)の八王子城の戦いの際は、この神社辺りに南本営が置かれ、鈴木彦八の指揮のもと、豊臣勢の攻撃に相対した、と。当時は谷戸の一帯は湿地であったようで、御霊谷川を堰止めて池沼とし防御ラインを構築したとのことである。
太鼓尾根への取り付き口へ_午前9時51分
御霊谷神社を折り返し、太鼓尾根の東端である「上の山」に。取り付き部の目安は「竹藪とその手前の梅ノ木」といった情報を目安に、道から分かれる取りつき口を探す。今ひとつ確信はないものの、バス停脇から入ってきた道筋と沿って流れる御霊谷川が大きく湾曲して道から離れるあたりに建つ民家の西脇から竹藪へと向かう踏み分け道を見つけ、とりあえず車道を離れ竹藪へと向かう。
中央高速に架かる橋・中宿橋‗午前10時
踏み分け道を竹藪に入る。道らしきものはなく、竹藪の中をとりあえず中央高速の車の音のするほうへと突き進む。力任せの藪漕ぎで中央高速が見えるところまで這い上がる。と、左手に中央高速に架かる人道橋が見える。この橋を渡って太鼓尾根に入る、とのことであるので、中央高速と離れないように竹藪を進み、人道橋のある、と思うあたりで再び這い上がり人道橋南詰に。
しかし、不思議な橋である。橋を渡った南には橋から続く道はなく、崖を下りて道なき竹藪の中を進むしかない。なんとなく気になりチェックすると、中央高速建設に際し、当時の建設省と八王子市そして地域住民が協議し、高速道路によって行き止まりになってしまう杣道や畦道なとの「赤道」を、この橋の建設で代替とした、とのこと。
それにしても、疑問が残るのは中宿橋と呼ばれる橋の名称。中宿は、御霊谷の東端である「上の山」と梶原八幡のある丘に挟まれたところであり、外郭部の城下町と内城部分を仕切る中宿門(中門とも)が在った地区の名前である。場所からすれば、御霊谷橋といったほうが自然と思えるのだが、昔には御霊谷川に御霊谷と称する橋があったのだろう、か(今は見当たらない)、それとも、御霊谷の谷戸から中宿に抜ける道があったのだろう、か。妄想は広がるが、このあたりで止めておく。
御霊谷門・上の山
中宿橋の辺りは中央高速によって削られた太鼓尾根の東端は「上ノ山」のあったところ。上に御霊谷門が御霊谷川の左岸にあったようだとメモした。その位置は上ノ山の丘の南麓にあったとのこと。その場所は不詳であるが、『戦国の終わりを告げた城』には「(中宿橋を)御霊谷側に下ると竹林の中に小刻みの段状地が4段あり、ここを大手口と推定した」、とある。とすれば、御霊谷門は先ほど上り下りの藪漕ぎをした竹藪辺りかもしれない。
御霊谷門からは上ノ山の鞍部を越えて太鼓尾根の北側中腹を御主殿に向かって登城道が通り、その北には中宿門から西にはか新屋敷が連なる。そして尾根の南北に重要な門を見下ろす上ノ山には見張り台があり、ふたつの門の防御する指揮所でもあったのだろう。とはいうものの、合戦では中宿門も御霊谷門も、あっと言う間に破られている。(『戦国の終わりを告げた城』)を参考に合戦の状況をまとめておく。
○八王子合戦
攻城軍は寄居の鉢形城を落とし東松山の松山城に駐屯していた前田利家と上杉景勝の軍勢。その数は、降伏した大道寺(松井田城主)、難波田・木呂子勢(松山城の籠城軍勢;東松山)を含め2,3万と伝わる。攻城軍は松山城を出立。関東山地山麓よりの道を南下し、旧暦6月22日の夜更け、多摩川を大神(昭島)から金扇平(八王子市平町)に渡り(注;現在八高線が多摩川を渡る辺り)、南加住丘陵、北加住丘陵を越え暁町の名綱神社辺り(注;現在の小宮公園の南)で二手に分かれる。
一隊は搦め手口攻撃隊。川口川の北岸を西に進み、甲原(注;現在工学院大学のある辺り)をへて南に向かい調井の丘(注;現在の八王子市立川口小学校んの東;昔川口氏館跡あたり)から北浅川の北岸を西に進み、川を渡って案下(恩方)の搦め手口に。
別の一隊は名綱神社から南に進み浅川を渡って大義寺(元横山町)の辻から西に進み、南浅川を渡り横川を経て月夜峰(現在協立女子学園がある辺り)の丘陵に向かう。
