車を寒川町の新長谷寺にデポ。疏水を西端まで歩き終えた後、歩いて車を取りに戻るのは少々うざったいとは思うが、バスの便があるわけもなく、距離は5キロ程度であれば「許容範囲内」と自らに言い聞かせ散歩にでかける。
本日の本日のルート;新長谷寺>妙見神社>沢に>西谷川分水口>西谷川を渡る>西谷川サイフォン>スクリーン>東谷分水口>中井出分水口>豊岡川水路橋>豊岡川分水口>耳神分水口>鎌谷川水路橋>鎌谷川分水口>中山分水口>岡銅分水口>隅田川水路橋>長田分水口
新長谷寺
これで3度目の新長谷寺。行基創建と伝わるこのお寺さま、大和の名刹である長谷寺と重なる。寒川の地名の由来でメモしたように、その昔、大和の長谷寺に納める観音さまの試作仏を、行基菩薩が浪速の浜から流すと、その観音さまがこの地の浜に流れ着いた。ために、長谷寺の前を流れる神川の名前をとり神川とし、その神川が寒川と記されるようになったとの話がある。もっとも、暴れ川を鎮める神の名をとり「寒川」とするとの説もあるようだが、それはともあれ、観音様の縁起で捉えれば、新長谷寺は大和の長谷寺との関連で造営されたと考えても不自然ではないように思える。縁起に違わず堂々とした構えのお寺さまの駐車場に車をデポし散歩に出かける。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
妙見神社
妙見信仰といえば、秩父平氏から千葉氏へと続く一党がすぐに頭に浮かぶのだが、それは関東を中心に散歩しているためではあろう。この信仰は山口に覇を唱えた大内氏も敬い西日本にも妙見の寺社も多いようである。
それよりなりより、真言宗では妙見菩薩を重視しているようであり、大和の長谷寺の本尊である十一面観音の本地は妙見菩薩ということであるから、この社も新長谷寺と関係する社ではないだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
沢に入渓
隧道から出た疏水はこの沢に出るのだろと、沢に降りる場所を探す。道を先に進むが沢との比高差が大きくなっていくばかりであり、しかも、この道を進んでも里に戻れそうにない。ちゃんと地図を確認して進めばよかったのだが今更新長谷寺に戻り、里からアプローチするのも面倒なので、道が沢とクロスする辺りから力任せで沢に入る。
藪漕ぎをしながら沢に降り、先に進むと数メートルの高さのある岩場。手ががり、足ががりを探りながら慎重に岩場を下り、沢を進む。しばらく進むと沢の周囲も開かれて一安心。
西谷川分水口
西谷川サイフォン
沢の西には西谷川が流れる。水量の少ない場所を探し、川床の石を踏み川の西岸に移る。川床から少々比高差のある川岸に木々をつかみながら這い上がる。で、分水口から河を渡る(潜る)であろう辺りまで川岸を進むが、これが猛烈な藪。藪漕ぎが嫌になるあたりに突然石の構造物。そこから西へと水路が続いていた。この構造物は西谷川を潜り抜けた疏水サイフォンの西出口であろう。
西谷川サイフォンからの開渠
民家脇から開渠が続く
松山自動車道手前の水路スクリーン
高野跨道橋
東谷分水口
里と言えば、現在は四国中央市と称されるこの一帯、我々の世代では宇摩郡といった地名がなじむ。「宇摩」は「馬」に拠るとの説がある。金生川などで砂金採取をおこなっていた帰化人が百済から馬を此の地にもたらし、その「巨体」故に土人へのインパクトが大きく、地名を「馬」とのこと。古墳代後記にはこの辺りは「馬評(うまのこおり)」と称されていたようである。
馬評が宇摩(宇麻)となったのは、大宝元年(701)の大宝律令による、行政単位が評から郡になったこと、それと延長5年(972)、「凡そ諸国の郷里の名は二字として、必ず嘉名でとれ」との詔により「馬」を「宇摩(麻)」とし、宇摩(麻)郡となったのだろう。
