本日のルート;遍路わかれ>県道126号との分岐箇所に道標2基>不老谷川・延命橋>茂兵衛道標と道標1基>印象的な手印道標>11号バイパス沿いに道標>コンビニ駐車場端に道標>ブロック塀に囲まれた茂兵衛道標>3基の道標;箸蔵道分岐点>廻国供養塔>中田井の道標>小川手前の道標>T字路に道標>民家敷地内に道標と地蔵>道標と遍路石案内>真念道標>茂兵衛道標>集落の中に道標>茂兵衛道標と標石>銅山川疏水公園の道標>山上集会所>常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」>道標>鰻谷川の谷筋手前に道標>鰻川谷右岸の道標>山道に>おかげの地蔵と道標>丁石(天十丁)>丁石(天九丁)と傾いた道標>道標2基と地蔵丁石>道標と休憩ベンチ>車道に合流>車道右手に道標>六十五番札所・三角寺
遍路わかれ
西條市の六十三番札所・吉祥寺から40キロ近く、金比羅道を辿った遍路道は、旧三島市の国道11号・川之江三島バイパス・中之庄交差点で金比羅道と別れる。 金比羅道は交差点に立つ「箸蔵道」への道標手前から北へと逸れるが、遍路道はそのまま、県道126号を直進することになる。
●県道126号
地図を見るまでわからなかったのだが、金比羅道は寒川の樋の尾谷川手前で南から来た県道126号に合わさり、そこから東の金比羅道は県道125号となっていた。
また、この愛媛県道126号上猿田三島線を地図でチェックすると上猿田は法皇山脈の南、銅山川の谷筋にある富郷ダムの南、高知県の本山町に繋がる白髭隧道あたりに見える。
法皇山脈の北、新長谷寺脇の谷筋から法皇山脈に入り、林道といった様で法皇山脈を越えるようだが、一部道が切れているようにも見える。
県道126号との分岐箇所に道標2基
県道126号を少し東に進むと、紙工会社の倉庫手前に県道から分かれ右に折れる道があり、その角に道標2基が立つ。共に「右 へんろ道」と刻まれる。明治と江戸期天保時代(1831年‐1845)建立の道標と言う。その横にはコンクリート覆屋の中に地蔵が佇む。
石床大師堂
右に折れた遍路道はカーブを描き少し東に向かう。四つ角に石床大師堂がある。小振りな境内に常夜灯や地蔵物、石碑が並び、堂宇には「ひよけ大師」とある。「ひよけ」の由来は不詳だが、火伏・火防の神である秋葉神社を「火除の神」と称されるため、火伏・火防に由来するお大師さんかもしれない。単なる妄想。根拠なし。
●徳右衛門道標
境内に並ぶ石碑・石仏のうち、道路側の道標は徳右衛門道標。破損された上部に補修の跡が見える道標には「□より□寺一里」と刻まれる。その右横の地蔵が座る台座には「三界萬霊」と刻まれる。「えひめの記憶」には台座が丁石となっているとするが、文字は読めなかった。
●茂兵衛道標
また、境内端の道路脇には茂兵衛道標が立ち、両方向を示す手印と共に「三角寺 金光山仙龍寺 前神寺」の文字が刻まれる。
●三界萬霊
欲界・色界・無色界の三界の霊を供養すること。欲界は文字通り、色界は欲界からは離れるも、未だ形あるもの(色)に囚われている世界、無色界は欲からも形あるものからも離れた精神世界。
不老谷川・延命橋
石床川の下石床橋を渡り、石床地区を進むと不老谷(ふろうたに)川に架かる延命橋に。親柱が古い石のままで残されている。その先で国道319号を越える。
茂兵衛道標と道標1基
国道319号を越えると道の右手に道標が2基並ぶ。大きい方が茂兵衛道標。手印と共に「三角寺 前神寺」の文字が刻まれる。もうひとつの道標には「へんろ道」とある。
ところで、この茂兵衛道標だが、Google Mapに「遍路道 茂兵衛道標」とマークされている。幾多の茂兵衛道標が立つ中で、何故この道標が地図にマークさえるのだろう。この道標は百六十度目のものであり、二百八十回にも及ぶ四国遍路巡礼の中ではそれほどの意味も持たないようにも思うのだが、ともあれ、このマークがあるため、ここが遍路わかれの地であろうと少々混乱した。
印象的な手印道標
