水曜日, 6月 15, 2016

伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅠ:旧東予市内(一部丹原)の河野氏ゆかりの地を辿る

毎月定例の田舎帰省。何処か歩けるところはないものかと、新居浜市の図書館で郷土史の棚を探す。と、小冊子で『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡 東予市郷土館』が目にとまる。
伊予と言えば「河野氏」というキーフレーズは知っているのだが、昨年来島村上氏の史跡を辿った折、成り行きで高縄山に行き、そのときのメモで河野氏のあれこれが、少しだけわかってきた、といった為体(ていたらく)である。 そのときのメモで、河野氏の本貫地が高縄山の西裾、旧北条市にあり、館の背後には、高穴城とか雄甲・雌甲城といった山城があるようで、そのうちに訪れてみたいと思っていた。
来島村上氏の史跡巡りも一段落したので、今回から河野氏ゆかりの地を辿ることにする。とりあえず、小冊子に記載されている東予市内(一部丹原町)、現在は共に西条市に合併した当該地域のゆかりの地からはじめようと思うのだが、同小冊子は河野氏の系譜を時系列で家督相続人を中心に説明されている。先般、高縄山を訪ねた時、河野氏興亡の推移を時系列でまとめてはいたので、そのメモを軸に、小冊子に記載の河野氏ゆかりの地を訪ねることにする。


(マップは左上の四角部分をクリックすると旧跡一庵が表示されます)



●鎌倉期以前;河野氏の記録ははっきりしない●

国衙の役人であったらしい

小冊子『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡 東予市郷土館』は河野通清からはじまる。あれこれチェックした結果としては、それ以前、つまり、鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。
河野通清以前は詳細不明である、とはいいながら、第22代当当主とある。その所以は世の常の如く、先祖を貴種に求め、河野氏もその祖を伊予の古代豪族越智氏とする家系図故のこと。その越智氏の一族で白村江の戦いに出陣した越智守興と現地の娘との間に生まれた子・玉澄が河野郷に住み、河野を号した。その玉澄を初代として22代目が通清、ということである。因み祖をもっと古く遡る家系図(「越智宿禰姓 河野氏系図」;第26代通有の項でメモする)もある。



●鎌倉期;河野氏が歴史に登場●

四面楚歌の中、源氏に与し平氏と戦う

■河野通清(第22代);頼朝挙兵に呼応
源氏の棟梁、源頼朝が平氏打倒の兵をあげたとき、河野家当主・通清は頼朝挙兵に呼応し平氏に反旗を翻す。挙兵は高縄城であったとも言われる。
当時の西国は平氏方一辺倒であり、無謀とも言える決断である。源氏に与した要因としては、伊予で覇を争う高市氏(新居氏ともある)が平氏の家人として平氏政権と強い絆を結んでおり、それに対抗するため、また、平氏による瀬戸内の制海権支配に対する不満などが挙げられる。
挙兵するも、当初は四面楚歌にて、戦局は圧倒的に不利。豪勇の聞こえ高い嫡子の通信が九州の源氏方を応援すべく九州へ出向している間、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死したと言われる。

山の神古戦場」は先日、花遍路散歩で訪れた。その近くには百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、建立して万霊塔が建っていた。


◆高縄城
小冊子では高縄城で討死とある。先日歩いた「山の神古戦場跡」にあった案内には「松山市指定文化財(史跡)指定 昭和41年4月10日 治承3年(1179)源頼朝より河野通清に依頼状があり(現在高野山金剛三昧院に保存)、これを快諾した通清は四面平家の勢力の中で敢然として頼朝に呼応したが、備後の奴可入道西寂が兵船3000をもって高縄城に侵攻、注進により道後館より一族16騎、兵120人をもって帰城途中、敵の伏兵と遭遇、大いに戦うも利あらず、治承4年1月15日山中の大松のもとで割腹し、家来の者その首級を持ち大栗へ落ちのびたと伝えられる。大松は昭和40年枯死した」とあった。
古戦場にあった案内では、古戦場で敗れたのはわかるが、討死した山中の大松がどこか不明である。その山中をして高縄城としたのだろうか。 で、その高縄城であるが、「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、河野氏の本貫地は北条平野の中央部、風早郡五郷の一つ河野郷であり、館は高縄山西麓、現在の善応寺の辺りとし、高縄城はその館の居館の背後の雄甲(標高238m)・雌甲(標高192m)の二岩峯と、館の北東、河野川を挟んだ高穴山(標高292m)に築いた3つの山城と、その背後に高く聳える高縄山(986m)一帯を総称して高縄山城と称したとする。
この説明からすれば、高縄山の西麓であれば、「どこでも」高縄城と受け取ることができる。「高縄城で討死」との説明もそれほど違和感はない。 因みに、地図を見ていると、雄甲・雌甲の山城は館の後詰、そして高穴の山城は背後からの敵に対する防御渠拠点、高縄山の山城は道後方面から石手川の谷合を侵攻する勢力、道前の蒼社川から立石川を経て侵攻する東予からの敵側への備えの要のようにも見える。単なる妄想ではある。

