土曜日, 9月 09, 2017

伊予 歩き遍路:四十八番札所・西林寺から松山市街の五十一番石手寺へ

先回は八坂寺から四十八番・西林寺へと遍路が辿ったふたつの遍路道をカバーし、重信川を越えて西林寺までメモした。重信川を越えれば松山市街は指呼の間。今回は四十八番札所・西林寺を離れ、四十九番・浄土寺、五十番・繁多寺、そして五十一番・石手寺へと向かう。距離はおおよそ7キロ強だろうか。

歩き遍路と言っても、特段の信仰心があるわけでもない。また、四国に生まれた者にとって、子供時代、遍路を信仰故の巡礼者と思った記憶もない。呼称も「遍路」ではなく「へんど」と呼んでおり、「へんど(辺土)」とは「乞食」のことであった。身なりも現在目にする白装束など見たこともない。いたずらをすると両親に「へんどにやるぞ(遍路に連れていってもらう)」と言われることが誠に怖かった。遍路とは、そういった存在であった。
そんな「へんど」も国が豊かになり社会福祉の充実とともに消え去り、高度成長時代以降、癒しとか信仰心、レクレーションとその動機はさまざまであろうが、「お四国さん」が盛んになってきた。

私の歩き遍路の動機は、峠越えというキーワードに惹かれ、いくつか歩いた峠越えの遍路道明石寺からを、どうせのことなら愛媛県内だけでも繋いでしまおう、といった至極単純なものである。いつだったか四十四番札所・大宝寺から四十五番・岩屋寺まで歩いたのだが、そのとき、久万高原町にある四十四番札所・大宝寺に抜けるには峠越えの遍路道があることを知った。今年になってその峠越えの道を辿った(下坂場・鶸田峠越え真弓峠・農祖峠越え)のだが、四十三番明石寺から四十四番札所・大宝寺までは80キロほどもあるという。で、どうせのことならと、四十三番四十四番札所・大宝寺まで(明石寺から大洲、大洲から内子)繋いだ。
今回の一連の散歩も遍路道を繋ぐその一環。これもいつだったか歩いた三坂峠を下り四十六番・浄瑠璃寺、四十七番・八坂寺への遍路道と、北条辺りの粟井坂や花遍路の道(そのⅠそのⅡ)、そして窓峠を歩いた道を繋ぐことにある。その先には既に逆打ちで歩き終えた西条市の札所六十一番香園寺と札所六十番・横峰寺との間を繋ぎ、更にその先には四国中央市の六十五番・三角寺との間を繋ぐことになるだろうか。
先の話はここまでとし、常の如く「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」の記事を遍路道指南とし、とりあえず石手寺に向かうことにする。


本日のルート;杖の淵>忽那邸の道標>大日堂>南土居の道標2基>久米小学校北西角の道標>金毘羅街道との交差箇所の道標>金毘羅街道から浄土寺に向かう道標>四十九番札所・浄土寺>門前の徳右衛門道標>日尾八幡神社>日尾八幡社前の道標>仙波邸角の道標と標石>県道40号を離れ繁多寺への遍路道へ>五十番札所・繁多寺>遍路道を下る>桑原八幡社>県道40号合流点の自然石道標>松山東雲女子大入口交差点の道標>正円寺3丁目信号下の道標>正円寺2丁目の道標>石手川の遍路橋>延命地蔵尊の道標>五十一番札所・石手寺

杖の淵
先回散歩の四十七番・八坂寺から四十八番・西林寺への最終地である「杖の淵(じょうのふち)」から散歩を始める。西林寺の南西250メートルにあるこの湧水池は弘法大師に由来する伝説がある。江戸時代寂本の著した「四国遍礼霊場記」に、「寺の前に池あり、杖の渕と名づく。むかし大師此処を御杖を以て玉ひければ、水騰して、玉争ひ砕け、練色収まらず。人その端を測る事なし」とある。
昭和61年(2016)1月この杖の渕湧水はきれいな水と豊富な水量ならびに保存活動が評価され、環境庁により日本名水百選に選ばれたとあるが、誠に澄み切った美しい遊水池である。

