水曜日, 3月 04, 2009

座間の湧水を巡る

座間といえば、米軍基地であり、戦前は帝国陸軍士官学校など軍都、といった印象でしかない。また、ニッサンの座間工場などといった工場の街といったイメージが強い。そんな座間には湧水点が多い。市内を南北に座間丘陵が走る。
その西には中津原段丘面、そしてその下に田名原段丘面、更にその西には相模川のつくる沖積低地が広がる。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別される。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出るもの、台地面の谷奥=谷頭より湧き出るもの、に大別される。市内に点在する湧水を、地形を実感しながら辿ることにする。


本日のルート:
小田急線・座間駅 >谷戸山公園の湧水 > 入の谷戸上湧水 >星谷寺 > 心岩寺湧水 > 龍源院湧水 >鈴鹿明神社 >鈴鹿の泉湧水 > 番神水湧水 > 座架依橋 > 相模川湧水 > 神井戸湧水 >
国道246号線 >いっぺい窪湧水 >目久尻川 >第三水源脇の湧水 >第三水源湧水 > 小田急線・相武台駅


 小田急線・座間駅
座間。往古この地は街道の宿場町。古の古東海道、また、平塚から八王子へと通じる八王子街道の宿場町であった、とか。地名の由来も、古代この地にあった街道の駅名から、との説もある。「伊参(いさま)駅」が伊佐間となり、ついで「座間」となった、ということだ。また、高座郡にある間(小平地)であるので、座間といった説もあり、例によって、あれこれ。

谷戸山公園内の湧水
湧水散歩スタート。第一の目標は、「谷戸山公園内の湧水」。県立座間谷戸山公園内にある。東口に下り、南東へと上る台地へと進む。台地の上に進み、道が再び下る手前で北に折れ、座間谷戸山公園に向かう。公園南口から園内に。シラカシ観察林の中をゆっくり歩く。ここは雑木林を手を入れないで自然のまま推移させる極相林。そしてシラカシの林になった、とか。道を下ると里山体験館。いかにも昔の農家といった建物が再現されている。体験館の前は水田。確かに里山の景観ではある。
田圃の脇を進み、湿生生態園を越えると水鳥の池。湧水池。夏には1日1600トン、冬でも100トン、という。結構なボリュームである。湧水点を求めて奥に進む。いかにもそれらしき、「わき水の谷」に。案内によれは公園内には9か所の湧水があり、そのうちふたつがこの谷にある、と。湧水点っぽい雰囲気の場所はあるのだが、いかにも人工的。自然の湧水点ではあるのだろうが、周囲を整地しているようだ。石の井戸といった構えの中から水が湧き出ている。座間市内の湧水についての案内があった。座間の湧水状況がよくわかる。メモする;「本公園は、座間丘陵のほぼ中央部に位置しており、本公園を含む座間市内には多くの湧水地が分布している。それらは座間基地西端から小田急線座間駅西方に続く相模野台地西縁の崖下と、栗原方面の相模野台地を刻む目久尻川とその支流芹沢川の谷とに分布している。これらは共に相模の台地の下に広がっている砂礫層の中より湧き出ている」、と。

入の谷戸上湧水

わき水の谷」を後に、「入(いり)の谷戸上(やとうえ)湧水に。目印は公園・東口近くの「ひまわり公園テニスコート」。湧水点はテニスコート脇にある、という。木の階段を上り台地上に進む。雑木林の中を進むとテニスコート脇に。湧水点のありそうなところを求めてあちこち、ぶらぶら。テニスコート脇を下り、公園の手前にごく僅かな「水気」を見つける。湧水というには、あまりに「僅か」。昔は、ここから小さい谷筋が通り、目久尻川に向かって湧水が流れていた、という。その谷筋は現在の市役所の東の道筋である、とか。「入の谷戸上湧水」は、付近の住民の生活用水ともなっていた、とのことであるので、ある程度の水量もあったのだろう。が、現在は見る影もない。それでも、夏は6トン(日)、冬は0.9トン(日)あるらしい。

星谷寺
坂東観音霊場のひとつ。真言宗大覚寺派の古刹。建立は奈良時代、とか。坂東8番札所。縁起によれは行基菩薩がこの地を訪れ、だれも足をふみいれたことのない「見不知森(見知らず)」に入る。法華経が聞こえ、星が降り注ぐ。そして、古木の下から観音像が。これが現在に残る聖観音、と。もっとも、聖観音は行基菩薩が彫ったという言い伝えもある。

また、星谷の由来も『風土記稿』によれば、「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とある。観音霊場といえば定番の花山上皇が訪れた、という縁起もあるが、花山上皇が武蔵に下向した事実はない、ということは秩父でメモしたとおり。縁起は縁起として受け入れる、べし、ということだろう。とはいうものの、名刹であることに変わりはなく鎌倉以降も、頼朝、家康などの武将の庇護を受けている。梵鐘は国の重要文化財。源氏の武将・佐々木信綱の寄進とされる。


心岩寺湧水
星谷寺を離れ、次の目的地・心岩寺湧水に向かう。入谷地区。深い谷があった地形に由来。崖線が楽しみ。西に進み、相武台入谷バイパス・星の谷観音坂下に。交差点を少し南に下り、道路を離れ心岩寺(しんがんじ)に。座間丘陵の段丘下にある。
本堂はコンクリートつくり。境内に入ると池。崖下から水が湧き出ている。湧水を見るだけで、これほどに心躍る、ってどういうことであろう、か。夏には日量437トン、冬には14トンほど湧き出している、と。この心岩寺からは境内から土器が見つかったり、台地上には縄文期の遺跡が見つかったりしている。湧水脇に人々が集まって生活していたのであろう。

鈴鹿明神社
心岩寺湧水の次は龍源院湧水。心岩寺のすぐ北にある。龍源院の手前に鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある。

龍源院湧水
龍源院は鈴鹿神社の東側の段丘下にある。本堂裏手から湧き出す湧水は、夏には942トン(日)、冬には225トン(日)、と。近くの鈴鹿神社から縄文後期の遺跡が発掘されているので、この湧水は縄文人の生活に欠かせないものであったのだろう。境内には「ほたるの公園」といった湧水池もあった。清流故のほたる、であろう。






鈴鹿の泉湧水
龍源院の北側の段丘下から湧き出す湧水。お寺の隣にありそう、ということで境内をぶらぶら歩いていると、北の隅にみつけることができた。水量は豊富。夏には622トン(日)、冬には32トン(冬)ほど湧き出ている、と。途中柵があり、湧水点までは入れない。しかし、清冽な流れはいかにも心地よい。








番神水湧水
鈴鹿の泉湧水を離れ、北に進む。道に沿って清流が流れる。美しい。これって今から訪れる番神水湧水からの流であろう、か。しばらく歩き、円教寺の東側の段丘下にある祠(ほこら)「番神堂」の裏手から湧き出る湧水。湧水点は柵があり中には入れない。なんとなく崖下から湧き出る雰囲気は感じられる。夏には659トン(日)、冬には27トン(日)の湧水がある、と。日蓮上人が地を杖で突いたところ、清水が湧き出したとの言い伝え、あり。湧水は昭和初期、座間台地上に陸軍士官学校が移ってきたころから、半減した、と。水源が切られた、ということであろう。