◆高市氏
平安末期、河野氏、新居氏、別宮氏とともに伊予に台頭した武士団。高市氏は国衙の役人として、越智郡・道後平野南部の久米・浮穴・伊予の各郡に勢力を伸ばす。伊予郡は早くより荘園開発が進み、ために中央権門との結びつきも強く、高市盛義の元服時の烏帽子親は平清盛である。
新居も国衙の役人であり、新居・周敷・桑村・越智・野間の各郡と、東予一帯に勢力を広げた。
別宮氏も同じく国衙役人であり、越智郡を領としたが、大山積神社の最高神官「大祝(おおはふり)」として、祭祀権を握っていた(『湯築城と伊予の中世;川岡勉・島津豊幸(創風社出版)』)。


▼河野通清(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

各地の源氏があいついで反兵士の兵をあげていた治承4年(1180),伊予国で反兵士の兵を起こし、兵士の目代のたてこもる赤滝城、文台城、大熊城(いづれも丹原町)を攻める。養和元年(1181)には平氏方の額入道西寂に攻められ高縄城で戦死。
家督;治承5年まで
関係の社・寺・城;文台城、大熊城、赤滝城(丹原町)
墓や供養塔;北条市粟井坂

▽文台城跡
南方山上且地 丹原町志川
伊予の国司平維盛の目代は豪族河野通清に敗れて赤滝城(明河)にたてこもり、その部下は文台城(志川)、大熊城(鞍瀬)の両城によって河野軍を防いだ。 中山川に流れ込むふたつの支流がある。一つが鞍瀬川、もう一つが此処志古川である。
それぞれの河口の喉頚にあたる地点であり、両城も赤滝本城を守る前哨的の砦の役目であったが、激戦の末城は落ちた 丹原町文化協会」


■河野氏ゆかりの地を訪ねる■


この記事をもとに通清ゆかりの地を辿ることにするが、粟井坂は既に訪れた(注:旧北条市であり東予市ではない)。文台城、大熊城、赤滝城を訪ねることにするが、地図でチェックすると、文台城と大熊城は、高縄山地と石鎚山地を分ける中山川が山地から道前平野に出る喉元、そして赤滝城は中山川を遡り、中山川に合流する鞍瀬川沿いの山中にある。手始めは赤滝城からとする。


◆赤滝城◆

実家の新居浜を出て国道11号を走り、国道が道前平野から中山川が高縄山地と石鎚山地の山塊を分かつ山峡部に入る。道はほどなく鞍瀬川が中山川に合流する落合に。そこから県道153号に乗り換え鞍瀬川に沿っておおよそ8キロほどだろうか、県道を進む。

登山道入口の橋
地図に児美谷神社とある手前、拉(ひしゃ)げた「赤滝城跡」の案内の傍にある名もない橋が城跡へと登山口。案内には「赤滝城跡  赤滝城跡は御祓川の源流青滝山(1303米)の山腹あたりがそうである。
文台大熊の前哨戦に敗れた平家勢が最後の拠点として逃げ落ちたのが赤滝城であった。断崖絶壁の中に洞窟がある。本城の岩屋、野地の岩屋、木釣の岩屋である。
しかし、洞窟戦はしょせんは負戦であった。今はこれまでと覚悟を決めた目代とその一族九人は岩屋から討って出て乱戦の末、自害して果てた。その地が九騎峠で温泉郡川内町滑川近くである。
源平両氏の興亡を占う戦いが丹原町で起き、源氏方の河野勢が大勝した文台、大熊、赤滝の城跡は、日本史を飾る大史跡である。 平成六年三月吉日 丹原町文化協会建立」

