日曜日, 2月 11, 2018

伊予 歩き遍路;五十九番札所・国分寺から六十番札所・横峰寺を繋ぐ ②の壱 生木道を中山川まで

先回は、今治の五十九番札所・国分寺から西条市に入り、大明神川を越えたところの生木道と香園寺道の分岐点までの遍路道をメモした。

Google Earthで作成
今回から2回に分けて、六十番札所・横峰寺に向かう生木道と香園寺道のふたつの遍路道のうち、生木道を辿り、中山川を越えて旧周桑郡小松町(西条市小松町)の大頭を経て湯浪に向かい、六十番札所・横峰寺へと山道を登る登山口までの遍路道を二回に分けてメモする。
最初は生木道と香園寺道分岐点から生木地蔵を経て、中山川までの遍路道。中山川を越えて横峰登山口に向かう順打ちルートは次回メモする。

いつだったか、第六十一番香園寺奥の院から逆打ちで横峰寺に上り、湯浪の登山口へと下りてきたことがある。とりあえずこの2回のメモで、下ったところと道を繋いだ気持ちではある。その時の上り口であった第六十一番香園寺奥の院、というか香園寺遍路道から横峰へと向かう逆打ち遍路道は、香園道を進む遍路道でメモする。


本日のルート
生木道・香園道分岐点から生木道を生木地蔵へ
生木道・香園道分岐点の徳衛門道標>国安の道標>新町の道標>新町代官所跡>新町四差路の道標>県道155・150号合流点の茂兵衛道標>和霊神社脇の道標>出合橋の2基の道標>丹原町池田の道標>田圃脇に道標>丹原町商店街の道標>小松を指す道標>西条市丹原支所の道標・里程石>丹原町今井の道標>福岡八幡宮>生木(いきき)地蔵>松山道交差箇所の道標>北田野の舟形地蔵>台座に沙界霊と刻まれた地蔵>田野上方に道標2基>野中の大師

中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口に
大井出川傍の4基の石造物>大頭(おおと)交差点>石土神社>妙雲寺>(妙口薬師堂)>山の神地区の道標>大師堂
□馬返しからの旧遍路道□
旧遍路道入口>地蔵>「四十六丁」の舟形地蔵丁石>「四十四丁」の舟形地蔵丁石>「四十三丁」の舟形地蔵丁石>県道に戻る>徳衛門道標 >県道に戻る>旧遍路道の下り口
□県道を横峰登山口に□
尾崎八幡傍の道標>舟形地蔵>舟形丁石と2基の石碑>舟形丁石が続く>横峰寺登山口


■生木道・香園道分岐点から生木道を中山川まで■

生木道・香園道分岐点の徳衛門道標
大明神川を渡った直ぐ先にある、生木道・香園道分岐点に立つ徳右衛門道標 を右に折れから生木道を生木地蔵へと向かう








国安の道標
生木道・香園道分岐点にある茂兵衛道標から道を右にとり、生木地蔵経由で六十番札所・横峰寺を目指す生木道を進む。県道150号を1キロほど進むと三叉路があり、角に自然石の道標が立つ。「此方 へんろ」と刻まれる。「へんろ道はこっち」といった意味だろう。





新町の道標
県道150号を進み、広域農道を越え、西中学校を越し郵便局手前、道の左手、民家のブロック塀の前に道標が立つ。ちょっと小さめの手印と、正面には「いきき地蔵」、側面には「こくぶんじ」と刻まれる。大正期に建てられたもの。



新町代官所跡
道標から少し進むと駐在所があり、その前に「新町代官所跡」の石碑が立つ。何故にこの地に代官所?チェックすると、今は静かなこの地は、往昔「新町」に行けば何でも揃う」と言われるほどの賑わいであったよう。
事の始まりは松山藩主が経済振興策として領内に三つの市場を設け、丹原、北条とともに、この新町もそのひとつであった。
「えひめの記憶」に拠れば、新町は「寛永一八年(一六四一)に松山藩が代官に命じて桑村郡の上市村、新市村のほぼ中間の「千町が原」に開かせた在町」とある、在町とは、農村に開いた交易・商業中心の地域のこと。農村部に新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して商業地として発展させたようである。
藩政時代は宝ヶロ(山地を下った中山川が周桑平野の扇状地に出る辺り)から山麓を経て新町に至る代官道がにぎわい、桑村郡一円を官許の商圏にしたものであったが、明治期に入ると、整備された道路網から外れ、それに伴い商圏が丹原・壬生川へと移り、新町はさびれてゆくことになる。

