水曜日, 7月 14, 2021

予土往還 土佐街道・松山街道 ④ ;猿楽岩を経て愛媛・高知の県境・黒滝峠へ

土佐街道・松山街道散歩の四回目。 松山から高知を結ぶ主要往還道であったこの街道の山越え部分をまずは歩いてみようとはじめ,初回は久万高原町の越ノ峠から面河川の谷筋の七鳥まで。二回目は七鳥から面河川を渡り山稜部に取り付き尾根筋を目指すも道迷いで尾根筋手前で撤退。三度目は撤退箇所からはじめ尾根筋を猿楽岩を経由して予土国境の黒滝峠を目指すも、笹・草・藪の道なき道のため黒滝峠は夢のまた夢、猿楽峠までも届かず途中撤退となった。
黒滝峠を目したのはアプローチの都合上。黒滝峠まで繋ぐことができれば、その先は黒滝峠の東2キロほどのところまで大規模林道が続いているためそこに車をデポし黒滝峠ピストンで道を繋ぐことができる、が、途中撤退の場合、尾根筋を藪漕ぎで再び辿ることになるため、それはかなわんと黒滝峠を目したわけだが、黒滝峠への尾根筋の半分も行けず時間切れ撤退となった。
黒滝峠をつなぐため、首まで埋まるような草や笹原、藪漕ぎ再びと覚悟していたのだが、捨てる神あれば拾う神あり、ではないけれど撤退地点近くを猿楽岩に向かって林道が通っており、しかも路面は結構しっかりと踏み固めらみれていた。
なんとなく撤退箇所まで車で寄せることができりだろうとルーティング。簡易舗装されているわけではないため、おっかなびっくりではあるがノロノロ運転で撤退地までなんとか車を寄せることができた。撤退地傍に車をデポし、尾根筋を猿楽岩を経由して黒滝峠までを繋ぐことができた。
猿楽岩から黒滝峠;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所

ルートは先回の尾根筋と同じく基本踏まれた道はほぼ無い、といってもいい。笹原・草原・藪の繰り返しといったルートで距離からすれば3キロほどだと思うのだが、道迷いもあり往路4時間弱かかってしまった。猿楽岩から黒滝峠までの間には久万高原遊山会の皆さんが立てた30もの道標があるようであり、であれば道に迷うこともなく、うまくいけば黒滝峠を越えて大規模林道まで繋げるかも、などと思っていたのだが、事はそれほど簡単でもなかった。
黒滝峠からピストン復路で車デポ地に戻ったのが午後5時40分頃。復路も往路と同じくらい時間がかかってしまった。常時GPSギアと睨めっこしておればルートから外れることもないのだろうが、お気楽に成り行きで進んではルート修正の繰り返しといった為体ではあった。
前回撤退地まで車を寄せることができたのでよかったのだが、そうでなく尾根筋を辿って黒滝峠ピストンした場合、確実に途中で日没となっていただろう。 ともあれ、土佐街道の山間部クリアの愛媛側はこれで終了。道迷いはしたが、愛媛側は久万高原遊山会の土佐街道ルート図が県境まであったのでよかったのだが、次回から辿る高知県側はルート概要はなんとなくわかるが、詳しいルートは全くわかっていない。さてどうなることやら。とりあえず現時点では出たとこ勝負ということになる。



本日のルート;車デポ地へ>笹道>土佐街道標識>右手下にササミネ林道が見える>笹道と合流点の手前に「旧土佐道」標識>分岐を右の道を進む>2基の土佐街道標識1と土佐街道石碑>猿楽大師堂前に里程石>「土佐街道」標識2>土佐街道標識x>「土佐街道」標識3>木の根元に「土佐街道」の案内が吊られている>「土佐街道」標識4>分岐手前に「土佐街道」標識19>「土佐街道」標識5>「土佐街道」標識6>「土佐街道」標識7>「土佐街道」標識8>「土佐街道」標識>「土佐街道」標識10 >「土佐街道標識」11>「土佐街道」標識12>「土佐街道」標識17>「土佐街道」標識13>「土佐街道」標識14>「土佐街道」標識15>黒滝峠


