足立散歩の2回目は竹の塚からはじめ、千住に下る散歩コース。
大雑把に言って、尾竹橋通りと旧日光街道を下るコース。曳舟川散歩で足立区の東端、先回の毛長ルートで北端・西端を歩いた、今回は中央突破ルートと言ったところ。前九年の役や後三年の役での奥州征伐に進む源義家ゆかりの地も多く、武蔵千葉氏の居城跡や神社仏閣など見どころも多い。大雑把に言って、隅田川の自然堤防・微高地上を通る古の奥州古道と言ってもいい、かも。自然堤防が残るとも思えないが、少々の想像力とともに、古道を辿る。
本日のコース: 竹の塚駅 > 実相院 > 諏訪神社 > 源正寺 > 常楽寺 > 満福寺 > 西光院 > 六月・炎天寺 > 鷲神社 > 島根・国土安穏寺 > 栗原・満願寺 > 西新井大師 > 本木・「六阿弥陀巡り」 > 中曽根神社 > 関原・関原不動尊 > 西新井橋 > 元宿神社 > 大川町氷川神社 > 北千住駅
日比谷線・竹の塚駅の西に実相院
日比谷線・竹の塚下車。先回は東口。今回は西口に下りる。最初の目的地は実相院。伊興2丁目に向かう。実相院は江戸の頃より伊興の子育て観音として知られる。寺伝によると創建は天平(729-748)の昔。行基菩薩が一本の流木から観音像を彫り上げた、と。行基菩薩もいろんなところに、顔を出す。縁起は縁起だけのこと、と思うべし。本尊の聖観世音菩薩は12年に一度開帳される秘仏。
千葉次郎勝胤の墓
寺の近くに千葉次郎勝胤の墓。家臣が主君を偲んで建てた碑であり、正確には墓ではない。あちこち歩いたが、見つけることができなかった。千葉勝胤(1471 - 1533年)は足立一帯に覇をとなえた千葉氏。
千葉勝胤は下総千葉宗家、正確には本家を滅ぼし「宗家」を名乗ったわけで、後期千葉家とも言われる分家筋の系列。1400年中頃、本家・分家で争いが起こり、戦に破れた本家筋の千葉実胤と自胤が武蔵のこの地に移り武蔵千葉氏となったはず。下総佐倉に館を構える千葉の勝胤さんが、このあたりに縁があるわけもないと思うのだが、どういうことだろう。同姓同名、ということだろう、か。実相院の近くに六万部経塚。経塚とは、末法の世まで善行を残すために書写した経典を土の中に埋納したもの、とか。
諏訪神社
少し南に進み西伊興1丁目と西新井4丁目の境に諏訪神社を訪ねる。足立に諏訪神社って結構目に付く。諏訪神社って、御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。出雲の大国主命(おおくにぬし)の子供。古事記の国譲神話では、建御雷神(たけみかづちのかみ)に敗れ諏訪の地に逃げ込んだとされている。国譲りを渋る大国主命に代わり、建御雷神と一戦交えるが、武運つたなく負け戦。この科野の州羽の海まで逃れ、もうここから一歩も出ません、謹慎いたします、とした次第。
ちなみに、建御雷神って、鹿島の土着神。鹿島神宮って、中臣氏が祭祀者。中臣、って藤原鎌足・不比等の出自。不比等、って古事記・日本書紀編纂の任にあった権力者。出雲系国ツ神が、中央朝廷系天ツ神に膝を屈するストーリーを史書の中に組み上げていったのだろう。
とはいうものの建御名方命って、「水潟」に由来し、この州羽の土着の神であり、出雲とも縁もゆかりもない、という説もある。出雲族が信州を通り、秩父・武蔵に移っていったわけで、当然この地にも強い影響力をもったのであろう。そういった背景をもとに、神話が組み上げられていったの、かも。ひたすら推論、というか空想、ではある。
源正寺
少し東に進み伊興2丁目に源正寺。本堂は結構大きいのだが、アプローチが少々わかりにくい。細い路地を入りなんとか入口を見つけた。伊興七福神の恵比寿天。ちなみに伊興七福神は実相院(大黒天・弁財天・毘沙門天)・福寿院(寿老人・福禄寿)、源正寺(恵比寿天)・法受寺(布袋尊)。さらに東に進み、地下鉄の検車場の北端を進み東武伊勢崎線を陸橋で越える。