忽那邸の道標
杖の淵から、次の遍路道の目安となる道標を常のごとく「えひめの記憶」の記事に頼る。記事には「西林寺門前の道標に従い、県道40号を行く遍路道を100mほど北に進むと、高井公園の手前にある忽那邸(高井町1001)の北東角に、かつては道標があった。しかしこの道標は、西林寺裏の小川の堰(せき)に使われていたが、10年ほど前に忽那氏が河川改修を機会に自宅の庭に保存している」とある。
高井公園手前の記述と西林寺の北100mは結構離れており、はっきりした場所は特定できず、それらしき辺りを彷徨うが、自宅庭に保存されているという道標は確認できなかった。

大日堂
次いで、「忽那邸からさらに北西に700mほど遍路道を進むと大日堂に至り(えひめの記憶)」とある大日堂に向かう。あまにり漠として道筋ははっきりしないが、高井公園脇の食事処の看板に「遍路道」と記してある。
その看板を頼り西に進み、悪社川を渡り波賀部神社参道に向かう道を少し北に向かい、そこから北西に進む道を成り行きで進むと、三叉路手前に大日堂の祠があった。
大日堂脇を流れる水も澄んでいる。この辺りは水路が縦横に流れている。南を東西に流れる内川周辺には杖の淵のような湧水も多いと言う。水源は湧水か河川からの灌漑用水路か不詳。

南土居の道標2基
「えひめの記憶」に、「大日堂に至り、そこから北に少し進んだ三差路に、道標と道路拡幅のため近くから移されたという道標が並んで立っている」とある。三叉路の先、遍路案内のシールのある南土居バス停の手前に二基の道標が並んでいた。結構新しい。なんとなくレプリカのようにも思える。


久米小学校北西角の道標
まっすぐ北に進む道を歩き小野川に架かる遍路橋を渡り、国道11号・来住(きし)交差点を越えて更に北に進むと「久米小学校北西角に小さな堂があり、その中に道標と浄土寺を案内した道標が納められている(えひめの記憶)」とあるとおり、小祠内に道標があった。

道標のある小祠の道を隔てて西が久米、東が鷹ノ子町。久米小学校は鷹ノ子町にあるのだが、えひめ最古の地名「久米」故の命名だろうか。道の西側には久米官衙遺跡群、来住廃寺跡といった古代ゆかりの遺跡名が地図にみえる。
因みに「久米」とは蛇行する川の流れる地形を指すとも言う。小野川の本流・支流が複雑に乱流していたのだろう。また、鷹ノ子は、もとは「高野戸」。藩主がこの地で鷹狩をした故の改名とか。ついでのことながら、来住。11号交差点に来住。これを「きし」と読む。由来は河野氏の家臣である岸氏とか、諸説あるようだ。

金毘羅街道との交差箇所の道標
久米小学校脇のお堂を少し北に進むと、金毘羅街道に合わさる。「この道標のすぐ北側の金毘羅街道と交わる三差路には、松山札之辻、三津浜、道後湯之町などへの里程や遍路道の案内を刻んだ道標がある。
この道筋について、松浦武四郎も『四国遍路道中雑誌』に「土井村しばし行て鷹子村二到る。門前茶堂、茶店有。止宿するニよろしと記している。金毘羅街道と遍路道が交差するこの辺りは条里遺構のために道が直角に曲がり、古くて狭い道がそのまま残っている(えひめの記憶)」とある。クランク状の道角に道標を確認。堂々とした道標であった。土居は小野川の南、内川の右岸にその名が見える。

金毘羅街道から浄土寺に向かう道標
遍路道は金毘羅街道に合流し、そこを右折して東に向かう。「この道標から右折してしばらく進むと、三差路に浄土寺の参道を案内する道標があり、そこを左折(えひめの記憶)」の記事に従い左折、伊予鉄道横河原線の踏切と県道40号・県道334号(旧国道11号)並走区間を横切り、道なりに北に進むと浄土寺に至る。