猿楽岩から黒滝峠前半部;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所


車デポ地へ;午前9時36分(標高1072m)
笹道から林道を見る
自宅を出て久万高原町に。そこから県道12号に入り道なりに県道210号美川川内線に乗り直瀬川に沿って四国札所45番岩屋寺前を抜け面河川の谷筋へ。直瀬川が面河川に合流する箇所を左折、古味の集落で面河川を左岸に渡り山稜部に入る。ほどなく箕川集落へと向かう県道210号支線に乗り換え、箕川集落を越え尾根筋に向かう。
途中、面河川を越えて尾根筋へと上った土佐街道交差部を見遣りながら尾根筋を越え前川の谷筋へと木地の集落へ下る。途中、林道長崎線(幅4m 延長2460m)の起点標で県道支線を離れ林道に入る。
ここからは舗装は切れる。林業盛んな地のためか木材運搬のトラックで結構踏み固められてはいる。それでも土道。小石が転がる道をパンクを避けてゆっくりと車を進める。
左手に赤蔵神社を見遣りながら700mほど進むと左に分かれる道がある。「林道ササミネ線(幅3m 延長640m)」とある。ここを左に折れ「林道ササミネ線」を進む。時に現れるちょっと荒れたところは更に慎重に車を進め2.5kmほど進み先回撤退した箇所近くの広いスペースに車をデポする。

笹道
車デポ地の林道から北に抜けるスペースがあり、その直ぐ先に笹に囲まれ踏み込まれた道が東に続く(仮称「笹道」とする)。先回の最終部ではこの笹に囲まれた快適な道を少し踏んだ。尾根筋より少し南に外れているのだが、GPSの差分かな?などと思ったのだが、今回は笹に踏み込み尾根筋、国土地理院地図に描かれる破線と位置を合わせてみることにした。

土佐街道標識;午前9時41分(標高1077m)
笹道から膝くらいまで笹原が茂る一帯に足を踏み入れる。踏み込まれた跡など望むべくもない。この尾根筋、左右が落ち込んだ分かりやすい尾根筋とは異なり、「少し南北にフラットになっており、どこが尾根筋中央かよくわからないのだが、GPSをチェックしながら国土地理院の地図に破線が東西に続くラインに乗るよう先に進むと、笹原に突然「土佐街道」と記された円柱のポールが立っていた。やはり土佐街道は笹道ではなく、尾根筋中央部に茂る笹原の中を進むようだ。

右手下にササミネ林道が見える;午前10時5分
「土佐街道」のポール標識の先も道があるわけでもない。根拠はないのだが、木に巻かれた白テープを目印に東進する。5分ほど進むと右手下にササミネ林道がみえてくる。
久万高原遊山会の資料にはこのルート上、笹原の中に「盗人岩」と称される岩があるようで、それなりに注意しながらあるいたのだが、それらしき風情の岩を見付けることはできなかった。

笹道と合流点の手前に「旧土佐道」標識;午前10時8分
右下にササミネ林道を見遣りながら数分進むと「旧土佐道」の標識が立つ。笹原の中、オンコースを進んできたようだ。その標識の直ぐ先で笹道と合流する。



分岐を右の道を進む;午前10時12分
笹道との合流点から先は数分踏み込まれた道となる。その先右手下のササミネ林道が尾根筋に最接近するあたり、細くなった踏み跡を抜けると道が分岐する。右手の道は重機が通っているようなキャタピラ跡が道に残る。
左手の道が土佐街道っぽいのだが、地図でチェックする限りでは左手の道は尾根の北、国道494号の東川谷筋の中村、または同谷筋の横滝から二箆山(ふたつのやま)の北麓を上ってくる林道からこの地に上り、更に南の前川の谷筋の「うつぎょう」の集落を結ぶ山道のようにも思える。
結局、キャタピラー跡が残る少々情緒はないが、藪漕ぎの必要もない至極快適な右側の道を進むことにした。只、実行ログをみるとプロットしたルートから南に少しずれてる。ひょっとしたら左に道をとれば尾根筋を進めたのかもしれない。

土佐街道標識1と土佐街道石碑;午前10時26分
キャタピラ跡の残る道からもほどなく分かれ、尾根筋の道を進む。この辺りは比較的踏み込まれており迷うことはない。15分ほど進むと道の左手に「土佐街道」の木標、その反対側には「土佐街道」と刻まれた石碑が立つ。
「土佐街道」の木標は久万高原遊山会の立てたもの。このあたりから黒滝峠まで30基設置されているとのこと。便宜上、以降久万高原遊山会設置の木標に番号を付けて記載する。ここは「土佐街道」標識1。

猿楽大師堂前に里程石;10時27分
標識の先開けた場所があり古さびたお堂が建つ。結構新しい「猿楽大師堂」の扁額がお堂にかかる。その右前に里程石。「松山札辻より十二里」と刻まれる。 左手には石碑。「**大師おわしまします」といったお大師さん讃える句が刻まれていた。





