先回の三角寺から雲辺寺までの遍路道散歩は、法皇山脈山麓の平山を経て、愛媛と徳島の県境・境目峠を越え徳島県の三好市池田町佐野の雲辺寺登山口までをメモした。
当日は雲辺寺口から阿讃山脈に入り雲辺寺へと続く尾根道まで歩いたのだが、その雲辺寺口からの阿讃山脈への「山入り」も含め、今回のメモで雲辺寺遍路道の山入り3ルートをまとめようと思う。
雲辺寺遍路道の「山入り3ルート」とは、自分が勝手に名付けたものであるが、その3つの遍路道は、上記佐野の雲辺寺口から阿讃山脈に入るルートが第一。これが最も古い遍路道と言う。佐野道とする。
第二の山入りは愛媛県と徳島県の県境である境目峠の少し西、愛媛県四国中央市川滝町下山七田から山稜に取り付き、尾根道を進み曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を雲辺寺へと向かうもの。このルートは雲辺寺口ルートの後に開かれたものと言う。曼陀道とする。
そして第三の山入りルートは、先回の散歩の折に偶々遍路道案内標識に出合ったものであり、遍路道としての記録は見当たらないが、愛媛県と徳島県の県境である境目峠から林道を曼陀峠に進み、七田から来る第二の遍路道(曼陀道)に合流し阿讃山脈の尾根道を進むもの。境目道とする。
この曼陀峠(曼陀トンネル(隧道)真上の鞍部。実際にこの峠名があるのかどうかわからないが、説明の都合上「曼陀峠」とする。正式な曼陀峠は旧曼陀峠とする)で合流した第二(曼陀道)、第三の遍路道(境目道)は、旧曼陀峠を経て阿讃山脈の尾根道を進み、佐野の雲辺寺口から上ってきた第一の遍路道(佐野道)と合流し、それから先はひとつとなって尾根道を進み雲辺寺へと向かうことになる。
メモの順序としては、最初に第一のルート・佐野道を尾根道合流点から雲辺寺までメモする。次いで第二のルート・曼陀道を、曼陀峠を経て佐野道との合流点まで。最後に第三のルート・境目道を曼陀峠までカバーすることにする。
本日のルート;
■佐野道■
佐野の雲辺寺口>48丁石と道標>47丁石>遍路墓>遍路供養塔>43丁石>道標と39丁石>41丁石・37丁石>38丁石・ 40丁石>上部の欠けた丁石>石碑と舟形地蔵>車道(阿讃県境山稜のみち)と合流>3基の舟形石仏>道標>雲辺寺1.3km地点に丁石>12丁石・11丁石>六地蔵峠からの道の交点に道標>土径に入る>車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵>土径を経て車道を境内に>六十五番札所・雲辺寺
■曼陀道■
七田集落から山稜に入る>簡易舗装の道に出る>尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る>簡易舗装の道となる>雲辺寺8.6kmの指導標>境目峠分岐点>境目>徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち)>左手が開ける>曼陀峠(仮称)>旧曼陀峠>平家の隠れ里・有木の案内>雲辺寺2.7lmの指導標>佐野道と合流
■境目道■
境目峠の徳島側で左折>民家が切れ土径に>民家が切れ土径に>遍路タグ>右手が開ける>再び右手が開ける>曼陀道と合流
■佐野道■
佐野の雲辺寺口;13時7分●澄禅
「えひめの記憶」をもとに簡単にまとめると、「京都智積院の学僧。承応2年(1653)、90日余にわたる四国巡拝の旅をし、遍路紀行『四国遍路日記』を著す。真念以前の四国八十八ヶ所霊場の巡拝記としては、今のところ、寛永15年(1638) 8月から11月にわたる『空性法親王四国霊場御巡行記』を初見とするが、澄禅の『四国遍路日記』はその15年後に書かれたもので、四国の風物・人情、札所の由来や伝説、遍路の実態等について筆のおもむくままに詳しく記した、きわめてすぐれた紀行とされる」とある。
48丁石と道標;13時28分
●4km・48丁?