西林寺から浄土寺への道
「えひめの記憶」に拠れば、「西林寺から浄土寺に至る3kmほどの遍路道は、明治初めには比較的整備されていたようで、明治15年(1882)の『久米郡地誌(抄)』には次のように記されている」とし、「道路 遍路街道、村ノ南方字室ノ木内川中央下浮穴郡高井村境二起り西方字樋口南土居村境二至ル、長九町八間三尺幅弐間、中間字室ノ木八百四拾三番地ニテ右へ下浮穴郡高井村通路ヲ岐シ字樋ロニテ右へ南土井村通路ヲ岐ス」
「(橋)遍路(ヘンロ)橋、遍路街道二属ス、長六間幅壱間、架シテ村ノ西方三町四拾五間字室(ムロ)ノ木(キ)北川ノ下流ニアリ、水幅三間深サ弐尺其製土」。

室ノ木がどこか特定できないが(前述大日堂の辺り?)、大雑把に西林寺のある高井町の内川あたりから大日堂のあった土居、遍路道をへて続く道筋が想像できる。西林寺から大日堂までの北西に延びる道筋を除けば、この遍路道はおおよそ県道40号に改修されているようだ。

四十九番札所・浄土寺
誠に立派な仁王門を潜り、正面の本堂、右手の大師堂にお参り。本堂には重要文化財である木造空也上人立像があると言う。
木造空也上人立像
境内の案内によれば、「像高122.4cmの寄木造りの立像。空也上人は20歳の頃に出家、諸国を遍歴し井戸や池、橋の普請をおこない、ために「市の聖」と称せられた。念仏踊りを始めたと言う。この地には3年間滞在し、この木像も空也の手になるとの伝説も残る。
一切衆生の苦悩を背負う老境の姿で、深い刀法で写実性にあふれ、鎌倉時代の肖像彫刻の代表である。京都の六波羅密寺に同じ形の像(康勝作)が所蔵されている」とあった。

ちょっと疑問。この地に訪れたときの空也は60を前にした年齢。その大切な時期を3年もの長きにわたり伊予で過ごす意味は?チェックすると空也に関する詳しい資料は残っていない。空也を師と仰ぐ一遍上人は伊予の窪寺で3年修行したとの言い伝えもあり、それに合わせたのだろうか。修業期間は概して3日、3カ月、3年が多いように思う。が、単なる妄想。根拠なし。
子規の句
境内に子規の句碑が残る。「霜月の空也は骨に生きにける」と読める。脇の案内によると「冬の句であり、空也の肉体が白骨となっても人々の胸には念仏の教えが今も生きている」の意。俳句のことはよくわからないが、「霜月」でなんとなく静かな趣が感じられる。
遍路の落書き
「えひめの記憶」に拠れば、「本堂に安置されている厨子(ずし)の壁面には、遍路のおこりを知る手掛かりともなる大永の年号が入った「遍路」の文字などの楽書(らくしょ)(落書)が残されている」とある。大永年間とは16世紀前半の頃である。
また、「浄土寺の裏山には多数の遍路墓がある。(中略)浄土寺でまとめた行倒れ名簿『無縁精霊』には、江戸時代の76人の行倒れが記入されており、その大半が遍路と解される」と記されているとのことである。基本散歩でお墓は遠慮しているので今回もパス。
仁王門前の道標
仁王門前の左手には誠に立派な道標が建つ。仁王堂に向かって左に手印とともに、五十番と刻まれる。また、南に向かって手印があり、「四十八番へんろ道」と読める。逆打ち順路を示しているのだろうか。三津浜などの港から松山に入り、五十一番太山寺から逆に札を打つ遍路のための手印だろうか。根拠のない、妄想ではある。


門前の徳右衛門道標
「えひめの記憶」には「そこから(私注;仁王門前の道標)路道を少し進んだ安永邸(鷹子町913)の塀のそばに徳右衛門道標があり、「是よりはんた寺迄十八丁」と五十番繁多寺を案内している」とある。
仁王門から境内に沿って西に細路を進むが、それらしきものは見つからない。念のために仁王門まで戻ると、仁王門門前左手が更地となっており、そこに道標が建つ。「是よりはんた寺迄十八丁」と読める。これが「えひめの記憶」にある道標だろう。屋敷が更地になっており、最初は気づかなかった。

