水曜日, 4月 01, 2015

京滋 琵琶湖第1疏水散歩 そのⅡ;滋賀・琵琶湖の大津取水口から山科盆地を経て京都・蹴上まで琵琶湖第1疏水を辿る

定例の田舎帰省の途中、ほんの「気まぐれ」で立ち寄った琵琶湖第1疏水散歩。当日の、誠にのんびりとした、お気楽な散歩とは異なり、メモの段階で、次から次にと「わからないこと」が登場し、メモが長くなってしまった。
先回のメモは大津の取水口から第1トンネルの西口(藤尾側)で力尽きた。今回は第1トンネルの西口(藤尾側)から山科の盆地を経て京の蹴上までのメモをする。
冬枯れ、また時期の問題であろうか水量も多くなく、水路に沿って続く桜並木を目にするにつけ、桜咲く頃はさぞ美しいだろうと、何故にこの時期に、とは思いながらも、当日歩くまではこんなに桜並木があるといったことも知らなかったわけで、いつもながらの行き当たりばったり、「後の祭り」満載の散歩となった。

本日のルート;JR大津駅>琵琶湖第1疏水取水口>三保ケ崎水位観測所・三保ヶ崎量水標>琵琶湖第1疏水揚水機場>大津閘門と制水門>「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内>琵琶湖疏水案内>第1疏水第1トンネル東口>三井寺南別所・両願寺の石碑>旧神出>長等神社>小関越えの道標>等正寺の測量標石>小関峠>分岐点>第1竪坑へと道を下る>第1竪坑>国道161号・西大津バイパス>第2竪坑>第1疏水第1トンネル西口(藤尾側)>緊急遮ゲート>藤尾橋>測水橋>洛東用水取水口>柳山橋(第2号橋)>四ノ宮舟溜り>諸羽トンネル>東山緑地公園>第2疏水トンネル試作物>諸羽舟溜り>諸羽トンネル東口>安朱橋(第4号橋)>安祥寺川水路橋>安祥寺橋(第6号橋)>妙応寺橋(第7号橋)>天智天皇陵>第8号橋・第9号橋>山ノ上橋(第10号橋>第1疏水第2トンネル東口>第1疏水第2トンネル西口>日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡>第11号橋>第1疏水第3トンネル東口>「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑>藪漕ぎ撤退>大名号碑>日ノ岡宝塔様縁起>日ノ岡峠>九条山浄水場>日向大神宮参道に合流>第1疏水第3トンネル西口>九条浄水場ポンプ室>琵琶湖第2疏水合流点>蹴上舟溜り跡>合流トンネル入口>疏水第4トンネル>インクライン・運輸船>山ノ内浄水場導水管>合流トンネル出口>洗堰>蹴上発電所水圧鉄管>第4トンネルからの水路>南禅寺トンネル>南禅寺水路閣>蹴上・ねじりマンポ

緊急遮ゲート
水路に沿って先に進むとほどなく水路を跨ぐ構造物がある。平成11年(1999)設置の緊急遮断ゲートとのこと。 大地震で堤防が決壊するおそれがあると自動的に流れを止めることになる。これは歩いた後にわかったことだが、第1トンネルを抜け山科盆地に入った疏水は町を見下ろす山麓の端を進む。こんな場所が水路が決壊すれば町は浸水することになるだろう。




藤尾橋
次いで現れるのは藤尾橋。一見すれば新しい橋と見えたが、橋の土台部分が煉瓦と石組みでできている。橋は鉄筋コンクリートであるが建造当時の土台のままのようである。チェックすると疏水工事が進む明治20年(1888)9月に建設されたとのこと。疏水の第1号橋で、疏水最古の橋であった。大正10年(1921)、昭和46年(1971)に改修が行われ現在の鉄筋コンクリートになっている。 なお、疏水に架かる16の橋のうち、1号から11号までは番号がついている。藤尾橋はその1号橋である。番号橋は第1疏水開通時に架けられたのかとも思ったのだが、どうもそうではなさそうで、明治の30年代の後半に番号付けがなされた、とも言う。

測水橋
藤尾橋を過ぎると滋賀県から京都に入る。京都に入った最初の橋は測水橋。明治の末期、第2疏水工事の際に造られたのこと。「疏水の水位、流量を量る橋」といった記事があったが、これではその対象が第1疏水か第2疏水かわからない。
あれこれチェックすると、第1疏水と第2疏水の水位、流量を測る目的で造られたもので、橋の北に第2疏水からの水の開渠部(54mほど)を設けたとのこと。橋は第1疏水と開渠部を跨いで架けられていたようである。現在その開渠部は残っていない。
また、この橋を三角橋と称する。橋の建設様式かとも思ったのだが、橋の左右から5m6段の石段があり、その形が三角になっている故の通称であろう。道から石段を設けることによって、橋の高さを上げ、舟が通りやすいようにした、とも言う。とは言うものの、現在は右側のステップはなく、片側だけの「三角形」とはなっている。
橋のあれこれをわかったようにメモしているが、これは散歩のメモの段で分かったこと。散歩のときは橋の歴史など知るよしもなく、単に「橋」があるなあ、といったお気楽さではあったのは言うまでもない。

洛東用水取水口
測水橋を越えると水路左手に分水口らしき水路施設が見える。チェックすると洛東用水の藤尾分水口であった。洛東用水は多目的用途を目した琵琶湖用水の目的のひとつである灌漑用水として、この地で分水され山科盆地の四ノ宮・音羽地区を潤した。
取水口で分水された洛東用水路は、南の四ノ宮川、東海道をサイフォンで潜り抜けているのだろう。水の一部は四ノ宮川に放流されているようだ。なお、疏水からの灌漑用水は山科地区に洛東用水を含め3本の幹線用水路があるとのことである。

柳山橋(第2号橋)
取水口の先に現れた橋は柳山橋。この橋も疏水建設同時、明治22年(1889)の9月に県建設された。当時は十禅寺橋と称されたようである。現在の鉄筋コンクリートは昭和43年に改修されたもの、とのこと。

