本日のルート;遍路わかれ>県道126号との分岐箇所に道標2基>不老谷川・延命橋>茂兵衛道標と道標1基>印象的な手印道標>11号バイパス沿いに道標>コンビニ駐車場端に道標>ブロック塀に囲まれた茂兵衛道標>3基の道標;箸蔵道分岐点>廻国供養塔>中田井の道標>小川手前の道標>T字路に道標>民家敷地内に道標と地蔵>道標と遍路石案内>真念道標>茂兵衛道標>集落の中に道標>茂兵衛道標と標石>銅山川疏水公園の道標>山上集会所>常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」>道標>鰻谷川の谷筋手前に道標>鰻川谷右岸の道標>山道に>おかげの地蔵と道標>丁石(天十丁)>丁石(天九丁)と傾いた道標>道標2基と地蔵丁石>道標と休憩ベンチ>車道に合流>車道右手に道標>六十五番札所・三角寺
遍路わかれ
●県道126号
地図を見るまでわからなかったのだが、金比羅道は寒川の樋の尾谷川手前で南から来た県道126号に合わさり、そこから東の金比羅道は県道125号となっていた。
また、この愛媛県道126号上猿田三島線を地図でチェックすると上猿田は法皇山脈の南、銅山川の谷筋にある富郷ダムの南、高知県の本山町に繋がる白髭隧道あたりに見える。
法皇山脈の北、新長谷寺脇の谷筋から法皇山脈に入り、林道といった様で法皇山脈を越えるようだが、一部道が切れているようにも見える。
県道126号との分岐箇所に道標2基
石床大師堂
●徳右衛門道標
●茂兵衛道標
●三界萬霊
欲界・色界・無色界の三界の霊を供養すること。欲界は文字通り、色界は欲界からは離れるも、未だ形あるもの(色)に囚われている世界、無色界は欲からも形あるものからも離れた精神世界。
不老谷川・延命橋
茂兵衛道標と道標1基
ところで、この茂兵衛道標だが、Google Mapに「遍路道 茂兵衛道標」とマークされている。幾多の茂兵衛道標が立つ中で、何故この道標が地図にマークさえるのだろう。この道標は百六十度目のものであり、二百八十回にも及ぶ四国遍路巡礼の中ではそれほどの意味も持たないようにも思うのだが、ともあれ、このマークがあるため、ここが遍路わかれの地であろうと少々混乱した。
印象的な手印道標
●遍路道を推定
ここから先、三角寺に上る山裾までの遍路道について「えひめの記憶」には、「ここから先の遍路道沿いには遍路道標が多く、上秋則地区に至るまでに8基の道標がある。(中略)上秋則地区で道は左右に分かれ、右が三角寺への遍路道、左が徳島県の箸蔵(はしくら)寺に向かう箸蔵道だが、近年の区画整理と宅地開発によって、この分岐点周辺は様変わりしてわかりにくくなった。
コールタールがかかった痛々しい状態の茂兵衛道標、並んで立つ3基の道標、そのすぐ南の地蔵の台石の道標など、このあたりの道標群はいずれも付近から移設されたものと考えられる。
さらにここから中田井地区にかけては、江戸時代後期に中曽根村(現伊予三島市中曽根町)の人々によって建立された5基の道標が続く。横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標が立っている」とある。 が、これだけではルートを特定するのは少々難しい。で、いつだったか銅山川疏水散歩の折、松山自動車道の南、赤之井川右岸に「戸川公園(疏水公園)」があり、そこに三角寺へ向かう標識があるのを思い出し、そこからルートを「逆算」することにした。
手懸りは「横地山山麓まで進むと、その墓地下には真念の道標が立っている」の記事。地図で疏水公園の西にある横地山の山裾を見ていると、「遍路石」のマークがある。遍路標識の手印もある。Google Street Viewで少し東をチェックすると真念道標らしき道標も立つ。
ここが山裾の遍路道。これが確定できれば、そこから逆算し、中田井、秋則地区を通る、いかにも昔道といった「自然な」カーブで進む道をトレースし、Google Street Viewで幾つかの遍路道標を確認。上記印象的な手印道標から山裾までのルートを推定することができた。Google Street Viewのお蔭である。
11号バイパス沿いに道標