日尾八幡神社

浄土寺と民家の間の径を少し西に進むと立派な構えの日尾八幡神社鳥居前に出る。石段を上り拝殿で参拝。社の案内によれば、「天平勝宝4年(752)、宇佐八幡から勧請し孝謙天皇の勅願所となり久米八幡と称し、朝臣久米麻呂と高市古麻呂が斎主となったという。
その後文治年間(12世紀後半)、源頼朝により再興され、承久年間(13世紀前半)河野通信が社殿の改築をし、以降河野氏歴代の庇護を受けた。
慶長8年(1603)、加藤嘉明が近郷の八社八幡を松山城の固めとし、この社もそのひとつとして武運長久の祈願所となった。松平(久松)氏も松山城鎮護として崇敬した。
中殿に奉斎する伊予比売命は伊予豆比古神社にまつられる伊予比古命とともに、元は夫婦神として久米郡神戸郷矢野神山にまつられていたが、洪水で流され今では分かれてまつられていることで有名である。
社名は久米八幡から、中世には山の名をとって日王八幡宮と呼ばれ、後に日王から日尾に改称した」とする。

境内にあった別の手書きの案内には、「久米麻呂は三輪田氏の祖、高市古麻呂は武智氏の祖。久米郡神戸郷矢野神山は小野村大字小屋峠。伊予比売命と伊予比古命は伊予国の地神、部族久米部の祖。洪水により平井谷明神ヶ鼻に遷座するも、再びの出水のため伊予比売命は日瀬里(今の久米字窪田)の龍神淵にて引き上げられこの社に合祀された。
承久年間に再建された社は応永年間に堂宇悉く焼失、永享年間に河野氏により再建された」とのより詳しい説明があった。
高市古麻呂と武智氏(武市氏)
「高市古麻呂は武智氏の祖」については武市氏とは「平安末期、河野氏、新居氏、別宮氏とともに伊予に台頭した武士団。高市氏は国衙の役人として、越智郡・道後平野南部の久米・浮穴・伊予の各郡に勢力を伸ばす。伊予郡は早くより荘園開発が進み、ために中央権門との結びつきも強く、高市盛義の元服時の烏帽子親は平清盛である。
新居も国衙の役人であり、新居・周敷・桑村・越智・野間の各郡と、東予一帯に勢力を広げた。
別宮氏も同じく国衙役人であり、越智郡を領としたが、大山積神社の最高神官「大祝(おおはふり)」として、祭祀権を握っていた(『湯築城と伊予の中世;川岡勉・島津豊幸(創風社出版)』)」といった記録がある。
久米麻呂と三輪田氏
「久米麻呂は三輪田氏の祖」にある久米氏については、Wikipediaに「久味国造(くみのくにのみやつこ・くみこくぞう)は、後の令制国の伊予国中部、現在の愛媛県中部を支配した国造。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神天皇の御世に、神魂尊の13世孫の伊與主命を国造に定められたとされる。 久味国造は、のちの久米郡すなわち温泉郡の南部地区を統括し、その子孫がこの地域に土着し久米氏として繁栄した。律令制において設置された久米郡は、当国造の領域に一致すると推定され、郡司には久米直が任じられている」とあり、その流れの氏族であろう。
一方、三輪田氏に関する記事がみつからない。唯一、書家として知られる三輪田米山氏がこの日尾神社の神官の子として生まれている、とあり、この日尾神社ゆかりの氏族であろうことが推察できる。
三輪田米山氏の書は注連石にも使われ、この社や過日久万高原町の44番札所・大宝寺への鶸田峠越えの手前、二名地区の葛城神社に見ることができるようである。
伊予比古命と伊予比売命
伊予比古命の祀られる伊予豆比古神社とは「お椿さん」で知られる松山市土居相町にある社。なぜかは覚えていないが、祖父・祖母に子供のときに年間行事のようにお参りした。
それはともあれ、一方の伊予比売命が伊予比古命とともに祀られていた、という久米郡神戸郷矢野神山(小野村大字小屋峠)は奥道後温泉の南東、標高486mの小屋峠のことだろうか。
また、平井谷明神ヶ鼻は、県道196号、小野川を北に進んだところにある。位置関係から見れば、小屋峠から小野川を流れ、明神ヶ鼻の龍神淵に流れ着いた、ということだろうか。伝説の地とはいいながら、その地を地図で追っかけるのは結構楽しい。
久米、日王から日尾
久米はこのあたりの地名。現在でも社前の交差点は「久米八幡前」との信号標識が残る。日王から日尾に改称された由来は不詳。
東道後神社
社境内には多くの境内社がある。その中のひとつに「東道後神社」があった。「もとは天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の三祭神を日、月、星の三光になぞらえ三光神社と呼ばれ、脳の守護神、神経痛や痛風除けの神とされたが、神社改築に際し、日尾神社氏子内の温泉守護神として東道後神社と改称した」との案内があるが、なんとなく神社氏子と温泉守護神の関係がはっきりしない。
チェックすると、安政の大地震で浄土寺境内から温泉が湧出した。石段を滝のように流れ落ちた、という。お寺近くの東道後温泉の源泉はそれ、という。戦後、浄土寺に隣接する日尾神社の氏子の地に温泉が湧出した。ために、その守護神として併せ祀ったとのことであろうようだ。
●日尾八幡前の道標
社の南東角、県道334号(旧国道11号)から県道40号が北に分かれる箇所に立派な道標が立つ。手印は西と南を指す。なんとなく手印の示す方向が前の浄土寺とも次の繁多寺とも合わないのだが。はてさて。
また、「えひめの記憶」には「この交差点からの眺めを、宮尾しげをは、「松山の町が近づいた證據に、次の繁多寺へ行く道の八幡宮の所を曲るところから、城山の上に松山城の甍が光って見える」とするが、今となっては建物が建ち並び、遠景を望むべくもない。

