金曜日, 1月 30, 2009

鎌倉街道山ノ道 そのⅡ:秋川筋から青梅筋に



鎌倉街道山ノ道、別名秩父道散歩の第二回。第一回の高尾から秋川までの散歩に続き、今回は秋川筋からふたつの峠を越えて青梅筋に進む。途中峠をふたつ越え、最後は多摩川に沿って軍畑まで、およそ13キロ程度といった散歩を楽しむことにする。

本日のルート;JR武蔵増戸駅>平井本宿>平井川・西平井橋>平井川・玉の内橋>玉の内川・車地蔵橋>二つ塚峠>馬引沢峠>吉野街道・明治橋>梅ヶ谷峠入口>山谷橋・町谷橋>吉野梅郷・梅観通り>即清寺>草思堂通り>吉川英治記念館.JR軍畑駅

JR五日市線武蔵増戸駅
中央線で立川を経由しJR五日市線武蔵増戸駅に。まことにつつましい駅舎。駅を出て西に向かい車道に出る。JR五日市線の踏み切りを渡り、最初の交差点が森ノ下交差点。秩父道はここから車道を離れ、左斜めに続く小径となる。民家と畑に挟まれた、どうということのない道ではある。古道といった趣があるわけで な、ない。道なりに進むと先ほどの車道に合流。先に進むと、ほどなく「平井本宿」の案内が。

平井川
平井本宿は文字通り、昔、宿場町であったところ。とはいうものの、道路脇の街並にとりたてて昔の名残といったものは感じられない。平井本宿の信号を越えた辺りから、道は左にカーブし下りとなる。平井川の川筋へと下ってゆくわけだ。坂を下り切ったところが西平井交差点。西平井橋がかかる。
平井川は日の出町と青梅の境にある日の出山に源を発し、日の出町、あきるの市を東流し、あきる野市と福生市の境で多摩川に合流する。そういえば先日御岳山から日の出山を経てつるつる温泉に下ったことがある。つるつる温泉でひと風呂浴びた後バスで武蔵五日市駅まで戻ったが、その道筋に沿って流れていたのが平井川であった。
この平井川筋って、なんとなく気になる。川に沿って神社やお寺が点在する。この西平井交差点から少し西にいったところにある新井薬師は鎌倉期のもの。その横の山麓にある白山神社も結構な規模。本殿までは相当の山道を上らなければならなかった。また、この交差点から少し東にある東光院の妙見宮。これも、本殿のある丘陵上まで長い階段を上らなければならない。
秩父平氏の祖平良文が中興の祖とされるこの妙見様には畠山重忠にまつわる話も残る。北条の謀略により二俣川にて討ち死にした重忠は、その道の途中、この平井の地で突然の光の洗礼。それは、二俣川行きを留めようとする平井の妙見様のサインであった、とか。また、東光院より少し東の尾崎観音様は頼朝ゆかりの寺とも言う。ともあれ、そのうちにこの平井川筋の時空散歩もまとめておこう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


地蔵堂
西平井交差点から平井川に沿って北に進む。ほどなく玉の内橋。このあたりで平井川に玉の内川が合流する。秩父道はこの玉の内川に沿って北に進むことになる。玉の内橋を渡り、北に向かい消防の火の見櫓などを見やりながら川に沿って北に上る。沿道左には「これより花菖蒲の里」といった案内もある。ゆったりとした穏やかな田舎の風景が続く。
「花菖蒲園」らしきものを左手に見ながら進むと地蔵堂のある辻に出る。このあたりが玉の内集落。秩父道は本来、この辻を直進し馬引沢峠に直登した、と言う。しかし現在この道は辻を少し進んだところにある秋川街道下のトンネル入口で行き止まりになっている。秋川街道の西に広がる砂利砕石工場や廃棄物処理場所などの工事のため道が切れてしまったのだろう。

二つ塚峠
地蔵堂の辻を右に折れ二ツ 塚川に沿った迂回路を進む。静かな山道を進むとその先に砕石工場。またその先は木立の中を上り道。ほどなく道は秋川街道に出る。合流点あたりに二つ塚峠への上り口がある。
上 り口は雑草が生い茂りちょっと見つけにくい。また、ブッシュ道嫌いの我が身としては少々躊躇する。が、このブッシュはすぐ終わり、木々の中を進む道となる。道の左側は廃棄物処理場のフェンス。下に処分場が開ける。ガレ場の道を上るとそこは二つ塚峠。標高358m。峠には塚らしきもの。二つ塚の由来となるものだろう。塚のあたりに案内;不治の病の母が生きながら山に埋められる事を願う。それを悲しんだ親思いの娘は、母とともに生きて埋められる事を村人に願う。村人は母娘を偲び塚を供養した、と。

馬引沢峠
二つ塚峠から馬引沢峠に向かう。尾根道はしっかりしている。ほどよいアップダウンを繰り返す尾根道を進むとほどなく峠に。標高340m。南はフェンスが張られ、少々味気ない。フェンスの下の処分場のため南の木々は開かれており。寂しい峠、といった雰囲気はない。
馬引沢峠の名前の由来は畠山重忠から。峠道を愛馬をいたわり馬を下りて引いていった、という故事による。そういえば、先日歩いた世田谷の駒沢って、もともとは駒引き沢、から。上馬は上馬引き沢>上馬、下馬引き沢>下馬、と。もっともこの地で馬を引くように命じたのは重忠ではなく、頼朝であった、かと。

吉野街道
峠を青梅筋に向かって下る。峠近くは一瞬簡易舗装。それもすぐに終わり、山道を馬引川に沿って下る。川といっても沢筋といったもの。北面の日当りのよくない道を下ってゆくと川側に八幡様。八幡様を過ぎ、川沿いに進むとればすぐに吉野街道・清水橋に出る。場所は畑中と和田町の境。秩父道はしばらくこの吉野街道に沿って進む。

梅ケ谷峠入口

道を少し進むと地蔵堂が。赤い帽子とエプロンをした子育て地蔵の姿はなかなか、よい。先に進み和田2丁目交差点に。和田橋への分岐となっているこの交差点の南面にこじんまりとした稲荷神社。吉野街道はここでT字路となっている。
交差点の名前は梅ヶ谷峠入口。梅ケ峠を越えて秋川筋に抜ける道である。この道も秩父道の道筋である。馬引沢峠より後にできた、とか。青梅・二俣尾の辛垣城に籠る三田氏を攻めるために滝山城主の北条氏照がこの峠を越えた。また、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城を攻略するため上杉景勝が進んだのも梅ヶ谷峠であった、とか。
ついでに、三田氏の居城・辛垣城であるが、いつだったか、青梅から結構なアップダ

ウンの尾根筋を進みこの辛垣城まで歩いたことがある。城、といってもなにがあるわけでもない。江戸時代以降に石灰の採掘のため、遺構が相当削り取られている、とも言う。見る人が見れば土塁だの、郭だのが見て取れるのだろうが、門外漢の者には、城跡と言われなければ、ただの山、といったものではあった。

吉野梅郷
峠入口の交差点からほどなく、町谷川にかかる町谷橋に。橋を越えると梅の里。地名も梅郷と言う。先に進むと吉野川の手前の信号から左に折れる道。観梅通りと呼ばれるこ
の道は秩父道の道筋である。少しに進むと右に折れ、吉野街道にそって進むことになる。
吉野の梅郷とは言うものの、本来、吉野といえば桜である。この地も、もともとは桜の名所を目指した、と。明治の頃である。が、桜はうまく根付かず、結局はこの地に育っていた梅をもとにこの地を梅の名所とすべく大量に植樹した、と。青梅・金剛寺に伝わる平将門の梅の木の話をまつまでもなく、昔からここは梅の郷であった、よう。
道の左には「梅の公園」。いつだったか、会社の同僚と梅を愛でるために来た事がある。山の側面が梅の花で埋まる様は、とは言いたいのだが、梅見には少々早く、つぼみといった案配ではあった。
道を進むと下山八幡神社。11世紀中頃の創建と伝えられる古社。梅郷の鎮守さま。八幡様を過ぎると道はT字路にぶつかる。右に折れ吉野街道に戻る。

草思堂
街道を少し西進し、川を渡るとすぐに即清寺。9世紀末の創建。鎌倉期には頼朝の命をうけ畠山重忠が再興した、と。即清寺を越え、吉野街道からひとすじ山際にはいったところに通る草思堂通りを進む。草思堂は作家・吉川英治ゆかりの建物。第二次世界大戦末期の昭和19年から戦後の昭和28年までこの屋敷に住んでいた。『新平家物語』、『宮本武蔵』、『鳴門秘帳』などが有名。

愛宕神社
先に進むと道の左手に愛宕神社。平将門の子孫と称する三田氏の辛垣城を護る社

であった、とか。長い石段を上りお参り。ここからの見晴らしは気持ちよい。青梅の谷筋、辛垣城のある山の稜線などの眺めが楽しめる。本殿脇には奥の院へ続く山道。
いつだったか、御岳山から日の出山を経て、この愛宕神社へと下ったことがある。下りの途中に奥の院があったが、相当荒れていた。ちなみに、この山道はハイキングコースとなっているが、愛宕神社から日の出山への上りは相当厳しそう。日の出山からの下りの途中で外国人のハイカーに出会ったが、相当消耗していた。

軍畑大橋
愛宕神社を離れ吉野街道に戻り、先に進む。軍畑大橋南交差点で右折し軍畑大橋に出る。軍畑は、「いくさばた」と読む。秩父道はここの軍畑の渡しを渡ったり、水量が少ないときは丸太橋を利用した、とか。

軍畑は名前の通り、合戦が行われたところ。鎌倉時代中期の13世紀の中頃から、この奥多摩渓谷(三田谷)を支配してきた三田氏と小田原北条氏の合戦の地。三田氏の居城はJR東青梅駅の北にある勝沼城。この軍畑の北の山に北条なのか、武田なのか、何れにしても侵攻への備えのため支城として辛垣城を築く。永禄6年(1563年)、滝山城の北条氏照が梅ヶ谷峠を越え侵攻し多摩川南岸に布陣。軍畑大橋のあたりと言われる。迎え討つのは三田弾正忠綱秀。両軍激しい合戦の末、三田氏の敗北。辛垣城は落城し、三田弾正忠綱秀は岩槻城に太田氏を頼って逃れる。が、結局その地で自害し、名門三田氏は滅亡した、と。綱秀の残した「からかいの 南の山の 玉手箱 開けてくやしき 我が身なりけり」という歌はよく知られる。
橋を渡ればJR軍畑駅はすぐ近く。橋を渡ったところにある青梅街道の交差点脇から、少々きつい勾配の坂。眼下の多摩川筋などの眺めを楽しみながら坂を上りきり、無人の駅舎に到着し本日の予定終了。