本日のコース: 竹の塚駅 > 実相院 > 諏訪神社 > 源正寺 > 常楽寺 > 満福寺 > 西光院 > 六月・炎天寺 > 鷲神社 > 島根・国土安穏寺 > 栗原・満願寺 > 西新井大師 > 本木・「六阿弥陀巡り」 > 中曽根神社 > 関原・関原不動尊 > 西新井橋 > 元宿神社 > 大川町氷川神社 > 北千住駅
日比谷線・竹の塚駅の西に実相院
日比谷線・竹の塚下車。先回は東口。今回は西口に下りる。最初の目的地は実相院。伊興2丁目に向かう。実相院は江戸の頃より伊興の子育て観音として知られる。寺伝によると創建は天平(729-748)の昔。行基菩薩が一本の流木から観音像を彫り上げた、と。行基菩薩もいろんなところに、顔を出す。縁起は縁起だけのこと、と思うべし。本尊の聖観世音菩薩は12年に一度開帳される秘仏。
千葉次郎勝胤の墓
寺の近くに千葉次郎勝胤の墓。家臣が主君を偲んで建てた碑であり、正確には墓ではない。あちこち歩いたが、見つけることができなかった。千葉勝胤(1471 - 1533年)は足立一帯に覇をとなえた千葉氏。
千葉勝胤は下総千葉宗家、正確には本家を滅ぼし「宗家」を名乗ったわけで、後期千葉家とも言われる分家筋の系列。1400年中頃、本家・分家で争いが起こり、戦に破れた本家筋の千葉実胤と自胤が武蔵のこの地に移り武蔵千葉氏となったはず。下総佐倉に館を構える千葉の勝胤さんが、このあたりに縁があるわけもないと思うのだが、どういうことだろう。同姓同名、ということだろう、か。実相院の近くに六万部経塚。経塚とは、末法の世まで善行を残すために書写した経典を土の中に埋納したもの、とか。
諏訪神社
少し南に進み西伊興1丁目と西新井4丁目の境に諏訪神社を訪ねる。足立に諏訪神社って結構目に付く。諏訪神社って、御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。出雲の大国主命(おおくにぬし)の子供。古事記の国譲神話では、建御雷神(たけみかづちのかみ)に敗れ諏訪の地に逃げ込んだとされている。国譲りを渋る大国主命に代わり、建御雷神と一戦交えるが、武運つたなく負け戦。この科野の州羽の海まで逃れ、もうここから一歩も出ません、謹慎いたします、とした次第。
ちなみに、建御雷神って、鹿島の土着神。鹿島神宮って、中臣氏が祭祀者。中臣、って藤原鎌足・不比等の出自。不比等、って古事記・日本書紀編纂の任にあった権力者。出雲系国ツ神が、中央朝廷系天ツ神に膝を屈するストーリーを史書の中に組み上げていったのだろう。
とはいうものの建御名方命って、「水潟」に由来し、この州羽の土着の神であり、出雲とも縁もゆかりもない、という説もある。出雲族が信州を通り、秩父・武蔵に移っていったわけで、当然この地にも強い影響力をもったのであろう。そういった背景をもとに、神話が組み上げられていったの、かも。ひたすら推論、というか空想、ではある。
源正寺
少し東に進み伊興2丁目に源正寺。本堂は結構大きいのだが、アプローチが少々わかりにくい。細い路地を入りなんとか入口を見つけた。伊興七福神の恵比寿天。ちなみに伊興七福神は実相院(大黒天・弁財天・毘沙門天)・福寿院(寿老人・福禄寿)、源正寺(恵比寿天)・法受寺(布袋尊)。さらに東に進み、地下鉄の検車場の北端を進み東武伊勢崎線を陸橋で越える。
竹の塚の寺町:常楽寺
竹の塚1丁目を道なりに進む。竹の塚1丁目から六月3丁目にかけて、ちょっとした寺町。常楽寺。真言宗豊山派。竹の塚に生まれ竹の塚に骨を埋めた江戸の文人・竹塚東子(たけつかとうし)の墓。実名・谷古宇四郎左衛門(やこうしろうざえもん)。東子は今でいうマルチタレント。寛政・亨和・文化にかけて活躍した。酒屋でありながら、生け花の師匠、俳諧をたしなみ、戯作者としても名を馳せ、そのうえ落語家。東子の俳譜の師匠が、千住在の建部巣兆。俳譜師にして画家、生け花や茶道の教授もするというこの人もマルチタレント。師の巣兆もそうだが、東子も奥州を行脚し、俳画帖をものしている。洒落本「田舎談義」で戯作者としての地位を確立。この常楽寺は寛永年間(1624 - 1643年)河内与兵衛(かわうちよへえ)によって中興されたと伝えられている。河内与兵衛は16世紀末、小田原北条氏没落後、この地に土着。江戸に入り徳川家に仕え代々この地の名主をつとめた人物。