その石仏の反対側、道の右手には国道11号バイパスに沿って道標と案内がある。道標には「此の方 へんろ」の文字が読める。案内には「若連中建立の遍路石 この石柱に刻まれた天明八年(1788)は近隣の遍路標石中古い方に属する年号で、中曽根村が三角寺道をつけた時期につながる。天明年間は1781年から1789年まで。
当村には古くから別れ路等に地蔵尊があった。この年から集落毎に若者や女性達仲間がへんろさんの為に道標を立て始めた。これが近隣に広がる。さらに宇摩郡や全国の篤志家も、三角寺や奥の院への道筋に案内石を建てた。 その上古い奥の院詣での丁石などを加えると八十八カ所中、遍路石の数は大変大きくなったと言える。 平成十三年 伊予三島市教育委員会 11号バイパス開通により移動設置する。 (へんろみちは歩道橋を渡って東進してください)」とあった。
連中とは講を組んで寺社にお参りするグループのことだろうか。であれば上記「六塚中」は六塚連中となる。
コンビニ駐車場端に道標
「三角寺 四 へんろ道 文化」といった文字が読める。四は距離から考えて四十丁が摩耗したものだろう。文化年間は江戸期、1804年から1818年まで。
どうでもいいことではあるが、Google Street Viewでチェックした時は、民家の庭端に道標が立っていたが、現在はコンビニとなっていた。
ブロック塀に囲まれた茂兵衛道標
3基の道標;箸蔵道分岐点
箸蔵道は記述の如く徳島県三好氏池田町にある金毘羅宮の奥の院・箸蔵寺への参詣道。大雑把に言って、昔の伊予街道(阿波街道)、現在の国道192号の道筋を進むことになる。
箸蔵道分岐点であろう箇所から道を南に少し進むと3基の道標が立つ。左から背の高い順に並び、左端は「右 三角 左 寺 明治十五年」、真ん中は「右 へんろ道 文化」、右端は「左 三角寺道 三十」といった文字が刻まれる。右端の道標は移動したものだろう。文化年間は1804年から1818年まで。
廻国供養塔
廻国供養塔は六十六部廻国供養塔だろうか。六十六部(または六部)と呼ばれる諸国を遍歴する行者とのなんらなかの結縁にて建立された供養塔。六十六部の所以は、法華経を書写し全国六十六カ国の霊場に一部ずつ納経し満願結縁とする巡礼行。行者は六部とも称される。
中田井の道標
小川手前の道標
T字路に道標
民家敷地内に道標と地蔵
道標横には台座に「三界萬霊」と刻まれるお地蔵さまが座す。慶長七年の銘のある戒名が刻まれる。慶長年間は徳川幕府の開幕の頃。結構古い。
道標と遍路石案内
笠と道標本体の質感が異なる。笠は後から取り付けられらものだろう。道標には「遍んろ道 三角寺三十丁 奥之院八十八丁」「是ヨリ前神寺九里廿丁」「安政三」といった文字が刻まれる。また、道標に刻まれた石仏は観音菩薩のようである。安政3年は1856年。
案内には 「へんろ道と道しるべ 市内にはこのような道しるべが、約50基ある。そのうち38基が「遍路道」や「三角寺道」で四国八十八か所めぐりをするひとのためにつくられたものです。
このほか香川県の琴平に通ずる「金比羅道」や徳島県の箸蔵寺へ通じる「はしくら道」の道標もあります。
案内と共に描かれた絵には遍路道や道標が見える。辿った道筋の道標はカバーしているようである。また、先ほど出合った大王製紙オーナー家、井川邸は「今藩 大庄屋 今村庄屋跡」とある。先回出合った西条藩境界石の図を照らし合わすと、この辺りの中曽根・上柏辺地域は今治藩となっている。絵にある「今」とは「今治藩」ということではなかろうか。
また、「はしくら道」」は道標「三角寺三十五丁」の箇所から分岐している。遍路道に山十五丁の道標は認めなかったが、中田井(仮称)の道標が三角寺まで三十四丁とあったわけで、であれば、前述の予測の通り3基の道標があった辺りが遍路道とはしくら道の分岐であったように思える。
真念道標
道標には「右 へん路みち」 「大坂寺嶋 阿波屋」といった文字が刻まれる。大坂寺嶋は真念の生まれたところ、阿波屋は施主の銘である。
●真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。
茂兵衛道標
集落の中に道標
茂兵衛道標と標石
それはともあれ、坂道を下り切った発電所前のT字路を少し左に折れたところに2基の道標がある。1期は茂兵衛道標。「六十四番前神寺 右 三角寺」と刻まれる。もう1基には「右 熊白大権現 昭和四年」とある。熊白大権現は不詳。