林道が崩壊
橋を渡ると左手に鞍瀬川に沿って林道がある。舗装もされていないので、橋を渡ったところにある空き地に車をデポ。10時55分、城跡に向けて出発する。城跡までの情報はちゃんと調べていない。途中の山中に社があるとのことで、その社を見つけるのが当面の目標ではある。
沢に沿って10分強歩くと林道が崩壊している。途中道端に石の仏さまが祀られていたので、なんとなくこの林道がオンコースと思うのだが、ひょっとして橋から右方向に道があったかも、などと思い、確認のため一旦車のデポ地まで引き返す。が、右に道はない。この林道を更に進むしかないだろうと再び橋脇から歩きはじめる。時刻は11時20分頃となっていた。

橋が崩壊:11時35分
再び川に沿って歩き始める。帰宅後地図を見ると、林道を少し進むと鞍瀬川に御祓川が合流。林道はその御祓川に沿って進んでいた。また、その林道も道脇にあった案内によれば、御所線と呼ばれ、車をデポした地点を起点に延長1.2キロ、幅員3.6mと、誠に大雑把なルート図とともに説明があった。
崩壊した林道箇所を再び越え(11時29分)先に進むと祓川に架かる橋が崩壊している。手前に架かる人道橋を渡り、沢の右岸に出る。

鳥居が建つ;11時38分;標高310m
沢を渡り、沢に突き出た尾根筋の突端部で道は大きく曲がり、尾根筋に垂直に上ってゆく。その尾根筋の突端に鳥居があり、社に向かっていることがわかりちょっと安心。社は車のデポ地かあらすぐにあると思っていたのだが、20分ほど歩いてやっと社への「手掛かり」が見つかった。





大野霊神社;;11時44分;353m
等高線に垂直に、といっても、等高線の間が広く、それほど急坂ではないが、ともあれ、坂を上ると5分ほどで社が見えてきた。大野霊神社とある。結構構えの立派な社だが、何故にこんな山中に?
由緒も何もなく、あれこれチェックすると先ほど渡った沢の右岸に「西之子集落」があり、戦前まで数軒の民家があった、とのこと。林道は沢の右岸に通しているが、旧道は沢の左岸にあった、と。
また、この社も、もとはその集落の近くにあり、「おおもと神社」と呼ばれていたとのことだが、いつの頃かこの地に移し、名も大野霊神社とした。何故に「大野」なのか不明である。集落の祖が大野さんかと思うも、神社の奉納者はほとんど佐伯さんではあった。
社殿天井には、伝説で馬が農作物を食い荒らすため、手綱を書き加えたという白馬の絵馬があったようだ。社の周囲には杉の大木が残る。社殿再建時には、そのうちの一本を売り、費用に充てたとのことである。それにしても、こんな山中に、こんな立派な社?などと当日は疑問を感じながらも先に進んだ。

尾根道に道標識;12時7分
神社にお参りし、城跡への登山口を探す。社の周囲をチェックしていると、神社の少し手前の藪の中に「赤滝城址登山道 丹原中生徒会 丹原公民館」の標識があった(城跡と城址が混在するが、登山口の案内では城跡とあった、ため)。 因みに、道標はこの丹原中生徒会のものを含め、城址まで4つほどあった。この道標がなければ城址には到底たどり着くことはできなかっただろう。感謝。 11時50分頃登山道に入る。尾根筋の等高線を垂直に進む。最初は緩やかではあるが、小ピークの手前辺りは結構急坂となっている。

小ピークから尾根を下る。社から20分ほど歩いているのだが、案内にあった青滝山の中腹にあるという赤滝城であれば上りではあろうが、それとは裏腹に、下ってゆく。一体いつ城に、と思った頃、2番目の道標。「赤滝城址」とともに。同方向に「野地之岩窟」の案内もある。あとどの程度の距離があるのか不明だが、とりあえずオンコースではあるようだ。
ここで尾根筋から離れ、道は下ってゆく。因みに帰宅後、尾根道をチェックすると、しばらく尾根道を進んだ後、北に突き出た別の尾根筋に阻まれ御祓川が大きく北にその流路を変える辺りで御祓川とクロスし、旧丹原町と旧温泉郡川内町の境にある黒森山の尾根筋暗部、九騎峠へと向かっていた。
なお、林道の名称にある御所は、北に突き出た尾根筋に阻まれ御祓川が北に大きく弧を描き流路を変えた、その尾根筋西側にあった集落の名とのことである。