**大師おわしまします
大師堂の前の平場の南に小山があり、その前に「猿楽岩」の案内がある。小山と見えたものはよく見ると大岩のようであった。
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」には、「昭和30年(1955年)くらいまでは建築の材を積んで駄賃持ちが通行していました。戦前には土佐から干物、伊予からダイズ、アズキなどの産物が運ばれ、猿楽の大師堂の所では、相撲が行われることもあり、人の行き交うことも多かったのです」とある。その頃には人の往来により踏み込まれた道筋が通っていたことかと思う。

「土佐街道」標識2;午前10時40分
里程石前を東に下る
猿楽岩に上るなど10分ほど猿楽大師堂あたりを彷徨い、10時38分頃に大師堂を離れる。土佐街道の案内はないのだが、十二里石の立つ辺りから踏まれた道筋を東に下る。
数分歩き10mほど下った道の左手に「土佐街道」標識2が立つ。足元は一面草覆われるがなんとなく道筋っぽいところを東進する。

土佐街道標識x;午前10時45分
朽ちた木橋
数分歩くと小さな沢に木を渡した橋がある。結構古そうであり折れないかと心配で、傍にある立ち木に手を添えてクリアする。その先も草に覆われたところを2 分ほど進むと「土佐街道」X標識が立つ。
土佐街道標識xとしたのはGPSに位置情報を入れ忘れたためメモの段階で追加しただけのこと。

「土佐街道」標識3;午前10時52分
首まで埋まる草を掻き分け7分ほど進むと道の左手に「土佐街道」の標識。猿楽大師堂から先は、尾根筋を離れ1162mピークから黒滝峠に続く山稜を巻くように等高線1100m辺りを東進する。


木の根元に「土佐街道」の案内が吊られている;午前10時55分
標識の直ぐ先、左手の木の根元にビニールのようなものに「土佐街道」と文字が刷られた街道案内があった。どのようなものであれ、道なき道を進むには誠にありがたい。



「土佐街道」標識4;午前10時58分
数分歩くと右手に「土佐街道」標識。久万高原遊山会によって設置された土佐街道標識はこの辺りまでで10基ほどあるようだが、注意力散漫なのか草に覆われ見付けることができなかったのか、出合ったのは5基。設置されたものの半数であった。この先笹原となる。

猿楽岩から黒滝峠中間部;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所

分岐手前に「土佐街道」標識19;午前11時2分
5分ほど進むと笹原の間を抜いた踏み分け道に合流。その手前に「土佐街道」の標識19が立っていた。「19」としているのは往路見付けることができず、黒滝峠からの復路で見つけたもの。結局30基のうち、20基の標識に助けられながらピストンで車デポ地に戻れたことになる。
それはともあれ、しっかり踏まれた道は直ぐに消える。この辺り、今までの左が高く右が低い地形とちょっと異なっている。左手は1169mピークから二箆山(ふたつのやま)に連なる尾根筋への上り。右手も南に突き出た広い1100m頭高線の中に10m程の小丘が形成されている。土佐街道は両サイドの高みの間を抜けていく。

「土佐街道」標識5;午前11時13分
10分ほど成り行きで両サイドの高みの境を抜け、再び1100m等高線にあたる箇所に「土佐街道」標識5が立つ。
この標識までの10分ほど、往路はなんとなく成り行きで下り標識5に出合った。
復路
ピストンされる方がそれほどいらっしゃるとも思えないが取敢えずメモするが、復路はルート取りが結構大変。標識の立つあたりは一面の笹原であり踏まれた跡など望むべくもない。
木標の指す方向に歩を進めるが直ぐ藪で行く手を阻まれる。何度か同じことを繰り返したのだが両サイドの高みの境、割とフラットな笹原で結構右往左往するこことになった。往路はなにゆえにすんなり標識5に出合ったのか狐につままれた感。
最後はGPSと睨めっこしながら、国土地理院の地図の記載される破線からはずれることなく進みなんとかクリアできた。この間久万高原遊山会の設置した木標が2基ほどあるようだが、見付けることはできなかった。

「土佐街道」標識6;午前11時23分
少し北に振れる等高線1100m辺に沿って10分ほど進むと右手に「土佐街道」標識6が立つ。





「土佐街道」標識7;午前11時30分
その先7分ほど進むと左手に「土佐街道」標識。この辺りは割と踏み込まれた道が残っていた。





「土佐街道」標識8;午前11時32分
標識から直ぐ、南に振れる等高線1100mが東に向かう辺りにも右手に「土佐街道」標識8。この先木々の間の踏み込まれた道を進む。



