日曜日, 3月 22, 2015

伊予 歩き遍路:六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へ下る そのⅠ

六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて、吉野川水系銅山川の谷筋にある奥の院・仙龍寺へと下った。きっかけは先日歩いた土佐北街道散歩。四国中央市の瀬戸内側から法皇山脈を越え、銅山川筋にある新宮へと辿る土佐北街道、通称「横峰越え」と称されるこの街道を辿ったわけだが、尾根筋へと上る途中、遍路道標である「茂兵衛道標」が建ち、「へんろ道」の札が木に掛けられている。チェックするとこの土佐北街道の一部は、遍路道としても利用されていた。
土佐北街道を辿りながらも、遍路道の「行方」への想いに抗し難く、ちょっと寄り道し、 「茂兵衛道標」から遍路道を辿り尾根筋の「峰の地蔵尊」まで歩いた。そのときは峰の地蔵尊から引き返し元の横峰越えへと戻ったのだが、遍路道はその先、銅山川の谷筋にある六十五番札所・三角寺の奥の院である仙龍寺へと続くと言う。
チェックすると、この遍路道は、六十五番札所・三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へお参りし、法皇山脈の南麓をトラバースし「峰の地蔵尊」に至り、そこから土佐街道と一部重なりながら法皇山脈の北麓の平山集落に下り、六十六番札所である讃岐の雲辺寺へと向かう歩き遍路の道であった。
三角寺からの上りはどうと言うこともない山道のようだが、地蔵峠を越えて奥の院に下る道は険路と言う。その「険路」って、どの程度のものなのか、また、四国総奥の院とも称される仙龍寺の風情は如何なるものか、との思いが今回の散歩となったわけである。 ルートを想うに、奥の院の辺りにはバスの便はない。ということで、基本三角寺からのピストンとし、三角寺に車をデポし、奥の院に向かい、復路は往昔の遍路が辿った道を「峰の地蔵尊」まで進み、先回の土佐北街道で歩いた奥の院への遍路道と繋いだ後、成り行きで三角寺まで戻ることにした。ルートは往復で長くても6時間もあればいいかと大雑把な計算をし、少し早めに実家の新居浜を出て車でスタート地点の三角寺へと向かった。

ちょっと余談。実はこのメモを始めようとPCに移したデジカメの写真の「三角寺フォルダー」を探したのだが、どこにも見当たらない。どうも間違って消し去ったようだ。先日の土佐北街道・横峰越えの時も、写真のシャッターのタイミングが調子悪く、まともな写真が撮れておらず、結局撮り直しに往復6時間かけて雪の土佐北街道を歩いた。今回もまた6時間かけて撮り直しか、などと少々気が重かったのだが、試にとGoogleで「データ削除 復元」で検索すると、ごみ箱で消し去ったデータ、SDカードにから消去したデータを復活させるフリーのソフトがあった。 まずはPCでスキャンしごみ箱から消し去った削除データ一覧を探すが痕跡はない。一縷の望みでデジカメのSDカードをスキャンすると、なんと削除した写真が一覧に現れた。写真を選択し見事に復元。削除した後に撮ったデジカメを削除していなかったのがよかったのかもしれない。あまりの嬉しさと、データ復元のフリーソフトをつくってくれた方に感謝を込めてここにメモした。

本日のルート;
Ⅰ.往路;六十五番札所・三角寺>奥の院遍路道へ>最初の舟形地蔵丁石>道標>茂兵衛道標>沢を渡る>48丁石>47丁石>沢を渡ると42丁石>41丁石>39丁石・38丁石>35丁石>33丁石・32丁石>31丁石・30丁石>29丁石>車道>地蔵峠>奥の院への下り道>20丁石・19丁石>桜馬場・18丁石>17丁石・16丁石>15丁石・14丁石>車道に出る>再び車道に>茂兵衛道標>「金光山仙龍寺」の石柱>不動堂>4丁石・新四国霊場分岐点>清滝>弥勒堂・仙人堂>奥之院

Ⅱ.復路:奥之院>奥の院出発>「大師修行之護摩岩窟」分岐>4丁石分岐点>茂兵衛道標分岐>車道に復帰>石垣に地蔵丁石>市仲集落>真念道標>15丁石・17丁石>18丁石と道標>大嶽神社と丁石>丁石2体>「四国中央東幹線」鉄塔>奉納石仏>林道に出る>国道から分岐>峰の地蔵尊>堀切峠>尾根道の車道を三角寺分岐へ>三角寺

