土曜日, 1月 18, 2014

銅山川疏水散歩 そのⅣ: 疏水西部幹線を新長谷寺から東端の永田分水口まで

今回の散歩は、二度の散歩で歩き残した疏水西部幹線を、新長谷寺から始め、西端の長田分水口まで。四国中央市の寒川町から土居町まで歩くことになる。ルート及びポイントとなる水路橋や分水口は、四国中央市の疏水担当である紀井氏より情報を頂いているので迷うこともないだろうと、お気楽に実家のある新居浜市から車で出発。
車を寒川町の新長谷寺にデポ。疏水を西端まで歩き終えた後、歩いて車を取りに戻るのは少々うざったいとは思うが、バスの便があるわけもなく、距離は5キロ程度であれば「許容範囲内」と自らに言い聞かせ散歩にでかける。
本日の本日のルート;新長谷寺>妙見神社>沢に>西谷川分水口>西谷川を渡る>西谷川サイフォン>スクリーン>東谷分水口>中井出分水口>豊岡川水路橋>豊岡川分水口>耳神分水口>鎌谷川水路橋>鎌谷川分水口>中山分水口>岡銅分水口>隅田川水路橋>長田分水口

新長谷寺
これで3度目の新長谷寺。行基創建と伝わるこのお寺さま、大和の名刹である長谷寺と重なる。寒川の地名の由来でメモしたように、その昔、大和の長谷寺に納める観音さまの試作仏を、行基菩薩が浪速の浜から流すと、その観音さまがこの地の浜に流れ着いた。ために、長谷寺の前を流れる神川の名前をとり神川とし、その神川が寒川と記されるようになったとの話がある。
もっとも、暴れ川を鎮める神の名をとり「寒川」とするとの説もあるようだが、それはともあれ、観音様の縁起で捉えれば、新長谷寺は大和の長谷寺との関連で造営されたと考えても不自然ではないように思える。縁起に違わず堂々とした構えのお寺さまの駐車場に車をデポし散歩に出かける。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

妙見神社
新長谷寺が佇む豊岡山の山裾の道を、長谷川水路橋で地下に潜った疏水出口のある西谷川へと向かう。松山自動車道の南を進む山道がはじめてカーブするあたりに妙見神社。
妙見信仰といえば、秩父平氏から千葉氏へと続く一党がすぐに頭に浮かぶのだが、それは関東を中心に散歩しているためではあろう。この信仰は山口に覇を唱えた大内氏も敬い西日本にも妙見の寺社も多いようである。
それよりなりより、真言宗では妙見菩薩を重視しているようであり、大和の長谷寺の本尊である十一面観音の本地は妙見菩薩ということであるから、この社も新長谷寺と関係する社ではないだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

沢に入渓
山裾の道を進む。険阻な四国山地から瀬戸内に注ぐ急流によって形成された発達した扇状地故か、山裾と海との距離が数キロであるのだが、その比高差は大きい。松山自動車道の下に広がる里を見下ろしながら先に進むと西谷川に注ぐ沢に当たる。
隧道から出た疏水はこの沢に出るのだろと、沢に降りる場所を探す。道を先に進むが沢との比高差が大きくなっていくばかりであり、しかも、この道を進んでも里に戻れそうにない。ちゃんと地図を確認して進めばよかったのだが今更新長谷寺に戻り、里からアプローチするのも面倒なので、道が沢とクロスする辺りから力任せで沢に入る。
藪漕ぎをしながら沢に降り、先に進むと数メートルの高さのある岩場。手ががり、足ががりを探りながら慎重に岩場を下り、沢を進む。しばらく進むと沢の周囲も開かれて一安心。

西谷川分水口
沢を彷徨い、分水口への手ががりを探す。と、細い水路が右手の山肌から下っているのが目に入る。何の根拠もないのだが、水路に沿って上っていく。と、石の構造物が目に入る。「西谷川分水口」との標識もあり、なんとか分水口をゲット。頂いた資料には近くにサイフォン施設もあるようなのだが、わからなかった。