先ほど遍路道上り口には雲辺寺4kmとあった。ここには48丁とある。1丁は109mであり、計算するとおおよそ5.5kmとなる。登山口にあった4㎞と間尺が合わない。
あれこれチェックすると、「みちのりは、あハととさ八(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これで佐野の集落にあった徳右衛門道標の示す一里と、この丁石の示す48丁は合ったのだが、登山口の4kmとは間尺が合わないままではある。
47丁石;13時34分(標高300m)
遍路墓;(標高400m)
遍路供養塔;13時47分(標高420m)
この雲辺寺へと上る道は、伊予の60番札所・横峰寺、阿波の19番札所・立江寺、土佐の27番札所。神峰寺への道と共に遍路の関所とも呼ばれる。悪事を働いた者は無事通ることができないとされるようであり(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)、それ故の行き倒れ?少々考え過ぎ。
43丁石;13時52分(標高440m)
道標と39丁石;13時54分(標高450m)
舟形地蔵丁石の前に倒れた石碑が見える。丁石のようではあるがはっきりしない。
41丁石・37丁石;13時59分(標高470m)
等高線に沿って僅かに進むと、道の右手、杉の木の前に顔が削り取られたような舟形地蔵丁石(13時57分;標高470m)。「三十七」と刻まれる。
38丁石・ 40丁石
そのすぐ先に「四十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。この仏様は数珠も持たず、手は印を結んでいるようにも見える。よく見ればそれぞれのお地蔵様の表情も姿も異なる。
標高440mの摩耗した丁石からここ標高500m地点まで、実際の距離、順序に関係なく丁石が集まっていたように思う。遍路道整備の折り、適当に場所を移されたのだろうか。その経緯は不明である。
上部の欠けた丁石;14時16分(標高610m)
石碑と舟形地蔵;14時22分(標高630m)
車道(阿讃県境山稜のみち)と合流;14時29分(標高660m)
車道には「雲辺寺2.5km」の木標。東に雲辺寺のある雲辺寺山(標高927m)が見える。
3基の舟形石仏;佐野から約1時間10分(標高690m)
道は佐野道からの合流地点から知らず30mほど高度を上げ、標高700m弱。雲辺寺の標高はおおよそ930m。ここから230mほど高度を上げることになる。 丁石の先で一瞬空が開け、左手に分岐する道がある。雲辺寺を案内する「四国のみち」は車道示すが、地図を見ると分岐道方向に県境に沿って実線・破線が雲辺寺まで続いており、この道が遍路道?と思い、しばし坂を上るが、遍路道案内の標識もタグもないため車道に引き返す。
道標;佐野から約1時間25分(標高770m)
手印が雲辺寺方向を示しているのがちょっと?ではあるが、道標があることで古き遍路道筋を進んでいることが確認でき、大いに安心。
雲辺寺1.3km地点に丁石;標高770m
12丁石・11丁石;標高790m
六地蔵峠からの道の交点に道標;佐野から約1時間35分(標高800m)
●県道268号
香川県から阿讃山脈の六地蔵峠を越える県道6号は峠を越えると鮎苦谷(あいくるしだに)川を下り、箸蔵道散歩(Ⅰ、Ⅱ)で出合った土讃線・坪尻駅の北で国道32号に合流する、雲辺寺への道は途中、野呂内で県道268号・野呂内三縄停車場線に折れ、鮎苦谷川の上流域に向かい、更にこの土讃線・三縄駅へと向かう県道から別れ、この地へ繋がる。
◆鮎苦谷
下流部に早瀬があり鮎が遡上するの苦しむ、といった渓相故の命名と言う。
土径に入る
●「四国のみち」の案内
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佐野道 |
ここから愛媛県境まで約2時間、川之江市七田までは10.3kmで3時間。国道を経由して三角寺かでは22.4kmで約7時間(後略)」とある。
阿讃山脈県境の尾根を走る車道は「阿讃県境山稜の道」と呼ばれるようだ。また、曼陀峠経由の遍路道(曼陀道と境目道)の時間と距離の目安がわかり、段取りつくりに役にたった。
◆四国のみち
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の指導標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。 環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。
車道合流点先に道標と2基の舟形地蔵;標高840m
●「四国霊場巡り」
「四国霊場巡り」には、「札所の番号の順に参るのが順打ち、その逆に参るのが逆打ち。四国霊場を七周すれば白の納経札が赤札、二十回で銀札、五十回以上が金札となる。四回に分けて回るの一国参りや十か所参りなど参拝の仕方もいろいろ 香川県」とある。
一つの県を国として参るの一国参りはよく聞くが、十か所参りは不詳。チェックしても検索にヒットしない。納経札が回数によって異なるとは知らなかった。 また、案内のクレジットに香川県とあるが、ここは未だ徳島県。そもそもが、雲辺寺は徳島県にあるのだが?チェックする。
●阿波の雲辺寺が讃岐の札所?