一筋先の四辻右手に、折れてしまったのか、道標上部の手印、「左 へんろ三」らしき文字だけが路面から顔を出す道標がある。この標石の手印は石柱の幅からはみ出している。印象に残る道標であった。
●遍路道を推定
ここから先、三角寺に上る山裾までの遍路道について「えひめの記憶」には、「ここから先の遍路道沿いには遍路道標が多く、上秋則地区に至るまでに8基の道標がある。(中略)上秋則地区で道は左右に分かれ、右が三角寺への遍路道、左が徳島県の箸蔵(はしくら)寺に向かう箸蔵道だが、近年の区画整理と宅地開発によって、この分岐点周辺は様変わりしてわかりにくくなった。
コールタールがかかった痛々しい状態の茂兵衛道標、並んで立つ3基の道標、そのすぐ南の地蔵の台石の道標など、このあたりの道標群はいずれも付近から移設されたものと考えられる。
さらにここから中田井地区にかけては、江戸時代後期に中曽根村(現伊予三島市中曽根町)の人々によって建立された5基の道標が続く。横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標が立っている」とある。 が、これだけではルートを特定するのは少々難しい。で、いつだったか銅山川疏水散歩の折、松山自動車道の南、赤之井川右岸に「戸川公園(疏水公園)」があり、そこに三角寺へ向かう標識があるのを思い出し、そこからルートを「逆算」することにした。
手懸りは「横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標が立っている」の記事。地図で疏水公園の西にある横地山の山裾を見ていると、「遍路石」のマークがある。遍路標識の手印もある。Google Street Viewで少し東をチェックすると真念道標らしき道標も立つ。
ここが山裾の遍路道。これが確定できれば、そこから逆算し、中田井、秋則地区を通る、いかにも昔道といった「自然な」カーブで進む道をトレースし、Google Street Viewで幾つかの遍路道標を確認。上記印象的な手印道標から山裾までのルートを推定することができた。Google Street Viewのお蔭である。
11号バイパス沿いに道標
推定した遍路道を進む。手印道標から少し進むと道の左手に石仏が2体並ぶ。大きいほうの微笑む仏様の石仏には「三界萬霊 天保六」、その台座には「六塚中」と刻まれる。六塚はこの地の地名。天保年間は1831年から1845まで。
その石仏の反対側、道の右手には国道11号バイパスに沿って道標と案内がある。道標には「此の方 へんろ」の文字が読める。案内には「若連中建立の遍路石 この石柱に刻まれた天明八年(1788)は近隣の遍路標石中古い方に属する年号で、中曽根村が三角寺道をつけた時期につながる。天明年間は1781年から1789年まで。
当村には古くから別れ路等に地蔵尊があった。この年から集落毎に若者や女性達仲間がへんろさんの為に道標を立て始めた。これが近隣に広がる。さらに宇摩郡や全国の篤志家も、三角寺や奥の院への道筋に案内石を建てた。 その上古い奥の院詣での丁石などを加えると八十八カ所中、遍路石の数は大変大きくなったと言える。 平成十三年 伊予三島市教育委員会 11号バイパス開通により移動設置する。 (へんろみちは歩道橋を渡って東進してください)」とあった。
連中とは講を組んで寺社にお参りするグループのことだろうか。であれば上記「六塚中」は六塚連中となる。
コンビニ駐車場端に道標
案内に従い溝又交差点の歩道橋を渡り、如何にも昔道といったゆるやかな曲線で進む道に向かう。国道11号バイパスの一筋南の道に交差する箇所、コンビニ駐車場端に道標が立っていた。
「三角寺 四 へんろ道 文化」といった文字が読める。四は距離から考えて四十丁が摩耗したものだろう。文化年間は江戸期、1804年から1818年まで。
どうでもいいことではあるが、Google Street Viewでチェックした時は、民家の庭端に道標が立っていたが、現在はコンビニとなっていた。
ブロック塀に囲まれた茂兵衛道標