鎌倉街道山ノ道 そのⅠ:高尾から秋川筋に

鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで 歩くことにした。高尾からはじめ秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠を越えて秩父に入る。それぞれ15キロ程度。4回に分ければ秩父に到着する。思ったよりも秩父は近い。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回歩く鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。高尾から北は、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かう。高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。
鎌倉街道山ノ道を歩こうと思ったきっかけは至極単純。鎌倉武士の鑑と呼ばれた、畠山重忠が館のある秩父からこの道を鎌倉に向かって往還した、という。妻と別れを惜しんだ妻坂峠など重忠が見た峠の風景を自分も体験しよう、と思ったわけである。さて、散歩に出かける。本日は16キロ程度だろう。

本日のルート;JR鷹尾駅>高尾街道>廿里の坂>城山大橋交差点>中央高速と交差>心源院>川原宿>モリアオガエルの道>圏央道交差>美山トンネル>山入川・美山橋>戸沢峠>秋川街道>川口川・重忠橋>駒繋石峠>山田大橋南詰め>秋川・網代橋>JR五日市線武蔵増戸駅

JR中央線高尾駅

JR中央線高尾駅で下車。駅前を進み甲州街道を渡り、そのまま北に進む。この道は高尾街道と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り滝山街道戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中に「廿里(とどり)古戦場の碑」。北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点?・滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦、ゆえ。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

梶原八幡
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先も上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、鎌倉街道は高尾街道を離れ、三叉路を北西方向に進む道筋となる。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。
どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。

八王子城山入口
神社をはなれ、道を進むと中央高速と交差。その先の三叉路は八王子城山入口交差点。城跡は三叉路を西に1キロほど進むことになる。八王子城は北条氏の戦略拠点。北条氏照が築城。小仏筋からの武田軍に備えた。この城の落城は秀吉の小田原攻めの時。関東の北条方の城は無血開城、といったものが多いのに、この城だけは徹底的に潰されている。埼玉県寄居にある鉢形城攻めでの「軟弱」な対応を秀吉から叱責された攻城軍が、この城を「皆殺し」にすることにより、忠誠の証とした。一日の攻防で落城した、という。このお城には幾度も訪れているので今回はパス。道を急ぐ。

心源院

坂を上る。左右に霊園。誠に広い。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進むと小 田野トンネルを抜け、川原宿交差点で陣場街道にあたるのだが、鎌倉街道は上り手前から分岐する小径に向かう。
交差点脇に休憩所といったものがある。これが目印。そこを左に折れて進む。のどかな田舎道。高尾を出てはじめて、古道といった道になる。緑の中をゆったり進む。ゆるやかな坂を上り、そして下ると左手に見える分岐路に大きな石の柱。心源院はその奥にある。
心源院は武田信玄の娘・松姫ゆかりのお寺。もともとはこの地に勢力を誇った大石定久が開いたた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと滝山城を北条氏照に譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。とはいうものの、この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。
で、松姫。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れてくる。悲劇の姫として気になる存在である。
7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。1572年。武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。1573年信玄、没する。兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、1582年、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。


1582年、武田勝頼、天目山で自害。武田滅亡。武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠、松姫を救わんと迎えの使者を派遣。が、本能寺の変。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。
1590年、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出しながら心源院を離れる。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


川原宿
道を少し進み北浅川に架かる深沢橋を渡ると陣場街道に出る。西に折れ川原宿交差点に。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人がr利用したと言う。

モリアオガエルの道
川原宿の交差点をしばらく進むと道は右手に曲がる。鎌倉街道はこのカーブがはじまるあたりで左に分岐する。分岐点にはお地蔵様。道の西は小高い山。東側は民家と畑。山に沿ってS字に続く道を進むと三叉路に当たる。真ん中に塚。桜の木と庚申塔や石碑がある。
交差点を西に走る道は小津道と呼ばれていた。現在は「モリアオガエルの道」と呼ばれる。鎌倉街道は本来、この小津道を少し西に進み、それから北に折れ山に入り、美山町荻園へと進んでいた、よう。残念ながら現在はそのルートは圏央道が通り古道は消滅している。仕方なく三叉路から東に折れ、川原宿から続く一度車道に出る。

美山こ道橋・圏央道
交差点を北に進むと小津川に架かる桜木橋。前方に丘稜が迫る。丘陵手前で圏央道を渡る。橋の名前は「美山こ道橋」。鎌倉古道を跨がっているから、であろう。圏央道を渡ると美山トンネル。トンネル内の側道を少々怖い思いをしながら進み丘陵を抜けると美山橋。山入川に架かる。この美山地区は昔、「山入り」と呼ばれていた。昔の秩父道は美山橋の下流、圏央道が山入川にかかる辺りにある荻園橋のあたりから、川筋に沿って進んできたのであろう、か。

戸沢峠
川を渡り先に進むと美山小東交差点。ここを先に進むと戸沢峠に進む。ゆったりとした勾配の坂道。峠も標高250m程。峠からの坂道を下り切ったところに上川橋。川口川に架かる。戸沢峠は美山小東交差点から上川橋まで、おおよそ2キロ程度。陣場街道の谷筋と秋川街道の谷筋を結ぶ峠道。武蔵名所図会には「戸沢嶺」と記載されているので、古い歴史をもつ峠道であろう。ちなみに、峠って、日本で造られた造語。「山と上と下」を重ね合わせてた誠に巧みな造語である。峠の語源は、たるんだ地形を表す「たわむ」を越える「たわごえ」が転化したもの、とか、往還の安全を感謝した「たむけ」が転化したとか、例によって諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

秋川街道
上川橋を渡ればそこは秋川街道。本来の秩父道は、坂道の途中から戸沢集落へと入る小径であった、よう。道筋には馬頭観音などもあり、それなりの趣があったのだろうが、今回は見逃してしまった。
秋川街道は八王子で甲州街道から別れ、秋川筋の五日市に通る道。八王子道とも川口街道とも呼ばれる。ほぼ川口川に沿って走っている。川の中流域の広い範囲に川口町があるが、それが川の名前の由来だろう、か。

重忠橋

秋川街道を西に進む。ほどなく上川霊園入口交差点。秩父道はこのT字路を北に折れる。道はすぐに川口川と交差。重忠橋がかかる。橋の近くに田守神社があるが、この神社には畠山重忠の伝説が残る。失った守り本尊がこのあたりで見つかり、ためにこの神社を祀った、と。とはいうものの、田守神社って各地に残る。田舎の愛媛県新居浜には、田守神社だけでなく土守神社も残る。どうも、重忠の「守り」本尊と、田「守」を結びつけるのはちょっと無理があるか、とは思いながらも、伝説は伝説として残せばいいのか、とも。
畠山重忠は鎌倉時代の代表的武人。もとは、桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の一党。ために、頼朝挙兵の時は平氏方。後に頼朝方に参陣し武勲をたて、鎌倉武士の鑑として尊敬される。頼朝の死後、北条時政の謀略により二俣川で自刃して果てる。相鉄線鶴ヶ峰駅近くに自刃の地を訪ねた散歩を思い出す。

駒繋石峠・御前石峠
重忠橋を越え、秋川丘陵へと坂を上る。上川霊園前を過ぎると上川トンネル。秩父道はこのトンネルの手前の側道を峠に向かって上ることになる。上り切ったT字路が峠。この峠は駒繋峠とも御前石峠とも呼ばれる。秩父道はこの峠で秋川丘陵の尾根道を東から西に通ってきた古甲州街道と合流する。
峠を西に向かう。しばらく秩父道と古甲州街道が重なって進む。道の北側は金網のフェンス。フェンス下は大きく切り開かれており、排水処理センターとなっている。S字に曲がった道を少し上ったところに駒繋石(御前石、とも)。畠山重忠が馬を繋いだとの話が残る。道から少し入ったことろにあり、最初は見落としてしまった。また、繋いだとの穴が思いのほか小さく、何回も確認しなければならなかった。駒繋峠はこの三角錐の形をした石からきたものであることは、言うまでもない。
この駒繋峠は畠山重忠だけでなく、幾多の戦国武将が往還した。北条氏照は青梅筋・軍畑(いくさばた)の辛垣城を攻略するときこの峠を進む。秀吉の小田原攻めのときは、上杉景勝はこの峠を越えて八王子城に攻め込んだ、と言う。

山田大橋の南詰
道なりに峠道を下る。道の西にはゴルフ場が広がる。更に進み、道の東にも現れるゴルフ場を眺めながら坂を下ると車道に出る。そこは上川トンネルに続く網代トンネルの出口となっていた。この道を進むと秋川に架かる山田大橋。橋の上から秋川の美しい眺めをしばし楽しむ。秩父道はこの山田橋南詰めからS字に曲がる坂を下り、山田大橋の下あたりから秋川を渡った、と言う。S字カーブの途中にある民家の前の路地を進む。ここからはちょっとの間、旧甲州街道の道筋を進む。民家の先は緑の木立の中を進む道。少し進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。ここからの眺めも美しい。
弁天橋を渡ると道脇に諏訪神社と禅昌寺。ちょっとお参りし、道なりに進み旅館網代のあたりに三叉路。そこを右に折れ、秋川に向かって坂を下ると網代橋。網代は木や竹で編んだ河川の漁具。このあたりは川魚の漁が盛んに行われていたのであろう。

JR五日市線武蔵増戸駅



秋川を渡り、車道に出る。山田大橋から進んできた車道を北に進むと五日市街道。五日市街道と呼ばれるようになったのは近世末期から近代になってから。それ以前は「伊奈道」と呼ばれていた。このあたりの地名は伊奈と呼ばれるが、ここでは伊奈石が採れた。平安末期には信州伊那谷の高遠から石工が集まっていた、と言う。で、江戸城築城に際し、この伊奈の石材を江戸に運ぶために整備された道が「伊奈道」である。伊奈道が五日市街道となったのは、伊奈に替わって五日市に焦点が移った、ため。木材の集積の中心として五日市が伊奈にとって替わった。ために、道筋も五日市まで延ばされ、名称も五日市街道になった、という。(『五日市市の古道と地名;五日市市郷土館』)
山田交差点を越えるとJR五日市線の武蔵増戸の駅はすぐそば。増戸って、江戸時代に石工の往来が盛んであり、それを「増」で表した、と言う説もあるが、そもそも増戸村ができたのは明治になってから。伊奈村、網代村などが合併した時に命名。とすれば、「合併した村の戸数が増す=発展する」ように、ということで命名されたようにも思える。我流解釈であり、真偽の程貞必ず。ともあれ、秩父道の第一ラウンドはこれで終了。