新町四差路の道標
少し東に進むと四つ角に。右に折れると甲賀八幡や千人塚があるが、遍路道は四つ角に立つ道標にある「左 遍んろ道」に従い道を左折する。 昔の面影を伝える家並みに沿って道なりに進み、巨大な常夜灯を越え河野通堯 供養塔の手前を右折し県道155号に出る。
甲賀八幡
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で知られる。
千人塚
天授5年(1379)11月6日、佐々久原に於いて伊予の将河野通堯軍七千と阿波・讃岐・土佐の将細川頼之軍四万が激突。河野軍の敗北に終わった。このとき両者の戦死者を埋葬した塚跡。
河野通堯
河野通堯(第29代当主):南北朝時代、同じ武家方の細川氏伊予侵攻への対策として宮方への帰順、そして武家方への復帰と、河野家存亡の危機を脱し旧勢力を一時的ではあるが河野氏の勢を回復した当主。

県道155・150号合流点の茂兵衛道標
県道150号が155号に合流する箇所に三角地帯があり、そこに道標が立つ。摩耗して文字を読むことはできないが、正面に「生木地蔵 第六十番横峰山」、脇に「第五十九番國分寺」、建立年は「大正三年」と刻まれる。明治42年(1909)に第六十番横峰寺が復しているので、第六十番横峰山となっているわけだ。
●生木地蔵道と西山興隆寺(西山お四国山みち)
両県道合流点から県道155号へと左に折れると生木道、県道150号を南西に向かうと、古刹西山興隆寺経由の遍路道となる。
大雑把な道筋は、県道150号、県道151号と進み西山興隆寺に参拝し、久妙寺辺りを南東に下り、生木地蔵に出る

和霊神社脇の道標
生木道は県道155号を左に折れる。「えひめの記憶」には「すぐ左側に和霊神社があり、同じ敷地内には通夜堂を兼ねた大師堂がある。大師堂の前に「奉納 本尊四国八十八ヶ所霊場」と刻まれた大きな石碑がある。さらにお堂寄りには、「是より生木へ三十八丁」の道標があり、その上には灯ろうが置かれている。この大師堂と2基の石造物は和霊神社隣接の渡部家の信仰心の厚い祖父が、遍路のために建立したものである」とある。
道脇から堂宇は見えるのだが、民家の敷地内である。さすがに敷地内に入ることはできないと諦めかけた時、民家入り口で軽トラが砂地にスタックし難儀している御主人から声がかかり、トラックの荷台の重しに、といったやりとりがあり、幸運にも敷地内の道標を拝見させてもらえた。
屋敷社としてお稲荷さんを祀る家は結構見かけるが、本格的な鳥居と社、大師堂を敷地内にもつ民家にはじめて出合った。

出合橋の2基の道標
小島川に沿って南東に進む。途中で現在は西条市に合併した旧東予市と周桑郡丹原町の境を越える。1キロほど下り新川に架かる出合橋を渡ると地蔵堂があり、徳衛門道標と小さな道標が祠脇に並ぶ。摩耗が激しく徳衛門道標には「是より横峰*三里」と刻まれている、と。上下ふたつに折れていたものを修理したようにも見える。

丹原町池田の道標
県道155号を南東に進み、県道から南西に分岐する少し手前、民家のブロック塀前に道標と破損した台座の上に地蔵が座る。「えひめの記憶」によれば、「出合橋から150m南に進むと県道155号から左に細い道が分岐している。かつての遍路道は、この細い田んぼ道を通っていたようであり、南にしばらく進むと、やや広い道と交差する。もとはこの角に道標があったが、今は南西45mの県道155号沿いの」民家前に移動している、とある。
これがその道標ではあろうと思うが、左に分岐したという道は田圃の畦道として南に続いているようである。

田圃脇に道標
次の道標として、「えひめの記憶」には@「さらに田んぼの中の遍路道を200mほど南東に進むと左側に道標があり、その上に地蔵が座っている」とある。少々わかりにくい説明だが、県道155号を少し進み、左に折れる田圃の中を進む道脇に地蔵が台座に坐る。これが道標であろう。お地蔵さまの北にも南にも田圃の畦道が続いていた。