四ノ宮舟溜り
柳山橋(第2号橋)の先にトンネルが見え、その前の水路が大きく広がっている。特に案内もなく、歩いていた時は調整池かとも思っていたのだが、メモの段階でチェックすると「四ノ宮舟溜り」であった。
琵琶湖疏水には、大津から蹴上までに3か所の舟溜りがあったとのことだが、ここは大津から最初の舟溜りであった。琵琶湖疏水は多目的疏水であり、先ほどの洛東用水取水口は灌漑用であったが、舟溜りは舟運のための施設。 上にもメモしたように、「東や北から京都へ物資搬入するには人馬で山を越えねばならず、そのコストは物価高となって京都にはね返る。琵琶湖から京都へ水を引く利はまず運送にあり」とされた舟運であるが、電力など動力のない時代、京から大津に上るには舟を曳く船頭、というか曳夫の休憩所が必要であった。
舟溜りは、この曳夫の休憩所、また物資や乗客の上げ下ろしの場所として使われた。散歩で出合った江戸と川越を結ぶ新河岸川の河岸を想起させる。完成は明治21年(1888)。

諸羽トンネル
「四ノ宮舟溜り」の先のトンネルは諸羽トンネル。このトンネルには今までのトンネルの出入口にあった「扁額でたどる琵琶湖疏水案内」もない。そもそも「扁額」も見あたらない。そのときは「?」と思いながらも歩を進めたのだが、メモの段階でチェックすると、このトンネルは明治の疏水開通時ではなく昭和45年(1970)に掘削されたものであった。全長520mである。
諸羽トンネル建設の主因は山科駅を始点とするJR湖西線工事計画。山科の山裾を通す湖西線の路線と、その崖上を通る疏水路が接近することとなり、トンネルを掘り山裾を迂回していた水路を直線で通すことにしたようだ。
湖西線工事の計画は昭和39年(1964)に策定され、昭和41年(1966)には山科~西大津間の工事着手、昭和49年(1974)には 湖西線(山科~近江塩津)の全線開業が開通した。諸羽トンネルの完成が昭和45年(1970)というのはこういった事情である。

東山緑地公園
トンネルに入った水路から離れ公園に整備された旧疏水水路跡を進む。この公園の整備は昭和46年(1971)頃から工事に着手し、昭和49年(1974)に東側に四ノ宮地区の整備を終え、西側の日ノ岡までの工事が完了したのは昭和53年(1978)とのことである。公園内の水路跡を歩くに、足元の崖下を通る湖西線を見るにつけ、山裾を流れる水路を変更しトンネルを直線に抜いた理由が納得できる。
道脇に「東山緑地公園ジョギングコース」の案内。この地を始点に疏水第2トンネル東口をゴールとするコースが記されていた。その案内に疏水の案内もあり、その中に「疏水はトンネルなど至ところに煉瓦が使用されているが、その当時、日本国内には疏水工事の需要を満たす生産力がなかったため、御陵に煉瓦工場が建設された。現在の市営地下鉄「御陵」駅2番出口付近に碑が建立されている」といった記述があった。ちょっと気になりチェック。
○煉瓦直営工場
疏水工事に際し、トンネルの壁面や水路底を強固にするため煉瓦を採用することになったが、そのために必要な数は1400万個必要と見積もられた。が、当時の日本国内での煉瓦製造は東京の小菅、大阪の堺が中心で、その年間生産量は200万~300万個程度しかなかった。そのため、疏水工事に際しては、直営煉瓦工場を宇治群御陵村(今の山科原西町付近)に建設。4.4haの敷地に登り窯を築き堺から技術者を招いて指導を受け、明治19年(1886)7月から製造を開始、明治22年(1889)10月に閉鎖する迄に1370万個の煉瓦を焼き上げたとのことである。
実際疏水工事に必要とされた煉瓦総数は1100万個で足り、余ったものは他所に販売したとのことだが、明治21年(1888)に工事仕様が変更になり、予定になかったトンネルの側壁などに煉瓦が必要となり、一時的に不足をきたし、全国各地の煉瓦工場からかき集め急場を凌いだとも伝わる。

第2疏水トンネル試作物
山裾を迂回する旧水路跡を進むと、道の右手にアーチ形のコンクリート構造物が見える。近寄ると案内があり、第2疏水トンネル試作物とあった。案内には「第1疏水は1890(明治23年)に完成したが、明治30年代に入ると、電力需要等への対応や、地下水に頼っていた飲料水の不足が問題となり、第1疏水の北側に第2疏水が1912(明治45年)に造られた。
第2疏水は主として水道水源に用いるため、水が濁るのを防止する目的で、埋立てトンネルとした。
このアーチ状の構造物は疏水の建設や維持管理に作業員が建設義技術を取得するため、第2疏水の埋立てトンネル上部の複製を製作したものといわれる。 第2疏水は地上からほとんど見えないが、蹴上の第1疏水合流点で見ることができる」とあった。
○琵琶湖第2疏水
第2疏水の取水口はこのメモの最初に記したように、大津第1疏水取水口の北隣にある。第2疏水のトンネルは、小関・柳山・安祥寺・黒岩・日ノ岡の5ヶ所。トンネル間はコンクリート造りの水路を造り、上で案内にあったアーチ型鉄筋コンクリートで覆い、水路完成後埋戻している(埋立水路)ため、地上に姿を現すのは蹴上での第1水路との合流部となる。
ルートは大雑把に言って、小関トンネルは琵琶湖第1疏水の第1トンネルとおおよそ27mの間隔を保ち平行に等長山を抜け、その後は山裾を迂回する第1疏水と異なり、山を直線に穿ち蹴上へと進む。
全長7400mとなる第2疏水の工事着工は明治41(1908)年10月、明治45年(1912)3月に完成した。工事着工は第1疏水寛政の18年後ということもあり、掘削に関する環境も大幅に改善されていたとのこと。
第1疏水時代は高くて使えなかったセメントが使える時代となっており、煉瓦ではなく鉄筋コンクリートが使えた、明治24年(1891年)には蹴上発電所が運転開始しており、照明も電燈、排水にも電動ポンプが活躍した、また、第1疏水と平行に(平行に2mほど下との記事もある)進むため、第1疏水から横坑を掘って連結し、作業人員の出入り、材料運搬、土砂の排出、湧水の吐出しなど、工事の安全、作業効率のアップ、工事難易度が大幅に低下したとのことである。その箇所は第1疏水第1トンネルと小関トンネル間に11か所、その他後述する第1疏水第3トンネルと日ノ岡トンネルで1箇所の横坑が掘られたとのことである。藤尾橋の辺りにはその横坑のひとつの施設跡が残ると言うが見逃した。
○琵琶湖第2疏水連絡トンネル
琵琶湖第2疏水連絡トンネルも取水口は第2疏水と同じ場所。取水口から直ちに20mの竪穴に流れ込み、山科盆地で第2疏水に合流する。
主たる目的は渇水期の対策。水位が琵琶湖水位ゼロより1.5m低下しても安定して取水できるようになった、とか(注;個人的には今一つ納得感がないのだが、現段階で見つかったデータをメモした)。

