金曜日, 10月 06, 2017

伊予 歩き遍路;五十四番札所・延命寺から五十五番札所・南光坊を打ち、五十六番札所・泰山寺へ

遍路道を繋ぐ散歩も、西予市宇和町卯之町にある四十三番札所・明石寺からはじめ、上浮穴郡久万町を経て三坂峠を下り、松山市街を抜けて、先回は五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺を打ち松山を離れ、今治市にある五十四番札所・延命寺まで繋いだ。

今回からは、逆打ちで辿った六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峰寺への遍路道を繋ぐため今治市から西条市に向かうことにする。まずは五十四番札所・延命寺からはじめ五十五番札所・南光坊を打ち五十七番札所・泰山寺へと辿る。

本日のルート:
延命寺から南光坊へ
大谷越えの道
五十四番札所・延命寺>阿弥陀堂前の曲がり角の道標>三差路の道標>延命寺への逆打ち案内道標>阿方公民館横の道標>角柱道標と自然石道標>地蔵と道標>手形だけの道標>角柱道標と自然石の道標>瀬戸内しまなみ海道高架下の道標>地蔵道標>別宮(べっく)札所案内の舟形石仏>大谷越え(大谷墓園)>山方公民館傍の自然石道標>茶堂橋傍の静堂道標
山路経由の道□
JAおちいまばり乃万支店前の里程石>県道38号・県道156号分岐点の道標 >海禅寺の茂兵衛道標
○大谷越えと山路経由の遍路道が合流○
五十五番札所・南光坊と別宮大山祇神社

南光坊から泰山寺へ
南光坊の南東側に接した道
静道道標>遍路道の合流点へ
高野山別院の南東側に接した道
 片山町一丁目三差路の道標>片山町一丁目四つ辻の道標
遍路道が合流
小泉二丁目の道標3基>五十六番札所・泰山寺>おくのゐん道標>奥の院標石と道標>泰山寺奥の院

延命寺から南光坊へ

五十四番札所・延命寺からスタート
延命寺から五十五番札所・南光坊に向かう。「えひめの記憶」には「延命寺から南光坊への遍路道は二通りある。一つは延命寺裏山の墓地を抜け、阿方(あがた)集落を経て大谷墓園墓地を越え、山方町の茶堂に出る大谷越えの道である。 もう一つは山路経由の県道今治波方港線(38号)を進む道である。現在では県道の利用者の方が多く、大谷越えをする遍路は少ないようだが、大谷越えの方が古くからの遍路道である。2本の道は茶堂橋の所で合流して今治市街地に入る」とある。とりあえず「大谷越えの道」をからはじめる。件(くだん)の如く、「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」の遍路道標を目安に遍路道を辿ることにする。

大谷越えの遍路道

「えひめの記憶」 延命寺から阿方公民館
「えひめの記憶」には延命寺からのスタート地点の道筋を「大谷越えの遍路道には、脇道が幾筋もあるが、道標が多く残されており、迷うことはない。延命寺裏山の墓地から北東へ向かう下り道、阿弥陀堂前の曲がり角に道標があり、さらに下って50mほどの三差路で右折すると左側道沿いに道標がある。田畑の中の道を100m足らず行くと、四つ辻の手前右側に延命寺への逆打ち案内道標がある。さらに100m足らず行くと、右側の阿方公民館横に阿方貝塚の発見者である越智熊太郎の顕彰碑が立っているが、顕彰碑と道を隔てた小川の横、道沿いの植え込みの中に手印だけを刻んだ小さな道標がある」とある。

阿弥陀堂前の曲がり角の道標
「延命寺裏山の墓地から北東へ向かう下り道、阿弥陀堂前の曲がり角に道標があり(「えひえの記憶」)」と記されるルートを探る。Googleの航空写真でチェックすると、お寺の東側に墓地が見える。墓地を抜ける道は見えるが、「北東へ向かう下り道」はよくわからない。とりあえず、取り付き口を探す。
境内の真念道標の東側、境内から墓地に続く道がある。道なりに進むと墓地の真ん中を抜け丘陵東端に進み、南東に道が下る。幾多の石仏が佇む坂を下り切ったところに古めいたお堂・阿弥陀堂があり、そこで道はヘアピンカーブとなって曲がる。曲がり角に道標があった。「北東へ向かう下り道(えひめの記憶)」は「南東に下る」のほうが分かりやすい、かも。文字は摩耗して読めない。

三差路の道標
「さらに下って50mほどの三差路で右折すると左側道沿いに道標がある(「えひめの記憶)」と記される道標は、ヘアピンカーブから北東に進んだ最初の三差路・T字路にあった。手印とともに「ほりえ 大阪北」の文字が読める。「ほりえ 大阪北」は何処を・何を示すのだろう?




