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が、「えひめの記憶」にある旧遍路道に立つ徳右衛門道標はみたいものだと、法面がコンクリート・フェンスで覆われた県道から一カ所だけ開いた取りつき口から岩場を這い上がり、なんとか徳右衛門道標に出合った。徳右衛門道標から左右に道が続いていたが、当日は日も暮れてきたので旧遍路道の完全踏破は先のお楽しみとして、県道に下り湯浪の横峰登山口まで進んだ。
2回に渡ってメモした生木道から中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪から横峰さんに上る順打ちルートが歩き遍路の多くの方が歩いている道のようであるが、次回は香園道を経て第六十一番香園寺から六十番札所横峰寺に上る逆打ちコースをメモする。いつだったか歩いた横峰さんへのお参りが、香園寺の奥の院からの逆打ちルートであったため、その上り口までの遍路道を繋ごうとの想いだけではある。
本日のルート
■中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口に■
大井出川傍の4基の石造物>大頭(おおと)交差点>石土神社>妙雲寺>(妙口薬師堂)>山の神地区の道標>大師堂
□馬返しからの旧遍路道□
旧遍路道入口>地蔵>「四十六丁」の舟形地蔵丁石>「四十四丁」の舟形地蔵丁石>「四十三丁」の舟形地蔵丁石>県道に戻る>徳衛門道標>県道に戻る> 旧遍路道の下り口
□県道を横峰登山口に□
尾崎八幡傍の道標>舟形地蔵>舟形丁石と2基の石碑>舟形丁石が続く>横峰寺登山口
■中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口に■
先回の生木道を歩き生木地蔵を経て中山川まで辿ったメモの続き。中山川を越え、小松の大頭を経て湯浪の横峰登山口までをメモする。
生木道を辿り、中山川を渡って六十番横峰寺へと順打ちで進む遍路道は、小松に入る。Wikipediaに拠れば、現在の西条市小松町は旧周桑郡小松町。中山川で周桑郡丹原町と境をなし、藩政時代は小松藩1万石一柳家の陣屋が置かれた。もとは塚村と呼ばれたが小松原を開墾した故に小松と改めた、と。町域の南部からの大半は石鎚山系の山々であり、平地は北部、中山川右岸に限られる。
●中山川
中山川(なかやまがわ)は高縄山系と石鎚山系を分ける谷を下り、西日本の最高峰石鎚山系の堂ヶ森・青滝山北方を源流域とする鞍瀬川を合せ周桑平野に出る。「えひめの記憶」をもとにまとめると、「中山川は周桑平野を貫流する第一の河川で、谷口の湯谷口七〇mを頂点とするほぼ三角形の輪郭をもつ沖積平野を形成する。平野の南西隅から東北東方向へ、中山川が貫流し、平野中央の大部分はその堆積物によって形成され、東縁部は北西流して加茂川と複合デルタを形成する。
中央部の中山川流域の低地は、湯谷口を頂点に平野間に大きく扇形に広がる氾濫原をつくる」とある。
大井出川傍の4基の石造物
「中山川上手から幅約2mの農道を南東に500mほど進み、大井出川に架かる橋を渡った右手に、地蔵・橋供養塔など4基の石造物がある(「えひめの記憶」)」との記事を頼りに中山川右岸から成りゆきで進むと大井出川に架かる小橋脇に4基の石造物があった。
なんとか中山川を越えた先のスタート地点を確認し一安心。横峰登山口までの遍路道を辿ることにする。
大頭(おおと)交差点
遍路道は小川を渡り、中大頭の集落を抜ける道を進み国道11号に出る。道は国道を左折し、大頭交差点に。交差点南西角には「60番 横峰寺 9.5km」の木標が立つ。
大頭の由来は不詳であるが、この大頭・妙口村は桜三里を抜け金比羅街道・小松街道沿いにあり、金比羅参りや横峰寺に向かう遍路で賑わったようである。横峰寺に向かう遍路はここに荷物を置き、身軽になって急峻な横峰へと向かったとある。