満福寺
満福寺。創建不明。文明10年(1478年)の板碑墓石がある。明和・寛政のころが中興期であったよう。明治9年(1876年)4月公立竹嶋小学校(同12年2月正矯小学校と改名)が境内に設けられた。入口にその石碑が置いてあった。
西光院
開基は、河内与兵衛。本堂前に金剛界大日如来坐像(銅造)。明治12年には、寺内に公立正矯小学校が開校された。
六月・炎天寺
六月3丁目に炎天寺。平安末期創建。天喜4年(1056年)、炎天続きの旧暦六月、奥州安倍一族追討に向かう源頼義、八幡太郎義家親子がこの地で野武士と交戦。京の岩清水八幡に祈念し勝利を収める。で、お礼に八幡宮をたてる。地名を六月。寺名を源氏の白旗が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、炎天続きだったので炎天寺と。
前九年の役のエピソードをもつ源氏ゆかりの寺。またこの寺は江戸後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺。一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、竹塚の作家・竹翁東子などと寺のあたりをよく歩き、いくつかの俳句を残している。「やせ蛙負けるな一茶是にあり」「蝉鳴くや六月村の炎天寺」。当時の竹塚村は一面の水田地帯。初夏ともなると、あちこちでカワズが鳴き合う、蛙合戦として江戸でも有名であった、と。一茶は全国放浪の旅に明け暮れた俳人。炎天寺主催の「一茶まつり」が開かれている。
一茶もいいのだが、境内を歩いていて無財の七施の案内を見る。いい文章。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになる、とのメモ。気に入ったので写しておく。
無財の七施(雑宝蔵経)
1. 眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2. 和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3. 言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4. 身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5. 心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6. 牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7. 房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする
鷲神社
少し南に進み六月2丁目の鷲神社に。鷲神社は、旧利根川水系に多く祀られている。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。何故、「大鷲」かってことは、花畑の大鷲神社でメモしたとおり。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。
