子供の頃から松山は数えきれないほど来てはいるのだが、道後温泉、松山城のある城山より以北、いわゆる城北地区は車で通り抜けることしかなかった。古い道標を目安に遍路道を辿った結果ではあるが、山頭火終焉の地である一草庵、日露戦争のロシア兵捕虜の眠る来迎寺、そして国宝である堂々とした本堂をもつ大山寺など、今まで全く知らなかった松山を歩くことができた。おおよそ10キロ強といった距離であった。
本日のルート;下石手バス停傍の茂兵衛道標>義安禅寺>伊佐爾波神社参道口>宝厳寺>道後温泉本館>椿の湯>清水川>樋又・三界地蔵堂の道標>清水川・大川合流点の道標>●湯築小学校南入口の道標>護国神社鳥居前の茂兵衛道標>山頭火ゆかりの一草庵>龍泰寺の標石>千秋寺の道標2基>来迎寺>不退寺脇の遍路道>御幸橋の道標>国道196号・山端交差点の道標>七曲り跡>大川・藤川合流点の道標>◆蓮華寺>志津川池西の道標>安祥寺参道の道標>◆県道40号と186号交差点の道標>高木町バス停の道標>久万川・井関橋の道標>大淵集落の道標>鵜久森邸の道標>片廻公民館脇の道標>◆自然石の道標>◆入山田池の道標>五十二番札所・太山寺
下石手バス停傍の茂兵衛道標
石手寺を離れ寺井内川の流れに沿った県道187号を道後方面に500mほど行くと、手印で「松山」「道後」、そして「明治二十四年」などと彫られた立派な茂兵衛道標が立つ。
ここで遍路道は松山の城下に向かう道と、道後に向かう道に分かれたようである。道なりに道後への遍路道をとる。
◆城下に向かう遍路道
「左松山」とは道後には寄らず湯築(ゆづき)城跡を経て松山城下へ至る道を案内している。道は西南西に向かう。「えひめの記憶」には「まもなく寺井川に架かる道後上市(かみいち)橋に至る」とあるが、寺井川とは寺井内川のことで、より正確には寺井内川から南に分かれる今市川とも称される。川筋は湯築城跡のある道後公園へと向かっているが、途中で暗渠となり上市橋の場所は不詳である。
この遍路道は、「松山城下町から三津(みつ)(以下旧三津浜を指す場合、三津という。明治22年〔1889〕の町村制実施で三津浜町となり、昭和15年〔1940〕には松山市へ編入合併)を経て太山寺へ向かったようである。大雑把な道筋はここより松山城下に入り、城山の西、本町3丁目の札の辻に。そこから北に進み木屋町2丁目の北端を西に折れ、国道196号、県道19号六軒茶屋交差点を越え衣山町、山西町へと西に向かう。
山西町に入ると、道を北に折れ伊予鉄山西駅の西を上り、儀光寺前を通り、古三津から会津町の会津公園に。会津公園からは山裾を進む道等幾筋かルートがあるようだが、最終的には県道183号に入り、地蔵坂を上り、峠あたりから県道を離れ太山寺の一の門へと向かう、ようである。
義安禅寺
道後へと県道187 号を少し西に進むと道の山側、石垣の上に義安寺が見えてくる。石段を上り境内に。案内には「義安寺 本尊は、薬師如来で行基の作と伝えられる。河野景通の子彦四郎義安が建立した寺であるので義安寺と名づけられたという。 『予陽郡郷俚諺集』に、天正十三(1585)年、河野家断絶のとき、 同一族の者、譜代の老臣達も加わって、 ここ戒能の谷義安寺に集まり、二君に仕えないことを神水を呑み誓約して自刃したとある。 この時に別れの水盃をかわしたという「誓いの泉」が、今も残っている。
また、自刃した侍たちの精霊が蛍になったという伝説があり、 このあたりの蛍は「義安寺蛍」、「源氏蛍」と呼ばれる大型のもので、川筋から山手にかけて蛍の乱舞する名所であった。
現在は、「お六部さん」として八のつく日には県外から祈願に訪れる人も多い」とある。
●河野景通の子彦四郎義安?
何時だったか河野氏の史跡を数回に渡って西条や(そのⅠ、そのⅡ、そのⅢ、そのⅣ、そのⅤ、そのⅥ、そのⅦ)、北條(Ⅰ、Ⅱ)を彷徨ったことがある。が、その河野宗家の系譜に河野景通も、その子彦四郎義安とされる人物も登場しない。「戒能の谷」というから河野一族である戒能氏の系譜の人物だろうか。
●河野氏断絶
河野家断絶の時の河野家当主は河野通道(みちなお)であるが、四国攻めの小早川隆景軍と激しく戦ったといった記録もなく、湯築城近くに隠居させられている。宗家とは関係なく、一族の滅亡を嘆き悲しんだ一族、譜代の老臣達が自刃した、ということだろう。本堂東に「誓いの泉」が、今も残っている、というが見逃した。「山門に螢逃げこむしまり哉」と子規が詠む。
義安寺裏手には砦があり、道後の冠山とともに湯築城を守る防御ラインであったようだ。
●お六部さん
本堂の西に六部堂がある。「日本大百科全書」に拠れば、六部とは「六十六部の略で、本来は全国六十六部か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された六十六部部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。別称、回国行者ともいった。
わが国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときとも、最澄(さいちょう)(766―822)、あるいは鎌倉時代の源頼朝(よりとも)、北条時政(ときまさ)のときともいい、さだかではない。おそらく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代にとくに流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した」とある。
一般的にはこの通りであるが、ここでの「お六部さん」は特定の人物と深く結びついているようだ。その話とはこういうことである;
江戸の頃、伯耆の富農友平は妻を不治の病で失う。また、愛娘も同じ病に蝕まれ、薬の効き目もなく神仏にすがるべく、娘とともに六十六部巡礼の旅に。道後の湯が効能あると聞き、この地で湯治するも特段の治癒もせず、娘を残し大師にすがるべく四国霊場を巡るが、その甲斐もなく娘はむなしくなる。
嘆き悲しむ友平は延命地蔵と子安地蔵を祀り娘の菩提を弔い、「神仏の御加護を願うも甲斐はなし。かわりに我に願うべし」との遺言を残した、という。その友平を祀るお堂がこの六部堂とのことである。
●姫だるま
愛媛の人ならご存知だろうが、愛媛みやげに「姫だるま」があるが、この「姫だるま」は義安寺ゆかりのもの、と言う。話は元寇の役の頃の河野氏に遡る。元寇の役で勇名を馳せた河野道有の叔父の通時は武運つたなく討死。それを悲しんだ一人娘の姫は終生この義安寺で父の菩提を弔って一生を終えた。その姫を弔って禅寺故の「だるま大師」の顔を姫に似せてつくられたのが「姫だるま」とのことである。
通時と姫のお墓もこの寺に残る、という。地図に義安寺の裏手に「道後姫塚」とあり、なんのことだろうと思っていたのだが、その所以はこの寺にあった。
●西参道入口の道標
県道187号から斜めにお寺様に上る参道入口に道標が立つ。常の道標とは異なり、手印とへんろ道とともに、仏像が浮き彫りにされ、先祖代々菩提とか俗名おきよ菩提、といった文字も刻まれ供養塔を兼ねているようだ。
伊佐爾波神社参道口
なんとなく悲しい物語の多い義安寺を離れ、県道を少し西に進み、地蔵堂のあるT字路を右折し坂を上ると伊佐爾波神社参道口に。右手は拝殿に上る石段、左手は西に下る参道となっている。
名前に惹かれ、石段を上り社にお参り。楼門を潜り申殿・本殿を囲む回廊を歩みながら、透塀の中、後殿・前殿が前後に繋がる八幡造りの本殿を見遣る。境内に「算額」の案内があったので、回廊にあるのかと注意したのだが、みつけることができなかった。
Wikipediaに拠れば「伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「左三つ巴」。別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。三つ巴の神紋は古代での祭祀に使われた勾玉と似ているということで、八幡様でよく使われているようである。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国)が伝えられている。
社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)」とある。
本殿、申殿、回廊、楼門ともに国の重要文化財に指定されている。
●遍路道
「えひめの記憶」に拠れば、「『道後温泉略案内』によると、「へんろは湯月八まんぐう(伊佐爾波(いさには)神社)へちか道よりあがり 鳥居へおりてそれよりゆく一丁あまり也」とある。これによると、江戸中期の遍路は伊佐爾波神社の裏側から上り、表参道の石段を下りてきて、温泉へ向かったものと思われる。 その後、主な遍路道は伊佐爾波神社には上がっていない。
県道を行く遍路道は、義安寺前から100m余進んだ所にある地蔵堂で右折し、神社石段下に至る。
そこで道は分岐し、その一つは左折して参道の坂を西へ向かって下る遍路道で、右手冠山の湯神社前を通過し、御手洗橋を渡って右折し、道後温泉本館前に出る。(中略)もう一方が県道を行く遍路道で、神社石段下を横切って北進、右手に旧廓(くるわ)街の松ヶ枝町や突き当たり奥にある一遍上人生誕の地として知られる宝厳寺を見て、冠山の裾(すそ)を巡って坂を下り、神社石段下から約200mほどで道後温泉本館裏に至る」とある。
現在の県道は地蔵堂から左へと向かっているが、昔の県道はこの参道口から更に北に進み冠山の東裾をぐるりと廻り道後温泉本館前に出ていたのだろうか。
宝厳寺
遍路道を道後温泉に下る前に、一遍上人生誕の地として知られる宝厳寺に立ち寄る。山門手前に自然石の「一遍上人御誕生寺旧跡」碑が立つ。古き趣の山門を潜ると新しく建て替えられた風情の本堂が建つ。本堂は平成25年8月に焼失。国宝の一遍上人立像もそのとき焼失したとのことである。
案内によれば、「宝厳寺は一遍上人誕生の地といわれ、寺伝によると天智天皇7(668)年斉明上皇の勅願で国司越智宿祢守興が創建、当初は法相宗に属し、その後天台宗に転じた。後に、時宗が隆盛し弟子の仙阿がここにすむようになって、正応五年(1292)年寺は再建され時宗に改めたとする。
●一遍
時宗の開祖一遍は河野通広の第二子として延応元〈1239〉年に生まれた。幼くして仏門に入り、文永11〈1239〉年時宗を開き、翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀仏」と記した賦算を始めた。弘安二年(1279)には信濃国佐久郡で念仏踊りをはじめた。その後正応2(1289)年神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所不在、捨聖、遊行上人と尊宗された。「一遍上人御誕生旧跡の碑」は河野一族の得能通綱が建立したと伝えられる」とあった。
●河野通広
河野通広は平氏打倒をすべく挙兵した源頼朝に呼応し、周囲は平氏方と言う四面楚歌の中、頼朝に与した河野通信の子。ということは、通信は一遍の祖父ということになる。
●子規の句
「色里や十歩はなれて秋の風」という句がある。子規と漱石が宝厳寺を散策したときに子規が詠んだ句である。上述の旧廓(くるわ)街の松ヶ枝町は宝厳寺から10歩も離れていないところにあった、ということだろう。
道後温泉本館
宝厳寺から伊佐爾波神社石段参道口まで戻り、坂道を下り御手洗橋まで進む。そこを右に折れ、道後温泉本館脇に出る。前述、旧県道を進む遍路道もここに出る。
道後温泉本館について、「えひめの記憶」には「道後温泉は古くから世に知られた天下の名湯である。現在の道後温泉本館は、明治27年(1894)完成の木造3階建て、入母屋(いりもや)造り、棧瓦葺(さんかわらぶ)きの建物で、国の重要文化財となっている。
遍路にとって道後温泉は大きな楽しみであったと思われる。長く苦しい遍路の旅の途次、昔から遍路たちはここで旅の疲れを癒(いや)した。