座架依橋
座間丘陵西端を一度離れ、相模川に向かう。川床から水が湧き出ている、と。場所は相模川の座架依(ざかえ)橋の下にある水辺広場の南側の護岸付近。台地下から2キロ弱といったところ。ひたすら西に向かって歩く。西に広がる山地は丹沢山系だろう。また、最高峰の峯は、大山ではなかろうか、と思う。なかなか見事な眺めである。相模川左岸用水や鳩川の水路、相模線の鉄路を越え、30分ほど歩いただろう、か。座架依橋に到着。厚木と座間を結ぶ。この橋ができたのは平成4年、とそれほど昔のことではない。それ以前は木造の橋であった、よう。また、木造の橋ができたのも昭和34年。それまでは渡し船があった、とのことである。座架依の由来は、座間と川向うの依知の間に架けられた橋、ということから。ありがたそうな名前であり、なんらかの由来ありや、とも思ったのだが、拍子ぬけ。

相模川湧水
湧水点を探す。なにか案内があるか、とも思ったのだが、なにもなし。あてどもなく、勘だけを頼りに歩く。取りつく島もなし。橋の南の川床に水の溜まり。本流からちょっと分かれたものか、湧水なのか定かならず。とりあえず進む。本流につながっているような、いないような。進につれて護岸下あたりに生える芦原あたりにも水がたまっている。家族づれが釣りをしているそばを進み、溜まりの「はじまり」部分を探す。うろうろしていると、川床の、ほんとうになんでもないところから、水が浸み出ていた。そこが湧水点なのだろう。ここの湧水は、上流域などで浸透した雨水が、古の相模川の砂利層を下り、ここから湧き出している、と。ちなみに相模川って、源流は山中湖。富士吉田、都留、大月をへて相模湖・津久井湖に来たり、その先厚木・平塚・茅ヶ崎の境近くで相模湾にそそぐ。全長100キロ強の一級河川。

神井戸湧水

座間高校の北東側あたりにある。相模川から再び台地に向かうことになる。2キロ強、といったところ。道脇に湧水があった。腰を下し一休み。現在はちょっとした井戸、程度の大きさの湧水地、ではあるが、昔はこの10倍くらいあった、とか。湧水は豊富。現在でも夏には632トン(日)、冬には102トン(日)ほどの水量がある、と。泉の名称については、神様からの賜り物、ってことだろう。湧水マップにはこの神井戸湧水の南150mほとのところに根下南(ねしたみなみ)湧水がある、ということだが、見つけることができなかった。



目久尻川
座間丘陵台地西縁崖下の湧水散歩、相模川湧水の後は、栗原方面に移り、相模野台地を刻む目久尻川に沿って点在する湧水を巡ることに。台地に上り、北に緑地を見ながら中原小学校脇を進むと国道246号線にあたる。少々味気ない国道に沿って栗原地区を北東に進み、西原交差点に。交差点を南東に折れ、先に進むと「栗原巡礼大橋」に。

目久尻川によって開析された深い谷を跨ぐ大橋である。目久尻川に。相模原市にある小田急線・相武台駅近を水源とし寒川町で相模川に注ぐ。昔、栗原村にあった小池から流れ出ていたので、「小池川」とも、また、湧水からの冷たい=寒い水が流れるため寒川とも呼ばれていた。目久尻川と呼ばれたのは、相模一之宮・寒川神社の領地・御厨から流れているためその下流で「みくりや尻川」と呼ばれていたのが、いつしか「めくじり川」となった、とか。また、この川に棲む河童のいたずらを懲らしめるため、目をえぐり取った=目穿(くじる)から、とか、例によってあれこれ。




いっぺい窪湧水
「いっぺい窪湧水」は目久尻川脇。橋の手前を川に向かって下りる。目久尻川を少し南にくだる。目印は巡礼橋。坂東観音霊場を巡る巡礼者がこのあたりを通った、と。橋の脇から台地に上る坂道を巡礼坂、という。橋を南に下る。遊歩道脇に「いっぺい窪湧水」。民家の敷地内、ということで、柵があり、水源点のチェックはできない。「わさび」を栽培しているように思う。水量はいかにも豊か。夏には1,300トン(日)、冬には800トン(日)になる、と。いっぺい窪の名前の由来は、例によって諸説あり、定かではない。が、巡礼者がこの湧水の「一杯」の水で、乾きを癒したことであろう。この湧水から南にすこし下ったところに「大下(おおしも)湧水」があるとのこと。近くには縄文時代の遺跡もある、という。今回はパス。

第三水源湧水
座間の上水は現在でも豊富な地下水を活用しているようで、水道水の85%は湧水である、という。「いっぺい窪」より第三水源に向かって目久尻川を北に進む。栗原巡礼大橋下をくぐり、座間南中のある台地下に沿って進む。しばらく進むと芹沢川が合流。第一・第二水源のある芹沢公園の湧水から流れ出る川、であろう。ちなみに、芹沢公園の近くに、第一、第二水源がある。
国道246号線を越え、蛇行する川筋に沿って歩く。246号線から1キロ強、といったところにいかにも水源といった場所。ここが市営水道・第三水源であろう。衛門沢湧水、とも呼ばれていた、と。湧水点はわからない。水源地から滾々と湧き出ているのであろう。水道用として一日、3,500トンほど汲み上げる、とか。また、水源とは別に現在も夏季には日量3,700トン(日)、冬には2,800トン(日)ほど湧き出ている、ということである。湧水点というより水源地、といった規模の湧水である。

第三水源脇の湧水
第三水源近くのスポーツ広場にも湧水がある、という。グランド土手の斜面から僅かに湧き出る、ということだ。水源の東と北にグランド。どちらにあるのか、少々迷う。東のグランドにはそれらしき水路は見当たらない。北のグランドに進む。地形としては、台地に近いこちらのほうが本命ではあろう。土手の斜面に目をこらす。あった。とはいうものの、まことにささやかなもの。ちょっとしたお湿り程度、といったものであった。湧水点はこの少し北、下小池橋のあたりの護岸にもあるようだ。そこが、目久尻川の湧水点では最上部、と言われる。昔は相武台東小学校の北にも豊富な湧水があったようだが、現在では埋め立てられ児童公園となっている



小田急線・相模台前駅

駅名はもとは「座間駅」。陸軍士官学校本科が当時の座間村に移ったのを契機に、「士官学校前」に。後に「相武台」、と。相武台とは士官学校の別名。朝霞の陸軍予科士官学校は「振武台」、豊岡(現入間市)の陸軍航空士官学校は修武台。市谷から淺川(八王子)に移った陸軍幼年学校は建武台とよばれたよう。ちなみに、命名は昭和天皇による、と。陸軍士官学校跡地は現在在日米軍キャンプ座間となっている。ついでのことながら、相武って、相武国造(さがむの くにのみやつこ)から、だろうか。相模国のもとの名前であろう、か。
座間の湧水を巡った。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別されると上にメモした。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出る入谷地区の湧水群、後者は台地面の谷奥=谷頭より湧き出る栗原地区の「いっぺい窪」とか「第三水源湧水」といった湧水群ではあろう。座間市のホームページの資料によれば、市内の湧水は次のようにカテゴライズされていた。
1.座間丘陵西側の段丘崖の湧水群・・・・・番神水、鈴鹿の泉、龍源院、心岩寺、神井戸、根下南
2.座間丘陵の谷底低地・・・・・・・・・・・・・・谷戸山公園、入りの谷戸上
3.目久尻川沿いの谷底低地・・・・・・・・・・大下、いっぺい窪、芹沢川護岸、第三水源、第三水源脇、目久尻川護岸
4.その他の湧水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相模川に湧き出す湧水 -----