石土神社
遍路道は県道147号を妙之谷川に沿って進むと、ほどなく石土陣神社の鳥居が見える。参道を進むと巨大なコンクリート製の高燈籠が立つ。昭和6年(1931)の式年祭に合わせ建立された。灯明、電球、蛍光灯と光源は変えながら、常夜灯として道を照らす、と。
本殿にお参り。境内社にはすべて鳥居が建つ。境内の常夜灯には蔵王宮と刻まれる。神社の隣にある妙雲寺とともに神仏混淆の蔵王権現を祀ってきたものが、明治の神仏分離により村社となった。
境内にある案内を読むと、垂仁天皇の御代に忌部宿弥八十彦(いむべすくねやそひこ)が社殿を建造し忌部氏の氏神となり、この地の総社となったとあるが、その他は土佐の長曽我部氏のため兵火に焼かれたとか、河野氏十八将の一人、黒川氏の産土神となるも、秀吉に敗れ、藩政時代は小松藩主一柳氏の庇護を受けるといった趣旨の記述であり、石鎚大権現との関わりは触れられていない。 はっきりとは分からないが、石鎚権現を祀ったのはお隣の妙雲寺が横峰寺の前札所となった頃からのもののようにも思えてきた。
妙雲寺
お隣の妙雲寺に。真言宗のお寺さま。本堂とその隣に大師堂。本堂は香園寺の旧本堂を移したとのこと。「えひめの記憶」には「『四国遍礼名所図会』には、「明雲寺石燈炉より少し入あり、不自由仁峰へ登らざる人ハ爰にて札を納む、然共大方登る」と記されていて、六十番横峰寺の前札所及び石鎚登山行者の礼拝所と定められ、遍路の参詣も多く見られた」とあり、六十番前札所であったとする。
天文7年(1538年)、剣山城主黒川氏はこの寺に蔵王権現像を奉納したとある。その頃から石鎚のお山との関わりがでてきたのだろうか。藩政期には、小松藩主一柳家もこの寺を尊崇し、第3代直卿公は「蔵王宮」の額を奉納している。 『四国遍礼名所図会』には六十番前札所とあるが、現在は「六十番前札旧跡」との記載がある。
チェックすると、既にメモした明治の神仏分離令にともなう横峰寺と清楽寺と の六十番札所を巡る顛末に、この妙雲寺も関係した結果の「前札旧跡」のようである。
●横峰寺・清楽寺・妙雲寺の六十番札所を巡る顛末
経緯は明治4年(1871)、神仏分離令により廃寺となった六十番札所・横峰寺はその対応策として、石鎚神社横峰社となり、明治12年(1897)に大峰寺、明治18年(1885)に六十番札所大峰寺、そして明治42年(1909)に横峰寺に復す。 六十番札所としての横峰寺が「消えた」時期は、六十番前札所である清楽寺が六十番札所清楽寺となり、横峰寺が明治18年(1885)に六十番札所・大峰寺に復したとき、清楽寺は六十番前札所に戻った。
ここに六十番前札所極楽山妙雲寺が登場する。本来であれば六十番前札所となった清楽寺とともに、妙雲寺も前札所として続いたのだろうが、明治17年(1844)火災により焼失。明治28年(1895)妙雲寺は近くにあった鶴来山大儀寺を移し、60番前札旧跡として再興。 戦後、昭和32年(1957)再び石鉄山妙雲寺と称することになる。
●門前の2基の道標
門前には、左右に2基ずつ石柱が立っている。向かって右には、「六十番前札」の石柱と「ぎゃく生木地蔵尊へ是より十八丁」と刻まれる、生木地への逆遍路道を示す道標が立っている。左には、「是ヨリ第六十番横峰寺 実測六十七丁 昭和三年」と刻まれた千足山村在郷軍人建立の道標と、横峰寺まで「是より横峰寺迄百丁」と刻まれた武田徳右衛門道標がある。
ふたつの道標の距離は違っているようだ、どちらかがどこかから移されたものだろうか。
●千足山村
千足山村とは、かつて石鎚山の北西に位置した山村で、石鎚頂上社、成就社、横峰寺などを村域に含んでいた。