一方の八王子城の北条勢。籠城態勢に入ったのは天正16年(1588)の1月。天正17年(1589)の夏には、城主の北条氏照は精鋭数千を引連れ小田原城に。留守を老将である横地監物、狩野一庵、中山勘解由に託す。城内には将士の他、各郷から集められた雑兵、番匠、鍛冶、修験者、僧、そして人質としての妻子など数千。
攻撃当日の天正18年(1590 )6月23日。攻撃開始は午前2時。上杉景勝勢8000は月夜峰から出羽山砦(注;は現在の出羽山公園辺り;八王子市城山手1-4近藤出羽守が築いたとされる砦。近藤出羽守は合戦当日には山下曲輪を護る。)へと尾根伝いに進み、御霊谷門を打破って上ノ山に上がり、更に尾根伝いに太鼓曲輪へと進撃。別働隊は御霊谷の湿地を進撃し、御霊谷神社辺りにあった南本営を打ち破り、御霊谷の谷戸の更に奥の駒ケ谷戸や大谷戸方面から太鼓曲輪の奥に進み攻め入った、と。
一方、降伏した大道寺勢を前面に押し出した前田利家の軍勢15000は横山口の大城戸に攻め入り、中宿門を護る馬場対馬守を破り、午前4時頃には太鼓曲輪を破った上杉勢と合流し、八王子城の守備の要である山下曲輪に襲い掛かり守将の近藤出羽守を打ち取っている。
山下曲輪を破り城山にある金子曲輪に攻め入り、山頂の小宮曲輪で激戦となるも、内通者に率いられ、搦め手側から攻め上った上杉別働隊が背後から攻め寄せ落城となる。明け方には勝負がついていたようである(午後4時頃との説もある) 八王子合戦は秀吉の小田原征伐で唯一の「殲滅戦」とも言われる。埼玉・寄居の鉢形城の攻防戦など、その他の攻城線での穏便な、秀吉に言わせれば「緩慢な」攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田・上杉勢はこのときとばかり八王子で大殺戮戦を行った、とか。合戦の後の両軍の死者は諸説あるも、それぞれ1000名を越える、とも。いつだたか、八王子の湧水を辿っていたときに出合った相即寺には戦いで亡くなった将士を供養する地蔵堂があった。
埼玉・寄居の鉢形城攻防戦での「緩慢」なる攻城戦を秀吉に咎められ、面目を失った前田、上杉がこの時とばかり攻めかかった、とか。小田原攻めで唯一とも言われる大殺戮戦が行われた、とある。
太鼓尾根に入る
中宿橋を渡り、右にも左にも細道があるようなのだが標識がなく、なんとなく踏み分け道っぽい右側に回り込み緩やかな上りを太鼓尾根に入る。途中、御霊谷門から上ノ山の鞍部を越えて南に繋がるという「上ノ道」への道筋などないものかと注意しながら進んだのだが、それらしき踏み分け道も見つけることができなかった。安土城の6mを越える8m幅の登城路跡らしき道筋も残っているようである。そのうちに歩いてみたい。
286mピーク_10時23分
木々に覆われた緑の尾根道を進むと、竹林のトンネルが現れる。いつだったか歩いた旧東海道箱根越え・西坂を三島に下ったときの笹竹のトンネルを思い出した。270mピークの「じゅうりん寺山」を越え、ゆるやかなアップダウンを繰り返し尾根道を進む。じゅうりん寺山から北西に進んだ尾根道が南西へと向きを変える辺りの254m地点に「見張台」があったとのことだが、素人には遺構などはわからない。
尾根道南麓の木々の隙間から民家の屋根などを見やりながら10時23分に286mピークに。ここまで尾根道の踏み跡はしっかりとしており、道に迷うことはなかった。
第一堀切_10時35分;標高275m
尾根道を進み、286mピークから10分強歩くと、突然尾根道が寸断され崖っぷちに。ここが太鼓尾根の第一堀切。尾根道からの敵の侵攻を防ぐために人工的に岩盤を掘り切っている。掘り切った石は石垣などに利用されているようである。第一堀切の場所は、御主殿跡に向かう大手道東端の「進入禁止」の柵のあるところより少し東に入ったあたりである。
足元を注意しながら底に下り、左右の堀切崖面を見る。底から5m程度といったところだろうか。また、岩盤故か、倒木が多い。堀切の幅は結構広いが、これは倒木による掘り返しにより次第に幅は広く、丸くなってしまったのだろう。縄張り当時はもっと狭く、V字になっており、曳橋が架けられていた、と。