「土佐街道」標識9;午前11時37分
5分ほど進むと右手に「土佐街道」標識9。その先は木々の間のフラットな道を進む。このような快適な道を歩きたいとおもうのだけど、それhど長くは続かなかった。ルートは心持ち1090m等高線へと振れている。

「土佐街道」標識10 ;午前11時42分
等高線1090m辺りまで降り、そこから再び1100mへと振り直すあたり、5分程歩いた右手に「土佐街道」標識10が立つ。
久万高原遊山会のプロットしたルート図からは南にずれているのだが。GPSの測定誤差なのかどうかはっきりしないが、復路はほのプロットしたルートを戻っているのでGPSの測定誤差の範囲なのかもしれない。

猿楽岩から黒滝峠後半部;赤が往路実行ルート。緑が久万高原遊山会のルート。緑が復路道迷い箇所


「土佐街道標識」11;午前11時54分
その先、12分ほど1090mから1100m等高線の間を抜け、等高線1100m辺りに戻った処、右手に「土佐街道」標識11が立つ。
標識11から先、標識12までの間のルート取りが往路・復路とも結構難しかった。
往路
久万高原遊山会のルート図では標識11から12まではほぼ東進するとあるのだが、行きつ戻りつ東進するアプローチを探したのだが、それらしき箇所は見つからず、少し踏まれた感のある道(?)を進むとプロットした土佐街道ルートから南へ結構離れてしまった。
この沢を上りオンコースに復帰
踏み跡も消え藪となった辺りで、もうこれ以上は勘弁とプロットしたルートに復帰すべく北に向かう。と前面に深い沢。3mほどのギャップがあるだろうか。
 沢の右岸をプロットしたルートに戻るべく北に向かうが結構な藪。これは沢を上るほうが楽だろうとギャップが低くなった辺りで沢に入り込み、沢伝いに北進し地図にプロットした地点に戻る。そこは沢も切れ踏み跡もあり、また沢のすぐ東側には「土佐街道」標識12が立っていた。この間50分ほどかかった。これが往路。


「土佐街道」標識12;午後12時43分
沢から久万高原遊山会のルートに復帰した直ぐ東に標識12が立つ。藪漕ぎ、沢上りで少々萎えた気持ちがちょっと元気になる。難儀した往路ではあるが、復路はこの標識12で偶々ではあるが久万高原遊山会のルートに乗ったわけであり、標識11までの戻りは楽勝かと思いは早々に崩れてしまった。
復路
復路では標識12から地図にプロットした土佐街道ルートを西進すると直ぐに「土佐街道」標識18がみつかった。これは楽勝かと思ったのだが、その後は踏み跡がはっきりせず、お気楽にすすむと北に振れ、南に振れと軌道修正に結構時間がかかり標識11まで、おおよそ1時間かかってしまった。常時GPSと睨めっこしながら進めばいいのだろうが、この筋だろうとお気楽にすすんだ結果の為体である。往路、アプローチ口を探した標識11から東進する分岐にどこで合流したのかはっきりしないまま標識11に進んだ。
結論としてこの標識11と12の間は、東西に連なる二箆山(ふたつのやま)からの尾根須が黒滝峠へと南東に向きを変えたその尾根筋に向かい、等高線1100mから1150mへとGPSを頼りに東進するしか術はないかと思う。
標識4と標識5の間は復路が結構大変であったが、この標識11から12の間は往路・復路ともに結構大変かと思う。
藪漕ぎで疲れ果てズボンに引っかかる茨を外す気力もなくなり、力任せに突破し、案の定ズボンが大きく裂けていた。土佐街道歩きだけてこれで3回目のカケツギ修繕依頼となる。新品のズボンが買えるほどの修繕費。お店も気の毒がってくれ3回目はちょっとサービスしてくれた。

「土佐街道」標識17
等高線1150mとクロスするあたりに土佐街道標識17.これは復路で出合ったもの。往路は少し南を巻き、出合うことはなかった。



「土佐街道」標識13;午後13時3分
標識17辺りから黒滝峠へと南東に向かう尾根筋に沿って等高線1160mから1170m辺りをトラバース気味に進む。等高線1160mとクロスするあたりに「土佐街道」標識13。標識12から20分程度かかったことになる。


