冬のとある日、旧友のS氏より丹沢・大山三峰の修験の道を歩きませんか、とのお誘い。S氏は奥多摩から秩父に抜ける仙元峠越えや、信州から秩父に抜ける十文字峠越え(Ⅰ、Ⅱ)を共にした山仲間。で、今回の山行の発案者はそのS氏の山行・沢遡上の御師匠さんでもあり、私も奥多摩のコツ谷遡上(Ⅰ、Ⅱ)や本仁田山からゴンザス尾根への山行などをご一緒させて頂いたS師匠とのこと。峠歩きの成り行きで山を登るといった我が身には少々荷が重いのだが、「修験の道」というフレーズに惹かれご一緒することに。
丹沢の修験の道に興味を持ったのは、大山や日向薬師を散歩したときのこと。この丹沢の峰々を辿る大山修験、日向修験、八菅修験の行者道があることを知り、行者道のすべては無理にしても、その一部だけでも辿ってみたいと思っていた。今回のルートには八菅修験や大山修験が大山三峰の尾根を辿る行者道、日向修験や八菅修験が尾根を登る弁天御髪(べんてんおぐし)尾根が含まれている。行者道全体からみれば、ほんの触りだけではあるが、それでも先達の足跡を辿れる想いを楽しみに当日を迎えた。
本日のコース;小田急線・本厚木駅>煤ヶ谷バス停>寺家谷戸>不動沢分岐>宝尾根取り付き>512m標高点>777m標高点>大山三峰南峰>不動尻分岐>唐沢峠>弁天御髪尾根分岐>778標高点>梅ノ木尾根分岐>見晴台>すりばち広場>見晴台A>見晴台B>弁天見晴>上弁天>中弁天>下弁天>見晴広場>林道に出る>林道から離れ大釜弁天に下る>大釜大弁才天尊>大沢>広沢寺温泉入口バス停
小田急線・本厚木駅
本日の散歩スタート地点は清川村の「煤ヶ谷バス停」。バスは小田急線・本厚木駅から出る。小田急には厚木駅と本厚木駅がある。あれこれ経緯があるのだが、それはそれとして厚木駅は厚木市ではなくお隣の海老名市にある。本厚木は本家の厚木といった矜持の駅名であろう、か。
煤ヶ谷バス停;午前7時30分_標高136m
■毛利の庄
古代、この厚木の辺りは相模国愛甲郡と呼ばれる。国府は海老名にあった、よう。国分寺は海老名にあった。古代の東海道も足柄峠から坂本駅(関本)、箕輪駅(伊勢原)をへて浜田駅(海老名)に走る。この地は古代相模の中心地であったのだろう。
平安末期には中央政府の威も薄れ、各地に荘園が成立する。この地も森の庄と呼ばれる荘園ができた。で、八幡太郎義家の子がこの地を領し毛利の庄と呼ばれるようになる。12世紀の初頭になると、武蔵系武士・横山党が相模のこの地に勢力を伸ばす。和戦両面での攻防の結果、毛利の庄の南にある愛甲の庄の愛甲氏、海老名北部の海老名氏、南部の秩父平氏系・渋谷氏をその勢力下に置いた。
鎌倉期に入ると相模・横山党の武将は頼朝傘下の御家人として活躍し、各地を領する。頼朝なき後、状況が大きく動く。北条と和田義盛の抗争が勃発。相模・横山党はこぞって和田方に与力。一敗地にまみれ、この地から横山党が一掃される。毛利の庄を領した毛利氏も和田方に与し勢力を失う。 主のいなくなった毛利の庄を受け継いだのが大江氏。頼朝股肱の臣でもあった大江広元より毛利の庄を受け継いだその子・大江季光は姓も毛利と改名。安芸の毛利の祖となったその季光も、後に北条と三浦泰村の抗争(宝治合戦)において、三浦方に与し敗れる。かくの如く、この厚木あたりは古代から鎌倉にかけ交通の要衝、鎌倉御家人の栄枯盛衰の地であったわけである。ちなみに、安芸国の毛利は、この抗争時越後にいて難を逃れた季光の四男経光の子孫。
寺家谷戸;午前7時33分_標高150m

