Wikipediaに焼山寺道の記事があった。おさらいを兼ねて掲載する。
「焼山寺道(しょうさんじみち)は徳島県吉野川市にある四国八十八箇所霊場第十一番札所藤井寺と名西郡神山町にある第十二番札所焼山寺を結ぶ遍路道である。焼山寺越えとも呼ばれる。順打ちの歩き遍路が最初に体験する難所となっている。
焼山寺道は標高40mの藤井寺から標高700mの焼山寺に至る全長12.9kmの歩道(山道)である。「へんろころがし」と呼ばれる急峻な上りや下りが6箇所ある。藤井寺からの焼山寺道入口には”健脚5時間、平均6時間、弱足8時間”の所要時間の目安が書かれた標識がある。
藤井寺側から行くと、長戸庵、柳水庵、浄蓮庵という3箇所の仏堂を経由し焼山寺に至る。藤井寺奥の院を過ぎると最初のへんろころがしを登る。登り切った標高225m地点に端山休憩所がある。途中、水大師という湧き水があり藤井寺より3.2km行くと標高440mの長戸庵に至る。長戸庵を出て標高540m地点を経由し少し下ると長戸庵から3.4km地点に標高500mの柳水庵がある」。
ここまでは先回のメモで歩いたところ。今回のルートについては、続いて「柳水庵から県道245号を横切り4箇所目のへんろころがしを通り柳水庵より2.2kmの距離に焼山寺道最高地点・標高745mの浄蓮庵(一本杉庵)がある。浄蓮庵より標高400mの左右内まで5箇所目のへんろころがしを下り、最後のへんろころがしを登って浄蓮庵より距離4.1kmで標高700mの焼山寺に到着する。
なお、焼山寺境内から、13番大日寺へ向かう遍路道は「一宮道」と名称が変わり、両方の遍路道のうち焼山寺山中の約4.2kmが国の史跡に指定されている(Wikipedia)」。とある。
今回のメモは段取上、焼山寺道に続き、焼山寺から下り焼山寺山の山裾・岩鍋集落に至る一宮道もカバーする。
本日のルート;
■第二の峰越え;県道245から一本杉庵を経て左右内集落まで■
(3.9km;最大比高差320m)
県道から山道へ>尾根筋の林道を進む>52丁石・50丁石>林道を離れる>林道に合流し、直ぐ山道に>徳右衛門道標と46丁石>四番目のへんろころがし>43丁石・42丁石>41丁石・40丁石>38丁石>一本杉庵>丁石が3基>6基の遍路墓>35丁石・115丁石>34丁石・32丁石>116丁石・30丁石>119丁石・29丁石>林道に出る>122丁石・120丁石 >121丁石の先に2基の丁石>123丁石・26丁石>急坂の案内>2基の丁石・標石と23丁石>左右内集落に出る>集落の4基の丁石
■第三の峰のアプダウン;左右内集落から焼寺を経て岩鍋集落まで■
(3.9km;最大比高差220m)
一つ瀬川橋北詰に石仏と丁石>6番目のへんろころがし>角柱丁石と舟形地蔵丁石>丁石と遍路墓>2基の丁石と薬師堂>角柱丁石と舟形地蔵>角柱丁石と舟形地蔵丁石のペア―が続く>林道に出る>林道をクロスし焼山寺参道へ>参道を進み山門へ>第十二番札所焼山寺
●焼山寺から岩鍋のバス停まで●
焼山寺>車道に当たる>遍路墓と6丁石>7丁石と沢に架かる橋>10丁石の先で車道に出る>杖杉庵>杖杉庵から土径に入る>中尾多七標石と角柱丁石が並ぶ。>車道に出る>鍋岩・焼山寺バス停
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焼山寺道全体![]() |
■第二の峰越え;柳水庵・県道245から一本杉庵を経て左右内集落まで■
(3.9km;最大比高差320m)
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柳水庵から左右内集落へ |
標高480mほどの県道245から一本杉庵の建つ標高750mピークまで上り、そこから急坂を標高430mの左右内集落へ下る
県道から山道へ
尾根筋の林道を進む
54丁・53丁石
52丁石・50丁石
林道を離れる
林道に合流し、直ぐ山道に
徳右衛門道標と46丁石
4番目のへんろころがし
地形図でチェックすると比高差は80mほどだが、標高650mから700mまでの等高線の間隔が狭く、このあたりが厳しい坂なのだろう。
43丁石・42丁石
41丁石・40丁石
38丁石
一本杉庵;午前11時18分_標高752m
一本杉の幹回りは7m強。樹高30m。樹齢数百年と言われる大杉である。大杉の下に3mほどの修行大師像。大正15年(1926)、京都の篤志家が施主となり石段と共に寄進されたとのこと。