諸羽舟溜り

左手に山科の街を見下ろしながら緑道を進む。公園の真ん中を進む道が旧水路跡とのことである。南に張り出した山稜を回り込み、北に向かうあたりで広い公園となる。
南端の崖上には休憩所もあり、散歩の当日は見晴らし所かとも思ったのだが、メモの段になって、その公園(山科疏水公園)辺りには、諸羽トンネルが開削される以前の旧水路にあった諸羽舟溜りがあった、とのこと。
何故に崖上に舟溜りなどとちょっと気になる。堤防決壊など危険この上ない。実際昭和5年(1930)には、この先に出合う天智天皇陵の西側で疏水堤防が決壊し、山科地区が冠水している。また、そもそも四ノ宮舟溜りとそれほど離れてもいない。そんなところに舟溜りを造ったのは如何なる理由か?
危険云々は、地形図をみると結構広い平坦地となっているのでなんとなく安全そう。であれこれチェックすると、四ノ宮舟溜りは少し狭く、それ故に物資の上げ下ろしはあるにしても、主に人の乗り降りの場として使われ、諸羽舟溜りは物資の上げ下ろしと船頭の休憩所となっていた、との説明があった。完成は明治21年(1888)。
なお、山科疏水公園の辺りには旧水路に架かっていた第三号橋跡があるとのことだが、見逃した。

諸羽トンネル東口


諸羽神社を崖下に見遣りながら先に進むと諸羽トンネル東口に出合う。出口前は広い「新諸羽舟溜り」となっている。舟溜り?諸羽トンネルが出来たのは昭和45年(1970)。その頃はトラックも貨物列車もあるわけで、それまで疏水で舟運が機能していたのだろうか?
チェックすると、明治35年(1902)、貨物用 14,647艘・旅客用 21,025艘と、賑わった疏水船運も、人の運搬は大正4年(1915)の京阪電車の京都と大津開通、JRも大正10年(1921)に東山トンネルを抜き山科に駅を開設するととともに激減、貨物運搬も昭和35年(1960)に疏水と京都市内の水路を繋ぐ蹴上インクライン(後述)の電気設備が撤去されており、機能は完全に停止したようだが、実質的には昭和26年(1951)には貨物運搬の舟運は終わったという。ということは、調整池といったものとして造られたのだろうか。よくわからない。

安朱橋(第4号橋)
「諸派舟溜り」から今度は北へと弧を描く山裾の水路を進むと安朱橋(第4号橋)。道すがらの案内によると、北にある毘沙門堂への道筋とのことだが、今回は急ぎ旅。寄り道の誘惑を断ち切り先に進む。橋の建設は第2号橋と同じく明治22年(1889)9月。当時は毘沙門堂と呼ばれたようだ。昭和3年(1928)、平成12年(2000)改修が行われ現在の姿となる。



安祥寺川水路橋
明治中期の建造とも言われる第5号橋を越えると水路は川を跨ぐ。川は安祥寺川。安祥寺川水路橋とでも称するのだろうか。水路橋の土台は煉瓦造り。アーチ型の美しい橋である。年代は不詳だが、明治の建造物だろうか。




安祥寺橋(第6号橋)
昭和29年(1954)、北にある洛東高校への通学路として造られた洛東橋を過ぎると、北へ弧を描いていた水路は、今度はS字を描いて南東へと進む。S字の支点辺りに安祥寺橋(第6号橋)。 この橋も、元は明治22年(1889)、疏水建設当初に造られた古い橋である。
すぐ北に安祥寺があるが、ひたすら水路を進むことのみに専念し、寄り道の誘惑はカット。安祥寺橋の先、水路は少し拡がるが、そこには安祥寺舟溜りがあったようだ。

妙応寺橋(第7号橋)
安祥寺舟溜りの先、南にU字形に突き出た山裾を進み、地図を見るに、南に妙応寺があるなあ、などと思いながら妙応寺橋(第7号橋)を越えると、疏水南に天智天皇陵が拡がる。妙応寺橋も明治22年(1889)9月に造られた歴史のある橋ではある。この橋も三角橋の形を保っている。





天智天皇陵
水路脇に石だったかコンクリートだったか、ともあれ天智天皇陵に沿って侵入を防ぐ柵が並ぶ。疏水を歩くまで、この地に天智天皇陵があるなど全く知らなかった。
○天智天皇
天智天皇と言えば、中大兄皇子=大化の改新、として知られるが、天智天皇即位の後、百済救援軍を派遣するも白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、唐・新羅連合軍の侵攻に備え西日本各地に土塁・城・見張り台など防衛施設を築くとともに、西暦667年、京を離れ近江大津の宮に遷都している。
で、大津の宮で謎の死をとげている。山科の郷に遠乗りに出かけ、行方不明となった。ここまでは知っていたのだが、この陵は、行方不明となり沓が見つかったところであった、とか。
疏水には関係ないが、百済系の天智天皇、新羅系の天武天皇など、『覇王不比等』だったか、『役小角』だったか、どちらか忘れたが黒須紀一郎さんの、日本・中国・朝鮮半島が一体となった当時のダイナミックな国際関係が誠に面白かった。