仙波邸角の道標と標石
次いで、「えひめの記憶」には「交差点を右に曲がって、遍路道は県道40号を北に600mほど進むと三差路に道標が立っている。この道標の向かい側の仙波邸(北久米町32)の角には、宮尾しげをが「『左御城下道、右へん口道』の大きな標石は相當古さう」と記した道標もあったが、今は行方不明になっている。現在、そこには古い道標を模した昭和48年(1973)設置の道標が立っている」とある。
道標は道の右手、コンクリート塀脇に傾いて立っていた。傾いた道標を通すためか塀はその箇所が切り取られている。また道路を隔てた向かい側、仙波石材の大岩手前に新たに造られたという大きな標石が立っていた。

県道40号を離れ繁多寺への遍路道へ
遍路道は仙波石材店の標石手前で県道40号とわかれ右手に入る。坂を上り切ったところで久米霊園にあたる。遍路道は車通行止めと記された霊園中をほんのわずかの距離を進むと、霊園から住宅街の道に出る。
道なりに進み、坂を下りそして上り切ること、おおよそ600m、道は繁多寺の山門に至る。

五十番札所・繁多寺
山門を潜り境内に。本堂、大師堂にお参り。森の緑を背景にした堂宇は美しい。鐘楼を見遣り、気になった境内に立つ鳥居を潜る。神仏習合の名残であろう。如何なる神かと先に進むと「歓喜天」が祀られていた。

寺の案内によると「本尊は薬師如来。寺伝によると、孝謙天皇の勅願により、天平勝宝年間、僧行基により開基された。このとき天皇より数流れの旗を賜り「旗多寺」となり、その後「繁多寺」となる。「畑寺」との地名の由来ともなる。
 『一遍聖絵』には正応元年(1288)一遍上人が最後の遊行に出る前に大宝寺や岩屋寺を巡拝した後、この寺に3日間参籠し父母追善の三部経を奉納した。 応永元年(1394)、五小松天皇の綸旨をうけて京都湧泉寺から快翁宗師が下向し、以降多くの高僧が来住し、盛時には末寺120を誇った、と。


梵鐘は元禄9年(1696)あらゆる階層の人々百人の寄進によるもので、寺宝とされる。また、徳川家綱の念持仏であった大聖歓喜天を祀っている」とあった。
徳川家綱の念持仏
念持仏とは個人的に所有し私的に礼拝する仏さま。その将軍家所有の仏様が何故この地に。これまた妄想ではあるが、松山藩主・松平定行は保科正之らとともに幼い将軍家綱を補佐する江戸城溜之間詰に任ぜられている。それ故であろうか。これまた単なる妄想。根拠なし。
なお、大聖歓喜天とは所謂「聖天さん」のこと。密教では怖い魔王とされるが、江戸時代に男女和合の神として聖天信仰が広まり、聖天さまを祀る寺院は全国で300を超える、とか。浅草待乳山の「聖天さん」が聖天さまとの散歩での最初の出合いであった。因みに、「待乳」とは、沖積土ではなく「真土=洪積土」ということではあった。