『玉の石』には、「四国辺路七ヶ所 三十三番じゅんれい同行幾人にても勝手次第一宿するなり9)」とあり、四国遍路七ヶ所参り、松山西国巡礼の人々が当時、道後で自由に一宿できたことがうかがわれる。
また、『伊予道後温泉略案内』の中に、「遍ん路三日まではゆせんいでず 一まはりにて二十四もんづヽならびニとうみやうせん十二もん出る也」と記されていて、「三日」までは湯銭免除という遍路を優遇する慣行があったことが分かる。 しかし、幕末にはこの慣行も変化し、安政2年(1855)の定書によると、四国遍路や通り掛りの者は三日間に限って止宿湯治を許可、また遍路のほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許すことなどが慣行的に定められた。さらに、温泉街における湯治宿と遍路宿との弁別も明確となり、遍路が道後で一般旅人の宿に宿泊することは困難になっていったらしい。
明治・大正期には、それがよりはっきりしてきたようで、大正7年(1918)に遍路した高群逸枝は、『娘巡礼記』の中に、「道後温泉町に着いたのは午後の五時頃であつたらう。或る旅人宿を訪ねたら。『お遍路さんはお断りして居りますから』と云ふ。仕方が無いので又復(またまた)汚い宿に追い込まれて了つた」と記している」とある。
既に述べたことだが、愛媛に生まれた者にとって、かつて「へんど(遍路のこと)は物乞いと同義であった。信仰故に遍路巡礼をする人もいたと思うが、不治の病故、家族・社会から見捨てられ、遍路として物乞いをするしか術がない人も多かったのも事実ではある。土佐では遍路が領内に滞在する日を限ったこともあると言う。道後温泉での遍路への対応も、そのコンテキストの中での出来事のひとつではある。
椿の湯
「えひめの記憶」に拠れば、「温泉を後にした遍路道は、西へ向かい土産物屋街を約100m行って、椿湯横の四つ辻(つじ)を左折、60mほど進んで右折し、清水川沿いの小道を西に向かう」とある。
散歩当日(2017年8月)、椿の湯は工事中であった。記事に従い左折、そしてすぐ右折すると「四国のみち」の標識があり、「五十二番 太山寺」の手印があった。
如何にも水路跡といった風情の道であり、地図をチェックすると西に進んだところで開渠となっている。開渠箇所に向かって西に進む。
なお、椿湯の西約40mのところにかつて木賃宿「筑前屋」があり、その前に1本の道標が昭和47年(1972)まで立っていたという。これには「(手印)太山寺道/(梵字(ぼんじ))為三界萬霊」と刻字され、筑前屋の前を西に進み太山寺へ向かうよう指示していたという。道は筑前屋の右脇を北に進んで左折、大川沿いの遍路道に向かっていた。この道が大川端に出る所は、前述の清水川沿いの遍路道が出てくる天神橋付近よりもやや上手であったようである(「愛媛の記憶」)」。大川、天神橋は後ほどメモする。
清水川
「四国のみち」の道標を西に進むと道脇に自転車置き場があるが、その道路下から結構激しい水音が聞こえる。水音を聞きながら更に西に進むと清水川が開渠となって姿を現す。
ところで、この清水川は何処から流れてくるのだろう?地図をみると、なんとなく、石手寺門前を県道187号に沿って義安寺方面に流れる、前述の寺井内川と繋がっているように見える。チェックすると、清水川は「岩堰」辺りで石手川から分水された寺井内川水系の川のようである。
寺井内川は人工的に開削された水路であり、その目的は湯築城に城を築いた河野氏が、その「城下町」の湯の町に水を送るため、といった記録もあった。 寺井内川は伊佐爾波神社参道で「御手洗川」に変わり、町を西行し「樋又川」になり「清水川」「宮前川」と名を変えて海へと流れ込むようだ。また、下石手バス停でメモし「今市川」は道後村を潤した。
樋又・三界地蔵堂の道標
清水川に沿って道路を進むと川は二手に分かれる。北に向かう水路は大川に合流し、西に進む水路は宮前川となって三津浜の海に注ぐ。その清水川が二手に分岐する西北角に三界地蔵堂がある。
「えひめの記憶」には「堂の脇に自然石の道標が転がっている。これはもともとこの付近にあったもので、明治28年(1895)ころ道後駅から、城北に向かい走っていた軌道車の線路沿いの遍路道に建立されていたようで、同じ樋又の護国神社鳥居前に立つ茂兵衛道標(私注;後述)につながり、そのあと南海放送会館前(私注;現在の本町会館と異なり、昭和39年(1964)に道後樋又に建設された南海放送会館のことだろう)から大川沿いの本道に出る、いわゆる脇道にあった道標だと地元では解釈されているという。
道後温泉に立ち寄らない遍路が利用していたといい、『松山の道しるべ』ではこの線路沿いの道を主な遍路道の一つに位置付けている」とある。 祠の右手に自然石に少し人の手を加えたような角ばった石碑が立つ。「青・・・」」とか「へんろ」らしき文字が刻まれていた。
●三界地蔵堂
先回散歩の石手寺手前の三界地蔵堂でもメモしたが、三界とは欲界、色界、無色界。欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つのステージ(六道)があり、その各ステージでお地蔵様が衆生を見守る。六地蔵がこれである。色界はこの欲界を離れた清らかなステージ、無色界はその上のステージ。最高所が有頂天とのことである。お地蔵様三界は密接な関係がある故の、三界地蔵堂との呼称であろうか。
清水川・大川合流点の道標
三界地蔵堂から北に向かう清水川に沿って200mほど進むと大川に合わさる。合流点の直ぐ西に道標が立つ。「えひめの記憶」には「「すぐへんろミち」と刻む道標が立っている。刻字にある「すぐ」とは、「直」すなわちまっすぐの意であるという。道後からの遍路道は城下へ向かう道を除き、おおむねこのように大川端へ出て来て、ここからはしばらく、大川沿いに西もしくは西北西へ向かって行くことになる」とある。
「えひめの記憶」をもとにまとめると「道標のひとつは文化13年(1816)の記年銘があるもので、先述の裏道で湯築小学校の校庭の中を通っていた遍路道沿いにあったが、道路拡張のため現在地に移したという。もう一つの道標は道後湯之町の遍路道沿いに立っていたものを移したという」。
地図で確認すると先ほど訪れた椿の湯から直進する遍路道筋にあった。
護国神社鳥居前の茂兵衛道標
大川筋に戻り、御幸寺山裾を西に流れる大川に沿って進むと護国神社に。戦没者を祀る「神社鳥居前の参道東南向きに茂兵衛道標が立つ(「えひめの記憶」)」とあるが、それらしきものが見当たらない。
参道を南に下り、県道187号沿いに立つ鳥居の県道南西に茂兵衛道標があった。上にメモした、明治28年(1895)ころ道後駅から、城北に向かい走っていた軌道車の線路沿いを、この樋又の護国神社鳥居前に立つ茂兵衛道標(私注;後述)につながり、そのあと南海放送会館前(私注;現在の本町会館と異なり、昭和39年に道後樋又に建設された南海放送会館のことだろう)から大川沿いの本道に出る、いわゆる脇道の遍路街道に建っていた、ということだろう。
手印は更に西を指している。脇道はもう少し西に向かい大川筋の本道に戻ったのだろう。
山頭火ゆかりの一草庵
大川に沿って少し西、川に架かる小橋の北詰、「御幸寺山」と刻まれた自然石の傍に「俳人山頭火の一草庵みち」の石碑が立つ。田舎の家の書斎に大山澄太翁の本があり、43歳の頃から旅に生き、尾崎放哉とともに自由律俳人として知られるとか、「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」といった句くらいは知っているのだが、詳しいことは知らない。ちょっと寄り道。
北にちょっと進み御幸寺の手前東側に「種田山頭火終焉の地 一草庵」の案内 があった。奥に一草庵があるが、その手前の整備された庭に新しく造られたような句碑ふたつ。庵の庭に自然石の句碑二基が立つ。
◆落ち着いて死ねさうな草枯れる
昭和14年(1939)12月、高橋一洵(私注;松山在住の句人)の奔走でみつけたこの草庵(私注;御幸寺の納屋であった、とも)に入った山頭火は、「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その労苦に感謝し高橋一洵にこの句を呈した。 「死ぬることは生まれることよりむずかしいと、老来しみじみ感じた」山頭火が、一草庵を終の住処とした境地である。翌年3月には、改めて「落ち着いて死ねそうな草萌ゆる」と詠んでいる
◆濁れる水のなかれつつ澄む
死の1カ月前、『山頭火句帳』の昭和15年(1940)9月8日の項に、「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されている。
この庵の前を流れる大川を詠んだ句ではあるが、自らの人生を観じて詠んだ句でもある。20年近い流転孤独の生活の悩みと寂しさに、濁れる水のように心を曇らせながらもなお、逞しく自己をむち打ち続け、そこから自己の魂を取り戻そうと務めた山頭火の境涯が重なる
庵近くの自然石に刻まれた句碑の案内は写真が日の光に反射し読めない。一草庵で案内して頂いた管理者の方には代表作と言われながら、ちょっと申し訳ない。いくつかのサイトを参考にまとめておく。
◆鐡鉢の中へも霰(あられ)
この句は昭和7年(1932)1月8日、福岡県芦屋町での吟。「今日はだいぶ寒かった。一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは行脚らしすぎる。」と記して、この句がある。
「寒い中、托鉢に出る。かじかむ手。ぱらぱらぱらと霰が落ちてきた。木彫りの鉢が、鉄鉢のように響いてきた」といった意味との記事を見かけた。山頭火の死(昭和15年10月11日没)の翌年、春の彼岸に建立された。山頭火にとって二番目、没後初めて建てられた句碑で、山頭火のあご髭が納められている、ようである。
◆春風の鉢の子ひとつ
旅に生き、生きる術は托鉢のみ。酒におぼれる自分に、空の鉢には季節の風が吹き込むだけ、といった意味の解説があった。この春の句は、「秋風の鉄鉢を持つ」と対になっている、とのことである。
一草庵の名付け親は大山澄太翁。また、山頭火とは納音(なっちん)より。納音は一言で説明する素養がないので、ここではパス。
龍泰寺の標石
大川を少し西に進み龍泰寺前に。「えひめの記憶」には「大川に架かる太鼓橋を渡った所に「此方五百らかんあり」の標石が立つ」とある。太鼓橋とは言うものの、今はフラットなコンクリート橋ではあったが、橋を渡ったところの寺の名を刻んだ石碑の裏に標石が立つ。「五百」といった文字は読めた。
千秋寺の山門参道傍の道標2基
次いで千秋寺。「えひめの記憶」には、往時をしのぼせる中国風の立派な山門に通じる御和橋東のたもとに、太山寺への道を示す道標2基があるとのこと。千秋寺へのアプローチ橋はいくつもあってわかりにくかったが、西端の山門に直接渡る橋(御和橋)の少し東、川に沿う電柱脇に茂兵衛道標。道を挟んだ対面にもう一基の道標があった。
茂兵衛道標には手印とともに太山寺と刻まれる。もう一基の道標は「厄除け延命地蔵尊不退寺(私注;後述)への丁石を兼ねたものである。また、刻文「太山寺ちかみち」という指示は遠回りに対する近道という意味ではなく、「近いのです」という意である(「えひめの記憶」)」という。
黄檗宗独特と称される山門を眺め、本堂にお参り。「竹林のすそに闇湧き万灯会う」と刻まれた句碑が立つ。久万に生まれた俳人坂本謙次の作。万灯の明と竹林の闇、この世とあの世のコントラストが感じられる。
その他境内には子規の「山本や寺ハ黄檗杉ハ秋」「画をかきし僧今あらず寺の秋」の句碑も残る、とか。山本は御幸寺山の麓、「杉ハ」は寺にあった有名な杉並木。「画をかきし」とは南画を巧みとした往時の住職のことを指す。
堂々とした本堂に御参り。往昔「松山に過ぎたるもの」と称された20余の堂宇からなっていた千秋寺も後に衰え、往時の面影は少ない。
来迎寺
遍路道は大川南岸を西に進む、とのことだが、「大川の北側に広がる松山大学のグランドの西・北一帯は多くの寺が集まる寺町地区となっており、そのひとつである来迎寺には、松山城下建設の功労者足立重信や蘭学者青地林宗の墓、日露戦争の時のロシア人兵士の墓地などがある(「えひめの記憶」)」とある。 つい最近松山捕虜収容所に関する書籍を読み終えたばかりでもあったので、ちょっと立ち寄り。