片堀切_午前10時41分;標高287m
第一堀切からほどなく「片堀切」の案内。両側を掘らず、片側だけを掘ったもの。比高差は4m程度である。この辺りから太鼓曲輪北麓下には御主殿続く大手道が見える。
第二掘切_午前10時52分:標高290m
片堀切から10分程度で第二堀切。底に下りて左右の崖を見る。東崖との比高差3m、西崖面との比高差12mほど。薬研堀と称されるようにV字に切れ込んだ雰囲気を残す。場所は御主殿に繋がる曳橋の少し手前といった辺りである。
第三堀切_午前11時7分;標高298m
太鼓曲輪_午前11時13分;標高300m
第三堀切から少し進み、御霊谷の城山病院辺りから続く長尾根と交差するあたりのちょっとした平坦地に太鼓曲輪があった、とのこと。平坦地の幅は10m程度であり、それほど多くの兵士が詰めれるようにも思えないのだが、太鼓尾根全体の防御陣地を指揮する指令所でもあったのだろう、か。単なるも妄想。根拠なし。
第四堀切_午前11時18分;標高321m
太鼓曲輪から5分程度で第四堀切。位置は北沢と南沢が城山川として合わさる少し上流の南の尾根部分。底に下りて左右を見ると、今までの堀切の中では少し小振りで、東西ともに底から堀切の崖面の比高差は4m程度である。
第五堀切_午前11時25分;標高325m
更に尾根を進むとほどなく第五堀切。今までの堀切と異なり、御主殿に近い東端のほうが底からの高さが高く、その比高差は7mほど。一方西側は少し低く4m程度となっている。
これで本日のメーンイベントである太鼓尾根の太鼓曲輪と堀切を辿るコースは終了。後は先日富士見台から下ってきた「城山尾根」に上り、そこから城山へと上り返すルートを辿ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
見晴らし所_午前11時43分;標高376m
第五堀切を越えると「城山尾根」の合流点に向かって上りが急になってくる。今までの尾根道の、のんびり、ゆったりとは異なり少々息が上がる。第五堀切から20分程度のところで、左手が一瞬開け、眼下の景観が楽しめる。見晴らし所という名称は便宜上名付けただけであり、正式名称ではない。
太鼓尾根分岐_午前11時47分;標高407m
見晴らしを楽しみ先に進むち、そこからほどなく太鼓尾根が城山尾根に合流する。標識には「城山入口 405m」と道標にあるが、太鼓尾根には城山へ下る標識はなかったように思う。太鼓尾根から城山(「御主殿跡」のことだろうか?少々曖昧な表現である)に下るには、尾根道を切り取った堀切部分から大手道の東端に下るのだろうが、それにしては大手道へと下る道標はなかったように思う。 太鼓尾根を下ると、今辿ってきたようにその東端は中央高速に架かる不思議な人道橋に至り、橋を渡った先には道がなく、竹藪を藪漕ぎして御霊谷の集落の道にでることになる、と思うのだが。道標の見落としであろう、か。
太鼓尾根分岐を東に下れば、先日辿った地蔵ピークをへて裏高尾の駒木野の小仏関所に出るが、今回は逆に城山尾根を西へと上り返す。太鼓尾根分岐点で少し休憩。
荒井バス停分岐_午後12時14分;標高417m
城山林道からの道の合流点(現在通行禁止)_午後12時17分;標高410m
荒井バス停分岐のすぐ傍に「城山林道」から尾根に上る道の合流点がある。現在岩場の梯子が壊れており「危険 通行禁止」となっていた。
城山川北沢への分岐(標識なし)_12時37分;標高479m
城山林道の合流点当たりからは525mピークに向かって急坂を上り、ピークを越えて下りきったあたりが城山川北沢からの山道の合流点。分岐点の標識はない。当初の予定では、この合流点が見つかれば、そこから御主殿跡へと下ろうと考えていたので、相当真剣に道を探したのだが結局見つからず、富士見台から城山へと向かうことになった。後日地元の方に聞いたところでは、見つけにくいが道はある、とのことであった。
小下沢道分岐(悪路)_12時44分;標高541m