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

木曜日, 2月 26, 2009

古甲州道そのⅡ:浅間尾根を歩く

古甲州道散歩の第二回は浅間尾根を歩くことに。南・北浅川が合流する檜原本宿付近を東端とし、奥多摩周遊道路の風張峠へと東西に延びる15キロ程度の尾根道。標高は概ね900m前後の山稜からなり、比較的穏やかな尾根道となっている。

この尾根道は中世の頃の甲州街道。風張峠から小河内に下りた道は、小菅村、または丹波村から牛尾根に上り、大菩薩を越えて甲斐の塩山に抜けたと言う。江戸期に入り、小仏峠を越え相模川沿いに上野原の台地を通り、笹子峠を抜けて甲斐に進む甲州街道ができてから後も、この浅間尾根は甲州裏街道などと呼ばれ、人々の往還に利用された。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 


散歩の途中、払沢の滝近くにあった、浅間尾根道の案内をメモする;奥多摩の主稜線から風張峠で離れ、東西にゆるやかな上下を繰り返すのが浅間尾根。浅間という名称は富士山の見えるところにけられており、この尾根からも、時々富士山が遠望できる。この尾根に付けられた道は、以前は南・北秋川沿いに住む人々が本宿・五日市に通うた大切な生活道路でした。また、甲州中道と呼ばれ江戸と甲州を結ぶ要路になっていたこともあります。昭和のはじめ頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んでこの峠を通っていました」、と。


甲斐と武蔵を結ぶだけでなく、浅間尾根を挟んで南北に分かれる秋川の谷筋に住む人々にとって、川筋に馬の通れる道もなかった昔は、この尾根を越えるしかすべはなかったのかもしれない。昔といっても、大正末期の頃まで、尾根道を使った炭の運搬の記録もあり、浅間尾根が主要往還であったのは、そんなに昔のことでは、ない。小河内といた青梅筋の人達も、この尾根を利用したという。
古甲州道散歩の第一回は、秋川丘陵から秋川南岸を辿り五日市の戸倉まで進んだ。本来なら第二回は戸倉から、ということになるのだが、戸倉の戸倉城と檜原本宿の檜原城は既に訪ねたことがある。戸倉と檜原本宿の間の川沿いの車道には歩道などもなく、車に怖い思いをするのは、ご勘弁ということもあり、実際は、歩きではなくはバスに乗ったのだが、それはそれとして、既に足を踏み入れた戸倉から檜原本宿の部分はカットすることにした。

第二回は檜原本宿を始点にと当初考えていた。ルートを検討するに、浅間尾根を先に進んだ数馬方面にはバスの便があまり、ない。終末の午後など数時間に一本といった状態である。数馬方面まで尾根を進み、里に下りてもバスがなく、そこから歩くって想像もしたくない。
ということで、今回は、檜原本宿からずっと先までバスに乗り、その名も、浅間尾根登山口というバス停でおり、そこから檜原本宿に引き返すことにする。もっとも、どうせのことなら、尾根の高い方から低い方に歩くことに魅力を感じたのは否めない。ともあれ、散歩に出かける。おおよそ8キロの道のりである。



本日のルート;浅間尾根登山口バス停>入間白岩林道と交差>数馬分岐>猿石>藤倉分岐>人里峠>浅間嶺>小岩分岐>瀬戸沢の一軒家>峠の茶屋>時坂峠>払沢の滝>

浅間尾根登山口バス停
浅間尾根登山口でバスを降り尾根道へのアプローチを探す。バス停から少し戻ったところに、南秋川を越える橋への分岐がある。分岐点にある道案内で大雑把なルートを確認し、先に進む。橋からの眺め楽しみ南秋川を渡る。民家の間を進み浅間坂に。道は上りとなる。次第に勾配がきつくなる。初っ端から急坂の洗礼を受ける。南秋川の谷筋を見やりながら先に進む。誠にキツイ上り。
入間白岩林道と交差
浅間坂を越えると舗装も終わり登山道に。ジグザクの上りを幾つか繰り返すと舗装された林道に当たる。この林道は入間白岩林道。地図をチェックすると浅間尾根登山口から入間沢西の支尾根をのぼり、浅間尾根道の藤原峠下をかすめ、尾根を越える。林道その先でふたつに分かれ、ひとつはヘリポートへと進み、もうひとつは白岩沢を下り、北秋川筋の藤倉に続く。
壊れかけの「浅間尾根登山道」の案内に従い、再び登山道に入る。杉林の中を進む。途中「熊に注意」の案内。ひとりでは少々心細い。実際、この翌週、有名なアルピニストがこのあたりの尾根道で出会い頭にクマと遭遇。大怪我をした、ってニュースが流れた。尾根道はひとりではなく誰かと一緒に歩きたいのだが、かといって、どうということのない尾根道歩きにお付き合い頂ける酔狂な人も少ないわけで、結局は怖い思いをしながらの単独行となる。

数馬分岐
大汗をかきながら尾根道に到着。数馬分岐となっている。バス停からの標準時間は1時間となっているが、少し早足であるけば30分もかからないようだ。分岐点を左に折れる道筋は、藤原峠、御林山を経て奥多摩周遊道路に続く浅間尾根の道筋。尾根道の途中には数馬温泉センターへの下山道がある。また、浅間尾根を奥多摩周遊道路まで進み、その先を都民の森へ向かったり、奥多摩周遊道路の風張峠を越えて奥多摩湖へ下るルートがある。これらは今回のルートとは逆方向。次回の古甲州道散歩のお楽しみとしておく。

猿石

数馬分岐から人里峠へと向かう。分岐点を右に折れ浅間尾根に。鬱蒼とした杉林。熊が怖い。道脇に佇む石仏に手を合わせ先に進むと、少し開ける。尾根の北側の山稜の結構高いところまで民家が見える。何故、あのような高いところに、と疑問に思っていた。先日古本屋で見つけた『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』を読んで疑問氷解。日当りを考えれば、高ければ高い程、日照時間が長くなる。歩く事さえ厭わなければ、日当りのいい南向き斜面の高所にすむのが理にかなっている、とか。納得。
馬の背のような尾根道を進むと猿石。「猿の手形がついた大きな石 手形は探せばわかるよ」と案内あるが、探してもわからなかった。同じく案内には「昔ここは檜原村本宿と数馬を結ぶ重要産業道路」とあった。

藤倉分岐
ときに狭く、少し崩れたような道筋を進むと藤倉分岐。北秋川渓谷の藤倉バス停への下山道。標準時間1時間程度。状態のあまりよくない道を進むと道脇に「浅間 石宮」の案内。誠に、誠につつましやかな祠が佇む。馬の背の尾根を進み、崩れた道を補修した桟道を歩く。崖に張り付くようにつくられた木の道であり、崖下を思うに少し怖い 。注意して桟道を進むと人里峠に。