大川を渡り、大学のグランド北辺山裾を歩き来迎寺に。道から大きな石碑が見える。近寄ると足立重信を顕彰する石碑であった。山門を潜り本堂に御参り。お寺さまの案内には「西宮山聖聚院と号し、本尊は阿弥陀如来、浄土宗の寺院である。当寺は河野氏の創建によるもので、道後駅前の放生池跡あたりにあり、天台宗で、湯神社別当、河野氏の祈願所であったという。天文(1543)浄土宗に改めたといい、良荘を中興開山としている。
加藤嘉明が松山城の北辺防備のため、山越あたりに寺町を設けたといわれるが、当寺は寛永2年(1625)に道後から寺町に移り、その後延享2年(1745)に弧土地に移ったと伝えられている。
24世学誉が、江戸増上寺の学頭になるなど学僧を輩出し、江戸時代末期には公儀支配、中本寺の寺格をもった寺院であった。
境内に愛媛県指定史跡となっている足立重信の墓、青地林宗の墓のほか、ロシア兵とドイツ兵の墓、正岡子規の祖父大原観山の墓がある」とあった。
●足立重信
加藤嘉明に仕え、文禄・慶長の役、関ヶ原の合戦後、20万石の大名となり勝山に松山城を築いた加藤嘉明の普請奉行として湯山川(石手川)や城下町の整備に尽くした。
●青地林宗
18世紀後半の蘭学者。多くの蘭書を翻訳し、日本物理学の祖とも称される。四女は高野長英に嫁ぐ。
●ロシア兵・ドイツ兵
明治37年(1904)、日本初の捕虜収容所が開かれ、延べ600名、最大で4000名の捕虜が収容されていた時期もある。収容所は国際法に乗っ取り、博愛主義で応対し自由な雰囲気であったという。墓には異国でなくなった97名のロシア兵が眠る。
ドイツ兵2基の墓は、第一次世界大戦でのドイツ租借地である中国の青島での捕虜のことだろう。
不退寺脇の遍路道
来迎院の西に道の分岐があり、西に直進する車一台通れるといった道に「遍路道」の案内がある。「えひめの記憶」では南の大川に沿って遍路道が続くとあったが、この山裾を通る道もあったのだろう。 細い道を抜けるとすぐに広い道となり、先ほど千秋寺の道標にあった厄除け延命地蔵尊不退寺前を通ることになる。弘法大師作とも伝わる延命地蔵尊のある本堂へと手印の標石が山門脇に立っていた。
旧今治街道・御幸橋の道標
道を西に進むと大川筋に出る。川筋を西に進み、国道196号(今治街道)にあたる少し手前、道の南に大きな道標が立つ。
「えひめの記憶」には「大川南岸を西進してきた遍路道は、松山城下北の出入口として栄えてきた(松山市)木屋町の北詰めで、松山「札の辻」を起点に松山城堀の北西角から北進してきた今治街道(以下「旧街道」と記す)に合流する。
左折する旧街道の角は商店で、向かいには御幸橋があるが、その商店の前脇に松山市内最大の遍路道標が立っている。40cm角の石柱の上に笠を乗せ、地上部でも2mに達する大型のもので、西面には「へんろみち」、南面には「南城下道」と深彫りしている」とある。
国道196号・山端交差点の道標
大川に沿って道を進み国道196号に合わさる山端交差点の道路東側、大川沿いに自然石の道標がある。道標と言われなければ単なる置石と見える。
「えひめの記憶」には「川端の山越信号機の東に自然石の道標がある。「元禄十二年」とある記年銘は松山市内では二番目に古い。破損した当初の標石を逆さまにして利用し、裏側に従来の文言を彫り加え再建したものと考えられている」とあった。
七曲り跡
「遍路道であり、旧街道でもあった道は、後世拡幅改良されて国道196号となっている。この道は大川沿いに、(松山市)山越・姫原・東長戸と進む。途中、姫原に入って角田池のあたりは度々の改修で旧街道としての昔の面影はない。
このあたりは「七曲り」と呼ばれていた所で、道路を隔てて「七曲り跡」の碑が立っている。松山城を築いた加藤嘉明が北方からの敵の侵攻を遅らせ、高所から敵の兵力を数えるために設けたという(「えひめの記憶」)」との記事に従い、国道196号を北進し、北西にカーブする角田池北東端の大川を渡ったところに緑の木立が見え、石碑らしきものが見える。そこが「史跡 七曲り跡」であった。
●七曲街道
「現在の姫原から鴨川にかけ北方から侵入する敵に備えて七カ所の曲がった街道が時の城主加藤嘉明公によって作られ、幅六メートル、高さ三メートルの土手になっていました。
しかしこの街道も軍事的には使用されることもなく、江戸・明治・大正・昭和と長らく平穏に利用され、戦後道路改修によってその姿を消しました。 当時の街道の一部がこの地に僅か数十m残るのみとなっております。
永き日や 菜種つたいの 七曲り
菜の花や 道者よび合う 七曲り
正岡子規」と案内にあった。
道者とは修行僧とか遍路を指す。
大川・藤川合流点の道標
七曲りから少し北東で大川は国道196号から分かれ北に進む。この道は道路改修前の旧街道とのことである。道を北に進み、大川が東から下ってきた藤川を合わせ、流路を西に向ける。
旧街道は北に向かうが、「遍路道は左折して大川の南岸を西へと進む。この辻の西南角、歩道橋の下に石仏をまつる小堂と茂兵衛道標が立っている。道標には「世の中に神も仏もなきものをまれにしんずる人にこそあれ」(釈陶庵俊因作)の歌が添えられている(「えひめの記憶」)」。
●茂兵衛道標
脇にあった案内には「逆打ち遍路道標」とあり、「この道標は南側の袖付指印の方向が順打で(52番太山寺)を案内するとともに、西側は太山寺から来る逆打ち(51番・石手寺)も案内しています。逆打ちは、順打ちの3倍の御利益があるといわれ、先達は衛門三郎(石手寺にまつわる伝説)と言われています」などとの説明がある。
なお、上述の歌は道標・東側に堀江村(北)への案内とともに刻まれている、と。
◆蓮華寺
「えひめの記憶」に、「旧街道を300mほど進むと右手に木立の茂った小山があり、そこに蓮華寺がある。『四国邊路道指南』に、「たに村、此所にむろおかやまとてよこ堂、本尊薬師、諸辺路札打也)」とあって、この谷村(松山市谷町)の室岡山蓮華寺へ札打ちした遍路も多かったと思われる」とあり、旧街道を北に進み蓮華寺にちょっと立ち寄り。
石段上の本堂にお参り。石段脇に「大昔の谷町は谷分里」との案内があり、この辺りの歴史を説明していたので、概要をまとめておく;
「大昔、食糧や水の得やすい場所に住んだ人々は、やがて集落を形成。吉藤の城山、ラドン温泉跡付近、また潮見山、谷山、平田の山々には縄文時代から弥生時代にかけてかなりの人が住んでいたようである。
大和時代の終わり頃、律令制の発布とともに、国司・郡司・里長が地を治めるようになる。この地は和気郡として『別王(わけのおおきみ)』と言う豪族が郡司となる。この豪族は日本武尊の子「十城別王(ときわけきみ)」を祖先とする第12代景行天皇の皇子で今の大内平田辺りに居ったと伝えられています。
当時の和気郡は「大内郷」といって、現在の大内平田、谷、志津川、堀江、馬木辺りのようで『郷』は約50戸程度と見なされていました。『谷』という地名は、古代に「谷分里(たにわけのさと)」といわれていたことによると伝えられています」とあった。
志津川池西の道標
蓮華寺から茂兵衛道標のある県道40号まで戻り、大川に沿って西に進み国道196号を横切り、更に西に進み北に向かって流路を変える大川に沿って歩くと川の東に志津川池がある。
遍路道はその北西端から大川から離れ、土手を道なりに下る。土手下で道が分岐する箇所に小祠がある。
「えひめの記憶」には「土手下に降りると、馬頭観音をまつる小堂があり、その脇に道標が立つ。また、その小堂の中にも舟形地蔵道標が納められている。 道標はもと、安祥寺(私注;後述)近くの田道の三差路に南向きに建てられていたというが、移された現状では手差しの方向が合わない。舟形地蔵道標は銘文「是より太山寺 二十七丁」からみると、もともとこの付近にあったものをこの小堂に入れたと思われる」とある。道標の手印は北を指していた。
●馬頭観音
小祠脇に「馬頭観音」の説明がある。「志津川池北西の角から、西方に向かって橋が架かっているが、昔は欄干もない小さな木橋であった。 その昔は、盲馬が多かったこともあるが、この橋から馬が落ち死傷することが多かった。そこでいつの時代か、この橋の西側土手に、馬頭観音が安置された。以来、馬の死傷は少なくなったと伝えられる。
戦後、志津川共同墓地東大川土手に小屋をつくり祭っているが、家内安全無病息災を念じて信心する人が多い」とある。大川土手の小屋とはこの小祠のことだろう。
安祥寺参道の道標
「えひめの記憶」の記事に従い、馬頭観音小堂で右折、墓地横の細道を北西に進み、志津川町中心部から西進し志津川橋を渡ってきた道と合流。さらに北進して田地の中の道を通り、途中で左折西進して安祥寺参道に出る。参道脇に道標が立っている。そこから道は西へ進み、角に庚申堂がある辻を右折し県道184号の高木町バス停へと向かう。
そのひとつが、そのまま「西進して、若宮神社前の辻を直進し、次の交差点で県道184号に出て右折、北進する。
◆若宮八幡
次いで、そのまま西進して、若宮神社前の辻 で右折、集落の中の細道を北進して庚申(こうしん)堂前を過ぎ、さらに北へ進み、やがて緩やかに西北へ曲がって県道184号へ合流する。
といったルート。また、「このほか『おへんろさん』には、「安城寺町本村を通り、高木町へと至る小径」と解説があり、(旧へんろ」道が図示されている。これによると、昭和52年(1977)から同54年ころまでの調査と思われるが、志津川町大川土手下から高木町バス停留所までは、北西方向に幾度も折れ曲がる田畑の中を通る1本の遍路道が表されている。現況と比べると、その後の圃場(ほじょう)整備事業等により、古い遍路道はごく一部を残してその姿を消しているようである(「えひめの記憶」)」といった記事もある。
◆県道40号と186号交差点の道標
更に付け加えて「以上述べてきた大川土手下からのルートのほかに、もう一つ遍路道があったようである。それは前記のように県道をそれて大川沿いに行かず、県道40号自体を西進し、安城寺町を南北に走る県道184号との交差点で右折、県道184号を北進して高木町に至る遍路道である。
交差点の北西角に3基の石造物が並び立ち、その中央に茂兵衛道標がある。指示が実状に合わないのは付近にあったものを移したためであろう。「明治の頃になると、安祥寺回りの古い遍路道より、(中略)この道標で右折して北進するほうが、道も真っすぐで歩きやすかったのだろう」と説明されている。
高木町バス停の道標
上述の如く、いずれの遍路道をとっても最終的には県道184号、そして高木町バス停に至る。バス停から西に入る道筋角に茂兵衛道標が立つ。手印に従い西に向かう。
久万川・井関橋の道標
西に進むと久万川にあたる。久万川に架かる井関橋の東詰に道標がある。「「太山寺へ十七丁」の道標がコンクリート囲いの中に立つ。十数年前の記録『へんろ道』には、近くの草むらに半ば埋まった状態であったと記されている。おそらく、河川等の工事で仮置きの状態であったのであろう。それ以前の二十数年前の記録である『おへんろさん』には、井関橋のたもとに在ると明記している(「えひめの記憶」)」とある。
●久万川
伊予鉄高浜線久万山辺りから発し、北に流れて和気の港に注ぐ。
大淵集落の道標
遍路道は橋を渡りJR予讃線を越えて西に進み、松山市太山寺町大淵地区に入る。道なりに進み松山市立北中学の東北の角を右折し北に向かう。集落の北、三差路というかT字路を左折し西に向かうと東西南北に農業用水路がクロスする少し西に道標が立つ。
「えひめの記憶」には、「字形・字配り・彫りの深さ・浮き彫りの造りなど優品の道標が立つ。嘉永5年(1852)の建立、尾道の石工川崎友八作とある」と記されている。
なお、上述三差路というかT字路にも道標があったが、「現在は和気公民館大淵分館内庭に保管されている。大淵集落が建立した、太山寺へ十五丁とある丁石で折れ損じている(「えひめの記憶)」とのことである。
鵜久森邸の道標(?)
