●南北朝騒乱の時代●
建武親政と河野一族の分裂
■河野通盛(第27代);建武の中興から南北朝争乱期、武家方に与し、天皇方についた一族と分裂するも、最終的に武家方として威を張ることになる
鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333年)が起こる。風早郡高縄山城(現北条市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居通増・得能通綱氏は天皇側につき、河野一族は分裂。土居・得能氏の活躍により、伊予は後醍醐方の有力地域となる。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、最後まで幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
◆足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となると得能氏が河野の惣領となり伊予国守護に補任されたとある(『湯築城と伊予の中世』)。しかしながら、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、建武4年(1337)伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、南朝方を府中から掃討し伊予での勢力拡大を図る。
宮方の脇屋義助(新田義貞の弟)の伊予国府での病死、伊予の守護であり世田城主大舘氏明の世田城での戦死などが伊予での南朝優勢が崩れる「潮目」となったようだ。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城(異説もある)に移して、足利方の中心勢力となる。
▼河野通盛(通治);(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼
続柄;通茂の子家督;応長元年(1311)‐(北)貞治2年(1363);正平18年
関係の社・寺・城:壬生川浦の浜(鷺の森)、観念寺(東予市)、大智寺(東予市)
墓や供養塔;善応寺(北条市)
足利尊氏中興政府に反すると、その配下で宮方の軍と戦う。帰郷すると、本拠を高縄山から道後に移し、湯築城を築いた。
正平7年(北)文和元年(1352)壬生川浦之浜を埋立て神社勧請し、記念に楠を植える(現在の鷺の森の大楠)。
観念寺文書(禁書)に名が残っている。貞治年間(1362から1367)大智寺(吉井)創建。
▽鷺の森神社の楠
市指定文化財 天然記念物
楠は大きいものでは樹高約25メートル、胸高幹周6.1メートル、樹齢600年余りである。多数群生していたが、国道の改修や台風の被害で半減した(現在は5本が保存指定)伊予國守護職河野通盛(通有の七男)が、この地に伊勢神宮を勧請したという。この地は、鷺の森城址である。
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
◆壬生川浦の浜(鷺の森);西条市壬生川20◆
JR壬生川駅の北東、国道196号・今治街道脇、大曲川が瀬戸に注ぐ少し北に鷺森神社の社叢があるが、そこが鷺の森。国道に面した西を除き、北は港の水路、東と南は堀の面影が残る水路で囲まれている。
国道から海側に折れ鳥居前に車を停める。鳥居脇に「鷺森城跡」と刻まれた石柱が建つ。境内に入ると『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記載のあった大きな楠が目に入る。参道には旧日本軍の砲弾(だろう?)が左右に並び立つ。
社殿にお参りし、境内に鷺森城跡の遺構でもないものかと彷徨うが、特に何があるわけでもない。本殿向かって右手の三穂神社脇に「藩政の頃年貢米庫倉の跡」と刻まれた石柱があった。
鷺の森は4つの歴史のレイヤーを示す。時系列で挙げると、最初が河野家第27代当主である河野通盛が壬生川浦之浜を埋立て、伊勢神宮を勧請した鷺森神社。楠に白鷺が群生したのが社名の由来と言う。