人里峠
標高850m。数馬分岐からの標準時間は1時間とあるが、実際は30分程度だろう、か。人里への下山道があり、標準時間40分程度で人里のバス停に着く、とのことだ。
峠には小さな地蔵塔。享保というから18世紀初めころのものと言う。人里の読みは「ヘンボリ」。モンゴルの言葉に由来する、との説がある。往古、武蔵に移り住んだ帰化人の中で、檜原まで上ってきた一団があった、とか。で、「フン」は蒙古語で「人」を、「ボル」は新羅の言葉で「里」を意味し、「フンボル」」が転化して「ヘンボリ」になった、と言う。重箱読み、当て字もここに極まれり、ということで、いまひとつしっくりしないが、そういう説がある、ということにしておこう。
人里と言えば、先日古本屋で見つけた、『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』(昭和44年刊)で檜原の五所神社という記事を読んだ。祭礼のシシ舞はよく目にするが、平安時代に建てられた神社の本尊は五大明王。蔵王権現、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉と五つの明王が揃うのは京都の教王護国寺など全国にも数カ所しかない、と言う。何故この山里に、ということだが、武蔵国分寺にあった五大明王がここに移されたのでは、という説もある。南北朝の戦乱期、国分寺が焼かれた時、何者かの手により、人里の部落に避難したのでは、ということだ。その真偽は別にしても、この集落は以外に古くから中央と交流をもっていたのだろう、と。神社に本尊、というのは神仏習合から。木の根元に佇む、如何にも年月を重ねた風情の石仏にお参りし、浅間嶺に向かう、

浅間嶺
尾根道を進む。このあたりの道は木々は杉ではなく落葉樹。木々の間から陽光も漏れてきて、いかにも、いい。
人里峠から10分程度で道は浅間嶺頂上と浅間嶺広場の二方向に分かれる。浅間嶺頂上に向かうことに。10分程度で頂上らしきところに着くが、いまひとつ頂上といった風景感がない。木々に囲まれ、見晴らしはよくない。これではどうしようもない、ということで、広場方面へと下りてゆく。途中につつましやかな浅間神社の祠。
浅間神社って富士山が御神体。祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)。浅間嶺は昔、富士峰とも呼ばれていた。富士山も眺める事ができるのであろう、か。祭神の木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は大山祇神(オオヤマズミ)の娘。天孫降臨族の瓊杵命(ニニギノミコト)と一夜を共にし、子を宿す。が、瓊杵命が、誠に我が子かと、少々の疑念。木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は身の潔白を証明するため、燃える炎の中で出産。浅間神社=富士山の祭神が木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)であるというのは、こういうストーリーからだろう。
浅間神社を離れ、成り行きでブッシュを進むと開けたところに出る。さきほど分岐した浅間嶺広場。浅間嶺の休憩所となっている。広い平坦地にあり東屋やベンチなどがある。休憩所の広場からは北は三頭山、御前山、大岳山などの馬頭刈尾根が見える。
少し休憩し、先に進む。広場の近くに展望台があったのだが、頂上、広場、展望台と浅間嶺にまつわるターミノロジーが入り乱れ、なにがなにやら、と相成り、パスしてしまった。展望台からは北の馬頭刈尾根だけでなく、南の笹尾根の稜線も見えるとのことである。浅間嶺からは上川乗バス停への下山道がある。2.9キロ、標準時間1時間となっている。


小岩分岐
浅間嶺を離れ尾根道を進む。細い道が交差。そこに道標。小岩への分岐。『浅間嶺0.4km 展望台0.7km 小岩バス 停2.3km』とある。標準時間はほぼ1時間で北秋川渓谷に下りてゆく。
道標を越えると道は大きくカーブ。尾根道は緩やかなアップダウンを繰り返す。快適な尾根道。比較的平坦な尾根道。落葉樹が多く見晴らしもよくなる。浅間尾根でもっとも人気のあるところ、と言う。木々はそれほど密でもなく、木漏れ日の中の凹面の道。ちょっと街道の雰囲気、も。


瀬戸沢の一軒家

大岳山などを左手に見ながら進むと、道は鬱蒼とした樹林に入る。真ん中がえぐれた凹字形の道となる。道は次第に谷筋への下りとなる、勾配のきつい、石が転がる沢沿いの急坂を下る。沢を木橋で渡り先に進むと杉林の中に民家の屋根が見えてくる。
大きな入母屋作りの屋根の民家。「代官休憩所跡 おそば御用達 峠の茶屋チェーン みちこ」とある。かぶと造りの家。瀬戸沢の一軒家、とも地図に書いてあった。民家の前には水車がある。蕎麦が食べれるようだが、当日は閉まっていた。
『み ちこ』と言う、少々景観に似つかわしくない名前はともかく、この瀬戸沢の一軒家は昔は、瀬戸沢の馬宿と呼ばれていた。かつてはここで馬の荷を積み替えていた。檜原本宿にある口留番所では檜原産以外の人や荷物は通さなかったため、小菅や小河内産の薪や炭は、この地で檜原の馬に積み替え、檜原の村人によって運ばれた、と言う。昔の名残だろうか、店の前に「駒繋ぎ」の碑が残る。明治になると口留番所は廃止。馬宿はのその 役割を失うことになる。
代官休憩 所跡の「代官」って、檜原本宿にある口留番所の役人のことだろう。地元の名主が八王子代官(十八代官とも呼ばれる)のひとりから代々委任されていた、と言う。先日檜原本宿辺りを歩いていた時、本宿バス停脇に、堂々としたお屋敷があったのだが、その吉野家がこの名主であった。ちなみに口留番所とは、江戸幕府が交通の要衝を管理するために、主に関東と中部地方に設けた「関所」みたいなもの。関所は20カ所であったが、口留番所は33カ所あった。出入口を押さえ る、という意味で「口留番所」とされた。
ついでに、「かぶと造り」。数馬あたりによく見かける、屋根が兜によく似た入母屋造りの民家。3階または4階建ての高層建築で、1階は居間、2階以上は蚕室などとして使われていた。この様式は甲州の都留地方がオリジナル。江戸の頃、数馬にもたらされた。言わんとすることは、南秋川筋って、甲州の経済圏に組み込まれていた、ということ。南秋川沿いは断崖絶壁で馬の通る道も無く、浅間尾根に上ろうにも、北岸ならまだしも、南岸から南秋川を渡る橋もなく、結局は南の笹尾根を越えて上野原方面に出るのが普通であったのだろう。谷筋に車道が走る現在の交通路から往古の流通経済圏を判断するなかれ、と言うこと、か。

峠の茶屋

「みちこ」を越えると、その先に「払沢の滝」の道案内。この分岐を下れば沢沿いに払沢の滝にショートカットできるのだろうが、古甲州道を辿る我が身としては時坂峠を越えねば、ということで先に進む。
沢 の雰囲気の場所をかすめ、樹林の多い薄暗い道を上ると道脇に小さな祠。大山祇神社であった。浅間神社の祭神・コノハナサクヤヒメの父親におまいり。すぐ横にある休憩所が峠の茶屋。江戸時代貞享3年(1688年)創業。と言う。これまたあいにく閉まっていた。冬にこの地を歩く酔狂な人などいない、ということだろう。峠の茶屋の前には北谷の眺めが広がる。東西に走る北秋川の谷、その向こうに三頭山、御前山、鋸山、大岳山といった奥多摩山系が連なる。