次いで遍路道の目安となる道標について、「えひめの記憶」には「田道を約500m西進すると、鵜久森邸(太山寺町1187)の前を通る。邸の入口付近の植え込みに自然石の道標があり、さらに同邸の生け垣の南西角で太山寺道と円明寺道との岐路には、道標が並ん2基が並んで立っている」とある。
鵜久森邸はあるのだが、「えひめの記憶」の写真にあるお屋敷は新しく建て替えられており、道標も結構探したのだが見つけることはできなかった。
片廻公民館脇の道標
鵜久森邸の道標探しに右往左往し結構時間がかかった。結局何も見つからず少々気落ちしながら先に進む。「えひめの記憶」に拠れば、遍路道は更に西進し、県道183号を越え、太山寺山裾を南北に流れる太山寺川にあたる。
遍路道はそこで左折し、再び県道183号を越え、太山寺川の右岸を進むと、片廻公民館の南角に立派な道標があった。「順打ちと逆打ちの両方の遍路道を示す嘉永6年(1853)建立の彫り深い立派な道標が立っている。「逆遍路道」とは、山の手を通り石手寺に向かう逆打ちの遍路道のことである(「えひめの記憶)」とある。
ここで右折した遍路道は、大淵の山の手を行く遍路道となる。大将軍神社境内や小公園の縁を行き、北側の山麓の一段高い所を曲がりくねって上下する山道を行く。
途中、溜池の堤を通って集落に入り、前記した順打ちと逆打ちの両方の遍路道を指示した道標(私注;片廻公民館)のある三差路で太山寺川の川端に出る。そこで二つの遍路道は合流することになる」とある。
◆自然石の道標
この記事に従い松山市立北中学前を通り抜け、山裾の道に突き当たると、記事の通り自然石の道標があった。その先、記事では「大将軍神社境内や小公園の縁を行き、北側の山麓の一段高い所を曲がりくねって上下する山道を行く」とあるが、地図には山道が描かれておらず六十六部山裾の道を進むと「遍路道」の案内があり、左に分岐する細い道があった。
◆入山田池の道標
その道を進むと入山田池に出る。そこに道標が2基立っていた。ひとつは自然石、もうひとつには「手印とへんろ」と刻まれ方向は太山寺を指しているのだが、その右面にも太山寺との文字が読める。なんとなく間尺に合わない。「えひめの記憶」にも、この地に道標は記していない。ひょっとして鵜久森邸の道標がここに移されたのだろうか、との妄想が拡がる。
◆片廻公民館前の道標に出る
山道をなりゆきで進むと道は、先ほど出合った片廻公民館の南に出た。上述の如く大淵地区を進む二通りの遍路道の合流点である。
五十二番札所・太山寺
●一の門
片廻公民館前の道標より太山寺川を先に進むと、ほどなく遍路道は県道183号にあたる。その直ぐ先の交差点で右に折れ、しばらく進むと五十二番札所・太山寺の一の門が見えてくる。一の門の左脇に二基の道標がある。一基は自然石の道標である。
◆一の門傍の道標
自然石の道標は、「右 太山寺八丁」「左 三津浜十八丁」と読める。もう一つの道標は、「えひめの記憶」に拠れば、「茂兵衛道標である。「第五十二番霊場」と太山寺の札所番号を示した道標で、巡拝100度目の茂兵衛の建立したもので、右面には次の札所である円明寺を案内している」と記されている。
遍路も中務茂兵衛が、「九州より渡海する人は、予州三津浜より上り太山寺を札始(め)」と記すように、太山寺より逆打ちでするようになる。その三津浜から太山寺への遍路道は、当初は港から東進、住吉二丁目の角で左折北進し、堀川を渡って辰巳町、松ノ木、地蔵坂を越えて太山寺一の門前に出て行ったようだが、この住吉の北端から辰巳町までの道は、昭和5年(1930)から戦後にかけての堀川付け替えなど内港の改修・浚渫(しゅんせつ)によって船の泊地となり、今では消滅している。
それから後の遍路は、港から南に下がって左折、東進し宮前川に架かる住吉橋を渡って県道19号)に入り左折、伊予鉄道の線路を越えて北進し、辰巳町の交差点で右折して県道183号に入り、松ノ木・地蔵坂を経て太山寺へ向かった」とあった。
三津浜からの遍路道は、明治の後半に三津浜の北に高浜港ができると高浜からの遍路道にシフトしていくようになった。と。
●仁王門
石段を上り鎌倉時代に再建されたという、国の重要文化財指定の仁王門がある。本堂近くにあった案内には「仁王門;三間一戸、八脚門、入母屋造、本瓦葺、建築は和洋であるが柱はすべて円柱でいずれも礎盤をそなえた唐様の手法が見られ、鎌倉時代の特徴を伝える建物である」とあった。二の門とも称されるようである。
●自然石の道標
仁王門を通り参道を進むと、駐車場から出た辺りの参道、左手の石垣に自然石の道標がある。「へんろ」らしき文字が読める。手印らしきものは太山寺本堂方向を示しているように見える。
●旧茶屋跡
参道を進み、右手に納経所・本坊、左手には目の病に霊験あらたかとされる一畑薬師の小祠を見遣り先に進むと急坂の左右に、かつては宿屋であったような建物が数件並ぶ。
「えひめの記憶」に拠れば、「本坊を過ぎ参道を登ると、右側に崎屋・布袋(ほてい)屋(もと布川屋)、その先の小坂を上がると左側に木地屋・門(かど)屋(井筒)とかつて呼ばれていた、旧茶屋の建物が並ぶ。これらは宿屋業とともに「あんころもち」や「こんにゃく」を商い、遍路をはじめ多くの参詣人に親しまれていた。
ここでの茶屋の歴史は古く、『四国邊路道指南』、『四国?礼霊場記』などに登場している。また、布袋屋は「ねじれ竹」の伝説で知られ、庭先には、後世のものではあるがねじれ合った竹が生えている。
◆「ねじれ竹」の伝説
その昔、布袋屋(ほていや)に男女ふたりの遍路が泊まることに。宿に着くと、金剛杖として持っていた青竹の杖をぞんざいに扱う。「同行二人」とも称される如く、金剛杖=弘法大師を敬う心のない二人をみた旅の僧が見咎める。 ふたりは急ぎ青竹を取りに戻るも、杖がねじれ絡み合っていた。驚いた二人は僧に罪を懺悔。二人は不義密通での逃避行の方便として遍路姿をしていた、と。僧は、心を改め二人別々に霊場巡礼をおこなえば罪も許されると諭す。
僧の教えに従い四国巡礼にむかうふたりに、戒めのためねじれた二本の青竹の杖を庭にさし、お大師さまのお陰があれば根が付き枝葉が茂り栄えるだろうと言った、とか。
●旧門屋前の道標
「えひめの記憶」には「旧門屋の前に道標(が立っていて、前述の山越えの高浜道を案内している」とある。どれが旧門屋かわからないが、参道から右手に道が分岐する角に道標が立っていた。
明治25年(1892)、伊予鉄道は高浜まで延長され、同28年に高浜港が開港した。しばらくはまだ三津浜港の繁栄が続いていたが、高浜港に南桟橋が架設され、同36年から大阪商船の宇品線の高浜寄港が始まり、また日露戦争前後には高浜港の整備・利用が高まり、伊予鉄道の松山―高浜間全面開通や北桟橋の架設などもあって、明治39年からは大型汽船の寄港地が三津浜から全面的に高浜へと切り替えられた。こうして松山の玄関口が三津浜から高浜へ移ったのである。 高浜港利用の遍路が増えてくると、上陸地から太山寺へ行くのに、地蔵坂経由の従来にルートは大回りになるとして、新たに新苅屋(高浜)から木谷越えの山道をたどって峠を越え、太山寺本堂の裏に直接出て表参道に合流する道が作られた。
まず、現高浜一丁目の小ヶ谷川沿いに上り、標高200m余の経ヶ森の山腹を巡って、峠に至る山道が開かれた。
さらに、高浜五丁目の旧県道脇から坂道を上って経ヶ森の北に出て、峠を越える短縮ルートが作られた。
その後、この高浜港も手狭となり、昭和42年(1967)、同港の北1km足らずの地に松山観光港が開設され、今日四国の海の玄関として大いに賑(にぎ)わっている」とあった。
愛媛に生まれ、三津浜とか高浜は子供の頃からよく聞く地名ではあったが、それぞれの位置づけはこのメモではじめてわかった。
●本堂前石段手前の徳右衛門道標
参道を進み、楼門に上る石段手前の一段高いところに徳右衛門道標が立つ。正面に「是より圓明寺迄十八丁」と五十三番札所への里程を示す。
●子安観音脇の丁石
また、石段の左奥の子安観音堂の左前には小さな舟形丁石が置かれている。「えひめの記憶」には「遠くから移されたもの」と記す。
●本堂
楼門をくぐると正面に堂々した国宝の本堂が見える。案内には、「桁行七間、梁間九間、一重、入母屋造、二軒、本瓦葺で、全国屈指の規模を誇る密教寺院本堂である。柱、梁などの木組も大きく豪放であるとともに、和洋を基本としながら虹梁、挿脛木等に禅宗様や大仏様の仕様が使われるなど、三建築様式の融合した調和美がある。
内陣が土壇になっているのは全国でも珍しく蟇股の工作も鎌倉期を代表するものと評価されている」とある。
◆木造十一面観音立像
本堂には国重要文化財の木造十一面観音立像が安置される。「本堂内陣須弥壇に安置されている木造十一面観音立像七躯は、寺伝によると聖武天皇勅納の立像で、厚い信仰の対象となっている。像高150センチメートル前後で一木造である。容姿は優美で調和のとれた藤原時代の秀作である」と案内にある。
◆真野長者の一夜建立のお堂
「太山寺の開山には「真野長者の一夜建立のお堂」という伝説があります。 今から千四百年前、豊後の国(大分県)の炭焼き小五郎のもとに、奈良の三輪神社のお告げによって都の久我大臣の娘、玉津姫が嫁いできました。夫婦は宝を見つけて大金持ちになりました。天皇より「長者」の号を頂き、真野長者と名を改め難波(大阪府)に向かう途中、高浜沖であらしにあいました。
一心に「南無観世音菩薩」と唱えて祈ると瀧雲山(経ヶ森)山頂から五色の御光がさし、ほどなく海がおだやかになり、無事船を岸に寄せることが出来ました。
長者が山に登ってみると、草深い小さなお堂に十一面観音像が安置されていました。御利益を頂いたお礼にと思い本堂を建てることにしました。直ぐに国に帰り大工を集めて本堂の木取をして舟に積み、追い風を受けて豊後の臼杵から一晩で高浜にやってきました。そして、山の中腹に一夜で本堂を建てたということで、「一夜建立の御堂」と呼ばれています」と案内にあった。伝説にはあれこれのバリエーションがあるようだ。
伝説は伝説とし、Wikipediaには,「その後(私注;一夜建立伝説)、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。なお、現本尊像(重要文化財)は平安時代後期の作である。また、本堂の奥中央の専用の厨子内に安置される十一面観音像(文化財指定なし)が孝謙天皇奉納像であると伝える。
現存の本堂(国宝)は三代目で嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた]と記される。 鐘楼と堂宇
左手の一段高いところには「遍照堂」と書かれた大師堂や長者堂が建つ。また右手には地獄極楽絵図のある鐘楼や諸堂が並び、鐘楼など諸堂には遍路の落書が見られる。梵鐘は鎌倉(吉野・南北朝)の名作とのことである。
松山には子供の時か結構遊びには来ているのだが、こんな堂々とした本堂をもつお寺さまがあることなど、なにも知らなかった。当然のことではあるが、知らないことがいくらでもある。
寺には、そのほか、県指定有形文化財である「絹本著色 弘法大師像」も伝わる、と。「縦113センチメートル、横118センチメートル絹本著色画像である。鎌倉中期以前の優秀な作品である」と記される。
ついでのことではあるがちょっと気になることが。一夜建立もそうだが、前述「ねじれ竹」の伝説も主人公は大分の人とされる。大分とこの寺を繋ぐ所以でもなにかあるのだろうか。九州から三津浜や高浜から逆打ちで遍路道を辿る人は最初に太山寺に向かうというくらいしか、その関係性がみえてこない。少し寝かせて置くことにする。