徳島県立博物館研究報告のレポート、「四国遍路札所寺院の本末論争関係資料について;雲辺寺所蔵文書の紹介と復刻(松永友和)」の中に、「「阿波国三好郡の雲辺寺は江戸時代の初期には地蔵院(萩原寺)の末寺であった.慶長二十年には多数の聖教を地蔵院へ寄進するなどその関係は密であった.その後,寛文年間に観音寺と同じく地蔵院末からの離脱を図ったが,幕府寺社奉行の裁許を受けるのは元禄年間であった.この時の裁許状は,本紙・写とも享保二十年の火災で焼失したため,その詳細は不明である新修大野原町誌編さん委員会編(2005)」といった記述があった。
萩原寺は香川県観音寺市大野原町萩原にあり、その寺の末寺であれば何となく讃岐の寺と見做してもいいようにも思えるのだが、事はそう簡単でもなく元禄期には既に本末の関係がはっきりしていない。上記研究レポートが示すように、萩原寺が雲辺寺をその末として徳島藩に訴えたことに対し、雲辺寺は反論しているわけで、両寺の本末関係は不明である。
とはいうものの、真念の『四国遍路道指南』には雲辺寺について、「右此(の)寺ハ阿州・与州・讃州三国の境なり、阿州領主より造営し給ふ、しかれども、讃州札所の数に入(る)」とあり、通例では讃岐の札所に入れて数えるようである。また、澄禅も『四国遍路日記』に「山ハ阿州ノ内、札ハ讃州ノ最初ナリ」と記す。
萩原寺が先ず訴え出た先が徳島藩であったことが示すように、寺は阿波にあったわけだが、江戸の頃には雲辺寺は既に讃岐の関所寺とみなされていたようである。阿讃県境山稜の道もおおむね徳島県域を進むのだが、香川県のクレジットとなっているのは、讃岐の札所と見做される雲辺寺へと続く故のことだろか。
2基の舟形地蔵丁石;標高840m
土径を経て車道を境内に;標高890m
六十五番札所・雲辺寺;佐野から2時間弱(標高910m)
●亀山院櫻岡之陵
で、この陵だが、亀山院は雲辺寺に帰依深く、崩御後その遺髪をこの地に埋めた場所。香川の善通寺にも後嵯峨天皇(父)、後宇多天皇天皇(子)の爪と髪を納めた三帝廟がある。讃岐は後嵯峨天皇一統の院分国であり、それゆえの繋がりだろう。因みに亀山院は京都の南禅寺の開基でもある。
ところで、「亀山院櫻岡之陵」と刻まれる石柱の対柱に「第二十五代豊田萬平建之」と刻まれる。豊田萬平さんとは愛媛・八幡浜の人でこの廟を整備した方。占で病治癒には亀山院のお墓に祈るべしとの御託宣。病回復のお礼にこの廟を整備したと(『四国遍路シリーズ へんろ道 讃岐編(梅村武著)』)。
●2丁石と夫婦杉
●本堂・大師堂
本坊の石垣に沿って歩く。歩いてきた道には山門が見当たらない。何となく、しっくりこないまま本堂への道を上る。本堂は建て直されたのか新しい、本堂にお参りし右手に移り大師堂に。
雲辺寺は真言宗御室派のお寺さま。巨鼇山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)と号し、本尊は千手観世音菩薩である。巨鼇山は前述の本末論争の萩原寺もこの山号をもつ。
天正5年(1577)に土佐を統一し、四国制覇を狙う土佐の戦国大名・長宗我部元親が雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語ったという。一説にはその野望を諌められた、とも。ともあれ讃岐・阿波・伊予を見下ろす立地故の逸話ではあろう。その山岳寺院も昭和62年(1987)には香川県観音寺市側の山麓と雲辺寺ロープウェイによって結ばれた。
●仁王門
