丘陵越えとはいいながら永福寺への道は標高90mほど、仙遊寺も標高280mほどである。残暑とはいいながら、酷暑を過ぎた季節となった。のんびり丘陵への遍路道を辿ることにする。
本日のルート;
■五十六番札所・泰山寺から蒼社川へ■
小泉七丁目四つ辻の道標>酒蔵隅の道標2基>蒼社川へ
■蒼社川から五十七番札所・永福寺へのふたつの遍路道■
□石清水八幡経由の遍路道□
四村の道標>五十嵐の道標>石清水八幡表参道口>石清水八幡拝殿>五十七番札所・永福寺への下り道
□玉川回りの道□
お旅所橋傍の道標>八幡集落の道標>八幡神社参道裏口に>五十七番札所・永福寺
■五十七番札所・永福寺から五十八番札所・仙遊寺へ■
舟形地蔵丁石>「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑>犬塚池の道標>大塚池土手手前の舟形地蔵>犬塚池から車道との交差点に>土径を進み再び車道に>静道道標と丁石、遍路墓>五十九番札所・国分寺への分岐点>十八番札所・仙遊寺
■泰山寺から蒼社川へ■
○えひめの記憶 泰山寺から蒼社川へ○
「栄福寺への遍路道は、泰山寺下の駐車場から100mほど南西へ向かい、奥の院から下りてきた道と交差する。その交差する所にある友澤邸(小泉7-36)北角の四つ辻に天保15年(1844)建立の道標がある。道標に従って左折し、まっすぐに南東へ向かう。まもなく田畑の中の狭い田んぼ道を行く。400m余り進むと、矢野邸(小泉4-10-8)横の四つ辻に出る。その道に面した古い酒蔵の隅を切り込んだ所に、2mを越す静道道標が立ち、手印が刻まれた地蔵道標が安置されている。さらに南東に進む道は、家並みの中に入って舗装はされていても、昔ながらの細い道であり、国道317号も横切ってそのまま蒼社川(そうじゃがわ)へと向かう」
小泉七丁目四つ辻の道標
酒蔵隅の道標2基
大きい道標が静道道標。「右 和霊大明神 三十丁 奈良原本社 五里」と南東を指し、南西へと直進する面には手印とともに「へんろ道」と刻まれている。2mほどのあるかと思われる立派な道標である。
◇和霊神社
南西に進んだ今治市玉川町法界寺に和霊神社が見える。そこだろうか。そこであるとすれば、当初法界寺村の庄屋の屋敷神として宇和島の和霊神社から勧請し祀られたものが、人々が崇敬すること篤く、今治藩主により現在の地に社殿が建てられた、とのこと。
祭神は神話に登場する神ではなく、宇和島にある本社と同じく宇和島藩家老の山家清兵衛公頼公。藩政に殉じた公の徳を多とし、宇和島藩の枠を越え、遠くは広島までの百姓・漁民・町人といった大衆の守護神として信仰を集めたようである。
◇奈良原神社
かつて今治市玉川町の標高1041m、楢原山にあったが現在は別宮大山祇神社の境内社として遷座しているようだ。
開山は役小角とされ、鎌倉時代以降山岳修験の霊山として多くの行者が常住した、とのこと。西条市丹原にある西山興隆寺から高縄山地に取りつき、東三方ヶ森へと尾根道を進み楢原山へと向かう修験の道もあった、と言う。
社への崇敬は昭和30年(1955)代にも400を超す講中があったと言うが、氏子の今治市内への移転、社の崩落もあり、別宮大山祇神社に遷座したとのことである。昭和9年(1934)には国宝「伊予国奈良原山経塚出土品」が楢原山頂で発見されている。
道標にあったふたつの社をチェックすると、共になんとなく気になる社であった。機会を見て歩いて見ようと思う。予期せざる贈り物を得た心持である。
蒼社川へ
●遍路墓
「えひめの記憶」には「蒼社川の土手沿いに老人ホーム日高荘があり、同じ敷地内の遍路道沿いに遍路墓が15基ほど整理されて並び、「四国遍路無縁墓地」の立て札が添えられている。歩き遍路がふと手を合わせながら通り過ぎると聞く。泰山寺からこの堤までおよそ1kmである。日高荘前の土手を上がると、幅100m余の蒼社川である」と記す。
●蒼社川左岸の道標
「土手沿いに走る道のガードレールの川側に、道標などの石造物を整理して並べている。1基は嘉永3年(1850)のもので、「遠山に眼のとどきけり秋の月」の俳句も刻まれた静道道標である。道標の手印は川を渡る方向を指している。その脇に4基の舟形地蔵、左端の地蔵は6角形の台石の上にある。少し離れて左にもう1基道標がある(えひめの記憶)」と記される道標に向かう。
日高荘脇の土手に上る道を上り切った川傍のガードレールの中にいくつもの石碑・石仏が立っていた。