竹の塚1丁目を道なりに進む。竹の塚1丁目から六月3丁目にかけて、ちょっとした寺町。常楽寺。真言宗豊山派。竹の塚に生まれ竹の塚に骨を埋めた江戸の文人・竹塚東子(たけつかとうし)の墓。実名・谷古宇四郎左衛門(やこうしろうざえもん)。東子は今でいうマルチタレント。寛政・亨和・文化にかけて活躍した。酒屋でありながら、生け花の師匠、俳諧をたしなみ、戯作者としても名を馳せ、そのうえ落語家。東子の俳譜の師匠が、千住在の建部巣兆。俳譜師にして画家、生け花や茶道の教授もするというこの人もマルチタレント。師の巣兆もそうだが、東子も奥州を行脚し、俳画帖をものしている。洒落本「田舎談義」で戯作者としての地位を確立。この常楽寺は寛永年間(1624 - 1643年)河内与兵衛(かわうちよへえ)によって中興されたと伝えられている。河内与兵衛は16世紀末、小田原北条氏没落後、この地に土着。江戸に入り徳川家に仕え代々この地の名主をつとめた人物。
満福寺
満福寺。創建不明。文明10年(1478年)の板碑墓石がある。明和・寛政のころが中興期であったよう。明治9年(1876年)4月公立竹嶋小学校(同12年2月正矯小学校と改名)が境内に設けられた。入口にその石碑が置いてあった。
西光院
開基は、河内与兵衛。本堂前に金剛界大日如来坐像(銅造)。明治12年には、寺内に公立正矯小学校が開校された。
六月・炎天寺
六月3丁目に炎天寺。平安末期創建。天喜4年(1056年)、炎天続きの旧暦六月、奥州安倍一族追討に向かう源頼義、八幡太郎義家親子がこの地で野武士と交戦。京の岩清水八幡に祈念し勝利を収める。で、お礼に八幡宮をたてる。地名を六月。寺名を源氏の白旗が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、炎天続きだったので炎天寺と。
前九年の役のエピソードをもつ源氏ゆかりの寺。またこの寺は江戸後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺。一茶は千住に住んでいた俳人・建部巣兆、竹塚の作家・竹翁東子などと寺のあたりをよく歩き、いくつかの俳句を残している。「やせ蛙負けるな一茶是にあり」「蝉鳴くや六月村の炎天寺」。当時の竹塚村は一面の水田地帯。初夏ともなると、あちこちでカワズが鳴き合う、蛙合戦として江戸でも有名であった、と。一茶は全国放浪の旅に明け暮れた俳人。炎天寺主催の「一茶まつり」が開かれている。
一茶もいいのだが、境内を歩いていて無財の七施の案内を見る。いい文章。お賽銭といった、形あるお布施もいいが、言葉や心など形のないもの、無財のもので施せば施すほど心が豊かになる、とのメモ。気に入ったので写しておく。
無財の七施(雑宝蔵経)
1. 眼施:やさしい まなざし いつも澄んだ清らかな眼で人を見よう
2. 和顔悦色施:にっこりと笑顔 ほほえみのある顔こそ最高
3. 言辞施:親切なひとこと 人を傷つける言葉 いわなくてもいい言葉をつかっていないか
4. 身施:きちんとしたおじき みなりをきれいにする
5. 心施:あたたかいまごころ 真心をこめる
6. 牀坐(しょうざ)施:ここちよい憩いの場 いま自分が坐っている場所をきれいにする
7. 房舎施:ここちよいもてなし 家の周辺をきれいにする
鷲神社
少し南に進み六月2丁目の鷲神社に。鷲神社は、旧利根川水系に多く祀られている。文保2年(1318年)武蔵国足立郡島根村の地に鎮守として創建され、大鷲神社と唱えたと伝えられる。島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などの全部または一部を含む大村。村内に七祠が点在していたが、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二桂の神を合祀し三社明神の社として社名を鷲神社に定めたという。何故、「大鷲」かってことは、花畑の大鷲神社でメモしたとおり。島根の由来。古くは島畑村と。島畑とは水田の中に点在する畑のこと。また、文字通り、島、というか微高地の根っこ・水際、とも。
島根・国土安穏寺
