水曜日, 1月 10, 2024

讃岐の金毘羅参詣道:高松街道 ② 綾歌郡綾川町滝宮から琴平まで

前回は高松街道始点である高松の外堀に架かっていた常盤橋跡から綾歌郡綾川町滝宮までのおよそ20キロの街道跡を香川県歴史の道調査報告書(以下「調査報告書」)を頼りにトレースした。 今回は綾歌郡綾川町滝宮からはじめ丸亀市綾歌町を抜け、仲多度郡まんのう町、そして仲多度郡琴平町までトレースする。距離はおおよそ14キロといったところだろうか。



本日のルート;綾歌郡綾川町滝宮の古高橋>西山庵>道標と白梅神社>県道282号手前に竹内銭領の碑>甘酒峠>脇の宮>間男地蔵>サカズツマ>八大龍王>>住吉神社>御茶園の茶堂跡>茶堂より移された地蔵尊>分岐点に道標>駅舎・御殿跡>馬指の金毘羅燈籠>専立寺>綾歌市民総合センター敷地内に石造物が並ぶ>琴電の踏切を越える>栗熊西の地蔵堂>土岐六蔵頌徳碑>駒止地蔵>小津森の道標>宿母の三界萬霊地蔵尊>香川用水脇の金毘羅燈籠>天神池の三界萬霊地蔵尊>三叉路>金毘羅燈籠が続く>羽間池傍の地蔵堂>延命寺茶堂跡>首空地蔵・大日菩薩>法然上人(圓光大師)御旧跡と見返り坂>立石の石碑・王尾内記と権太夫の墓>土器川>地蔵堂・金毘羅燈籠>大鳥居>T字路(県道4号)の道標>呑象楼跡の石碑>新町の鳥居>丸亀街道が合流>一の橋を渡り金毘羅参道口へ





綾歌郡綾川町滝宮の古高橋
「調査報告書」より
滝宮神社より県道282号をクロスし南に下る。結構広い道幅は昔と変わっていないとのこと。菅原道真の雨乞いによる降雨を喜んだ村人達が喜び踊ったことに始まる、滝宮念仏踊りが滝宮神社へ繰り込むために幅が広くされたと「調査報告書」は記す。
県道282号をクロスした高松街道は道を少し南下し右折。綾川に架かる古高橋を渡る。人道橋となっていた。「歴史の道調査報告書」には、「(古高橋は)昔は木造の太鼓橋だった 。江戸時代は安益橋、綾川橋とも呼ばれ『瀧宮村誌』によると「此川は東讃人の重に通行する川なるも古来架橋なく出水すれば三五の渡し人出て相当の賃金を求め旅人を渡すのを常習ありき時安政年間川西小野村に魁春堂竹内次郎助なる者此川にして架橋なきを憂ひ藩廳に歎願し架橋の許可を得て (中略)全讃岐国民の寄附金を募集し慈に板橋を架せり」 と出ている。
太鼓橋であった古高橋(「調査報告書」)
現在の古高橋
そして「今は東香東川にも」「西祓川にも」 橋はあるが「此当時は絶て架橋なし故に殊更に綾川橋の名高く當地の名所にかそへら」れたそうである。(『綾南町史』『讃岐国名勝図会』)には古く石橋だったのを文十四年(一八一七)に再建、文政十二年(一八二九)に再度流出したのを前記竹内次郎助他三人が安政四年に再建したと細かく記されている)。いずれにしても昭和八年に現在の滝宮橋が架けられるまでこちらが本街道として使用されていたのである」とあった。
綾川
古高橋付近の綾川
讃岐山脈最高峰の竜王山北麓付近(香川県高松市塩江町安原下)に発し西流のち北流。長柄池(灌漑・生活用水ダム)を経て田万川を併せ、おおむね北西に流れを転じ下るが、滝宮の南西で流路を北東に転じ、綾歌郡綾川町北部から坂出市にかけて広がる府中湖(工業用水ダム)を経て、坂出市街東部をかすめ、坂出市林田町と同市江尻町の境界から瀬戸内海に注ぐ。
当地綾川町は平成6年(2006)年に綾上町と綾南町が合併するに際し、この綾川から名づけられたものである。因みに綾歌郡は吾野(あや)郡と鵜足(うた)郡が合併するに際し、吾野鵜足郡とせず綾歌郡としたようである。現在綾歌郡はこの綾川町と宇多津町より成る。
綾川と大束川の河川争奪
滝宮の南西で流路を北東に転じるが、はるか昔、流路は堤山の北を西に進み大束川水系と繋がっていたようである。伝説では滝宮の牛頭天王が高い堤を築き流れを変えたとのこと。牛頭天王かどうかは別にして何らかの因により流路が変わった。河川争奪と言う研究者もいる。

西山庵
六十六部供養塔
古高橋を渡り綾川左岸を少し下ると三叉路となり、その手前角にお堂が建つ。「俗に「川の坂の庵」と呼ばれる西山庵がこれ。「調査報告書」には、「この庵は古く西山寺といい、龍燈院の西の坊であったという。龍燈院とは現在の滝宮神社および天満宮のあいだにあった大寺で、両社の別当を兼ねていた。
明治の神仏分離で廃寺となり、建物は一時戸長役場に使用していたが、明治六年の一揆で焼かれてしまったという。本尊は堂床(私注;滝宮の北、府中湖の西側)地区の人々が盗まれた地区内のお堂の本尊にとゆずり受け、 守り伝えてた。現在は重文指定を受けている。
川の坂の庵では春の彼岸の中日にすぐ前を流れる綾川で流水潅頂の行事を行った。お世話は川之坂同行の人達が行う。現在では行事のみであるが以前は市が立ってにぎわったという。 「お説教」も行なわれたようで、「えんまさんの掛軸を見るんがおとろしかった(古老談) 」そうである。
庵の前に金毘羅燈籠が立っている。笠・火袋・竿すべて円型の珍しい燈籠で、正面に「金毘羅大権現御廣前」と刻まれている。文化十年(一八一三)の建立であるが、全体的に風化して刻まれてある字が読みにくくなっている。
庵の上には小さな墓地があり、庵主の墓や六十六部の供養塔が建っている」とある。

お堂左手の金毘羅燈籠を見遣り、庵の裏手に上る。座像石仏の横に「奉納六十六部供養」といった文字が読める供養塔が立っていた。川の坂はこの地区の地名である。

道標と白梅神社
電柱前に道標
お堂を離れ北西へと斜めに道を進み県道282号をクロスし、最初の角を左に折れ西進する。ほどなく四つ辻。北西角の電柱前に道標。結構新しい。「右まるがめ 東こんぴら」と刻まれる。 道標の左上にに鳥居と社。白梅神社がこれ。白梅神社の由来は不明。「調査報告書」には、この近くに菅原道真の旧跡の地に高松藩主御用の菓子屋があり、その名物菓子が「白梅花糖」であったとある。「白梅」が何かこの地のキーワードであったのだろうか。単なる妄想、根拠なし。