不動沢分岐;午前7時38分_標高163m
寺家谷戸からほどなく、不動沢分岐。右に沢を上ると八菅修験第13行場である、「不動岩屋 児留園地宿」がある、と言う。一の滝(不動の滝)と二の滝があり、滝行を行い、上でメモしたように翌日には寺家谷戸から尾根道の峰入りとなる。不動の滝は10mほどの滝のよう。夏には沢遡上でも、とも想う。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
note;赤い線が今回のルート。黄色が八菅修験の道。紫が日向修験の道。三峰から大山までの黄色のルートは大山修験の帰路のひとつ。

八菅山縁起によると日本武尊が東征のおり、八菅山の姿が蛇の横わたるに似ているところから「蛇形山」と名付けたという。また、八菅の地名の由来は、大宝3年(703)修験道の開祖役の小角(えんのおずぬ)が入峰し修法を行ったとき、「池中に八本の菅が生えたこと」に拠る。和銅2年(709)には僧行基が入山、ご神体及び本地仏を彫刻し伽藍を建立して勅願所としたとも。因みに、役の小角は行基と同時期の実在の人物のようではあるが、修験道といえば役の小角、といった「修験縁起の定石」として定着したのは、鎌倉から室町の頃と言う。
で、八菅修験の行者道であるが、行場は30ヵ所。この八菅山を出立し中津川沿いに丘陵を進み、中津川が大きく湾曲(たわむ)平山・多和宿を経て、丹沢修験の東口とも称される修験の聖地「塩川の谷」での滝行を行い身を浄め、八菅山光勝寺の奥の院とも称され、空海が華厳経を納めたとの伝説も残る経ヶ岳を経て尾根道を進み「仏生寺(煤ヶ谷舟沢)」で小鮎川に下り、白山権現の山(12の行場・腰宿)に進む。

唐沢峠からは峰から離れ、弁天御髪尾根を不動尻へと下り、七沢の集落(大沢)まで尾根を下り、里を大沢川に沿って遡上し、24番目の行場である「大釜弁財天」を越えて更に沢筋を遡上し、再び弁天御髪尾根へと上り、すりばち状の平地のある27番行場である空鉢嶽・尾高宿に。そこからは尾根道を進み、梅ノ木尾根分岐を越え、再び三峰山、唐沢峠を繋ぐ尾根道に這い上がり、尾根道に沿って大山、そして大山不動に到り全行程53キロの行を終える。
なお、この八菅修験の道は春と秋の峰入りがあったようだが、秋のルートは残っていないよう。上のルートは春の峰入り、2月21日の八菅三内での修行からはじまり、峰入りを3月18日に開始し大山不動には3月25日に到着したとのこと。最後の峰入りは明治4年(1871)。修験道廃止令故のことである(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より、以下、丹沢修験の行者道に関する記事は同書を参考にさせて頂きました)。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
○八菅修験・春の行者道
1.八菅山>2.幣山>3.屋形山(現在は採石場となり消滅)>4.平山・多和宿>5.滝本・平本宿(塩川の谷)>6.宝珠嶽>7.山ノ神>8.経石嶽(経ヶ岳)>9.華厳嶽>10.寺宿(高取山)>11.仏生谷>12.腰宿>13.不動岩屋・児留園宿>14.五大尊嶽>15.児ヶ墓(辺室山)>16.金剛童子嶽>17.釈迦嶽>18。阿弥陀嶽(三峯北峰)>19.妙法嶽(三峯)>20.大日嶽(三峯南峰)>21.不動嶽>22.聖天嶽>23.涅槃嶽>24.金色嶽(大釜弁財天)>25.十一面嶽>26.千手嶽>27.空鉢嶽・尾高宿>28.明星嶽>29.大山>30.大山不動
宝尾根取り付き;午前8時5分_標高196m