再び沢を渡る;沢;12時11分;428m
下り切ったところに沢がある。車をデポし歩きはじめてから2番目の沢である。こんな大層なところにある城跡などと思いもせず、誠にお気楽にでかけたのだが、念のためにと持参したGPS専用端末が心強い。






道標;⒓時⒓分
沢を渡り切った先に道標。丹原中生徒会のものとは違う。「赤滝城(砦)跡 1K」とあった。やっと城跡までの距離がわかった。ここから尾根筋に這い上がる感じ。踏み跡らしきものを頼りに先に進み、尾根筋に乗る。






道標:⒓時30分;標高580m
尾根道を等高線に垂直に踏み分け道を進む。沢から20分ほど歩いたところに沢脇にあったものと同じ道標。「赤滝城(砦)0.2」とある。あと200mのところまでとなった。





赤滝城跡;12時34分;608m(621m)
標高600m付近にあった「野地之岩窟」の道標を見遣り、標高210mまで上ると平坦地となる。南北に長い平坦地に「赤滝城址」の案内が建っていた。出直し出発時間が11時20分であったので、1時間20分弱かかったことになる。こんな大変なところに来るとは、夢想だにしなかった。
城址とはいうものの、周りに何があるわけでもない。
「城址」の案内があるところは南北に長い平坦地であるが、その案内の先は小高く盛り上がっているので、土塁と言われれば土塁かななどと思いながら、何等か遺構でもないものかと、進む。完全な藪漕ぎ。
藪の先のピーク部分に、「谷向こうの地 御所古戦場跡」の案内と621m三角点があった。「谷向こうの地 御所古戦場跡」の案内のある方向に進んではみたのだが、踏み分け道も見当たらない。そこで折り返し、車デポ地に引き返すことにした。


野地之岩窟への分岐;12時45分
赤滝城跡からすぐのところに行きに見た「野地之岩窟」の案内。距離の案内もないのだが、近くにあるのであれば寄ってみようと分岐から左手に入る。等高線に沿って進む山道を10分ほど進んだのだが、案内もないので引き返す。
帰宅後チェックするとはじめこそ等高線に沿っての道ではあるが、野地之岩窟は標高750mの箇所にあるようで、最後の詰めは尾根筋を這い上がることになったようだ。岩窟は高さ2m・幅10m・奥行き5mほどの唇形をしたものと言う。


道に迷い深いゴルジュの沢に下りる;13時23分
分岐点に戻り、赤滝城からの細尾根を下ったのだが、沢に下りる箇所を間違い(13時17分)、沢に迷い込む(13時23分)。上はゴルジュ、下は滝。GPSで位置をチェックすると、行きに渡った沢の少し下流。
力技で、とも思ったのだが、道迷い対策の基本に立ち戻り尾根に這い上がり、GPSのトラックログに従い、行きに尾根道に這い上がった沢からのルートに戻り、無事に原点復帰(13時48分)。少々パニクっていたのか、肝心のゴルジュ沢の写真を撮るのを忘れていた。

赤滝城址に向かう時も、沢からの上りと細尾根の合流点(帰りでいえば分岐点)はわかりにくいなあ、などと思ってはいたのだが、その通りに、その箇所を通り過ぎた。細尾根には沢からの合流点から下流にも沢に沿って踏み跡が続いているので注意が必要。

車のデポ地点に戻る;14時44分
その後は、これといったトラブルもなく車のデポ地点に戻る。11時20分に出発し、道迷いのトラブルがあったにしても、往復でおおよそ3時間20分ほど。こんなに時間がかかるとも思わなかった。

最後にどんなところを歩いたのか赤滝城まで歩いた山を対岸から眺めてみようと、鞍瀬川の右岸、川から少し山肌を上ったところにある明長寺まで車で上り、赤滝城がその中腹にあるという青滝山らしきピークを見遣り、本日の〆とする。