「えひめの記憶」には、「石鎚参拝道は、中国地方から船で参詣する人々は、氷見(ひみ)新兵衛埠頭(ふとう)(西条市)に船を横づけし、小松の町中から登山道を岡村―おこや―横峰寺(古坊)―黒川―成就(じょうじゅ)―石鎚山へと登った。松山周辺の人々は、讃岐街道(金毘羅街道)を歩き大頭―湯浪―横峰寺を経て石鎚山に登った。いずれも千足山村(せんぞくやまむら)(小松町石鎚)を経ての登拝であったという。この大頭から横峰寺を経由して石鎚山に登る道は、「お山道」と呼ばれ親しまれてきた」とある。
お山道を進むと、湯浪の手前、馬返あたりから千足山村の村域となり、岡村から上る、香園寺経由の遍路道言う逆打ち道も、林道から登山道を上りおこやの辺りから千足山村域となり、横峰寺からモエ坂を下り黒川道を成就社に上る道筋は千足山村となっている。
妙口薬師堂
石土神社から妙ノ谷川を渡り東に向かうと妙口薬師堂がある。第六十番札所横峰寺を打ち終え、湯浪に下り第六十番札所香園寺に向かうお遍路は妙雲寺から右に折れ、妙口薬師堂に向かい、そこを左折し旧国道11号・金比羅街道を香園寺へと向かったようである。
山の神地区の道標
県道147号を妙之谷川に沿って松山道の高架下を潜り、道の右手に河内八幡を見遣りながら左岸、そして右岸に移り、山ノ神地区に。妙之谷に架かる山ノ神橋の手前の三差路に、アスファルトに埋まり上部のみ出た自然石の道標がある。「左へ」と読める。
大師堂
遍路道は橋を渡らず、妙之谷川の右岸を少し進むと、道の左手に小堂があり、地蔵と「六十丁」と彫られた舟形地蔵丁石が並んで祀られる。同には「大師堂」とあった。
□馬返しからの旧遍路道□
少し登ると、左手に「四十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石がある。さらに登ると、柿畑から杉林への道となる。この遍路道は、県道から50mほど高い所を、県道に沿うように約1km続いている。(中略)この道は昭和20年代末ころまで生活道路として使用されていたとのことである。杉林の中を進むと、「四十四丁」「四十三丁」「四十丁」の地蔵丁石が立っている。
しばらく行くと三差路に、大江(大郷)村が建てた地蔵道標と「横峯迄五十丁」と刻まれた徳右衛門道標が立っている。このあたりには馬返(うまがえし)という字名(あざめい)が残っているが、杉林の中の隘路(あいろ)は名前の由来が実感できるほど険しい山道である。道標の左の道を進むと、「三十九丁」「三十八丁」「三十七丁」の地蔵丁石と明治34年(1901)に建てられた供養塔らしい石造物がある。そこから100mほど進むと杉林は終わり視界が開けてくる。しきみ(花柴)畑の右を通過して30mほど下ると、県道147号と再び合流する」とある。
記事に遍路道と記されている以上、とりあえず歩いてみようと。が、この記事では今一つアプローチ点がはっきりしない。それらしき辺りで農作業をされていた地元の方に尋ねると、カーブ手前の赤い屋根のある建物の先から入り込むとのこと。が、誰も歩いておらず道も消え、藪を進むことになるから止めたほうがいいよ、と。
と忠告を受けるが「記事にある」遍路道、特に徳右衛門道標が気になり、行けるところまで行ってみようとアプローチ点に。
●旧遍路道入り口
赤い屋根の建物の先に山に向う細道がある。この道かしらと進むが、県道からどんどん離れ、右手は谷筋となる。これはないだろうと県道まで戻る。 で根拠はないのだが、山に登る道の左手にある柿畑の中に入ってみる。道はないが、成り行きで進むと草に隠れるようにお地蔵さまがある。
◆「四十六丁」の舟形地蔵丁石
最初はこのお地蔵様が「四十六丁」の舟形地蔵丁石なのかと思い、ちょっと気分を良くし先に進むと舟形地蔵が佇む。これが「四十六丁」の舟形地蔵丁石であった。
