
散歩のはじめの思惑は、善福寺川の窪地に残るであろう水路跡を辿る、ということではあったのだが,メモの過程で登場してきた善福寺川の複雑な旧流路が気になり、結果的には旧流路を活用した(と思われる)揚堀(田用水)も辿ることになってしまった。
今回のメモは先回歩いた後半部分であるが、窪地散歩ではなく、幾筋も流れていた旧流路を一本化する河川工事の過程で、田畑を潤すため旧流路の一つを活用したと思われる揚堀(田用水;川の上流で取水し田圃を潤し下流で排水する)をメモする。
本日のルート;
■成田東の揚堀跡を辿る
旧流路・揚堀散歩スタート地>白山神社前>成田下橋>成田上橋>尾崎橋 ■成田東・成田西の揚堀を辿る
■成田東・成田西揚堀を辿る
成田東・成田西揚堀(仮称)スタート地点に>民間信仰石塔>水路跡スタート地点>東田中学校に沿って細路が続く>杉並税務署前に続く車道に出る>細路に入る>須賀神社前の通りに出る>杉並高校の敷地に沿って水路は進む>杉並高校敷地から出た水路>金太郎の車止め>崖下の水路跡>矢倉台先端部(揚堀と天保新堀用水が合わさる)>揚堀と天保新堀用水の分岐点>揚堀のルートを離れ天保新堀用水のルートに乗り換える>天保新堀用水・善福寺川の取水口に
■成田東の揚堀跡を辿る
旧流路・揚堀散歩スタート地点
成田東支流の源流点から同じ水路跡を成田東支流散歩のスタート地点に戻る。成田東支流はこの地点から少し南に下り、御供米橋から大宮橋辺りに向かう旧流路と合わさっているのだが(「今昔マップ首都 1896‐1909」)、「今昔マップ首都 1944‐54」を見ると五日市街道の尾崎橋あたりから流路らしき「点線」が描かれている。地図には蛇行し時に合わさりながら下る「実線」で記されたふたつの流れも見えるので、この水路は少し細い流れであったのだろうか。流路は崖下を進んでいる。成り行きに尾崎橋へと向かうことにする。
白山神社前
「成宗」とは永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「永福、沼袋、成宗の三カ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」との記述がある。古くからの村であった。その後、成宗村は幕府の天領となるまでは、旗本岡部忠正氏の知行地であった。
●成宗
成宗はこの地域の開発者野口成宗に由来する。館は成田西4丁目辺りの通称矢倉山にあったとされる。矢倉山の名称は後年、太田道灌が見張台(矢倉)を築いたことに由来する。成田の地名は成宗村と田端村の合成したもの。
●岡部忠正
ちなみに、「杉並」の地名はこの岡部氏に由来する。江戸時代に田端・成宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に植えた杉の木が杉並木となり、旅人や市場に通う百姓の道中のランドマークとなった。 で、区ができるとき、どの地区にも当たり障りなく、かつまた、この地域の俗称ともなっていた、俗称となっていた「杉並〔木〕」とした、とか。ついでのことだが、この岡部忠正って薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。薩摩守忠度(ただのり)のことは熊野散歩でメモしたとおり。
成田下橋
成園橋辺りまでは台地の崖面南端を辿って来た水路跡は、成田下橋の手前あたりで向きを北に変える。
成田下橋は明治の頃、吉六橋と呼ばれる丸太一本の橋からはじまった、とのこと。吉六は尾崎橋まで迂回するのが面倒と丸太を渡した人の名、と言う。その川筋は、いくつにも分かれた善福寺川の、どの流れが不明であるが、ともあれ、丸太一本で十分な幅の水路ではあったのだろう。
成田上橋
道を進み成田上橋への道を越えると「車止め」があり、道が急に狭くなる。その道は民家に通じ行き止まり。民家を迂回し尾崎橋へと向かう。
尾崎橋
●尾崎橋
橋の袂の案内板をもとに、簡単にメモ:「上流に向かって左側の台地が「尾崎」と呼ばれる。「おざき」とは「突き出した台地の先端=小さな崎」を指す。発掘された土器などから見て、8,000年前から人が住んでいた、と想定される。 源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、との説もある。このあたりは風光明媚なところで、江戸には文人墨客が訪れた、とか。橋の上流に続く善福寺川緑地公園って、春の桜は素晴らしい。今年の春も会社の仲間と花見と洒落た、場所でもある。
●尾崎の七曲