相撲取りの墓
右手丘陵に成り行きで取りつくと
相撲取りの墓があった
高松街道は丘陵裾の道を進む。「調査報告書」には「ここから国道(私注;現県道282号)までは以前松並木が続いていたので、このたりを並松(なんまつ)と呼んだ。並松の右上の畑の中には「七ッ森彦三郎墓」と刻まれた墓(明治六年)があるが、これは土地の相撲取の墓である。七ツ森は力の強い相撲取で四代まで続いた。この墓は三代目で、少し南には初代の墓も残っている」とある。
はっきりとはしないが取り敢えず丘陵に成り行きで上ると墓があった。 「少し南には初代の墓も残っている」とあるが、それらしき墓は見つからなかった。

県道282号手前に竹内銭領の碑
右手に小祠。初代七ッ森の墓?
竹内銭領の碑
道に戻り先に進むと県道282号に出る。「調査報告書」には「並松を進むと道は国道(私注;現県道282号)へ出るが、旧道は出る手前で右の岸にそって畑の中に入る。上には初代七ッ森の祠形式の墓が見える」とある。畑の先の小高いところに祠が見える。これが初代七つ森の墓だろうか。 取り敢えず祠へと成り行きで向かい、その先舗装された道を下りると県道282号に出る。県道出繰りに石碑が立つ。「調査報告書」には「土地の碩学者竹内銭領の碑でもとは並松の東の道端にあった。寺小屋師匠をはじめ飯山中(現飯山高)の教師等も務めた人である」とあった。

甘酒峠
県道の甘酒峠への上り。
アプローチはみつからない
下り側にアプローチ道らしき土径
とりあえず上る
県道に出た高松街道は緩やかな坂を上る。上り切ったところは甘酒峠。峠といっても特段その趣きはない。かつての甘酒峠は県道北の丘陵を越えていたようである。「調査報告書」には「昔の甘酒峠はもっと上であった。カーブの多い道を上っていくと左に浦山の公民館がある。その前に古い煙草の乾燥場があるが、これと納屋の間を上ってくのが本来の高松道である。現在は切りくずしているのでここからは上れない。古老の話ではいよいよきぶい(急な) 坂で人力車などは後押がいったという。本来の甘酒峠とはここで、一番の難所だったそうである。
少し上ると道は消える。民家裏に小祠
小祠から取り敢えず這い上がる
上へ登りつめると平坦地になっている。現在は畑であるがかつてはここに茶店があった。甘酒峠という名は、昔「高松藩主」が金毘羅参詣をする時、ここで甘酒の接待をしていたからだとも、滝宮の祭りの折に甘酒の接待をしていたところからついた名だともいう。いずれにしてもその甘酒を接待していたのは、この畑のところであると土地の人はいい伝えている。またこの上の藪の中には土地の旧家である川向の宮武家の墓地があった。
這い上がると平坦地。その先は藪と崖
結局成り行きで県道に下りる
道は下りになるが、ここからしばらくは民家のカド先を通るようなところが続く。道幅もせまく、聞かなけば、これがと思うような道である。道はやがて民家の納家先へ下りてくる。すぐ目の前が国道でこれを横切って南へ入る。やがて脇の宮 の前へ出る」とある。
この記述に従って県道から北側の丘陵部へのアプローチを探すが、民家が建ち、また土径に入るも民家の庭に入ってしまう。目印とした浦山の公民館は現在県道の南側にあり記述と異なっている。 仕方なく下り口側からのアプローチを探す。県道282号が国道32号と重複する交差点の手前、民家への入口の右手に丘陵に上る土径がある。
土径を辿り、民家裏の祠の辺りより急斜面に取り付き、上に上ると平坦地となっていた。平坦地を成り行きで東に進むが直ぐ藪となり、藪の先もギャップがあり先に進めそうもない。成り行きで県道に下りることにした。
後程お会いした地元の方に尋ねると、現在甘酒峠は通れないおっしゃっていた。この箇所は大人しく県道282号を辿ることをお勧めする。

脇の宮
高松街道は県道282号が国道32号と重複して進む交差点手前で甘酒峠からの道を下り、県道282号をクロスし南下する。ほどなく道の右手に脇の宮が建つ。
「調査報告書」には「脇の宮は小野および羽床下の大坪と脇の氏神様である。 羽床七人衆の一人脇糸目の先祖が祀ったのがはじまりだといい、長宗我部軍がせめ込んできた時、この社も焼きはらおうとしたが数百頭の猪が出てきたので手が出せなかったという伝説が残っている。
子安観音
脇の宮

脇の宮の入り口左側に自然石の大きな燈籠 が建っている。大正三年の改築で、竿には「金 脇 献」と刻まれている。その字の通り「金毘羅さん」と脇宮神社への献灯である。
右側には子安観音の小堂がある。 由来などは不明であるが、昔から乳を授けてくれる仏様として信仰されている」とある。
大きな金毘羅燈籠の手前に「こんぴら街道」の石碑があり、金毘羅燈籠の前に金毘羅燈籠の石碑が建つ。石段を上り社にお参り。脇はこのあたりの地名である。
地図の金毘羅街道
地図には金毘羅街道として国道32号の北側(西側?)の道が示されている。現地の方にお聞きした限りでは、高松街道(金毘羅街道)は、この脇の宮西裾を南下しT字路で右折するのがオンコースとのこと。脇の宮傍に「こんぴら街道」の石碑も立っていたことからしても、高松街道は国道32号を越えることなく、この脇の宮傍を南下する道筋であろうと思う。

間男地蔵
脇の宮を離れ道を南下し、ほどなくT字路を右折し国道32号にあたる。高松街道は国道をクロスし北西に進む。地理院地図には地名が一里山とある。「調査報告書」には、「五里目の大松が生えていたそうである(古老談)」とある。
道は山裾を進むが三叉路となるところを左に折れて南に向かう。このあたりは道の片側に家並みがあるところから俗に片原町と呼ばれている(「調査報告書」)。左手前方に讃岐富士のひひとつ堤山(羽床富士)を見遣りながら先に進むと道の右手にお堂。これが間男地蔵。
間男地蔵と堤山
「調査報告書」には、「昔、高松家中の矢田何某という屋敷の奥方と下男が駆け落ちをした。 阿波池田まで逃げたが追手に捕えられ、高松まで送られることになった。しかしここまで帰ったところで二人とも斬られてしまったという。その後ここで二つの人魂がとぶようになり、土地の人が二人の供養のため地蔵を祀ったのが間男地蔵のはじまりだと伝えられている。
毎年八月六日には土地の人々によってお座が行なわれている。その台座には「三界萬霊 文政四十年四月十九日」と刻まれている。しかし台座と本体とは異なる材質の石である」とある。堤山を借景とした間男地蔵の絵柄はなかなか、いい。