S師匠のリードで尾根に向かう。次のポイントである標高点512m地点まで直線1キロを300mほど登ることになる。時に標高線が密になるところもあるが、好い頃合いで標高線の間隔が広がる尾根筋であり、それほどキツクはない。
512m標高点;9時15分
進行方向右手には、手前の尾根の向こうに八菅修験の行者道の尾根とその向こうに辺室山、左手には清川村と厚木市の境界を成す境界尾根、そして境界尾根が谷太郎川の谷筋に落ちたその先に鐘ヶ嶽。鐘ヶ嶽は丹沢で最も古い行者道と言う。宝尾根への取り付きからおおよそ1時間で512m標高点に。
○鐘ヶ嶽
777m標高点;10時15分
大山三峰南峰:午前11時5分_標高900m
不動尻分岐:午前11時15分_標高845m
大山南峰から唐沢峠へと続く尾根道は先ほどメモした寺家谷戸から峰入りした八菅修験の行者道。寺家谷戸から辺室山、物見峠を経て大山三峰を越え唐沢峠に向かい、唐沢峠からは不動の坂を下り不動尻から七沢集落の大沢に下る。 10分ほどで不動尻分岐。八菅修験の22番行場である聖天嶽(不動尻)へのショートカットルートのよう。ここのベンチで小休止。
唐沢峠;午後12時15分_標高807m

弁天御髪尾根分岐;午後12時55分_標高882m
ところで、唐沢峠で八菅修験の道と分かれたこの尾根道は大山修験の行者道でもある。大山修験のあれこれは、いつだったか訪れた散歩のメモに預けるとして、この尾根道は、大山修験の行者が峰入りを行い、35日(大山初代住職・良弁上人のケース)の行を行い、煤ヶ谷から大山に戻る里道と山道ルートのうちの山道ルートと比定される。煤ヶ谷からを経て辺室山、物見峠、大山三峰、唐沢峠を経て大山に戻ったようである。
■大山修験の行者道

これら山岳寺院の中で最大のものが大山寺。寺伝によれば、初代住職は華厳宗の創始者であり東大寺の初代別当である良弁、三代目の住職は真言宗の開祖空海、9世紀末地震で崩壊した大山寺を再興したのが、天台宗の安然(円仁の弟子で最澄の同族)といった宗教界指導者の豪華ラインナップ。
が、真言宗の東密、天台宗の台密の密教修験はわかるとして、華厳の良弁はどういった関係?チェックすると、東大寺は聖武天皇の命により全国に設けられた国分寺の元締め、といったもの。空海も東大寺の別当もしており、大山は海老名にあったと言われる国分寺の僧侶の山岳修行の拠点としての位置づけであるとの説があるようだ。
ちょっと話が離れるが、この国分寺の僧侶の山岳修行の拠点との説の中に、八菅山光勝は大山と国分寺を結ぶ山岳修験の東端の拠点として設けられたとの説明もあった。実のところ、何故に丹沢東端の地に山岳修験の拠点があるのか疑問であったのだが、この説明で少し納得。
それはともあれ、大山寺の修験者の行者道は以下の通り(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」);
○大山修験の道