会津若松を歩く

飯盛山から鶴ケ城に
会津若松の大学に行く事に成った。アポイントは金曜日。どうせのことなら、ということで一泊し、会津若松を歩く。今までに何度か通り過ぎたことはあったのだが、市内見物ははじめて。飯盛山とか鶴ヶ城とか、戊辰戦争の旧跡を訪ねる事にする。
土曜の午前10時前、ホテルをチェックアウト。荷物を預け、駅の観光案内所に。地図を手に入れ、ルート検討。駅から東2キロ弱のところに飯盛山。そこから南に2キロほどのところに西軍砲陣跡のマーク。お城を見下ろす小山にあるのだろう。そして、その西、1キロ強のところに鶴ヶ城。で、それから街中の旧跡を巡り北へと駅に戻る。会津若松の市街をぐるっと一周するといったルート。15キロ弱といったところ。これなら午後3時4分発の列車に乗れそう。ウォーキンング仕様とはいうものの、足元はビジネスシューズ。ぬかるみの道などないようにと祈りながら、散歩に出かける。


本日のルート;JR磐梯西線・会津若松駅>飯盛山>白虎隊自刃の地>郡上藩凌霜隊之碑>宇賀神社>さざえ堂>厳島神社>戸ノ口堰洞窟>滝沢本陣跡>白河街道>戸ノ口堰>近藤勇の墓>会津武家屋敷>湯川・黒川>西軍砲陣跡>会津若松城>茶室麟閣>JR会津若松駅

JR磐梯西線・会津若松駅
駅から飯盛山に向かう。道は東にほぼ一直線。白虎通りと呼ばれている。歩きながら、なんともいえない、捉えどころのない「広がり感」が気になる。会津盆地という地形からくるのだろう、か。実際、グーグルマップの航空写真モードでチェックすると、猪苗代湖の西に周囲を緑に囲まれた盆地がぽっかりと広がる。北は喜多方方面まで含む大きな盆地である。
が、なんとなく感じる「広がり感」は、どうもそういったものでもない。広がり感と言うよりも、収斂感の無さ、といったほうが正確かもしれない。広い平地の中に、広い道路が真っすぐ走る。建物もそれほど高いものは無く、また、古い街並といった趣もそれほど、無い。会津戦争で市街地が壊滅したからなのだろう、か。また、敗戦後、青森の斗南藩に移封され、市街地の迅速な回復がなされなかったから、なのだろうか。勝手に想像するだけで、何の根拠があるわけではないのだが、今まであまり感じた事のなかった街のフラット感が至極気になった。

飯盛山

駅から1キロ強進み、会津大学短期大学部を過ぎる辺りになると前方に小高い山。背面もすべて山ではあるが、その山の中腹に建物らしきものも見える。こんもりとした小山。飯盛山の名前の由来は、お椀にご飯を盛ったような形から、と言う説もあるので、多分、飯盛山であろう。さらに近づくと、石段が続く。間違いなし。標高300m強の山である。
石段を上る。両側にお店。如何にも年期のはいった雰囲気。朝から何も食べていないので、何か口に入れたいのだが、ちょっとご遠慮差し上げたい店構え、ではある。
石段を上ったところは広場になっている。正面左手の奥には白虎隊の隊士のお墓。その手前には、会津藩殉難烈婦の碑。会津戦争で自刃、またはなくなった婦女子200余名をとむらうもの。山川健次郎さんなどが中心になり建てられた。山川氏は東大総長などを歴任。兄の山川大蔵(浩)ともども魅力的人物。山川大蔵(浩)は如何にも格好いい。『獅子の棲む国:秋山香乃(文芸社)』に詳しい。
お参りをすませ広場右手に。なんとなく不釣り合いなモニュメント。ローマ神殿の柱のよう。イタリア大使からの贈り物。その手前にはドイツ大使からの記念碑。どちらも戦前のもの。第二次大戦前の日独伊三国同盟の絡みではあろう。戦意高揚、というか、尚武の心の涵養には白虎隊精神が有難かったのであろう、か。ちなみに、ローマの円柱に刻まれた文字は、終戦後、占領軍によって削除されたが、現在は修復されている。


白虎隊自刃の地
広場からの見晴らしは、正面である西方向と北側は木々が邪魔し、それほどよくない。一方、南方向は開けており、会津の街並が見渡せる。開けている方向に進むと「白虎隊自刃の地」への案内。崖一面に墓石が広がる。石段を少しおりて進むと、すぐに「白虎隊自刃の地」。この地で炎上する鶴ヶ城を目にし、もはやこれまでと自刃した、と。お城の緑、そしてその中に天守閣が見える。とはいうものの、直線距離で2キロ弱。市街地の炎上・黒煙をお城の炎上と見間違えてもおかしくはない。
ところでこの自刃の地であるが、想像とは少し違っていた。世に伝わる「白虎隊自刃の図」では、松の繁る崖端が描かれており、墓など何もない。墓地の真ん中とは予想外である。墓石を見ても結構古そうではあるので、それ以前からお墓があったようにも思うのだが、明治以降に墓地となったのだろう、か。何となくしっくりしない。

郡上藩凌霜隊之碑

しばらく眼下の街並を眺め、元の広場へと戻る。途中に、飯沼貞夫氏のお墓。白虎隊ただ一人の生き残り。白虎隊のことはこの飯沼さんの証言により世に知られるようになった。更に進むと道端に「郡上藩凌霜隊之碑」。時勢に抗い新政府軍と戦った人物として上総請西藩主林忠崇、井庭八郎などが記憶に残っていたが、郡上藩と会津藩の関わりは忘れてしまっていたようだ。『遊撃隊始末;中村彰彦(文春文庫)』など読み直してみよう。
で、郡上藩凌霜隊についてチェックする。と、時代に翻弄された幕末小藩の姿が現れた。郡上藩青山家は徳川恩顧の大名。とはいうものの、官軍か佐幕か、どちらにつけばいいものやら趨勢定かならず。ために、表向きは新政府に忠誠を尽くすそぶりをしながら、江戸詰めの藩士を脱藩させ会津に派遣。それが、凌霜隊。万が一の保険のためである。が、結局は新政府の勝利。 凌霜隊は郡上藩から見捨てられた。投獄の後解き放たれた隊士は、その冷たい仕打ちに嫌気をさし、郡上に残る事はなかった、と。

宇賀神社
石段脇の「女坂」を下る。如何にも風雪に耐えてきた、といった土産物店。石段脇に並んでいた土産物屋もそうだが、この飯盛山って、それほど観光客が来ないのだろうか。なんとなく、儲かってそうに、ない。
土産物屋の前に宇賀神社。17世紀の中頃の元禄期、会津藩3代目藩主松平正容公が弁財天像と共に、五穀の神、宇賀神をも奉納。宇賀神は中世以来の民間信仰の神様。神名は日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)から。
で、宇迦之御魂神(うかのみたま)って、お稲荷さまのこと。五穀豊穣を祈るこの民間信仰が仏教の教義に組み込まれる。仏教を民間に普及する戦略でもあったのだろう。結果、仏教の神である弁財天に習合し宇賀弁財天と。飯盛山は元々は弁天山とも呼ばれていた。神仏習合の修験の地でもあったのだろう。宇賀神社がおまつりされている所以など大いに納得。

さざえ堂

土産物屋の横にさざえ堂。確かに栄螺(さざえ)のような形をしている。内部は螺旋の 階段がある,と言う。いつかテレビでも紹介されていたし、なによりもチケット売り場のおばさんの口上に急かされ少々のお金を払い木製の螺旋階段を上る。上りが、あら不思議、いつの間にか下りとなる、との宣伝文句。果たして、と先に進む。ほどなく最上部。そこには下りに導くリードがある。いつの間にか、という感じではないけれど、下りは上りとは別の螺旋階段となっていた。
このさざえ堂は、さきほどの宇賀神などとともに神仏習合のお堂であった、とか。観音様が祀られていたが、明治の廃仏毀釈で仏様を取り除いた、という。現在は、国の重要文化財とのことではあるが、建物を護るトタン板ならぬビニールの覆いが少々興ざめではある。

厳島神社

さざえ堂の下に厳島神社。厳島=水の神様、と言われるように周囲に豊かな用水が流れる。厳島神社となったのは明治から。そもそも「神社」という呼称が使われ始めたのは神仏分離令ができた明治になってから。この厳島神社もそれ以前は宗像社と呼ばれていた。祭神は宗像三女神のひとり、市杵島姫命。杵島姫命は神仏習合で弁財天に習合。先ほどの宇賀神共々、弁天様のオンパレード。ここまで弁天が集まれば、飯盛山が弁天山と呼ばれていたことに全く違和感はない。
社殿が建てられたのは14世紀後半、蘆名義盛公の頃。その後、会津藩主松平正容公が神像と土地を寄進。この地を飯森山と呼び始めたもの、その頃のようである。

戸ノ口堰洞窟

厳島神社脇を流れる水路を辿ると、岩山の崖下に掘られた洞窟から水が流れ出していた。これは戸ノ口堰(用水)。今から400年前、17世紀前半の元和年間に猪苗代湖の水を引くため用水を起工し17世紀後半の元禄期まで工事が続けられた。飯盛山の西、7キロのところにある戸ノ口から水を引き、会津若松までの通水を計画。ために戸ノ口堰と呼ばれる。猪苗代湖の水面の標高は500mほど。この会津若松の標高は180mほど。間には山地が連なる。水路は山間を縫い、沢を越え、うねりながら、延々と30キロ以上も続き飯盛山のこの洞窟に至る。
この用水は、もともとは飯盛山の山裾を通していた、が、土砂崩れなどもあり、飯盛山の山腹を150mほど穴をあけることになる。使用人夫5万5千人、3年の歳月を費やして完成。これが戸ノ口堰洞窟である。
で、この洞窟、白虎隊が戸ノ口原での合戦に破れ、お城に引き返すときに敵の追撃を逃れるために通り抜けてきた、と言う。二本松城を落とし、母成峠の会津軍防御ラインを突破し、猪苗代城を攻略し、会津の城下に向けて殺到する新政府軍。猪苗代湖から流れ出す唯一の川である日橋川、その橋に架かる十六橋を落とし防御線を確保しようとする会津軍。が、新政府軍のスピードに間に合わず、防御ラインを日橋川西岸の戸ノ口原に設ける。援軍要請するも、城下には老人と子どもだけ。ということで、白虎隊が戸ノ口原に派遣されたわけではあるが、武運つたなく、ということで、このお山に逃れてきた、ということである。