第8号橋・第9号橋
天智天皇陵に沿って進み明治中期の建造とされる8号橋、疏水北にある本圀寺を結ぶ本圀寺正嫡橋(昭和58年建造)、大正13年(1924)建造との三角橋である大岩橋(第9号橋)を越えるとトンネルと、その手前にアーチ型の橋が見えてくる。山ノ上橋(第10号橋)である。





山ノ上橋(第10号橋)
明治22年(1899)9月建造のこの橋は、もとは封山橋と称されていた、と言う。また、地名から黒岩橋とも、その形から太鼓橋とも称されたようだが、この橋は日本最初のアーチ型鉄筋コンクリート橋とのこと。後述する、日本最初の鉄筋コンクリート橋である第11号橋の建設データをもとに翌明治37年(1904)に改修された、と言う。
○琵琶湖第1疏水開通当時の橋
第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎の指導のもとに着工、同23(1890)年に開通。ということは、疏水開通時点で疏水に架かっていた橋は、データで確認できるかぎりでは1号,2号,4号,6号,7号,10号橋、ということになる・

第1疏水第2トンネル東口
例のごとく「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内。歩きはじめたときは、なにも知らなかった琵琶湖疏水について、この案内で基本的な知識を得、また多くの問題意識をもつに至った有り難い案内であった。
この扁額案内には「仁似山悦智為水歓歡(じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ)井上 馨 筆 仁者は動かない山によろこび、知者は流れゆく水によろこぶ」とあり、疏水の案内は重複をさけて簡単にまとめると「疏水工事は、外国人技術者の力を借りず、日本人だけの手で行われた一大プロジェクトであった。費用は当時のお金で60万円が見込まれていたが、念入りの工事を求める明治政府の意向で、当初の2倍以上となる125万円の予算(京都府の予算の2倍以上)が組まれた。
第2トンネルの付近、現在の山科区原西町(地下鉄東西線御陵駅付近)には、疏水に使う煉瓦の工場が作られ、約1,400万個もの煉瓦が作られた」とある。 125万って現在の貨幣価値でいくらくらいだろう。正確なことは不明だが明治の1円は現在の2万円の価値とするデータがあった。それを元にすると250億円ということになるが、これでもちょっと少ないようにも思う。井上薫のフレーズは論語から。煉瓦のあれこれは既にメモしたので省略。

第1疏水第2トンネル西口
トンネル南の山裾を迂回し第1疏水第2トンネル西口に。第2トンネルは124mと東口から西口が見えるほど。東口にあった「扁額でたどる琵琶湖疏水」には「隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)西郷従道 筆 山にそって行くと水源にたどりつく。

第1トンネルの説明とほぼ同じ。扁額のフレーズは唐の劉長郷が山中に棲む隠者を尋ねる詩、「過雨看松色 随山到水源」に拠る、との記事があった。



日ノ岡取水場・日ノ岡舟溜り跡
日ノ岡取水池橋を越えると右手に日ノ岡取水場。この地で琵琶湖疏水から取水し、およそ4キロの導水トンネルを自然流化で下り、新山科浄水場に導水する。なお、この敷地は湖水建設当初の日ノ岡舟溜り跡とのことであった。
因みに「日ノ岡」とは、南北と西の三方が山に囲まれ、東が開けるこの地は、日の出とともに「日が当たる岡」といった説もあるようだ。



第11号橋
日ノ岡取水場を過ぎると前方にトンネル入口が見えるが、その手前に橋があり、その傍に「扁額でたどる琵琶湖疏水」の案内。「過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 松方正義 筆 時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」とある。
松方正義のフレーズは第2号トンネル西口にあった西郷従道のと同じ詩からの引用。
疏水の案内には、「眼前の第3トンネル付近には、明治36年(1903)7月、日本初の鉄筋コンクリート橋といわれる第11号橋が試造された。この橋の鉄筋は専用の材料がなかったため、疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されている。鉄筋コンクリートの技術は、のちに第2疏水の土木工事などに生かされた。
橋の東には、かつて日ノ岡船溜が広がり、疏水を行き交う船が泊まっていた。現在は埋め立てられ、新山科浄水場の取水池として利用されている」とある。

案内傍の橋を渡る。日本最初の鉄筋コンクリート橋も廻りは鉄柵で囲われており、少々窮屈そうではあるが、「日本初」というだけで、なんとなく有り難みを感じる。
なお、日本最初の鉄筋コンクリート橋は神戸の若狭橋といった記事もどこかで見付け、気になってチェックしたが、若狭橋が存在したエビデンスはなく、明治39年(1906)9月に神戸で建設された長狭橋の誤記ではないか、との記事があった。

第1疏水第3トンネル東口
トンネル入口に近づき、煉瓦造りの造形美を眺め、扁額も先ほどの案内を頼りに読み終える。トンネルはここから日ノ岡山を3キロ進み1m下るといった緩やかな勾配で850m地中を進む。
このトンネル、疏水工事計画当初はトンネルを山科から南禅寺山下隧道を経て若王子に抜くといった計画であったようだが、それは第1トンネル並みの難工事が予想されたため、南寄りの日岡山下のこのトンネルルートに変更されたようだ。
因みに、先にメモしたように、琵琶湖第2疏水工事に際しては、この第3トンネルからも1箇所の横穴を掘り、既にメモしたように第3トンネルと変更して進む「日ノ岡トンネル」計画路と繋ぎ、そこを拠点に左右に掘削し、作業員の出入り、材料の運搬、土砂の運び出し、湧き水の排除などに利用したとのことである。この辺りにも横坑跡が残るとの記事もあったが、見逃した。