延命寺への逆打ち案内道標
「田畑の中の道を100m足らず行くと、四つ辻の手前右側に延命寺への逆打ち案内道標がある(えひめの記憶)」の道標は、三差路の道標を右折した最初の四つ角にある。手印とともに延命寺の文字が刻まれていた。






阿方集会所横の道標
「さらに100m足らず行くと、右側の阿方公民館横(中略)道を隔てた小川の横、道沿いの植え込みの中に手印だけを刻んだ小さな道標がある(えひめの記憶)」と記される道標の手印は、これも延命寺方向を示していた。

阿方集会所横の顕彰碑には阿方貝塚の発見者である越智熊太郎三渓翁とともに越智孫兵衛通勝翁の文字が刻まれていた。石碑に刻まれた内容を簡単にまとめておく。
越智熊太郎
明治11年野間郡縣村の十三代庄屋の息として生まれる。教師・校長と教職に従事。その後、義務教育における優秀な指導者養成の必要性を感じ、越智郡亀岡村に伊予教員養成所を設立し人材の育成に努める。
一方、郷土文化を愛し明治初年に発見されるも放置されていた貝塚を、昭和16年まで四回に渡り発掘調査を行い弥生前期の遺跡と確認。出土品は阿方式土器として考古学界に重視されるに至り、昭和23年阿方貝塚として愛媛県史跡に指定された。
また、延命寺の梵鐘の所でメモした如く、第二次世界大戦に際し軍当局より梵鐘供出を命ぜられるも拒否した。後年は村役場に奉職し地元に尽くした。
越智孫兵衛通勝
寛文年間(17世紀中頃)の野間郷縣(あがた)村の初代庄屋。七公三民といった年貢に苦しむ村民の苦境を、一揆・直訴ではなく智慧をもって一人の死者をだすこともなく救った。松山藩の池普請に際し、竹の筒に昼飯として麦粥を入れるように指示。他村が柳行李で食するのと比して苦境を訴えるアイデアである。普請奉行も感じ入り城主久松公より、六公四民に免下げの沙汰。後年全国的な享保の大飢饉にも翁の努力により犠牲者を出すことなく乗り切った。このことは『伊予義人伝』にも記されている、と。翁は終生村民のために意を注いだ。

「えひめの記憶」阿方公民館から阿片地区を進む
阿方公民館から先の遍路道について、「えひめの記憶」は「遍路道をさらに50mほど進むと、三差路の電柱の根元に角柱道標と高さ30cmほどの自然石の道標が並んでいる。ここからはゆるやかに右カーブしながら、100m足らずのなだらかな上りとなる。
上り切った道の右側に地蔵があり、地蔵の左側には道標が、また右側には舟形地蔵道標が並んでいる。道を隔てた反対側には茂兵衛道標がある」とある。



角柱道標と自然石道標
「遍路道をさらに50mほど進むと、三差路の電柱の根元に角柱道標と高さ30cmほどの自然石の道標が並んでいる(えひめの記憶)」と記す道標は、ゆるやかな坂の右手、電柱に隠れるように立っていた。自然石の道標は手印だけのものであった。





地蔵と道標
次いで「ゆるやかに右カーブしながら、100m足らずのなだらかな上りとなる。上り切った道の右側に地蔵があり、地蔵の左側には道標が、また右側には舟形地蔵道標が並んでいる。道を隔てた反対側には茂兵衛道標がある(えひめの記憶)」とあるお地蔵様と道標に。
道なりに進むとお地蔵様を真ん中に、左手に順路を指す手印と「へん路道」と刻まれた道標、右手には舟形地蔵が見える。舟形地蔵が道標かどうか摩耗して文字などは読めなかった。
また、道を隔てた法面には、法面に埋もれたような茂兵衛道標がある。正面には順路・逆路の手印と「南光寺 延命寺」が刻まれていた。



