土佐北街道を辿りながらも、遍路道の「行方」への想いに抗し難く、ちょっと寄り道し、 「茂兵衛道標」から遍路道を辿り尾根筋の「峰の地蔵尊」まで歩いた。そのときは峰の地蔵尊から引き返し元の横峰越えへと戻ったのだが、遍路道はその先、銅山川の谷筋にある六十五番札所・三角寺の奥の院である仙龍寺へと続くと言う。
チェックすると、この遍路道は、六十五番札所・三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へお参りし、法皇山脈の南麓をトラバースし「峰の地蔵尊」に至り、そこから土佐街道と一部重なりながら法皇山脈の北麓の平山集落に下り、六十六番札所である讃岐の雲辺寺へと向かう歩き遍路の道であった。

ちょっと余談。実はこのメモを始めようとPCに移したデジカメの写真の「三角寺フォルダー」を探したのだが、どこにも見当たらない。どうも間違って消し去ったようだ。先日の土佐北街道・横峰越えの時も、写真のシャッターのタイミングが調子悪く、まともな写真が撮れておらず、結局撮り直しに往復6時間かけて雪の土佐北街道を歩いた。今回もまた6時間かけて撮り直しか、などと少々気が重かったのだが、試にとGoogleで「データ削除 復元」で検索すると、ごみ箱で消し去ったデータ、SDカードにから消去したデータを復活させるフリーのソフトがあった。 まずはPCでスキャンしごみ箱から消し去った削除データ一覧を探すが痕跡はない。一縷の望みでデジカメのSDカードをスキャンすると、なんと削除した写真が一覧に現れた。写真を選択し見事に復元。削除した後に撮ったデジカメを削除していなかったのがよかったのかもしれない。あまりの嬉しさと、データ復元のフリーソフトをつくってくれた方に感謝を込めてここにメモした。
本日のルート;
Ⅰ.往路;六十五番札所・三角寺>奥の院遍路道へ>最初の舟形地蔵丁石>道標>茂兵衛道標>沢を渡る>48丁石>47丁石>沢を渡ると42丁石>41丁石>39丁石・38丁石>35丁石>33丁石・32丁石>31丁石・30丁石>29丁石>車道>地蔵峠>奥の院への下り道>20丁石・19丁石>桜馬場・18丁石>17丁石・16丁石>15丁石・14丁石>車道に出る>再び車道に>茂兵衛道標>「金光山仙龍寺」の石柱>不動堂>4丁石・新四国霊場分岐点>清滝>弥勒堂・仙人堂>奥之院
Ⅱ.復路:奥之院>奥の院出発>「大師修行之護摩岩窟」分岐>4丁石分岐点>茂兵衛道標分岐>車道に復帰>石垣に地蔵丁石>市仲集落>真念道標>15丁石・17丁石>18丁石と道標>大嶽神社と丁石>丁石2体>「四国中央東幹線」鉄塔>奉納石仏>林道に出る>国道から分岐>峰の地蔵尊>堀切峠>尾根道の車道を三角寺分岐へ>三角寺
六十五番・三角寺へ

どこかで見た景色である。先に進み県道5号・土佐北街道を右に折れる。これって、土佐北街道散歩の時に辿った平山集落へ上る道。車は平山集落まで進み、集落バス停先の「三角寺」の案内に従い右折。この道は先回の土佐北街道の写真撮り直し散歩のとき、ピストンの戻り道で時間に余裕もあり、尾根から三角寺まで進み、平山集落へと辿った道。この道は三角寺から直接平山集落へと進む遍路道でもあるのだが、今回はその山麓の遍路道を逆に車で進むことになった。
勝手知ったる、とはいいながら、一車線の道。対向車に出合わないようにと祈りながら走ることしばし、三角寺に到着。駐車場脇の木箱の料金入れに200円を納め、三角寺の境内への石段を上る。
六十五番札所・三角寺;7時45分(標高372m)

「おびんずる様」こと、「なで仏」に最初に出合ったのは足立区の関原不動尊。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということで傍にはべるのを許された、って仏様である。
○三角池