「本邦最初鉄筋混凝土橋」碑
橋を渡ると石碑があり「本邦最初鉄筋混凝土橋」と刻まれる。混凝土=コンクリートのこと、である。裏面には「明治36年7月竣工、米蘭式鉄筋混凝土橋桁、工学博士田邊朔郎書之」と刻まれる。米蘭式とは「メラン式」というコンクリート工法の一種で、田邊朔郎氏が日本に紹介したとのこと。門外漢はこれ以上のコメントするに能わず。

藪漕ぎ撤退
碑を見た後、この先どう進もうとちょっと悩む。第11号橋の「扁額云々」の案内には、直進すれば南禅寺とあったのだが、その道は「私有地につき立ち入り禁止」となっている。車道を迂回するのもなんだかなあと、トンネル脇から山に這い上がり、先日歩いた南禅寺からの尾根道、京都一周トレイルのコースに進み水路出口に下ることに。
急な尾根筋を這い上がり、木々を踏み敷き藪漕ぎを開始してしばらくすると、下から大きな声が聞こえる。「山を下りなさい」と、言ってるようだ。事情はわからないが、取り敢えず、上った急斜面を下ると、声の主が。曰く、この山は南禅寺辺りまで、その方の私有地であり、キノコ採りの輩に荒らされるので侵入禁止としている、と。
知らぬとは言え、私有地に入り込んだことを謝り、仕方なく車道を迂回し第3トンネル西口のある蹴上に向かうことにする。

大名号碑
成り行きで進むと府道143号の日ノ岡交差点の東に出た。緩やかな坂道を上ると、道端に緑地があり、そこに大きな石碑がある。木食正禅養阿上人(1687~1763)は、江戸中期の木食上人のひとりである。巨大な石碑には「南無阿弥陀佛」と刻まれている。
脇にあった案内には「木食とは、草根木皮の生食のみで生きる難行中の難行を言う。当時の京都には、11ヶ所の無常所(6墓5三昧)があり、いずれも刑場に近いので、僧俗一般に敬遠され勝ちであった。しかし、上人は、敢えて寒夜を選んで念仏回向に回り、享保2(1717)年7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立した。中でも粟田口、京都最大の刑場なので、一丈三尺(約4メートル)の特大にしたと旧記にある。
現在、下半分が補修されているが、更に復元すれば「南無阿弥陀仏木食正禅養 粟田口寒念佛墓廻り回向(享保三丁酉七月十五日 となるべきであろう。 もと九条山周辺にあったが、明治の排仏思想のおり、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されたのである。その時の痛ましい痕跡は、今も石肌に判然と遺っている(陵ヶ岡自治会)」とある。
粟田口の刑場ってよく聞いてはいたのだが、この地にあったことは知らなかった。刑場はこの車道を少し上った「九条山バス停」の左の崖上辺りのようだ。 で、案内にあった「5三昧」って?チェックすると「火葬場」のことを指すようだ。また、案内に名号碑は4mとあるが、それほどの高さはないようだ。チェックすると、現在の高さは2.8m。明治時代の廃仏毀釈に遭い遺棄されたが、昭和8年(1933)には国道改修工事(現在は府道143号)の際に折れた上半部のみが出土し、現在地に据え置かれていたものを、昭和40年(1965)に下半部を修補・復元し再建された、とのことである。

日ノ岡宝塔様縁起
同じ緑地の中、大名号碑の先に僧形の像と石碑が建つ。案内には「日ノ岡宝塔様縁起」とあり、「桓武天皇奈良より京都へ遷都以来明治に亘る千有余年の間極刑場(粟田口処刑)が現在の九条山附近にありました。
この刑場で処刑されてはかなく消えた罪人の数は約一万五千人余にのぼったといわれ千人に一基ずつの供養塔が十五基各仏教諸宗の手で建てられたと伝えられています。
明治の初めこの刑場が廃止されたのち廃仏毀釈の難にあい、供養塔は取り壊され石垣や道路などいろいろな工事に転用されてその断片が処々に残っていました。
昭和十四年法華倶楽部小島愛之助翁(法華倶楽部創設者)が処刑者の霊の冥福を祈るために石の玄題塔断片を基石としてここに供養塔を建立し毎年春秋の二季に亡霊供養の法要を行い立正平和と交通安全も併せて祈っています」とあった。
石碑には、「立正安国/南妙法蓮華経/天晴地明」の題目が髭文字で刻まれている、とのこと。日蓮宗ではこのような石碑を宝塔と称するようだ。ということは僧形の主は日蓮上人ということだろうか。

日ノ岡峠
車の往来の多い道脇の歩道を進む。緩やかな上り道。昔は結構な難所であったようだ。メモの段階でわかったのだが、先ほどの「大名号碑」のあった緑地には「京津國道改良工事(昭和8年竣工)」の記念碑があり、その改良工事を報じる当時に新聞には「その昔の難所も今は夢の夢」とある。山科と大津を間の逢坂山と共に、京都と山科の間を遮るこの日ノ岡峠越えの道も、その時に緩やかな傾斜の道としたのだろう。
日ノ岡交差点辺りで府道143号と分かれた旧東海道が左手より合流した道の先、九条山バス停を越えた崖上辺りが「粟田口刑場」であったようだが、散歩当日は知る由もなく、疏水が地下を進むであろう道の右手へと入る道を探しながら進む。
バス停を越え、車道橋が道を跨ぐ辺りがピークのようで、道はそこから京に向かって下ってゆく。ピークには日ノ岡峠の標識はなかった。
地図を見るとこの車道橋辺りから右手に水路出口へと向かう道がある。成り行きで右手に入る道を進む