○「えひめの記憶」阿方地区を進む
「地蔵から100m余東方へ下ると、変則の四つ辻があり、東方に向かう遍路道の右側に手形だけの道標が立つ。さらに100m足らず行くと、右側の塀の前に角柱道標と自然石の道標が並んでいる。この道標は高さ30~50cmほどの小さな自然石に手形だけを彫ったもので、いかにも素朴な彫りである。

手形だけの道標
「地蔵から100m余東方へ下ると、変則の四つ辻があり、東方に向かう遍路道の右側に手形だけの道標が立つ(えひめの記憶)」とある変則の四つ辻、というか五つ辻、「55番南光坊」の案内板の下にあった。手印はほとんど摩耗しているように見えた。





角柱道標と自然石の道標
「さらに100m足らず行くと、右側の塀の前に角柱道標と自然石の道標が並んでいる(えひめの記憶)」とある道標は、角柱には手印と「へんろ道」の文字がはっきり見えるが、自然石の道標は、「道標」と言われなけばそうとは思えない自然の石のようであった。


「えひめの記憶」阿方地区の東端に
「そこから300mほど東へ進むと、田園風景の中に西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)が通っている。ここから南方200mほどの所に阿方貝塚跡が整備されている。遍路道は瀬戸内しまなみ海道の高架下を直進する。ここからは今治市山路(やまじ)である。
高架の下をくぐると、すぐ右側に角柱道標がある。そこからなだらかな上りを40mほど進むと、左側のコンクリートブロツク壁の高さ1mほどの位置にコンクリートの棚が取り付けられ、その棚に3基の舟形石仏が立つ。その中央が地蔵道標である」

瀬戸内しまなみ海道高架下の道標
前方に瀬戸内しまなみ海道の高架を見遣りながら田圃の中を進み、高速道路の高架を潜ったすぐ先に道標がある。手印だけが見える。下半分が無くなったのだろうか。






舟形地蔵丁石と舟形地蔵
高架下の道標からゆるやかな坂を上る途中に3基の舟形石仏が立つ。その中央が地蔵道標とのこと。地蔵道標には「へんろ」の文字が読める。
「えひめの記憶」には「近くの人の話によると、昭和50年(1975)ころから行った墓地整備に合わせて道路を掘り下げ拡張した際、現在地より30mほど東の大谷墓地寄りの峠にあったのを移したという。それまでの道は峠越えの急な細道たったが、切り開かれてなだらかな道になったという」とあった。

えひめの記憶 大谷越え;大谷墓園の丘陵を上る
しまなみ海道に続く高速高架下から上るゆるやかな坂の途中にある地蔵道標から「50mほどの坂を上って下りた右側に別宮(べっく)札所案内の舟形石仏がぽつんと立っている。そこから200m余進むと、今は市営大谷墓地を行く、いわゆる大谷越えにさしかかる。
市の中心街からは裏側の西方向より上る。地元の古老の話では、もともとの遍路道は、墓地西側の下池あたりから、直線的に大谷越えをして斎場横の道に下りていたが、墓地拡張のため消滅したという。今の道は西側の下池から頂上まで曲がりくねりながら上る300mほどの坂道である」

別宮(べっく)札所案内の舟形石仏
大谷墓園の丘陵を望む道端に舟形石仏が佇む。別宮札所案内といった文字は門外漢には読めない。ちなみに「別宮札所」とは今から訪れる五十五番札所・南光坊のこと。というか、正確には神仏混淆の時代、南光坊が別当寺をつとめた別宮大山祇神社のこと。大三島にある大山祇神社を勧請した故の「別宮」の呼称ではある。







大谷越え
墓園拡張のため消滅した遍路道は、現在では「西側の下池から頂上まで曲がりくねりながら上る300mほどの坂道である」とある。下池を右手見遣りながら南に突き出た丘陵端の舗装された道を上り、上り切った先で墓園の中を真っすぐ北に続く道を進み、T字路に。T字路から東に下る道がある。 「えひめの記憶」には「頂上の広場には、古い墓石がまとめて山のように積まれている。下りに入る直前の左奥に7・8区の墓園があり、8区C部の一番下の区画外に2基の新しく造り直された道標が並んで立っている。この2基のもとの道標は、少なくとも昭和61年(1986)までは今治駅裏近くにあったというが、たびたび車に当てられ破損したので、新しく造り替えた。その後JR線の高架工事にともない大谷墓地8区に仮安置しているという」とある。