丹原町商店街の道標
この先の遍路道として「えひめの記憶」には「その後の遍路道は田んぼや建物により通行不能になっているが、かつては整形外科病院の東を通り、丹原高等学校の農場・運動場を横切り、さらに丹原町商店街の角に立つ「きゃく遍ん路ミち」の道標のあるところまでつながっていたようである」とある。
田圃の畦道を進もうかなどとも思うのだが、途中に内川もあり、ここは大人しく県道155号を進み県道48号を越え、左折し上述丹原町商店街の道標に向かう。
道標は民家の間の狭い路地から商店街への出口にあった。道標の手印は北の路地方向を示し、文字も「きゃく遍んろ三ち」と刻まれる。
遍路道はここを右折し、下町から上町へと丹原の町を南西に進む。

小松を指す道標
道を左に折れる分岐点にも道標が建ち、手印とともに「小松町へ」と刻まれる。 小松藩一ッ柳一万石の陣屋があった小松が小松町となったのは明治31年(1891)。それ以降、平成16年(2004)に西条市と合併するまで周桑郡小松町と呼ばれた間に立てられたものだろう。

丹原
丹原は上述吉岡新町と同じく、藩政時代に農村部に開かれた商業地・在町のひとつである。正保元年(一六四四)松山藩は代官に命じ、今井村・池田村・願連寺村に接した砂礫の原野を開いた。新田も開かれており、新田在町とも称される。
丹原は周桑平野のほぼ中央に位置し、行政の中心となる代官所も在町形成時には西の町はずれの北田野福岡八幡社の南、その後17世紀後半から19世紀初頭 まで現在の田野小学校付近に移り(田野代官所)、さらにその後は明治まで桑村郡の新町代官所と統合されて久妙寺村御陣屋にある多田代官所に移った。丹原町久妙寺地区の北に御陣家の地名が残る。
代官所を挙げた理由は丹原と道路網の関係を見るため。行政の中心地へと道は整備されるはずである。実際、松山・金比羅道は宝ヶ口から石経・長野・田野を経て丹原町の町筋中央道となり、願連寺から東に向かって下り三津屋街道となり壬生川浦に至った。おおよそ県道48号の道筋に思える。
「代官道」は同じく宝ヶ口から来見、兼久の山麓を通り多田陣屋に至り、吉岡新町で太政官道と合して今治方面に通じ、また、その支線は実報寺越や椎木越を経て越智郡と結ばれていた。丹原は道路網にも恵まれ、商業地として発展したものと思われる。この道筋は誠に大雑把に言って、県道151号・県道159号筋といったものであろうか。
●実報寺・椎木越
実報寺は高縄山地から流れ出し、河原津で瀬戸内に注ぐ北川が山地から平地に出る辺り、実報寺地域の山裾に建つ、椎木越は県道154号を世田山の西を今治の朝倉に抜ける峠である。

西条市丹原支所の道標・里程石
右折し下町を進み、丹原郵便局の先を右折し、西条市丹原支所に移されたという道標・里程石を見るためちょっと遍路道を離れる。里程石は「松山札の辻より十里」と刻まれる。もとは丹原高校北浦にあったようだ。
ロータリーの植え込みに埋まるように立つ道標は摩耗が激しく文字は読めなかったが、「右へんろ道 生木地蔵八丁」と刻まれる、という



丹原町今井の道標
県道147号手前の四つ角に道標が立つ。手印の下の長い袖が珍しい。「生木地蔵尊本道 是よりうちぬけ横峰寺へ約三里 大正十五年三月」と刻まれる。ここを左折し小松町大頭から横峰寺を目指す遍路もいたようだが、今回は道を「そのまま先に進み、生木地蔵経由の遍路道を辿る。


福岡八幡宮
往昔の松山道とも金比羅道とも呼ばれた道筋を南西に進むと四尾山(しおびやま)と呼ばれる独立丘陵が見える。標高74mの丘陵には福岡八幡が鎮座する。 福岡八幡って周囲に、それらしき地名もないのだが?チェックすると、この辺りの豪族今井氏がここに福岡城砦を建てた、とあった。何故に「福岡」は不明だが、神社はその城の名前に関係あるようには思える。