宮川に架かる豊年橋を渡り少し進むと、民家のブロック塀に囲まれた茂兵衛道標がある。「三角寺一里 前神寺九里余 大正六年」といった文字が刻まれる。
3基の道標;箸蔵道分岐点
東に進み、下秋則交差点から続く道の一筋東を右折する。Google Street Viewで幾つかの道標をチェックした道筋である。ここがかつての「えひめの記憶」にある三角寺への遍路道と箸蔵道が分かれるところだろうか。
箸蔵道は記述の如く徳島県三好氏池田町にある金毘羅宮の奥の院・箸蔵寺への参詣道。大雑把に言って、昔の伊予街道(阿波街道)、現在の国道192号の道筋を進むことになる。
箸蔵道分岐点であろう箇所から道を南に少し進むと3基の道標が立つ。左から背の高い順に並び、左端は「右 三角 左 寺 明治十五年」、真ん中は「右 へんろ道 文化」、右端は「左 三角寺道 三十」といった文字が刻まれる。右端の道標は移動したものだろう。文化年間は1804年から1818年まで。
廻国供養塔
直進すると八幡神社参詣口の鳥居に向かうところで遍路道は左に折れる。その左角に「大乗妙典日本廻国供養塔」と地蔵堂がある。「廻国供養塔」は天保三年と刻まれる。地蔵堂の台座石には「三界萬霊」と刻まれる。天保年間は1831年から1845年まで。
廻国供養塔は六十六部廻国供養塔だろうか。六十六部(または六部)と呼ばれる諸国を遍歴する行者とのなんらなかの結縁にて建立された供養塔。六十六部の所以は、法華経を書写し全国六十六カ国の霊場に一部ずつ納経し満願結縁とする巡礼行。行者は六部とも称される。
中田井の道標
如何にも昔道といった自然なカーブを描く道を100mほど進むと、道の右手に立派な道標が立つ。「左 へんろ道 三角寺江三十四 文化五」といった文字が刻まれる。文化年間は江戸期、1804年から1818年まで。
小川手前の道標
更に100mほど道を進むと小川に架かる橋の手前に遍路道標がある。「此方 へんろミち 三角寺 文政」といった文字が刻まれる。
T字路に道標
中田井集会所を越えT字路を右折。角に道標があり「此方 遍路道 三角寺迄三十二丁 文化」といった文字が刻まれる。文化年間は1804年から1818年。T字路として遍路道を右に向ける邸宅は、製紙会社の町である旧伊予三島市の中核となる大王製紙オーナー家という。
民家敷地内に道標と地蔵
T字路を右に折れ、南へと進路を変えた遍路道を進むとほどなく民家敷地内に立つ道標と地蔵に出合う。「此方 へんろみち 三角寺三十一丁 文政」といった文字が刻まれる。文政年間は1818から1831。
道標横には台座に「三界萬霊」と刻まれるお地蔵さまが座す。慶長七年の銘のある戒名が刻まれる。慶長年間は徳川幕府の開幕の頃。結構古い。
道標と遍路石案内
次いで、Google Mapに「遍路石」とマークされ、この山裾までの遍路道を推定する基準点ともなった遍路石へと向かう。南に進み松山自動車道を潜るとT字の突き当たりに笠のついた道標と案内がある。
笠と道標本体の質感が異なる。笠は後から取り付けられらものだろう。道標には「遍んろ道 三角寺三十丁 奥之院八十八丁」「是ヨリ前神寺九里廿丁」「安政三」といった文字が刻まれる。また、道標に刻まれた石仏は観音菩薩のようである。安政3年は1856年。
案内には 「へんろ道と道しるべ 市内にはこのような道しるべが、約50基ある。そのうち38基が「遍路道」や「三角寺道」で四国八十八か所めぐりをするひとのためにつくられたものです。
中之庄からは1丁(109m)ごとにたてられています。これらは、約200年程前からつくられています。なかでも中努茂兵衛(山口県)が建てたものが8基もあります。茂兵衛さんは八十八か所を生涯に280回もめぐった大先達でたいへん尊敬されていた人です。
このほか香川県の琴平に通ずる「金比羅道」や徳島県の箸蔵寺へ通じる「はしくら道」の道標もあります。