時坂峠

峠の茶屋のあたりからは舗装道路となる。平坦な尾根の車道を400mほど進むと時坂峠。
「トッサカ」と読む。標高530m。「トッサカ」の由来は、浅間尾根への「トッツキ(取っ付き)」の坂との説がある。また、時坂の「時」は、鬨(トキ)の坂、との説も。勝鬨の鬨、である。『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』に、時坂の住人は檜原城の番人であった、と言う地元の人のコメントを載せていた。檜原城は時坂峠から瀬戸沢の谷を隔てた南の山稜にある。城から裏道が時坂峠に通じていたとの説もあるようだが、瀬戸沢って、背戸=裏口、という説もあるくらいであるから、檜原城のある山稜から尾背戸の沢を迂回し、根道をぐるりと時坂峠に至る山道があっても、それほど違和感は、ない。
いつだったか、檜原城跡に上ったことがある。麓の吉祥寺から、その裏山に張り付いた。結構な急坂を上り、山頂に。どうみても砦、と言うか、狼煙台といった

程度。東に戸倉城の山が見える。秋川筋からの武田方の進軍の兆候あれば、この檜原城、戸倉城、秋川丘陵の根小屋城、高月城と狼煙を連絡し滝山城に伝えたのであろう。
檜原城は足利持氏が平山氏に命じ、南一揆を率いこの地に城を築かせた。代々、この地で甲州境の守りの任にあたるが、秀吉の小田原攻めの時、北条方として戦った平山氏は、八王子城から落ち延びてきた城代横地監物を匿うも、多勢に無勢ということで討ち死とか、小河内に落ち延びた、とか。
道標近くに小さな祠と2体
の小さな地蔵塔。ちょっとおまいりし、峠を下ることに。山道に入る。急な坂。ほどなく舗装された林道に。ここからは杉の木立の中の細い急坂を下りたり、開けた山腹の踏み分け道を下りたり、山道と林道歩きを繰り返す。民家の軒先をかすめたりもする。里の風景が、如何にもいい。眼下に見えるのは檜原本 宿のあたりではあろう。車道を先に進むと浅間橋。北秋川の支流セド沢に架かる。ここまで時坂峠から2キロ弱浅間嶺から5キロ強歩いてこたことになる。

払沢の滝

袂を折れて払沢の滝に向かう。払沢橋を越え、土産物屋を眺めながら5分も進むと沢が近く。ほどなく滝壺に。結構多くの観光客が来ていた。滝は26.4mの高さがある。も

っとも、滝壺からは見えないが、4段に分かれており、全部合わすと60mほどになると、言う。浅間尾根の端、もうこれ以上、水により開析できない固い岩盤に当たった、という箇所だろう。もとは、沸沢。沸騰するように流れ落ちたから、と言う。また、ホッス、僧侶の仏具、とも、法師がなまった、との説もあるが、例によって定説、なし。
『武蔵野風土記』によると、滝は昔から本宿部落の雨乞いの場であった、とか。日照りが続くと、太鼓を打ち鳴らし、「大岳山の黒雲 これへかかる夕立 ざんざんと降って来な」と口を揃えて歌った、と言う。大岳山は標高1237m。雨はここからやってくると人々は信じていた。大正5年か6年に一度雨乞いをし、それが最後であった、と(『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』)。

「払沢の滝入口」バス停
滝を離れ、大きな車道に進み西東京バスの「払沢の滝入口」バス停に。五日市駅へのバスに乗り、本日のお散歩終了。次回は、数馬分岐から尾根道を藤原峠、奥多摩周遊道路、風張峠へと進み、そこから青梅の谷の小河内へと歩こうと思う。

古甲州道 そのⅠ;秋川筋を歩く

秋川丘陵・秋川筋を五日市・戸倉まで
中里介山の小説に『大菩薩峠』がある。主人公の机竜之介が大菩薩峠で人を殺める。このシーンがずっと気にかかっていた。何故、1,900mもある峠に浪人がぶらぶらする必要があるのか、まったくわからなかった。この大菩薩峠が中世の甲州街道、今で言う主要国道筋であると知ったのは、つい最近のこと。武蔵と甲斐を結ぶ幹線道路であるとすれば、浪人や商人が往還してもなんら不思議では、ない。
現在の甲州街道は国道20号線。高尾から大垂水峠を越え、山梨に進む。江戸時代の甲州街道は高尾から小仏峠を越え相模湖付近の小原に下り、上野原から談合坂方面の山裾を通り鳥沢に下り、大月の西で笹子峠を越えて甲斐に至る。
今回辿る中世の甲州街道、別名、古甲州道は、府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り青梅筋の小河内に下り、小菅を経て大菩薩を越え塩山に抜ける。
古甲州道を辿っての大菩薩行きを何回かに分けて歩く事にする。第一回は秋川丘陵の東端からはじめ、尾根道を進み、秋川筋の南側を五日市・戸倉まで歩くルート。おおよそ16キロとなった。


本日のルート:JR武蔵五日市線東秋留駅>東秋留橋で秋川を渡河>七曲り峠を越えて戸吹町>古甲州道の道筋滝山街道>上戸吹で秋川丘陵下の里道を経て尾根筋>尾根道を辿って御前石峠で旧鎌倉街道山ノ道に合流>網代から秋川南岸の谷筋の道>高尾、留原、小和田>佳月橋で北岸に>小中野で檜原街道に出る>JR武蔵五日市駅に出る


JR武蔵五日市線の東秋留駅
さて、散歩をどこからはじめようか、と少々考える。府中から日野ははじめからパス。車の騒音激しい国道歩きは御免蒙りたい。日野から先の滝山街道は、滝山城への散歩で既に歩いているし、これとても通行量の多い車道筋である。
車の騒音に煩わされないスタート地点を探す。秋川丘陵に入る手前の戸吹あたりがよさそう。が、交通の便がよろしくない。最寄りの駅はJR武蔵五日市線の東秋留駅だが、結構歩かなければならない。致し方なし、ということで中央線、青梅線と乗継ぎ拝島で武蔵五日市線に乗り東秋留駅に。

地蔵院
駅を降り、ひたすら秋川を目指す。南に向かって成り行きで進む。秋川

に近づくと川筋に向かって坂を下る。崖に沿った道は河岸段丘のハケの道。左手には加住丘 陵、右手には今から目指す秋川丘陵が見える。と、坂の下にお寺さま。用水路に沿って進むと門前に。門前にたたずむ3体の石仏にお参りし先に進む。

東秋留橋
ほ どなく秋川に架かる東秋留橋の袂に。秋川はその源を三頭山に発し、福生と昭島の境目あたりで多摩川に合流する。多摩川水系で最大の支流でもある。橋の北詰 に西光寺。境内に観音様があり、ために寺横にある坂は観音坂と呼ばれる。この西光寺のあたりには昔、渡しがあった。鎌倉街道のメーンルートは、この西の秋 川丘陵の中を通るが、ここにはその支道や間道が通っていたのだろう。