滝沢本陣跡

飯盛山を下り、飯盛山通りを少し北に滝沢交差点。あと1キロ強行けば大塚山古墳。4世紀後半の大和朝廷と関係の深い人物を祀るということで、ちょっと興味はあるのだが、なにせ時間がない。今回はパスして旧滝沢本陣に向かう。
滝沢交差点からほんの少し山側に歩くと滝沢本陣跡。茅葺き屋根の趣のある建物。家の前を西に滝沢峠に向かって続く道があるが、これが白河街道。会津と白河を結ぶ主街道。ために、参勤交代とか、領内巡視の折など、ちょっと休憩するためにこの本陣が設けられた。
会津戦争の時は戸ノ口の合戦で奮闘する兵士を激励するために藩主・松平容保がここを本陣とする。で、護衛の任にあたったのが白虎隊。戸ノ口原の合戦への援軍要請に勇躍出撃したのはこの本陣からである。

白河街道

山に向かって車道を進む。地図と見ると滝沢峠に続く古道がある。これって会津と白河を結ぶ白河街道。白虎隊もこの道を進み、滝沢峠を越え、戸ノ口原の合戦の地に出向いた、と言う。時間がないので峠まで行くことは出来ないが、古道の入口あたりまで行くことにする。
車道が大きく迂回するところを、そのまま山方向に向かって小径を進む。なんとなく成り行きで進み、小さな川に当たるところから如何にも峠道といった雰囲気の道筋がある。道脇に「旧滝沢峠(白河街道)」の案内があった。
白河街道は、もともとはこの道筋ではない。もう少し南、会津の奥座敷などと呼ばれている東山温泉のあたりから背あぶり山を経て猪苗代湖方面に抜けていた。15世紀の中頃、当時の会津領主である蘆名盛氏がひらいたもの。豊臣秀吉の会津下向の時も、また秀吉により会津藩主に命じられた蒲生氏郷が会津に入る時通ったのは、こちらの道筋。
滝沢峠の道が開かれたのは17世紀の前半。1627年に会津入府した加藤嘉明は急峻な背あぶり山を嫌い、滝沢峠の道を開き、それを白河街道とした、と言う。加藤嘉明は伊予の松山から移ってきた。愛媛出身の我が身としては、なんとなく身近に感じる。

戸ノ口堰
峠に進む上り道をしばらく眺め、歩いてみたいとは思うのだが、何せ戸ノ口原までは7キロほどあるようだし、ちょっと無理だろう、などと自問自答し、元に戻ることに。少々心残り。道の途中、先ほど交差した川、これってひょっとすると戸ノ口堰、というか戸ノ口用水の水路ではなかろう、か。この流れが飯盛山の山腹に進み、戸ノ口堰洞窟へとながれこむのであろう。入口まで歩いてみたいとは思うのだが、時間が心配でパス。これも少々心残り。次回会津に仕事で来たときに、この峠道のあたりを歩いてみよう。
ちなみに、このあたり、駅でもらった地図に「(滝沢)坂下」と書いてある。この地名をどう読むのか定かではないが、(会津)坂下という地名は「ばんげ」と読む。「バッケ」から来たらしい。「バッケ」って東京近郊での「ハケ」のこと。国分寺崖線にそって続く「ハケの道」で言うところの「崖下」である。確かにこのあたりも崖下に違い、ない。

近藤勇の墓

飯盛山通りに戻る。山裾の道を南に進む。市街より少し小高い道筋となっている。2キロ弱進むと大龍寺。門前の畑の柿の木に惹かれる。こういったのどかな風景に柿の木は、如何にも、いい。
大龍寺を越え、このあたりまで続く戸ノ口堰の流れと交差し、しばらくすると道ばたに「会津の歴史を訪ねる道」の案内。新撰組の近藤勇、会津藩家老である萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓がある。と言う。ちょっと山道を迂回することに。
アプローチは200段弱の愛宕神社の石段。少し気が思いのだが、それよりなにより、愛宕神社から続く山麓の道が心配である。ビジネスシューズが汚れない程度の山道であることを祈りながら、とりあえず進む。
愛宕神社でお参りをすませ、山道を進む。それほどのぬかるみは無く、ちょっと安心。ほどなく近藤勇の墓。宇都宮から会津に逃れ、会津藩主・松平容保に拝謁し、近藤の死を知った土方歳三がこのお墓をたてた、と。近藤勇のお墓って、散歩の時々に顔を表す。板橋の駅前にもあったし、三鷹の竜源寺にも祀られていた。
山麓の道から天寧寺裏手に下りる。途中、萱野権兵衛、そしてその息子である郡長正の墓の案内。萱野権兵衛は会津戦争の時に国老の主席として籠城戦を万端指揮した。降伏の際は、藩主・松平容保とともに、降伏文書に署名。戦後は、戦争責任をすべて引き受け、切腹を命じられた。まことに魅力的な人物。ちょっとお参りもしたいのだが、再び山麓に少し上っていく。 ぬかるみが気になり、今回は見送る。

会津武家屋敷
天寧寺の境内を抜け、飯盛山通りに戻る。少し進むと東山街道と交差。奴郎ケ前交差点を左に折れるとすぐに会津武家屋敷。なんとなく最近移築、建築したような。チェックすると家老西郷頼母の屋敷を中心に復元されたもの、と。
西郷頼母って藩主の京都守護職に反対し藩主の不興を買っている。また、戊辰戦争では白河口の戦線には参加するも、二本松口の母成峠が破られて以降は和議恭順のスタンスであり、徹底抗戦派に命を狙われていた、とか。ために会津を去り、榎本武揚、土方歳三と合流し函館で戦った。合気道をよくし、息子の四郎に技を伝授。「山嵐」という大技は、姿三四郎のモデルとなった、とか。
会津武家屋敷には今ひとつ気が乗らず立寄をパス。時間もなかったし、ないより入場料が850円というのは少々高い、かも。次の目的地、西軍砲陣跡に向かう。

湯川・黒川
東山街道を隔てて南西方向に小高い山が見える。多分その山の中腹に砲陣跡があるのだろう。地図でチェックすると、東山街道を少し南に進んだところから、その小山方向に進む小径がある。成り行きで行けばなんとかなるだろうと先に進む。
道脇にある鶴井筒という会津料理の店のところから東山街道を離れる。この鶴井筒、明治の創業という趣のある建築物であった。ともあれ、右に折れ、田舎道を進むと山の手前に川が流れる。この川は湯川。猪苗代湖の南西端の布引山が源流のこの川はもとは黒川と呼ばれていた。湯川は、近くの東山温泉に由来するのだろう。
会津若松は黒川(湯川)が会津盆地に流れ出し、阿賀川に合流するまでの扇状地に造られた。ために、往時この会津の地は黒川と呼ばれており、前述の蘆名氏が築いた城も黒川城と呼ばれていた。黒川が若松となったのは蒲生氏郷が移ってきてから。蒲生氏の生まれ故郷にあった「若松の杜」に由来する、と。ちなみに、会津の由来って、古事記によれば、神々が湿地帯(津)であったこの地で合流したから、とか、安曇族に由来するとか、例によって諸説あり。ちなみに、阿賀、吾妻、安積(あさか)、安達、といった地名は安曇族に由来する。
ついでのことながら、この地が会津若松市となったのは、昭和30年。それまでは若松市。明治32年に福島県で最初の市となった。

西軍砲陣跡
黒川に架かる橋を渡り、山裾の小径を進む。ほどなく、山裾から少し離れ、開けた田舎道を柿の木を眺めながら進む。道なりに進むと、再び山裾に接近。小山田公園への入口の案内。200m程度の小山である。木立の中、ゆるやかな坂道をのぼってゆく。途中、蘆名家壽山廟跡や観音堂跡といった案内がある。この山には蘆名氏の城であった小山田城がある。黒川城(会津若松城)が主城に移るまで、この地に館を構えていたのであろう、か。
少し進むと見晴らしのいい場所が現れる。そこに西軍砲陣跡。確かにお城が眼下に見渡せる。距離は1.5キロ程度。ここから砲弾を撃ち込むには、着弾地の調整も容易だし、会津方としては万事休す、であろう。
西軍砲陣跡しばしお城を眺め、下山。西軍砲陣跡から少し戻ったところに、「柴五郎の墓」の案内。会津人として最初の陸軍大将になった人物。なんとなく気にかかる軍人でもあるので、お参りのために脇道に入る。山道を足元を気にしながら少し下るとお墓があった。おまいりを済ませ墓石の中、山道を下る。成り行きで下り、恵倫寺の境内に出る。次の目的地はお城である。

会津若松城

恵倫寺を離れ、小田橋通りに出る。ちょっと北に湯川に架かる橋名から来ている。蘆名氏が最初に構えた館の名前が、小高木館とか小田垣館と呼ばれたようであるので、昔、この辺りは小田と呼ばれていたのだろう、か。
小田橋通りを越え、湯川に向かって成り行きで進む。地名は天神町。天神様でもあるのだろうと思っていると、川の近くにつつましい天神様があった。お参りを済ませ、湯川に架かる天神橋を渡ると鶴ヶ城南口。湯川というか黒川はお城を囲む外堀でもあったのだろう。
南口からお城を進む。土塁を抜け先に進むと大きな濠と立派な石垣が見えてきた。大きな構えのお城である。濠からの眺めを楽しみながら、壕と本丸を結ぶ廊下橋を渡る。石垣の間の道が直角に曲がっている。敵の進撃を防ぐためのものであろう。中世の山城では虎口と呼ばれていた、もの。
大きな石垣に沿って進む。弓矢の時代には攻めるのは大変であったろう。が、砲弾を打ち込まれては、どうにもならない。先ほど西軍砲陣を見ただけに、その思いは一層強い。
本丸には天守閣。お城は戊辰戦争で破壊され、現在の天守閣は昭和40年頃に再建されたもの。立派な天守閣ではあるが、時間もないので表から眺める、のみ。このお城、元々は蘆名氏により黒川城として造られた。その後、蒲生氏郷により本格的に普請される。天守閣もこの頃造られたようだ。大大名にふさわしい城下町も整備され、お城の名前も黒川城から鶴ケ城に。蒲生氏郷の幼名に由来する、と。蒲生氏の後は越後から上杉景勝が移る。120万石の大大名である。が、関ヶ原の合戦で西軍に与し合戦に敗れた上杉氏は30万石に減封され、山県の米沢に移る。
上杉に替わり蒲生氏が一時この地に移る。が、すぐに伊予の松山に移封され、替わりに伊予松山の藩主加藤嘉明が入封。で、加藤氏が改易された後にこの地に入ったのが名君の誉れ高い保科正之。家光の庶弟。出羽山形から移ってきた。保科から会津松平と名前は変わったが、明治維新まで藩主としてこの地を治める。戊辰戦争の時の松平容保公も保科の流れである。保科正之については『名君の碑;中村彰彦(文春文庫)』に詳しい。