サカズツマ
中央のギャップがサカズツマ
間男地蔵の先は明治32年(1899)綾歌郡として合併する以前の吾野(あや)郡(明治11年;1878年発足)と鵜足(うた)郡(明治11年;1878年発足)の郡境であり、現在の綾歌郡綾川町と丸亀市綾歌町の境でもある。綾歌町が綾歌郡ではなく丸亀市?かつての綾歌郡は坂出市、丸亀市、高松市、仲多度郡まんのう町等などを含む広い行政区であったが、坂出市や丸亀市が独立し、その過程で綾歌郡にあった綾歌町も丸亀市に合併したことによる。
道を進む。「調査報告書」には、「幅約三mの旧態を残した道は続いて旧鵜足郡へと入る。 現在の綾歌町と綾南町(私注;綾上町と合併し現在は綾川町)の町境でもあり、また旧郡境にもなっていたのが、街道のすぐ左側を西南にのびたサカヅツマ(カエリヅツマと呼ぶ人もいる)である 。
国道側から見ると堤であることがわらる
この堤防状の土盛は、国道三二号線を越えて琴電琴平線にぶつかり、そこで直角に東南方向に曲がり堤山の北麓に至るもので、これがそのまま現在も町境となっている。
このサカヅツマは、綾川の氾濫を防ぐ堤防であったとか、池(沼池)の堤防であって、その内側の水をかいだして干拓したといった話がある。また、ここにはよく鶴が舞降りたともいう(聞き取り)。いずれにせよ街道の南側は湿地状であり、周囲の地名には渡池・池尻といった名もあり、また後また後述する近くの住吉神社も洪水と白鷺の縁起譚があることから、その堤の成立年代は定かでないが、歴史的遺構といえよう」とある。
目を凝らしてサカズツマらしき堤を探す。比高差はそれほどないが、耕地の中を南北に続くギャップがある。それがサカズツマだろう。

八大龍王
先に進むと右手に池。後家谷池と言う。権現谷池からの転音か、とも(「歴史の道調査報告書」)。池の傍に左右に常夜燈を配した小祠がある。それが八大龍王権現地神社。
八大龍王は天部に属する八人の仏法の護法神。では、八大龍王権現とは?権現とは仮(権)の姿で現れる(現)こと。仏教の神が日本古来の神として仮の姿で現れたものであるが、この場合の日本の神とは古来より水の神として信仰されてきた龍神様のことかとも妄想する。八大龍王はこの日本古来の龍神様と習合し、水を司る神として信仰されてきたのだろう。

住吉神社
街道はその先で一度国道32号に出る。少し進み最初に右手に逸れる道に入ると右手に住吉神社がある。 参道入口の広場に「古代より歴史と人情の里御茶園集落(現住吉集落)」の案内。「○日本最古の刳抜式割竹形石棺三基を有し、古墳時代前期四国最大の前方後円墳である快天山古墳の被葬者は大和朝廷とも密接な関係を持つ偉大な大先人のふる里であることに誰もが誇りを持っている。
弘法大師空海の御茶園伝説の舞台はこの住吉集落である
平安初期大同元年唐より空海が持ち帰った茶の種をこの地に蒔かれ、栽培法製茶法を教え、さらに大師は杖でここを掘れと教えた井戸は、千年以上この地で栄えた京都大覚寺派真言宗圓福寺の台所をはじめ、宮池堤の御茶園茶堂の接待用や御茶園部落の人らの命の泉であった。
御茶園集落から住吉集落への変遷の歴史について
弘法大師に由来する由緒ある地名も大東亜戦争勃発により、行政側からの戦時統制は日々厳しくなり、御茶園高添は小字となり住吉常会に統一された。住吉東、住吉西は昭和十七年頃から自治会として変っていない。
今は亡き後藤主膳と圓福寺の御蔭で今日の住吉神社がある事を忘れてはならない。正徳の宮地替えと現在地への遷宮
鳥居左の燈籠は御茶堂辺りから移されたもの
松平家三代藩主頼豊公は圓福寺領で畦田免の山林二町歩を差し出す事を条件に北山御林の現在地に宮地替えの許可があり、圓福寺の僧は謹んでお受けした。その総指揮は高松藩重臣後藤主膳久明であった。正徳五年七月である。
明治二年の神仏分離の政令で圓福寺が廃寺化する事で享保八年から長年高松藩から二十一石三斗の寄進が続いたのは、享保年間の渡池干拓時財政窮乏の高松藩に当時寺領を多く持っていた圓福寺が財政支援した代償であった(私注;この段落の意味不明)。
江戸時代享保五年(一七二〇年)高松藩家老後藤主膳久明による偉大なる功績は左の実跡の如く、永遠の恩人の遺徳を忘れてはならない。
護摩堂
(一)四十町歩の渡池の干拓
(二)三つの池を一つにした堤池の築堤
(三)正徳五年(一七一六年) 栗熊西畦田の圓福寺所有山林二町歩を高松藩にさし出し住吉神社境内とした。圓福寺池から晴れて宮池となる。
宮池の歴史は以後、三百年間続き、平成二十七年より県の事業である小規模溜池防災対策特別事業の対象地となった。
池の宮と白鷺伝説
時は応永年間降り続く雨は各地で氾濫、綾川の濁流は洪水となり、栗熊の亘池(後の渡池)の東堤が遂に決壊した。多くの村人は荒れ狂う濁流の中瀕死の状態で古宮の森の住吉の神に祈ると白鷺の群が綾川に向って次々と飛び立ってゆく。やがて白髪渕の方向へ徐々に濁流が引いていったと言う。以来住吉の神は水の神様と称えられ、住吉さんは池の宮さんと呼び親しまれるようになった。約六百年の物語りである。
弘法大使を始め、この地に関り、この地に尽された偉大なる先人に対し、追善報恩の心を忘れません。 平成二十八年五月吉日 住吉自治会」とある。

刳抜(くりぬき)式とは、石をくりぬいて身とふたとをつくったもの。割竹形石棺とは、古墳時代の刳貫(くりぬき)式石棺の一つ。凝灰岩・安山岩等で造られ、竹を縦に二つに割ったような形状のもの。 栗熊はこの辺りの地名。住吉神社は綾歌町栗熊東となっている。少し西には琴電の栗熊駅がある。池の宮と白鷺伝説はサカズツマの説明にあった住吉神社の洪水と白鷺の縁起譚ことのだろう。
宮池ははっきりしないが、コンテキストから判断すると広場西にある池のことかもしれない。

参道を進み池の宮とも称される住吉神社にちょっと寄り道。拝殿にお参り。境内左手には護摩堂がある。圓福寺の名残だろうか。

御茶園の円福寺(廃寺)茶堂跡
茶堂跡から、宮池(左)、
住吉神社の社叢(正面)
住吉神社から高松街道に戻る。宮池の南、「こんぴら街道」の石碑が立つ宮池より民家の間を西に進む道の入口に建屋がある。そこに「円福寺(廃寺)茶堂跡と御茶園の由来」の案内。「昔から円福寺のあったこの辺りは御茶園と呼ばれる集落であった。縁起は古く、かの弘法大師が大同元年(八〇六年)唐より持ち帰った茶の種をこの地に播かれた事に始まる。
爾来円福寺の僧や地元民により維持管理されて来た孫々の弘法茶は金比羅詣りの旅人にふるまわれたり、お寺で使われた茶の木は往時の茶堂跡の西側に現在も大熊家により栽培管理されている。 口碑によれば弘法大師空海が茶の栽培法を授け、近くに井戸を掘らし、茶堂を建立して旅人の便をはかつたと言う。同時代に唐より持ち帰った伝教大師最澄の茶は比叡山坂本の日吉神社の御茶園で立派に管理されている。
円福寺(廃寺)茶堂跡(中央の建屋)
明治十三年に老朽により倒壊した茶堂の中には御本尊として地蔵尊が祀られてあったが、風雨にさらされているのを憂えた地元民により大正十一年に七十米西に移転再建された。
地蔵尊には享保十六年(一七三一年) 辛戌吉日とある。当時用いられていた茶釜は地区住吉公民館に保管されている。円福寺の開基は古く平安前期、理源大師の創建と言われている。
平成十年十月吉日 綾歌町文化財保護協会 住吉自治会」とあった。
この建屋が茶堂跡のようだ。
茶堂辺りには金毘羅燈籠があったが、現在は住吉神社の石段途中、鳥居の左奥に移されているとのこと。「安政3年 金毘羅大権現 住吉大明神」と刻まれるようである。はっきりしないが住吉神社石段途中鳥居の東に1基だけ常夜燈が立っていた。ペアでなかったので、それが移設された金毘羅燈籠思う。