七曲り峠
人道橋も併設した東秋留橋を渡り秋川の南岸に。目の前には加住丘陵が横

たわる。スタート地点の戸吹に行くには、この丘陵の七曲峠を越えることになる。峠道を上る。昔は七つのカーブがあったのだろうが、現在はふたつ。大きな道路道となっており、古道の面影は、ない。
時に後ろを振り返り、秋川やその後ろに控える秋留野の台地の景色を楽しみながら、峠を越える。下りは一直線。ほどなく滝山街道との交差点・戸吹町に出る。滝山街道は古甲州道。大菩薩へと向かう古甲州道散歩のスタート、である。

谷地川
滝 山街道を進む。車の通行が多く、時に怖い思いも。滝山街道のすぐ西側には谷地川が流れる。秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵の流れを集めた谷地川は、上戸吹から滝山街道にそって南東に流れ、日野に入ると日野台地の北かすめて東に流れを変え、JR中央線の鉄橋のすぐ上流で多摩川に合流する。北を北加住丘陵、南を南加住丘陵に挟まれた回廊のような低地を進む古甲州道は、谷地川沿いに開かれていったのだろう。
いつだったか滝山街道沿いの滝山城跡に上ったことがある。この城もそうだが、あと五日市・戸倉の戸倉城、檜原の檜原城など、何故に、こんなところに城を築く必要があるのだろう、と考えたことがある。ほとんどが小田原北条氏が甲斐の武田に備えたもの。今回古甲州街道のルートを見て、それぞれの城は、この古甲州街道の道筋にあることがわかり、大いに納得。散歩を続けると、あれこれが繋がって、わかってくる。

桂福寺
滝山街道を北上すると道の右手に朱色の鐘楼山門。美しい門に惹かれて足を止めると、そこは桂福寺という禅寺。17世紀の始め、寛永の頃に開かれたお寺。このお寺は
新撰組の隊長である近藤勇が体得した天然理心流発祥の地。創始者近藤長裕は上州館林藩の出。浪人となりこの戸吹の地で道場を開く。二代目近藤三助、三代目近藤周介と続き、江戸に道場を開いた周介の後を継ぎ四代目となったのが近藤勇である。寄り道したおかげで、思いがけない史跡に出会った。とりあえず足を運ぶ、ってスタンスを再確認。

分岐点「上戸吹西」
滝川街道を進むにつれ、次第に秋川丘陵が近づいてくる。バス停「上戸吹」を過ぎると「上戸吹西」。滝山街道はここで大きくカーブし秋川丘陵を越えてゆく。古甲州道はこの分岐点で滝川街道と離れ、谷地川にそって秋川丘陵の南麓を進むことになる。

根小屋城址
分岐道へ入ると静かな集落。上流部に近づき、細流となった谷地川に沿って里を進む。
ほどなく、「根小屋城跡(二条城跡)この先800m」といった道標。道を右に折れ、秋川丘陵の尾根道に向かう。竹の葉で覆われた山道を上り尾根道に。そこにぽつんと祠が残る。そこが根小屋城址。
城址と言われても、何があるわけでもない。近くに空堀の遺構が残るというが、門外漢のわが身には、いまひとつよくわからない。よくわからないが、戦国の昔、この地に砦はあったのは事実のよう。滝山城を手にいれた北条氏は、秋川筋からの武田に備え、この砦を監視場とした、と言う。とはいうものの、永禄12年(1560年)、小仏峠からの武田軍の急襲以来、北条氏は加住丘陵の滝山城を捨て、裏高尾に八王子城を築く。ために、秋川筋の戦略的重要性も減り、この砦は不要となり捨て置かれてしまった。なお、この城というか砦は二条城とも新城(ニイジョウ)とも呼ばれる。サマーランド近くにある二条山の因るのだろ う。


「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

秋川丘陵の尾根道
根小屋城址から先、古甲州道は秋川丘陵の尾根道を走る。山道を進み、少し下った先に
T字路があり、ここで古甲州道は秋川丘陵の幹線尾根に当たる。道標があり、「網代弁天5.0km、武蔵増戸4.8km、二条城0.3km、秋川駅4.2km」といった表示。右に折れ網代弁天方面に進む。網代は「漁場」と言った意味。
T字路からは道幅はやや広くなる。が、周囲に雑草が茂る。少し進むと、道脇にふたつの石仏。石仏の後ろの石段を上るとささやかな祠。十一面観音が祀ってある。先に進み、深い谷筋脇の尾根道を過ぎると道は上り。上りきったところは木が払われ明るく開けた広場となる。再び道標「網代弁天4.3km、上戸吹バス停2.1km、二条城1.0km」と。
この広場から先は起伏もそれほどなく、ゆったりした尾根道。笹の茂る道は心地よい。しばらく進むと左手にゴルフコース。八王子ゴルフ場。ゴルフ場のフェンスにそって、ふたつほどささやかな広場をやり過ごして進むと霊園に近づく。上川霊園である。菊田一夫さんが眠る。ラジオドラマ「君の名は」で有名な脚本家である。とはいっても、「君の名は」を知っているのは、我々団塊の世代くらいまで、だろう、か。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」といった番組冒頭のナレーションとか、「君の名はと たすねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て 浜昼顔に きいてみる」という歌など、きっちり覚えているのだけど。。。

鎌倉古道と合流
緩やかな坂を下ると尾根道は左右に開ける。鞍部になっているこのあたりは駒繋峠とか御前石峠と呼ばれる。道標には「右手は二条城2.8km、秋川駅6.7km、左手は網代弁天山2.5km、武蔵増戸2.3km」と。
この峠に南から向かってくる道は鎌倉街道山ノ道、通称秩父道と呼ばれる。秩父方面と鎌倉を結ぶ主要往還である。尾根道を進んできた旧甲州道はこの峠で秩父道と合流し、秋川に下るまでしばしの間、同じ道筋を進む。
鎌倉街道、って「いざ鎌倉」、と一旦鎌倉で事が起こった時に馳せ参じる道のこと。もっとも、こういった軍事面だけでなく、経済の流れにも欠かせない道筋であった、よう。また、鎌倉街道といっても、とりたてて新しく道を作った、というより、それまでにあった道筋を整備し、鎌倉との往還を容易にしたもの、と。ために鎌倉街道は間道や支道までを含めると数多くあるのだが、主要なものは秩父道と呼ばれるこの鎌倉街道山ノ道、上ノ道、中ノ道、下ノ道といったもの。鎌倉街道のあれこれは、先日高尾から秩父まで歩いた散歩のメモをしたので、ここでは省略。

駒繋石(御前石)
鞍部を離れ、秋川筋に向かう。道はカーブしながら少し上りとなる。道脇の草むらに駒繋石(御前石)。鎌倉武士の鑑と目される畠山重忠が秩父から鎌倉への途中、馬を繋いだとされる石。三角錐の石には馬を繋いだとされる穴が残る。小さい穴であり、これが本当に駒繋の石なのか、何度も見直したほど、ではあった。言い伝えによると、駒を繋ぐ適当な石がなかったので、重忠が指を押し当ててあけた穴、ということであり、それであれば、それなりの穴であろう、と納得。駒繋峠(御前石)峠は、この石に由来すること