案内と共に描かれた絵には遍路道や道標が見える。辿った道筋の道標はカバーしているようである。また、先ほど出合った大王製紙オーナー家、井川邸は「今藩 大庄屋 今村庄屋跡」とある。先回出合った西条藩境界石の図を照らし合わすと、この辺りの中曽根・上柏辺地域は今治藩となっている。絵にある「今」とは「今治藩」ということではなかろうか。
また、「はしくら道」」は道標「三角寺三十五丁」の箇所から分岐している。遍路道に山十五丁の道標は認めなかったが、中田井(仮称)の道標が三角寺まで三十四丁とあったわけで、であれば、前述の予測の通り3基の道標があった辺りが遍路道とはしくら道の分岐であったように思える。
真念道標
案内図によれば、遍路道は少し東進した後、南東に折れて山裾を進む。東進すると、真念道標と案内があり、「真念法師は、今から300年前、元禄前後の人で、四国八十八カ所巡りの中興の祖である。「四国遍路道指南(みちしるべ);〈1678年発行〉」「四国遍礼功徳記(こうとくき);(1690年発行)」の著書がある。 また、大阪などの信者から喜捨を募り、遍路する人のために案内石を建立している。このような真念ゆかりの道標は、今のところ三十三基確認されている。 現在の位置は墓地造成のため移動。元の遍路道は左上がり東進 平成14年 伊予三島市教育委員会」と記される。
道標には「右 へん路みち」 「大坂寺嶋 阿波屋」といった文字が刻まれる。大坂寺嶋は真念の生まれたところ、阿波屋は施主の銘である。
●真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。
茂兵衛道標
道を山裾に向かってすすみ、少しの間遍路道といった雰囲気に浸るが、すぐに柏配水池の施設脇を進むことになり、そこを抜けると上柏町の集落に入る。集落入口に茂兵衛道標が立つ。文字は摩耗してはっきりしない。
集落の中に道標
集落を進み、T字路を左に折れ緩やかな坂が下りる手前の民家生垣に道標。「此方 へんろ道 三角寺廿二丁 右前神寺九里 元治」といった文字が刻まれる。 元治年間は1864年から1865年まで。
茂兵衛道標と標石
カーブを描く緩やかな坂を下ると銅山川発電所前に出る。銅山川疏水散歩の手始めとして、法皇山脈を穿ち、吉野川水・銅山川の水を引き、この発電所に落とす導水管始点へと辿ったことを思い出す。
それはともあれ、坂道を下り切った発電所前のT字路を少し左に折れたところに2基の道標がある。1期は茂兵衛道標。「六十四番前神寺 右 三角寺」と刻まれる。もう1基には「右 熊白大権現 昭和四年」とある。熊白大権現は不詳。
この道標は今まで辿った遍路道とは別の遍路道といった説もあるようだ。実際遍路石の案内図には遍路道から分かれた「はしくら道」を少し東進した後、南に折れてこの地に向かう道が「さんかく寺道」として描かれていた。途中に三角寺三十五丁の道標があるが、この道標には帰途、偶然出会って確認している。
●銅山川発電所
発電所前の案内には「銅山川発電所は、𠮷野川総合開発事業により、𠮷野川水系銅山川に建設された冨郷・柳瀬・新宮ダムの3つのダムに貯えた水を利用して発電する水力発電所です。
また、3つのダムに貯えた水は、法皇山脈に造った導水トンネルにより愛媛県側に導水され、発電および宇摩地区のかんがい用水並びに、水道用水・工業用水に利用されています」とある。
銅山川疏水公園(戸川公園)
発電所から道なりに進むとT字路に。そこには銅山川疏水公園(戸川公園) がある。昭和28年(1953)の柳瀬ダム・銅山川疎水の完成を記念して整備された公園と言う。もう何年も前のことになるが、銅山川疏水を辿る散歩の始点としてこの公園を訪れた。
銅山川疏水のあれこれは、数回にわけて歩いた銅山川疏水散歩に譲るとして、公園に残る遍路標石をチェックすると道標、供養塔が立っていた。
道標はT字路の道端、公園の石垣・生垣に囲まれてある。正面には「へんろみち」、側面には「光明真言宗二百万遍」と刻まれる。天保12年から弘化4年(1841‐1847)の7年に光明真言を二百万遍唱えたということだから、一日平均千回以上唱えることになる。