次はこの地に鷺森城を築いた第31代当主・河野通之。河野通之については後述する。3つ目が江戸期の松山藩。鷺森城跡に浦番所があった、という。「藩政の頃年貢米庫倉の跡」はその名残ではあろうか。そして最後が旧日本軍(?)の砲弾。戦後に敢えて砲弾のモニュメントを社に奉納するとも思えないにで、戦前のものだろか。それぞれの時代を示す石柱、樹木、社、モニュメントが残る。
それはともあれ、地図で鷺森神社の辺りを見ていると、如何にも人工的な水路に見える埋め立て地が気になった。如何なる経緯で現在の地形となったのかチェックすると藩政時代の当地の歴史が現れてきた。
●藩政時代の鷺の森周辺
『えひめの記憶』を参考に私見を交えまとめると、「藩政以前、現在の鷺森神社の南を流れる大曲川には三津屋浦と呼ばれる湊があった。国道196号と予讃線の中間、厳島神社の辺りにあった、と言う。
また鷺森神社の北、現在は「堀川港」となっている水路は幕政時代以前には小島川(本川・古子川とも呼ぶ)と呼ばれる川であり、そこには壬生川浦という湊があった。
如何に周桑が豊かな穀倉地とは言いながら、こんな近くにふたつも湊・船寄場があったのは、行政区域が異なっていたため。鷺森神社を含む北側の壬生川湊は旧桑村郡壬生川村であり、三津屋湊は周布郡三津屋村に属していた。共に中世にはすでに船運の拠点となっていたようだ。
□三津屋浦と壬生川浦の整備
で、幕政時代になると、三津屋浦については、周布の後背地である在町(農村に開いた交易・商業中心の地域;江戸時代の1644年、時の藩主が代官に命じて、池田・今井・願連寺の原所に新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して周布郡内における唯一の商業地として発展させた)として開いた丹原方面からのアプローチ道を整備。
一方、壬生川浦については新町を開き代官所を置き、壬生川村沿岸の干潟干拓と壬生川浦の堀川新港の造成を計画。現在の本河原町筋から鷺森城趾の前を通って大新田に直流していた小島川(本川・古子川とも呼ぶ)を五、六町北へ掘り替えし、今の新川へ流し、その下流両岸に大新田・北新田六三町を開拓した。 それとともに、小島川の鷺森前の廃川部分を浚せつして堀川港を造り(明歴三年(一六五七)―万治二年(一六五九)河口を大曲川につなぎ、その土砂で旧川筋を埋め立てて本河原町と新地を造り、三津屋浦へも新道で結んだ。
この結果、旧小島川河口左岸の船着場も廃止され、それに代わって堀川新港岸が栄え、港頭には壬生川浦番所が建てられ、鷺森城跡には松山藩各村の年貢米蔵所や会所が設けられ、また船問屋や、商人蔵、市場等が立ち並んだ」、とのことである。
大曲川と堀川港の水路の如何にも不自然な、人工的な地形の「ノイズ」は最近のことではなく、江戸の頃にその原型が出来上がっていた、ということであった。周桑平野は米・麦の大供給地であり、それゆえに旧桑村郡壬生川村の湊、周布郡三津屋村からの湊を整備していったのだろう。桑村には代官所、周布には丹原という在町を開いたということをみても、力の入れ具合がよくわかる。
◆丹生川から壬生川へ
壬生川は、元は数条の川が流れる一帯であったため、「入り川(ニュウガワ)」と呼ばれていたようではあるが、川の上流で水銀が採集されだし、水銀を焼くと赤くなることから、延喜の頃(901~923)には「丹生川」と改名された、と。 丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前があることが多い。 日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる、とWIKIPEDIAにあった。
「壬生川」の初見は一四世紀ころで『伊予温故録』には文和元年(一三五三)に丹生川を壬生川と改めたとある。そのきっかけは文和元年の伊勢神宮の勧請。天照大御神の御妹を祀る「丹生川上の神社」の社号と文字が同じであるので、恐れ多いということで、「壬生川」に改名し。で、「丹」の字を「壬」の字に変えたのは、文和元年が「壬辰(ミズノエタツ)」の年であったため、「壬」の字に変えて「ニュウガワ」と読ませた、とか。なんだかわかりにくい。
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