島根3丁目に国土安穏寺。構えのいいお寺。寺門に葵の御紋。これって徳川家の紋。もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっかけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。
栗原・満願寺
南に下り環七と交差。環七に沿って西に進む。栗原1丁目で東武伊勢崎線と交差。栗原の由来は不明。栗原3丁目に満願寺。小野篁作と伝わる地蔵菩薩を本尊とする。ここにも狸塚。御堂に老いた和尚さんが一人で住んでいた。 寒い夜、荷物を背負った狸が,暖を求める。和尚快諾。囲炉裏で暖をとり出てゆく。数日後再び狸が現れ、暖を求める。再び和尚、諾。囲炉裏で暖をとる。で、なにを思ったか和尚、狸の荷物に囲炉裏の灰を。狸出てゆく。翌朝、和尚丸焼けの狸発見。不憫に思い、手厚く葬った、と。2mもの狸塚がある。
西新井大師
先に進み東武鉄道大師線・大師前駅に。西新井大師。真言宗豊山派のお寺。寺伝によれば、弘法大師がこの地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人を救わんがため、十一面観音をつくり、祈祷を。と、枯れ井戸から水が湧き出、病気平癒した。村人はそれを徳としてお堂を建てる。井戸がお堂の西にあったので「西新井」と。
川崎大師、佐野厄除大師とともに関東の三大大師のひとつ。豊山派とは奈良・長谷寺を総本山とする真言宗の一派。豊山神楽院長谷寺とよばれることが名前の由来。ついでに、真言宗派の流れ。高野山や東寺からの流れに対し、真言中興の祖・興教大師以降の根来山を中心とした流れが新義真言宗。その新義真言宗がふたつにわかれ、一派はこの豊山派、もう一派は京都・智積院を中心とした智山派に分かれる。お寺の結構渋い山門を通り、門前町のお団子やなどをひやかしながら先に進む。
本木は「六阿弥陀巡り」に由来する地名
西新井栄町、西新井5丁目と進み興野、本木地区に。興野はもともと、本木村の奥、ということで、「奥野」と呼ばれていた。崩し文字で奥を興と読み違え、「興野」と。ほんまかいな? また、「こうや:荒野・高野・興野」で文字通り、新開地といった意味から、との説もある。
本木の由来もあれこれ。気に入った説をメモする:足立小輔が熊野権現に願掛けをして得た愛娘・足立姫を豊島清光に嫁がせる。が姑との折り合い悪く里帰りの途中、行く末をはかなみ侍女5人と入水自殺。足立小輔、菩提をとむらうべく全国の霊場巡礼。熊野で「霊木を授ける。仏像を刻むべし」とのお告げ。霊木を得る。なぜかは知らねど、その木を紀伊の海に流す。足立に戻ると、霊木は足立の里に流れ着いていた。霊木を館に安置。諸国行脚の行基菩薩が立ち寄り、霊木から六体の阿弥陀如来を彫り、近隣の六ケ寺に。で、根元に近い余り木で一体を彫り館に収めた。この仏さまを「木余り如来」「本木の如来」と。これが地名となった、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
この話、先日の足立散歩の時、船方神社で出会った。もっともそのときは、侍女は12人だったよう。また、足立さんのほうに嫁ぐってことで真逆でもあった。敵役も替わっている。真偽のほどは、どちらでもいいか、とも。それより、こういった話が、江戸の六阿弥陀詣での縁起として昇華する。
足立、荒川あたりで「六阿弥陀」ってフレーズをよく耳にした。阿弥陀如来が収められた六つのお寺を巡るのが「六阿弥陀」。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するためにおまつりするわけだが、入水したお姫さまと5人の次女といった民間伝承を、密教の信仰に組み込んでいったのであろう。六つのお寺は、豊島の西福寺、小台の延命寺・西原の無量寺・新堀の与楽寺・下谷の常樂院・亀戸の常光寺。「本木の如来」は性翁寺・「木残り如来」は西原の昌林寺にあるという。延命寺は明治9年廃寺。豊島の恵明寺に移され、常樂院は調布西つつじが丘に移転。