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめいたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。田の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述も案内板に記してあった。この「つつらおりめいたる」って記述、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。そうえいば、橋の西・東に、大きく曲がる道筋が残っている。またまた、そういえば、結構最近まで、このあたりの五日市街道の道筋は曲がりくねっていたように思う。なんとなく、そういった記憶が残っている。
●五日市街道
五日市街道のメモ;「地下鉄新高円寺駅あたりで青梅街道を離れ、松庵1丁目を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきるの市に達する街道。江戸時代初期は、「伊奈道」と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸に運ぶ道。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道など呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついた道であった。
明治以降、五日市街道と呼ばれる。この街道に沿った区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができる」、と。
■成田東・成田西の揚堀を辿る
尾崎橋から先のルートを想う。「今昔マップ首都 1896‐1909」に拠れば、現在の本流の左右に水路が見える。右岸の流路は成園橋あたりで本流(現在の川筋に近いと言う意味で)と合流しているので、カバーするには少し戻る必要がある。それは少々ウザったく、次回に廻すことにして、本流左岸の旧流路、多分河川工事の後は揚堀となった、かと思える水路跡を辿ることにする。
この揚堀の名称を仮に、「成田東・成田西揚堀」とする。単に成田東と成田西を流れている、というだけの仮称である。
成田東・成田西揚堀(仮称)スタート地点に
尾崎橋の北、善福寺の左岸を通る、如何にも水路跡といった道を地図でチェック。と、東田中学校の東側から旧阿佐ヶ谷住宅敷地跡の再開発地端を回り、蛇行する善福寺川に沿って、杉並高校から成田西へと南西に進み、さらにはその先で田端神社の建つ台地突端を迂回し川に沿って北東へと続く道が見える。
「今昔マップ首都 1896‐1909」に記された「点線」とほぼ同じルートを進む。田圃の畦道なのか水路なのかはっきりしないが、とりあえず水路跡であろうとスタート地点を探す。
民間信仰石塔
馬頭観音は頭に頂く宝馬が四方の四魔を駆逐することを表しているが、そのため馬の守護神と考えられ、路傍、馬捨場などにも建立されました。石塔の南側の道路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の道路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。これらの石塔を建立した白幡念仏講中も、昭和15年頃までは毎月この場に集い、念仏供養を行なっていましが、現在では毎年10月15日に供養会を盛大に行っています。昭和62年3月 杉並区教育委員会」とあった。
水路跡スタート地点
●揚堀排水口への水路?
東田中学校に沿って細路が続く
●東田
現在地名に東田は残っていない。その割には東田小学校とか東田中学校という名が残る。成田が成宗と田端の合成、ということであるので、東田は東田端と類推。チェックすると、成宗は田端に挟まれており、成宗の東側を東田、西側を西田とした。その後、成宗1丁目と東田1丁目・2丁目の一部が合わさり成田東となった。
同様に、成宗2丁目と1丁目、西田町2丁目の一部を合わせてできたのが成田西である。昭和44年(1969)の新住居表示にともなう施行であった。
杉並税務署前に続く車道に出る
●旧阿佐ヶ谷住宅
日本住宅公団(現、都市再生機構;UR )が造成した350戸の分譲型集合住宅地。 昭和33年(1958)竣工。所謂公団住宅に良く見る中層集合住宅とテラスハウスタイプの低層集合住宅からなる。完成当時はモダンであったのだろうが、散歩で訪れた頃(何年前だろう?)には人の気配も少なく、寂れた様相を呈していた。
昭和の頃から、何度か建て替え計画があったようだが、意見がまとまらず、結局合意し取り壊しがはじまったのは平成25年(2013)。平成28年(2016)には竣工予定となっている。
細路に入る
須賀神社前の通りに出る
●須賀神社