県道245号の鞍部からおよそ2キロ弱。比高差280mほどを1時間弱で歩いてきた。
3基丁石
向かいにも2基。1基には「山与三十七丁」、もう1基には「藤井寺与 百十三丁」と刻まれるようだ。
6基の遍路墓
35丁石・115丁石
34丁石・32丁石
116丁石・30丁石
119丁石・29丁石
林道に出る
122丁石・120丁石
121丁石の先に2基の丁石
123丁石・26丁石
急坂の案内
2基の丁石・標石と23丁石
左右内集落に出る;午後12時22分_標高430m
遍路道は左の指示に従い舗装された道を進む。ほどなく道を右に折れる案内。集落の細路に入る。
●左右内
県道43号に出る
4基の丁石・標石
これで第二の峰越えを終える。標高480mほどの県道245号から標高750mほどの一本杉庵まで上り、そこから標高430mほどの左右無内集落まで下ってきた。上り比高差270m、下り比高差320mほど、4キロ弱のアップダウンをおおよそ2時間強で歩いた。藤井寺を出ておおよそ5時間かかった。ほぼ計画通り。
■第三の峰のアプダウン;左右内集落から焼寺を経て岩鍋集落まで■
(3.9km;最大比高差220m)
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左右内集落から焼山寺を経て岩鍋集落へ |
左右内谷川を渡る
●左右内谷川
垢取川とも称された。一本杉庵での縁起でメモした垢離の川がこれ。お大師さんが夢に阿弥陀如来を見て目覚めると、焼山寺の建つお山が全山火の海。火の山に上る前、身を浄めるため水垢離をとったのがこの川と伝わる。
一つ瀬川橋北詰に石仏と丁石
沢に沿って進む
6番目のへんろころがし
数分上ると角柱丁石と舟形地蔵丁石(午前12時42分)。「十六丁」と読める。 そう言えば、5番目の「へんろころがし」のサインは見逃した。Wikipediaの「焼山寺道」には5番目は一本杉庵から左右内へと下るとある。比高差100mほどを一気に下った急坂がそれであったのだろう。
角柱丁石と舟形地蔵丁石
丁石と遍路墓
2基の丁石
2基の丁石と薬師堂:午後1時_標高520m
その先に小祠(午後1時)。薬師堂。お堂対面に集められた石柱の中に「十一丁」と刻まれた石柱もあった。
角柱丁石と舟形地蔵
10丁石
角柱丁石と舟形地蔵丁石のペア―が続く
林道に出る
林道をクロスし焼山寺参道へ
参道を進み山門へ
左右内集落からおおよそ1時間。藤井寺を出ておおよそ6時強で焼山寺に到着した。おおよそ予定通りであった。
第十二番札所焼山寺;午後1時49分_標高713m
Wikipediaには「焼山寺(しょうさんじ)は徳島県名西郡神山町にある高野山真言宗の寺院。摩盧山(まろざん)正寿院(しょうじゅいん)と号する。本尊は虚空蔵菩薩 寺伝によれば大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者)が開山し庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願するととうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。
縁起にある火の山のくだりは一本杉庵、左右内谷川のところで既にメモしておりそれなりに物語として楽しめるのだが、そのくだりと虚空蔵菩薩とか三面大黒天との関連はどうなっているのだろう。
●虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩は智慧を授ける菩薩として知られる。虚空蔵菩薩を念じ求聞持法の真言を百万遍唱えれば記憶力が最大化され、あらゆる経典を覚えることができる、と。魔を打ち破る強力な「武器」というところだろうか。
●三面大黒天
三面大黒天の元はシヴァ神の相の一つ「マハーカーラ」。三面六臂・憤怒相をもつ青白い肌の鬼神のような姿で描かれる。
三面大黒天は仏教と共に日本に渡り、独自の進化を遂げ、毘沙門天と弁財天と合体し、三身同体の大黒天が誕生した、と言う。とまれ、仏教の守護神として魔と戦った、ということだろうか。
ともあれ、すべて妄想。なんら根拠なし。なお、現存する三面大黒天像はこのお寺さまだけと言う。
●天部
仏教の信仰・造像の対象となっている、広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意(中略)「明王」は如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している(Wikipedia)。