城山川北沢からの合流点辺りからは再び富士見台に向かっての上りが続く。先回は逆の下りだったので、あまり厳しいとも思わなかったのだが、結構きつい上りであった。富士見台の少し手前に小下沢への分岐の道標。悪路とある。どの程度のものか、逆に訪ねてみたくもなる。
富士見台_12時57分;標高542m
小下沢から10分強で富士見台に。今まで数回富士見台に来たが、富士山が見えたのは今回がはじめて。休憩台では数グループが食事をしているのはいつもの通り。
詰の城・大堀切_13時8分;標高463m
富士見台で富士山の眺めを少し楽しみ、休憩することもなく富士見台の直ぐ傍の「陣馬山縦走路分岐点」を右に折れ、詰の城へと向かう。分岐点には「荒井バス停2.7キロ 堂所山(6キロ)・明王峠(7.2キロ)・陣馬山(9.1キロ)」の道標がある。
10分程度、結構急な下りを進むと「詰の城」の西崖となっている「大堀切」に到着。西からの敵の侵攻を防ぐため尾根を断ち切った「大堀切」は、その名の通り、堀切底辺部と詰の城の比高差は10mほどもある巨大なもの。堀切部の幅も広く下辺10m、その幅24mにもなる、と言う。実際この大堀切に下りたって左右の岩場そしてその堀切の幅を眺め、その大きさを実感する。この規模の掘割をおこなうには20名の石切人足が200日かけてはじめて完成する規模のものであると言う(『戦国の終わりを告げた城』)。
大堀切から崖面の道を上り「詰の城」に。「大天守跡」といった石碑の残るこの地は八王子城の西の守りの要衝。尾根道には石垣が組まれと言うし、詰の城から北に横沢へと下る尾根にも石垣が組まれていたようである。また、詰の城から横沢の分岐点までの間には二本の水平道が棚沢を横切って馬冷やしまで続いていた、とのこと。これは棚沢方面からの敵に備えた帯曲とも考えられているようだ。北に下る尾根道を少し下ってみたが、石垣は残っていなかった。
馬冷やし・堀切_13時35分;標高401m
詰の城からおおよそ400m、城山が目の前に聳える姿を見ながら進むと、「詰城 富士見台 北高尾山稜 堂所山」の道標のあるところに出る。大きな堀切となっているが、これは馬廻り道を一周させるため人工的に尾根道を断ち「切り通し」としていると同時に、切り通しの東上にある「無名曲輪」の堀切として、西の尾根道からの敵の防御拠点としている。
また、この地は、馬廻り道、城山裏手の棚沢からく2本の水平道、詰の城からの尾根道、太鼓曲輪や城山川北沢と城山川南沢を分ける丘陵部からいくつかの谷頭を縫ってくる道など多くの道が合流する要衝であった。
馬廻り道(下段)
駒冷やしの堀切からは、いつも歩く山頂要害部の南側を周り井戸のある「坎井(かんせい)」から上段の馬周り道を通り松木曲輪に出るコースと異なり、堀切から山頂要害部の北側をぐるりと回る「下段馬周り道」を辿る。道標もなく、はじめての道で、ちゃんと続いているかどうか定かではないが、とりあえず先に進む。途中切り立った崖面の細路があるなど、ハイキングコースとして案内しない理由も納得。どこに出るのかも分からず進むと、「9合目・高丸」のすぐ上に出た。そこにも道標はなかった。下段馬廻り道は上段馬廻り道のおおよそ20m下を巻いているとのことである。
ここからは下に下りたいところではあるが、同行の元同僚は八王子城址ははじめて。山頂要害部を見ないことにはと、山頂の曲輪跡へと向かう(以下は「八号目・柵門台」まで基本的に、前回メモのコピー&ペースト)
高丸_13時41分;標高431m
下段馬廻り道から城山登山道に出ると、「九号目」と刻まれた石標があり、その右手に「高丸 この先危険」の案内。この案内があるところが「高丸」なのか、案内が示す方角に「高丸」がある狭い台地まで続いかははっきりしないが、崖端から下を見ると尾根筋が高丸の標識に上ってきている。思うに、高丸は先回心源院からの尾根道と城沢道(搦手)道が合流する十字路に、「正面の道は「×急坂」」とあった、その急坂を登りつめた尾根上に築かれた帯曲輪のようである。