六十五番・三角寺へ
実家のある新居浜を出発して、三角寺にナビをセットする。予想では、先般の銅山川疏水散歩のとき辿った上柏町辺りから山道に入っていくのかと思ったのだが、ナビはその地を通り過ぎ、11号線の三島川之江IC入口を越えたあたりにある、三角寺右折の大きなサインも見遣り、上分町で国道92号線、そして松山自動車道を潜る。
どこかで見た景色である。先に進み県道5号・土佐北街道を右に折れる。これって、土佐北街道散歩の時に辿った平山集落へ上る道。車は平山集落まで進み、集落バス停先の「三角寺」の案内に従い右折。この道は先回の土佐北街道の写真撮り直し散歩のとき、ピストンの戻り道で時間に余裕もあり、尾根から三角寺まで進み、平山集落へと辿った道。この道は三角寺から直接平山集落へと進む遍路道でもあるのだが、今回はその山麓の遍路道を逆に車で進むことになった。
勝手知ったる、とはいいながら、一車線の道。対向車に出合わないようにと祈りながら走ることしばし、三角寺に到着。駐車場脇の木箱の料金入れに200円を納め、三角寺の境内への石段を上る。

六十五番札所・三角寺;7時45分(標高372m)
自然石で造られた50分石段を上ると中央に鐘楼が吊られる仁王門が建つ。愛媛では唯一の鐘楼門とも聞く。門を入ると左手に「おびんずる様」、右手に納経所、正面に庫裏。 ○おびんずる様
「おびんずる様」こと、「なで仏」に最初に出合ったのは足立区の関原不動尊。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということで傍にはべるのを許された、って仏様である。
○三角池
庫裏の左の石段の上に大師堂。その手前には三角池と弁財天。この三角池がお寺さまの名前の由来。寺伝によれば、聖武天皇(在位724?49)の勅願のもと行基菩薩により開創した由霊山三角寺に、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れる。大師は、本尊の十一面観音像を彫り、さらに、不動明王像も彫り、三角の護摩壇を築き21日間、国の鎮護を祈念し「降伏護摩の秘法」を修法されたとのこと。この護摩壇の跡が庫裡とささやかな薬師堂の間にある弁財天の祀られるこの「三角の池」の中の島である。
○一茶の句碑
三角池から左手奥にある本堂に進む途中に樹齢300~400年といわれる山桜。桜の傍には、江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき詠んだ、「これでこそ 登りかひあり 山桜」の句碑が残る。
○本堂
境内の南端に本堂。このお寺さま、嵯峨天皇(在位809?23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩を所有し、七堂伽藍を備える大寺であったが、土佐の長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、本尊以外を焼失。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)であり、昭和46年(1970)に修復されている。
○茂兵衛道標
本堂の対面に手印とともに「奥の院」と刻まれた石柱がある。奥の院の文字の脇下には「是より五十八丁 中務義教」とも刻まれている。石柱右側には「壱百七拾六度目目為供養建之 發願主 中務茂兵衛義教」と刻まれた文字が読める。生涯279回の遍路巡礼の記録を持つ中務茂兵衛建立の遍路道標であった。義教は巡礼百回を越えてから改めた名前のようである。
この道標は奥の院までの行程58丁を示す。1丁はおおよそ109mとのことでもあるので、6キロ強といったとことではあろう。山道でも峠までは上りだが、あとは下りであるので2時間もあれば奥の院まで辿れそうである。
□中務茂兵衛
中務茂兵衛の道標識には、先日歩いた土佐北街道、また、80番札所である讃岐の国分寺の近くで出合った。中務茂兵衛は幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物である。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、380回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。 遍路行が88回を数えたことを記念して道標建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか;「えひめの記憶」より)道標建てたと言われる。

奥の院遍路道へ;7時55分
境内で奥の院への遍路道のスタート地点を探す。大師堂辺りなど探すも、それしき箇所は見あたらない。丁度お寺様の関係者らしき方がいらっしゃったので、お聞きすると本堂の南端から遍路道が続くとのこと。
本堂の南の石垣東端に手印らしきものと「三角寺」と刻まれた石碑があり、そこから寺を抜け集落の坂道を上ると「へんろ道」の案内もあり、この道が奥の院へと向かう遍路道ではあろう。