九条山浄水場
ゆったりと上りの道を進むと、道の左手に水路施設が見える。地図には「九条浄水場」とある。結構古いのだが、現在でも動いているのだろうかと京都市水道局のページをチェックするが、浄水場リストには載っていない。
あれこれチェックすると、この施設は明治45年(1912)、御所に防火用水を供給するために建設された御所水道の貯水池であり、大日山貯水池と呼ばれていたとのこと。
戦後、京都市の人工増加に対応し駐留軍の指示で御所水道の貯水池を改造し「九条浄水場」とし創業したが老朽化に伴い浄水機能は昭和62年(1987)に停止、また、御所水道の機能も平成8年(1998)年には停止したとのことである。
何故にこんな高所に?チェックすると、水圧を確保すべく御所の紫宸殿と41mの落差をもって鉄管で導水した。また、用水は第3トンネル西口のポンプ室から揚水し、30m上の貯水池に揚げたとのことである。
御所水道の鉄管がどこを進んだのか気になるのだが、次の機会のお楽しみとして、ここはこれ以上の思考停止。

日向大神宮参道に合流
浄水場を過ぎ、道なりに高度を下げて進むと「日向大神宮」への参道に合わさる。この道はしばらく前大学時代の友人と歩いた道。蹴上から日向大神宮を経て大文字山の火床から京の街を眺め、銀閣寺へと下っていった。このコースは伏見稲荷からはじまり、東山・比叡山を経て大原・鞍馬に。更に西賀茂から高尾・清滝を経て嵐山に至る京都一周トレイルの一部でもあった。
そういえば、このときの散歩のメモを書いていないなあ、などと思いながらその時上った道を逆に下る。


第1疏水第3トンネル西口
道を下ると左手に水路が見えてくる。下りきった辺りで水路奥を見るとトンネルが見える。第1疏水第3トンネル西口である。日ノ岡山を850mの距離を、3キロで1m下るといった傾斜で進んできたわけだ。
例によって「扁額でたどる琵琶湖疏水」には、「美哉山河(うるわしきかなさんが) 三条實美 筆 なんと美しい山河であろう」とある。フレーズは『史記・呉記列伝』よりの引用。疏水の案内は今まで記載したもの以上のものは書いていないので省略する。

九条浄水場ポンプ室
第1疏水第3トンネル西口の出口脇に美しい煉瓦造りの建物が見える。散歩の時は、特に案内もないので、第1疏水関連施設かと思っていたのだが、先ほど出合った九条浄水場が御所水道の貯水池(大日山貯水池)であった頃、疏水の水をポンプアップする揚水施設であった。
御所水道とは言え、余りに凝った造形。何か理由は?チェックすると当時皇太子殿下であった大正天皇が琵琶湖から琵琶湖疏水を京都へ下る計画があり、この地でお迎えすることになり、明治45年(1912)、京都帝室博物館(現在の京都国立博物館)を設計した片山東熊や山本直三郎氏が設計担当した。結局、この年は明治天皇が崩御し、計画は流れたとのことである。

琵琶湖第2疏水合流点
九条浄水場ポンプ室の手前にトンネルと洗堰のような構造物が見える。メモの段階でチェックすると、そのトンネルは琵琶湖第2疏水日ノ岡トンネルの出口。琵琶湖第2疏水が第1疏水に合わさるところであった。




蹴上舟溜り跡
第2疏水が第1疏水に合わさる辺りの水路は、疏水建設当時、蹴上舟溜りであったようだ。その後、九条浄水場ポンプ室手前に蹴上・山之内浄水場の取水池が造られたため、当初からは大きく縮小され、舟溜りの面影は遺らない。
疏水の説明で、「ここで合流した琵琶湖疏水の水は浄水用と発電用に分けられる」といった記事をよく見る。しかし、メモの過程で冬場には第1疏水は、保守管理だったか何だったか、ともあれ「停止」する」とある。
では、蹴上・山之内浄水場の取水池に水はどのようにして送るの?第2疏水と取水池の間には第1疏水があるわけで、サイフォンで第2疏水から取水池に送るのだろうか?チェックすると、そもそもの山之内浄水場は平成25年(2013)には廃止されたようである。ということは説明にある、「浄水用に分けられる」機能は無くなったということだろうか。

合流トンネル入口
第1疏水と第2疏水の水が合流した「溜り」に架かる大神宮橋の南はインクライン。すぐ南で水は消える。疏水はどこに流れるの?橋の北詰めに水門ゲートがある。水は赤いゲートの下に流れる。ここが合流トンネル入口だろうか。
とは言うものの、上でメモしたように、冬場は第1疏水の水は止まる、と言う。それでは第2疏水の水は?
第2疏水が日ノ岡トンネルから出る辺り、第1疏水との合流箇所辺りをGoogle Mapの航空写真で見ると、出口右手にトンネル入口らしき呑口が見える。その後、蹴上げ辺りのジオラマの画像をどこかで見付けたのだが、そこには第2疏水の吐口の右手にしっかりと「呑口」が見えた。第2疏水の水はこのトンネルを通り、先に進むのであろう。
ということは、この赤いゲートは第2疏水が出来るまでの舟溜りから先に進むトンネルの入口であったのか、とも思う。また、上でメモしたように、第2疏水から直接先に進むトンネルが出来た後は、このゲートからの水も地中のどこかで合流し出口に進むのだろうとは思う。が、単なる妄想。根拠なし。