○一茶の句碑
三角池から左手奥にある本堂に進む途中に樹齢300~400年といわれる山桜。桜の傍には、江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき詠んだ、「これでこそ 登りかひあり 山桜」の句碑が残る。
○本堂
境内の南端に本堂。このお寺さま、嵯峨天皇(在位809?23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩を所有し、七堂伽藍を備える大寺であったが、土佐の長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、本尊以外を焼失。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)であり、昭和46年(1970)に修復されている。
○茂兵衛道標

この道標は奥の院までの行程58丁を示す。1丁はおおよそ109mとのことでもあるので、6キロ強といったとことではあろう。山道でも峠までは上りだが、あとは下りであるので2時間もあれば奥の院まで辿れそうである。
□中務茂兵衛
中務茂兵衛の道標識には、先日歩いた土佐北街道、また、80番札所である讃岐の国分寺の近くで出合った。中務茂兵衛は幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物である。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、380回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。 遍路行が88回を数えたことを記念して道標建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか;「えひめの記憶」より)道標建てたと言われる。
奥の院遍路道へ;7時55分
本堂の南の石垣東端に手印らしきものと「三角寺」と刻まれた石碑があり、そこから寺を抜け集落の坂道を上ると「へんろ道」の案内もあり、この道が奥の院へと向かう遍路道ではあろう。
最初の舟形地蔵丁石:8時(標高390m)
道標;8時2分(標高404m)
茂兵衛道標;8時9分(標高427m)
因みに、三角寺の丁石が58丁、ここが56丁、ということは、先ほどの舟形地蔵丁石は57丁石ということではあろう。
沢を渡る:8時11分(標高440m)
48丁石;8時16分(標高473m)・47丁石;8時19分(標高501m)
48丁石の直ぐ先、500m等高線の辺りに「四十七」と刻まれた丁石。その先、550m等高線の辺りには頭だけが残った丁石が残っていた。
42丁石;8時29分(標高551m)・41丁石;8時33分(標高557m)
ほどなく「四十一」と刻まれた丁石。その傍の沢傍に石柱が建つ。舟形丁石ではないようだが、なんだろう。どの沢だか忘れたが、上に石が積まれた石柱もあった。
39丁石・38丁石;8時41分(標高623m)
等高線を斜めに上る道脇に何気なく立てられた39丁石、その先には道の少し高いところに38丁石が佇む。
38丁石・35丁石;8時45分(標高647m)
33丁石・32丁石;8時49分(標高692m)
31丁石・30丁石;8時53分(標高715m)
29丁石;8時56分(標高725m)
尾根道の車道に出る;8時57分(標高738m)
地蔵峠;9時5分(標高773m)
奥の院への下り道
丁石
20丁石・19丁石;;9時14分(標高684m)
23丁石辺りからは等高線に沿って緩やかに杉林の中を下る。等高線に垂直気味に、少し急な山道を進むと木の前に「二十」、その先、等高線をトラバース気味に少し下ったところに「十九」と読める丁石が佇む。
桜馬場・18丁石;9時16分(標高671m)
ところで、この鉄塔の送電線、地図で延々と東へと辿ると、先日金比羅さんの奥の院、阿波の箸蔵寺へと歩いたときに出合った鉄塔に繋がっていた。以下はその箸蔵街道散歩(Ⅰ,Ⅱ)の時の鉄塔のメモ
「箸蔵街道から更に東に辿ると四国電力讃岐変電所(香川県綾歌郡綾歌町)が終点であった。が、西側がどこがスタート地点かはっきりしない。あれこれ記事を見ていると、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロを結ぶ50万ボルトの基幹送電線が目にとまった。川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとのこと。なんとなくこの基幹送電線網の鉄塔かとも思える」と。
17丁石・16丁石:9時18分(標高614m)
15丁石・14丁石;9時21分(標高607m)