最初の舟形地蔵丁石:8時(標高390m)
寺叢を抜けると周囲が開ける。石垣の手前には「自然遊歩道 市民の森奥之院経由」の道標も建つ。等高線に沿って進みほどなく林に入るも、左手が開け、道傍に舟形の地蔵丁石が佇む。丁数は刻まれているのだが、摩耗してはっきり読めない。






道標;8時2分(標高404m)
等高線に垂直に上り切りった辺りに「左 へんろみち」と刻まれた道標。へんろ道は、等高線400mの辺りを、等高線に沿って南に切れ込んだ谷筋を進む。道傍に胴体がふたつに切れた地蔵さま。丁数は刻まれていない。目の前には四国中央市、瀬戸の海、また六十六番札所・讃岐の雲辺寺のある山稜が拡がる。谷を少し進んだ辺りには胴体だけの丁石も残っていた。

茂兵衛道標;8時9分(標高427m)
等高線400mから少し標高を上げながら谷筋へと進むと、道が分岐する三叉路交点に大きな道標が建つ。正面には「奥の院へ五十六丁」、右側に「弐百五十一度目為供養 願主 中務茂兵衛義教」、左には「大正二年」と刻まれる。大正二年といえば、茂兵衛が69歳のとき。251回目の遍路巡礼の折りに建立したものだろう。
因みに、三角寺の丁石が58丁、ここが56丁、ということは、先ほどの舟形地蔵丁石は57丁石ということではあろう。




沢を渡る:8時11分(標高440m)
茂兵衛道標から数分で440m等高線がU字カーブする箇所、谷筋に当たる。谷筋に流れる沢の傍にお地蔵様が佇む。昔は水場として重宝されたことだろう。








48丁石;8時16分(標高473m)・47丁石;8時19分(標高501m)
沢を渡り450m等高線に沿って、ぐるっと沢筋を廻り切ったあたりにも胴体が切れた舟形地蔵丁石が佇む。丁数はわからない。そこから道は等高線を斜めに上ると「四十八」とはっきり刻まれた丁石があった。
48丁石の直ぐ先、500m等高線の辺りに「四十七」と刻まれた丁石。その先、550m等高線の辺りには頭だけが残った丁石が残っていた。

42丁石;8時29分(標高551m)・41丁石;8時33分(標高557m)
等高線550mから10mほど下がった谷筋を進み、U字に切れ込んだ沢を渡る。 沢から550m等高線辺りまで上ったところに「四十二」と刻まれた舟形地蔵丁石が佇む。
ほどなく「四十一」と刻まれた丁石。その傍の沢傍に石柱が建つ。舟形丁石ではないようだが、なんだろう。どの沢だか忘れたが、上に石が積まれた石柱もあった。
39丁石・38丁石;8時41分(標高623m)
等高線を斜めに上る道脇に何気なく立てられた39丁石、その先には道の少し高いところに38丁石が佇む。



38丁石・35丁石;8時45分(標高647m)
38丁石を見遣り先に進むと35丁石があり、その先に奥の院への手書きの道案内と「草刈依頼」の案内。へんろ道を整備するため、時間に余裕がある人に雑草の下刈りを依頼しているようだ。先を見る冬枯れの時期かブッシュも無いようであり、そのまま先に進む。


33丁石・32丁石;8時49分(標高692m)
木の根っこに佇む33丁石、そして木の傍で少々傾いた32丁石と続く。












31丁石・30丁石;8時53分(標高715m)
ほとんど道の真ん中に建つ32丁石、そして道傍の枯葉に埋もれた31丁石と続く。












29丁石;8時56分(標高725m)
空が開けた辺りの道傍に29丁石が建つ。その先は尾根筋。そこは道で森が切れる。「えひめの記憶」に拠れば、三角寺から奥之院への山道は「路程五十八丁、山中岩端をとり、崎嘔を歴て至る(『四国?礼霊場記』)」というような難所であり、『四国遍路日記』の中で、地蔵峠への上り道について「誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル」といったように、古くから多くの遍路記の中に道中の苦労が記述されている、とあったが、現在の道は地元の方々のご苦労の賜か、きちんと整備されており、特段険路といった道ではなかった。

尾根道の車道に出る;8時57分(標高738m)
森を切り開いた道は法皇山脈の尾根道を東西に走る道。東は平石山を経て翠波高原から四国中央市へ下る道と合わさる。西は、先日歩いた堀切峠を越え呉石の方に続いている。