茶室麟閣
本丸跡の広場をぶらぶら歩いていると趣のある建物があった。蒲生氏郷が千利休の子・少庵のために建てた茶室。千利休が秀吉の悋気に触れ、切腹を命じられたとき、氏郷が少庵をこの地に匿った、とか。戊辰戦争の後、移築されていたが、平成2年、ここに戻された。

JR会津若松駅


そろそろ列車の時間が迫ってきた。とっとと駅に向かう。本丸から北出丸を抜け、城を出る。北出丸大通りのお城近くに西郷頼母の屋敷跡。屋敷は先ほどの会津武家屋敷の地に移されているが、ここで母や妻子21名が自刃。合掌。
北出丸通りを北に進み、栄町あたりで適当に道を折れ、市役所近くを北に進み蒲生氏郷のお墓のある興徳寺に。つつましやかなお墓にお参りし、野口英世青春通りに進む。如何にも城下町の道といった直角に曲がる道を折れて野口英世青春通りを進む。野口英世が青春を過ごし、初恋の人に出合ったという場所などをさらっと眺め、西軍の戦死者をまつる西軍墓地をお参りし、駅に戻り、本日の予定終了。軽くメモするつもりが、結構長くなってしまった。歴史のある街をメモするのだから、仕方がない、か。 


甲州街道を歩く そのⅣ:笹子峠越え

笹子峠越え
1月の三連休の初日、思い立って笹子峠を越える事にした。折から北日本を中心に寒波襲来。雪が心配。誰に頼まれた訳でもないのだがら、酔狂に雪の中を歩くこともないのだが、何処と行って散歩するコースも思い浮かばなかったこともあり、家を出る。甲州道中の最大の難所という笹子峠、はたしていかなるものか。



本日のルート;JR笹子駅>追分>甲州道中への分岐>笹子峠自然遊歩道>矢立の杉>笹子隧道>笹子峠>甲州街道峠道分岐>清水橋>天狗橋>駒飼宿>中央高速と交差>JR甲斐大和駅

JR笹子駅
京王線で高尾駅。そこでJR中央線に乗り換えて笹子駅に。杉並の家を出てからおよそ2時間。家を出たのが午前10時過ぎであり、雪の残る駅舎を出たのは12時半前になっていた。本日のコースはほぼ15キロ強。標準時間は5時間半程度と言われる。日暮れが怖いので、ちょっと急がなければならない。
駅前 に甲州街道・国道20号線が走る。側道には雪が残り、滑ったり、足が埋まったり、と結構大変。道なりに進み、黒野田橋で笹子川を渡る。笹子川は笹子峠あたりに源流点をもち、大月あたりで桂川に合流する相模川水系の川。橋を渡ると普明禅院。門前に「黒野田の一里塚」の碑。塚はない。境内には芭蕉の句碑;「行くたびに いどころ変わる かたつむり」。

追分
道はゆるやかではあるが次第にコンスタントな上りとなる。再び笹子川を渡り、「笹子鉱泉」といった看板を眺めながら先に進むと追分の集落。昔はこの追分から小田原・沼津道に出る往還があった、とか。ウィキペディアによれば、追分のもともとの意味は、「牛を追い、分ける」から。そこから派生し街道の分岐点として使われるようになった、と。
道は次第次第に上りとなる。地形も山が両サイドから狭まり、谷戸の奥といった景観となってくる。笹子川の上流である黒野川の流れに導かれるその先が峠へのアプローチ地点となるにだろう。

甲州道中への分岐
狩屋野川が黒野川に合流するあたりで甲州街道は右に大きくカーブする。甲州道中はここで甲州街道・国道20号線と分かれ県道212号日影笹子線となる。ここまで笹子駅から2キロ強。時間は午後1時近くになっていた。
分岐点には「矢立の杉」の幟。ここから4キロ程度といった案内がある。笹子峠への案内もあるのだが、道がふた筋あり、ちょっとわかりにくい。後から分かったのだが、どちらで進んでも、少し上の新田集落で合流する。
車道をどんどん進む。道に雪が残り、スピードがあがらない。計画では標準コースの倍くらいのスピードで、2時間かかるコースを1時間で上る予定。今回は見逃したのだが、甲州道中は集落のあるあたりから分岐し進むようだ。

笹子峠自然遊歩道

新田沢を渡り、道は大きく曲がる。ほどなく笹子峠自然遊歩道の案内。甲州道中はここで車道から離れ、山道に入る。遊歩道には雪が積もっており、はてさて、どうしたものかと少々悩む。が、結局雪道を進むことに。思ったほどは積雪が増えない。一安心。足元

を気にしながら沢にかかる木の橋渡り、山道を進むと、 ちょっと開けた場所に出る。三軒茶屋跡。明治天皇が山梨行幸の折り、休憩をとったところでもある。明治13年のことである。

矢立の杉
雪の中を進む。道は勾配がつくにつれ、雪はそれほど気にならなくなる。しばし歩くと「矢立の杉」。結構大きい。樹高約28m、根回り14.8m、目通幹囲9m、とか。その昔、武田の武士がこの杉に矢を射立てて富士浅間神社を祀ったのが名前の由来。北斎や二代広重も描いているようで、街道で名高い杉であった、よう。
矢立の杉を離れ、道を上ると車道に合流。合流点あたりに、周囲の景観とそぐわない原色の派手な看板。俳優・杉良太郎プロデユースのお芝居の看板。「矢立の杉」という曲もつくっている、とか。街道の至る所に「矢立の杉」の幟がたっており、その趣旨がいまひとつ理解できなかったのだが、ひょっとすればその種明かしは杉良太郎さんにあるの、かも。

笹子隧道
車道を進むとほどなく前方にトンネルが見えてくる。古い趣のある構えである。このトンネルは笹子隧道。脇にあった案内をメモ:四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠。この難所に開削された笹子隧道は、昭和11年から工事をはじめ昭和13年3月に完成。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的。昭和33年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨から東京への幹線道路として甲州街道の交通を支えていた。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離10数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多い難所であった。この隧道は,平成11年、登録有形文化財に指定さた。

笹子峠

笹子峠はこの笹子隧道の上であろう。どうせのことなら、峠を越えようと上りの道を探す。隧道右脇に峠への案内。雪が積もっており少々不安。が、とりあえず進む。それほど深くはない。ジグザグの急な登りを数分歩くと峠に到着。時間は2時20分頃。甲州街道の分岐点からおよそ1時間ちょっとで上ってきた。標準時間の半分程度。日暮れは未だ遠い。ちょっと安心。
峠は両側が切り立ち、切通しのようになっている。標高1、096m。比高差600m弱を上ってきたようだ、峠は山梨県大月市と甲府市の境となっており、甲斐大和駅までは駅2時間30分、右へ上ると1時間10分で雁ヶ腹摺山。左へ上ると1時間30分でカヤノキビラノ頭に至る。
峠では猟銃をもった人に会う。この人は、峠道への車道を歩いていたとき、車で追い越して行った方。話をすると、車で追い越しながら、この時間から雁ヶ腹摺山へでも上るのかと心配してくれていた、そう。甲斐大和へ進むと話すと、安心してくれた。こんな雪の日に、山に上るでもなく、ひたすら峠道を歩くなど、いやはや物好きでありますなあ、といった風であった。
さてと峠を下ることに。少し急げば甲斐大和駅までは1時間程度で歩けそう。日暮れの心配もなく大いに安心。とはいうものの、甲斐大和側は雪が深い。道はまったくわからない。右手は崖になっており、滑り落ちないように慎重に下る。足元は雪に埋もれ、こわごわ下る。先に車道が見えるので、なんとなく当たりをつけて下ってゆく。大月側と比べて積雪が多いのは、こちら側が日陰なのか、風の通り道から外れてい るのか、はてさて。ほどなく車道に。

甲州街道峠道分岐
甲斐大和駅に向けて道を下りはじめる。ほどなくガードレールの切れたところに、甲州街道峠道の案内。甲州道中はここで県道から離れる。どういった積雪状態か、ちょっと足を踏み入れる。とてものこと、進めそうにない。諦めて県道を進むことにして、元に戻る。後からチェックしたのだが、この峠道は途中で沢を渡ったりするようで、先に進まなかったのは賢明であった、かも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

清水橋

車道を進む。沢との距離がどんどん離れてくる。ガードレールから見る崖下は結構深い。曲がりくねった道を進む。しばらく下り案内板のあるところで先ほどの峠道が合流。この合流点は清水橋と呼ばれる。この合流点まで、相当距離があった。峠道を辿ったりしたら、果たしてどうなったものやら。。。
道脇にあった案内板をメモ;徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させる。笹子峠はほぼその中間で江戸から約27里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱1、056米、上下三里の難所であった。峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていた。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等があった、と。

天狗橋
清水橋から国道まではまだ4キロほどもある。先を急ぐ。大きなカーブを二回曲がり、道の右側にある桃の木茶屋跡という標柱などを見やりながら道を進む。しばらく進み大持沢橋を渡った辺り、道の左に工場が現れる。
道の右側が大きく開けてくると、遠くに山稜が見えてくる。位置からいえば大菩薩からの峯筋でななかろう、か。山の麓には中央高速も現れる。山腹には「武田家最後の地 大和」といった看板も見える。手前には集落も。駒飼宿であろう。
大きなカーブを曲がり、坂をどんどん下ると集落の入口あたりに天狗橋。橋の手前に津島大明神の小さな祠。橋を渡ると右側から小径が合流するが、これが甲州道中。どうも桃の木茶屋のあたりから笹子沢川を渡り、その右岸を下ってくるようである。橋を渡ると駒飼宿となる。

駒飼宿
駒飼宿に入る。ここは、織田軍に敗れた武田勝頼が、韮崎の新府城を脱出し、助けを求めて岩殿山の小山田信茂を待ったところ。結局は信茂の裏切りにより、笹子峠を越えることなく、天目山に落ち延び、その地で自刃した。
ところで天目山って何処だ?どうも山ではないようだ。しいていえば峠の名前。甲州市大和町田野にある。場所はJR甲斐大和駅方面から甲州街道を東に進み、笹子峠を貫通する新笹子峠の手前を日川に沿って大菩薩方面へ北東に進んだところにある。もともとは木賊(とくさ)山と呼ばれていたが、峠近くにつくられた棲雲寺の山号が天目山と称されたので、峠も天目山と呼ばれるようになった、とか。
先ほど山腹の看板でみた、武田最後の地というのはこのことである。
駒飼宿入り口右側には、真新しく小さな芭蕉句碑;「秣負ふ 人を枝折の 夏野かな」。馬の秣(まぐさ)採りに山に入った人が、夏草で道に迷のを避けるため枝折(しおり)をつけている、といったこと。