名前の由来は、城沢道から山頂要害部が翼を広げた鷹のように見えたから、とか、城沢道が急坂になり、その高まった岩場にあるため、とも(『戦国の終わりを告げた城』)。岩が露出した急斜面に100mに渡って石垣が組まれ、敵の侵入を防いだとのことである。ともあれ、これだけ、どこにも「危険」と書かれては、場所を特定すべく尾根を下ってみようという気持ちにはなれない。
見晴らし
九号目を越えて先に進むと左手の展望が開ける。足元には、八王子城の山裾地区、その先には、城の城下町であった元八王子の丘陵を縫って裏高尾の谷へと進む中央高速が見える。はるか遠く、白いドームが丘陵に頭を出しているが、狭山丘陵の西武球場だろう、か。その右手には新宿の高層ビル群、その右に見える尖塔は東京スカイツリーだろう、か。霞の中にかすかに見える。関東平野が一望のもと、誠に美しいながめである。
休憩所
先に進むと、休憩所のような小屋があり、その脇に「本丸周辺の曲輪」の案内と、その地図がある。案内には「本丸周辺の曲輪;標高460mの深沢山山頂に設けられた本丸を中心に、松木曲輪、小宮曲輪などの曲輪が配地された要害部は、籠城のための施設と考えられている。急峻な地形を利用した山城は、下からは攻めにくく、上から攻撃できる守りには有利な構造になっている。
天正18年(1590)旧暦6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの軍勢に加え、降参した北条勢を加えた数万の大軍が八王子城に押し寄せた。一方、小田原に籠城中の城主北条氏照を欠いた留守部隊は必死に防戦したが、激戦の末、守備した北条方はもちろんのこと、攻めた豊臣方にも多くの犠牲があった」とある。
先回同様に、この小屋の裏手あたりから「小宮曲輪」、そこから「本丸」へと続く道を進む。
小宮曲輪
小屋の裏手の細い道を少し上ると平坦な場所にでる。廃屋となった社跡、狛犬が佇むこの平坦地が小宮曲輪である。脇に立つ案内には「小宮曲輪;狩野一庵が守っていたといわれる曲輪。三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていた。天正18年(1590)6月23日上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた、と。
コラム 八王子城の範囲;北条氏照は、深沢山(城山)を中心とした要害地区、その麓にある居館地区(現在、御主殿跡として整備したあたり)、城山川の谷戸部分にある根小屋地区(現、宗閑寺周辺)、居館地区の南で城山川をはさんだ対岸にある太鼓曲輪地区、太鼓曲輪からのびる丘陵の東端と南端の台地にある御霊谷地区、小田野城のある小田野地区(現、小田野トンネル周辺)というように、八王子城を壮大な城郭として構想していたと考えられる。しかし、八王子城は完成を見ることなく、天正18年(1590)に落城した」とある。
案内に「小宮曲輪は(中略)上杉景勝の軍勢の奇襲にあい、落とされた」とあるが、これは上杉隊の藤田信吉が内通者である平井無辺を道案内に、搦め手口(裏口)から滝の沢川に沿って進み、棚沢方面から崖を這い上がり、背面より小宮曲輪を攻めた、との説(『武蔵名所図会』)ではあろう。この背面からの突如の攻撃により、正面より攻め上る前田勢を防いでいた八王子勢が崩れたとのことである。
攻撃軍の陣立ては諸説あり、大手門(表門口)が上杉勢、搦手口が前田勢、といったものや、大手門口(表門口)は前田勢であるが、上の案内にある太鼓曲輪を上杉勢主力が攻め、その支隊が搦手口から攻め上ったなど、あれこれあり定説はないようだ。
○藤田信吉
上杉隊の藤田信吉とは、もともとは関東管領上杉家の家臣。関東管領方が小田原北条に川越夜戦で敗れたため後北条の家臣に。後北条勢として上杉謙信の跡目争いである御館の乱に出兵。沼田城の城代に。が、後北条に信を置けず真田昌幸の勧めに応じて武田方に。その武田氏が滅亡するに及び関東管領となった織田方の滝川一益に反抗し、上杉景勝のもとに走る。これが、この八王子城攻防戦までの藤田信吉。その後もなかなか面白い動きをする武将である。