地蔵峠;9時5分(標高773m)
車道を横断し「へんろみち」の案内に従い、再び木々の間に入るも、すぐに空が開け、道を左に進むと、道標と4体の仏様が佇む地蔵峠に到着する。 「えひめの記憶」には「峠道の右側に4基の地蔵が並んで立っている。右から2番目は地蔵道標(92)、その左も仏海による地蔵道標(93)で、1番左は26丁の地蔵丁石である。仏海(1710~1769)は、道行く遍路のために土佐に接待庵(仏海庵)を建てたことなどで知られる木食(もくじき)僧で、2年ほど奥之院に滞在して千体地蔵を製作したと伝えられている。道標に刻まれた寛保3年(1743)は、彼の奥之院退山の年である。なお、これら地蔵群と道をはさんで反対側には、奥之院への案内を彫り込んだ道標も立っている」とあった。

奥の院への下り道
地蔵峠で少し休憩し、奥の院への下り開始。下り道は険路とある。事故も起きるようで、三角寺さまも、このルートはあまりお勧めしない、といったコメントもあり、また、、前述の澄禅は『四国遍路日記』の中で、峠からの下り道についても「深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景ニ於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事廿余町シテ谷底二至ル(「えひめの記憶」)」などと描かれており、どのような険路・難路かと少々怖れてはいたのだが、道は整備されておりハイキングコースといったものではあった。


丁石
銅山川の谷筋、その向こうに聳える四国山地の景観を眺めながら道を下る。等高線を垂直に下る道脇に摩耗され丁数の読めない舟形地蔵丁石が二体。下ったほうの一体には「三」のような数字が読める。23丁石であろうか。




20丁石・19丁石;;9時14分(標高684m)

23丁石辺りからは等高線に沿って緩やかに杉林の中を下る。等高線に垂直気味に、少し急な山道を進むと木の前に「二十」、その先、等高線をトラバース気味に少し下ったところに「十九」と読める丁石が佇む。











桜馬場・18丁石;9時16分(標高671m)
19丁石から少し下ると鉄塔の建つ緩斜面に出る。桜馬場と称される。緩斜面の南に大きな桜の木(馬場桜)が立ち、その手前に舟形地蔵丁石。18丁石ではないかと思う。
ところで、この鉄塔の送電線、地図で延々と東へと辿ると、先日金比羅さんの奥の院、阿波の箸蔵寺へと歩いたときに出合った鉄塔に繋がっていた。以下はその箸蔵街道散歩()の時の鉄塔のメモ
「箸蔵街道から更に東に辿ると四国電力讃岐変電所(香川県綾歌郡綾歌町)が終点であった。が、西側がどこがスタート地点かはっきりしない。あれこれ記事を見ていると、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロを結ぶ50万ボルトの基幹送電線が目にとまった。川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとのこと。なんとなくこの基幹送電線網の鉄塔かとも思える」と。

17丁石・16丁石:9時18分(標高614m)
桜馬場から等高線を垂直に、坂道を下る。木の根元に丁石があるが、丁数は摩耗し読めない。が、少し下ったところに「十六丁」とくっきりと刻まれた丁石があったので17丁石ではあったのだろう。









15丁石・14丁石;9時21分(標高607m)
更に等高線を垂直に坂道を下ると、また摩耗し丁石が読めない丁石。先に進むと道を大木が遮り、その手前に舟形地蔵丁石。なんとなく「十四」と読める。先ほどの丁石は15丁石ということだろう。 









集落の道に出る;9時24分(標高564m) 
杉林の向こう、下が明るく開けた辺りに、またも丁石が摩耗した丁石があり、その先で車道に出る。険路との情報は、ここまでの間、なんということのないハイキングルートといったものであった。







再び集落の道に;9時30分(標高520m)
この辺りは大窪集落とのこと。道を横切り、杉林の遍路道を下る。少々荒れた山道を、道傍にある「天王権現」の石碑を見遣りながら下ると再び道に出る。東西に走る道の傍には薪が積まれた小屋が目につく。