西谷川サイフォン
分水口から地下を進む水路の先をGoogle mapでチェックすると、西谷川を越えたあたりで開渠となっている。開渠に向かうには一度里に下りて大きく迂回すれば開渠近くまで道が見えるのだが、それも面倒。ということで、分水口から開渠辺りに向けて一直線で進むことにする。
沢の西には西谷川が流れる。水量の少ない場所を探し、川床の石を踏み川の西岸に移る。川床から少々比高差のある川岸に木々をつかみながら這い上がる。で、分水口から河を渡る(潜る)であろう辺りまで川岸を進むが、これが猛烈な藪。藪漕ぎが嫌になるあたりに突然石の構造物。そこから西へと水路が続いていた。この構造物は西谷川を潜り抜けた疏水サイフォンの西出口であろう。



西谷川サイフォンからの開渠
開渠を進むが、ほどなく水路は地下に潜る。Google Mapで先をチェックすると、ちょっと西に開渠が見える。暗渠となった水路の道筋は石垣を乗り越えた先にあるのだが、これまた猛烈な藪漕ぎ。休耕地が荒れ果てたようにも見える一帯を何とか農道に出るが、暗渠は先まで続いている。開渠の近くまで道を辿ると結構な大回りとなるので、畑地の畦道を西へと農道まで進む。

民家脇から開渠が続く
農道まで一度出て、農道が水路とクロスする場所まで下る。水路は農道の左右に続く。道の東側を見ると、民家脇に西谷川の西で地下に潜った水路の出口が見える。その家の方が庭に出ている間、農道でちょっと休憩。家に入るのを見届け、民家の住人に遠慮しながら水路を辿り開口部をチェック。



松山自動車道手前の水路スクリーン
丸い水管からなる水路出口を確認し、農道まで戻り、そこから段々になった耕地の境を緩やかにカーブしながら続く水路に沿って進む。水路は松山自動車道手前でスクリーン柵から地中に潜る。

高野跨道橋
水路はここから松山自動車道の北に移るが、松山自動車道を跨ぐ高野跨道橋脇を水路橋となって進む。松山自動車道、通称「松山道」は現在愛媛県の東予の四国中央市から南予の宇和島までつながっているが、昭和60年(1985)、三島川之江ICと土居IC間が四国最初の高速道路として開通した。



東谷分水口
松山自動車道を渡り切ると。高速道路北に沿って水路が続く。その高野跨道橋の北詰に「東谷分水口」の標識と鉄板で覆われた構造物。眼下に広がる里と瀬戸の海が美しい。
里と言えば、現在は四国中央市と称されるこの一帯、我々の世代では宇摩郡といった地名がなじむ。「宇摩」は「馬」に拠るとの説がある。金生川などで砂金採取をおこなっていた帰化人が百済から馬を此の地にもたらし、その「巨体」故に土人へのインパクトが大きく、地名を「馬」とのこと。古墳代後記にはこの辺りは「馬評(うまのこおり)」と称されていたようである。
馬評が宇摩(宇麻)となったのは、大宝元年(701)の大宝律令による、行政単位が評から郡になったこと、それと延長5年(972)、「凡そ諸国の郷里の名は二字として、必ず嘉名でとれ」との詔により「馬」を「宇摩(麻)」とし、宇摩(麻)郡となったのだろう。
因みにその「宇摩」はどこから、ということだが、それは不詳。「宇摩」の二文字を使う神が、宇摩志(可美)葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の2神に拠るとの説もあるが、定説にはなっていないようである。

中井出分水口

水路はほどなく地中に潜るが、すぐに開渠となり西に向かう。水路脇に「中井出分水口」の標識があった。

サイフォン
中井出分水口の西は、これも瀬戸の海を借景に、しばし開渠が続き、暗渠の鉄板を境に再び地中に潜り、またまた水路が現れそして消える。頂いた資料にはその地中に潜った水路が再び開渠となって現れる手前にサイフォン施設がある、と言う。特に川はないのだが、ここのサイフォンは左右のサイフォン施設間を通る道の下を潜っている、ということだろうか。
サイフォン先で現れた水路は、スクリーンのある辺りで再び地中に潜り、豊岡川手前で姿を現すことになる。