中央高速と交差

集落を進むと脇本陣跡の標識や本陣跡、本陣跡の敷地内に明治天皇小休所などが現れる。道なりにどんどん下っていくと中央高速と交差。巨大な橋桁の下を進み笹子沢川に架かる橋を渡る。昔の甲州道中は集落の中にある養真寺あたりから県道と別れ、笹子沢川を越え、川の西を下り、この橋のところに下る。笹子沢川の川幅が大きくなる前に、上部で沢を渡るようにしていたのだろう。土木建築技術をもとに、自然をねじ伏せ、力任せに川を渡る現在の道筋とは違って、自然とうまくつきあった昔の道筋ではある。

JR甲斐大和駅



道を進み「大和橋西詰」で甲州街道に合流。西詰を東に折れる。ほどなく笹子沢川と日川の合流点。この川はやがて笛吹川に合流し、更に富士川となって駿河湾に注ぐ。甲州街道を東に戻り、甲斐大和駅に。駅の近くにある諏訪神社で電車の時間待ちなどをしながら本日の予定終了。午後4時過ぎとなっていた。


甲州街道を歩く そのⅡ:小仏峠越え

小仏峠を越えて相模湖に

甲州街道の昔道を辿る散歩の第二回。高尾から小仏峠を上り、相模湖まで歩くことにした。JR高尾駅から高尾山の北側、通称裏高尾を経て小仏峠に上り、そこからは相模湖に向かって山中を下ることになる。
小仏峠越えは難路であった、と言う。小仏峠には一度訪れたことがある。が、そのときは、高尾山から景信山を経て陣場山に登るため、高尾・景信の鞍部である小仏峠を通過しただけ。街道をのぼってきたわけではない。
小仏峠の手前まで歩いたこともある。景信山への直登ルートの登山口まで旧街道を歩いたわけだが、どうといったことのない舗装された道。とてものこと、険峻な峠道といった印象はなかった。はてさて、その先が難路であったのだろう、か。小仏峠への難路を少々期待しながら散歩に出かける。

本日のルート:JR高尾駅>小仏関跡>荒井バス停>小仏バス停>景信山登山口>小仏峠>JR、中央高速と接近>小仏峠への西からの登山口>旧甲州街道を底沢に下る>小原の里>中央線JR相模湖駅


JR高尾駅

JR高尾駅で下車。この駅には幾度来たことだろう。鎌倉街道山の道を、この高尾から五日市筋、それから青梅筋、次いで名栗の谷筋、そして妻坂峠を越えて秩父には進んだことが懐かしい。八王子城跡に歩くときも、この高尾の駅から歩を進めた。
高尾は高尾山薬王院に由来する。で、そもそもの「高尾」は京都の三尾(高尾、栂尾、槇尾)のひとつ、から。室町時代に入山した俊源大徳が京都の醍醐寺に入山していたためである。
駅前のロータリーで小仏峠行きのバスを待つ。終点の小仏バス停までは4キロ強。時間もないし、また、このあたりは数回歩いているので、今回はバスに乗ることにした。
バスは駅から国道20号線に出る。両界橋で南浅川を渡り、JR中央線のガードをくぐる。ほどなく西浅川交差点。バスはここで国道20号線を離れ、小仏峠への旧甲州街道(以下甲州古道)に入る。角のコンビニは裏高尾の最終コンビニ。

小仏関跡
交差点から800mほど入った駒木野バス停のところに、ちょっとした公園が見える。これって小仏関跡。もともとは小仏峠にあったものがこの地、駒木野宿に移されたもの。何時だったかここを訪れたことがある。小仏関の石碑の前に、手形石とか手付石といったものがあったように思う。旅人が手形を差し出したり、手をつき頭を下げて通行の許しを待つ石であった、かと。
駒木野の由来ははっきりしない。青梅筋の軍畑の近くにある駒木野は、馬を絹でまとって将軍様に献上した、からと言う。「こまきぬ」>『こまぎぬ」ということ、か。駒木野宿は戸数70戸ほどの小さな宿。関所に付属した簡易宿で、なんらか馬に関係はしたあれこれがあったのだろう。

荒井バス停
バスは進む。道も狭くなり、バスが道を塞ぐ、ほど。対向車待ちが必要といった道幅である。駒木野の次のバス停は荒井。荒井のバス停の近くから八王子城に上る道がある。道というか山道である。これもいつだったか、あまりきちんと調べないで、このルートを辿ったことがある。八王子城山の山裾を通る散歩道程度だろう、と思っていたのだが、これが大間違い。山稜に引っぱり上げられ、アップダウンの激しい尾根道を富士見台を経て城山まで1時間以上の山道歩きとなった。軽々に山道に入るべからず、ということ、か。

小仏バス停
荒井バス停を越え、圏央道と中央高速のジャンクションの南を進む。バスの窓から浅川国際マス釣場などを眺めながら小仏川に沿って進む。小仏川って南浅川の上流の名前。裏高尾ののどかな景色。ほどなく小仏バス停に到着。ここから歩きが始まる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)




景信山登山口
バス停を少し進むと宝珠寺。道を離れ小高い崖面上のお寺にお参り。境内のカゴノキは都の天然記念物。鹿子の木と書く。樹皮がはがれて鹿の子模様になるから、とか。クスノキ科の常緑高木。昔、行基がこの寺に仏を置いた。それが小仏峠の由来、との説がある。
小仏川に沿って舗装された道を進む。次第に傾斜がきつくなってくる。小仏川が見えなくなる辺りで道は大きくS字にカーブ。中央道が小仏トンネルに入るあたりの南をかすめ、道を進む。道路は舗装されており、厳しい峠道にはほど遠い。
ほどなく景信山登山口の案内。いつだったか、ここから景信山に取り付いたことがあったのだが、ペットボトルを道の途中で落とし、水分補給ができず厳しい思いをしたことを

思い出した。
景信山の由来は、八王子城代である横地景信が八王子城攻防戦に破れ落ちのびたとき、この地で討取られたから、とか。もっとも、横地景信という人物は存在せず、横地吉信であったという説もあり、しかもこの人物は、八王子城を脱出した後、檜原城に逃れた後、小河内で自刃したという説もあり、本当のところはよくわかってはいない。

急峻な山道
しばらく進むと駐車場。結構広い。10台ほど車が駐車している。舗装道路はここでお終い。道はここから急に山道となる。山道の始点からしばらくは、それほど厳しい道筋でもない。道幅もゆったりしている。こういった調子で峠まで続くのか、急峻ってイメージではないなあ、などとお気楽に進んでいると、突然道が厳しくなる。人ひとり通れるかどうか、といった幅しかないし、ジグ
ザグの急角度。急な山道に息が上がる。これはとてものこと車というか、馬車を走らせる道など通せそうもない。山道の途中から下を見ながら、現在の甲州街道・国道20号線が小仏峠筋を避けたもの当然だろう、と実感する。
現在の甲州街道が開かれたのは明治21年。この小仏峠筋ではなく、大垂水峠を越える道筋に車、というか、馬車が通れる道筋がつくられた。一方、鉄路の開設は明治34年頃。車道とは異なり鉄路はこの小仏峠筋にトンネルを通す。大垂水ルートの頻繁なる高低差は鉄路には好ましくない、ということなのだろう。2キロ程の山塊を開削している。中央高速も然り、である。
誠に急な山道。幕末、近藤勇率いる甲陽鎮武隊が甲府防衛のため、この山道を通った、と言う。大砲を曳いていったとのことだが、さぞかし難儀なことであったろうと思う。ここを歩くまでは、どうして現在の甲州街道が小仏峠筋を通らないのか、少々疑問に思っていたのだが、そんな疑問をすっきり解消してくれるほどの急坂であった。
あれこれ思いながら、歩を進める。山道を上り切ったところに、やっと小仏峠が現れた。地形図でチェックすると、山道にはいったところから峠まで200mで高度が80mほどあがっている。最大斜度が30度ほどのところもあった。結構な「崖道」であった。

小仏峠
高 尾山と景信山の按部である小仏峠は広場となっている。地形図でチェックすると、景信山から高尾山につづく山塊のもっとも幅の狭い部分となっている。この峠道が開かれたのは大月城主・小山田信繁による滝
山城急襲のとき。上州碓井峠方面からの武田軍主力に呼応し、この小仏筋から攻め込む。滝山城を守る北条軍は、この道筋から軍勢が攻め込むなど想像もしていなかった、と言う。それほど人を寄せ付けない急峻な山塊であったのだろう。先日の大月散歩のときの案内によれば、小山田信繁は岩殿城山の修験者の先導のもと、道なき道を切り開いた、と言う。岩殿山の修験者を庇護していたもの、むべなる、かな。
峠に関が設けられたのは室町末期。小山田軍の急襲により廿里の合戦(高尾駅の北)で北条方が破れる。ために、北条氏照は裏高尾筋への備えを固めるため主城を滝山城から八王子城へ移す。そして、小仏峠に八王子城の前線基地としての砦を築く。当時は富士関役所と呼ばれていた、とか。これが小仏の関のはじまり。北条氏の対武田防御最前線で
もあったのだろう。
北条が秀吉に破れ、秀吉の命により家康が関東を治めるようになると、家康により関が設けられる。家康は武田の遺臣を召し抱え八王子千人同心を組織。八王子、そしてこの関の防衛の任を命じる。その後、関
は駒木野の地に移されることになる。こんな山奥ではあれこれ不便であったのだろう。
峠の広場を歩く。北端にいくつかのお地蔵様。その横には登山ルートマップ。景信山にはその脇から上ってゆく。いつだったかこのルートで景信山に上ったことがある。峠に上る途中にあった景信山への「直登ルート」に比べて少し楽だった。南端は高尾山の小仏城山への登山道。手前に明治天皇が山梨巡行のとき、この峠を通ったことを記念する石碑。そして南西端に旧甲州街道の案内。ここから相模湖に向かって下ることになる。


JR、中央高速と接近
杉木立の中をどんどん下る。はじめのころは比較的傾斜も緩く歩きやすい。500mで100m下る程度。その後少し傾斜が急になる。500mで200m下る。下っているからいいものの、下から上ってくるには少々骨が折れるだろう。道は尾根筋を下っている。

尾根道の北に沢筋。その下をJR中央線のトンネルが走っている。中央高速の小仏トンネルはその北の山塊を穿って走る。
送電鉄塔などを見やり、峠から1キロ程度下ると、車の音が聞こえてくる。中央高速を走る車の音だろう。ほどなく、木々の間から中央高速が見えてくる。山道を抜け、小仏峠の登山口の案内のある里に出ると、前方にJR中央線、中央高速が現れる。トンネルから出た鉄道も高速も、ここからは西に迫る山塊を避け、沢筋を相模湖方面に向かって下る。