T字路の箇所に墓園の区画案内があり、それによると8区C部はT字路から下る道のすぐ北とある。整備も進んだのか、古い墓石はT字路辺りにはなく、もっと北にまとめて積まれている。また、区画図にある8区Cの辺りを結構あちこちと彷徨うも、「えひめの記憶」にある道標を見付けることはできなかった。

えひめの記憶 大谷越え;大谷墓園の丘陵を下り浅川に
「下りは、墓園の中の広いアスファルト道を200mほど進んで左折し、斎場横を過ぎ桜並木のトンネルの中を進む。忠霊塔まで下り、左折して浅川西側の集落の中を1km足らず行くと、城の形をした城山ハイツ前の浅川にかかる茶堂橋に至る。
茶堂橋の手前、山方公民館への三差路の角に自然石の道標がある。茶堂橋を渡ると、県道今治波方港線(38号)を進んできた遍路道へ合流する」

山方公民館傍の自然石道標
T字路から一直線に東に下る道を進み、記事に従い忠魂塔を左折、さらに突き当りを右折し道なりに進むと、今治を走る度に気になっていたお城のような建物〈マンション?〉の手前三叉路に自然石の道標があった。「へんろ」の文字が読める。
三差路の先に浅川が見え、茶堂橋が架かる。「えひめの記憶」には「ただ現在は、浅川西側に道が出来たことや県道に出ると車両の通行が多いためであろうか、茶堂橋を渡らずにそのまま進み、200mほど下った朱塗りの弥栄(いやさか)橋を渡って県道に出る遍路もいるようである」ともあった。

茶堂橋傍の静堂道標
浅川に架かる茶堂橋を渡り県道38号に出る。橋の下流袂に立派な道標が立つ。 「えひめの記憶」には「茶堂橋の東たもと、県道38号の左側に、地蔵と並んで「延命寺」の部分を彫り直した静道道標がある。これも昭和62年には、地蔵の立つ傍らに横倒しで埋もれかけていたが、平成元年8月には浅川整備工事で陽の目を見たという」とある。
正面には「遍んろ」の文字、西面には硯の形の枠の中に延命寺と刻まれる。「圓明寺」を彫り直したということだろうか。この地で大谷越えと山路経由の遍路道が合流する。
静道
「三好保治の研究によると、静道(1815~1872)は今治の人、尚信、のち静道尚信と称し、「金吉屋静道」「寛譽静道」「心精院静道」「静道居士」「光風亭静道」「金川堂静道」「雪霽庵静道」などの異名を持った。先祖は今治城下鍛治町に住む鍛冶職人で、屋号は金吉屋、在家仏者だと思われる。弘化2年(1845)から没年までの27年間に12種35個の石造物を今治市内外に残しているという。南光坊から五十九番国分寺に至る道筋に、連続した内容と思われる俳句が彫られた静道道標が7基ある(えひめの記憶)」と記す。

山路経由の道
ついでのことでもあるので、茶屋橋南詰で大谷越えの遍路道と合流する、延命寺から山路経由の遍路道もトレースしておく。

えひめの記憶 延命寺から県道38号を進む
「山路(やまじ)経由の道は県道38号を東へ進む。この道はかつての今治街道でもある。延命寺参道入口から200m余進むとJA越智今治乃万支所がある。この駐車場に、昭和55年(1980)に建てた「松山札の辻より十里の地 野間郷脈村一本松」銘の標石が立っている」

JAおちいまばり乃万支店前の里程石
JAおちいまばり乃万支店の駐車場、県道38号傍に大きな里程石が立っていた。傍にあった案内には、「阿方の十里石 松山藩主加藤明公が藩里程標石を定め、此の地に一本の松の木を植えられ、その後寛保元年(1741)に「松山札ノ辻より十里」と書いた立石が建てられた。
以降村人や旅行者から一本松の十里石と大変親しまれていたが、戦後道路拡張等により破損紛失(一部現存)したものを(中略)復元したものである。 松山札の辻(現在の松山西堀端北角)から十里(約40キロ)のところであります」とあった。

えひめの記憶 県道38号・県道156号分岐点に
「この標石(私注;上述の里程石)から東方へ800mほど進んで瀬戸内しまなみ海道の高架下をくぐり、さらに200m余東に行くと山路の分岐点に至る。左は県道38号、右は今治街道で現在の県道桜井山路線(156号)である。このあたりは藩政時代の今治藩と松山藩の境界にあたり、領界石や道標が建てられていた。 今治藩の領界石は東700mほどの三島神社境内へ、松山藩のものは北約300mの厳島神社入口石段前に移されている。また茂兵衛の道標と延喜観音や乃万神社を案内した静道建立の道標は、この分岐点に残っている」