茶堂より移された地蔵尊
道を少し進むと道の左手にお堂があり、その横に石造物と2基の丸い僧侶の墓が並ぶ。このお堂に茶堂跡の案内にあった地蔵尊が祀られているのだろう。この地蔵は毎年八月二十三日の地蔵盆の夕方にお経をあげて祀っているという(「調査報告書」)。
お堂脇の二基の僧侶の墓は、明治の初年頃までこの住吉の地にあった円福寺という寺の住職であり、その護摩堂は現在、住吉神社の境内に移され神庫として使われている、と「歴史の道調査報告書」)。 にあった。住吉神社の護摩堂を円福寺の名残かとの既述は当たらすとども遠からず、といったコメントであった。

分岐点に道標
道を進むと分岐点。角に道標が立つ。「右 丸亀 左 金毘羅  先祖代々為供養菩提之」と刻まれる。高松街道は左へと坂を下る。



史跡快天山古墳の案内
案内裏のスロープを上ると
玉垣に囲われた石碑があった
道標のある分岐点を右に向かう道の山側に「史跡快天山古墳」の案内がある。案内の掛けられた金網の山側はスロープとなっている。案内傍には古墳への道順も示されており、スロープを上ると古墳へのアプローチがあるのかと思ったのだが、スロープの上には玉垣に囲われた石碑が立つが、山へと上る明瞭なアプローチは見つけることができなかった。
あれこれチェックすると、案内前の道をグルリと廻る、また茶堂跡から北に向かう道をグルリと廻る車道で行けるようではあった。

駅舎・御殿跡
道標より坂を下り国道32号に出た高松街道は直ぐ右に逸れる道に入る。国道32号と重複する以前の県道282号かとも思える。西進し東大束(だいそく)川の少し手前で左に逸れる道に入り東大束川を渡る。川を渡った辺りにかつて高松藩の三番目の駅(伝馬所)、そして藩主が休憩した御殿があり、御殿に隣接し制札場もあったと言う(「調査報告書」)。

馬指の金毘羅燈籠
東大束川に沿って道を進むと旧282号に出るが、その先で高松街道は右に逸れ、旧282号の一筋北の道を進む。この辺りが昔の馬指の宿場のあったところとのこと(「歴史の道調査報告書」)。 西進すると道の左手、民家の前に大きな金毘羅燈籠が立つ。「慶応四年」と刻まれる。
「調査報告書」には、「県道(私注;旧県道282号)付近からこの金毘羅燈籠あたりにかけての街道には鳴橋という橋が架かっていたという。「昔、殿様が金毘羅詣りをした時には、湿地であるこの付近の道は足が入り込んで困ったので、庄屋の命令でナラシバを刈ってきて敷き、その上に板を置いて通ったという。そのためその板がよく鳴ったので鳴橋といったという。 その橋のあった場所はよくわからない」とあった。

専立寺
これが専立寺坂?
直ぐ柵でブロックされる。上に専立寺が見える
この先の高松街道のルートについて「歴史の道調査報告書」は、「街道は国道に出る直前から道幅約一~二mの小道を登り、専立寺の門前へと進む。この間、街道は東大束川をわたりいっきに専立寺(せんりゅうじ) のある梨岡まで駆け上がる」とある。
国道側から上る
梵鐘の吊られた山門と本堂
はっきりとはしないが、東大束川(私注:御殿のところを流れる川も東大束川。共に下流で合流し大束川に注ぐ支流として同じ川名が使われているのだろう)を渡った先に、道を右に逸れ専立寺に向けて上るコンクリート舗装の坂道がある。坂道は途中に柵があり、先に進むことはできなかった。 仕方なく国道32号まで進み、石垣風に法面補強された上に建つ専立寺へ上る。
本堂右手に六十六部供養塔(左の高い石碑)
寺からの専立寺坂口も柵でブロックされていた
梵鐘の吊られた境内に。境内には「専立寺境内整備事業 国道三十二号バイパス工事に伴い左記の工事在施工したことを記す。
工事期間。
 平成十三年四月~平成十四年十二月
工事内容
 本堂階段・石段・参道石敷道・花壇・外便所・下水道新設・西駐車場塀新設・寺号石・掲示板新   設・手水鉢」とあった。


本堂
境内を彷徨い、途中に柵があり上れなかった坂の専立寺への出口を確認。ここも鉄柵があり、下ることはできなかった。「歴史の道調査報告書」には「この坂は専立寺坂と呼ばれ、大変な難所であったという」とあるが、現在その名残はなにも感じられなかった。

本堂右手には天保十二年(1841年)建立の六十六部供養塔がある。台石には「野州・肥前・筑前・能州・佐渡・京・尾州・下野など男女十八人の名前が刻まれている(「歴史の道調査報告書)。

綾歌市民総合センター敷地内に石造物が並ぶ
専立寺を離れ国道32号をクロスし、専立寺の対面にある綾歌市民総合センターに。敷地西側の道路に面して五輪塔や石の小祠などと共に「宇閑神社鎮座・十丁南」と刻まれた石碑が立つ。
宇閇神社(うのい;うえ)神社
縁起には、「酒部益甲黒丸の創祀と傳へられ、延喜神名式に「讃岐国鵜足郡宇閇神社」とあるのは、當社なりとも云へり。三代物語、全讃史、生駒記等は此の説なり。傳ふる所によれば、酒部益甲黒丸は武卵王の裔にして當地に住し酒を醸す。城山長者と称せられ其の家甚だ富む。常に家に井泉なきを憂へしが、邸内に栗の樹あり、鵜樹上に集へるが、或る朝鵜群足を以て地をえがきしに其の處より清水湧出して流を為せり。夜は星影この水に映じて玉の如くなりしより玉の井と称す。郡名鵜足はこれによって起る。
又郷の名を栗隈又は玉隈と云う。この水の至る所五穀豊熟せり。依って其の地を富隈と云う。黒丸この水を以て酒を醸ししにその色黒く澄みて味甚だ甘味なり。以て允恭天皇に奉る。天皇之を嘉し給ひて姓酒部を賜ふ。其の酒を称して黒丸酒と云へり。黒丸一祠を井のほとりに建つ、即ち當社なり云へり。後鵜井権現、鵜野邊の神等称せられ、更に降りては十二社権現とも称へられたり。黒丸の舊蹟を城山と云う。今木山と誤れり。又玉井大明神と云う祠あり。栗樹の跡を栗野と云ひ、當社地を鵜之井免と云う。明治初年宇閇神社と改称し村社に列せられ、大正7年8月神選幣帛料供進神社に指定せらる」とある。
読みは「うのい、うえ」の表記がある。どちかが正しいか不明であり併記する。
宇閇神社神社古墳
「綾歌町には縄文時代晩期 (約3000年前)からの集落跡が多く見られ、早くから人々が生活していたことが分かります。弥生時代の終わり頃(約1800年前)からは、有力者が比較的大型の墓(墳丘墓 ・古墳など)を造るようになり、綾歌町内にも多くの古墳が残されています。
宇閑神社古墳は古墳時代後期 (約1500~1400年前頃)に築造された古墳で、権力者の家族墓として使用されていたものと考えられています。
古墳は、土を盛って築かれた直径16~17m、高さ4mの円墳です。
中心部に横穴式石室があり、羨道 (外部から石室に通じる通路)を東側に備えています。石室1~2m大の石を用いて築かれており、玄室 (遺体を収める部屋)の大きさは、奥行き4.9m、床幅1.85m、天井幅0.95m、高さ2.0mで綾歌町内の古墳としては最大規模です。石室内部は盗掘を受けているため、棺・副葬品共に確認されておらず詳しいことは不明です。 この古墳は、南の猫山から北に延びる丘陵の先端近くにあります。古墳の東や北には小さい平野が開けていることから、その地域を治めていた有力者が葬られたのではないかと考えられています。 丸亀市教育委員会