繁多寺の山門脇の道標
山門手前に、「へんろみち」「五拾番札所」「遍路道」としっかりと刻まれた、どっしりとした道標がある。







遍路道を下る
繁多寺境内からも寂本が「境内四町余、前は海を眺望し、左は沃野広し、後は山林繁茂せり」と記すように、松山市街が遠望できるが、境内を離れ山裾を下る坂道からは松山城のある城山も正面に見えてくる。遍路道は緩やかな坂を山裾に沿って下ってゆく。
寂本
「えひめの記憶」をもとに概要をまとめると、「江戸初期の高野山学僧。大著『四国?礼(へんろ)霊場記』(以下、『霊場記』と略す)全7巻で知られるが、寂本自身四国霊場を巡礼しておらず、この書の執筆動機は、四国霊場のガイドブック『四国邊路道指南(みちしるべ)』を表した真念の強い勧めによるもの。真念より各種資料の提供を受け、編集したものである。
内容は実際的な道案内である真念の『四国邊路道指南(みちしるべ)』に比して、この『霊場記』のほうは八十八の札所のそれぞれについて詳述することを目的としたものであり、おのおのの札所における記事の内容と、札所ごとに付された克明な寺院の景観図とは、札所のありさまのみならず、当時の四国全土における仏教信仰・民衆信仰の実態を理解するために、貴重な史料となるものであった。
なお、寂本は学僧として、とりわけ弘法大師を崇敬すること篤く、大師に関する逸話・伝承を多く叙述しており、四国遍路の大師一尊化に大きな影響を与えた」。
大師一尊化
四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。
それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく大師堂が建てられ、遍路は大師堂にお参りする大師信仰が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには遊行の僧である高野聖の影響が大きいとのことである。「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故ではないだろうか。単なる妄想。根拠無し。
ところで、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的ではあったが、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。

桑原八幡社
山裾を下ってゆくと大きな社に出合う。桑原八幡社である。神社随身門の左右の随神が印象的である。長い石段を上り拝殿にお参り。
社の案内に拠ると、「松山の八社八幡の二番社。源頼義が伊予の国の鎮護として八社八幡を定めたとき、二番社とされたと伝わる。平安から鎌倉にかけて源頼義が下向して八幡宮を勧請・造営したという伝承の陰には、地方武士の協力があったといわれる。
『予州記』には「伊予入道頼義、当国の国司として在国あり、親経と同志にて、国中に四十九処之地蔵堂、八ヶ所の八幡宮建立せらる」とあり河野家代々の崇敬を受けていたとみられる。
万治二年(1659)、松山藩主松平定行が東野へ隠居所を建設したとき、当社を祈願所に定めたとある。元は桑原町古町にあったが、寛治2年(1088)にこの地に移した。その理由は不詳」とある。
源頼義の八社八幡
源頼義は、平安時代中期の武士。河内源氏初代棟梁・源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。初代誠和源氏の4代目棟梁(頼朝は9代)。伊予守に任じられたのは事実としても、下向するとは思えない。

「えひめの記憶」によれば、「任地に赴かない遙任であったろうし、源頼義が命じたものかは不明であるが、実際は河野氏(親経)によって勧請されたものであろう。そこに源頼義が登場するのは、清和源氏と八幡宮の関係も、頼義前代の頼信のころから始まっているとされ、このようなことから頼義の八幡宮造営伝承が成立したものと考えられている」とする。

県道40号合流点の自然石道標
桑原八幡を離れ「えひめの記憶」に「桑原八幡神社前から西に坂を300mほど下ると県道40号に出合い、そこに道標がある」との記事にある道標に向かう。桑原八幡前から県道には二筋の道が通る。
一直線の道はそれらしくないと、少しカーブした道を県道に向かうが、その出合いに道標は見当たらない。少し南に戻り、一直線に下るもうひとつの道が県道と合わさる箇所に自然石の道標があった。通常の浮き上がった手印とは異なり、刻まれた手印とへんろみちの文字が刻まれていた。