丹沢山岳修験の中心であった大山であるが、江戸時代には徳川幕府の命により。山岳修験者は下山し里に下りることになる。慶長10年(1605)のことである。 修験者は小田原北条氏とむすびつき、僧兵といった性格ももっていたので、そのことに家康が危惧の念を抱いた、との説もある。この命により修験者は蓑毛の地などに住まいすることに。で、これらの修験者・僧・神職が御師となり、庶民の間に大山信仰を広め大山参拝にグループを組織した。それを「講」という。江戸時代には幕府の庇護もあり、大山講が関東一円につくられる。最盛期の宝暦年間(1751年から64年)には、年間20万人にも達した、とか。
尾根道を40分ほど歩き弁天御髪尾根の分岐に。弁天御髪尾根方面は通行を妨げるような綱が張られている。分岐点には道標があり、大山まで1.8キロとある。大山修験の行者道はこの尾根を大山に進むが、我々はこの分岐から弁天御髪尾根へと下るが、この弁天御髪尾根分岐は八菅修験の28番目の行場・明星嶽である。
先ほど通り過ぎた八菅修験の21番の行場である不動嶽こと唐沢峠から七沢の集落に下った八菅修験の行者道は大沢川を遡上し再び峰入りし、この弁天御髪尾根の行場を辿りこの弁天御髪尾根分岐(八菅修験の28番目の行場・明星嶽)に上り、そこから大山へと向かうことは既にメモした通り。
778標高点;午後1時20分
幾度もメモしたようにこの尾根道は、尾根を下った弁天見晴までは八菅修験の道であるが、同時に日向修験の行者道でもある。
■日向修験の行者道

現在は日向薬師で知られるが、江戸の頃までは、日向川を遡った坊中より奥は山林修行者、山伏、禅僧、木喰僧などが混在する山岳修験の聖地であり、薬師堂(日向薬師)、社(白髭神社)を核に多くの堂社から構成された一山組織・霊山寺と称された(『丹沢の修験道を歩く;城川隆生(白山書房)』より)。 ここでも八菅山光勝寺と同じく七社権現が祀られたが、そのラインアップは、熊野・箱根・蔵王・石尊(大山)・山王・白山・伊豆権現。八菅の八幡が石尊(大山)と入れ替わっている。入れ替わっているというか、全体の流れから言えば八菅の「八幡」が少々違和感を抱くが、それは15世紀頃衰退した八菅山光勝寺の庇護者としての源家ゆかりの武家への配慮であろうか。
このことは単なる妄想で根拠はないのだが、ひとつだけシックリしたことがある。それは、15世紀に山伏の本家・聖護院門跡である道興(この人物には散歩の折々に出合う)が大山寺や日向霊山寺を訪ねているのに、本山派聖護院門跡直末の八菅山光勝寺を素通りしているのが結構気になっていた。が、当時八菅山光勝寺が「八菅山光勝寺再興勧進帳」を出すまでに零落していたのであれば納得できた、ということである。日向薬師のあれこれは散歩のメモをご覧いだだくことにして、行者道を下にメモする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
○日向修験の行者道

梅ノ木尾根分岐;午後1時33分_標高711m
見晴台;午後1時47分_標高651m

すりばち広場;2時15分_午後 標高622m
右の谷側には鹿除けの柵。柵越しに先ほどの見張台よりしっかりと大沢川の谷筋や弁天御髪尾根と思しき尾根筋が見える。その先には相模の里も見えてきた。道標にキャンプ場とあるが、この谷筋を下り大沢川の沢にある「弁天の森キャンプ場」に続いているのだろう。南西に目を移すと大山山頂の電波塔もはっきり見て取れる。
見晴台A;午後12時43分_標高658m
見晴台B・鐘ヶ嶽分岐:午後2時52分_標高645m
見晴台Aから10分ほど、痩せ尾根を進むと見晴台B。やっと前面が見晴らせるロケーションとなるが、木々が邪魔し展望はそれほどよくなかった。ここから鐘ヶ嶽への分岐がある。谷太郎川の谷筋に下り、鐘ヶ岳に向かうのだろう。ここの標識は茶色の土管(鉢植えの鉢程度の大きさ)に挟まれた木にペンキで書かれている。よくはわからないが、こういった見晴らし台とかキャンプ場は神奈川県の自然公園として整備されたのだろうが、それにしては手作り感が強い。だれかアウトドア活動に燃えた担当者が推進した事業が、担当者の配置換えとともにその熱が消え去ったのだろうか。単なる妄想、根拠なし。
弁天見晴 :午後3時2分_標高597m
S師匠の元々の計画では、この弁天見晴から行者道の逆側、左手の尾根筋を辿って大沢集落へ下ることにあったようだが、なんとなく呟いた、上弁天、中弁天、下弁天、そして大釜弁財天って面白い地名、というフレーズに応えてくれたようで、計画を変更しここから尾根筋を上弁天、中弁天、下弁天と真っ直ぐ下り、一直線に大釜弁財天(八菅24行場・金色嶽)へと向かうことに。
中弁天:午後3時28分_標高536m
上弁天とか中弁天などとのフレーズから何らか祠でもあるのかと期待したのがだが、それらしきものはない。最近になってハイキングコースの目印に付けられた地名なのだろうか、それとも、直線下にある大釜弁財天が雨乞いの祠であったとのことであるので、なんらか雨乞いの神事が行われたところなのだろか、などとあれこれ妄想だけは広がる。
下弁天:午後3時44分_標高515m
見晴広場;午後3時49分_452m
下弁天から急坂を下り終えると見晴広場。今までとは異なり立派な道標がある。標識に「キャンプ場」とあるのは弁天の森キャンプ場であろう。何度かメモしたように、弁天尾森キャンプ場の辺りが八菅修験25番行場・十一面嶽。
林道に出る:午後4時6分_午後標高346 m
林道から離れ大釜弁天に下る:午後4時10分_標高343 m
大釜大弁才天尊:午後4時33分_標高250m