豊岡川水路橋
道に沿って進み、豊岡川へと下る坂に。坂を下り豊岡川に架かる橋から上流を見ると水路橋が見える。Google Mapで見ると、水路橋手前から水路が見える。坂道を上り直し水路橋へと続く水路を探すと、坂脇の藪の中に水路が見える。水路へ入り込むため、坂の途中から藪に入り、これまた猛烈な藪を漕ぎながら水路に下り、農閑期で水の流れない疏水水路の中を進み豊岡川水路橋を渡る。



豊岡川分水口
豊岡川水路橋を渡り切れば、松山自動車道の高架桁。桁脇で水路は再び地中に入る。Google Mapでは水路は表示されないのだが、この辺りに、豊岡川分水口があるとのことで、畑地の中を目を凝らしてみると、僅かな幅の水路ではあるが、雑草の中を水路が見える。その水路を辿ると「豊岡川分水口」の標識があった。

水路橋
水路は豊岡川分水口の先で地中に入る。松山道に沿って進むとコンクリートで護岸改修された川筋がある。コンクリートの護岸を上に向かうと水路橋。地中から現れ、水路橋を渡ると再び地中に入っていった。
水路橋から先は耕地の畦道を水路筋らしき辺りを進むと再び水路が現れ、カーブを描きながら耕地の段差の間を進みまたまたスクリーン柵で地中に入る。



耳神分水口
スクリーンで地中に入った水路は、前を遮る小丘を潜り先に進み鎌谷川の支流を越える。頂いた資料ではサイフォンがあるとのことだが、あちこち彷徨ったが見つけることができなかった。
資料にはサイフォンの先に「耳神分水口」。松山自動車道に沿って進み、道脇の耳神様を目安に右に折れると、耳神様のすぐ上に「耳神分水口」の標識があった。
ところで、耳神様って何の神様だろう。文字通り考えれば「耳の神様」ではあろうが、それにしては耳以外の体の部位を冠する神様を聞いたことがない。 あれこれチェックしていると、神武天皇の妃に手研耳命や研耳命、御子に神八井耳命(かむやいみみのみこと) とか、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇)といった耳を持つ神がいる。また、天照大神の御子とも比定される天忍穂耳神といった神もいる。この耳神場合の耳(ミミ)の解釈は、「実を一杯つけて頭を垂れる稲穂の姿」とか。
「稲穂説」の他にも「神に付ける接頭辞」とか、「御子」のことを意味するとか諸説あるようだ。この場合、地域の指導者を名前をつけず、一括に尊称として祀ったのが「耳神」といったこのことである。どれが正しいのかわからないが、「稲穂」>豊かな実りを願う、といった祠がなんとなく、いい。

鎌谷川水路橋
耳神分水口からの水路に沿って松山自動車道を潜り鎌谷川脇に。松山自動車道脇の車道のすぐ下に水路が見える。鎌谷川水路橋である。民家のすぐ上に架かる鎌谷水路橋を渡る。この水路橋には水が溜まっており、義経のごとく橋の欄干(?)を渡ることになった。川床までそれほど高さはないのだが、ちょっと怖い。