は、言うまでもない。
畠山重忠は文武に秀でた鎌倉武士。秩父や奥武蔵、そして青梅などに重忠ゆかりの地は数多い。妻との別れを惜しんだ妻坂峠、待ち構える女性を避けて山道を歩き、持っていた杖が折れたことが名前の由来となった棒の折山、遊女との恋の道行がその名の由来となった恋ヶ窪などなど、数え上げればきりがない。北条の謀略により二俣川で討たれた、悲劇の主人公であったことも一因ではあろうが、武蔵で最も人気のあった武将のひとりであったようだ。

網代トンネル出口
道を進む。道の北側はフェンスが張られている。そのむこうは木々が伐採され、開けてい る。そこは廃棄物処理場。しばらく道を下ると道の左脇はゴルフ場となる。東京五日市カントリークラブ。先に進むと道の両側にグリーンが広がる。そこまで下ると前方に秋川の北岸の丘陵地帯が見えてくる。草花丘陵だろう、か。さらに下り網代トンネル出
口あたりに出る。




山田大橋南詰め
トンネルから出た車道の先は山田大橋。橋まで進み、秋川の流れを楽しむ。駒繋ぎ峠から重なってきた秩父道と旧甲州道は秋川のほとり、山田大橋南詰めで再び別れる。秩父道はここから秋川を渡り馬引沢峠、または梅ガ谷峠を越えて青梅の軍畑に進み、そこから榎峠、小沢峠を越えて名栗の谷に入り、妻坂峠を越えて秩父に向かう。旧甲州道は秋川を越えることなく、秋川の南岸を五日市の戸倉へと進むことになる。

弁天橋
山田大橋南詰め手前から坂を下り、坂道が山田大橋の下に入り込む手前で、民家前の路地を左に折れる。路地に入ると杉林の中を進む小道となる。しばらく進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。この橋からの眺めもなかなか、いい。
弁天橋を渡ると橋の袂に禅昌寺。先に進むと車道に合流。道端にお地蔵様が2体。その後ろの丘にお稲荷さんの祠があった。この合流点を左に折れれば網代温泉へと続くのだが、旧甲州道はそのまま直進。旅館「網代」脇の坂を下るとT字路にぶつかる。網代橋から上ってきたこの道を左に折れ、高尾、留原へと向かう。

網代城址
山裾の道を進む。ほどなく秋川が近づく。美しい秋川渓谷を眺めながら先に進むと、やがて民家が現れる。先に進むとT字路。右に行けば高尾橋。旧甲州道はここを左に折れる。
坂道を上って行く。坂の途中に高尾公園には梅林が見える。道の反対側には大光寺。大光寺を越えると坂は終わり。その左手に高尾神社。社殿はちょっと奥まった所にある。足早にちょっとお参り。
このあたりまで来ると民家も少なくなる。ほどなくT字路に。道標があり、「網代城址、弁天山」と。網代城址って、もとは南一揆のこもった砦、とか。南一揆って、15世紀の中頃、地侍を中心にまとまった農山村民の自衛集団。が、この南一揆も16世紀の中頃となると、滝山城の北条氏によって潰され、ここにあった砦も甲斐の武田に備える滝山城の支城となった。それが網代城である。南一揆の頭領としては小宮氏、貴志氏、高尾氏、青木氏などがいる。

留原

T字路帯横には天王橋と言う橋。やがて道の両サイドに畑が広がる。ほどなく小峰峠から下り降りてきた秋川街道と交差する。「留原」(トトハラ)交差点。秋川街道を北進すると秋川橋で秋川を渡りJR武蔵五日市の駅に至る。
旧甲州道は交差点を横切り更に真っ直ぐ進む。樹木で覆われた山裾の長い下り坂となる。HOYAの工場の裏手をかすめ、小和田グランド脇を先に進むと秋川沿いの道となる。
留原は中世には「戸津原」、近世は「渡津原」と書かれている。「トツハラ」>「トッパラ」>「突つ原」、ということで、「突き出した原」。地形的にはよくなじむ説である。また、「トドハラ」と濁ると、「トド」は「イタドリ」。イタドリの採れた原っぱ、という説もあるが、定説はない(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。
ちなみに、愛媛では「たしっぽ」、関西では「すかんぽ」などと呼ばれる茎に酸味のある山菜。子どものころ、よく山に採りにいったものだ。先日、津久井の丘陵地を歩いていた時、道ばたにタシッポを見つけ、子どもへのお土産に持って帰ったのだが、子どもたちは嫌々、一口歯を入れただけて、それっきり見向きもしなかった。

小和田橋
前方上流方向に堰。その先に小和田橋が見える。対岸に阿伎留神社がある。いつだったか阿伎留神社を訪ねたことがある。歴史は古く、延喜式には武蔵多摩郡八座の筆頭。武将の信仰も篤く、藤原秀郷は将門討伐の祈願に訪れたと言うし、頼朝、尊氏、後北条氏、家康などからの寄進を受けている。秋川沿いの古木に囲まれた境内は、いい雰囲気であった。小和田橋の手前から川沿いの小道を進み、橋の袂からは南に折れ、小和田の里を進む。小和田(オワダ)の「和田(ワタ)」は「川岸や海岸の湾曲した地形を表す、と。地形的には、その通り。また、「オワダ」には小さな集落との意味もある、と言う(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。はてさて、地名の由来に定説なし、がまた増えた。

広徳寺
畑の広がる道を歩く。左手になだらかな丘陵が見える。日向峰と呼ばれるようだ

。ゆったりとした坂を上ってゆくと、丘陵へ小径が分岐。広徳寺への参道である。参道入口には庚申塔など石仏・石塔が並ぶ。
丘陵を上ると境内に。開基は南北朝期というから14世紀の末、この地の長者の妻による。戦国期は北条氏の庇護を受けた。とか。本堂、山門、ともに堂々とした構え。特に山門は、如何にも「渋い」。如何にも、いい。道から離れ、丘に上るのには少々躊躇いもあったのだが、やはり、とりあえず行ってみる、って精神を改めて確認。

佳月橋
広徳寺を離れ、道に戻る。先に進み民家の中を歩くと分岐点。「佳月橋」の道案内。古甲州道は、佳月橋へと続く。急な坂を下り、ちいさな沢を渡り、分岐点を右に折れると佳月橋に。旧甲州道はここで秋川南岸から北岸に渡ることになる。橋の上からは秋川上流に戸倉城山が見える。戸倉城山には一度上ったことがあり、その特徴的な山容を覚えていた。留原あたりから遠くに見え始めてはいたのだが、ここまで来ると、くっきり、はっきり迫ってくる。
戸倉城は15世紀頃、南一揆の頭領のひとり、小宮氏により築かれたとする。戦国期には大石氏が居城であった滝山城を離れこの戸倉城に隠居した、とか。元は関東管領上杉方の重臣であった大石氏ではあるが、川越夜戦での勝利などで力をつけた小田原北条氏の圧力に抗しきれず、北条氏照を娘婿に迎え滝山城を譲り、自身はこの地に移った。とはいうものの、一筋縄ではいかない大石氏故に、諸説あれこれあり、大石氏のその後の動向についての定説はない。
この戸倉城、上りは結構怖かった。麓の光厳寺から上っていくのだが、南の盆堀川の崖上を進む尾根道にビビリ、山頂寸前の岩場に溜息をついた。山頂はほとんど狼煙台程度の