インクライン・運輸船
大神宮橋を渡り先に進むと、水の切れた辺りに線路と台車に乗った舟がある。案内には「この木造船は、明治23年に竣工した琵琶湖疏水で使用されていた運輸船を復元したもの。当時は、船ごとインクライン(傾斜鉄道)の台車に載せて、この坂を昇降していた」とあった。
○インクライン
傍にあったインクラインの案内によれば、「インクライン運転の仕組み;このインクラインは、第3トンネルを掘削した土砂を埋め立てて作られました。この蹴上船溜(ダム)から南禅寺船溜までの延長は約582mです。落差が約36mあるため、この間はどうしても陸送になりました。インクラインはレールを四本敷設した複線の傾斜鉄道です。両船溜に到着した船が、旅客や貨物をのせ替えることなく運行できるよう考えられたのがこのインクラインです。
建設当初は、水車動力でドラム(巻上機)を回転して、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させる設計でしたが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更されました。
ドラムは、最初は蹴上船溜の上にありましたが、後に南禅寺船溜北側の建物に移転し改造されました。台車を上下させる仕組みは、(中略)直径3.6mのドラムを35馬力(25kw)の直流電動機で回転させて、直径約3cmのワイヤーロープを巻き上げて運転していました。蹴上船溜の水中部には、直径3.2mの水中滑車(展示品)を水中に設置していました。また、レールは当初イギリスから輸入され、軌道中心には直径約60cmの縄受車を約9m間隔に設置し、ワイヤーロープが地面にすれるのを防ぎ、円滑に巻き取れるようにしてありました。ちょうどケーブルカー(鋼索鉄道)のような仕組みで、2段変速できるようになっていて、片道の所要時間としては10~15分かかりました。 琵琶湖疏水記念館にインクラインの模型(1/50)を展示しています(平成15年3月1日 京都市水道局)」とあった。

○蹴上
蹴上げって、いつだったか京都のスタンフォードセンターを訪れるまで、我流解釈で全くの思い違いをしていた。明治時代に完成した琵琶湖疎水には用水と発電と水運といったいくつかの機能があり、水運では、琵琶湖と鴨川を結んだことは知っていたので、この岡崎付近は琵琶湖へのルートとの勾配が急すぎるため、船を台車に乗せて、線路を移動させたという。その船を動かす梃子の姿を勝手にイメージして、それを「蹴上げ」と呼ぶのだろうと思っていた。
実のところ、蹴上げは船とか台車とかは関係ない。源義経にその由来があった。義経、当時の遮那王が奥州に下る際、この地で美濃の侍一行とすれ違う。武者の馬が泥水を蹴り上げ遮那王の衣服を汚す。激怒した遮那王は武者と従者の9人を斬り殺したという。これが蹴上という地名の由来伝説。『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれている。○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經 其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ、と。
思い違いをもうひとつ。船を台車に乗せて、線路を移動させ急勾配の水位差を吸収する方法をインクラインという。インクライン=incline(傾斜)の意味の英語である。これも、インク=友禅染めから来ている愛称と勝手に思い込んでいた。

山ノ内浄水場導水管
インクラインの坂を見遣りながら成り行きで進むと、大きな導水管があった。案内に拠れば、[この管は、ダクタイル鋳鉄管といい、水道管の殆どにこの管種を使用しています。強度があり、耐久性があるのが特徴です。これは直管といい、直線区間に使用し、直径1.65m、長さ4m、重さ約トンあります。この他に曲がった区間や分岐する所には、異形管という管材料を組み合わせながら、継手用のゴム輪、押輪、ボルト・ナットを用いて接続します。
第2疎水から取水した原水は、水中のゴミや藻類などを取水池の自動除塵機で取り除いた後、この管と同じものを使って、インクラインから仁王門通、冷泉通、鴨川横断、御池通を通り約8km先の右京区にある山ノ内浄水場まで導水しています。
この管で1日26万4千立方メートル(縦64m×横64m×長さ64mの立方体相当)の原水を送る能力があり、山ノ内浄水場に着くと薬品ぎょう集沈でん、急速砂ろ過、塩素消毒をした後、西京区・右京区・中京区・南区に設定した区域内に給水しています。
京都市には、このほか蹴上、松ヶ崎、新山科の3浄水場がありますが、いずれもこのような導水管や導水トンネルで疎水の水を送り続けて、市民の皆さんが安心してご使用していただけるようにお応えしています(平成15年3月1日 京都市水道局)]とあった。
説明に「第2疎水から取水した原水は」とあるが、上でメモしたように、第2疎水と取水池の間には第1疏水があるわけで、とすればサイフォンといったもので送ったのではあろうが、そもそもの浄水場が平成25年(2013)に廃止されている。

合流トンネル出口
先に進むと右手に水路が現れる。水路右手奥に「合流トンネルの出口洞門」があり、田邊朔郎が揮毫した扁額「藉水利資人工」があったようだが、成り行きで進んだため見逃した。事前準備無しの、後の祭りパターンである。インクラインにあった「史跡 琵琶湖疏水」の案内には合流トンネルは長さ87mとあった。




洗堰
合流した疏水水路を先に進むと洗堰に出合う。洗堰から流れ落ちる水は蹴上発電所の2本の水圧鉄管のひとつに送られる、との説明があった。洗堰先には下に下る2本の水圧鉄管が見える。





蹴上発電所水圧鉄管
洗堰の先に除塵機らしき装置があり、その先に2本の水圧鉄管が下る。蹴上発電所に疏水の水を送る水圧鉄管である。蹴上発電所は当初の計画であった水車動力が京都には適しないと、変更になり計画されたもの。明治24年(1891年)6月に発電機2台で運転を開始した。
当初は電力需要もそれほどなく、自ら需要環境をつくるため計画されたのが電気鉄道とのことは既にメモした通り。明治28年(1895年)には、塩小路(現在の京都駅)~伏見駅へ走る日本初の市街電気鉄道(京都市電)が開通した、と言う。蹴上発電所は、開業から100年以上を経た今でも現役で、京都の街へ電気を送り続けている、と言う。

これで本日の琵琶湖疏水散歩、正確には琵琶湖第2疏水散歩は終了。ついでのことと、また、冬枯れ、と言うか、メンテナンスのため(?)に水気の少なかった疏水散歩の締めに、いつだったか訪れたことのある、琵琶湖疏水が流れる南禅寺水路閣に向かうことにする。