●成宗弁財天社
案内には「当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼荼羅像です。
この弁天池は天保十一年(一八四〇)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継池として利用されましたが、その際池を盛り上げた土で富士講のための築山をつくりました。成宗と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。
当社は、弁天講中の人々により手厚く守られてきましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています 杉並区教育委員会」とある。
◆天保・新堀用水

天保新堀用水の水源は青梅街道の南を流れる善福寺川である。天沼の弁天池を水源とする桃園川は水量が乏しく、千川上水・六ヶ村分水からの養水で水量を補っていた。しかしこの養水では天沼村・阿佐ヶ谷村は辛うじて潤うものの、更に下流の馬橋・高円寺・中野村には十分な水が届かず、その解決策として、水源を水量豊かな善福寺川に求めることにした。
取水口は現在の大谷戸橋付近。そこから善福寺川に沿って矢倉台を迂回し、途中胎内堀り(素掘り)で進み、現在の都立杉並高校の北にある須賀神社辺りの弁天池(明治に作成された「関東平野迅速測図」にも大きな池が記されている)に貯め、そこから先は、再び青梅街道の走る台地の下4mから5mに、高さ1.3m、幅1.6mの地下トンネルを穿ち(胎内堀り、と称する)、青梅街道の北、桃園川に下る窪地に水を落とすことにした。この窪地には用水開削以前から新堀用水と呼ばれる自然の水路が流れていたようである。
天保11年(1840)9月に貫通した天保新堀用水であるが、その2カ月後には善福寺川に沿って迂回していた田端・矢倉台付近の土手が崩壊。その原因は「カワウソ」であった、とか。実際は大雨による土手の決壊ではないだろうか。 それはともあれ、この対応策として川筋迂回は止め、大谷戸橋付近から弁天池にほぼ直線に進む水路を計画。途中の矢倉台は、550mを胎内堀りで抜く工事を再開。天保12年(1841)のことである。
胎内堀りは馬橋村の水盛大工である川崎銀蔵が五百分の一という極めて緩やかな勾配を掘り進め、新堀の窪地と繋げた。この用水の完成により、馬橋・高円寺・中野の村は、大正の頃までその地の田圃の半分ほどをこの用水で潤した、という。
杉並高校の敷地に沿って水路は進む
杉並高校敷地から出た水路
金太郎の車止め
●天保新堀用水と分かれる
水路跡は崖下を進む。この水路跡は揚堀の水路跡であろうが、天保・新堀用水は「金太郎の車止め」のあったあたりから台地の中を胎内堀で進んでいたようだ。もっとも、この第一期の天保・新堀用水はカワウソや大雨により土手を壊され、結局大谷戸橋から弁天橋に向け直線で進み、胎内堀で弁天池と繋いだことは上でメモした通り。
崖下の水路跡
●矢倉台
既にメモしたが、再度メモ。矢倉は本来は矢を備える倉の意味だが、物見・見張り台も矢倉>櫓と称するようになった。阿佐ヶ谷へ抜ける鎌倉道に面し、太田道灌が物見台を建てたとも伝わる。なお、この矢倉台には成宗の開発者である野口成宗の館があった、とも伝わる。
矢倉台先端部(揚堀と天保新堀用水が合わさる)
揚堀と天保新堀用水の分岐点
同じルートを進んだふたつの水路は矢倉台の台地上にある田端神社の西の崖下で分かれる(同じ時期にふたつの水路があったわけではないだろうから「分かれる」という表現は適切ではないかもしれない)。途中巨大なマンホール蓋が目についた。
●田端神社
田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。境内は古墳であった、とも。
◆田端
ちなみに、上で、成田の由来として、「成」宗+「田」端>成田、との合成語とメモした。昭和44年ごろに、もとの成宗村と田端村(西田端)一帯を成田西、成宗村と田端村飛地(東田端)を成田東と呼ぶようになったわけだが、成宗村は田端村に挟まれていたようで、西側は現在の荻窪1丁目から3丁目あたりも田端村だったようである。
揚堀のルートを離れ天保新堀用水のルートに乗り換える
天保新堀用水・善福寺川の取水口に
昭和22年(1947)の航空写真には、大谷戸橋下流の取水口から現在の公園を南に下る水路が見える。また、揚堀も二手に分かれた箇所に合流している。天保新堀用水として開削された水路は昭和の頃まで揚堀の一部として田畑を潤していたようである。
今回はこれでお終い。次回は今回途中から天保新堀用水に乗り換えた揚堀の続きを歩こうと思う。