松山東雲女子大入口交差点の道標
「道標(私注;自然石の道標)の手印に従い県道を北に200mほど行くと、松山東雲女子大学手前の三差路に道標が看板の間に立っている(「えひめの記憶」)」とある道標は、交差点北西角に直ぐに見つかった。手印とともに「右 へんろ道」と刻まれる。




正円寺3丁目信号下の道標
県道を700mほど北に進み道の西が正円寺3丁目、東が東野5丁目と6丁目の境に信号機があり、その少し北、左に道が入る角に道標がある。「石手寺 へんろ道」と刻まれていた。
不明な道標
「えひめの記憶」には、この正円寺3丁目信号下の道標に至る手前、松山東雲女子大学手前の三差路から500mのあたりの三差路に道標があるとのことだが、見つけられなかった。

正円寺2丁目の道標
次いで、遍路道の目安となる道標は「美容室(正円寺2丁目12-37)手前の三差路にある道標に至る(「えひめの記憶」)」とある。既に美容室はなくなっていたようだが、道の東側、お墓を囲むブロック塀脇の三差路角に道標があった。手印で北に向かい「へんろみち」と刻まれていた。

県道を辿らない遍路道
「えひめの記憶」には「ここからの道は、昭和3年(1928)の発行『松山北部』の地形図によると、正円寺から石手寺までの北進する道が改修され(現県道40号)、そこを通る遍路もいたと考えられる。
上部の欠けた道標
松山市編さんの『松山の道しるべ』には、県道を通らず進む遍路道が示されており、そこには「道標から西にそれて行く古い道が示されている。それによると、正円寺2丁目の道標の手印に従って細い道を西にしばらく進み、垣添邸(正円寺2丁目12-3)の南西角にある上部が欠けた道標から正円寺の横を通り抜けて、県道40号に合流する」とある。
三差路道標の道標から県道を離れ、少し西に進むと、ブロック塀の角に「ろみち」と上部の欠けた道標があった。

石手川の遍路橋
県道に合流した遍路道は石手川に架かる遍路橋を渡る。遍路橋と呼ばれる橋はいくつもあるようだ。当たり前といえば当たり前ではある。

延命地蔵尊の道標
遍路橋を渡り、正面に石手寺を見る道の西側に延命地蔵尊の祠が祀られ、その脇に重厚な道標がある。祠の案内には「延命地蔵尊縁起 江戸時代、将軍吉宗の頃の享保6年(1721)浄蓮法師が大願主となり中組の大辻に建立、平成8年(1996)県道の拡張工事のため現在地に移転した」とある。
石手寺門前のT字路西角には道標のレプリカが立つ。この地が中組の大辻であろう。手印は西を示す。次の札所太山寺を指す。
中組・三界地蔵堂
案内にある「中組」とは村落の自治組織の名称。他に本組、東組などいくつもの自治組織名が各村落単位にあったようだ。また、「えひめの記憶」にはこの延命地蔵尊のことを三界地蔵堂と記している。延命地蔵尊のどこかに「三界萬霊」と言った文字が刻まれているのだろうか。 因みに三界とは欲界、色界、無色界。欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つのステージ(六道)があり、その各ステージでお地蔵様が衆生を見守る。釈迦が入定し次の「釈迦」が現れるまでの気の遠くなりような期間、地蔵が釈迦の代理で衆生を済度する。六地蔵がこれである。色界はこの欲界を離れた清らかなステージ、無色界はその上のステージ。最高所が有頂天とのことである。
あれこれメモしたが、お地蔵様三界は密接な関係がある故の、三界地蔵堂との呼称であろうとの妄想ではある。

五十一番札所・石手寺

道を進みT字路の北にある石手寺に。寂本が『四国?礼霊場記』で「此寺あたりにさらなき伽藍にて、宝甍珠殿、櫛のごとく比び」と記し、また澄禅が『四国遍路日記』で「与州無双ノ大伽藍也」(「えひめの記憶)」と記す境内に入る。

渡らずの橋
境内に入る手前に寺井内川が流れており、そこに「渡らずの橋」が架かる。弘法大師お開きの橋とのことで、この橋、というか一枚岩を渡ると足が腐るとのことだが、とても歩けるような造りでなない。