◇静道道標
◇角形道標
◇対岸の道標
道標には川に向かって北を示す手印とともに泰山寺、西に向かっては永福寺と文字が刻まれていた。道標を囲む石碑、石仏は「えひめのい記憶」に記される舟形石仏や遍路墓であろう。
●蒼社川
Wikipediaに拠れば、「高縄半島のほぼ中央、松山市、東温市との境の白潰(しろつえ)の北壁に源流を発し、北流し、鈍川渓谷を形成。支流を集めつつ、今治市法界寺付近で今治平野に流れ込み、北東に流れを変え、やがて燧灘に注ぎ込む。上流は県立自然公園に指定されている。
高縄半島の上流域の大きく花崗岩質でもろく風化しやすいため、過去、藩政期から幾度か洪水の記録があり、川床の掘削を行った。幾度か上流に植林が試みられたが、決定打にはならなかった。
一方、「恵み」の部分として、洪積平野として今治平野を形成したほか、今治に水資源を供給し、タオル製造業や染色業の発達を促した。1971年(昭和46年)には上流に玉川ダムが整備され、旧・今治市とその周辺の自治体に農業用水、工業用水及び上水を供給している。
古くは「総社川」と記した。なお、今治市蒼社町は1976年(昭和51年)の住所表示によって作られた町名である」とある。
タオル製造業や染色業の発達を促した、蒼社川の水質が高度成分の低い軟水であり、この軟水を用いて晒しを行うことで繊細で柔らかな風合い、鮮やかな色が表現できることにあるようだ。
白潰は上述東三方ヶ森の西にあり、水源はこの東三方ヶ森とされる。また、今治平野に出る法界寺地区にはこれも上述和霊神社がある。蒼社川の源流点にも行ってみたくなった。
■蒼社川から永福寺へのふたつの遍路道■
「えひめの記憶」には「蒼社川を渡ってから栄福寺への道は二通りある。一つは四村(よむら)、五十嵐(いかなし)を通って、石清水八幡へ北東側から上り南西側の中腹にある栄福寺へ下る道、もう一つは谷山川沿いに玉川町に入り、石清水八幡の南西側に回って栄福寺へ上る道である」とある。
□石清水八幡経由の遍路道□
どうせのことならふたつの遍路道をカバーする。まずは石清水八幡の建つ丘陵を越えの道を辿る。
○えひめの記憶 蒼社川右岸から四村(よむら)・五十嵐を経て
石清水八幡表参道へ○
「先ず四村、五十嵐を通る道だが、天保7年(1836)の記録『四国遍路道中雑誌』には「惣蛇川越而よ村少し行きていがなし村二致〔到〕る」とあり、今も四村、五十嵐に道標が残っている。(中略)この四村を抜けて五十嵐へ続くかつての遍路道を明確にすることはできない。そこで現在の道で道標をたどることにする。
蒼社川を渡った徳重から谷山川沿いに500mほど進む。そこで山手橋を渡ってきた県道今治丹原線に合流する。左折して300mほど南東に進み、県道から分岐して八幡山に向かって右折する。田んぼの中を100mほど進むと、秋山邸(四村173)北隅の四つ辻に、頭部が折損した道標が立っている。
そのまま集落の中を100mほど直進すると三差路があり、左折して佛城寺前を過ぎ、次の四つ角を右折して八幡山に向かって直進すると山の麓を回る道に突き当たる。桧垣邸(五十嵐444)前に道標があり、左に150m足らず行くと石清水八幡神社参道表口である。
四村の道標
要は作物の育たない土地に、遍路の接待にと育てた芋が実る。遍路は美味しく食べるのだが、そうでない人にはなんの味もしない芋であった、と。
五十嵐の道標
○えひめの記憶 石清水八幡表参道から八幡山を越えて永福寺に○
また、『四国遍礼名所図会』に「石鳥井有り。是より弐町坂也」。とあるが、正面には延享2年(1745)建立の古びた石の鳥居があり、道はそこから左右にくねりながら勾配のきつい石段が200m余り続いて山頂の八幡神社に至る。樹々に囲まれた深閑とした上り道である。
八幡山の山頂からの眺めを『四国遍路日記』では、「此山ヨリ見バ今治三万石ヲ目ノ下二見ナリ。誠二碁盤ノ面ノ様ニテ田地斗也。真中二河在、北ハ海手向ヒハ芸州ナリ」と記している。今でも今治市内から瀬戸内まで一望下にすることができる風光の地であるが、今は茂った木々が眺めをさえぎっている山頂からは滑り降りるような道や石段が南西に下り、150mほどで栄福寺に至る」
石清水八幡表参道口
五十嵐の道標のあるT字路を左折すると、ほどなく石清水八幡の表参道口に。 正面に石灯籠を左右に配した鳥居が見える。その手前右手に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と刻まれた石碑が立つ。