●銅山川発電所
また、3つのダムに貯えた水は、法皇山脈に造った導水トンネルにより愛媛県側に導水され、発電および宇摩地区のかんがい用水並びに、水道用水・工業用水に利用されています」とある。
銅山川疏水公園(戸川公園)
銅山川疏水のあれこれは、数回にわけて歩いた銅山川疏水散歩に譲るとして、公園に残る遍路標石をチェックすると道標、供養塔が立っていた。
また園内には横死した遍路を弔う「大乗妙典一石一字塔」、「秩父坂東 中国西国 廻国供養塔」と刻まれた石碑が立つ。
◆光明真言
「オン アボキャ ベイロシャノウ(オーン(聖なる呪文) 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ)
マカボダラ マニ ハンドマ(偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ) ジンバラ ハラバリタヤ ウン光明を 放ち給え フーン (聖音);Wikipedia」
●「疏水記念公園;戸川公園」の案内
「4年に1度大干害に苦しめられてきた農民にとって、銅山川からの疏水は百年前からの夢であった。疏水実現のため努力を重ねた松柏村村長森実盛遠氏をはじめ多くの人の願いがみのり、昭和⒓年よりトンネル工事が始まり、昭和28年柳瀬ダムが完成し、多年の夢であった銅山川の水が戸川に絶え間なく流れ落ちてきた。
この水は電力をはじめ農業用水、工業用水や飲料水として広く利用せられ、郷土の産業発展と市民生活の向上に多大の恩恵をもたらした。時の村長村上栄作氏は、ながく先人の偉業を伝えるため、この地に頌徳碑を建立し桜を植えこの疏水記念公園を設置された。
園内には、四国遍路者を供養した文化5年の一石一字塔や光明真言宗二百万篇を記念した弘化4年の道しるべ、四国西国供養塔、水害で殉職された福田武太郎氏や松柏発展に尽力された村上栄作氏の銅像があり、市民いこいの地となっている」。
山上集会所
車で三角寺に進むには、この山上集会所角を右折するが、歩き遍路は道を直進することになる。
「えひめの記憶」に拠れば、「集会所敷地内には2基の道標が移設・保存されている。ここにはかつては観音堂があったといわれ、小林一茶が三角寺に詣(もう)でた際にここで休息したという「一茶の腰掛石」が残り、その傍らには一茶の句碑も建立されている」とのこと。
一茶の句碑と腰掛石は道沿いフェンスの中にあったが、道標についてはそれらしきものが1基のみ目についた。
常夜灯「宇頭(うず)乃御燈」
道標
鰻谷川の谷筋手前に道標
道標脇に遍路道の案内地図があったのだが、今一つ位置関係がよくわからない地図ではあった。
鰻川谷右岸の道標
山道に
おかげの地蔵と道標;12時49分
祠の直ぐ上には道標も立つ。「左 へんろみち」と刻まれる。
丁石(天十丁)
丁石(天九丁)と傾いた道標
道標2基と地蔵丁石
5分ほど歩き標高を50mほどあげ、標高300m辺り、道の両側に道標が立つ。共に三角寺を指す。すぐ上にも「左 三角寺」と刻まれた地蔵丁石も立つ。
道標
車道に合流
車道右手に道標
六十五番札所・三角寺
●三角寺への旧遍路道の地図

●三角寺から奥の院を経て平山への遍路道

で、三角寺から次の札所である讃岐の六十六番札所・雲辺寺への遍路道であるが、奥の院経由であろうと、三角寺経由であろうと四国中央市の山麓にある平山の集落を経由し、東へと進み金生川筋に向かうことになる。
三角寺から直接平山に向かう道は車道でありそれほど風情がある道筋でもないので省略するが、奥の院経由の道の地図は参考につけておく。
三角寺から奥の院を打ち法皇山脈の堀切峠近くの峰の地蔵を越えて三角寺に戻った時は、それほど遍路道に興味があったわけでもなく、峰の地蔵から平山に下ることなく三角寺へと戻った。峰の地蔵から平山を繋ぐ遍路道は、まったく別テーマである土佐北街道横峰越えの際、偶々遍路道標に出合い、好奇心だけでその道筋に寄り道し結果の賜物である。奥の院からの復路道は、このまったく別テーマ散歩の合わせ技である。あれこれ歩くと、いろんなものが繋がってくる。
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