茂兵衛道標;9時33分(標高507m)
道を横切り、石垣の間を再び山道に入る。ほどなく石段が現れ下りきったところに大きな道標。山道に下って数分といったところである。 道標の正面には「奥の院八丁 / 三角寺五十丁」、右側に「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」、左に「明治三四年 吉日」、裏には「奥の院 / 185度目為供養 / 願主 中務茂兵衛義教」とある。茂兵衛道標であった。
「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」の手印を見ると、遍路道は石段横の石垣手前を右に向かうようである。夥しい倒木、立木が茂り遍路道は整備されてはないようである。奥の院・仙龍寺参拝の後は、この地まで打ち返し、堀越峠へと進んでみようと思う。




「金光山仙龍寺」の石柱
茂兵衛道標のすぐ先に「金光山仙龍寺」と刻まれた石柱。ここが奥の院との結界、すなわち聖と俗の境界ということであろう。「えひめの記憶」によれば、「不動堂の参道右側には3基の地蔵が並んでいて、そのうち右側の頭部のない地蔵は雲辺寺への道標(97)、他の2基はいずれも9丁の地蔵丁石である。三角寺からの一連の地蔵丁石は、この9丁のものをもって終わる」とあった。三角寺から峠の上り下りにお付き合い頂いた舟形地蔵丁石に感謝。



不動堂;9時40分(標高488m)
結界からほどなく不動堂。このお堂を奥之院跡とする説もあるようだ。不動堂の左には茂兵衛道標と享保14年(1729)に建立の8丁の丁石がある。茂兵衛道標には「奥之院へ八丁 毎夜本尊御直作厄除大師尊像のご開帳アリ霊場巡拝の信者ハ一夜の通夜ヲシテ御縁結ビ現當二世ノ利益ヲ受ケラルベシ 中司義教誌 荷物ハ持参スルモヨシ又ハ店に預ケ置キ参詣通夜スルモヨシ」とも刻まれている、と。「店に預ケ」云々は往昔この辺りに数件の茶店があった、とか。







8丁石
不動堂から奥之院までの間を「八丁坂」と称される。いままでより傾斜も心持ち急になり、左右に崖が現れる。また、不動堂から奥之院までは今までの舟形地蔵丁石に代わり、8丁から1丁までの丁石となる。4丁石に下る途中で何気なく撮った丁石には「六丁」と刻まれていた。


4丁石・新四国霊場分岐点;4丁石分岐;9時53分(標高384m)
道を進むと進路が二つに分かれ、直進方向には「崩落箇所あり危険注意」の案内と石仏が見える。その分岐点には標石が2基建ち、一基は「奥の院四丁・右清瀧道」と刻まれた丁石と、「新四国霊場」と刻まれていた。
この4丁石のある分岐点は、そのまま進むと直接奥之院に至り、右に折れると清滝を経由して奥之院へと向かう道であり、また、奥之院境内から清滝、この分岐点を経由して奥之院境内へと一周する新四国霊場の道筋でもあった。道筋には四国霊場に替わる88の石仏が並ぶ。分岐点の辺りに見えた石仏は、新四国霊場51番札所(松山の石手寺)を示す仏様であったようである。
○新四国霊場
「えひめの記憶」に拠れば、新四国霊場は、「明治時代後期に仙龍寺では、裏山に新四国霊場を開設することを念頭において、山内の清滝への参道の整備を行った。さらに明治45年(1912)に当時の住職服部覺禅や中務茂兵衛が中心になって新四国霊場の開設を計画して開創にこぎ着け、大正3年(1914)に記念法会を行っている」とある。
仙龍寺境内の記念碑に、「二三篤信のものと相謀り、一八佛恩報謝のため、一者老若男女の輩をして容易二新四國霊場を巡拝せしめ以て普く大師の霊光尓浴せしめんとて、彌々新四國八十八箇の霊場開設を発願し、十方の信者諸彦に對してその本尊の造立を委嘱す。(中略)郡内二十餘ヶ寺の僧侶を屈請し記念法會と共に山内新四國霊場開眼のために庭儀曼荼羅供の大法會を行ふ」と刻まれるように、容易にお大師様の功徳を受けるようにとの企画ではあろう。

清滝へ
清滝への道を進む。直進する崩壊箇所が危険、といったこともあるが、実のところ、散歩のときは、この道筋は新四国霊場として周回コースとなっていることは知らず、大きな滝を見てみたいといった動機でのコース取りであった。どちらを歩いても結局は同じではあった。
杉やモミの木立の中を札所をしめす石仏にお参りしながら道を進む。道すがら、奥之院の伽藍の屋根、遠く銅山川の谷筋なども見える。