県道38号・県道156号分岐点の道標
県道38号と県道156号の分岐点に茂兵衛道標と静道道標が立つ。静道道標には北に向かい「乃万神社一廿丁」「えんぎ観音廿三丁」といった文字が読める。茂兵衛道標には順逆の手印とともに南光坊と延命寺の文字、茂兵衛の文字が刻まれた面には「右 金ぴら」らしき文字が読める。



三島神社
県道38号を浅川に沿って少し進み、浅川に支流が合わさる手前を南に下った今治市馬越町にある。横に鯨山古墳との石柱の建つお堂・安養寺がある。里程石には「従是南 今治領」と刻まれていた。






厳島神社
三差路から県道38号を東に少し進み、北に折れた今治市山路にある。神社参道石段前に「従是西 松山領」と刻まれた里程石があった。



乃万神社
県道156号を南に下ると今治市神宮に野間神社がある。その社だろうか
延喜観音
先回の散歩でメモした延喜点交差点を北に上った乗禅寺のことだろう。

えひめの記憶 県道38号を浅川に沿って進む
「遍路道は前記分岐点(私注;県道38号と県道156号分岐点)から左側の道、県道38号を浅川沿いに行く。800mほどで海地橋を渡り浅川の東側を進む。海地橋は昭和63年(1988)にできたもので、それまでは100m余先にある海禅寺橋(昭和61年には海路橋となっている)まで川の西側を通り、ここで橋を渡るのが元の道で、海禅寺の本堂左前にある大師像横の茂兵衛道標もこの海禅寺橋の辺りにあったものと思われる」

海禅寺の茂兵衛道標
県道38号を浅川に沿って左岸を進み、支流が合流する先で海路橋を渡り右岸に移る。海路橋から次の橋である海禅寺橋を渡り北に向かい海禅寺の茂兵衛道標を訪ねる。
年を経た仁王さまが見守る仁王門を潜り境内に。本堂前の大師像の横に上下を繋ぎ合わさせた痕跡の残る道標があった。「五十四番 延命寺」「五十五番 南光坊」といった文字が読める。
「えひめの記憶」には「この茂兵衛道標は下から三分の一ほどで折れたのをコンクリートで補修している。この道標は昭和62年には、海禅寺参道口浅川西縁の地蔵の横に折損したまま放置されていたが、平成3年1月には境内に移されたという」とあった。

えひめの記憶 大谷越えと山路経由の遍路道が合流
現在の海地橋を渡る遍路道は海禅寺下の浅川東岸の県道を300m余進み、茶堂橋のたもとで大谷越えの遍路道を吸収する。茶堂橋の東たもと、県道38号の左側に、地蔵と並んで「延命寺」の部分を彫り直した静道道標がある。

大谷越えと山路経由の遍路道が合流
茶堂橋傍の静道道標は、大谷越えの遍路道でメモした。ここで延命寺からのふたつの遍路道はひとつになり、南光坊へと進む。

えひめの記憶 遍路道合流点から南光坊へ
「茶道橋から100mほど進むと市道宮脇片山線に合流する。この道は県道38号と重なった道である。合流した道は、今治北高等学校を左に見て、浅川東岸から離れ北東に進む。
JR線の高架下をくぐって別宮町へ直進し、「別宮(べっく)さん」の呼び名で親しまれている大山祇(おおやまずみ)神社の社叢を見て右折すると南光坊に至る。この間およそ500m、今では道が整備されここへ至るには、JR線高架下をくぐる地点を過ぎてからすぐ右折するなど幾筋もの道がある」