「六阿弥陀」は全行程6里以上。結構な距離。「六つに出て六つに帰るを六阿弥陀(川柳)」といったように一日仕事。「六阿弥陀翌日亭主飯を炊き(川柳)」、といった無理な行軍で弱った女房に代わり旦那がオサンドン。「六阿弥陀みんな廻るは鬼ババァ(川柳)」といったとんでもない句も。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして江戸の中頃広まっていった、と言う。
中曽根神社
本木2丁目に中曽根神社。中曽根城跡と言われる。中曽根城は足立区一帯を支配していた千葉次郎勝胤により築かれたとされる。が、どうもよくわからない。伊興の千葉勝胤の墓のところでメモしたように、勝胤は下総千葉氏。このあたりの武蔵千葉氏の流れにその名は無い。足立区の郷土館で手に入れた資料にも、このお城をつくったのは「千葉某」と書いてあった。
千葉での本家・庶家争いに敗れ、この地に逃れてきた本家筋の千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)が武蔵千葉家となる。上杉氏の重臣・太田道灌の援助を得て、武蔵国石浜(荒川区から台東区にかけての隅田川沿岸)と赤塚(板橋区)に軍事拠点を構えて下総国の奪還を期す。結局、千葉への返り咲きは叶わなかった。で、拠点としたのがこの中曽根城。地名をとり、「淵江城」とも。
其の後の千葉氏:大永4年(1524年)小田原北条氏が上杉氏の江戸城を攻略。武蔵国に進出。武蔵千葉氏もその傘下に。北条氏のもとで家格を重視され、「千葉殿」の尊称 を得る。天正18年(1590年)に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると共に中曽根城も放棄された。
関原・関原不動尊
少し東に進む。関原2丁目に大聖寺。関原不動尊とも。関原の地名の由来は不明。木造の本堂はしっとりと美しい。境内には「おびんずる様」。赤や青の着物や紐でぐるぐる巻かれたほとけさん。苦しいところをなでると直る、とされる「なでぼとけ」。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということでそばにはべるのを許された、って仏様。以降、いろんなところで「おびんずる様」に出会うことになるが、ここが「おびんずる様」最初の邂逅地。
西新井橋
商店街を少しくだると八幡神社。「出戸八幡」とも。出戸は砦のこと。中曽根城主・千葉氏の守護神であった。先に進み首都高速中央環状線をくぐり、荒川堤に。西新井橋を渡り千住に進む。
元宿神社
千住元町を進む。軒先をかすめるが如くの有様。下町って感じ。道なりにすすむと元宿神社。由来書をメモする:このあたりは鎌倉時代には集落ができていた。奥州路もここを通っていたと言われる。江戸時代初期、日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対して「元宿」と。天正の頃、甲州から移り住んだ人々によって北部の川田耕地などが開墾され、その守護神・八幡宮がこの地に祀られた。
島根3丁目に国土安穏寺。構えのいいお寺。寺門に葵の御紋。これって徳川家の紋。もとは妙覚寺。将軍の鷹狩り・日光参詣の御膳所。葵の御紋を授けられたきっかけは、あの宇都宮の釣り天井事件。三代将軍・家光、日光参拝の折りこの寺に立ち寄る。住職の日芸上人より、「宇都宮に気をつけるべし」。で、家光、宇都宮泊を取りやめる。公儀目付け役が宇都宮城チェック。将軍を押しつぶすべく仕掛けられた釣天井を発見。宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役・本多正純。家光を亡きもの にして国松を将軍にしようと陰謀をはかったといわれている。日芸上人によって九死に一生を得た家光は、妙覚寺に寺紋として葵の御紋を。寺号を「天下長久山国土安穏寺」とした。ちなみに、釣り天井事件の真偽の程不明。本多正純を追い落とす逆陰謀、といった説も。