◆観念寺(東予市);西条市上市1017◆
JR予讃線が川底を抜ける天井川で知られる大明神川が、山地から周桑平野に顔を出す辺り、左岸に丹之上集落とその北の山地のある大明神川の右岸に突き出た支尾根の東端山麓に観念寺がある。
車でこの臨済宗東福寺派のお寺さまに向かうと、竜宮城のような山門と、城のような山門左右の石垣が正面に見える。風格のある構えである。
山門手前の駐車場に石垣と山城の案内があった。
◆観念寺の山門と石垣 (現地案内板)
「市指定文化財 有形文化財建造物 観念寺は延応(えんおう)2年の創建。山門は天保13年再建。唐様で竜宮門に似て風格がある。正面に寺位を示す「南海諸山」、楼上に雄大な眺望を示す「呑海楼」(どんかいろう)の扁額がある。 高石垣は、松山藩4代定直公が「郡普請」(こおりふしん)で築造した。粒の揃った流石を集め、面を小さく奥行きを深くした入念な「野面積」(のづらづみ)の妙技で、300年の天災地変に耐え、当時の姿を残し、美しい。 西条市教育委員会」。
◆象ヶ森城址(ぞうがもりじょうし)
「市指定文化財 記念物史跡 城主は、風早、河野家18将の一人、櫛部肥後守兼久で、天正7年(1579)新居郡金子城主、金子元宅(もといえ)に攻略され、天正8年に討死する。
山城は、海抜185メートルで、庄内側から象、吉岡側がら蝙蝠(こうもり)の姿に見える。曲輪(くるわ)6、堀切(ほりきり)6、土塁(どるい)3、土橋(どばし)1、堀割(ほりわり)1、切岸(きりぎし)多く、横井戸など防御機構の規範を備えている。 西条市教育委員会」。
庄内は、大明神川左岸の旦之上地区に庄内小学校があるので、支尾根の北側、吉岡は山麓の南東に吉岡小学校があるので南側から見たものだろう。
重層の入母屋造りの山門を潜り境内に。本堂左手に本堂、鐘楼堂、仏殿の案内
◆観念寺の本堂及び鐘楼堂
「市指定文化財 有形文化財建造物 現在の本堂は、文化8年(1811年)に再建されたもので、正面入口の桟唐戸(さんからど)や正面と側面の弓形格子の欄間や花頭窓を持った唐様式の建物である。天井板には一枚一枚草花・鳥獣・人物の絵が描かれている。
鐘楼堂は、本堂と書院とを結ぶところに位置している。楼の朱色に塗られた桟唐戸と柱や欄干が一層唐様式の感を深めている。 西条市教育委員会」。
◆観念寺仏殿文化八年上梁棟札(じょうりょうとうさつ)
「市指定文化財 考古資料 観念寺仏殿文化八年上梁棟札は、総高151.2センチ、肩高149.1センチ、上・下幅とも24.2センチ、厚さ2.7センチ、頭部の形状は尖頭で、仕上げは台鉋(だいがんな)、材質は桧である。
棟札には、当時の住職太髄文可(たいずいぶんか)和尚自筆の観念寺改築の状況が表面に、裏面には、同筆による観念寺沿革の概要や再建に至る経緯等が鮮明に記されている 西条市教育委員会」。
本堂に向かって右手の鐘楼堂の前に「観念寺文書」の案内がある。
◆文化財 観念寺文書
「観念寺は、文永年間(1264年~1274年)に越智盛氏の創建にかかり、元弘2年(1332)鉄牛和尚の開基による新居氏の氏寺で、昔は末寺三十ヶ所があって、松山久松候の祈願寺でもあった。
この寺には、足利尊氏の禁制書など同寺の創立から江戸時代初期におよぶ古文書(教書、禁制、置文、下状、譲渡状)102通があり、絹本掛軸に装幀14軸に納められ保存されていて、伊予の豪族神野・越智・新居氏の盛衰を知る必見の資料となっている。
境内には単層入母屋造りの雄大な本堂があり、古来「観念寺の門を見ずして結構をいうな」といわれた名建築の楼門もある。 又、裏山の三基の宝筺印塔は完全に保存された鎌倉時代の素晴らしい石造文化財である。山頂には中世の城象ヶ森城跡があって、近くの山中には片山古墳もある。 西条市教育委員会 観念寺」とある。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に河野通盛ゆかりの社・寺・城、とあったため観念寺は通盛開基の寺かとも思ったのだが、どうも観念寺文書に通盛に関する記載がある、といったことのようだ。「えひめの記憶」でチェックすると、貞治元年(1362)の観念寺文書に「河野通盛、観念寺に禁制を掲げる」といった記載が見つかった。
◆越智氏?新居氏?