踏み込まれた道跡など何もないのだが、枝木を折り、踏みしだきひたすら県道から50mの等高線を目安に進む。
◆「四十四丁」の舟形地蔵丁石
成り行きで進むと、上が開けてきた、川に突き出た尾根筋に近づいたようだ。で、尾根筋に転げ込むように出ると、偶然に「四十四丁」の舟形地蔵丁石前に出た。
◆「四十三丁」の舟形地蔵丁石
「四十四丁」の舟形地蔵丁石の前は林道が開かれている。下に下る道は蛇行し直ぐに県道に下りているので、逆の山側に進むが、結構引っ張られた後、行き止まり。丁石も見当たらない。
「四十四丁」の舟形地蔵丁石まで戻り、林道を下ると、すぐに林道左手の少し高いところに舟形地蔵丁石が見える。「四十三丁」の舟形地蔵丁だろう。その丁石の辺りが何となく踏み込まれたような感じがする。林道からそのブッシュの中に上がり先に進むが、踏み込まれた形跡も完全に消える。斜面もきつく、ロープでもなければちょっと危ない。ということで、林道まで戻りそこから県道に下りる。
◆徳衛門道標
一旦は県道に下りたのだが、なんとなく「徳右衛門道標」が気になる。「えひめの記憶」の記述に、三差路とある以上、尾根筋の平坦地だろうとあたりをつけ地形図を見ると、県道に下りた先にある川に突き出た尾根筋に等高線の間隔の広い、いかにも三差路でもありそうな場所がある。
その尾根筋を這い上がろうと取りつき場所を探すが、道路に沿って法面がコンクリートで整備され、その上にフェンスがある。さてどうしたものかと道を進むと、目的とする尾根筋が川に落ちる突端に一カ所法面が開け石段が造られている。
これはいい、と石段を上るが直ぐに道は消え、その先は岩場となっている。とりあえず岩場を這い上がり尾根筋平坦部に。そこから平坦な尾根筋を進むが三差路は出てこない。
あきらめようかどうしようかと思いながら、平坦部が切れるところまで行ってみようと枝を踏みしだき進むと、前方に大きな切り通しが見えてきた。ここであろうと尾根筋から切通しに下りると、切通しの北端に徳衛門道標と舟形地蔵が建っていた。徳衛門道標には「横峰横峯迄五十丁」と刻まれた文字がはっきり読める。舟形地蔵には「峯ヨリ五十丁 大江村中」と刻まれるとのことである。
で、三差路であるが、ひとつは割と広い道が北から切通しに来るが、もうひとつの道は藪の中から切通しに続くといった、道?と感じるものではあった。 四十丁の丁石はこのどちらかの道筋のどこかにあるのだろうが、日暮も近く今回はパスすることにした。
◆県道に戻る
切通しから南へ道が続く。これはいい、と進むが直ぐに行き止まり。旧遍路三道には「三十九丁」「三十八丁」「三十七丁」と供養塔があるようだが、消えた道を成り行きで進んでも、はてさてと県道に下りることにした。
が、これも一苦労、適当に斜面を滑りおりて県道脇まで下ったのだが、法面の上のフェンスが邪魔しで県道に下りることができない。結局、岩場を這い上がったアプローチ地点の石段箇所まで戻り、県道に下りた。
◆旧遍路道の下り口
県道を進み、道を進むと法面整備された道筋に一カ所、山に入る道がある。ひょっとすればこちらから旧遍路道を辿れるかと、記事にあるしきみ(花柴)の畑脇を進むが、この道も途中で行き止まりとなり、それ以上のトレースは時刻もありパスすることにした。
正確ではないが、推定旧遍路道をブルーのトラックラインで描いておく。
尾崎八幡傍の道標
県道に下りた先の遍路道として「えひめの記憶」には「合流地点の南には、戦前まで木橋が架けられており、遍路道は妙之谷川の左岸へと続いていた。幅1mほどの道を川沿いに30mほど進み、左にある「三十四丁」の地蔵丁石を過ぎると、切通しの道を下って川を渡り、左にカーブしたのち再度川の左岸へと進んだという。