琴電琴平線の踏切を越える
国道北の側道を少し西進し
国道、そして琴電の踏切を渡る
綾歌市民総合センターから先の高松街道ルートについて、「調査報告書」は「役場(私注;綾歌市民総合センター)の西側のの信号をこすと、またすぐに右(北西)方向の旧道へと入る。 谷状の地形をかなり下りたあと、一〇〇mほどでふたたび上る。当時の難所ぶりを伺い知ることができる。上るとふたたび国道三二号線と合流し、それを横切って南へと進み、琴電琴平線の踏み切りをこえてすぐに、西へ向きを変える」と記す。
信号を越えた先、国道に沿って舗装道があるが、記述にあるような形状とはほど遠い単なる側道となっている。国道整備に際しその姿がかわったのだろうか。その先で国道32号をクロスし、国道32号の直ぐ南を走る琴電の踏切を渡る。

栗熊西の地蔵堂
国道を右手に見遣りながら道なりに西進し、琴電の踏切を再度渡り、その先国道から逸れた道と合流した先に地蔵堂が建つ。「調査報告書」には、「この地蔵は、享保三年(一七一八)に香川郡山崎村の久利明四郎が、街道沿いに建立した七基の地蔵のうちの一つである。現在のお堂は昭和六十二年に改築したもので、それ以前のお堂は椎尾神社の本殿であったとも伝えられるもので、立派な彫刻を施していたという。 改築されたお堂にも、その材が部分的に使われている」とある。そう言われればしっかりとした材と見えなくもない。
尚、前述御茶園の茶堂より少し西の道路脇に移された地蔵も久利明四郎建立の7基のそのひとつとのことである(「調査報告書」)。

土岐六蔵頌徳碑
地蔵堂を越えると町域が綾歌町栗熊から綾歌町岡田に変わる。南北に走る道をクロスし、国道より逸れた道が合流する箇所の直ぐ先に「こんぴら道」の石碑と土岐六蔵頌徳碑が建ち、その先に骨格部分だけが残る火の見櫓跡が立つ。
土岐六蔵はこの地の南にある小津森池の拡張工事に貢献した篤志家。明治27年(1894)より工事をはじめ翌年完成。この拡張工事により池の貯水量は従来の4倍となり、この地の水稲栽培に貢献した。
小津森池
このため池の築造は、高松藩主松平頼重の家臣矢延平六により、寛文12年(1672年)に完成したと伝えられる。文政年間(1818年~1830年)には鵜多郡の大庄屋木村又左衛門らの努力で、かさ上げ工事が行われ、堤長141間(258.1m)、堤高4間半(8.1m)、貯水量13万8千立方メートルの規模となったが、まだ水不足は解消せず、この地の水田の約4割は米ではなく綿や甘しょを栽培していたという。明治になりこの池の拡張工事をおこなったのが土岐六蔵翁である。
小津森池といえば、香川用水散歩の折出合った。池の下をサイホンで抜き水を通していたのが記憶に残る。

駒止地蔵
このお屋敷塀に埋もれるように
駒止地蔵が祀られる
土岐六蔵頌徳碑の直ぐ先、道の右手、お屋敷の塀に埋もれるように駒止地蔵のお堂がある。「調査報告書」には、『綾歌町史』の抜粋として「昔ある武士が馬に乗って通りかかり、武者修業の旅の武士と出合い争いとなった。 旅の武士は馬の脚を切り落とし、馬上の武上は落ちて斬り殺されてしまった。 土地の人は無惨な死をとげた武士のために石の地蔵を建てて供養した。しかしそれ以来、この地蔵の前に馬がくると、不思議なことに止まってしまい動こうとしない。そこで、この地蔵を逆さにたてた。するとそれから後は無事に馬が通行するようになったという」とある。
駒止地蔵脇にあった石碑には「昔この地を一本椢(椚;くぬぎ)と言い、此処より十米(メートル)西の路傍に周囲四米近い大椢在り。根元に祀られたお地蔵様が大昔は伊勢暦に讃岐の國の駒止地蔵祭りと載っていたと伝えられ、日本国中唯一の霊験灼(あきらか)な御地蔵様で御在居ます。亦(また)の名をさかさ地蔵とも申します。大正七年の台風で大椢が倒れ現地に移し大正八年四月に御堂を建立後昭和六十年七月より地域住民一同の願いにより再建す。詳細は昭和五十五年発刊香川の伝説中さかさ地蔵の一読を乞う。昭和六十「一年四月吉日 一本木一同」(原文漢字カタカナ表記)。
伊勢暦
「伊勢といえば暦、暦といえば伊勢」といわれるほど伊勢暦は全国各地で重宝されていた。その理由は、明治5(1872)年まで使われていた旧暦は月の運行を主とし、一年の日数も月の大小も毎年一定ではなく、そのため来年の暦がなければ農作業や商売に必要な一年の計画が立てることができなかった。伊勢暦には八十八夜(種まきの時期)や二百十日(稲の開花時期)など他の地方暦に載っていない役立つ暦註が記されていたことから大変貴重とされていた。
明治16年(1883)以降、政府編纂の官暦が「神宮暦」として伊勢神宮の神宮司庁から刊行される ようになった。
こんな全国的に評判の暦に駒止地蔵祭りが掲載されていた、ということだろう。