小仏峠への西からの登山口
登山口の案内のところから道は舗装道路となる。山道を下りたところで、舗装道路を南に行けばいいのか、北に行けばいいのかわからない。結局南へと歩いたのだが、甲州古道はこの道を北に進み、中央高速を越え、美女谷温泉方面へとのぼり、それから再び中央高速を越え、中央高速と並走するJR中央線との間を相模湖に向かって下るようであった。後の祭り。
美女谷温泉は陣場山からの下りで幾度か目にしていた。気になる名前ではある。名前の由来は美女伝説、から。この地は小栗判官に登場する絶世の美女・照手姫出生の地、であった、とか。
小栗判官の話は熊野散歩のときにr出合った。その照手姫が、この地に生まれたとのことであるが、例に寄って諸説あり、真偽のほど定かならず。それよりなりより、この話自体が伝説に過ぎない、とも。ともあれ、照手姫のお話のさわりをちょっとメモする。
相模・武蔵両国の守護代の館に姫が生まれる。照?手と名付けられた姫は美しく成長し、その美しさは、世間の評判。この噂を耳にしたのが常陸の国司、小栗判官。この地に赴き、強引に婿入りする。が、これに怒った照手姫の親により小栗判官は毒殺される。で、あれこれあって、照手姫は美濃の国の遊女宿で下働きに。また、小栗判官が閻魔大王の恩赦で地獄からよみがえる。物言わぬ餓鬼阿弥の醜い姿で遊女宿の前に現れる。熊野本宮の峰の湯に入れば元の体に戻ると言われ、?人の情けを受けながら熊野を目指す旅の途中であった。照手姫は夫とも知らず、小栗判官の乗った車を引いて近江まで進むが、宿との約束もあり、遊女宿に引き返す。小栗判官は熊野に着き,峰の湯温泉につかって元の小栗判?官に戻り、照手姫と再会。幸せに暮らしたとさ。

旧甲州街道を底沢に下る

中央高速の高架橋、そしてJR中央線に沿って南に下る。高速の高架橋が美しい。高速は山裾を縫って走る。ちょっとし沢など高い橋桁でひと跨ぎ。技術力のパワーを実感する。昔道は自然に抗わず、尾根を進み、沢に沿って下る。山塊の間の沢筋の道を数百メートル進むと、国道20号線と合流。この沢を流れる川筋は底沢川とも美女谷川、とも。

小原の里

国道を少し西に歩いたところに底沢バス停。バス停を見やり先に進む。少し進んだところに「小原の里」。この地、小原宿の案内所。気さくな職員の応接のもと、しばし休憩。一時のおしゃべりを楽しみ、近くにある小原宿の本陣を訪ねる。この本陣は神奈川に残る唯一のもの、とか。
本陣利用は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩のみ。それぞれ小さな藩である。江戸幕府の防御ラインが主として甲州街道に重点を置いており、ためにこの街道は大いに軍事街道の性格が強いように思えるのだが、そういったことも参勤交代の数が少ない事と関係があるのだろう、か。甲府城しかり、八王子千人同心しかり、また江戸においても四谷といった甲州街道筋には大番組(戦闘集団)を配置している。ちなみに大番組が住んでいたところ

が番町、である。素人解釈のため、真偽のほど定かならず。また、甲府城は危急の際の将軍家の退避城であった、とか。

中央線JR相模湖駅
そうそう、それと甲州街道を利用した公的往来としては、宇治のお茶を将軍に献上する「お茶壺道中」もあった、なあ
。宇治のお茶とは関係ないのだろが、このあたりの地名には京都ゆかりの地名が多い、なあ。相模川はこのあたりでは桂川と呼ばれるし、小原は京都の「大原」。そして、少し西にある与瀬も京都の「八瀬」からとの説もある。はたして、その由来は、などとあれこれ想像をふくらましながら一路JR相模湖駅に向かい、本日の予定終了。京都との関係、その真偽のほどはそのうちに調べてみよう。



水曜日, 12月 17, 2008

甲州街道を歩く そのⅢ:上野原から鳥沢に

先回、大月の岩殿城跡散歩の折、猿橋から鳥沢まで旧甲州街道歩いた。その道筋は現在の国道20号線に沿ったもの。トラックの風圧に脅えながらの道行き。とてものこと、風情を楽しむ、といった趣はない。
国道から離れた旧街道の道筋でもあれば、相模から甲斐の国境をのんびり歩くのもいいか、とチェックする。裏高尾の小仏峠から相模湖に抜ける道、大月の先から笹子峠を越えて勝沼に抜ける道、そし上野原から鳥沢への道筋。このあたりが現在の国道から大きく離れ、山間を進む道筋となっている。であれば、この3箇所を歩こう、と。先回の散歩の続き、というわけでもないのだが、第一回は上野原から鳥沢に向かって歩くことにした。
現在の甲州街道・国道20号線は桂川(相模川)の川筋を進む。一方、旧甲州街道(甲州道中)は山間の道を進む。大雑把に言えば、中央高速に沿って山地を上り、談合坂サービスエリアの北を迂回した後、鳥沢に向かって一気に下っていくことになる。道路建設工事の技術が発達した現在では川筋に道が続くのは当たり前だが、昔はそうはいかない。雨がふれば土砂崩れなどで道がつぶれる。街道ともなれば、そんな不安定な川筋を通す訳にはいかない。ということで川筋を避け、山間を進む道となったのだろう、か。ともあれ、JR上野原に向かう。


本日のルート;JR上野原駅>上野原宿>鶴川橋>鶴川宿>中央高速・鳶ヶ崎橋>大椚一里塚>吾妻神社>長峰の史跡>野田尻宿>荻野一里塚>矢坪>座頭転がし>犬目宿>気味恋温泉>恋塚の一里塚>中野>下鳥沢
JR上野原駅
上野原一帯は桂川によって形づくられた河岸段丘がひろがる。河岸段丘って川に沿って広がる階段状の地形のこと。上野原の駅も河岸段丘の中段面にある。ホームを隔て南口は一段下。北口は一段上といった案配。駅前もわずかなバス停のスペースだけを残し、崖に面している。街中は段丘面の上。石段を上り進むことになる。上野原の由来は段丘上の原っぱにあったから、って説も大いに納得。
それにしてもこの桂川、というか相模川水系の発達した河岸段丘には散歩の道々で驚かされる。先日、津久井湖のあたりを歩いたときも、一帯の段丘の広がりに感激した。城山を隔てて津久井湖の南に流れる串川一帯の発達した河岸段丘にも魅せられた。
河岸段丘の形成は、川が流れる平地(川原)が土地の隆起などにより浸食作用が活発になり、川筋が低くなる。で、低地に新たに川原ができ、以前の川原は階段状の平地として残る事に成る、ということ。このあたり富士山による造山活動が活発で、土地の隆起も激しく、いまに残る見事な河岸段丘が形成されたのであろう、か。

上野原宿
駅から上野原の街中に進む。階段を上り、道なりに北に。途中、中央高速を跨ぐ陸橋をわたり国道20号線・甲州街道に。上野原の駅は標高200m弱。国道20号線は標高250m強といったところ。
旧甲州街道(甲州道中)は鶴川への合流点の手前までは国道20号線とほぼ同じ。国道に沿って、雰囲気のある民家もちらほら。上野原宿跡であろう。三井屋などといった、いかにも歴史を感じるような看板も目につく。上野原宿は相模から甲斐にはいった最初の宿。絹の市でにぎわった、と。東京から74キロのところである。

鶴川橋
国道を西に進む。棡原(ゆずりはら)を経て小菅や檜原に向かう県道33号線を越えるあたりから国道は鶴川の川筋に向かって下ってゆく。坂の途中、国道20号線が南に大きくカーブするあたりに鶴川歩道橋。旧甲州街道はこの歩道橋で国道と分かれ、北に進むことになる。
国道から離れるとすぐに旧甲州街道の案内図。大ざっぱな道筋を頭に入れ、先に進む。道は鶴川に向かって下る。眼下の鶴川、南に続く中央高速など、誠に美しい眺めである。大きく湾曲する車道の途中からショートカットの歩道を下り鶴川橋に。四方八方、どちらを眺めても、誠にのどかな景色の中、鶴川が流れる。
鶴川は奥多摩の小菅村あたりに源を発し、上野原市の山間を下り、桂川(相模川)に合流する。鶴川橋の少し北で仲間川が、少し南で仲山川が鶴川に合流する。地図を見ると、旧甲州街道はこの二つの川の間の尾根道を野田尻まで進んでいる。甲州街道ができるまでは、上野原から大月方面・鳥沢に抜ける道は、仲間川と仲山川(八ツ沢)の沢道、そして桂川に沿った道といった三つのルートがあった、と言う。上にもメモしたが、川沿いの道は崖崩れなどといった不安定要素も多く、また、そもそもが峻険の崖道でもあったであろうから、公道には比較的安定した尾根筋を選んだのではなかろうか。我流の解釈。真偽のほど定かならず。 ちなみに、桂川の南側に慶長古道が残る、という。慶長古道、って幕府によって整備された五街道の影に埋もれてしまったそれ以前の道筋、である。

鶴川宿

橋を渡ると鶴川宿の案内。甲州街道唯一の徒歩渡しがあった、とか。とはいうものの、冬には板橋が架けられた、という。尾根に向かって台地に上る。街並は落ち着いた雰囲気。町中に鶴川神社。長い石段を上り、牛頭天王にお参り。天王さま、ということで信仰されていたのだろうが、明治期に天王=天皇、それって畏れ多し、ということで、鶴川神社といった名前に改名したのだろう、か。これまた我流解釈。真偽のほど定かならず。
先に進むと三叉路。「鶴川野田尻線」という案内に従い左に折れ、上り坂を進む。台地の北には仲間川の低地。尾根道を歩いている事を実感する。四方の眺め、よし。本当にいい景色である。この数年いろんなところを歩いたが、大勢の仲間とハイキングするにはベストなコースのひとつ。広がり感が如何にも、いい。
中央高速・鳶ヶ崎橋
しばらく進むと中央高速に架かる鳶ヶ崎橋に。旧甲州街道はここから当分中央高速に沿って進む。というか、中央高速が旧甲州街道の道筋に沿ってつくられた、というべきだろう。道を通すにはいい条件の地形であった、ということ、か。

大椚(おおくぬぎ)一里塚
中央高速を越えちょっとした坂道を台地上に。広々とした台地上に大椚一里塚。塚はなく、江戸から19番目という案内板が残る、のみ。先に進むと大椚の集落。 歩きながら、南の地形が気になる。少し窪んだあたりが仲山川筋だろう、か。その向こうの高まりは御前山であろう、か。御前山の向こうには桂川がながれているはず、などと、あれこれ見えぬ地形を想像する。如何にも楽しい。 