これで西林寺から石手寺、そして松山市内を抜けて太山寺までの遍路道をつないだ。この先は、過日花遍路の道として北条から菊間を歩いた遍路道を繋ぎ、その先、今治の延命寺までの遍路道を、「えひめの記憶」の記事の道標を目安に歩を進めることにする。
河野家断絶の時の河野家当主は河野通道(みちなお)であるが、四国攻めの小早川隆景軍と激しく戦ったといった記録もなく、湯築城近くに隠居させられている。宗家とは関係なく、一族の滅亡を嘆き悲しんだ一族、譜代の老臣達が自刃した、ということだろう。本堂東に「誓いの泉」が、今も残っている、というが見逃した。「山門に螢逃げこむしまり哉」と子規が詠む。
義安寺裏手には砦があり、道後の冠山とともに湯築城を守る防御ラインであったようだ。
●お六部さん
本堂の西に六部堂がある。「日本大百科全書」に拠れば、六部とは「六十六部の略で、本来は全国六十六部か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された六十六部部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。別称、回国行者ともいった。
わが国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときとも、最澄(さいちょう)(766―822)、あるいは鎌倉時代の源頼朝(よりとも)、北条時政(ときまさ)のときともいい、さだかではない。おそらく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代にとくに流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した」とある。
一般的にはこの通りであるが、ここでの「お六部さん」は特定の人物と深く結びついているようだ。その話とはこういうことである;
江戸の頃、伯耆の富農友平は妻を不治の病で失う。また、愛娘も同じ病に蝕まれ、薬の効き目もなく神仏にすがるべく、娘とともに六十六部巡礼の旅に。道後の湯が効能あると聞き、この地で湯治するも特段の治癒もせず、娘を残し大師にすがるべく四国霊場を巡るが、その甲斐もなく娘はむなしくなる。
嘆き悲しむ友平は延命地蔵と子安地蔵を祀り娘の菩提を弔い、「神仏の御加護を願うも甲斐はなし。かわりに我に願うべし」との遺言を残した、という。その友平を祀るお堂がこの六部堂とのことである。
●姫だるま
愛媛の人ならご存知だろうが、愛媛みやげに「姫だるま」があるが、この「姫だるま」は義安寺ゆかりのもの、と言う。話は元寇の役の頃の河野氏に遡る。元寇の役で勇名を馳せた河野道有の叔父の通時は武運つたなく討死。それを悲しんだ一人娘の姫は終生この義安寺で父の菩提を弔って一生を終えた。その姫を弔って禅寺故の「だるま大師」の顔を姫に似せてつくられたのが「姫だるま」とのことである。
通時と姫のお墓もこの寺に残る、という。地図に義安寺の裏手に「道後姫塚」とあり、なんのことだろうと思っていたのだが、その所以はこの寺にあった。
●西参道入口の道標
県道187号から斜めにお寺様に上る参道入口に道標が立つ。常の道標とは異なり、手印とへんろ道とともに、仏像が浮き彫りにされ、先祖代々菩提とか俗名おきよ菩提、といった文字も刻まれ供養塔を兼ねているようだ。
伊佐爾波神社参道口
なんとなく悲しい物語の多い義安寺を離れ、県道を少し西に進み、地蔵堂のあるT字路を右折し坂を上ると伊佐爾波神社参道口に。右手は拝殿に上る石段、左手は西に下る参道となっている。
名前に惹かれ、石段を上り社にお参り。楼門を潜り申殿・本殿を囲む回廊を歩みながら、透塀の中、後殿・前殿が前後に繋がる八幡造りの本殿を見遣る。境内に「算額」の案内があったので、回廊にあるのかと注意したのだが、みつけることができなかった。
Wikipediaに拠れば「伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は、愛媛県松山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。神紋は「左三つ巴」。別称として「湯月八幡」・「道後八幡」とも呼ばれる。三つ巴の神紋は古代での祭祀に使われた勾玉と似ているということで、八幡様でよく使われているようである。
国の重要文化財に指定されている社殿は、全国に3例しかない八幡造である。このほか、重要文化財の太刀(銘 国)が伝えられている。
社伝によれば、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列している。神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。
伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。当社は湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間・風速・和気・温泉・久米・伊予・浮穴の各郡)の総守護とされた。
松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされた。また武運長久の祈願社として、社領に久米郡井合の土地100石を寄進した。
寛文2年(1661年)、弓の名手といわれた三代藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664年)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。
寛文7年(1667年)5月15日、大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて3例のみである(現存)」とある。
本殿、申殿、回廊、楼門ともに国の重要文化財に指定されている。
●遍路道
「えひめの記憶」に拠れば、「『道後温泉略案内』によると、「へんろは湯月八まんぐう(伊佐爾波(いさには)神社)へちか道よりあがり 鳥居へおりてそれよりゆく一丁あまり也」とある。これによると、江戸中期の遍路は伊佐爾波神社の裏側から上り、表参道の石段を下りてきて、温泉へ向かったものと思われる。 その後、主な遍路道は伊佐爾波神社には上がっていない。
県道を行く遍路道は、義安寺前から100m余進んだ所にある地蔵堂で右折し、神社石段下に至る。
そこで道は分岐し、その一つは左折して参道の坂を西へ向かって下る遍路道で、右手冠山の湯神社前を通過し、御手洗橋を渡って右折し、道後温泉本館前に出る。(中略)もう一方が県道を行く遍路道で、神社石段下を横切って北進、右手に旧廓(くるわ)街の松ヶ枝町や突き当たり奥にある一遍上人生誕の地として知られる宝厳寺を見て、冠山の裾(すそ)を巡って坂を下り、神社石段下から約200mほどで道後温泉本館裏に至る」とある。
現在の県道は地蔵堂から左へと向かっているが、昔の県道はこの参道口から更に北に進み冠山の東裾をぐるりと廻り道後温泉本館前に出ていたのだろうか。
宝厳寺
遍路道を道後温泉に下る前に、一遍上人生誕の地として知られる宝厳寺に立ち寄る。山門手前に自然石の「一遍上人御誕生寺旧跡」碑が立つ。古き趣の山門を潜ると新しく建て替えられた風情の本堂が建つ。本堂は平成25年8月に焼失。国宝の一遍上人立像もそのとき焼失したとのことである。
案内によれば、「宝厳寺は一遍上人誕生の地といわれ、寺伝によると天智天皇7(668)年斉明上皇の勅願で国司越智宿祢守興が創建、当初は法相宗に属し、その後天台宗に転じた。後に、時宗が隆盛し弟子の仙阿がここにすむようになって、正応五年(1292)年寺は再建され時宗に改めたとする。
●一遍
時宗の開祖一遍は河野通広の第二子として延応元〈1239〉年に生まれた。幼くして仏門に入り、文永11〈1239〉年時宗を開き、翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀仏」と記した賦算を始めた。弘安二年(1279)には信濃国佐久郡で念仏踊りをはじめた。その後正応2(1289)年神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所不在、捨聖、遊行上人と尊宗された。「一遍上人御誕生旧跡の碑」は河野一族の得能通綱が建立したと伝えられる」とあった。
●河野通広
河野通広は平氏打倒をすべく挙兵した源頼朝に呼応し、周囲は平氏方と言う四面楚歌の中、頼朝に与した河野通信の子。ということは、通信は一遍の祖父ということになる。
●子規の句
「色里や十歩はなれて秋の風」という句がある。子規と漱石が宝厳寺を散策したときに子規が詠んだ句である。上述の旧廓(くるわ)街の松ヶ枝町は宝厳寺から10歩も離れていないところにあった、ということだろう。
道後温泉本館
宝厳寺から伊佐爾波神社石段参道口まで戻り、坂道を下り御手洗橋まで進む。そこを右に折れ、道後温泉本館脇に出る。前述、旧県道を進む遍路道もここに出る。
道後温泉本館について、「えひめの記憶」には「道後温泉は古くから世に知られた天下の名湯である。現在の道後温泉本館は、明治27年(1894)完成の木造3階建て、入母屋(いりもや)造り、棧瓦葺(さんかわらぶ)きの建物で、国の重要文化財となっている。
遍路にとって道後温泉は大きな楽しみであったと思われる。長く苦しい遍路の旅の途次、昔から遍路たちはここで旅の疲れを癒(いや)した。
『玉の石』には、「四国辺路七ヶ所 三十三番じゅんれい同行幾人にても勝手次第一宿するなり9)」とあり、四国遍路七ヶ所参り、松山西国巡礼の人々が当時、道後で自由に一宿できたことがうかがわれる。
また、『伊予道後温泉略案内』の中に、「遍ん路三日まではゆせんいでず 一まはりにて二十四もんづヽならびニとうみやうせん十二もん出る也」と記されていて、「三日」までは湯銭免除という遍路を優遇する慣行があったことが分かる。 しかし、幕末にはこの慣行も変化し、安政2年(1855)の定書によると、四国遍路や通り掛りの者は三日間に限って止宿湯治を許可、また遍路のほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許すことなどが慣行的に定められた。さらに、温泉街における湯治宿と遍路宿との弁別も明確となり、遍路が道後で一般旅人の宿に宿泊することは困難になっていったらしい。
明治・大正期には、それがよりはっきりしてきたようで、大正7年(1918)に遍路した高群逸枝は、『娘巡礼記』の中に、「道後温泉町に着いたのは午後の五時頃であつたらう。或る旅人宿を訪ねたら。『お遍路さんはお断りして居りますから』と云ふ。仕方が無いので又復(またまた)汚い宿に追い込まれて了つた」と記している」とある。
既に述べたことだが、愛媛に生まれた者にとって、かつて「へんど(遍路のこと)は物乞いと同義であった。信仰故に遍路巡礼をする人もいたと思うが、不治の病故、家族・社会から見捨てられ、遍路として物乞いをするしか術がない人も多かったのも事実ではある。土佐では遍路が領内に滞在する日を限ったこともあると言う。道後温泉での遍路への対応も、そのコンテキストの中での出来事のひとつではある。
椿の湯
「えひめの記憶」に拠れば、「温泉を後にした遍路道は、西へ向かい土産物屋街を約100m行って、椿湯横の四つ辻(つじ)を左折、60mほど進んで右折し、清水川沿いの小道を西に向かう」とある。