●表参道口の道標2基
石清水八幡拝殿
●石清水八幡宮
参道表口の石柱に「伊豫一社五十七番石清水八幡宮表口」と刻まれていたように、神仏混淆の頃は、この社が五十七番札所であった。現在の札所・永福寺は別当寺であった。五十五番札所である南光坊と別宮大山祇神社との関係と同じである。
◇河野深躬
河野深躬は河野氏の祖とされる河野玉澄から数えて4代目当主とされるが、鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は善応寺の一帯。伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。歴史に登場するのは第21代当主・河野通清からである。
◇源頼義
先日、松山市内を横切る歩き遍路で桑原八幡に出合ったとき、「松山の八社八幡の二番社。源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき、二番社とされたと伝わる。平安から鎌倉にかけて源頼義が下向して八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には、地方武士の協力があったといわれる」との案内があった。
「えひめの記憶」には、「『予州記』には「伊予入道頼義、当国の国司として在国あり、親経(私注;河野親経。河野通清の母の親、ということは通清の祖父ということか)と同志にて、国中に四十九処之地蔵堂、八ヶ所の八幡宮建立せらる」とあり河野家代々の崇敬を受けていたとみられる」とある。
源頼義は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。初代誠和源氏の4代目棟梁(頼朝は9代)。伊予守に任じられたのは事実としても、下向するとは思えない。「えひめの記憶」によれば、「任地に赴かない遙任であったろうし、源頼義が命じたものかは不明であるが、実際は河野氏(親経)によって勧請されたものであろう。そこに源頼義が登場するのは、頼義前代の頼信のころから始まっているとされる清和源氏と八幡宮の関係故のことではあろう。
永福寺への下り道
□玉川回りの道□
蒼社川から永福寺へのもうひとつの遍路道をメモする。
○えひめの記憶 蒼社川からお旅所橋へ○
600mほど進むと左に八幡山の山裾(すそ)を回る細道があり、右側には谷山川に架かった「お旅所橋」がある。その細道の入り口に3基の道標がある。百度目の茂兵衛道標と小形の道標、それに上部折損の添句もある静道道標である」
お旅所橋傍の道標
それはともあれ、「玉川回り」の記事に従い、谷山川に沿って山手橋の南を南西に進むと、谷山川が八幡山北端最接近するところに「お旅所橋」が架かる。橋の道を隔てたところには鳥居が建つ。そこがお旅所であろうか。 お旅所の側から谷山川に沿った車道から細路が分岐する箇所に3基の道標が立つ。
◇茂兵衛道標
◇静道道標
◇道標
「左 へんろ道」と刻まれる。
○えひめの記憶 お旅所橋から八幡神社参道裏口に○
右側の道をさらに50mほど行くと八幡神社参道裏口に至る。左側に表口と同じ万延元年(1860)の銘が彫られている「伊豫一国一社石清水八幡宮江三丁/四国五十七番霊場」の碑が立っている。右側には仙遊寺と栄福寺を指示した茂兵衛道標もある。
八幡集落の道標
八幡神社参道裏口に
「近道」を戻り三叉路右手の道を進み、次の角を左折すると八幡神社参道裏口に出る。
◇八幡神社石柱
◇茂兵衛道標
五十七番札所・永福寺
●永福寺
「現在五十七番札所は八幡山の中腹にある栄福寺であるが、もとの札所は八幡山の山頂にある「石清水八幡宮」であった。澄禅や真念の遍路記には、栄福寺の名はなく「八幡宮」とのみ記している。栄福寺は長福寺、大乗寺、乗泉寺と幾度か寺名が変わったようで、栄福寺となったのは寛政4年(1792)であるという。
また長福寺は貞享年問(1684~88)ころに八幡宮の別当寺となっており、栄福寺がこれを継いだのである。四国遍礼名所図会には、「八幡社別当栄福寺」と記され、栄福寺を別当寺としている。その栄福寺は、明治維新の神仏分離によって石清水八幡神社と分かれ、独立して札所となった(「えひめの記憶」)」
●永福寺の道標