この社は江戸の頃、丹原を在町として商売繁盛を願い、京都の伏見稲荷より周布・桑村両郡の鎮守の別宮として稲荷大神を勧請した、とのことである。吉岡新町の甲賀八幡にしても、丹原の福岡八幡にしても、在町の商人の寄進のためか立派な社であった。







生木(いきき)地蔵
四尾山の麓、福岡八幡の参道隣に生木(いきき)地蔵がある。境内にはお堂と、大師堂、そして屋根のついた建物に護られた、朽ちた大樹が横たわる。お堂は生木山正善寺。寺伝では弘法大師の開基。真言宗の寺で、もとはこの地から八丁ほど離れたとことにあったようだ。
生木
生木地蔵の由来ともなった朽ちた楠の前にある案内には「この霊木は「楠」です。周囲は約9~10メートル位で樹齢は定かでありませんが1200年以上だと推測されます。
元々、本堂と大師堂の間に立っておりその中に弘法大師空海が「お告げ」より一夜にて地蔵菩薩の尊像を刻まれたのであります。生きた木に刻まれたお地蔵様で「生木地蔵」と呼び親しまれております。
昭和29年の洞爺丸台風の烈風により倒れましたが、お地蔵様はいささかの傷もなく現在は本堂に安置致しております。首から上、特に耳病平癒に御利益があり各地より深く信仰されております」とある。
「えひめの記憶」には「生木地蔵については、『四国邊路道指南』に、「たんばら町、西にあたり紫尾(しび)山八幡、ふもとに大師御作生木(いきゝ)の地蔵霊異あげて計(かぞえ)がたし」と記されている。また『愛媛面影』には、「今井村の田中に小山有り。四尾(しび)山と名(づ)く。(中略)比(の)山の麓に楠の大樹あり。中朽(ち)て空虚なり。その中に地蔵の立像を彫(り)たり。生木(いきゝの)地蔵と名(づ)く。何人の所業なる事を知(ら)ず。俗に引法大師の作也と云(ひ)伝ふ。凡(そ)四国の習(ひ)にて、奇しき事は皆大師の作と称(ふ)るもの多し。固(より)信ずるに足らず」とある。

寺の縁起には弘法大師が四尾山の麓にて霊夢のお告げがあり、楠の大樹に一夜で地蔵菩薩を彫りあげるべし、と。耳を残すだけとなったとき、一番鳥が鳴き、未完の地蔵を残してこの地を立ち去った、と。この鳴き声は天邪鬼の悪戯であったとされ、ために地元民は弘法大師を憚り、鶏を飼わないという風習があった、とか。
本堂に本尊の延命地蔵菩薩が祀られるとあるが、耳の有無は不詳。上述案内に「耳病平癒に御利益」とある。寺にはカワラケ供養といい、歳の数だけのカワラケに穴をあけ願いを書いたとされるが、片耳のないお地蔵さま故とのこと。 因みに生木に尊像を彫るというのは各地にあるようで、また、弘法大師が一夜の願いを天邪鬼に悪戯されるという伝説も他にもあるようだ。「えひめの記憶」には「『丹原町誌』には、「昔、お大師様が生木のお地蔵さんを彫った時、蚊にかまれましたが、お坊様ですから、殺さないで袋に取っておき、翌朝放してやりました。それで、その子孫がふえて、今でも丹原には蚊が多いという話です」といった話も残る。生木への尊像を彫るに関しては、少々微笑ましいお大師さま話が伝わっている。

雨气石
境内には雨气石も残る。案内には「雨气石 南無阿弥陀仏
元禄10年(西暦1697年 約280年前)
願主 保助 役人中
昔は田へ水を入れるには自然の流水にたよるより外に方法がなかった。 日照が何日もつづくと稲田はわれ畑はかわき作物が枯れてききんとなることが何十回、何百回あったか知れない程であった。
生木山縁記、慶長年間(約380年前)によっても大旱ばつがあり、地蔵尊の前に祭壇を作って雨气の祈りをした際、二、三日大降りとなって皆んな活きかえって喜んだとある。
その後の旱ばつの際、地蔵様とこの石の間で火を焚き「なむあみたぶつ」と唱えて天に雨を下さいと折ったものである。 丹原町文化協会」とあった。
道標2基
境内には2基の道標がある。1基は県道48号脇。手印は生木地蔵方向を示し「左 第六十番札所 横峯寺道 是之百十八丁 大正九年六月」とあるようだ。 もう一基は本堂と大師堂の間、山麓に沿って西側に廻る路地入り口に立ち、「生木地蔵大士 横峯寺へ三里 国分寺へ三里半」と刻まれる、という。