五十五番札所・南光坊と別宮大山祇神社
県道38号を浅川に沿って東に進み、今治北高を北に見る辺りから道は浅川から離れるが、遍路道は道なりに進み、予讃線の高架を潜り国道317号との交差点を右折。国道の西に沿って建つ南光坊の仁王門を潜る。
仁王門を潜ると直ぐ右手に大師堂、正面に本堂、左手に護摩堂、金比羅堂が建つ。御参りをすませ、南光坊に隣接する別宮大山祇神社に向かう。その昔、神仏習合の時代、南光坊は別宮大山祇神社の別当寺であり、寺社は一体のものであった。
大山祇神社
南光坊には特に案内らしきものはなかったが、社には「日本総鎮守 三島地御前 別宮大山祇神社 祭神は大山積大神。天照大神の兄で山の神々の親神であるとともに、日本民族の祖神として地神、海神兼備の大霊神とされる。日本総鎮守たる所以である。
創建は和銅5年(712)越智玉澄公により大山祇(大三島町 元国幣大社)の地御前として勧請創建され、伊予国一の宮の別宮として崇敬されている」 檜皮葺の拝殿は落ち着いて美しい。天正三年(1575)村上通総により再建された、と。当地方唯一の純和様神社建築とのこと。純和様とは寺院の場合、鎌倉時代に中国から伝わった建築様式以前の建築様式のことを意味する(Wikipedia),とのこと。神社も同じコンテキストで考えればいいのだろうか。

「えひめの記憶」には「現在の五十五番札所は別宮山南光坊であるが、もとの札所は今治より海上七里にある大三島の大山祗神社(三島ノ宮)であった。その大三島町宮浦には「別宮迄七里」の徳右衛門道標が立っている。
今治市にある「別宮大山祇神社」は、この大三島の大山祇神社を勧請し建立したもので、通称「別宮さん」と呼ばれている。この本社と別宮に関して、『四国遍路日記』には「此宮ヲ別宮卜云ハ、爰ヨリ北、海上七里往テ大三島トテ島在リ、此神大明神ノ本社在リ。今此宮ハ別宮トテカリニ御座ス所ナリ。本式ハ辺路ナレバ其島へ渡。爰二札ヲ納ルハ略義ナリ。」とあり、『四国邊路道指南』には、「是はミしまの宮のまへ札所也。三島までハ海上七里有、故に是よりおがむ」とある。
また南光坊は、もと大三島大山祇神社の属坊として宮浦に建てられた24坊の一つであるが、正治年間(1199~1201)に別宮大山祇神社の別当寺としてこの地に移された8坊の一つで、明治維新の神仏分離によって別宮神社と分離し、独立して五十五番札所となったという。現在、南光坊は別宮大山祇神社と道路を挟んで隣接し、八十八ヶ所の中で「坊」の名で呼ばれるのはこの南光坊だけである。
南光坊では、大師堂と護摩堂以外は戦災で焼失し、本堂などは再建されたものである。大師堂の梁(はり)から柱、軒裏と至る所に古い板札から新しい紙札まで多くの納札が貼られている」と記される。
境内の道標
「えひめの記憶」に「北東側の県道から仁王門に入る手前の石橋の右に、延命寺案内の静道道標がある。中央部で折れたものを補修して継いであるが、元は宮脇通り南光坊北入口町角に建立されていたという。
右手の護摩堂前に、泰山寺・延命寺を案内した道標がある。また境内を挟んで納経所寄りには、「(大師坐像)従是泰山寺十八丁…」の道標がある。南光坊から泰山寺までは直線距離でも3km近くある。この道標は泰山寺から18丁の辺りにあったものが移されたのであろう」と道標について記す。
仁王門の静道道標
仁王堂右手に「遍ろ道 延命寺」「世話人 静道尚信」と刻まれた立派な道標が立つ










金比羅堂前の道標
「えひめの記憶」には護摩堂とあったが、護摩堂隣の金比羅堂の前に道標があった。手印とともに五十六番札所・泰山寺と五十四番札所・延命寺の順逆遍路道が示されるが、手印とお寺様の文字に手を加えているようで、少々違和感を抱いた細工ではあった。






納経所近くの道標
道標には「従是泰山寺 十八丁」と寄進者の名が刻まれるが、文字の部分に白い塗装のようなものが施され、見やすくはあるが、少々味気ない。








納経所前から境内を出た角の道標
「えひめの記憶」には、「納経所横を南東側に出た所に大正13年(1924)に建てられた道標がある。道標の手印は南東を指し、その下に「高野山別院・五十六番札所」と刻字している」とある。
記事に従い納経所と駐車場の間の道を境内を出ると、境内に沿った道の四つ角に道標があった。手印とともに、「五十六番札所 高野山別院」の文字が刻まれる。
文字を読んだときは、高野山別院が五十六番札所?と混乱したのだが、五十六番札所(泰山寺)と高野山別院を併記したものだろうと納得。