足利尊氏に関する記載は見つからなかったが、案内に越智氏創建とあるように、越智氏からの寄進に関する記載は多数見つかった。それはともあれ、観念寺創建の越智盛氏を新居盛氏と記載する資料もある。観念寺創建は新居一族による、との記述もある。越智?新居?少々混乱。
ちょっと整理すると、越智氏は伊予の豪族がその祖として挙げる古代の豪族。一族で武士団化したものもあるだろうが、河野氏が登場する頃に威を張るといった勢力としては登場しない。
一方新居氏は、その祖を他の豪族同様、越智氏とし、その氏族には当初越智を名乗る支族もある、という。Wikipedia1に拠れば、新居氏とは「古代から中世にかけての伊予国(愛媛県)の豪族。古代の豪族越智(おち)氏の流れをくむと伝えられる。平安時代の中期から台頭し,後期には東・中予地方に大きな勢力を有した。新居郡(新居浜市,西条市)を中心にして周敷(しゆふ∥すふ)郡(東予市,周桑郡),桑村郡(東予市),越智郡(今治市とその周辺),伊予郡(伊予市とその周辺)等に進出し,風早郡(北条市)からおこった河野氏と勢力を競った。平安末期には平家との関係が深くなり,その家人化していた」とある。
「コトバンク」には「源平争乱時には,源氏にくみした河野氏と戦って敗れ,乱後は河野氏に服属,承久の乱では盛氏が河野通信軍に属して京方として戦った。また盛氏は桑村郡に観念寺を建立し(建立時期は延応年間(1239‐40)とも文永年間(1264‐75)とも),以後同寺が一族の菩提寺となった」との記述もある。 どうも、観念寺のコンテキストに登場する越智氏とは新居氏と読み替えてもいいような気がしてきた。
本堂裏にある開山堂に向かう。その途中に宝筐印塔が建つ。
◆観念寺の宝筐印塔(ほうきょういんとう)
「市指定文化財 有形文化財石造美術 宝筐印塔とは、塔中に宝筐印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納めた塔とされている。
観念寺には三基並んで建立されており中央の台座は複弁反花(かえりばな)を刻み、両側の二基は二段の段形で、共に側面に格狭間(こうさま)を入れている。 三基とも塔身に種子梵字(しゅじぼんじ)の刻入はない。何人(なにひと)がどのような発願(ほつがん)で何時建立したかは記録がなく定かでないが、鎌倉時代の作で、石造文化財として貴重である。西条市教育委員会」とある。
宝筐印塔の背後に石柱が建ち、「新居盛氏」の墓と刻まれていた。上に観念寺の開基は越智を新居と読み替えてもいいか、とメモしたが、この石柱をみるにつけ開基は越智氏と言うより、越智氏をその祖と称した新居氏によるものと思える。
本堂裏の山道を少し上ると開山堂がある。
◆観念寺関山堂
「市指定文化財 建造物 関山堂の創立年月日は不詳であるが観念寺誌によると寛永八年(一六三一)の再建をはじめ、その後幾度もの修復を重ねて、文政十年(一八二七)に再建の際、屋根は瓦に葺き替えられて現在に至る。 内部の仏壇上に花園春澤(はなぞのしゅんたく)筆「機関」(きかん)の額を掲げ、仏壇には三基の祖師像(鉄牛和尚像 南溟(なんめい)和尚像他)が安置され、その真下に三基の石塔(観念寺・黄竜庵(こうりゅうあん)各歴代の住職)を祀る。 このような形式を持つ開山堂は他にあまり例をみない珍しい建造物である。 西条市教育委員会」とあった。
鉄牛和尚は中興開山の僧。越智郡か桑村郡の菅氏の一族と伝わる。京で臨済宗東福寺での修行の後、元に渡り10年滞在し、正慶元年(1332)帰国の後、ほどなく観念寺に迎えられ臨済宗の名刹としての基礎を築いた。南溟和尚は鉄牛入山以前の僧と。新居(越智)盛氏開基から新居氏3代、または4代後、建武2年(1335)以前に短期間住持であったようだ。
開山堂から山道をしばらく進むが、道標も見当たらなかったため引き返す。帰宅後チェックすると、中世山城・象ヶ森城(吉岡城)址は山頂にあり、また、北東に伸びる尾根上には、5世紀中頃の豪族の墓ではないかといわれる片山古墳があるとのこと。銅鏃が発掘されたとあった。
◆象ヶ森城