「えひめの記憶」には「途中の左脇道に高さ40cmほどの自然石の道標がある。この脇道は道標(73)の三差路からの細い近道である。栄福寺入り口には「是よ里佐禮山まで二十丁」の徳右衛門道標があり、その後に下部が折損した道標が石垣に持たせかけてある」と記す。
◇近道の自然石道標
◇永福寺入口の道標2基
■五十七番札所・永福寺から五十八番札所・仙遊寺へ■
○えひめの記憶 永福寺から犬塚池へ○
八幡集落を出るとすぐ右に田んぼが開け、小川沿いの細道の正面は高さ10mもある池の堤である。この間500mほどであるが、川を隔てた山裾に作礼山(佐礼山)への舟形地蔵の丁石が4基立っている。(中略)池の堤の下、左側の上り口に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立っている。
そこから堤の下の道を右に進むと池への上り口の所に道標がある。堤に上がると犬塚池が拡がる。途中に13丁の地蔵丁石がある。池は文化14年(1817)に完成した周囲約4kmほどの溜(ため)池である」
舟形地蔵丁石
覚心についてはよくわからないが、栄福寺大師堂前の石垣沿いの、「是より八幡宮二丁願主覚心/善関良財童子」と刻まれた舟形地蔵については、覚心が子供の供養のために建てたものであろうという。またそれと並んだ舟形地蔵には、「是より佐礼山十八丁…/享保十五年六月十八日願主覚心」とある。 施主の居住範囲や地蔵への刻字などからみると、覚心は、享保年間(1716~36)ころの、八幡を中心とするこの地域の人で、亡き子の供養もこめて地蔵丁石建立を発願したのであろうか。
ともあれ覚心による丁石は作礼山まで遍路道脇に点々と立っている。 18基のうち4基(3・4・6・17丁)は確認できず、1丁と2丁、12丁と13丁の丁石の順番がそれぞれ逆の位置に立っている」とある。
「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑

舗装の切れた道を犬塚池の土手に向かって進むと池の水の吐口があり、その先に「名勝八幡山犬塚池作礼山」の碑が立つ。碑の手前に犬塚の碑と舟形地蔵丁石があった。
●犬塚
伝説は永福寺と仙遊寺の住職を兼ねていた僧が可愛がっていた犬といった記事もあった。それはそれとして「名勝八幡山犬塚池作礼山」の名勝って何を指すのだろう。八幡山・犬塚池・佐礼山一帯のことだろうか。池の堤に上り周囲の景観を眺める。「名勝」と言われれば、そのようにも思える。
犬塚池土手下の道標
大塚池土手手前の舟形地蔵
覚心の建てた丁石は18基。確認されているものは14基。そのうちの5基かもしれない。
○えひめの記憶 犬塚池から仙遊寺への車道へ○
階段を上がった所で、山の中腹を横切る2車線の道と交差するが、それを横切り、細い坂道を登る。100mほどでまた車が通行できる道に出る。その手前に覚心の丁石とともに6基ほどの遍路墓がまとめられている」
犬塚池から車道との交差点に
この車道は里に出る道であり、仙遊寺への車道はこの交差箇所の少し西で分岐する。
土径を進み再び車道に
○えひめの記憶 車道を国分寺道分岐点へ○
この遍路墓群から100mほど上ると、右は仙遊寺の上り道、左は仙遊寺から打戻って五十九番国分寺へ向かう分岐点に至る。ここには、真念、徳右衛門、静堂の標石が残されている
静道道標と丁石、遍路墓
静道道標には「嘉永七年」といった年号が刻まれる。静道道標右手には舟形丁石も見える。その右手、石灯籠の先には幾多の遍路墓が並ぶ。
「えひめの記憶」には、「整理された遍路墓の中には、阿州・駿州・出羽等からの遍路に混じって「内海源助」と記されたものがある。9丁の丁石(私注;前述の車道に出る手前の遍路墓と共にあった船形地蔵丁石)の所にも「内海源助墓」の墓石がある。

五十九番札所・国分寺への分岐点
この分岐点には徳右衛門道標、真念道標、静道道標があると記事にあったが、「真念と徳右衛門の道標が並んで立つのは珍しい。また真念道標隣に地蔵像があり、その台石に静道居士の「よきとこへこころしづめてはなのやま」の句が、さらにその下の台石に「本堂江三丁」と刻まれている(えひめの記憶)」と記される。

●窓の峠
窓の峠は仙遊寺の南にある。方向は仙遊寺の逆方向を指しているのだが、どのようなルートで進むのだろう。逆方向であれば仙遊寺の丘を一度下り、谷山川の谷筋を上るのがそれらしき道かと思うのだが。