散歩当日(2017年8月)、椿の湯は工事中であった。記事に従い左折、そしてすぐ右折すると「四国のみち」の標識があり、「五十二番 太山寺」の手印があった。
如何にも水路跡といった風情の道であり、地図をチェックすると西に進んだところで開渠となっている。開渠箇所に向かって西に進む。
●椿の湯からの遍路道
「えひめの記憶」に拠れば、遍路道はこの椿の湯でふたつのルートに分かれたとある。「このほかに(私注;前述の清水川筋を進む遍路道)、椿湯前の道標(現在は、椿湯の内庭に保管)に従って直進することもできたようである。
ただし、この道について『伊予道後温泉略案内』には、「へんろ道西町 うてんにはよろしからず」とある裏道で、県道松山北条線(20号)に当たる道(私注;県道187号と重複区間?)が開通する前にはあぜ道程度の狭い曲折道であったようである。なお、椿湯の西約40mのところにかつて木賃宿「筑前屋」があり、その前に1本の道標が昭和47年(1972)まで立っていたという。これには「(手印)太山寺道/(梵字(ぼんじ))為三界萬霊」と刻字され、筑前屋の前を西に進み太山寺へ向かうよう指示していたという。道は筑前屋の右脇を北に進んで左折、大川沿いの遍路道に向かっていた。この道が大川端に出る所は、前述の清水川沿いの遍路道が出てくる天神橋付近よりもやや上手であったようである(「愛媛の記憶」)」。大川、天神橋は後ほどメモする。
清水川
「四国のみち」の道標を西に進むと道脇に自転車置き場があるが、その道路下から結構激しい水音が聞こえる。水音を聞きながら更に西に進むと清水川が開渠となって姿を現す。
ところで、この清水川は何処から流れてくるのだろう?地図をみると、なんとなく、石手寺門前を県道187号に沿って義安寺方面に流れる、前述の寺井内川と繋がっているように見える。チェックすると、清水川は「岩堰」辺りで石手川から分水された寺井内川水系の川のようである。
寺井内川は人工的に開削された水路であり、その目的は湯築城に城を築いた河野氏が、その「城下町」の湯の町に水を送るため、といった記録もあった。 寺井内川は伊佐爾波神社参道で「御手洗川」に変わり、町を西行し「樋又川」になり「清水川」「宮前川」と名を変えて海へと流れ込むようだ。また、下石手バス停でメモし「今市川」は道後村を潤した。
樋又・三界地蔵堂の道標
清水川に沿って道路を進むと川は二手に分かれる。北に向かう水路は大川に合流し、西に進む水路は宮前川となって三津浜の海に注ぐ。その清水川が二手に分岐する西北角に三界地蔵堂がある。
「えひめの記憶」には「堂の脇に自然石の道標が転がっている。これはもともとこの付近にあったもので、明治28年(1895)ころ道後駅から、城北に向かい走っていた軌道車の線路沿いの遍路道に建立されていたようで、同じ樋又の護国神社鳥居前に立つ茂兵衛道標(私注;後述)につながり、そのあと南海放送会館前(私注;現在の本町会館と異なり、昭和39年(1964)に道後樋又に建設された南海放送会館のことだろう)から大川沿いの本道に出る、いわゆる脇道にあった道標だと地元では解釈されているという。
道後温泉に立ち寄らない遍路が利用していたといい、『松山の道しるべ』ではこの線路沿いの道を主な遍路道の一つに位置付けている」とある。 祠の右手に自然石に少し人の手を加えたような角ばった石碑が立つ。「青・・・」」とか「へんろ」らしき文字が刻まれていた。
●三界地蔵堂
先回散歩の石手寺手前の三界地蔵堂でもメモしたが、三界とは欲界、色界、無色界。欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つのステージ(六道)があり、その各ステージでお地蔵様が衆生を見守る。六地蔵がこれである。色界はこの欲界を離れた清らかなステージ、無色界はその上のステージ。最高所が有頂天とのことである。お地蔵様三界は密接な関係がある故の、三界地蔵堂との呼称であろうか。
清水川・大川合流点の道標
三界地蔵堂から北に向かう清水川に沿って200mほど進むと大川に合わさる。合流点の直ぐ西に道標が立つ。「えひめの記憶」には「「すぐへんろミち」と刻む道標が立っている。刻字にある「すぐ」とは、「直」すなわちまっすぐの意であるという。道後からの遍路道は城下へ向かう道を除き、おおむねこのように大川端へ出て来て、ここからはしばらく、大川沿いに西もしくは西北西へ向かって行くことになる」とある。
●湯築小学校南入口の道標
「えひめの記憶」に「清水川に沿った遍路道の北側に並行する県道20号沿いの道後北代で、松山市立湯築小学校南入口に道標が並んで立っている」とある。大川との合流点の道標から東に向かい、天神橋交差点に。南口ってどこなのかはっきりしないので結局小学校の廻りをグルリと一周し、学校周辺には見当たらずあきらめて小学校東端から南に下り、県道187号(県道20号)に出ると、その角に道標がふたつ並んで立っていた。「えひめの記憶」をもとにまとめると「道標のひとつは文化13年(1816)の記年銘があるもので、先述の裏道で湯築小学校の校庭の中を通っていた遍路道沿いにあったが、道路拡張のため現在地に移したという。もう一つの道標は道後湯之町の遍路道沿いに立っていたものを移したという」。
地図で確認すると先ほど訪れた椿の湯から直進する遍路道筋にあった。
護国神社鳥居前の茂兵衛道標
大川筋に戻り、御幸寺山裾を西に流れる大川に沿って進むと護国神社に。戦没者を祀る「神社鳥居前の参道東南向きに茂兵衛道標が立つ(「えひめの記憶」)」とあるが、それらしきものが見当たらない。
参道を南に下り、県道187号沿いに立つ鳥居の県道南西に茂兵衛道標があった。上にメモした、明治28年(1895)ころ道後駅から、城北に向かい走っていた軌道車の線路沿いを、この樋又の護国神社鳥居前に立つ茂兵衛道標(私注;後述)につながり、そのあと南海放送会館前(私注;現在の本町会館と異なり、昭和39年に道後樋又に建設された南海放送会館のことだろう)から大川沿いの本道に出る、いわゆる脇道の遍路街道に建っていた、ということだろう。
手印は更に西を指している。脇道はもう少し西に向かい大川筋の本道に戻ったのだろう。
山頭火ゆかりの一草庵
大川に沿って少し西、川に架かる小橋の北詰、「御幸寺山」と刻まれた自然石の傍に「俳人山頭火の一草庵みち」の石碑が立つ。田舎の家の書斎に大山澄太翁の本があり、43歳の頃から旅に生き、尾崎放哉とともに自由律俳人として知られるとか、「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」といった句くらいは知っているのだが、詳しいことは知らない。ちょっと寄り道。
北にちょっと進み御幸寺の手前東側に「種田山頭火終焉の地 一草庵」の案内 があった。奥に一草庵があるが、その手前の整備された庭に新しく造られたような句碑ふたつ。庵の庭に自然石の句碑二基が立つ。
◆落ち着いて死ねさうな草枯れる
昭和14年(1939)12月、高橋一洵(私注;松山在住の句人)の奔走でみつけたこの草庵(私注;御幸寺の納屋であった、とも)に入った山頭火は、「私には分に過ぎたる栖家である」と記し、その労苦に感謝し高橋一洵にこの句を呈した。 「死ぬることは生まれることよりむずかしいと、老来しみじみ感じた」山頭火が、一草庵を終の住処とした境地である。翌年3月には、改めて「落ち着いて死ねそうな草萌ゆる」と詠んでいる
◆濁れる水のなかれつつ澄む
死の1カ月前、『山頭火句帳』の昭和15年(1940)9月8日の項に、「濁れる水のながるるままに澄んでゆく」の句とともに記されている。
この庵の前を流れる大川を詠んだ句ではあるが、自らの人生を観じて詠んだ句でもある。20年近い流転孤独の生活の悩みと寂しさに、濁れる水のように心を曇らせながらもなお、逞しく自己をむち打ち続け、そこから自己の魂を取り戻そうと務めた山頭火の境涯が重なる
庵近くの自然石に刻まれた句碑の案内は写真が日の光に反射し読めない。一草庵で案内して頂いた管理者の方には代表作と言われながら、ちょっと申し訳ない。いくつかのサイトを参考にまとめておく。
◆鐡鉢の中へも霰(あられ)
この句は昭和7年(1932)1月8日、福岡県芦屋町での吟。「今日はだいぶ寒かった。一昨六日が小寒の入、寒くなければ嘘だが、雪と波しぶきとをまともにうけて歩くのは行脚らしすぎる。」と記して、この句がある。
「寒い中、托鉢に出る。かじかむ手。ぱらぱらぱらと霰が落ちてきた。木彫りの鉢が、鉄鉢のように響いてきた」といった意味との記事を見かけた。山頭火の死(昭和15年10月11日没)の翌年、春の彼岸に建立された。山頭火にとって二番目、没後初めて建てられた句碑で、山頭火のあご髭が納められている、ようである。
◆春風の鉢の子ひとつ
旅に生き、生きる術は托鉢のみ。酒におぼれる自分に、空の鉢には季節の風が吹き込むだけ、といった意味の解説があった。この春の句は、「秋風の鉄鉢を持つ」と対になっている、とのことである。
一草庵の名付け親は大山澄太翁。また、山頭火とは納音(なっちん)より。納音は一言で説明する素養がないので、ここではパス。
龍泰寺の標石
大川を少し西に進み龍泰寺前に。「えひめの記憶」には「大川に架かる太鼓橋を渡った所に「此方五百らかんあり」の標石が立つ」とある。太鼓橋とは言うものの、今はフラットなコンクリート橋ではあったが、橋を渡ったところの寺の名を刻んだ石碑の裏に標石が立つ。「五百」といった文字は読めた。
千秋寺の山門参道傍の道標2基
次いで千秋寺。「えひめの記憶」には、往時をしのぼせる中国風の立派な山門に通じる御和橋東のたもとに、太山寺への道を示す道標2基があるとのこと。千秋寺へのアプローチ橋はいくつもあってわかりにくかったが、西端の山門に直接渡る橋(御和橋)の少し東、川に沿う電柱脇に茂兵衛道標。道を挟んだ対面にもう一基の道標があった。
茂兵衛道標には手印とともに太山寺と刻まれる。もう一基の道標は「厄除け延命地蔵尊不退寺(私注;後述)への丁石を兼ねたものである。また、刻文「太山寺ちかみち」という指示は遠回りに対する近道という意味ではなく、「近いのです」という意である(「えひめの記憶」)」という。
黄檗宗独特と称される山門を眺め、本堂にお参り。「竹林のすそに闇湧き万灯会う」と刻まれた句碑が立つ。久万に生まれた俳人坂本謙次の作。万灯の明と竹林の闇、この世とあの世のコントラストが感じられる。
その他境内には子規の「山本や寺ハ黄檗杉ハ秋」「画をかきし僧今あらず寺の秋」の句碑も残る、とか。山本は御幸寺山の麓、「杉ハ」は寺にあった有名な杉並木。「画をかきし」とは南画を巧みとした往時の住職のことを指す。
堂々とした本堂に御参り。往昔「松山に過ぎたるもの」と称された20余の堂宇からなっていた千秋寺も後に衰え、往時の面影は少ない。
来迎寺
遍路道は大川南岸を西に進む、とのことだが、「大川の北側に広がる松山大学のグランドの西・北一帯は多くの寺が集まる寺町地区となっており、そのひとつである来迎寺には、松山城下建設の功労者足立重信や蘭学者青地林宗の墓、日露戦争の時のロシア人兵士の墓地などがある(「えひめの記憶」)」とある。 つい最近松山捕虜収容所に関する書籍を読み終えたばかりでもあったので、ちょっと立ち寄り。
大川を渡り、大学のグランド北辺山裾を歩き来迎寺に。道から大きな石碑が見える。近寄ると足立重信を顕彰する石碑であった。山門を潜り本堂に御参り。お寺さまの案内には「西宮山聖聚院と号し、本尊は阿弥陀如来、浄土宗の寺院である。当寺は河野氏の創建によるもので、道後駅前の放生池跡あたりにあり、天台宗で、湯神社別当、河野氏の祈願所であったという。天文(1543)浄土宗に改めたといい、良荘を中興開山としている。