「土佐街道」標識14;午後13時7分
標識13から4分ほど、等高線1160mと1170mの間に「土佐街道」標識14。この辺りはキツイ藪や草もなく迷うことはなかった。




「土佐街道」標識15;午後13時13分
更に5分ほど南東に進み、等高線1170mとクロスするあたりに「土佐街道」標識15があった。





黒滝峠;午後13時24分
標識15から10分ほど南東に進み,南北が等高線1190mに囲まれた鞍部に「土佐街道」標識16と里程石が立つ。里程石は結構新しい。「松山札辻より十二里」と読み、そのときはそれで納得していたのだが、十二里程石は猿楽岩にあった。 どういうことかチェックすると、久万高原遊山会の報告書に、この地に「松山札辻より十二里十八丁の里程石があったとの伝承があるとする。草に隠れた下部に「十八丁」が刻まれたレプリカかもしれない。次回高知側から黒滝峠をつないだときに「十八丁」とあるかどうか確認することする。

それはともあれ黒滝峠は何処?この鞍部とは思うのだが標識がない。土佐街道筋の他、南と北に道が抜けるが下り気味。念のため両方の道を少し進むが峠といった風情のところはない。
鞍部に戻ると土佐街道の木標と里程石の裏手、北側に上る踏み込まれた細い道筋があった。その道筋を上ると鞍部より一段高い笹原に「黒滝峠」と書かれた木標が立っ。木標の傍に2基の石仏。地蔵と馬頭観音が笠原に隠れるように佇んでいた。 その前に円柱が立ち、「黒滝峠 雑誌(ぞうし)越え 予州道」「池川紙一逃散の道揆(1787)  中島与一郎脱藩の道1864)」とあった。
池川紙一揆逃散の道
池川はこの地の東、現在の国道494号と493号が合流する辺り。紙一揆とは山間部において米納の代わりに紙を藩に現物していたわけだが、搾取に苦しみ起こした農民一揆。農民一揆には徒党を組み暴徒と化すもの、強訴に及ぶもの、他国に逃亡する逃散があるが、この池川紙一揆逃散の道とは、天明七年(17 87)2月26日、土佐藩への貢祖である紙の現物納入に苦しむ池川の農民六百人が逃散を決め伊予に逃亡したもの。
そのルートは寄居の集落から水ノ峠、雑誌山北麓の通称「雑誌越え」を経てこの黒滝峠で伊予に入る。黒滝峠からは数回に渡り歩いて来た土佐街道の逆ルート、猿楽岩から尾根筋を進み七鳥に下る通称「予州高山通り」を進み(七鳥に下る山麓に高山集落の地名が地図にある。高山通りの由来だろうか)、久万の四国遍路第44番札所大宝寺に庇護を求めた。
結局、この寺において帰国後処罰されないことを保証され、3月21日大宝寺を離れ帰国の途につく。帰路は土佐街道・松山街道のもうひとつのルートである、現在の国道494号筋を進み瓜生野峠(サレノ峠?)を経て用居の番所で取り調べを受けた後、池川に戻ったとのことである。
中島与一郎脱藩の道
元治元年(1864)、中島信行、中島与一郎、細木核太郎の3名は脱藩を決意。佐川より仁淀川に沿って進み、現在の県道363号筋の名野川を経て水ノ峠に至り、雑誌越えの道を黒滝峠に上る。その後中島与一郎は足の腫物のため一行と分かれ水ヶ峠に戻り、南東に下り橋ヶ藪から室津(国道439号室津川が仁淀川水系土居川に合流する辺り)まで進むも見とがめられ、再び水ヶ峠まで逃れ、その地の大師堂で捕り方により最後を遂げた。

これで先回取りこぼした猿楽岩の手前から予土国境・黒滝峠までをつないだ。距離の割には時間がかかり過ぎている。距離は3キロ強程度なのだが往路・復路ともに4時間弱かけて歩いている。道迷いのロスを1時間としても3キロ3時間。体力の衰えか、痛めた膝ゆえの歩行スピードの遅れなのか、ほとんど藪こぎといったルートゆえか、多分にこれら要因の合わせ技ではあろうが、これから先、佐川までは雑誌越え、鈴ヶ峠越えなどが控えている。
鈴ヶ峠越えは比高差600mほどを一気に上るようだ。体力の衰えはしかたないにして、せめて藪漕ぎだけは勘弁してほしいの願うののみ。ともあれ。次回は土佐側の大規模林道から黒滝峠を繋ぎ、状況によっては水ヶ峠まで進むことができればと予定を立てる。

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