小津森の道標
駒止地蔵から少し進むと二股に分かれる。分岐点に道標があり「右ぜんつうじ・左ことひら道・大 正四年」と刻まれる。案内に従い高松街道は左の道をとる。
道なりに進み琴電琴平線の踏切を渡る。「調査報告書」には「琴電琴平線の踏み切りの手前には常夜燈 がたっていたという。現在は宿母・小津森公民館脇に移設されている。 「金毘羅宮・椎尾神社・明治八年」などの銘をもつ。この燈籠は小津森の集落の人が建立したので、小津森の常夜燈として『綾歌町史』などに紹介されているものである」とする。
宿母・小津森公民館の常夜灯
踏切を越えると県道278号小津森交差点。「調査報告書」には「琴電琴平線の踏み切りをこえ、七〇mほどで中讃大規模農業道に出る」とあるが、その中讃大規模農業道が県道278号のことだろう。「調査報告書」には「中讃大規模農業道との交差点より一〇〇mほどいった街道の左側にも、常夜燈があったという 。 「金刀毘羅宮・椎尾神社・明治十一年」などの銘をもち、これも小津森の人が建立したもので小津森の常夜燈として『綾歌町史』に紹介されている。この常夜燈も同じく宿母・小津森公民館脇に移設されてる」とする。
中讃大規模農業道
Wikipediaを参考にまとめると、中讃大規模農道とは、「1980年代に高松空港の新規移転事業が出た事を契機とし、新空港および高松市内陸部(高松市香川町周辺)と中讃・東讃域に広がる各農地との地域間における農産品出荷に関する広域アクセスの向上と、周辺地域の交通アクセスの改善を狙って事業計画が行われた高規格広域農道のひとつを指す。事業計画において、その農道事業の総合内容を示す地域愛称を「さぬき新道」とする事が定められた。
農道整備が完成した平成7年(1995)に、農道としての役割から周辺地域の主要アクセス道としての役割へと目的のシフトが行われ、これに伴い県道指定されて現在に至っている。広域農道としての役割を終えた後も沿線地域において「さぬき新道」の愛称が残されている。
中讃大規模農道は現在、さぬき新道の起点として中讃岐の丸亀市綾歌町岡田下 岡田天神交差点から県道278号として始まり、東に向かい県道13号を経て、東讃大規模農道をその前身とする県道279号として東讃のさぬき市寒川町石田西 石田西交差点までを繋いでいる。

宿母の三界萬霊地蔵尊
左の道を進む
県道278号をクロスしたその先二股手前に三界萬霊地蔵尊。「調査報告書」には「小津森池で溺れて死んだ人を供養するために建てたものだという。 もとは小津森池の近くにたっていたが、詣る人も少なく淋しいだろうからということで、現在の街道脇に遷したのだという(聞き取り)。この地蔵の碑銘も読みづらいが、「明治廿五年建立」などの銘が見える。 手水鉢には「吉田万歳・明治廿八年七月」などの銘がある」と記す。
宿母の地蔵とも称されるようだ。高松街道は二股を左に進む。

香川用水脇の金毘羅燈籠
香川用水に沿って金毘羅燈籠が続く
道なりに進みその昔、遍路宿などの宿があったゆえの命名ともいう宿母集落を抜けると香川用水にあたる。香川用水の開渠水路の前に大きな自然石の金毘羅燈籠が立つ。「明治十一年 十方施主 世話人大西元蔵」といった文字が刻まれる。元はこの位置より西にあったようだが、香川用水の工事の際にここに移されたとのことである(「調査報告書「)。
香川用水
香川用水(by香川県)
香川用水は水不足を補うため建設された香川県を東西に繋ぐ幹線水路。「吉野川の水を「吉野川総合開発」により建設された早明浦ダムで調整し、その水を徳島県池田より阿讃山脈を貫く8キロの導水管で香川の財田に送り、そこから西部幹線で観音寺まで約13キロ、東部幹線で三豊市、琴平町、まんのう町、丸亀市、綾川町、高松市、三木町、さぬき市と経て、東かがわ市まで約74km、、三豊市で東部幹線から別れた高瀬支線で三豊町高瀬まの約11キロをカバーする。水は農業用水や都市用水として県内のほぼ全域に導水され県の重要なライフラインとなっている。
豊かな水量の吉野川水系の水を求めて愛媛や香川は徳島県に水利を要望するも、交渉は難航した。要因は吉野川の水利権を持つ徳島は下流域では川床が低く水利の役にたつことはなく洪水被害を受けるだけであった。その問題を解決するための施策が吉野川総合開発計画。早明浦ダムの建設で水量を調整し洪水被害を軽減し、吉野川下流域の徳島にも川の両側に水路を設け利水を可能とし、香川や愛媛にも吉野川の水を分水可能とした。香川は香川用水、愛媛は銅山川疏水として吉野川水系の水を活用している。
香川用水西部幹線()、高瀬支線()、東部幹線())を歩いたことを想い起こす。

天神池の三界萬霊地蔵尊
香川用水に沿って少し進み、右に逸れる道に入り、道なりに西進すると国道438号に合流する。高松街道は国道を少し南下し、天神池の北端で国道を逸れ右に折れて天神池の堤をグルリと廻ることになる。
堤に入ると直ぐ界萬霊の地蔵尊がある。「法界 明治十七」といった文字が刻まれる。天神池は別名「廻り池」とも称される。池の堤をグルリと廻り、南西端でそのまま南下。ほどなく現れる香川用水路をクロスし三叉路まで進む。これが古いルート。
この道標を右に折れる

香川用水脇に石仏
明治42年(1909)に現在の国道438号の前身である郡里道が整備されてからは、天神池の堤を迂回することなく南進し、香川用水路の傍に立つ石仏を見遣りながら進み、宇閇(うのい)神社参道口辺りで国道を右に逸れて少し進むと道標がある。「金毘羅・大川道 明治四十三年」と刻まれたこの道標を右折すると上述三叉路にあたり、旧街道と合流する。
宇閇神社(うのい;うえ)神社
新しい街道を歩いていると右手に宇閑(うのい;うえ)神社と地図にある。綾歌市民総合センターのところで記した宇閑(うのい;うえ)神社と同名。前者は綾歌町栗熊、こちらは綾歌町岡田下。共にに式内・宇閇神社の論社(延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のこと)。要はどちらが延喜式に記載された社か不明ということ。
こちらの社は御祭神 武内宿禰命 配祀 品陀和氣命(私注;応神天皇) 菅原道眞 合祀 金山彦命 菅原道眞の名があるのは岡田上村廻池の畔にあった天満宮を、池の改修に際し、当社へ合祀したため。 故に別名、岡田の天神さんとも呼ばれる。
同名の式内論社ではあるが、由緒などは結構異なっている。

金毘羅燈籠が続く
道の右手に移された燈籠
道なりに進み赤坂の集落に入ると消防団屯所の先に三叉路。北に向かう道は明治43年(1910)に整備された道であり、藩政期には米を宇多津に運ぶ重要な道であったと言う(「調査報告書」)。「調査報告書」にはこの三叉路に自然石の道標があるとするが、現在は見当たらなかった。 また、この三叉路から直ぐ先、道の左手に金毘羅燈籠があったと記すが現在は道の反対側、少し西に移されていた。明治17年(1884)の建立。
その直ぐ先、道の右手に立派な金毘羅燈籠が続く。明治38年(1905)の建立と言う。

羽間池傍の地蔵堂
先に進むと道の右手に地蔵堂がある。お堂に祀られる3基のお地蔵はそれぞれ姿が異なり、どれもあまり見かけない印象的なお地蔵様である。
地蔵堂の先には羽間(はざま池)。地理院地図には「大池」とあるが、その名の通り西側の西山と東側の中津山の狭間に築かれた池。江戸期に中津山の東側の出水(伏流水)水源より1.5キロほどの水路を築き池を造ったとのことである。何気に見る溜池にも先人の苦難の歴史がある。