加藤嘉明が松山城の北辺防備のため、山越あたりに寺町を設けたといわれるが、当寺は寛永2年(1625)に道後から寺町に移り、その後延享2年(1745)に弧土地に移ったと伝えられている。
24世学誉が、江戸増上寺の学頭になるなど学僧を輩出し、江戸時代末期には公儀支配、中本寺の寺格をもった寺院であった。
境内に愛媛県指定史跡となっている足立重信の墓、青地林宗の墓のほか、ロシア兵とドイツ兵の墓、正岡子規の祖父大原観山の墓がある」とあった。
●足立重信
加藤嘉明に仕え、文禄・慶長の役、関ヶ原の合戦後、20万石の大名となり勝山に松山城を築いた加藤嘉明の普請奉行として湯山川(石手川)や城下町の整備に尽くした。
●青地林宗
18世紀後半の蘭学者。多くの蘭書を翻訳し、日本物理学の祖とも称される。四女は高野長英に嫁ぐ。
●ロシア兵・ドイツ兵
明治37年(1904)、日本初の捕虜収容所が開かれ、延べ600名、最大で4000名の捕虜が収容されていた時期もある。収容所は国際法に乗っ取り、博愛主義で応対し自由な雰囲気であったという。墓には異国でなくなった97名のロシア兵が眠る。
ドイツ兵2基の墓は、第一次世界大戦でのドイツ租借地である中国の青島での捕虜のことだろう。
不退寺脇の遍路道
来迎院の西に道の分岐があり、西に直進する車一台通れるといった道に「遍路道」の案内がある。「えひめの記憶」では南の大川に沿って遍路道が続くとあったが、この山裾を通る道もあったのだろう。 細い道を抜けるとすぐに広い道となり、先ほど千秋寺の道標にあった厄除け延命地蔵尊不退寺前を通ることになる。弘法大師作とも伝わる延命地蔵尊のある本堂へと手印の標石が山門脇に立っていた。
旧今治街道・御幸橋の道標
道を西に進むと大川筋に出る。川筋を西に進み、国道196号(今治街道)にあたる少し手前、道の南に大きな道標が立つ。
「えひめの記憶」には「大川南岸を西進してきた遍路道は、松山城下北の出入口として栄えてきた(松山市)木屋町の北詰めで、松山「札の辻」を起点に松山城堀の北西角から北進してきた今治街道(以下「旧街道」と記す)に合流する。
左折する旧街道の角は商店で、向かいには御幸橋があるが、その商店の前脇に松山市内最大の遍路道標が立っている。40cm角の石柱の上に笠を乗せ、地上部でも2mに達する大型のもので、西面には「へんろみち」、南面には「南城下道」と深彫りしている」とある。
国道196号・山端交差点の道標
大川に沿って道を進み国道196号に合わさる山端交差点の道路東側、大川沿いに自然石の道標がある。道標と言われなければ単なる置石と見える。
「えひめの記憶」には「川端の山越信号機の東に自然石の道標がある。「元禄十二年」とある記年銘は松山市内では二番目に古い。破損した当初の標石を逆さまにして利用し、裏側に従来の文言を彫り加え再建したものと考えられている」とあった。
七曲り跡
「遍路道であり、旧街道でもあった道は、後世拡幅改良されて国道196号となっている。この道は大川沿いに、(松山市)山越・姫原・東長戸と進む。途中、姫原に入って角田池のあたりは度々の改修で旧街道としての昔の面影はない。
このあたりは「七曲り」と呼ばれていた所で、道路を隔てて「七曲り跡」の碑が立っている。松山城を築いた加藤嘉明が北方からの敵の侵攻を遅らせ、高所から敵の兵力を数えるために設けたという(「えひめの記憶」)」との記事に従い、国道196号を北進し、北西にカーブする角田池北東端の大川を渡ったところに緑の木立が見え、石碑らしきものが見える。そこが「史跡 七曲り跡」であった。
●七曲街道
「現在の姫原から鴨川にかけ北方から侵入する敵に備えて七カ所の曲がった街道が時の城主加藤嘉明公によって作られ、幅六メートル、高さ三メートルの土手になっていました。
しかしこの街道も軍事的には使用されることもなく、江戸・明治・大正・昭和と長らく平穏に利用され、戦後道路改修によってその姿を消しました。 当時の街道の一部がこの地に僅か数十m残るのみとなっております。
永き日や 菜種つたいの 七曲り
菜の花や 道者よび合う 七曲り
正岡子規」と案内にあった。
道者とは修行僧とか遍路を指す。
大川・藤川合流点の道標
七曲りから少し北東で大川は国道196号から分かれ北に進む。この道は道路改修前の旧街道とのことである。道を北に進み、大川が東から下ってきた藤川を合わせ、流路を西に向ける。
旧街道は北に向かうが、「遍路道は左折して大川の南岸を西へと進む。この辻の西南角、歩道橋の下に石仏をまつる小堂と茂兵衛道標が立っている。道標には「世の中に神も仏もなきものをまれにしんずる人にこそあれ」(釈陶庵俊因作)の歌が添えられている(「えひめの記憶」)」。
●茂兵衛道標
脇にあった案内には「逆打ち遍路道標」とあり、「この道標は南側の袖付指印の方向が順打で(52番太山寺)を案内するとともに、西側は太山寺から来る逆打ち(51番・石手寺)も案内しています。逆打ちは、順打ちの3倍の御利益があるといわれ、先達は衛門三郎(石手寺にまつわる伝説)と言われています」などとの説明がある。
なお、上述の歌は道標・東側に堀江村(北)への案内とともに刻まれている、と。
◆蓮華寺
「えひめの記憶」に、「旧街道を300mほど進むと右手に木立の茂った小山があり、そこに蓮華寺がある。『四国邊路道指南』に、「たに村、此所にむろおかやまとてよこ堂、本尊薬師、諸辺路札打也)」とあって、この谷村(松山市谷町)の室岡山蓮華寺へ札打ちした遍路も多かったと思われる」とあり、旧街道を北に進み蓮華寺にちょっと立ち寄り。
石段上の本堂にお参り。石段脇に「大昔の谷町は谷分里」との案内があり、この辺りの歴史を説明していたので、概要をまとめておく;
「大昔、食糧や水の得やすい場所に住んだ人々は、やがて集落を形成。吉藤の城山、ラドン温泉跡付近、また潮見山、谷山、平田の山々には縄文時代から弥生時代にかけてかなりの人が住んでいたようである。
大和時代の終わり頃、律令制の発布とともに、国司・郡司・里長が地を治めるようになる。この地は和気郡として『別王(わけのおおきみ)』と言う豪族が郡司となる。この豪族は日本武尊の子「十城別王(ときわけきみ)」を祖先とする第12代景行天皇の皇子で今の大内平田辺りに居ったと伝えられています。
当時の和気郡は「大内郷」といって、現在の大内平田、谷、志津川、堀江、馬木辺りのようで『郷』は約50戸程度と見なされていました。『谷』という地名は、古代に「谷分里(たにわけのさと)」といわれていたことによると伝えられています」とあった。
志津川池西の道標
蓮華寺から茂兵衛道標のある県道40号まで戻り、大川に沿って西に進み国道196号を横切り、更に西に進み北に向かって流路を変える大川に沿って歩くと川の東に志津川池がある。
遍路道はその北西端から大川から離れ、土手を道なりに下る。土手下で道が分岐する箇所に小祠がある。
「えひめの記憶」には「土手下に降りると、馬頭観音をまつる小堂があり、その脇に道標が立つ。また、その小堂の中にも舟形地蔵道標が納められている。 道標はもと、安祥寺(私注;後述)近くの田道の三差路に南向きに建てられていたというが、移された現状では手差しの方向が合わない。舟形地蔵道標は銘文「是より太山寺 二十七丁」からみると、もともとこの付近にあったものをこの小堂に入れたと思われる」とある。道標の手印は北を指していた。
●馬頭観音
小祠脇に「馬頭観音」の説明がある。「志津川池北西の角から、西方に向かって橋が架かっているが、昔は欄干もない小さな木橋であった。 その昔は、盲馬が多かったこともあるが、この橋から馬が落ち死傷することが多かった。そこでいつの時代か、この橋の西側土手に、馬頭観音が安置された。以来、馬の死傷は少なくなったと伝えられる。
戦後、志津川共同墓地東大川土手に小屋をつくり祭っているが、家内安全無病息災を念じて信心する人が多い」とある。大川土手の小屋とはこの小祠のことだろう。
安祥寺参道の道標
「えひめの記憶」の記事に従い、馬頭観音小堂で右折、墓地横の細道を北西に進み、志津川町中心部から西進し志津川橋を渡ってきた道と合流。さらに北進して田地の中の道を通り、途中で左折西進して安祥寺参道に出る。参道脇に道標が立っている。そこから道は西へ進み、角に庚申堂がある辻を右折し県道184号の高木町バス停へと向かう。
●別の遍路道
「えひへの記憶」には、上述志津川橋を渡ってきた道と合流した箇所から高木バス停までは幾つかの遍路道があると記す。そのひとつが、そのまま「西進して、若宮神社前の辻を直進し、次の交差点で県道184号に出て右折、北進する。
◆若宮八幡
次いで、そのまま西進して、若宮神社前の辻 で右折、集落の中の細道を北進して庚申(こうしん)堂前を過ぎ、さらに北へ進み、やがて緩やかに西北へ曲がって県道184号へ合流する。
といったルート。また、「このほか『おへんろさん』には、「安城寺町本村を通り、高木町へと至る小径」と解説があり、(旧へんろ」道が図示されている。これによると、昭和52年(1977)から同54年ころまでの調査と思われるが、志津川町大川土手下から高木町バス停留所までは、北西方向に幾度も折れ曲がる田畑の中を通る1本の遍路道が表されている。現況と比べると、その後の圃場(ほじょう)整備事業等により、古い遍路道はごく一部を残してその姿を消しているようである(「えひめの記憶」)」といった記事もある。
◆県道40号と186号交差点の道標
更に付け加えて「以上述べてきた大川土手下からのルートのほかに、もう一つ遍路道があったようである。それは前記のように県道をそれて大川沿いに行かず、県道40号自体を西進し、安城寺町を南北に走る県道184号との交差点で右折、県道184号を北進して高木町に至る遍路道である。
交差点の北西角に3基の石造物が並び立ち、その中央に茂兵衛道標がある。指示が実状に合わないのは付近にあったものを移したためであろう。「明治の頃になると、安祥寺回りの古い遍路道より、(中略)この道標で右折して北進するほうが、道も真っすぐで歩きやすかったのだろう」と説明されている。
高木町バス停の道標
上述の如く、いずれの遍路道をとっても最終的には県道184号、そして高木町バス停に至る。バス停から西に入る道筋角に茂兵衛道標が立つ。手印に従い西に向かう。
久万川・井関橋の道標
西に進むと久万川にあたる。久万川に架かる井関橋の東詰に道標がある。「「太山寺へ十七丁」の道標がコンクリート囲いの中に立つ。十数年前の記録『へんろ道』には、近くの草むらに半ば埋まった状態であったと記されている。おそらく、河川等の工事で仮置きの状態であったのであろう。それ以前の二十数年前の記録である『おへんろさん』には、井関橋のたもとに在ると明記している(「えひめの記憶」)」とある。
●久万川
伊予鉄高浜線久万山辺りから発し、北に流れて和気の港に注ぐ。
大淵集落の道標
遍路道は橋を渡りJR予讃線を越えて西に進み、松山市太山寺町大淵地区に入る。道なりに進み松山市立北中学の東北の角を右折し北に向かう。集落の北、三差路というかT字路を左折し西に向かうと東西南北に農業用水路がクロスする少し西に道標が立つ。
「えひめの記憶」には、「字形・字配り・彫りの深さ・浮き彫りの造りなど優品の道標が立つ。嘉永5年(1852)の建立、尾道の石工川崎友八作とある」と記されている。
なお、上述三差路というかT字路にも道標があったが、「現在は和気公民館大淵分館内庭に保管されている。大淵集落が建立した、太山寺へ十五丁とある丁石で折れ損じている(「えひめの記憶)」とのことである。
鵜久森邸の道標(?)