また園内には横死した遍路を弔う「大乗妙典一石一字塔」、「秩父坂東 中国西国 廻国供養塔」と刻まれた石碑が立つ。
◆光明真言
「オン アボキャ ベイロシャノウ(オーン(聖なる呪文) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ)
マカボダラ マニ ハンドマ(偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ) ジンバラ ハラバリタヤ ウン光明を 放ち給え フーン (聖音);Wikipedia」
●「疏水記念公園;戸川公園」の案内
「4年に1度大干害に苦しめられてきた農民にとって、銅山川からの疏水は百年前からの夢であった。疏水実現のため努力を重ねた松柏村村長森実盛遠氏をはじめ多くの人の願いがみのり、昭和⒓年よりトンネル工事が始まり、昭和28年柳瀬ダムが完成し、多年の夢であった銅山川の水が戸川に絶え間なく流れ落ちてきた。
この水は電力をはじめ農業用水、工業用水や飲料水として広く利用せられ、郷土の産業発展と市民生活の向上に多大の恩恵をもたらした。時の村長村上栄作氏は、ながく先人の偉業を伝えるため、この地に頌徳碑を建立し桜を植えこの疏水記念公園を設置された。
園内には、四国遍路者を供養した文化5年の一石一字塔や光明真言宗二百万篇を記念した弘化4年の道しるべ、四国西国供養塔、水害で殉職された福田武太郎氏や松柏発展に尽力された村上栄作氏の銅像があり、市民いこいの地となっている」。
山上集会所
戸川公園を越えると遍路道は山裾から山麓への三角寺へと上る坂道となる。舗装された車道を進み赤之井川と城川の合流点を越えると、一瞬ショートカットの細道となるが、それもすぐに車道に合流し、高度を上げて城川を渡り道なりに進むと山上集会所前に至る。
車で三角寺に進むには、この山上集会所角を右折するが、歩き遍路は道を直進することになる。
「えひめの記憶」に拠れば、「集会所敷地内には2基の道標が移設・保存されている。ここにはかつては観音堂があったといわれ、小林一茶が三角寺に詣(もう)でた際にここで休息したという「一茶の腰掛石」が残り、その傍らには一茶の句碑も建立されている」とのこと。
一茶の句碑と腰掛石は道沿いフェンスの中にあったが、道標についてはそれらしきものが1基のみ目についた。
常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」
道を進むと常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」が道の左手に立つ。縦長の灯籠に入母屋屋根が乗る。石碑には「明治3年(1870年)、すぐ近くに位置する北岡山古墳群(宇頭乃御燈の少し北。7世紀頃の横穴式石室をもつ2基の古墳が残る)に鎮座していた若宮神社に奉納されたものが、明治42年に社が滝神社(松山自動車道の北、中田井浄水場の東にある)に合祀される際に、横尾東部の三角寺道に滝神社のお旅所として移された。その後昭和初期にこの地に移され、常夜灯として地域の人々やお遍路さんの足下を照らした」といった案内があった。
道標
常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」から道なりに少し進むと道標があり、手印と共に「此方 へんろ道」、側面には「おくの院迄七十六丁」らしき文字も読める。手印に従い先に進む。
鰻谷川の谷筋手前に道標
道を進むと左手が開ける。ほどなく鰻谷川が刻む谷筋に。道が二手に分かれる角に道標が立ち、「此方 へんろ道」と右に折れる簡易舗装道を示す。舗装道は急坂を谷筋へと下るが、遍路道は右に折れ崖線に沿って緩やかに鰻谷川筋へと下ってゆく。
道標脇に遍路道の案内地図があったのだが、今一つ位置関係がよくわからない地図ではあった。
鰻川谷右岸の道標
鰻谷川に架かる橋を渡ると上柏平木地区に入る。川に沿った簡易舗装の道を進み一筋上流に架かる橋の東岸をそのまま直進すると立派な道標が立つ。手印と共に三角寺や奥の院、前神寺への里程を示すこの道標箇所で遍路道は鰻谷川筋を離れ東へと山向かうことになる。