参道を歩きながら、参道に山門がないのを不思議に思ったのは上でメモした。何となく気になりチェック。昔の写真には参道に古き趣の山門が建つ。その位置が変わっている。雲辺寺ロープウェイができ、人の流れが変わったことに対応したのだろうか。
これで佐野道のメモは終了。七田からの曼陀道のメモに移る。
■曼陀道■
七田集落から山稜に入る;標高240m
簡易舗装の道に出る;七田集落から10分(標高340m)
地図には描かれていないのだが、境目峠の手前、旧国道のヘアピン箇所から別れ尾根へと上る道の支道のようだ。案内に従い、右手に折れ、直ぐに「小道を登ってください 雲辺寺」のタグより簡易舗装の道を離れ左手の土径を上る。
尾根に上る舗装道・「四国のみち」に出る;七田集落から13分(標高350m)
◆メモの段階でわかったのだが、境目峠手前で旧国道から別れ尾根に進むこの道筋が「雲辺寺へのみち」と呼ばれる「四国のみち」であった。
簡易舗装の道となる;七田集落から18分(標高420m)
雲辺寺8.6kmの指導標;七田集落から約33分(標高490m)
少し進んだ山稜の下を松山自動車道の新境目トンネルが抜ける。
境目峠分岐点;七田集落から約50分(標高540m)
遍路道はここで境目峠へと向かう道と別れ、手印と共に「雲辺寺」を示す土径に入る。簡易舗装からわかれ、やっと土径に入る。
境目;七田集落から約55分(標高570m)
ここから更に北東へ、香川・徳島の県境を約8㎞行った徳島県側に、香川県の打ち始め「66番札所雲辺寺」があります」との案内がある。
案内傍には左右を示す道標と丁石らしき舟形石仏がある。摩耗し文字は読めない。
●四国のみちの愛媛県域・始点と終点
過日、予土国境の松尾峠を越えたとき、「四国のみち」の始点に出合った。ここで愛媛県域の終点に出合う。何ということはないのだが、また「四国のみち」をトレースしたわけでもないのだが、故なき達成感がある。
徳島・香川県境の尾根道(阿讃県境山稜のみち);標高550m
●讃岐山脈と阿讃山脈
阿讃山脈は徳島と香川の境を南北に、香川と愛媛の境を東西に連なる山脈。正式には讃岐山脈と呼ばれるが、伊予と讃岐を隔てる地政上のインパクトはそれほどなく、実質的には阿波(徳島)と讃岐(香川)の境となる故に阿讃山脈と呼ばれるのだろう。
尾根筋を歩きながら、尾根筋山頂部に平坦地が目立つことが気になった。チェックすると、讃岐山脈は早壮年期の山地地形を示すとある。一部の山頂部に幼年期の準平原の名残としての平坦部を残すようである。地形は幼年期>早壮年山地>満壮年山地(山稜は鋭くの鋸歯状山形)>晩壮年山地(山頂は風化が進み円みを帯びる)と「輪廻」する。
左手が開ける;七田集落から約1時間10分(標高540m)
曼陀峠(仮称);曼陀トンネル真上の車道に出る;七田集落から約1時間20分(標高530m)

説明の都合上、この地を曼陀峠と呼ぶが、ここから雲辺寺まではこの車道を進む。Google Street Viewでチェックすると道は完全舗装されている。曼陀トンネル出口からこの車道を使えば、雲辺寺まで車で進めそうだ。阿讃山脈の山登りを楽しむ人の車が数台駐車していた。
カーブを曲がり切った車道右手には手印と共に「へんろ」「明治三十四」と刻まれた道標が雲辺寺を指す。
●境目峠からの遍路道(境目道)合流点
地図にはここから境目峠へ向けて実線が描かれているのだが、切通し部に立つ指導標の案内は何もない。地図にはこの実線部に「四国のみち」と描かれているが、四国のみちは今辿ってきた尾根道であり、少々紛らわしい。
旧曼陀峠;七田集落から約1時間40分(標高550m)