築城年代は不明。南北朝時代に重見通宗によって築かれたと伝わる。重見氏は得能氏の一族で、重見氏の通宗が祖とも。 その後、城は案内にあった櫛部氏(櫛戸とも)の居城となり、櫛部肥後守兼久の時、天正7年(1579年)金子城主金子備後守元宅に後略される。防戦かなわず、河之内村に逃れ、後に近田ヶ原城主近田三郎経治を頼るも、天正8年(1580年)金子元宅の近田ヶ原城攻撃により近田氏と共に櫛部氏は自刃して果てた。
河野氏との繋がり具合はほどほどではあったが、風格のあるお寺さまに出合え、気持ちも嬉しく、次のゆかりの地大智寺に向かう。
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
◆大智寺(東予市):西条市石田844◆
県道144号が中山川に架かる吉田橋を渡る北詰を左に折れ、県道149号に乗り換えてすぐ、中山川の堤から右に入る道に入り、右手に結構大きな池を見遣りながら進み、池が切れるとほどなく大智寺がある。臨済宗東福寺派のお寺さま。 境内に入り本堂にお参り。『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に、「貞治年間(1362から1367)大智寺(吉井)創建」とあったので、何らかの案内でもないものかと境内を彷徨うも、それらしき案内は見当たらない。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には、吉井の大智寺とあり、どこか別のところだろうかとも思ったのだが、吉井はこの辺りの吉田郷と井出郷(小松の古名)を合わせたものであるので、間違いはなさそう。しかし、河野氏の「名残」は何も見当たらなかった。
帰宅後、なんらかの河野氏の名残でもないものかとチェックすると、河野氏ではなく武田氏一族の墓所がある、とあった。甲斐武田氏で有名な武田氏が安芸(広島)にあり、その一族が伊予に移り伊予武田氏を興したとのこと。
◆伊予武田氏
境内墓所に「武田宗家朝倉龍門山城主「武田近江守信勝」天正10年12月8日落城 自刀 難をのがれ幼児、家来に背負われ来住 石田武田家大祖武田源三尉郎信猶(後略)」と刻まれた一族のお墓があるようだ。
伊予武田氏がこの石田の地に移り住むまでの経緯をメモする。武田氏は甲斐源氏の流れ。源平争乱期に頼朝に与し武功を挙げ、甲斐守護職となり、甲斐武田氏が甲斐源氏の嫡流となる。
その後、承久の変などで活躍し安芸守護職となり、時を経て甲斐武田から分かれできたのが安芸武田氏。その安芸武田家が大内氏に敗れ、一族が伊予に逃れ、伊予武田氏の祖となる。越智郡玉川の里(龍岡)に移り住んだ伊予武田家は河野家に属し、南北朝の戦い・長曽我部の四国統一・九州戸次川の戦いに参戦するなど活躍するも、第7代信勝(龍門山城主;今治市朝倉龍門山(標高439m)の山頂にある)の時、来島城主「来島通総」の襲撃を受け闘死・落城。5男の信猶がこの石田に逃れ住んだとのことである。
因みに、信勝の兄は、既に訪れた文台城の城主とある。兄と共に、来島通総・秀吉勢と戦ったのではあろう。
追記;伊予武田家系の方から、「丹原町古田新出に、石田に逃げ延びた 武田信猶の分家である武田信盛が開墾した地があり、宗家の住居や顕彰碑が残っております」とのコメントを頂いた。
先月田舎に戻った折、ご案内頂いた顕彰碑を訪れた。
大智寺に一族の墓所があった。顕彰碑を探し大智寺近くを彷徨う。近くにはみつからない。偶然、大智寺から北東に少し歩いた、西条市石田545の辺りに武田源三郎尉信猶墓が祀られていた。
が、ご案内頂いた信勝公の顕彰碑が見つからない。この辺りに住所は「石田」「新出」とあるので間違いないのだが?と、あれ?ご案内頂いたのは「石田」ではなく「古田新出」。
地図で古田新出をチェック。国土地理院の標準地図に今治小松自動車道の東予丹原ICの北、新川の右岸に古田新出がある。武田信盛公頌徳碑と刻まれた石碑が古田新出集会所(西条市丹原末古田35-4)傍に建っていた。
◆石田