本丸
小宮曲輪から本丸へと続く道を進む。小宮曲輪の崖下を見るに、東端は鋭く切り立っており、這い上がるのは大変そうだが、西端辺りからであれば這い上がることもできそうだなあ、などと先回同様の妄想しながら道を進み、左手下に八王子神社を見ながら本丸へと上る。
案内に、「本丸跡:城の中で最も重要な曲輪。平地があまり広くないので大きな建物はなかったと考えられる。ここは横地監物吉信が守っていたと考えられる」。と。本丸とは言うものの、山頂の平坦部は150平米程度で、櫓とか見張りの砦程度しか建たないように思えるので、本丸というより、山頂曲輪とか、天守曲輪といったものである。山頂平坦地には祠と「八王子城本丸址」と刻まれた石碑が建つ。
横地監物は北条氏照不在の八王子城代として戦の指揮をするも、形勢利あらず、と再起を決し城を落ち延びるも、奥多摩にて自決した、とのことである。
中の曲輪
本丸から八王子神社の佇む平坦地に降下りる。この平坦地は山頂曲輪のある主尾根から北に延びる支尾根にある小宮曲輪と南に延びる松木曲輪に挟まれた上下2段からなる曲輪で「中の曲輪」と呼ばれている。八王子神社のある上段はおよそ600平米。石段下の下段部はおよそ500平米と山頂ではもっとも広い曲輪となっている。
上段にある八王子神社とその横に横地社と呼ばれる小さな祠が祀られる。本丸(山頂曲輪)にあった案内によると、「八王子神社と横地社;延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が、山中で修行している際に出現した牛頭天王と八人の王子に会ったことで、延喜16年(916)に八王子権現を祀ったといわれる。この伝説に基づき、北条氏照は八王子城の築城にあたり、八王子権現を城の守護神とした。これが「八王子」の地名の起源。
その八王子神社の横にある小さな社は、落城寸前に奥多摩に落ち延びた横地監物が祀られる。もともと、東京都奥多摩町にあったが、ダム建設で湖底に沈んでしまうためにここに移された」、と。
このダムとは東京の上水道水源として昭和32年に竣工した小河内ダムのこと。当時、奥多摩村熱海蛇沢に祀られていた横地社をこの地に遷したわけである。
松木曲輪
中の曲輪の南、小宮曲輪と相まって逆八の字に主尾根から突き出している支尾根上にある。岩山を削って平らにしたような平坦部は900平米。北側中の曲輪との比高差は2、3m。南側には比高差5mほどの下に腰曲輪がある。案内によれば、「松木曲輪:中山勘解由家範が守ってきたといわれる曲輪。中の丸とも二の丸とも呼ばれる。近くには坎井(かんせい)と呼ばれる井戸がある。天正18年(1590)6月23日には前田利家の軍勢と奮戦したが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。このときの家範の勇猛さが徳川家康の耳に入り、その遺児が取立てられ、水戸徳川家の家老にまでなった」、とある。
松木曲輪から南に広がる高尾山を眺めながら小休止。本来ならここから富士見台への尾根道を経て裏高尾の旧甲州街道へと向かうのだが、今回同行の元同僚は、八王子城ははじめて。やはり山麓の御主殿跡とか、戦国時代の城では珍しい石垣を案内すべしと、一旦城山を下りることにする。地図を見るに、御主殿跡の先に富士見台から裏高尾へと延びる尾根道への山道らしき案内があるので、うまくいけばその道筋を尾根に向かって上ろう、などとの算段ではあった。
八合目・棚門台跡_午後14時13分;標高362m
城山山頂の要害部をひと回りし、城山を下り八合目・棚門台跡に。「八合目」と刻まれた石標がある。八合目の石標脇には、「松竹橋方面」と書かれた木の標識脇に、「柵門台」と書かれた木標がある。道脇に「柵門跡」の案内。「山頂の本丸方面に続く尾根上に築かれた平坦部。詳しいことはわかっていない」と。『戦国の終わりを告げた城;椚国男(六興出版)』によると、「柵門台は登城口と搦手口から来る道(敵)への関門として山腹の岩を切り取ってつくった50から60平米の舌状地。背後の高さ8mの崖の上にもほぼ平で80平米ほどの広さがあり、上から敵を迎え撃つ防御台である」と。また、「柵門台の入口と出口には柵門が設けられ、山上には出口の柵門から登り、柵門内からは金子曲輪を経て登城口へと下る道と、山王台(注;山裾にある城主の屋敷である御主殿から山頂に上る「殿の道」にある関門)に通じる道があり、五差路となっている」とあった。