次いで遍路道の目安となる道標について、「えひめの記憶」には「田道を約500m西進すると、鵜久森邸(太山寺町1187)の前を通る。邸の入口付近の植え込みに自然石の道標があり、さらに同邸の生け垣の南西角で太山寺道と円明寺道との岐路には、道標が並ん2基が並んで立っている」とある。
鵜久森邸はあるのだが、「えひめの記憶」の写真にあるお屋敷は新しく建て替えられており、道標も結構探したのだが見つけることはできなかった。
片廻公民館脇の道標
鵜久森邸の道標探しに右往左往し結構時間がかかった。結局何も見つからず少々気落ちしながら先に進む。「えひめの記憶」に拠れば、遍路道は更に西進し、県道183号を越え、太山寺山裾を南北に流れる太山寺川にあたる。
遍路道はそこで左折し、再び県道183号を越え、太山寺川の右岸を進むと、片廻公民館の南角に立派な道標があった。「順打ちと逆打ちの両方の遍路道を示す嘉永6年(1853)建立の彫り深い立派な道標が立っている。「逆遍路道」とは、山の手を通り石手寺に向かう逆打ちの遍路道のことである(「えひめの記憶)」とある。
●大淵地区の別遍路道
「えひめの記憶」には「大淵のもう一つの遍路道は、中途右折し集落を通過した前述の道と違って、井関橋から西へ直進して山の麓を巡る道に突き当たる。その三差路左手に自然石の道標がある。もとは三差路の突き当たりに東向きに立っていたが、道路拡張に伴い、現在地に移されたという。ここで右折した遍路道は、大淵の山の手を行く遍路道となる。大将軍神社境内や小公園の縁を行き、北側の山麓の一段高い所を曲がりくねって上下する山道を行く。
途中、溜池の堤を通って集落に入り、前記した順打ちと逆打ちの両方の遍路道を指示した道標(私注;片廻公民館)のある三差路で太山寺川の川端に出る。そこで二つの遍路道は合流することになる」とある。
◆自然石の道標
この記事に従い松山市立北中学前を通り抜け、山裾の道に突き当たると、記事の通り自然石の道標があった。その先、記事では「大将軍神社境内や小公園の縁を行き、北側の山麓の一段高い所を曲がりくねって上下する山道を行く」とあるが、地図には山道が描かれておらず六十六部山裾の道を進むと「遍路道」の案内があり、左に分岐する細い道があった。
◆入山田池の道標
その道を進むと入山田池に出る。そこに道標が2基立っていた。ひとつは自然石、もうひとつには「手印とへんろ」と刻まれ方向は太山寺を指しているのだが、その右面にも太山寺との文字が読める。なんとなく間尺に合わない。「えひめの記憶」にも、この地に道標は記していない。ひょっとして鵜久森邸の道標がここに移されたのだろうか、との妄想が拡がる。
◆片廻公民館前の道標に出る
山道をなりゆきで進むと道は、先ほど出合った片廻公民館の南に出た。上述の如く大淵地区を進む二通りの遍路道の合流点である。
五十二番札所・太山寺
●一の門
片廻公民館前の道標より太山寺川を先に進むと、ほどなく遍路道は県道183号にあたる。その直ぐ先の交差点で右に折れ、しばらく進むと五十二番札所・太山寺の一の門が見えてくる。一の門の左脇に二基の道標がある。一基は自然石の道標である。
◆一の門傍の道標
自然石の道標は、「右 太山寺八丁」「左 三津浜十八丁」と読める。もう一つの道標は、「えひめの記憶」に拠れば、「茂兵衛道標である。「第五十二番霊場」と太山寺の札所番号を示した道標で、巡拝100度目の茂兵衛の建立したもので、右面には次の札所である円明寺を案内している」と記されている。
◆三津浜からの遍路道
「えひめの記憶」をもとに、簡単にまとめると、「藩政時代は藩の湊であり遍路が利用することはなかったようだが、明治になると、港は商港かつ愛媛県都松山の外港として、物資の出入はもちろん、中国地方や九州、瀬戸内海西部の島々からの人々の上陸港として繁栄期を迎える。遍路も中務茂兵衛が、「九州より渡海する人は、予州三津浜より上り太山寺を札始(め)」と記すように、太山寺より逆打ちでするようになる。その三津浜から太山寺への遍路道は、当初は港から東進、住吉二丁目の角で左折北進し、堀川を渡って辰巳町、松ノ木、地蔵坂を越えて太山寺一の門前に出て行ったようだが、この住吉の北端から辰巳町までの道は、昭和5年(1930)から戦後にかけての堀川付け替えなど内港の改修・浚渫(しゅんせつ)によって船の泊地となり、今では消滅している。
それから後の遍路は、港から南に下がって左折、東進し宮前川に架かる住吉橋を渡って県道19号)に入り左折、伊予鉄道の線路を越えて北進し、辰巳町の交差点で右折して県道183号に入り、松ノ木・地蔵坂を経て太山寺へ向かった」とあった。
三津浜からの遍路道は、明治の後半に三津浜の北に高浜港ができると高浜からの遍路道にシフトしていくようになった。と。
●仁王門
石段を上り鎌倉時代に再建されたという、国の重要文化財指定の仁王門がある。本堂近くにあった案内には「仁王門;三間一戸、八脚門、入母屋造、本瓦葺、建築は和洋であるが柱はすべて円柱でいずれも礎盤をそなえた唐様の手法が見られ、鎌倉時代の特徴を伝える建物である」とあった。二の門とも称されるようである。
●自然石の道標
仁王門を通り参道を進むと、駐車場から出た辺りの参道、左手の石垣に自然石の道標がある。「へんろ」らしき文字が読める。手印らしきものは太山寺本堂方向を示しているように見える。
●旧茶屋跡
参道を進み、右手に納経所・本坊、左手には目の病に霊験あらたかとされる一畑薬師の小祠を見遣り先に進むと急坂の左右に、かつては宿屋であったような建物が数件並ぶ。
「えひめの記憶」に拠れば、「本坊を過ぎ参道を登ると、右側に崎屋・布袋(ほてい)屋(もと布川屋)、その先の小坂を上がると左側に木地屋・門(かど)屋(井筒)とかつて呼ばれていた、旧茶屋の建物が並ぶ。これらは宿屋業とともに「あんころもち」や「こんにゃく」を商い、遍路をはじめ多くの参詣人に親しまれていた。
ここでの茶屋の歴史は古く、『四国邊路道指南』、『四国?礼霊場記』などに登場している。また、布袋屋は「ねじれ竹」の伝説で知られ、庭先には、後世のものではあるがねじれ合った竹が生えている。
◆「ねじれ竹」の伝説
その昔、布袋屋(ほていや)に男女ふたりの遍路が泊まることに。宿に着くと、金剛杖として持っていた青竹の杖をぞんざいに扱う。「同行二人」とも称される如く、金剛杖=弘法大師を敬う心のない二人をみた旅の僧が見咎める。 ふたりは急ぎ青竹を取りに戻るも、杖がねじれ絡み合っていた。驚いた二人は僧に罪を懺悔。二人は不義密通での逃避行の方便として遍路姿をしていた、と。僧は、心を改め二人別々に霊場巡礼をおこなえば罪も許されると諭す。
僧の教えに従い四国巡礼にむかうふたりに、戒めのためねじれた二本の青竹の杖を庭にさし、お大師さまのお陰があれば根が付き枝葉が茂り栄えるだろうと言った、とか。
●旧門屋前の道標
「えひめの記憶」には「旧門屋の前に道標(が立っていて、前述の山越えの高浜道を案内している」とある。どれが旧門屋かわからないが、参道から右手に道が分岐する角に道標が立っていた。
◆高浜道
「えひめの記憶」をもとに概要をまとめると。「繁栄を誇った三津港であるが、明治17年(1884)に大暴風で港が大被害を受けて以来、三津は近代港湾としての発展には制約が多いということから、新たにその北方にある高浜港が計画された。明治25年(1892)、伊予鉄道は高浜まで延長され、同28年に高浜港が開港した。しばらくはまだ三津浜港の繁栄が続いていたが、高浜港に南桟橋が架設され、同36年から大阪商船の宇品線の高浜寄港が始まり、また日露戦争前後には高浜港の整備・利用が高まり、伊予鉄道の松山―高浜間全面開通や北桟橋の架設などもあって、明治39年からは大型汽船の寄港地が三津浜から全面的に高浜へと切り替えられた。こうして松山の玄関口が三津浜から高浜へ移ったのである。 高浜港利用の遍路が増えてくると、上陸地から太山寺へ行くのに、地蔵坂経由の従来にルートは大回りになるとして、新たに新苅屋(高浜)から木谷越えの山道をたどって峠を越え、太山寺本堂の裏に直接出て表参道に合流する道が作られた。
まず、現高浜一丁目の小ヶ谷川沿いに上り、標高200m余の経ヶ森の山腹を巡って、峠に至る山道が開かれた。
さらに、高浜五丁目の旧県道脇から坂道を上って経ヶ森の北に出て、峠を越える短縮ルートが作られた。
その後、この高浜港も手狭となり、昭和42年(1967)、同港の北1km足らずの地に松山観光港が開設され、今日四国の海の玄関として大いに賑(にぎ)わっている」とあった。
愛媛に生まれ、三津浜とか高浜は子供の頃からよく聞く地名ではあったが、それぞれの位置づけはこのメモではじめてわかった。
●本堂前石段手前の徳右衛門道標
参道を進み、楼門に上る石段手前の一段高いところに徳右衛門道標が立つ。正面に「是より圓明寺迄十八丁」と五十三番札所への里程を示す。
●子安観音脇の丁石
また、石段の左奥の子安観音堂の左前には小さな舟形丁石が置かれている。「えひめの記憶」には「遠くから移されたもの」と記す。
●本堂
楼門をくぐると正面に堂々した国宝の本堂が見える。案内には、「桁行七間、梁間九間、一重、入母屋造、二軒、本瓦葺で、全国屈指の規模を誇る密教寺院本堂である。柱、梁などの木組も大きく豪放であるとともに、和洋を基本としながら虹梁、挿脛木等に禅宗様や大仏様の仕様が使われるなど、三建築様式の融合した調和美がある。
内陣が土壇になっているのは全国でも珍しく蟇股の工作も鎌倉期を代表するものと評価されている」とある。
◆木造十一面観音立像
本堂には国重要文化財の木造十一面観音立像が安置される。「本堂内陣須弥壇に安置されている木造十一面観音立像七躯は、寺伝によると聖武天皇勅納の立像で、厚い信仰の対象となっている。像高150センチメートル前後で一木造である。容姿は優美で調和のとれた藤原時代の秀作である」と案内にある。
◆真野長者の一夜建立のお堂
「太山寺の開山には「真野長者の一夜建立のお堂」という伝説があります。 今から千四百年前、豊後の国(大分県)の炭焼き小五郎のもとに、奈良の三輪神社のお告げによって都の久我大臣の娘、玉津姫が嫁いできました。夫婦は宝を見つけて大金持ちになりました。天皇より「長者」の号を頂き、真野長者と名を改め難波(大阪府)に向かう途中、高浜沖であらしにあいました。
一心に「南無観世音菩薩」と唱えて祈ると瀧雲山(経ヶ森)山頂から五色の御光がさし、ほどなく海がおだやかになり、無事船を岸に寄せることが出来ました。
長者が山に登ってみると、草深い小さなお堂に十一面観音像が安置されていました。御利益を頂いたお礼にと思い本堂を建てることにしました。直ぐに国に帰り大工を集めて本堂の木取をして舟に積み、追い風を受けて豊後の臼杵から一晩で高浜にやってきました。そして、山の中腹に一夜で本堂を建てたということで、「一夜建立の御堂」と呼ばれています」と案内にあった。伝説にはあれこれのバリエーションがあるようだ。
伝説は伝説とし、Wikipediaには,「その後(私注;一夜建立伝説)、天平11年(739年)聖武天皇の勅願により行基によって本尊の十一面観音が安置され、孝謙天皇(聖武天皇の娘)が天平勝宝元年(749年)に十一面観音を勅納し七堂伽藍を現在の地に整えたと伝えられている。なお、現本尊像(重要文化財)は平安時代後期の作である。また、本堂の奥中央の専用の厨子内に安置される十一面観音像(文化財指定なし)が孝謙天皇奉納像であると伝える。
現存の本堂(国宝)は三代目で嘉元3年(1305年)伊予国守護河野氏によって再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた]と記される。 鐘楼と堂宇
左手の一段高いところには「遍照堂」と書かれた大師堂や長者堂が建つ。また右手には地獄極楽絵図のある鐘楼や諸堂が並び、鐘楼など諸堂には遍路の落書が見られる。梵鐘は鎌倉(吉野・南北朝)の名作とのことである。
松山には子供の時か結構遊びには来ているのだが、こんな堂々とした本堂をもつお寺さまがあることなど、なにも知らなかった。当然のことではあるが、知らないことがいくらでもある。
寺には、そのほか、県指定有形文化財である「絹本著色 弘法大師像」も伝わる、と。「縦113センチメートル、横118センチメートル絹本著色画像である。鎌倉中期以前の優秀な作品である」と記される。
ついでのことではあるがちょっと気になることが。一夜建立もそうだが、前述「ねじれ竹」の伝説も主人公は大分の人とされる。大分とこの寺を繋ぐ所以でもなにかあるのだろうか。九州から三津浜や高浜から逆打ちで遍路道を辿る人は最初に太山寺に向かうというくらいしか、その関係性がみえてこない。少し寝かせて置くことにする。
これで西林寺から石手寺、そして松山市内を抜けて太山寺までの遍路道をつないだ。この先は、過日花遍路の道として北条から菊間を歩いた遍路道を繋ぎ、その先、今治の延命寺までの遍路道を、「えひめの記憶」の記事の道標を目安に歩を進めることにする。
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