大智寺のある石田は中山川の氾濫原に残る微高地集落である。石田は「手漉き和紙」で知られていた、という。中山川の伏流水が湧き出る豊かな水に恵まれてのことだろう。堤防から大智寺に向かう途中に見えた大きな池も「ひょうたん池」と呼ばれる中山川の伏流水の湧水池であった。大智寺には石田和紙の先覚者森田重「頌功碑(しょうこうひ)」が建てられていたようだ。最盛期は50軒を超えたという紙漉き場も現在は1軒残るのみ、と言う。
今まで東予市(一部丹原)、現在の西条市西部に残る河野氏ゆかりの地を時系列で巡ってきた。ために、場所が北へ南へ、西へ東へと飛び散っている。ここで周桑平野の地形と、それにともない開かれた集落を整理しておく。
◆周桑平野の地形と集落
「えひめの記憶」をもとにまとめると、「周桑平野は石鎚山脈と高縄山地のなす狭隘部の湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜する沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅海岸となっている。古来より米・麦の大供給地であった。
江戸の藩政時代に、桑村郡二六村と周布郡二四村が松山藩領で、別に周布郡一一村は西条藩領を経て小松藩領として独立し、近代には松山市・西条市・今治市に囲まれる周桑郡となり、そのうちの壬生川町が壬生川市、東予市となり、現在は西条市となっている。
◇周桑の農業集落
周桑郡の集落はその地形、地理上の立地条件により、農業集落と商業集落に大別される。西部の山麓一帯は大明神川・新川・中山川支流関屋川の形成する扉状地が発達しており、ほぼ五〇mの等高線をはさんで扇状地集落が並んでおり、北から旦之上・上市・安用・徳能・古田・長野・石経・来見などがそれにあたる。その中でも、石経や来見は扇央部に近い乏水地帯で、むしろ松山よりの金毘羅街道の宿場集落としの性格が強い。
これらに対し一五m等高線附近は地下水も豊富で国安・新市・安出などの大規模集落を成立させると共に、国安には全国的に知られる手漉和紙農村工業を立地させた。また、これらの平野の中央部へは山麓集落からの新田開拓による分村が多く行われ、安用―安出、徳能―徳能出作、古田―古田新田などがそれにあたる。
中山川氾濫原にも玉之江・石田・吉田などの微高地性集落や、新出などの新田集落がみられる。低湿地の農村集落としては寛永―元禄期にかけての松山藩新田開発による大新田や北条新田などに列状の堤防集落が形成されている。
◇商業集落
周桑郡には古くは南海道官道に沿う周敷駅(東予市周布)や、松山よりの金毘羅街道に沿う大頭・小松、今治―西条街道に沿う三芳・国安・壬生川・三津屋、松山道に沿う丹原など、宿場機能や商業機能を備えた集落が形成されている。その中で小松は小松藩陣屋町として、丹原・吉岡新町は新たに造られた松山藩在町(在町とは商業活動を目して農村地帯につくられた集落)として発達したものである。また、三津屋や壬生川は松山藩の港市として栄えた。藩政時代には代官所(新町・丹原)や浦番所(壬生川)も置かれ、豊かな米・麦の輸送の管理に努めた。
■得能通綱;河野一族。惣領家と別れ南朝の忠臣として活躍する
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には河野通盛に続き、得能通綱の項が記載されていた。
南北朝の頃、武家方についた河野惣領家と分かれ、土居通増氏や忽那氏・祝氏とともに宮方として長門探題・北条時直を破り、伊予を南朝の一大拠点とした武将である。
得能氏は宮方の新田勢に加わり、宮方から離れた足利尊氏の軍勢と湊川で敗れ、比叡山に逃れた後醍醐天皇に従い奮戦を続け、土居氏は北陸に逃れる途中、また得能氏は越前にて討死。伊予を遠く離れた地でむなしくなった。
▼得能通綱:(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼
得能氏は通信と新居氏の女の間に生まれた通俊が桑村郡得能に居住したのに始まる。幕府軍の通盛と対決した元弘の変(1331-1333)では、反幕府軍として挙兵、北条軍を破る。新田義貞の配下に属して活動し幕府軍と戦う。延元2年金ヶ崎城(福井県)にて戦死。常石山に忠魂碑。
関係の社・寺・城;常石山(得能城)(丹原町)