松山道交差箇所の道標
山麓の土径を西に廻りこむと南東へと中山川に続く舗装道路に出る。そこから少し進むと地蔵台座の道標がある。「えひめの記憶」に拠れば、ここは江戸時代の松山道(中山道)で、「この松山道は桧皮(ひわだ)峠を越えて石経(いしきょう)(丹原町)、今井、願連寺を経て壬生川(にゅうがわ)港(東予市)へ至る道であり、松山領の道前地方の物産を積み出すための道でもあった」とある。現在では、往昔の道の名残はなく、田圃の畦道が交差するだけではあった。
松山道(中山道)
桧皮(ひわだ)峠を越え、桜三里を経て周桑平野に出る道筋は金比羅街道と呼ばれた道筋と同じように思える。周桑平野の扇状地・扇の要で左右に分かれ、右は中山川を越えて金比羅道として進む。左に折れるのが上述道筋かと思う。

北田野の舟形地蔵
更に道を進むと道路四つ角に舟形地蔵が立つ。「えひめの記憶」には「文化年間(1804~1818)のころ、一人の女遍路が見事な稲穂を国に持って帰ろうとしてある百姓に打ち据えられたため死亡した。その後、女遍路を打ち据えたその百姓の家運は衰えてしまった。そこで祈祷(きとう)してみると、その女遍路の崇(たた)りであることが分かり供養のために建てたものであるという」とあった。

台座に沙界霊と刻まれた地蔵
少し進むと「沙界霊」と刻まれた台座にお地蔵様が祀られる。「沙界」とは「ガンジス川の砂のように無量無数にある世界」とあるが、それ以上の詳しいことは分からない。



田野上方に道標2基
その先、交差する道路を越えると直ぐに2基の道標。小振りな角柱道標と自然石の丸い道標である。摩耗が激しく文字も手印も見えなかった。

ほ整備事業場
道脇に「明日の担い手を育む ほ場整備事業 ほ場整備は子供たちの夢 あなたのふるさとを守ります」の看板。「ほ」は田圃の「圃」。大雑把にいえば、既存の田んぼを広く使いやすい形に直し、併せて排水や用水路の整備を一体的に行い、次の時代に向けて田んぼの整備をする事業のことのようである。

野中の大師
少し進むと石仏や石碑が並ぶ。「えひめの記憶」には「「野中の大師」と呼ばれている接待所跡がある。『丹原町の文化財』には、「石に刻まれた地蔵菩薩と、弘法大師座像の石仏及び2基の回国供養塔がある。このあたりは往時は広々とした田野(でんや)で、弘法大師の石仏も風雨にさらされていたので、『野中の大師』と名付けられ、茶堂場として、また接待所として親しまれていたと思われる」とある。
「えひめの記憶」には、この地に自然石の道標があるとのことであるが、見つけることはできなかった。
回(廻)国供養塔
六十六部回国供養塔、または六部供養塔とも呼ばれる。六十六部または六部とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行者のこと。回国供養塔は回国の成就・満願成就の供養、廻国半ばながら何らかの結縁故に造立された中供養の塔、死没した廻国者の供養、廻国者に対する施宿・施行の供養、廻国者による作善の供養などの為に建立された塔である。

中山川・石鎚橋
野中の大師を越えた遍路道は、「ここから中山川に向かって進み四つ角で左折し、田野上方947の前で二手に分岐したうちの右の細道を進む。さらに現在は工場群の敷地となっている所を斜めに横切り、中山川に架かる石鎚橋のやや上手に出ていたようである」とある。
今一つルートは特定できないが、ともあれ工場敷地を抜けて石鎚橋の上流(手前)100m先辺りに出ていたようである。現在その跡を辿ることはできない。

今回はここまで。生木道を順打ちで横峰寺登山口に辿る遍路道のうち、中山川を越え、小松の大頭から湯浪の横峰寺登山口までのメモは次回にまわす。

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