この地蔵堂のあたりで丸亀町綾歌町から離れ仲多度郡まんのう町に入る
「調査報告書」には「この羽間池の南の堤からは、象頭山を一望でき、この池を頂上とするこの峠は大変な難所であったとともに、金毘羅詣でに行く人々にとっては、「あと少し、最後の一休み」の場所でもあり、参詣から帰る人々にとっては、「残念坂」の呼び名があるとおり、この羽間池から金毘羅を見て「遊廓等での散財を悔しがった」という(聞き取り)。 金毘羅に別れを告げる場所であったといえよう。安藤広重が残した浮世絵「六十余州名所図会讃岐象頭山遠望」は、この峠から見た絵だといわれている」とあるが。残念ながら現在は木立の茂りか民家ゆえか、眺望はまったく効かなかった。
仲多度郡
現在多度津町、琴平町、まんのう町から成る。多度津町と琴平町・まんのう町か飛び地っぽくなっているのは間の地域が善通寺市として別れたからである。

延命寺茶堂跡
少し進むと道の右手に建屋がある。建屋の右端に小さな梵鐘が吊られていいる。これが延命寺茶堂跡 だろう。「調査報告書」には「町境から約一〇〇mほど述の綾歌町岡田延命寺にあり、関所が設けられていたともいう。この寺は、延命寺茶堂または羽間茶堂として有名で金毘羅参詣の旅人はここで休憩をとったという。この茶堂での接待に使われていたという茶釜が今も残されている。
五升だきという大釜で胴部に金のマークが刻まれている(『瀬戸内海歴史民俗資料館だより 第三十三号』)。 寺の縁の前には横倒しになった常夜燈 や「文政七(一八二四) 庚申」銘の入った手水鉢が庭木に隠れてひっそりと残っている。また縁には、「明治二十七年・那珂郡榎井村鋳物師原弥三郎藤原正本」などの銘が入ったた小さな梵鐘が釣り下げられている」とある。 あれこれ彷徨ったが梵鐘以外は目にすることはなかった。

首空地蔵・大日菩薩
道を進み上述駒止地蔵の北辺りで国道32号から南に逸れた県道282号をクロスし、更に国道32号の高架下を潜ると琴電琴平線の高架橋がある。その手前、西山の稜線の南端斜面に「首空地蔵・大日菩薩」と刻まれた舟形地蔵がある。刻まれた文字から見てそれほど古いものではない。 首空地蔵の名前に惹かれるのだが由来など検索でヒットしない。
琴電の高架を潜ると金毘羅さんのある象頭山が前面に見える。

法然上人(圓光大師)御旧跡と見返り坂
道を少し西に進むとT字路にあたる。その角にお堂があり地蔵尊が祀られ、その横にはふるい石碑がt立つ。地図には「法然上人(円光大師)御旧跡と見返り坂」とある。「調査報告書」には「この三叉 路には、香川郡山崎村の久利明四郎が、街道沿いに建立した七基の地蔵のうちの一基が祀られている。「享保十八年」(一七三三)の銘などをもつ。まその傍らには、「圓光大師御□跡・巡拝大坂講・左西念寺道」などの銘をもつ石柱が立っている」とある。
お堂に祀られる地蔵座像が久利明四郎建立の地蔵だろう。御茶園傍、駒止地蔵傍とここ。久利明四郎建立の7基の地蔵のうち3基に出合ったことになる。
お堂脇の「圓光大師御□跡 」と読める石碑傍に案内があり、「 西念寺-浄土宗鎮西派仲津山浄土院西念寺は法然上人の御遺蹟に建立された名刹である。
寺伝によると建永二年(一二〇七)の法難によって讃岐国小松荘生福寺に遷された法然上人は土器川の東にあるこの丘陵地の風光が京都の東山に似ているのをめられて、この地に草庵を営み念仏の教を説いて老若男女を教化されたという。
寛文八年(一六六八)高松藩主松平頼重公は、この古寺を仏生山に移して法然寺と称し、その跡地に四条(私注:土器川に架かる祓川橋を渡った左岸の地)の真福寺を移し、その後丸亀の中津から西念寺を移し寺の維持のために寺田三反余を寄進された。
新黒谷と呼ばれた西念寺の寺地には法然廟があり寺の境内には立華の名松が聳えている「ここは羽間の新黒谷か、仏とられてぬれ仏」の俗説も伝えられている。
寺の東の山腹にある墓地には高松藩の儒者て有名な小国牛山、野元密両先生のお墓がある。 昭和五十四年三月 まんのう町教育委員会まんのう町文化財保護審議会 (註)所在地 大字羽間」と記される。

この「T字路を右折し北進すれば西念寺に至る。「仏とられてぬれ仏」の意味はよくわからないが、繰り返されたお寺の移転に関係するのだろうか。露天に晒された仏を想像する。単なる妄想、根拠なし。
また地図にある「見返り坂」は琴電高架からこのT字路辺りを指すようだ。「残念坂」とも呼ばれるようであり、とすれば、法然との関係ではなく上述の「残念坂」と同じく、金毘羅さんでの散財と関係あるようにも思えてきた。

立石の石碑・王尾内記と権太夫の墓
T字路を右折することなく西進し立石の集落に。道は「立石」と刻まれた自然石のところで道なりに右折し南進する。
地図には南進する道が琴電琴平線とクロスする手前に「王尾内記と権太夫の墓」のフラグが立つ。
ちょっと寄り道。特に道案内はないのだが、琴電の高架直ぐ手前、自動車教習所との間を線路に沿って少し西に進むとふたつの石の小祠が並び、傍に「王尾内記と権太夫の墓」の案内が立つ。 

線路と自動車教習所の間の道を進む
「王尾内記と権太夫の墓 慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘三十番神の兼帯社人であった。その長男を松太夫といった。寛文十年(一六七〇)八月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。
幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封権制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文十一年(一六七一)十一月十一日、その一族は高松藩によって祓川の刑場で処刑された。 その後、金光院においては不幸が相次いで起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約二百年後の文久三年(一八六三)十一月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。
満濃町教育委員会 昭和五十年十月 満濃町文化財保護委員会 (注)所在地 大字羽間」と記されていた。

金毘羅さんに建つ松尾寺の本尊は十一面観音であり、守護神は元は三十番社であった。が、後に建立された金光院が金毘羅堂を建て新たな守護神として金毘羅神を勧請し金毘羅権現として祀り、金光院はその別当になる。長曾我氏の威が強まるにつれ長曾我部氏と縁のある金光院が本尊十一面観音を凌駕し金毘羅権現の信仰を広め隆盛し、後発の塔頭だった金光院が全山を支配するようになった。このことがベースにある騒動ではあろう。
三十番神
三十番神(さんじゅうばんしん)は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)。
満濃町
現在の「まんのう町」は平成18年〈2006)に満濃町と琴南町、仲南町と合併してできたもの。記載の昭和51年は未だ満濃町の時代である。