山王台_午後14時20分;標高376m
通常、この八合目からは金子丸から馬蹄段を経て登山口である一の鳥居へと下るのだが、今回はこの八合目から辿れるという山王台へと向かうことにする。道案内はないのだが、柵門台の案内のあるあたりの少し北に左へ入る細路があり、これが山王台への道であれかし、と願いながら先へと進む。道は沢頭に沿って通るが、整備されていないようで、少々難儀ではあったが、10分もあるなかいうちに平坦地に出る。そこが山王台であった。
地形図を見ると、山王台は柵門台と沢を隔てた舌状台地上にあり、その広さは80平米ほど。岩を削り取ってつくったものである。「南無妙法蓮華経」と刻れた石碑は昭和8年(1933)に戦いで亡くなった将士の霊を慰めるべく建てられた。
殿の道・石垣群
山王台から御主殿との間は「殿の道」で結ばれていた、と言う。その下り口を探すと、舌状台地南に西に向かって折り返すような小道があった。それが殿の道であろうと。ジグザグの道を下る。
道の途中には何段にもなった石垣群がある。石垣群は全部で4群あり、それぞれの群には数段に分かれて石段が築かれている。崩れている箇所もあるが、結構しっかりと組まれたままの状態で残っている石垣もある。
何故に山腹にこれほどまでの石垣を築いたのか、ということだが、この沢が比較的浅く傾斜であったため、石垣を築き敵が這い上がるのを阻止するため、と言う。
思わぬ石垣群に魅せられながら下山口に。場所は御主殿跡の西北端あたりにある。道標はない。
御主殿跡
御主殿跡は東西約120m、南北45mから60m、およそ4000平米の広い敷地である。案内によると、「八王子城の中心部。城主北条氏照の居館のあったところ。「主殿」「会所」と想定される大型礎石跡や、庭園、敷石通路、水路等の遺構が検出された。主殿では政治向き「の行事が、会所では庭園を眺めながらの宴会などが催された。(中略)会所跡には50cmから80cmの床面を再現し、敷居。間取りも表してある。(中略)遺構の確認された範囲(2900平米)には小舗石を並べ、その範囲を示してある」、とあった。
「御主殿の滝」にあった案内のコラムには「戦国時代はいつも合戦とその準備をしていたイメージがあるが、八王子城から出土した遺構・遺物はそのイメージから程遠い。中国から輸入された五彩ではなやかなお皿で、領国内で取れたアワビやサザエを食べたり、ベネチアでつくられたレースガラス器や信楽焼の花器を飾り、そのもとでお茶をたしなみ、枯山水の庭を眺めてお酒を飲んだ日々が思い浮かばれます。これらの品々はさぞかし北条氏照の心を和ませていたのではないだろうか」と。
御主殿の滝
御主殿跡の西南端から林道に下りる道を下り「御主殿の滝」へ。滝に下りる入口には石仏とともに千羽鶴が祀られる。案内によれば、「落城の際に、御主殿にいた女性やこども、将兵たちが滝の上で自刃し、次々と身を投じたといわれる。その血で城山川の水は三日三晩、赤く染sまったと言われる」、と。合掌。
昔の水勢は知る由もないが、現在は滝壺とは言い難い、ささやかな滝下となっている。滝の上には如何にも水場といった石組みが残る。
櫓門(やぐらもん)
御主殿の滝から再び御主殿跡に戻り、入口の冠木門から石段に出る。25段の石段の途中には櫓門(やぐらもん)の案内。「踊り場から礎石が発見された。東西(桁行)約4.5m、南北(梁間)3.5m。通路の重要な位置にあることから物見や指揮をするための櫓門とも。礎石の傍には排水のための石組側溝も発見されている」、と。
虎口