それはともあれ、この箇所に「窓の峠」の案内がある、という意味合いは「四国の道」のコース案内ということだろう。
■永福寺から仙遊寺へのもうひとつの遍路道 別所回りの道■
栄福寺より南西に進むと別所の大山積神社の所で玉川別所橋より上ってきた道に合流する。そこに「四国の道」の標識があるが、その根元に上部折損の小さな道標があり、100mほど進むと左側に風化して判読しにくい道標が横倒しになっている。(中略)この道はやがて前記の犬塚の池沿いの道と合流して仙遊寺へと通じている」とある。
玉川別所橋から三島神社を経て進む道は舗装された車道となっており、車でのお遍路はこちらが便利だろう。記事にある「四国の道」の木標の辺りには道標は見つからなかった。またその先にあるという道標も訪問時(2017年8月)には道路工事で封鎖中のため確認することはできなかった。
○えひめの記憶 五十八番札所・仙遊寺;仁王門から参道を本堂に○
●仁王門
堂々とした仁王門。「補陀落山」と書かれた額がある。山号は「佐礼山」とあるのだが、どういう所以なのだろう。補陀落山は観音菩薩のホームタウン。このお寺さまの本尊は千手観音とあるので、その故なのだろうか。
千手観音といえば、お寺の案内に「この寺の本尊は、天智天皇の守護菩薩であった千手観音です。観告さまの像は、海から竜登川を登ってきた女の竜が一刀刻むごとに三度礼拝して作り上げたといわれ、「竜女一刀三礼の作」ともいわれています。
仁王門左前のお地蔵様群の中に舟形地蔵丁石があるとするが、どれが地蔵丁石だろう。いままで道端で見てきた地蔵丁石と似た丁石はない。形からすれば結構大きな船形地蔵があるのだが、それだろうか。それはともあれ、地蔵群の中にあったミニチュア地蔵群はなかなかよかった。
●覚心の丁石
仁王門を潜ると、沢をうまく利用した石段の参道となっている。地図をみると本堂までおおよそ60メートルほどの比高差。石段の中央には鉄パイプの手摺があり、上り下りのお遍路の便宜に供している。
記事にある覚心の丁石は、それらしき舟形地蔵はあるのだが、文字の確認ができずどれが丁石か確定できなかった。
●弘法師御加持水
「弘法師御加持水」と刻まれた石柱の脇にある小祠の下はコンクリートで作られた水槽のようにも見える。ここに御加持水が溜まり、沢に落ちているということだろう。ちなみに「御加持水」とは仏の霊験により衆生を守る水。加護に近い。
●西国三十三ヶ所観世音石像
沢に沿って石段参道を上ると、参道脇に観音様が並ぶ。西国三十三観音霊場の札所一番は熊野・那智山の青岸渡寺。熊野古道・中辺路を歩いたことを思い起こした。
仁王門の扁額「補陀落山」が観音様のホームタウンであったこととともに、このお寺さまの本尊である千手観音へと観音様を収斂させていく。
●本堂
Wikipediaの記述を簡単にまとめると「仙遊寺(せんゆうじ)は、愛媛県今治市玉川町にある高野山真言宗の寺院。作礼山(されいざん)、千光院(せんこういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
天智天皇の勅願によって伊予の大守越智守興が堂宇を建立した。空海(弘法大師)が本寺に逗留して修法を行った折には、伽藍を復興し井戸を掘ったとされる。江戸時代に荒廃してしまったが、明治初期に宥蓮上人が再興した」とのことである。
●静道道標
鐘楼の北西、というより、境内北の崖端手前に道標が立つ。正面の文字は大きくしっかり刻まれているのだが、門外漢には読むことはできなかった。側面には「當城下 丁字屋」らしき文字が刻まれていた。 当然のことながら、記事にある「入相のかね惜しまるる桜かな」は読むこと能わず。「入相(いりあい)の鐘」とは日暮に寺でつく鐘。
記事にある龍燈とは主に海から生じる「怪火」。佐礼の由来として、龍女(龍宮に住む仙女)が千手観音を刻む度に三礼したとメモしたが、その龍女は龍灯川(今治市東鳥生町で瀬戸内に注ぐ)を遡りこの寺にて観音様を彫上げたわけだが、その後も龍燈(怪火)が龍灯川を遡りこのお寺さまの桜の木にかかった、とのことである。
これで五十六番札所・泰山寺から五十七番札所・永福寺を打ち、五十八番札所・仙遊寺へと辿った。次回は仙遊寺の丘陵を下り五十九番札所・国分寺へと向かう。
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