金毘羅燈籠と舟形地蔵
土器川 琴電の高架を潜ると直ぐ、道の左手に金毘羅燈籠と舟形地蔵が立つ。燈籠には「寛政十年(一七九八)当村講中・常夜燈」などの銘が刻まれる。またその前に立つ舟形地蔵には「法界・文政十二年(一八二九)・菅氏建立」の銘が刻まれる。
金毘羅燈籠と琴電の間にある民家は古い趣きを残し、なかなか、いい。
街道はその直ぐ先で土器川にあたる。現在は少し上流に祓川橋が架かっているが、明治35年に木橋が架かる以前は、川の石に板をさしわたして徒河したという。
土器川
古代、」河口付近から採れる粘土を元に土器を造る人たちが住んでいた事に由来する。現在も河口付近に土器町の地名が地理院地図に記される。祓川橋の由来は、往昔金毘羅参詣の前、この川で身の穢れを祓っていたことに由来するとも言われる。それもあってかこの祓川橋より上流は祓川とも呼ばれるようだ。

地蔵堂
土器川を渡った対岸の堤にお堂があり小さuつさな石仏が両脇に並ぶ地蔵尊が祀られる。「天保七年」 (一八三六)の銘をもつ三界万霊の地蔵尊である。
その先県道199号をクロスし西進し、県道200号をクロスする。ここは宇多津往還往還が高松街道に合流する箇所でもある。

往昔この辻には金毘羅大権現の石柱と地蔵2体があったとのこと。
移された石柱と地蔵尊
現在は県道200号を北に上った県道高架東側下に移されている(「調査報告書)。
県道200号を越え西進すると、道の右手に大きな金毘羅燈籠が立つ。「調査報告書」には「笠石の唐破風には氏神である大井八幡神社の「大井」と金が浮彫りにされている。 「明治十三年四条村願主・・・」などの銘がある」と記す。

その先で街道は仲多度郡まんのう町を離れ仲多度郡琴平町に入る。

大鳥居・T字路(県道4号)の道標
琴平町に入ると直ぐ、道を跨ぐ大鳥居がある。 鳥居には「象頭山」の大きな石の額縁がかかっており、柱には、「万民豊饒」「国家安穩」「慶応三年(1867)」の銘がある。大鳥居のする先で道はT字路となり(県道4号)、その角に細長い道標が立つ。「右高松道・左丸亀道・明治三十九年」の銘が刻まれる。高松街道はこのT字路を左折し、直ぐ右折し西進する。
旗岡(はとか)神社
「調査報告書」には「このT字路右には旗岡神社がある。境内には苔むした金毘羅燈籠が立っている。また旅人は、この神社の境内で最後の休憩をとって、いっきに金毘羅宮へ詣でたともいう(聞き取り)」とあるが、近年改築されたのだろうか、苔むしたといった風情は残っていなかった。

呑象楼(どんぞうろう)跡の石碑
西進した街道は一直線で金毘羅さんの参道口に向かう。しばらく進み国道319号をクロスすると度暗線の踏切に出合う。その直ぐ手前の角に「呑象楼跡」と刻まれた石碑が立つ。現在は国道319号と高松居合道が交差する箇所の南、榎井小学校傍に移されている。
琴平町のHPには「呑象楼は、天保年間の建築です。もとは旧高松街道の榎井六条にある興泉寺が建てたもので、嘉永年間に勤王家『日柳燕石』が12年間を住居として使用した建物です。日柳燕石亡き後(1868)呑象楼は建物はそのままに置かれていました。
保存保護の立場から、燕石の遺徳に心うたれた有志の方々により、昭和29年(1954)4月、現在の場所に移築されました。移築したときに、集会所として使用するために改築されたため、文化財としての価値がなくなり、現在も文化財の指定は受けておりません。昭和14年(1939)県史跡に指定されていましたが、今は解除されています。
移された呑象楼(by琴平町
現在も、2階には、壁のどんでん返し、床の掛け軸の抜け穴、はしご段の仕掛けなどが残っており、いろいろな逃げ道はまさかの時の用意であったものと思われます。
呑象楼は、初め【皆宣楼(かいぎろう)】や【双松閣(そうしょうかく)】などと言っていましたが、2階西側の窓から象頭山を盃に浮かべて飲み干したことから、「呑む」・「象」・「楼(高い建物などのこと)」と呼ばれるようになったそうです」とある。
呑象楼には幕末に新時代を夢見た勤王の志士が燕石を訪ね、大いに語り合ったと言い伝えられています。吉田松陰や桂小五郎、高杉晋作らと交流があった燕石が高杉晋作を呑象楼にかくまったという逸話もある。
また「調査報告書」には「この榎井村では場所が定かでないが金毘羅燈籠 が立っていたという。現在は金丸座下の琴平町公民館堂の庭に移設されている。 「永代常夜燈天明七榎井莚商問屋/同商人中」等の銘をもつ」とある。実際確認したわけではないのだが、Google Street Viewには金丸座下の琴平公会堂(私注;琴平町公民館堂はケアレスミス?)に金毘羅燈籠が写っていた。この燈籠が移されたものかもしれない。

新町の鳥居
土讃線の踏切を越えると意匠をほどこした風のが道となり、道の両側には「高松街道」と刻まれた石碑が並ぶ。直ぐ先にを跨ぐ大きな鳥居がある。傍にあった案内には「新町の鳥居 安政二年(一八五五)に糖国、武下一郎兵衛によって奉納される。
武下一郎兵衛は文化文政ごろから在郷商人として活躍した人で、中讃から東讃にかけての酒と油の販売権をもっていた人である。掛屋・札差といった金融業を行うなど、手広く商をしていた。 この新町の鳥居が奉納された安政二年は彼の事業の最盛期を示しているのかもしれない。 また、この鳥居には、珍しく笠木の裏側に剣先型の彫り込みが見え、不動明王の種子と願文が彫られている。それは建造物に見られる棟札を意図したのかもしれない。
材質 花崗岩製
形式 明神鳥居
寸法 高さ=七.八メートル 柱間=七.二メートル」とあった。

一の橋を渡り金毘羅参道口へ
アーケード商店街に入り
一の橋を渡り参道口へ
道は歌舞伎新町と書かれたアーケード商店街に入る。アーケード商店街手間、北から過日歩いた丸亀街道が合流する。「大鳥居以前 (十七世紀前半)に、丸亀道と高松道の合流したところに、鳥居が造立されていたようである」と「調査報告書」にある。治三
アーケード商店街を抜けると金倉川に架かる一の橋。一の橋を渡り西進すれば金毘羅さんの参道口に出る。
鞘橋
「調査報告書」には「元禄年間に描かれたという「金毘羅祭礼s図屏風」には、金倉川でミソギをしている人の様子が見える。また『金毘羅山名所図会』には「此橋(鞘橋)下の河におりて、諸国の詣人垢離をとりて御山へのぼる」とある。(『金毘羅庶民信仰資料集 第二巻』)。現在は一の橋が架かっている。 鞘橋は、明十八年に阿波町の現在地に移されている。」とある。
昔は鞘橋がここに架かっていたようだ。
一の橋を渡り、県道208号で過日歩いた多度津街道も合流し、金毘羅さんの参道口へ。 2回に分けた高松街道トレースもこれで終わりとする。

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