案内には「昔栄えた曼陀峠。ここは標高約600メートルの曼陀峠です。阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていました。また東は四国霊場六十六番札所雲辺寺、西は六十五番札所三角寺に通じるへんろ道もちょうどこの峠を通っていました。
曼陀峠の曼陀は、曼陀羅の転訛したもので、屋島の合戦後平家一門がこの地に落ち延び、一族の供養のための法要、曼陀羅供(まんだらく)を営んだところから名付けられたものだと思われます。
クレジットは香川県とあるように、「四国のみち」もこのルートは香川県のルートとなっていた。
案内には「阿波と讃岐を結ぶ生活の道が、この峠を越えて南北に通じていた」とある。地図には北の香川県観音寺市大野原町海老済(えびすくい)方面からはそれらしき実線・破線が旧曼陀峠まで描かれているが、峠から南には道を示す線は無い。すぐ南の竹藪に入り、沢に沿って佐野へと下ってゆくのだろうが、道は消え藪漕ぎをしなければならないようだ。ちょっと残念。
借耕牛の話は過日箸蔵道(Ⅰ、Ⅱ)を辿った時に出合った。古くは11ほどあったという阿讃山脈にある主要な峠道を仮耕牛が往来したのだろう。
●海老済(えびすくい)
「えびすく」ともいい「西讃府志」によれば丹波ともいった。地名の由来は古代中国の制度による都から500里(約300m)以上離れた未開の土地を意味する荒服(えびすふく)が転訛したものか。また、夷人(えびす)を籠め置いたの意「エビスクイ」が転訛したものともいう(『角川日本地名大辞典』)。
●巡検使
巡見使(じゅんけんし)とは、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使があった(Wikipedia)
平家の隠れ里・有木の案内;七田集落から約2時間20分
香川県側の山裾には、かつて栄えた五郷渓温泉と町指定の文化財である阿弥陀如来座像を祀る阿弥陀堂があります。また、斜面を利用して香味の良い五郷茶が栽培されています。
寿永四年(1185年)早春の屋島で繰り広げられた源平合戦のおり、小松少将「平有盛」は夜陰にまぎれて曼陀峠に落ち延び、「有盛」は有木谷へ、家臣の「真鍋次郎清房」は、愛媛県の川之江市切山の奥深く隠れ住んだといわれています。 その時、「有盛」が持参したと伝えられる桧材寄木造り彩色漆箔の阿弥陀如来座像(52.5cm)は、藤原時代(十二世紀)の都作りとして有名です。
また、「有盛」が身につけていた名剣 ”小烏丸(こがらすまる)” は盗難にあい、陣太鼓は、有木 ”三部神社” に祀られています。 昭和62年(1987年)3月 香川県」とあった。
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曼陀道と境目道 |
Wikipediaには平有盛について、「平 有盛(たいら の ありもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の四男。母は正室の藤原経子。
異母兄の資盛に従い、三草山の戦いに参戦。源義経に敗れた後は、屋島の平家本陣に落ち延びた。最後は壇ノ浦の戦いにおいて、資盛、従兄の行盛と三名で手を取り合い、海中に身を投じた。享年22。
伝説;奄美群島には資盛、行盛、有盛が落ち延びたという平家の落人伝説がある。行盛神社、有盛神社、資盛の大屯神社が祀られ、特に平安文化が融合した諸鈍シバヤは重要無形民俗文化財に指定されている。