南光坊から泰山寺へ

えひめの記憶 南光坊から今治市片山町への二つの遍路道
「ここから泰山寺への道は二通りある。2本の道は100mほどの間隔で、ほぼ平行に南西に延びた道である。一つは南光坊の南東側に接した道である。もう一つは道標の手印に従って高野山別院まで進み、その別院の南東側に接した道である」とある。

南光坊の南東側に接した道

えひめの記憶 南光坊の南東側に接した道
「現在の遍路道は南光坊の南東側をすぐ右折して南西に向かっている。この道を150mほど行くと今治小学校北西角に田坂邸(南大門3-1-10)があり、その庭に静道道標がある。昭和46年に邸前の道路拡張工事で倒されたものを、道標の施主が先祖であった田坂家が供養のためと邸内に安置したとのことである。
南西にまっすぐに延びた道は、平成2年に高架になったJR線の下をくぐり、明徳高等学校の北西側を通ってさらに南西に直線的に進み、国道196号の手前150mほどで左折して、この道の南東側をまっすぐ南西に延びてきているもう1本の道へ合流して泰山寺に向かう。

静道道標
南光坊の境内に沿った道を南西に進むと今治小学校北西角の対面に御屋敷がある。そこが田坂邸。邸内とあるので道標は見れないだろうと思っていたのだが、道標は門の近くにあり、少々失礼とは思いながらも、道路から写真だけは撮ることができた。

遍路道の合流点へ
南西に延びる一直線の道を進み、JRの高架を潜り、浅川の支流を越え、先ほど立ち寄った、里程石のある三島神社の南の馬越町を越え、片山町1丁目のT字路に。そこを左折すると次の角で、下に記すもうひとつの遍路道と合流する。

高野山別院の南東側に接した道

○えひめの記憶 高野山別院の南東側に接した道
「高野山別院の南東側を南西に向かう道については、昭和9年(1934)刊の『同行二人四国遍路たより』に、泰山寺への順路として「高野山別院の門を出て右へ線路を越えて参ります」とある。別院の門は南東側にあり、「右へ」は南西方向を指している。
この道は今治駅舎の辺りを越えて今治西高等学校の北西側を通る道に続いている。明治31年(1898)測図の地形図によると南光坊(別宮山)の南東側を一直線に南西に向かう道があるが、昭和3年(1928)測図の地形図では、この道は高野山別院の南東側を進む道で、JR線で分断され、迂回して駅裏まで進むようになっている。
これらは共に「今治中学」(現今治西高等学校)の北西側で接する道となる。また、両地形図ともに、先述したもう一本の道よりこの道の方が道幅広く描かれており、主要道路であったことを推測させる。『今治街道』では、この道が旧街道であり「遍路道と一致している」と記している
遍路道は今治駅裏から今治西高等学校前を通って南西に直進する。1.5kmほどで出合う県道桜井山路線を横切り100mほど進んだ三差路に願主小川の道標がある。さらに100mほど南西進した四つ辻の電柱の横にも、同形で同じ願主の道標がある。ここで北西側から来た前述の道を吸収して、さらに200m足らず南西に進むと国道196号に至る」

片山町一丁目三差路の道標
前述の遍路道と平行に南西に一直線に進み、県道156号を越えてほどなく片山町一丁目の三差路角に小振りな道標があった。順路を示す手印面には「小川」、南側の面には「へんろ」の文字が読める。






片山町一丁目四つ辻の道標
三差路を脇道に入ることなく道なりに進むとほどなく四つ角があり、角に立つ電柱の裏に道標がある。三差路の道標と同じく手印面には「小川」、道に面した側には「へんろ道」の文字が読める。手印は四つ角を右折と指すが、この地点が南光坊からのふたつの遍路道の合流点であり、道はここから南西に続くことになるので、手印方向は間尺に合わない。逆打ちを指しているのだろうか。

えひめの記憶 片山町から五十六番札所・泰山寺へ
「国道を横切り100mあまり南西に進むと、右側に手形のみを刻む小さな自然石の道標と角柱道標の2基が並び、向かい合うように道の左側にも手形のみの道標がある。国道からわずかに入ったところで、この辺りの道の両側には田畑が残り、西側の山一帯は「市民の森」、それに隣接するのが瀬戸内しまなみ海道の起点今治インターチェンジである。3基の道標から200mほど進むと左側に駐車場があり、道を横切って右側の細い道を50m余進んで石段を上がると泰山寺に至る」

