先日の散歩で出会った(?)「呑川」、「立会川」。ノミガワ、タチアイ、って名前も気になるし、これらの川、昨日の散歩道の複雑な地形にも大いに関係しているとのこと。目黒区の広報ページの資料(「めぐろの文化財・みどりの散歩道」)によれば、
「目黒区が坂の多いまちだといわれるのは、起伏に富んだ特異な地形に関係がある。それは、台地と台地をきざんで流れる目黒川・立会川・呑川の浸食作用による地形の変化が、坂をつくってきた。
目黒川の浸食は、上流部では浅く、下流部では深い谷を作り、深いところでは台地面から20メートル以上もある。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
「呑川」、「立会川」に行かずばなるまい。で、地図を見ていると、呑川沿いに、池上本門寺とか足洗池とか、よく聞く場所もある。そうだ、「呑川」に行こう。京急蒲田から遡るルート、下流から上流へ。(月曜日, 8月 01, 2005のブログを修正)
京急蒲田駅
京急蒲田下車。ホーム入構直前に呑川が見えた。呑川遊歩道をJR蒲田方面へ。さすがに水は美しくは無い。遊歩道の掲示板に、旧呑川と新呑川のルート説明があった。
新呑川は京急蒲田から羽田空港、整備場北の方面に流れ込むが、旧呑川は北糀谷から大森南を経て、昭和島の辺りに流れ込む、とのこと。また、都営浅草線の工事による湧水も流し込んでおります、といったメッセージもあった。
新幹線と交差
新幹線をくぐったあたりから前方に小高い丘が見え始めた。荏原台の流れでもある、池上本門寺の丘である。標高は22m程度か。ただ最初に目に入ったのは十字架。近くに来てわかったのだが、この丘には住宅地もある。学校もある。そしてキリスト教会もある。お寺だけではないよう。
池上本門寺
緑道からはずれ、堂脇の階段を上る。110段あった。丘の上を歩き、五重塔、大堂などを散策。地形図によれば、ちょっとした外輪山のようなこの丘、盆地(?)を散歩。上がったり,下がったり。低地の弁天池をチェックして,道に迷いながら、三門に。三門脇に日蓮聖人像。説明書きには「もともとは星亨の像があったのだが、替わってもらった」と。東京市長もした明治の政治家、いろいろ毀誉褒貶のある政治家ではあるが。。。
井町線緑ヶ丘駅
高台から下を眺め、階段を降り、呑川緑道へ。右手前に小高い丘。環七が通っている「尾根道」といったところか。横須賀線・東海道新幹線との交差下をくぐり、池上線の石川台に向かう道は、ちょっとした谷道。両側に丘がせまる。で、昨日歩いた、大井町線緑ヶ丘駅近くの、呑川の開口部、暗渠から開放された流れのスタート地点に到着。
大岡山
昨日は、ここから「呑川本流緑道」を北へ都立大へと向かったが、今日は右に折れ、東工大のある大岡山に。坂を上り、駅前に。
洗足池
ここからは本日の最終目的地の洗足池に下りていく。丘に囲まれた低地、千束の谷にある洗足池には地形図を頼りに下りていく(少々オーバー?)。池に続く、いかにも湧水ルートっぽい流れを見つけ、ちょっと北に戻る。すぐに暗渠となり、あきらめたのだが、この先、池上線を越えて北千束1丁目まで行けば、洗足池に流れる遊水地、清水窪湧水があったようだ。千束の谷の最奥にあるこの窪地は、崖からは豊富なが湧き出て、「清水窪」と呼ばれた、とのこと。
気になることがある。地名が「千束(せんぞく)なのに、なぜ「洗足(せんぞく)」?
中世からのこの辺り一帯の地名は「荏原郡千束郷」。千束分の稲が貢祖から免ぜられていたところから名付けられたというのが定説。その、「千束」が「洗足」となったのは、日蓮上人が池上に向かう途中、ここの大池で足を洗ったと、いう伝説によるもの。この伝説とともに、広く流布し、いつのころからか、「千束の大池」が「洗足池」と呼ばれるようになった、という。
池上線の旗の台駅
洗足池からは、複雑な丘陵、中原街道を環七に登る地形のうねり、北から中原街道に交差する環七方面の尾根道、といった地形をイメージしながら中原街道を通り、池上線の旗の台駅に到着。駅近くに立会川児童公園の標識。思いがけなく「立会川」が現れた、学芸大学でみた「立会川緑道」に続くのだろう。ちなみに、「立会川」の名称の由来。諸説あるようだが、源平合戦の際に、源氏軍が平氏との「戦い・立ち会い」に備えて陣を築いたことによる、との説も。ついでに、駅名旗の台の由来。これもいくつかあるようだが、源義家が奥州征伐の際に源氏の白旗を立たため、といった説もあるようだ。本日の予定は旗の台で予定終了。
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