吾妻神社 
ゆったりした集落を歩いてゆくと吾妻神社。境内脇に大椚観音堂がある。神も仏も皆同じ、神は仏の仮の姿、といった神仏習合の名残をとどめているのだろう。境内には大杉が屹立する。吾妻は「あずまはや(我が妻よ、もはやいないのか)」、から。日本武尊(やまとたける)が妻の弟橘姫を想い嘆いた言葉。先日足柄峠を歩いたときも日本武尊のあれこれが残されていた。足柄峠を越えて東国を平定に来た、ということらしい。

長峰の史跡

吾妻神社を越えると道は北に曲がり、中央高速に接する。しばらく中央高速に沿って進むと長峰の史跡。戦国時、このあたりに砦があった、よう。周囲を見渡せる尾根道。狼煙台としてはいいポジションである。道脇にあった説明文の概要をメモする;
長峰の史跡;長峰とは、もともとは鳶ケ崎(鶴川部落の上)から矢坪(談合坂上り線SA)に至る峰のことであった、が、戦国時代、上野原の加藤丹後守が出城といった砦をこの地に築いたため、いつしか、このあたりを長峰と呼ぶようになった。丹後守は武田信玄の家臣。甲斐の国の東口で北条に備えた。
当時、この地は交通の要衝。要害の地。また、水にも恵まれる。砦の北側は仲間川に面した崖である。南面には木の柵を立て守りを固めていた。柵の東側に「濁り池」。その西北部に「殿の井」と呼ばれる泉があった。濁り池は、100平方メートルの小池。いつも濁っていたのが名前の由来。殿の井は、枯れることのない湧水。殿が喉を潤したので、この名がついたのだろう、と。現在この史跡の真ん中を中央高速が走っている。

長峰砦の案内もあった。概要をメモ;長峰砦;やや小規模な中世の山城。この付近は戦国時代、甲斐と武蔵・相模が国境を接するところ。この砦は、当時、こういった国境地帯によく見られる「国境の城」と呼ばれるもの。周辺の城と連携をとり、国境警護の役割を担っていた。砦は、何時頃、誰によって築かれたか、といったことは不明。が、中央高速の拡張工事に際し調査した結果、郭、尾根を切断した堀切、斜面を横に走る横堀跡などが見つかった。
また、長峰と呼ばれていた尾根状地形のやや下がったあたりに、尾根筋を縫うように幅1m余りの道路の跡が断続敵に確認された。これは江戸期の「甲州街道(甲州道中)」に相当するものと見られる。
長峰砦跡は、歴史的全体像を把握するにはすでに多くの手がかりが失われている。が、この地には縄文時代以来の活動の跡も断片的ではあるが確認できる。ここが 古くからの交通の要衝であったということである。当然戦国時代にはこの周辺で甲斐の勢力と関東の諸将たちとの勢力争いが行われうことになる。ために、交通を掌握し戦略の拠点の一つとするための山城、すなわち長峰砦が築かれた、と。その後、江戸時代になると、砦の跡の傍らを通る山道が五街道の一つの甲州道中として整備された、と。

長峰砦もそうだが、このあたりには南北に砦や狼煙台が連なる。北から、大倉砦、長峰砦、四方津御前山の狼煙台、牧野砦、鶴島御前山砦、栃穴御前山砦である。大倉砦は鶴川、仲間川筋からの敵に備える。この長峰砦は尾根道筋に備え、四方津御前山の狼煙台と牧野砦は仲山川(八ツ沢)筋の敵に備え、桂川南岸の島御前山砦、栃穴御前山砦は桂川筋に備える。そしてこれら砦・狼煙台群の前面にあって上野原城が北条に備えていた、と言うことだろう。丁度遠藤周作さんの『日本紀行;「埋もれた古城」(光文社)』を読んでいたのだが、そこに群馬の箕輪城の記事があった。この城も支城群があるそうな。主城だけでな

く、支城・砦・狼煙台といった防御ネットワークを頭に入れた城巡りも面白そう。

野田尻宿

中央高速脇の側道を進み、高速に架かる新栗原橋を渡り、高速の北側を少し下り加減に進む。ほどなく野田尻の集落となる。江戸から20番目の宿場。ゆったりとした、いい雰囲気の街並である。本陣跡には明治天皇御小休所址が。明治13年の山梨巡行の折のこと。それに備えて街道の拡張・整備が行われた、ってどこかで読んだことがある。
町中に大嶋神社。由来などよくわからないが、大嶋神社って、宗像三女神の次女でる湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋からきているのだろうか。奥津島神社って書かれる神社も多い。集落の北には仲間川、南は中央高速が迫る。

荻野一里塚

集落のはずれに西光寺。9世紀はじめに開かれた歴史のあるお寺さま。あれこれとメッセージの書かれたボードが、あちこちに掛かっている。お寺の手前に「お玉ヶ井」の石碑。旅籠で働く美しい娘が恋の成就のお礼に野田尻の一角に湧水をプレゼント。この娘、実は長峰の池の竜神であった、とか。
西光寺の手前に南に進む道。すぐ先に高速の橋桁が見える。旧甲州街道はこの道ではなく、西光寺の北の三叉路から南に廻りこむように進む。直進すれば仲間川筋に出て、源流への道筋が続いているようだ。
西光寺の裏の坂道をのぼってゆく。中央高速を越えると杉林の道。これはいいや、とは思うまもなく舗装道路に。ゆるやかな上り。しばし進むと道の擁壁の上に荻野一里塚の説明。案内だけで一里塚は残っていない。

矢坪
中央道の遮音壁に沿って進み、矢坪橋で再び中央道を越えて北側に。中央高速はこのあたりで南西に大きく曲がる。直進すれば山塊に当たるわけで、山裾を縫うように下ってゆく。一方旧甲州街道は山へと直進する。なぜだろうと地形図をチェック。山の裾には多くの沢が見える。沢越えを避けるため、沢筋の影響のない山の道を進むのではなかろうか。
矢坪橋を渡るとすぐに右に上る小道が分かれる。この道は戦国期の古道とか。旧甲州街道は県道の道筋のようだが、どうせのことなら舗装道路より山辺の小道がよかろうと右に折れる。入り口に旧古戦場の案内;「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。この矢坪と新田の間の坂を矢坪坂と言い、昔古戦場となったところ。享禄3年(1530)、北条氏縄(綱の間違い、かなあ?)の軍勢が矢坪坂に進軍、待ちかまえるは坂の上の小山田越中守軍。激しい戦いが行われたが多勢に無勢、小山田軍は敗退して富士吉田方面に逃げた」という。武田と北条のせめぎ合いが、こんなところまでに及んでいたか、と感慨新た。
座頭転がし
急な小道を上る。武甕槌(たけみかづち)神社入口の案内。少々石段が長そうなのでお参りはパス。なにせ家をでたのが少々遅く、日暮れが心配。先を急ぐと民家が。まことに大きな白犬に吠えられる。恐る恐る民家の庭先といった道を抜け、森を進む。ほどなく道が開ける。下に県道が見える。20mほどもありそう。柵があるからいいものの、なければ高所恐怖症のわが身には少々怖い、ほと。
柵が切れてフェンスになったところに「座頭転がし」。県道の工事で山肌を削りもとの地形より険しくはなっているのだろうが、それでも座頭が転んでもおかしくは、ない。先に進むとほどなく県道に合流。安達野のバス停。新田の集落に出る。

犬目宿

県道をどんどん進むと犬目宿。落ち着いたいい雰囲気の町並み。標高は510m強。桂川筋が標高280m程度であるので、330mほども高い位置。安定した街道を通すには、険峻な谷筋、入り組んだ沢筋を避け、ここまで上らなければならなかったのであろう。
義民「犬目の兵助」の生家の案内。概要をメモ;天保四年(1833)の飢饉に引き続き、天保七年(1836)にも大飢饉。餓死者続出の悲惨な状況。代官所救済を願い出ても門前払い。万策窮し、犬目村の兵助などを頭取とした一団が、米穀商へ打ち壊し。世に言う、『甲州一揆』。
このとき兵助は四十歳。家族に類が及ぶのを防ぐための『書き置きの事』や、妻への『離縁状』などが、この生家である『水田屋』に残されている。一揆後、兵助は逃亡の旅に出る。秩父に向かい、巡礼姿になって 長野を経由して、新潟から日本海側を西に向かい、瀬戸内に出て、広島から山口県の岩国までも足を伸ばし、四国に渡り、更に伊勢へと一年余りの逃避行。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応三年に七十一歳で没した、と。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)  

君恋温泉

集落の外れは枡形の道。城下町などに敵の侵入を防ぐ鍵形の道がここで必要なのかどかわからないが、ともあれ、道脇の寶勝寺、白馬不動尊などを見やりながら先 

に進む。道は心もち上りとなっている。いくつかのカーブを曲がり歩を進めると君恋温泉。いい名前。名前の由来は「君越(きみごう)」から。日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)を想いつつ、この地を進んだ、とか。日本武尊が「君越(きみごう)」から振り仰いだ山が裏にそびえる扇山(仰ぎ山)、ということだ。とはいうものの、仰ぎ見たと伝えられるところはあちこちにある。日本武尊、大人気である。このあたりが今回の標高最高点550m強あるようだ。近くには恋塚って地名もある。その恋塚に進む。


恋塚の一里塚

君恋温泉からはやっと下りとなる。少し進むと道脇にこんもりとした塚。恋塚の一里塚。日本橋から21里。一里塚って箱根八里越えのとき、はじめて見たのだが、道の両側に土を盛った塚をつくる。わかりやすいとは思うのだが、大きさ9m、高さ3mほどの塚。そこまでする必要があるのだろうか、少々疑問。とはいうものの、遠くから距離の目安がわかるのは有難い、か。

中野
道をどんどん下る。途中、馬宿地区には40mほどではあるが、石畳の道が残っていたそうだが、分岐の細路を見逃した。馬宿から山谷へと進むと開けたところから富士山が見えてくる。美しい。山谷の集落の大月CCへの入口を見やり、どんどん下る。日暮れとの勝負といった按配。10分強歩くと中野の集落。ここまで来れば一安心。


ゆったりとした風景の中をさらに下ると中央高速の巨大な橋桁。深い沢を一跨ぎ。こんな芸当のできない旧甲州街道は、自然の地形に抗うことなく、沢を避け尾根を登り、再び沢を避け尾根を下っている。今と昔の道の違いがちょっとだけ実感できた。

下鳥沢
中央高速の橋桁をくぐり、先に進むとほどなく現在の甲州街道・国道20号線に合流。久しぶりに車の騒音を聞きながら鳥沢駅に進み、本日の予定終了。上野原から17キロ程度の散歩。時間がなかったので3時間強で歩き終えた。