小泉二丁目の道標3基
合流したふたつの遍路道はひとつになって南西に進み国道196号を横切り、更に南西に100mほど進んだ小泉町2丁目の道路右手の水路脇、ガードレールの前に手印だけの自然石の道標、その横に角柱い手印と「へんろ道」と刻まれた道標、その道の左手にも手印だけの自然石道標があった。3基も同じところにある?どこからか移されたのだろうか。

五十六番札所・泰山寺
3基の道標から道なりに進むと泰山寺の駐車場前に着く。狭い参道を進み、石段を上り漆喰塀に囲まれた境内に。本堂、その隣の大師堂に御参り。
寺には特に由緒案内は見当たらなかったので、Wikipediaによると「泰山寺(たいさんじ)は、愛媛県今治市小泉にある真言宗醍醐派の寺院。金輪山(きんりんざん)勅王院(ちょくおういん)と号す。本尊は地蔵菩薩。
寺伝によれば弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に、蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていた。空海は村人に堤防を築かせ、完成後に河原で土砂加持の秘法を行った。そのとき満願日に空中に延命地蔵菩薩が現われた。そこで空海は地蔵菩薩像を刻み、堂宇を建て本尊として安置したという。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。
天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度の兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築された」とあった。
泰山寺の道標
「えひめの記憶」には「今治市小泉にある泰山寺には弘法大師ゆかりの松といわれる不坊松(私注)があった。昭和53年(1978)の松くい虫被害で枯れたものだが、目通り2.2m、枝張り15mの大樹で4代目であったという。泰山寺入り口の石段下には、平成2年までは奥の院への道標があり、さらに境内左側には先記(注;伊藤萬蔵の建てた道標)の道標と徳右衛門道標が並んで立っていたという。
平成13年現在、寺は改装中のため、奥の院への道標は不明、徳右衛門道標は新しい駐車場のほうへ移され、刻字を下に寝かされている。この徳右衛門道標は亡き子6人の戒名が彫られた供養碑でもあり、徳右衛門が道標を建立する機縁を示す貴重な道標でもある」
伊藤萬蔵の道標
記事にある境内、と言うか、狭い参道入ロにある馬頭観音前に道標が立つ。正面には「四国五十六番 泰山寺」、参道側には手印とともに、「伊藤萬蔵」の文字が刻まれていた。










徳右衛門道標
徳右衛門道標は、駐車場の道路に沿ったフェンス前に横倒しで置かれていた。上面には地蔵と手印が見える。脇に書かれている文字は読めなかった。 ◇奥の院への道標
上記記事に寺は改装中のため不明とあった奥の院への道標は後述する。


えひめの記憶 泰山寺奥の院へ
「泰山寺から奥の院までは200m余である。寺の正面の石段を下りて右折し家並みの中を進む。途中、道の左側の塀沿いに道標がある。さらに30mほど進むと「泰山寺奥之院龍泉寺」の案内標石もある」

おくのゐん道標
境内に沿って南西へと、地図で確認した奥の院への道を進む。当初予測した曲がり角には道標が無く、諦めかけていたのだが、四つ角を右折し奥の院へと北東に進む道の左手、塀沿いに道標があった。「おくのゐん」との文字が読めた。






奥の院標石と道標
道を進み右手に折れると奥の院に向かう三差路にふたつの石柱が見える。左手には記事にある「泰山寺奥之院龍泉寺」と刻まれた案内標石。右手の道標には「四圀五十六番奥之院道 約一丁」と刻まれる。この道標は「えひめの記憶」に寺改装中のため不明とあった奥の院への道標だろう。


泰山寺奥の院
土径を上り、一宇からなる奥の院に。お堂の正面にてお参りをし、上を見上げると魅力的な円形の菩薩画が架っている。横にある説明によると鏝(こて)絵とあり、「鏝絵は左官職人が道具の鏝を用いて福を招き災いを防ぐ七福神や亀・鶴・龍に虎等を白壁に漆喰を塗り上げ、浮き彫様に仕上げたもので、高度な技術を要し、江戸時代末期から明治・大正時代にかけて各地で盛んに造られたといわれています」との説明があった。

今回の散歩で今治市街を抜けた。次回の遍路道は高縄山地が今治平野に落ちる丘陵地帯を辿る遍路道となる。

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