栗原・満願寺
南に下り環七と交差。環七に沿って西に進む。栗原1丁目で東武伊勢崎線と交差。栗原の由来は不明。栗原3丁目に満願寺。小野篁作と伝わる地蔵菩薩を本尊とする。ここにも狸塚。御堂に老いた和尚さんが一人で住んでいた。 寒い夜、荷物を背負った狸が,暖を求める。和尚快諾。囲炉裏で暖をとり出てゆく。数日後再び狸が現れ、暖を求める。再び和尚、諾。囲炉裏で暖をとる。で、なにを思ったか和尚、狸の荷物に囲炉裏の灰を。狸出てゆく。翌朝、和尚丸焼けの狸発見。不憫に思い、手厚く葬った、と。2mもの狸塚がある。
西新井大師
先に進み東武鉄道大師線・大師前駅に。西新井大師。真言宗豊山派のお寺。寺伝によれば、弘法大師がこの地に立ち寄り、悪疫流行に悩む村人を救わんがため、十一面観音をつくり、祈祷を。と、枯れ井戸から水が湧き出、病気平癒した。村人はそれを徳としてお堂を建てる。井戸がお堂の西にあったので「西新井」と。
川崎大師、佐野厄除大師とともに関東の三大大師のひとつ。豊山派とは奈良・長谷寺を総本山とする真言宗の一派。豊山神楽院長谷寺とよばれることが名前の由来。ついでに、真言宗派の流れ。高野山や東寺からの流れに対し、真言中興の祖・興教大師以降の根来山を中心とした流れが新義真言宗。その新義真言宗がふたつにわかれ、一派はこの豊山派、もう一派は京都・智積院を中心とした智山派に分かれる。お寺の結構渋い山門を通り、門前町のお団子やなどをひやかしながら先に進む。
本木は「六阿弥陀巡り」に由来する地名
西新井栄町、西新井5丁目と進み興野、本木地区に。興野はもともと、本木村の奥、ということで、「奥野」と呼ばれていた。崩し文字で奥を興と読み違え、「興野」と。ほんまかいな? また、「こうや:荒野・高野・興野」で文字通り、新開地といった意味から、との説もある。
本木の由来もあれこれ。気に入った説をメモする:足立小輔が熊野権現に願掛けをして得た愛娘・足立姫を豊島清光に嫁がせる。が姑との折り合い悪く里帰りの途中、行く末をはかなみ侍女5人と入水自殺。足立小輔、菩提をとむらうべく全国の霊場巡礼。熊野で「霊木を授ける。仏像を刻むべし」とのお告げ。霊木を得る。なぜかは知らねど、その木を紀伊の海に流す。足立に戻ると、霊木は足立の里に流れ着いていた。霊木を館に安置。諸国行脚の行基菩薩が立ち寄り、霊木から六体の阿弥陀如来を彫り、近隣の六ケ寺に。で、根元に近い余り木で一体を彫り館に収めた。この仏さまを「木余り如来」「本木の如来」と。これが地名となった、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
足立、荒川あたりで「六阿弥陀」ってフレーズをよく耳にした。阿弥陀如来が収められた六つのお寺を巡るのが「六阿弥陀」。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するためにおまつりするわけだが、入水したお姫さまと5人の次女といった民間伝承を、密教の信仰に組み込んでいったのであろう。六つのお寺は、豊島の西福寺、小台の延命寺・西原の無量寺・新堀の与楽寺・下谷の常樂院・亀戸の常光寺。「本木の如来」は性翁寺・「木残り如来」は西原の昌林寺にあるという。延命寺は明治9年廃寺。豊島の恵明寺に移され、常樂院は調布西つつじが丘に移転。
「六阿弥陀」は全行程6里以上。結構な距離。「六つに出て六つに帰るを六阿弥陀(川柳)」といったように一日仕事。「六阿弥陀翌日亭主飯を炊き(川柳)」、といった無理な行軍で弱った女房に代わり旦那がオサンドン。「六阿弥陀みんな廻るは鬼ババァ(川柳)」といったとんでもない句も。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして江戸の中頃広まっていった、と言う。