墓や供養塔;常石城(丹原町)西山幼稚園北(丹原町)
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
◆常石山城◆
得能通綱公の忠魂碑があるという常石山に向かう。地図をチェックすると丹原町得能にある。壬生川浦、鷺の森の箇所でメモした新川は常石山の南の山地にその源を発し、常石山の南裾を流れ、丹生川裏に向かう。
常石山への案内の木標
常石山への山道は、等高線が北西に切り込んだ最奥部まではあるのだが、その先、山頂迄の道は表示されていない。所詮、標高163mほどの山である。道がなければ藪を這い上がってもいいか、といった塩梅で、得能地区を進み、成り行きで常石山方向に向かうと「常石山 直進」とある。
どこまで進めるかわからないため、道が山間部に入る手前で車をデポ。
「得能公忠魂碑」の木標
車のデポし、たところから、等高線が北西に切り込んだ尾根の間の道を10分弱すすむと、道端に「得能公忠魂碑左」の木標。しっかりした道でもなく、前途を少々危ぶむが、数分で尾根に向かう整備された道に出る。
常石山
道を上り、尾根道を先端に向かって進む。5分程度で尾根の先端部に到着。車のデポ地からおおよそ20分強で常石山に到着。
◆忠魂碑
尾根の先端部は平坦地となり開けている。そこに大きな石碑が建つ。案内にあった「得能公忠魂碑」である。碑表には「贈正四位得能通綱忠魂碑 陸軍大将 秋山好古書」と刻まれる。日露戦争で騎兵を率い活躍し、退役後故郷に戻り北豫中学(現在の松山南校)の校長をしていた秋山好古陸軍大将の揮毫によるものである。碑裏には上でメモしたように、宮方の忠臣として活躍した得能通綱の事蹟が刻まれている。
この忠魂碑は昭和天皇の御大典(昭和3年)の記念事業のひとつとして企画され、建立には、得能の老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石に巻き、コロをしいて山頂まで引き上げたという。昭和5年に序幕式が執り行われた。秋山好古元陸軍大将も列席した。高さ2m・横幅 1.33mという石碑であった。
■河野氏ゆかりの地を訪ねる■
◆得能通綱・土居通増供養塔◆
常石山を下り、丹原町古田の徳田小学校と保育園の間(小冊子の西山幼稚園北(丹原町)のこと)に得能通綱・土居通増供養塔が建つ。先ほどの常石山での得能通綱の忠魂碑にもあるように、得能・土居氏は南朝方が威を下げるなか、一貫して宮方への忠勤を励んだようであり、『太平記』の中にも、「就中世の危を見て弥命を軽せむ官軍を数ふるに、先つ上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興(中略)、四国には土居得能(中略)皆義心金石の如くにして一度も変せぬ者ともなり」と描かれている。
◆土居氏
伊予国の豪族河野氏の支族。元寇の乱に武功をたてた河野通有の弟孫九郎通成が、伊予国久米郡石井郷南土居に移り、土居氏を称する。
供養塔にあった土居通増は通成の子。後醍醐天皇の宮方に与し、河野氏の同族得能氏、また忽那氏と共に武家方の、宇都宮氏、長門探醍北条時直を撃退、後醍醐天皇の伯耆よりの帰着を兵庫に迎える。
伊予を宮方の重要拠点とするに貢献し、建武の中興が成ると、伊予権介となり、風早郡に反旗をあげた赤橋重時を倒している。
足利尊氏の宮方からの離反により、建武の新政が破れ、河野通盛が足利尊氏から河野氏の惣領職を認められ、帰国して伊予の南朝方を圧した頃は、前述の如く通増は得能氏らと共に新田義貞軍に属して京都にあり、神戸・湊川の合戦、後醍醐天皇の籠る比叡山での攻防戦に義貞に従い足利尊氏と戦うも、利あらず、再起をかけての北陸への退却戦の途中敗死する。
その後も伊予国南朝方として重きをなしたが、一族の惣領が武家方の細川勢と戦い戦死。以後、土居氏は衰退してゆく。
なお、河野通盛ゆかりの地として北条の善応寺が挙げられているが、後日、善応寺の前身であった河野氏の館、それを囲む高穴城とか雄甲・雌甲城をまとめて訪ねることにする。
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