十二社神社
鐘楼
境内右手に鐘楼。案内には「本寺の鐘は松平阿波守忠英(ただてる)朝臣(蜂須賀二代目藩主)大檀主となられ、慶安二年(1649)二月二十三日寄進されたものである。
当寺蜂須賀公は二つの鐘を造り、一つを本寺に、いま一つを徳島市内の某寺に寄進されたそうである。
昭和十六年大東亜戦争に供出の命下り青年多数によって山麓まで運ばれ、其の処より馬車に積んだが、馬俄かに腹痛を訴えもだえ苦しんだ。馬子は遂に鐘を運ぶ事を断念して他の器物を運んだ。
かくして戦争は終わり、県文化財として指定を受け、別の場所に保存し、今は二代目の鐘が響いている」とあった。
●焼山寺から岩鍋のバス停まで●
で、岩鍋へと下るのだが、幸運なことに岩鍋は遍路道の道筋にある。次回は岩鍋から歩くことにしてバス停まで下る。
焼山寺を出発;午後2時23分
車道に当たる
遍路墓と6丁石
7丁石と沢に架かる橋
10丁石の先で車道に出る
杖杉庵;午前2時59分_標高457m
境内にはお大師さんに許しを乞う衛門三郎の像が見える。
雪模様の寒いある日にその門前に一人の旅僧が訪れた。乞食のようなみすぼらしい旅僧は一椀の食物を乞うた。下僕の知らせに衛門三郎はうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。そのあくる日も次の日も訪れた。衛門三郎は怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや鉄鉢は八つの花弁の如く四辺にとび散った。唖然と息を呑み棒立ちとなった衛門三郎がふと我に返った時には旅僧は煙の如く消え失せていた。
空海上人とか申されるお方が四国八十八ヶ所をお開きになる為此の島を遍歴なされているとか。我が無礼を働いたあの御坊こそその上人と思われる。過ぎし日の御無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心しざんげの長者は財宝を金にかえ妻に別れ、住みなれた館を後に野に山に寝、四国八十八ヶ所の霊場を大師を尋ねて遍路の旅をつづけた。
春風秋雨行けど廻れど大師の御すがたに会うことが出来なかった。遂に霊場を巡ること二十度会えぬ大師を慕いつづけた。
二十一度逆の途を取って此の所までたどりついた。疲れた足をよろぼいつつ木陰に立ち寄り背に負うた黄金の袋を下して見ると何とした事ぞ一塊の石となっていた。
「そなたの悪心すでに消え善心に立ち還った。この世の果報はすでに尽きたり来世の果報は望に叶うであろう」と仰せられ、衛門三郎は大慈大悲の掌に救われ来世は一国の国司に生まれたい、と願った。大師は其心を憐み、小石を其左手に握らせ、必ず一国の主に生まれよと願い給い、衛門三郎はにっこと微笑みをのこし敢え無くなった。
其の日は天長八年十月二十日と伝えられる。大師は衛門三郎のなきがらを埋め彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。其の杖より葉を生し大杉となった。故に此の庵を杖杉庵と呼ばれ今尚大師の遺跡として残っている。
此杉は享保年間焼失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ、四国遍路の元祖として今も此の地にまつられている。 焼山寺 保勝会 複刻 平成八年一月吉日」とある。
案内にある「大師は其心を憐み、小石を其左手に握らせ、必ず一国の主に生まれよと願い給」とあるのは伊予松山の51番札所石手寺の縁起にある、伊予の豪族河野氏に生まれた赤ん坊が小石を握りしめていた、また、それ故の「石手寺」という寺名である。
また、20度も巡打ちで霊場を巡るもお大師さんに会う事叶わず、21度目逆打ちで会えたことにより、巡打ちより逆打ちでの巡礼がより功徳があるとの言説もあるようだ。
実際歩いた経験からすると、標石などは巡打ち遍路案内が圧倒的に多く、逆打ち遍路さんはルート取りが大変だろうと感じる。そういった逆打ち遍路歩きの困難さゆえの、逆打ち功徳説かとも思える。
境内大杉の根元に角柱標石が見られた。摩耗しわかりにくいが、「へんろ道」と刻まれるようである。
杖杉庵から土径に入る
中尾多七標石と角柱丁石が並ぶ
車道に出る
鍋岩・焼山寺バス停;午後3時30分_標高251m