また、香川県観音寺市大野原町五郷有木に、平有盛が有木と名を変えて暮らしていた平家落人村があったことが、生駒記「新編丸亀市史4資料編:平成六年刊行」に記載されており、太刀や木造阿弥陀如来座像も残されている」とあった。
『山と通婚圏;瀬川清子(民俗学研究)』には、古老の話として五郷村有木には、「平家のアリモリさんというオヤ神さん(氏神)が有木部落の山が浅い 、といって阿波の祖谷に行かれた」という言い伝えもあるとする。
平家の落人伝説もさることながら、峠を介した讃岐と阿波の交流、生活圏の結びつきに惹かれる。上述『山と通婚圏』には、有木集落の「昔の第一の仕事は観音寺から海老済の荷屋にきた魚を竹の丸籠に入れて村の男らが天秤でかついで漫陀峠を越へて阿波の佐野、川口、池田町、祖谷方面に運ぶことであった(オクリの肴)。また、阿波の川口の井川の酒屋へ3里半の道を米をになうて行った」とある。実際、有木集落では讃岐より阿波や伊予との結婚が多かったようである。
唐突な案内ではあったが、チェックすると興味深いトピックが登場した。また、曼陀峠は平家一門の供養故の地名でもあり、とすれば有木の案内はそれほど唐突でもないように思えてきた。平を冠した姓も多く、上屋敷、中屋敷、下屋敷など山村に不釣り合いな地名も残り、現在でも「ありもりさん」と呼ばれる三部神社を祀る平家の隠れ里・有木の集落を訪れてみたくなった。
雲辺寺2.7lmの指導標;七田集落から約2時間30分
「昭和四十五年度、四十六年度による自立経営農家を育成する目的で造成された畑です。雲辺寺山頂付近から曼陀峠に傾斜した、東西四キロメートル南北〇・三キロメートルの尾根沿いに開かれており、総面積は三二・一ヘクタールです。 現在、曼陀高冷地野菜生産組合が組織され、毎年四月から十月頃にかけて、キャベツの二作取りを中心に栽培がおこなわれています。
平均標高六〇〇メートルの高冷地で栽培されるため病害虫の被害が少なく、高品質のキャベツが生産されています」とあるのだが、周囲はススキの原であり、それらしき高原野菜の生産地が見当たらない。少し手前にはちょっと開けた耕地らしきものも見かけたのだが、人の気配もなく「団地」といった雰囲気からは程遠い。案内は四半世紀前のものであり、状況が変わってしまったのだろうか。
佐野道と合流;七田集落から約2時間40分
■境目道■
3つ目の遍路道、境目峠から進み、曼陀峠で曼陀道に合流する境目道メモする。
境目峠の徳島側で左折
民家が切れ土径に;旧国道分岐点から15分
分岐点;旧国道分点から18分
遍路タグ;旧国道分岐点から約40分
分岐点から歩くこと18分、高度を60mほど上げ尾根筋が東に突き出したところに遍路道を示すタグがあった。この遍路道で遍路に関係する唯一のものであった。
右手が開ける;旧国道分岐点から約55分
再び右手が開ける;旧国道分岐点から約60分
曼陀道と合流;旧国道分岐点から約65分

ここから先は曼陀道のメモと同じ。
この遍路道は何があるわけでもなく、木々に覆われた林道を進むのみ。3コースのうち一番楽ちんではあるが、あまり楽しいルートではなかった。
■佐野道・曼陀道・境目道の比較■
●時間的にはどのルートもそれほど大きく変わらない
●どのルートも道迷いの心配はない
●一番きついのは佐野道、一番楽なのは境目道
●一番趣があるのは佐野道、一番味気ないのは境目道
●それほどきつくもないが、それほど趣もないのが曼陀道
●体力・気力が残っていれば佐野道、そこそこ景観も楽しみながらというのであれば曼陀道、とりあえず雲辺寺へ急ぎたい場合は曼陀道、というとことだろうか。