鎌谷スクリーン
鎌谷川水路橋を渡った疏水はほどなく地中に入る。そこには「鎌谷スクリーン」の標識があった。資料にあった、鎌谷川分水口は見つけることができなかった。

中山分水口
鎌谷川筋から離れ、次のポイントである中山分水口に向かう。鎌谷川の西には丘陵が松山自動車道の北へと張り出しており、丘陵の中を辿ることになるので、少々ポイント探しが難しそう。
鎌谷川筋から松山自動車道沿いの坂を上り、前もって入手した地図に記載の中山分水口へと向かう。が、入手した地図に記載された辺りにはそれらしき構造物は見つからない。
付近をあれこれ彷徨うも、何となく標高から見ても、地図に記載されている辺りは釜谷川水路橋より高く、自然流水の観点からも、用水が低いところから高いところに進むのは不自然と、地図記載の場所を諦め、道に沿って下ると、道が森に入ってすぐカーブする辺りの沢のような藪の中に人工的な構造物が目に入る。標識もなにもないのだが、造りからみて、如何にも分水口。ここが「中山分水口」だろう。
やっと見つけた安心感から、あまり地図も見ず成り行きで道を下っていたのだが、思いついて確認のためGoogle Mapを見ると、この道を進んでも次の目的地であるポイントには里に下って大きく迂回することになる。で、道を折り返し松山自動車道脇の道に戻る。

山の神公園
次の目的地をGoogle Mapを見ていると、雪が激しく降ってきた。雪が激しく舞う。この地は強風の「やまじ風」で知られており、まさか山道凍結はないだろうが、念のためここから一度新長谷寺まで戻り、デポした車に乗ってこの地まで車を持ってくることに。
四国中央市の土居町辺りに「やまじ風公園」と呼ばれる公園があるが、この地は「やまじ風」と称される南よりの強風が吹く。日本三大局地風(山形県の「清川だし」、岡山県の「広戸だし」とともに)のひとつとも言われる。原因は低気圧が日本海を通過する際、四国山地に南から吹き付けた風が、石鎚山系と剣山系の鞍部となっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に葺き降りることにより発生するようだ(Wikipediaより)
5キロほど歩いて戻り、再び車でこの地に。で、地図で確認すると、次のポイントの手前に「山の神公園」がある。公園であれば駐車場もあるだろうと、車一台がぎりぎりの山道を対向車が来ないことを祈り、とりあえず観福寺脇の公園駐車場にデポ。
公園から北へと下る歩道脇には石仏や石碑が並ぶ。日暮も近く、道を下って確認することはできなかったが、石鎚神社と刻まれた石碑があるようだ。

岡銅分水口
次のポイントのある岡銅分水口へと、山の神公園から西に下る車道を進む。道を下り、もうひとつの道が合流した辺りに沢が現れた。事前に手に入れた地図にはその沢の中に岡銅分水口と隅田水路橋が見て取れる。
沢に降りる場所を探して先に進むが、沢との比高差が広がるばかり。結局、ふたつの道が合わさり沢とクロスする辺りが一番アプローチしやすそう、ということでクロスポイント辺りから沢に入る。
結構厳しい竹藪。竹藪の藪漕ぎをしながら先に進み、藪が落ちついた辺りの右手の崖面の方向に構造物が目に入る。それが岡銅分水口であった。

隅田川水路橋
水路橋は分水口から沢を渡るはずだが、それらしき水路橋が見当たらない。が、目を凝らして探すと、沢を跨ぐ雑草が目に入る。ハッキリとした橋の形にはなっていないが、どうみてもこれが沢を渡る疏水の水路橋である隅田川水路橋であろう。

サイフォン
本日の最終目的地は大地川手前にある「長田分水口」。隅田川水路橋と長田分水口の手前に、大地川に注ぐ支流があり、疏水はそこをサイフォンで潜るとのこと。隅田川水路橋のある沢から道に這い上がり、道なりに西に進み水路を跨ぐ橋に。橋の上か下か定かではないが、とりあえず上に向かう。と、民家の敷地といった一隅に鉄の作業橋といったものが架けられ、バルブも付いた、如何にもサイフォンといった構造物があった。

長田分水口
サイフォンのある場所から次の長田分水口に道を辿るには、一度結構坂を下り、再び大地川の東を上ることになる。小雪も乱舞している。日も暮れてきた。急ぎ足で道を進み、長田分水口に。今までみた分水口とは異なり、結構大きな構造物。どこからの水なのか勢いよく構造物から流れ出していた。冬は農閑期で銅山川疏水は流れていないので、銅山川疏水の水ではないとは思う。
銅山川疏水西部幹線もこれで一応終了。山の神公園にデポした車を取りに戻り、一路実家の新居浜に。次回は銅山川疏水東部幹線を辿ろうかと思う。


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