●何故に、こんな山中に城が
Google Earthをもとに作成
城に歩きながら、何故にこんな山中に城が?との疑問。チェックすると、往昔この地は周桑郡旧丹原町と温泉郡旧川内町、すなわち道前と道後を結ぶ往還道であったよう。城は道前と道後を結ぶ往還の抑えとなる地にあったように思える。
往還には、登山途中まで歩いた林道御所線が道前の鞍瀬川の谷筋から、道後の滑川の谷筋の九騎の集落を結ぶのと同じく、車をデポした少し北、成・下影の集落から尾根筋を進み、黒森山の稜線鞍部の念上峠を越えて九騎に通じる「ねんじょ越え」と呼ばれる道筋もあったようだ。
尚、九騎から川内へのルートは、てっきり滑川の谷筋を下ったものと思っていたのだが、往還ルートは「九騎から海上を経て、深い森を越え西の郷(川内町河之内地区)」へとある。
今でこそ滑川渓谷に沿って県道302が整備されているが、その昔は谷沿いに道はなく、海上集落から山越えの道を進んだのだろう。地形図を見ると、海上から西の山塊の等高線の間隔は比較的広く、少し緩やかな山越えの道が想像できる。

●赤滝城攻防戦の規模
ところで、赤滝城を巡る河野通清と平氏方の双方の軍勢はどの程度の規模だったのだろう?河野勢は周囲すべて平氏方という四面楚歌の状態であり、高縄山の麓、河野の郷の一門ではあろうが、一門でも三谷郷の武市氏(新居氏ともある)が平家側につくなど、一門でも一枚岩でない。 一方、平氏目代、国司とはいいながら京の都に住み、遙任として伊予に道前と道後に二人の目代を派遣し、道前の目代は弓削島、道後の館は不明。目代が軍事力を持っているとも思えず、また、河野通清が攻めた目代が道前なのか道後なのか、両方なのか、はっきりわからない。
資料が見当たらないのでなんとも言えないが、どちらにしても、それほどの軍勢ではないだろうかと思う。平氏方が籠った野地之岩窟にしても、その規模からすれば、数十名収容といったものだろう。

●九騎峠・御所
案内にあった九騎峠は、赤滝城から西に御祓川の谷筋に下り、黒森山の稜線部に上ったところにある。現在は、黒森山の登山口ともなっている。 御所は、上でメモしたように、鞍瀬川に向かって北東に下る御祓川が、南に突き出た九騎峠の尾根筋と、北に突き出た尾根筋に挟まれ大きくS字を描く、その北に突き出た尾根筋の西側にある。
御所の由来は、屋島の合戦で敗れた平氏野本隊が伊予の吉井村(東予市)の浜に上陸し、平氏方の新居氏の助けを受けて中山川を遡り、赤滝城を拠点に源氏を迎え撃つにあたり、安徳天皇の行宮所としたところ、との伝承から。平家落人伝説の拡大版といったものだろうか。
ところで、平氏の武将のがこれを最後と討って出た九騎峠も、城址にあった「御所古戦場跡も、歩いてきた御祓川の奥、どちらかと言えば、滑川の谷筋に近い。河野氏の主力は城の西、滑川の谷筋に陣をひいたということだろうか。それとも、平氏は脱出路を求めて九騎峠>滑川の谷筋に向かったのだろうか?妄想だけが膨らむ。

●赤滝城のその後
河野通清が攻め寄せた以降、赤滝城が記録に登場するのは南北朝の頃。河野通盛(第27代当主)とともに幕府方で戦った武将の中に、赤滝城主・大森長治の名がみえる。伊予郡砥部荘を領した大森盛直、越智郡府中城に立て籠もった伊予国守護宇都宮貞宗、喜多郡根来山城の宇都宮貞泰とともの武家方として戦っている。
建武新制後も武家方の蜂起が続き、政情は不安定。伊予でも通盛が尊氏に与する以前、宇都宮氏の一族である野本氏と河野通任(通盛の孫で、通堯の弟)が蜂起し、その勢は赤滝城まで及んでいたとする(『伊予の歴史(上);景浦勉(愛媛文化双書刊行会)』)。これに対し、宮方(南朝)方の得能・土居・大祝氏は赤滝城を攻撃、数カ月に及ぶ戦闘の後、これを落とした。

●大野霊神社
上に、人も通らぬ山中に、何故に立派な社が?との疑問を抱いたが、往昔この地は道前・道後の往還道であり、また、その往還を扼する赤滝城の立地上の重要性から考えると、かつては現在からは想像できない重要な地であった故の、立派な社と妄想する。

東予市(一部丹原町)に残る河野氏ゆかりの地を巡る散歩の第一回。予定では 赤滝城跡、文台城跡、大熊城跡「をカバーする予定であったが、赤滝城だけで終わってしまった。次回は文台城跡、大熊城跡からはじめることにする。

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