疏水分線の水路
水圧鉄管を越えると、北に延びる結構広い水路が「溜る」。「溜り」の突き当たり手前の右手から水路が合わさる。何だろう?あれこれチェックすると明治20年(1887)に第4トンネル(136m)が蹴上舟溜あたりから貫通したという。後にメモするが、「史跡 琵琶湖疏水」の案内に水路図があり、そこには合流トンネル内部で分岐し右に折れる第4トンネルが描かれていた。
その水路?とも思ったのだが、この第4トンネルは琵琶湖第2疏水完成跡には使用されなくなった、という。吐口も確認できていない。どうも、第4トンネルとは関係ないようだ。
航空写真でチェックすると、蹴上発電所水圧鉄管上の「溜まり」より続き、南禅寺水路閣への水路と繋がれていた。発電用の水を落とした後の、南禅寺から哲学の道へと続く「疏水分線」への水路のスタート地点ではあろうか。
○第4トンネルと合流トンネル
第4トンネルって説明が案内にあるのだが、これって第1疏水工事が完成した頃に造られたもののよう。建設当時の写真には蹴上の舟溜りの脇、現在の合流トンネルのある位置に開削されているように思える。
上でメモしたように、第4トンネルは琵琶湖第2疏水完成後には使用されなくなった、とのことでもあるので、第4トンネルの呑口=合流トンネル呑口かとも妄想する。「史跡 琵琶湖疏水」の案内には合流トンネル内部で分岐し、ひとつは合流トンネル吐口へ、第4トンネルは右手へと分岐しているが、第4トンネルの吐口第4トンネルがはっきりしない。現在も使われているかどうか不明もある。

南禅寺トンネル方面

で、この「溜り」の先は左手には水門があるが、正面の山に呑み込まれる呑口らしきものもある。散歩の時は、何だろう?と思っていたのだが、「史跡 琵琶湖疏水」には、この箇所あたりから 全長1000mの南禅寺トンネルが描かれていた。南禅寺トンネルの呑口かと思ったのだが、南禅寺トンネルの呑口は確認されていない、といった記事があるので、これは南禅寺トンネルの呑口ではないのだろう。
では南禅寺トンネルの呑口は?あれこれチェックしたがはっきりとした記事が見つからなかった。その内に京都に行ったときにでも、琵琶湖疏水の記念館でも訪ねてみようと思う。

南禅寺水路閣
「溜り」の左手に水門があり、そこから勢いよく水が流れる。南禅寺水路閣を経て哲学道の水路を流れる水路は「疏水分線」だろう。
突然増える観光脚客に混じり水路に沿って進み、南禅寺水路閣を見終え、南禅寺をスルーして地下鉄東西線の蹴上駅に。南禅寺水路閣はあまりに有名でありメモは省略する。


蹴上・ねじりマンポ
成り行きで蹴上駅に向かう。途中、何気なくインクラインの下を潜る通路を抜けたのだが、駅方向に出たところの上に扁額があった。
メモの段階でチェックするとそこは「ねじりマンボ」と呼ばれるところであり、扁額は南禅寺側は「陽気発所」、蹴上駅側は「雄觀奇想(ゆうかんきそう)」。
北垣国道筆で、陽気発処とは、『朱子語類』からの引用で 「陽気発処、金石亦透、精神一到、何事不成」 、即ち「陽気(内に秘めたやる気)が発動すれば、金や石も突き通してしまう。 精神を集中し事を為せば、何事でも成し遂げることができる」との意。
「雄観奇想」の出典はわからなかったが、「素晴らしい眺めと優れた考え」との意。簿琵琶湖疏水完成の姿をイメージしたフレーズとも言われる。 で、「ねじりマンボ」。「マンボ」は鉱山などのトンネルに使う「まぶ=間府」ではあろうが、「ねじりマンボ」という工法はトンネルと線路が直角に交わっていない場合に、斜めの線路(この場合は傾斜のあるインクライン)と直交わするように煉瓦を積んでゆく工法で、トンネル内部から見た煉瓦は捻れたように見えるため「ねじりマンボ」と称されるとのこと。散歩の時にはそんなことは何も知らず、お気楽に通り抜け、蹴上駅に向かい、京都駅に戻り、一路田舎へと。
誠に、誠にお気楽に歩いた琵琶湖疏水ではあったが、メモの段になりあれこれ気になることが多くあり、結果的に当日の、のんびり歩いただけとはほど遠い、結構長いメモとなった。 最後に、「インクライン」にあった、琵琶湖疏水の案内を記入し、メモを終えことにする。


○史跡 琵琶湖疏水
 「史跡 琵琶湖疏水  1869(明治2)年に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって,第3代京都府知事の北垣国道は、京都に隣接し水量が豊かな琵琶湖に着目して、疏水を開削することによって琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防火などに利用することによって京都の産業振興を図ろうとしました。この疏水工事の御用掛に選ばれたのが、1883(明治16)年に工部省工部大学校を卒業したばかりの田邊朔郎でした。1881年(明治14)に本格的に検討に入り、1885年(明治18)に着工、1890(明治23)年に竣工しました。 琵琶湖疏水の建設工事は最も難関が予想された第1隧道(トンネル)から取りかかることになり、施工方法についてもトンネルの両側からの掘削の他、日本で最初の試みとしてトンネルの途中に竪坑(深さ47m)を掘削する方式も採用しています。 このインクライン(傾斜鉄道)は日本で初めての試みで、これによって船を南禅寺の平地へ下ろすことが可能となり、舟溜から鴨川までは鴨東運河で結んでいます。 1891(明治24)年には米国コロラド州アスペンの水力発電所を参考にした日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月に送電を開始しています。インクラインの運転動力もこの電力を利用しています。 水力発電は新しい産業の振興に絶大な能力を発揮し、京都市発展の一大原動力となりました。 疏水工事は、1885(明治18)年6月に着工して以来、数々の困難を乗り越えて1890(明治23)年3月に大津から鴨川落合までが完成し、それより以南は1892(明治25)年11月に着工して、1894(明治27)年9月に完成しました。琵琶湖第1疎水の建設に携わった人員は、のべ400万人でした。 琵琶湖疏水は、当時の日本の大規模な工事がすべて外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみによって行われた最初の近代的な大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、1996(平成8)年6月に、このインクラインをはじめ12箇所が国の史跡に指定されています。 この疏水の水は、現在においても水道用水の他、発電、防火、工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っています」。

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