民家の裏を通り右に曲がると、小堂や六地蔵、「三十六丁」の地蔵丁石がある。小堂から50mほど進むと、遍路道は、昭和59年(1984)に県道が整備された際に削り取られ、消失している」とあるのだが、県道が整備されガードレールのある道から記事の道筋に行けそうもない。また、地図と見比べても、記載された道筋が特定できない。ということで、県道を進み尾崎八幡へ。
「えひめの記憶」には、「戦後建てられた「横峰寺右」と刻まれた道標と、「四国のみち」の標識、上部が欠けた「三十一丁」の地蔵丁石が並んで立っている」とあるが、上部が欠けた「三十一丁」の地蔵丁石は分からなかった。
●尾崎八幡
妙之川の本流と支流が合流する辺りに尾崎八幡。参道鳥居の先に古き趣の拝殿、本殿。「おざき」の由来は「突き出した台地の先端=小さな崎」を指すことが多い。妙之川の本流が支流と合流する突起部分にある故の命名だろうか。
舟形丁石
「えひめの記憶」には「尾崎八幡神社前を右折し、妙之谷川を左に見ながら県道を南東に50mほど進むと、道路右のコンクリート擁壁(ようへき)の中に、手印のみの道標がある。この道標の上付近で、前述の遍路道は消失している」とあるのだが、手印道標も、遍路道跡らしき道筋もみつけることはできなかったが、船形地蔵がコンクリート擁壁にあった。丁石か否かは不明。
舟形丁石と2基の石碑
「えひめの記憶」には、続けて「「三十丁」の地蔵丁石と「御来迎所文化十四年」の年号や「横峰寺御来光出現」と刻まれた2基の石碑と地蔵がコンクリート擁壁の中にある。昭和初期に出版された『同行二人 四國遍路たより』によると、「三十一丁」の地蔵丁石辺りで飛石伝いに川を渡り、滝の音を耳にしながら登っていったようであるが、昭和59年(1984)の県道147号の整備以降、かつての遍路道は県道に吸収され消失している」とある。
舟形丁石と2基の道標は前述舟形地蔵のすぐ傍にあった。
●「横峰寺御来光出現」
「横峰寺御来光出現」には「弘法大師曰く神仏は死んでも無きものではない 生きて此世で救けるものなり 教えに従うところには自由自在に現われて救けるものなり 昭和48年9月12日 出現の時刻10時30分より40分まで」と刻まれ、その横には高知市の58才の女性と56才の男性の名前と住所、そして「同行2人拝す」と刻まれていた。妙ノ谷川の滝(現在は堰堤になっている、と)辺りで、日の光を受けたお大師さまの姿が見えた、と伝わる。
舟形丁石が続く
「えひめの記憶」には「現在の遍路道は、ここから横峰寺への登り口までの約1.3kmを登っていくが、この間に多少移動させられたと思われる8基の地蔵丁石が立っている。うち6基(「二十八丁」「二十七丁」「二十五丁」「二十四丁」「二十三丁」「二十一丁」)はこれまでと同形態のものである。コンクリート製の小堂で覆われた1基の地蔵丁石は、二つに割れた跡があり、刻字は読めない。また、「二十四丁」の地蔵丁石の反対側にあるもう1基の小さな地蔵丁石も刻字は読めない」とある。
道なりに進み、小祠の丁石、石仏と2基と並ぶ丁石、二十四、二十三、二十二の地丁石を見遣りながら進む。
地蔵丁石(24丁) |
地蔵丁石(23丁) |
地蔵丁石(22 丁) |
横峰寺登山口
正面に妙之谷川の砂防ダムが見えるところで右に曲がると四阿があり県道はここで終る。山側に横峰寺への登山口がある。「横峰寺 2.2km」の木標が立つが、訪れたときは,
台風被害のため登山口は通行止めとなっていた。
ここが逆打ちルートで横峰寺から下りてきた所。ここから先の横峰寺までの遍路道は、香園寺奥の院から横峰寺を逆打ちで辿り、この湯浪に下りた記事を参考にして頂ければと思う。
これで一応、逆打ちルートで辿った遍路道の下り口と繋いだ、ということで、次回は逆打ちルートで横峰へと登った第六十一番札所・香園寺経由の遍路道を辿ることにする。
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