八菅修験、大山修験の行場である塩川の谷には、江ノ島の洞窟と繋がるとの伝説がある。中津川の川底には洞窟があり江ノ島の洞窟と繋がっており、江ノ島の弁天さまが地下洞窟を歩き、疲れて地表に出て塩川の滝の上流の江ノ島の淵まで歩いていった、とのことである。弁天様が元は地下水脈の神であったとすれば、それなりに筋の通った縁起ではある。
この縁起の意味するところは何だろう?チェックすると、弁天さまって、我々が身近に感じる七福神とは違った側面が見えてきた。弁天様って二つのタイプがあるようで、そのひとつは全国の国分寺の七重の塔に収められた「金光明最勝王経」に説く護国鎮護の戦神(八臂弁才天)であり、もう一つは、空海唐よりもたらした真言密教の根本経典である大日経に記され、胎蔵界曼荼羅において、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天。いずれにしても結構「偉い」神様のようである。
江ノ島に祀られた弁天さまは二臂弁才天。聖武天皇の命により行基が開いた、とも。聖武天皇は国分寺を全国に建立した天皇であり、その国分寺の僧元締めが東大寺。東大寺初代別当良弁は大山寺開き初代住職。大山寺三代目住職とされる空海も東大寺別当を務めたことがある。ということで、すべて「東大寺」と関係がある。
で、東大寺で想い起すのが「二月堂」のお水取り。二月堂下の閼伽井(若狭井)は若狭(福井県小浜市)と地下で結ばれ神事の後、10日をかけて地下水脈を流れ二月堂に流れ来る、と。上で大山寺の良弁は八菅山光勝寺を国分寺の僧侶の大山山岳修行の拠点としたとメモした。東大寺の二月堂の地下水脈の縁起を、この江ノ島から中津川を遡った塩川の谷に重ね合わせ、その地に修験の地としての有難味を加え、塩川の谷に大山山岳修験の東口として重みを持たせたのであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
大沢:午後4時50分_標高250m
大釜弁天を離れ大沢集落へと向かう。日も暮れてきた。愛宕神社の辺りでは日も落ち、日向薬師散歩の時に訪れた「七沢城址(七沢リハビリテーション病院)」の案内をライトで照らして眺め広沢寺バス停に。
広沢寺温泉入口バス停;午後5時15分_標高96m
五語5時15分バス停に到着。午後5時21分発のバスに乗り、午後5時50分に本厚木駅到着し一路家路へと。出発午前7時半。バス停着午後5時15分。結構歩いた。
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