因みにその「宇摩」はどこから、ということだが、それは不詳。「宇摩」の二文字を使う神が、宇摩志(可美)葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の2神に拠るとの説もあるが、定説にはなっていないようである。
中井出分水口
水路はほどなく地中に潜るが、すぐに開渠となり西に向かう。水路脇に「中井出分水口」の標識があった。
サイフォン
サイフォン先で現れた水路は、スクリーンのある辺りで再び地中に潜り、豊岡川手前で姿を現すことになる。
豊岡川水路橋
豊岡川分水口
水路橋
水路橋から先は耕地の畦道を水路筋らしき辺りを進むと再び水路が現れ、カーブを描きながら耕地の段差の間を進みまたまたスクリーン柵で地中に入る。
耳神分水口
資料にはサイフォンの先に「耳神分水口」。松山自動車道に沿って進み、道脇の耳神様を目安に右に折れると、耳神様のすぐ上に「耳神分水口」の標識があった。
「稲穂説」の他にも「神に付ける接頭辞」とか、「御子」のことを意味するとか諸説あるようだ。この場合、地域の指導者を名前をつけず、一括に尊称として祀ったのが「耳神」といったこのことである。どれが正しいのかわからないが、「稲穂」>豊かな実りを願う、といった祠がなんとなく、いい。
鎌谷川水路橋
鎌谷スクリーン
中山分水口
鎌谷川筋から松山自動車道沿いの坂を上り、前もって入手した地図に記載の中山分水口へと向かう。が、入手した地図に記載された辺りにはそれらしき構造物は見つからない。
付近をあれこれ彷徨うも、何となく標高から見ても、地図に記載されている辺りは釜谷川水路橋より高く、自然流水の観点からも、用水が低いところから高いところに進むのは不自然と、地図記載の場所を諦め、道に沿って下ると、道が森に入ってすぐカーブする辺りの沢のような藪の中に人工的な構造物が目に入る。標識もなにもないのだが、造りからみて、如何にも分水口。ここが「中山分水口」だろう。
やっと見つけた安心感から、あまり地図も見ず成り行きで道を下っていたのだが、思いついて確認のためGoogle Mapを見ると、この道を進んでも次の目的地であるポイントには里に下って大きく迂回することになる。で、道を折り返し松山自動車道脇の道に戻る。
山の神公園
四国中央市の土居町辺りに「やまじ風公園」と呼ばれる公園があるが、この地は「やまじ風」と称される南よりの強風が吹く。日本三大局地風(山形県の「清川だし」、岡山県の「広戸だし」とともに)のひとつとも言われる。原因は低気圧が日本海を通過する際、四国山地に南から吹き付けた風が、石鎚山系と剣山系の鞍部となっている法皇山脈に収束し、その北側の急斜面を一気に葺き降りることにより発生するようだ(Wikipediaより)
5キロほど歩いて戻り、再び車でこの地に。で、地図で確認すると、次のポイントの手前に「山の神公園」がある。公園であれば駐車場もあるだろうと、車一台がぎりぎりの山道を対向車が来ないことを祈り、とりあえず観福寺脇の公園駐車場にデポ。
公園から北へと下る歩道脇には石仏や石碑が並ぶ。日暮も近く、道を下って確認することはできなかったが、石鎚神社と刻まれた石碑があるようだ。
岡銅分水口
沢に降りる場所を探して先に進むが、沢との比高差が広がるばかり。結局、ふたつの道が合わさり沢とクロスする辺りが一番アプローチしやすそう、ということでクロスポイント辺りから沢に入る。
結構厳しい竹藪。竹藪の藪漕ぎをしながら先に進み、藪が落ちついた辺りの右手の崖面の方向に構造物が目に入る。それが岡銅分水口であった。
隅田川水路橋
サイフォン
長田分水口
銅山川疏水西部幹線もこれで一応終了。山の神公園にデポした車を取りに戻り、一路実家の新居浜に。次回は銅山川疏水東部幹線を辿ろうかと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