衛門三郎の像
回廊形式の参道手前に空海に許し、教えを乞い願う衛門三郎の像。遍路発心譚で知られる衛門三郎の像はどれも同じように思える。何時ごろの作なのだろう。




回廊式仲見世の途中に徳右衛門道標
仲見世のみやげもの屋が並ぶ回廊式の参道を進むと、右手に入る通路に徳衛門道標がある。「是より太山寺迄弐里」と刻まれる。






仁王門
石畳の参道を進むと仁王門。大きな草鞋が遍路の安全を守る。高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺きのこの門は国宝に指定されている。




本堂
門を潜ると、右手に重要文化財の三重塔や鐘楼、左手に阿弥陀堂、正面一段高いところに本堂がある。本堂も重要文化財に指定されている。本堂の右手奥には大師堂がある。本堂・大師堂の裏手山は胎内くぐりができ、本堂左手奥に入口がある。
沿革
寺伝によれば、神亀5年(728年)に伊予国の太守、越智玉純(おちのたまずみ)が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これが聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来を刻んで本尊として安置して開基したという。
創建当時の寺名は安養寺、宗派は法相宗であったが、弘仁4年(813年)に空海(弘法大師)が訪れ、真言宗に改めたとされる。
寛平4年(892年)河野氏に生まれた子どもが石を握っていという衛門三郎再来の伝説によって石手寺と改められた。
河野氏の庇護を受けて栄えた平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄9年(1566年)に長宗我部元親による兵火をうけ建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。
石手寺の由来
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる。
と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。 その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、開こうとしない。そこで安養寺の住職に願い祈祷のおかげもあり、手を開くとそこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。河野氏はこの不思議な石を寺に奉納し、寛平4年(892年)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。

ところで、今回札所を歩き気になったことがある。それは孝謙天皇とか聖武天皇といった中央朝廷と結びついた縁起が多いこと。所詮は縁起とあまり気にもしていなかったのだが、これだけ続くと縁起は縁起として、というわけにもいかないように思う。
「えひめの記憶」をチェックし、孝謙天皇やその父である聖武天皇の御世の少し前の伊予についての記事が目にとまった。「伊予国をはじめとする瀬戸内海沿岸諸国は、その地理的条件から古来大和政権の対外交渉の場において、重要な位置をしめていた。それはある場合には、六六三年の白村江の戦いに越智郡、風早郡一帯の豪族、農民が大量に動員された事実に端的にうかがえるように、軍事的意味あいにおいてであり、また大陸の先進文化に接触する際の最先端にあったという文化上の意味においてもである。
瀬戸内海地域がもつ古代有数の先進文化圏という性格は、当然そこに居住する豪族、民衆の生活形態に大きな作用を及ぼした。古代文化の象徴ともいうべき仏教文化の浸透も、その一例である。
現在愛媛県下からも東、中予地方を中心に相当数の古代寺院跡が確認されているが、中でも松山市の来住廃寺(来住町)や湯ノ町廃寺(祝谷一丁目)は、発掘調査などにより法隆寺式伽藍配置であったことが確認ないしは推定されており、造営年代も七世紀後半に遡るものと推定されている。
法隆寺についてはその荘・荘倉が和気郡・温泉郡・伊予郡・浮穴郡など中予地方を中心に一四か所設定されていたことが、天平一九年(七四七)の『法隆寺伽藍縁起?流記資財帳』にみえている。東大寺領新居荘がやや遅れて神野郡に占定されたことは前述したが、ともかく七世紀後半から八世紀にかけて中央大寺院の勢力が松山平野を中心に、伊予の各地域にも及んできていた(「えひめの記憶」)」とある。

聖徳太子が瀬戸内沿岸にある荘園視察の折り、伊予に足を延ばしているといった記事を読んだ覚えがある。古代以来、伊予は思った以上に中央朝廷との結びつきが強かったことが孝謙天皇や聖武天皇の縁起登場に結びつく因となったのであろう、か。

四十八番札所・西林寺から松山市街の五十一番石手寺への散歩はこれでお終い。次回は石手寺から松山市街を抜けて五十二番太山寺に向かう。

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