清滝;9時57分(標高370m)
札所36番の石仏が佇むところに清滝。落差30m、幅5m。現在でも行者の水垢離修行が行われている、と言う。写真を撮るために滝に接近し撮り終え、先に進む道を探す。が、道筋が見あたらない。崖を這い上がり、道を探すが、どうみても普通の人が通れるようなルートではない。
一旦滝まで戻り、滝から下る沢を見ると、左に続く、沢を渡るルートが見える。余りに滝に近づき過ぎたため、ルートを見逃したようだ。さっきの藪漕ぎは何だったんだろう、などと思いながら沢を渡り奥之院へと向かう。







弥勒堂へ
自然林の緩やかな山道を進む。道傍には幾多の仏さまが佇む。尾根に上り切り、尾根に立つ仏様、路傍の岩盤したに佇む札所の仏様を見遣りながら、すこし急な坂を下り奥之院へと向かう。





弥勒堂・仙人堂;10時17分(標高285m)
ほどなく弥勒堂、そのすぐ下に仙人堂が建つ。このふたつのお堂は、仙龍寺を開いた法道仙人を祀る。寺伝によれば、法道仙人はこのお寺さまに訪れた弘法大師にお寺を譲ったとのこと。
で、法道仙人って誰?Wikipediaに拠れば、「法道(ほうどう)は、インドの仙人。鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢(くはつ-)、空鉢仙人(からはちせんにん)とも呼ばれる。
6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされる。播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、勅願寺を含む数多くの所縁の寺がみられる。また、日本に渡るときに牛頭天王と共に渡ったとされその牛頭天王は姫路市にある広峰神社に祭られ、その後現在は八坂神社中の座に祭られたとされている」とある。
実在の人物とのエビデンスはなにも無いが、播磨国には法道仙人が開いたとされる寺院は百箇所以上もある、と言う。尾道にもゆかりの寺院が残るが、播磨へと向かう途中での縁起であろうか。
上人でなく仙人と称されるのは、数々の奇跡譚に由来するのだろう。なんとなく役行者とイメージが重なるが、役行者が山岳修験系の呪術を得意とする優婆塞(正規の仏教僧ではない行者)なのに対して、雑密(呪術的要素が強い密教)の修法を得意とする僧とされる。

奥之院;10時15分(標高275m)
石段を下り切りると、そこには「新清瀧新四国霊場道」の標石が建つ。奥之院の本堂(通夜堂とも)前に立って独特の造りの造作を眺める。通夜堂とも称されるように、宿坊(現在はないようだ)・庫裡も兼ねているためであろうか。情緒ある旅館といった趣きである。本堂は建物2階にある。
本堂前はコンクリートで固められた広場に見えるが、下には無明川が流れておりコンクリート橋梁である。往昔は木で造られ、岩壁に掛造様式で建てられた本堂と結んでいたとのことである。靴を脱ぎ本堂を歩きご本尊の弘法大師と脇に控えるお不動さまにお参り。
境内の案内によると、「奥之院略縁起 山号を金光山、寺号を仙龍寺。弘仁6年お大師様42歳のときこの山に登山せられ、その当時、この山に住んでおられた法道仙人より、この山を譲り受け、岩窟に滝澤大権現と開運不動尊を勧請して厄除けと虫除けのふたつの御誓願をたてて、岩窟に籠もって21日間護摩の修行をおこなった霊跡である。
この護摩修行成満の後、自らの姿を彫刻し、この山に安置したのがご本尊。爾来今日まで、当山のご本尊を厄除大師、虫除大師と申し伝えられ多くの人の帰依を受けている」と。本尊の「弘法大師」は本堂の2階に祀られる。
○四国総奥の院
また、他の案内には、前述同様に説明とともに、「爾来千有余年、代々の山主は一刻も法灯を絶やすことなく、現在では全国から奥之院大師を信仰し、四国総奥之院の歴史を刻む」とあった。総奥之院がいかなるものか不明ではあるが、徳島の真言宗御室派の大瀧寺、香川の真言宗善通寺派の與田寺も四国総奥之院と称する。因みにこの仙龍寺は真言宗大覚寺派のお寺さまである。

三角寺を出発しておおよそ2時間強で奥の院・仙龍寺についた。なんとなく丁石を注意して歩いていたら、メモも結構多くなった。散歩自体は、ここから再び三角寺までひきかえしたのだけれども、今回のメモはここで終え、復路は次回にまわすことにする。


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