山道に
緩やかに簡易舗装の坂を上り、160m等高線に沿って山裾と畑地の境を進む。開けた左手の景色を楽しみながら進むと木々に覆われた道は更に細くなり山道へと入って行く。簡易舗装はまだ続く。
おかげの地蔵と道標;12時49分
少し進むと祠がある。「えひめの記憶」には「おかげの地蔵」とある。弘法大師の霊験譚に由来するとのことだが、内容は不詳。祠にはおかげ地蔵と小さなお地蔵さま。祠の周りには常夜灯、そして横死した遍路を供養する遍路墓が祀られていた。
祠の直ぐ上には道標も立つ。「左 へんろみち」と刻まれる。
丁石(天十丁)
北に少し張り出した200m等高線に沿っておかげの地蔵から2分ほど上ると、簡易舗装も切れ更に細い山道にはいる。200mから220m等高線へと斜めに道を3分ほど上ると丁石があり「天十丁」と刻まれる。「天」の意味は不詳。
丁石(天九丁)と傾いた道標
さらに4分歩くと道端に丁石。「天九丁」と刻まれる。そこからすく先に傾いた道標があり「右 三角寺 左 村松大師堂」と刻まれる。村松大師は伊予三島市下柏町村松にある大師堂であり、のどや腹に飲み込んだ異物を除去してくれる「のぎよけ大師」として知られている、と「えひめの記憶」にある。
道標2基と地蔵丁石
等高線をに沿って、または緩やかに等高線を斜めに横切りながら上ってきた遍路道は、傾いた道標から先は、南に切り込んだ等高線に垂直に上ることになる。等高線の間隔は比較的広く、それほど厳しい上りではなり。道は旧伊予三島市と旧川之江市の市境を進むようである。
5分ほど歩き標高を50mほどあげ、標高300m辺り、道の両側に道標が立つ。共に三角寺を指す。すぐ上にも「左 三角寺」と刻まれた地蔵丁石も立つ。
道標
2分ほどの上りで道標に出合う。「左 三角寺」と刻まれる。傍には休憩ベンチもあった。切り込んだ等高線の上りもここでお終い。おかげの地蔵からおおよそ30分、比高差120mほどの上りではあった。
車道に合流
休憩所から標高を10mほど上げた後、右手の車道に沿って緩やかな上り道を進むと車道に合流する。休憩所からおおよそ5分程度である。
車道右手に道標
遍路道が車道に合流した箇所のすぐ先、車道右手に立派な道標が立つ。「三角寺道 是ヨリ四丁 左前神寺道 是与十里 文政七」といった文字が刻まれる。文政7年は1824年。
六十五番札所・三角寺
道標にある四丁、おおよそ500m弱歩くと三角寺に到着する。
●三角寺への旧遍路道の地図
上述、三角寺までの山道の地図を参考までに載せておく。
●三角寺から奥の院を経て平山への遍路道
これで六十一番札所・香園寺から六十五番札所・三角寺への遍路道を繋いだ。 三角寺またその奥院である仙龍寺については、二度に分けてメモした記事を差の参考にしてほしい(Ⅰ、Ⅱ)。歩き遍路で疲れた身体ではあると思うのだが、奥の院道は結構歩いた遍路道の中でもおすすめのルートである。
で、三角寺から次の札所である讃岐の六十六番札所・雲辺寺への遍路道であるが、奥の院経由であろうと、三角寺経由であろうと四国中央市の山麓にある平山の集落を経由し、東へと進み金生川筋に向かうことになる。
三角寺から直接平山に向かう道は車道でありそれほど風情がある道筋でもないので省略するが、奥の院経由の道の地図は参考につけておく。
三角寺から奥の院を打ち法皇山脈の堀切峠近くの峰の地蔵を越えて三角寺に戻った時は、それほど遍路道に興味があったわけでもなく、峰の地蔵から平山に下ることなく三角寺へと戻った。峰の地蔵から平山を繋ぐ遍路道は、まったく別テーマである土佐北街道横峰越えの際、偶々遍路道標に出合い、好奇心だけでその道筋に寄り道し結果の賜物である。奥の院からの復路道は、このまったく別テーマ散歩の合わせ技である。あれこれ歩くと、いろんなものが繋がってくる。
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