石段を下りると道は右に折れる。ここは虎口虎口の案内には、「城や曲輪の入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるために工夫がなされている。御主殿の虎口は、木橋を渡った位置から御主殿内部まで、高低差約9mを「コ」の字形の階段通路としているのが特徴。(中略)階段は約5mの幅。途中の2か所の踊り場とともに、全面石が敷かれているのは、八王子城独特のものである」とあった。
曳橋
虎口を左に折れる城山川を跨ぎ御主殿跡と大手道を繋ぐ木製を模した橋がある。大手道の脇にあった案内によると、「コラム曳橋;古道から御主殿に渡るために城山川に架けられた橋。橋台部のみが残っているだけなので、どのような構造の橋が架けられていたかはわかっていない。現在の橋は、当時の道筋を再現するため、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考えて木製で架けられた」とあった。
橋脇にも「橋台石垣と曳橋」の案内があり、「当時はこの石垣のうえに簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)を壊すことにより敵の侵入を防いだ」と・。
大手道_午前10時28分;標高255m
曳橋を渡り、きれいに整地された大手道を下る。右手の太鼓尾根は先ほど堀切や太鼓曲輪を辿ったところであるなあ、などと想いを巡らしながら山腹中腹の道を下る。道を下り切り、城山川方面へと道が曲がる辺りに木の柵があり、大手道はここで終える。木の柵の脇にある案内には、;「大手道 発掘調査では、当時の道は明確にできなかったが、門跡や橋台石垣の検出、さらに平坦部が尾根の中腹に連続していることから、ここが御主殿にいたる大手道であったことが明らかになった。 現在の道は、この地形を利用して整備したもの。当時は、ここから城山川の対岸にアシダ曲輪や御主殿の石垣、さらに城山の稜線にそって連なる曲輪や建物が見わたせたと思われる」、とある。
現在大手道は、この場所から御主殿跡に向かって整備されているが、既にメモした通り、往昔は、太鼓尾根の南側の御霊谷側に大手口があり、そこから太鼓尾根の東端、現在は中央高速により分断されている「上の山」に上り、太鼓尾根の北側(城下川側)の丘陵中腹を城下川に沿って続き、この地まで続いていた。
御霊谷の谷筋は鎌倉期より開けており、信長の安土城に倣い八王子城を大改修するに際し、大手口を案下谷(恩方谷)から御霊谷。に移し、御霊谷川の左岸に朱色の御霊谷門が食い違い虎口,内枡形などを伴い建っていた、と。 この大手道は「上の道」と呼ばれ、家臣が公用路として通る道であり、基準幅8m、それより広い箇所が5か所、狭いところが3か所といった立派なものであった、とか。
○上の道
上の道の名残はないものかと木の柵を越え、小道に入る。木々の間の踏み分け道を進むも、次第に踏み分け道もなくなり、城山川の傍の藪に入り込み、今回はそこで撤退。冬になって藪が減った時にもう一度歩いてみようと思う。
山下曲輪
上の道跡といった小道を大手道の木の柵まで戻り、城山川を渡り山下曲輪に。山下曲輪は大きく二段に分かれる。南と東に土塁が築かれ、曲輪の東北隅に御主殿や山上への小道が通じ、東と南からの敵の侵攻を防ぐ山麓の最重要拠点であった。上段には観音堂が佇む。数年前八王子城訪れたときは自由にお参りできたのだが、現在は「私有地につき立ち入り禁止」となっていた。
近藤曲輪
山下曲輪から花かご沢の深いV字の谷を隔てた一帯が近藤曲輪。現在は公園となっている。空堀とか馬防柵があったとのことだが、特に案内もないようで、今回は公園にあるジオラマで本日辿った山稜を確認するに留める。もうあれこれ調べる気力も体力も少々乏しくなっているようである、
近藤曲輪からすぐ傍の「八王子城跡ガイダンス施設」に。今年(2013年)の4月にできたばかりとのこと。八王子城合戦のビデオや資料を眺め、道脇の中山勘解由屋敷跡の案内を眺め、霊園口のバス停に本日の散歩を終える。
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