中曽根神社
本木2丁目に中曽根神社。中曽根城跡と言われる。中曽根城は足立区一帯を支配していた千葉次郎勝胤により築かれたとされる。が、どうもよくわからない。伊興の千葉勝胤の墓のところでメモしたように、勝胤は下総千葉氏。このあたりの武蔵千葉氏の流れにその名は無い。足立区の郷土館で手に入れた資料にも、このお城をつくったのは「千葉某」と書いてあった。
千葉での本家・庶家争いに敗れ、この地に逃れてきた本家筋の千葉実胤(さねたね)・自胤(これたね)が武蔵千葉家となる。上杉氏の重臣・太田道灌の援助を得て、武蔵国石浜(荒川区から台東区にかけての隅田川沿岸)と赤塚(板橋区)に軍事拠点を構えて下総国の奪還を期す。結局、千葉への返り咲きは叶わなかった。で、拠点としたのがこの中曽根城。地名をとり、「淵江城」とも。
其の後の千葉氏:大永4年(1524年)小田原北条氏が上杉氏の江戸城を攻略。武蔵国に進出。武蔵千葉氏もその傘下に。北条氏のもとで家格を重視され、「千葉殿」の尊称 を得る。天正18年(1590年)に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると共に中曽根城も放棄された。
関原・関原不動尊
少し東に進む。関原2丁目に大聖寺。関原不動尊とも。関原の地名の由来は不明。木造の本堂はしっとりと美しい。境内には「おびんずる様」。赤や青の着物や紐でぐるぐる巻かれたほとけさん。苦しいところをなでると直る、とされる「なでぼとけ」。この「おびんずる様:賓頭盧尊者」はいつも赤ら顔。早い話が飲兵衛の仏様。お釈迦様のお弟子さんではあったが、内緒でちびちび。御釈迦さんに説教され禁酒を誓う。が、つい一献。ということで破門。一念発起で修行。お釈迦さんも努力を認め、本堂の外陣であれば、ということでそばにはべるのを許された、って仏様。以降、いろんなところで「おびんずる様」に出会うことになるが、ここが「おびんずる様」最初の邂逅地。
西新井橋
商店街を少しくだると八幡神社。「出戸八幡」とも。出戸は砦のこと。中曽根城主・千葉氏の守護神であった。先に進み首都高速中央環状線をくぐり、荒川堤に。西新井橋を渡り千住に進む。
元宿神社
千住元町を進む。軒先をかすめるが如くの有様。下町って感じ。道なりにすすむと元宿神社。由来書をメモする:このあたりは鎌倉時代には集落ができていた。奥州路もここを通っていたと言われる。江戸時代初期、日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対して「元宿」と。天正の頃、甲州から移り住んだ人々によって北部の川田耕地などが開墾され、その守護神・八幡宮がこの地に祀られた。
大川町氷川神社
東に進み千住大川町。大川町氷川神社。荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移転。「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。境内には富士塚も。
日も暮れてきた。千住宿は結構見所が多そう。後日ゆっくり歩く、ということで千代田線・北千住駅に進み家路へと急ぐ。これで足立区散歩は一応お終い。
東に進み千住大川町。大川町氷川神社。荒川放水路工事のため大正4年(1915年)現在地に移転。「紙漉歌碑」。足立区は江戸時代から紙漉業が盛ん。地漉紙を幕府に献上した喜びの記念碑。浅草紙というか再生紙は江戸に近く、原材料の紙くずの仕入れも簡単、地下水も豊富なこの足立の特産だった。境内には富士塚も。
日も暮れてきた。千住宿は結構見所が多そう。後日ゆっくり歩く、ということで千代田線・北千住駅に進み家路へと急ぐ。これで足立区散歩は一応お終い。
0 件のコメント:
コメントを投稿