集落の道に出る;9時24分(標高564m)
再び集落の道に;9時30分(標高520m)
茂兵衛道標;9時33分(標高507m)
「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」の手印を見ると、遍路道は石段横の石垣手前を右に向かうようである。夥しい倒木、立木が茂り遍路道は整備されてはないようである。奥の院・仙龍寺参拝の後は、この地まで打ち返し、堀越峠へと進んでみようと思う。
「金光山仙龍寺」の石柱
不動堂;9時40分(標高488m)
8丁石
4丁石・新四国霊場分岐点;4丁石分岐;9時53分(標高384m)
この4丁石のある分岐点は、そのまま進むと直接奥之院に至り、右に折れると清滝を経由して奥之院へと向かう道であり、また、奥之院境内から清滝、この分岐点を経由して奥之院境内へと一周する新四国霊場の道筋でもあった。道筋には四国霊場に替わる88の石仏が並ぶ。分岐点の辺りに見えた石仏は、新四国霊場51番札所(松山の石手寺)を示す仏様であったようである。
○新四国霊場
仙龍寺境内の記念碑に、「二三篤信のものと相謀り、一八佛恩報謝のため、一者老若男女の輩をして容易二新四國霊場を巡拝せしめ以て普く大師の霊光尓浴せしめんとて、彌々新四國八十八箇の霊場開設を発願し、十方の信者諸彦に對してその本尊の造立を委嘱す。(中略)郡内二十餘ヶ寺の僧侶を屈請し記念法會と共に山内新四國霊場開眼のために庭儀曼荼羅供の大法會を行ふ」と刻まれるように、容易にお大師様の功徳を受けるようにとの企画ではあろう。
清滝へ
杉やモミの木立の中を札所をしめす石仏にお参りしながら道を進む。道すがら、奥之院の伽藍の屋根、遠く銅山川の谷筋なども見える。
清滝;9時57分(標高370m)
一旦滝まで戻り、滝から下る沢を見ると、左に続く、沢を渡るルートが見える。余りに滝に近づき過ぎたため、ルートを見逃したようだ。さっきの藪漕ぎは何だったんだろう、などと思いながら沢を渡り奥之院へと向かう。
弥勒堂へ
弥勒堂・仙人堂;10時17分(標高285m)
で、法道仙人って誰?Wikipediaに拠れば、「法道(ほうどう)は、インドの仙人。鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢(くはつ-)、空鉢仙人(からはちせんにん)とも呼ばれる。
6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされる。播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、勅願寺を含む数多くの所縁の寺がみられる。また、日本に渡るときに牛頭天王と共に渡ったとされその牛頭天王は姫路市にある広峰神社に祭られ、その後現在は八坂神社中の座に祭られたとされている」とある。
実在の人物とのエビデンスはなにも無いが、播磨国には法道仙人が開いたとされる寺院は百箇所以上もある、と言う。尾道にもゆかりの寺院が残るが、播磨へと向かう途中での縁起であろうか。
上人でなく仙人と称されるのは、数々の奇跡譚に由来するのだろう。なんとなく役行者とイメージが重なるが、役行者が山岳修験系の呪術を得意とする優婆塞(正規の仏教僧ではない行者)なのに対して、雑密(呪術的要素が強い密教)の修法を得意とする僧とされる。
奥之院;10時15分(標高275m)
本堂前はコンクリートで固められた広場に見えるが、下には無明川が流れておりコンクリート橋梁である。往昔は木で造られ、岩壁に掛造様式で建てられた本堂と結んでいたとのことである。靴を脱ぎ本堂を歩きご本尊の弘法大師と脇に控えるお不動さまにお参り。
境内の案内によると、「奥之院略縁起 山号を金光山、寺号を仙龍寺。弘仁6年お大師様42歳のときこの山に登山せられ、その当時、この山に住んでおられた法道仙人より、この山を譲り受け、岩窟に滝澤大権現と開運不動尊を勧請して厄除けと虫除けのふたつの御誓願をたてて、岩窟に籠もって21日間護摩の修行をおこなった霊跡である。
この護摩修行成満の後、自らの姿を彫刻し、この山に安置したのがご本尊。爾来今日まで、当山のご本尊を厄除大師、虫除大師と申し伝えられ多くの人の帰依を受けている」と。本尊の「弘法大師」は本堂の2階に祀られる。
○四国総奥の院
三角寺を出発しておおよそ2時間強で奥の院・仙龍寺についた。なんとなく丁石を注意して歩いていたら、メモも結構多くなった。散歩自体は、ここから再び三角寺までひきかえしたのだけれども、今回のメモはここで終え、復路は次回にまわすことにする。
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