広さ。東の眺め眼下一望。西はここからは今ひとつよくなかったが、南北秋川の号合流点にある檜原城からこの戸倉城山はよく見えた。檜原城、秋川渓谷入口にあるこの戸倉城、秋川丘陵にある根小屋城、秋川と多摩川の合流点にある高月城、そして滝山丘陵にある滝山城へと続く「煙通信」の砦、と言うか、狼煙台であったのだろう。

檜原街道


佳月橋を渡り秋川沿いの道を進む。渓谷の雰囲気が増す道を進むと川沿いの道は行き止まり。ここからは道を右に折れ、民家の軒先をすり抜け急坂を上ると檜原街道に。そこはほとんど、檜原街道と本郷通りの分岐点である小中野の交差点。角には料亭黒茶屋。落語家、三遊亭歌笑さんの生家、とか。
古甲州道はここを本郷通りに折れ、沢戸橋を渡り、すぐ先で右に折れ、戸倉城山下の道(本郷通り)を通って再び檜原街道に戻り、檜原本宿へと向かう。が、今回の散歩はこれでおしまい。ぶらぶらと、途中五日市郷土館に立ち寄ったりしながら武蔵五日市駅に向かい、一路家路へと。


水曜日, 2月 25, 2009

奥武蔵散歩:越生から高山不動へ

龍穏寺に行く事にした。太田道灌ゆかりの寺である。越生の奥、龍ガ谷の中央にあり、市街からは結構離れている。市街とのピストン往復では、いかにも味気ない。地図でチェックする。と、龍穏寺の北の梅本集落から林道が奥武蔵高原の尾根道まで通じている。これは、いい。どうせのことならと、この尾根道、通称奥武蔵グリーンラインに進むことにした。
幾つもの峠が連なるこの尾根道はその昔、越生と吾野、秩父を結ぶ幹線道路であった。
信仰のため、商業活動のため、日々の生活のため、そして時には山中の寺で開帳される「賭博」のための往還でもあったのだろう。奥武蔵グリーンラインから先は、しばし尾根道を南に辿り、高山不動を経て吾野に下ることにする。高山不動は龍穏寺の奥の院。偶然とはいいながら、散歩のはじめと終わりが龍穏寺からみ、とは、これもなにかの因縁、か。



本日のルート:東武東上線越生駅>上大満>越辺川>竜ガ谷集落>下馬門>龍穏寺>龍穏寺の熊野神社>山神社>瀧不動_男瀧と女瀧>林道梅本本線>林道梅本支線>行き止まり>障子岩名水>大平尾根合流>野末張見晴し台>グリーンロード>飯盛峠>グリーンロード>関八州見晴し台>高山不動>三輪神社>高山不動の 参道と志田林道の合流点>高山不動参道口>瀬尾>下長沢>国道299付近>高麗川>西武秩父線吾野駅


東武東上線越生駅
池袋から東武東上線に乗り、坂戸で東武越生線に乗り換え越生の駅に。越生は今回がはじめてではない。何時だったか、道灌ゆかりの「山吹の里」を訪ねてこの地に足を運んだ。龍穏寺のことを知ったのも、その時である。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」で知られる「山吹の里」は散歩の折々にそこかしこで出会うので、それはそれでいいとして、名刹・龍穏寺がなにゆえ、この越生にあるのか気になっていた。なにせ、奥武蔵の山の中である。チェックする。と、越生はその昔、このあたりの中心地であった、よう。鉄道が通る現在では中心は飯能であり、秩父に移っているわけだが、それが鉄道もなかった昔からの中心地であったかどうかは、別の話である。「現在軸」からの思い込みには注意が必要、か。

麦原バス停
越生駅より黒川行きのバスに乗る。山裾に沿って市街地を北に向かい、山稜が切れたあたりを西に折れる。山稜が切れたところを越辺川が流れる。越辺川によって開かれた山稜の間の低地を西に進む。津久根地区と呼ばれる。
津久根を西に向かい、越生梅林あたりからは南西に向かう。越辺川によって開析された谷筋である。川に沿って進むと麦原バス停。ここは、小杉、アジサイ公園、麦原を経て飯盛峠に向かう昔の秩父越生道の入口。吾野の谷や秩父から、背に炭を背負い峠を越え、食料や衣料と交換するために物々交換の中心地である越生にやって来たのだろう。

上大満バス停
麦原バス停を過ぎ、大満地区を1.5キロほど進み上大満バス停で下車。越生の駅から30分ほどかかっただろう、か。バス停の脇を流れるのは越辺川の支流・龍ガ谷川。龍穏寺はこの龍ガ谷川を2キロ弱上ったところにある。
大満とはいかにも奇妙な地名。気になってチェックした。すると、その地名は龍ガ谷にまつわるある伝説に由来する、と。
昔々、この龍ガ谷一帯は大きな湖であった。底には龍が棲んでいたとのことだが、それはそれとして、ある日大雨で堤が決壊し、一面が水浸しとなった。大満とは、その「水が溢れた地」のこと。ちなみに、バスで通り過ぎた津久根は、もともとは「築根」。決壊した水を防ぐべく堤防を築いたところ。そういえば、津久根の地は、越辺川が山間から平地に流れ出す喉元。ここに堰をつくれば、確かに洪水が防げそうではある。
そうそう、湖に棲んでいた龍の話。名栗の龍泉寺から越生の龍穏寺にお手伝いに来ていた小坊主さんを背に乗せて名栗と越生を往復していた、とか。龍泉寺の和尚さんの看病のためである。で、洪水で棲むところをなくした龍は名栗の有馬の谷に逃れ、そこに棲むことになった、とか。直線距離でも10キロ以上はなれている名栗と越生ではあるが、このふたつの地域は一衣帯水であったということ、か(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

龍穏寺
上大満バス停から龍ガ谷川に沿って歩く。半時間弱で龍穏寺の入口。如意輪観音様が迎えてくれる。龍穏寺は役の行者の創始とされる。縁起は縁起として、開山は14世紀末とも15世紀初め、とも。足利義教だか、足利義政だか、ともあれ足利氏が尊氏以下の足利氏の冥福を祈るため、関東官領上杉持朝に命じて開いた。その後、兵火に焼失。15世紀の後半に太田道灌、道真が再建した。
16世紀末には豊臣秀吉より御朱印100石。17世紀初頭には徳川家康より総寧寺(千葉県・市川市)、大中寺(栃木県・大平町)とともに関三刹とも呼ばれる大寺院に。全国の曹洞宗寺院のうち、23ヶ国の寺院、その僧侶など二万人を統括していた、とか。

参道を進むと堂々とした門。無相門。彫刻は榛名の名工岸亦八の手による。先に進むと江戸城の石。江戸城外濠に架かる神田橋の橋台として使われていたものである。本堂にお参りし、続いて太田道灌銅像に。案内をメモ;「太田道灌公墓;永享4年(1432)龍穏寺寺領(父・居城居城居城居城居城太田道真の)に生る幼名鶴千代丸後雲崗舜徳襌師(龍穏五世)について出家道灌と号す「瑞巖主人公」の公案を受け大悟徹底す長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き川越城・岩槻城・鉢形城を修築し野戦に長じ関東雄将たり。しかるに惜むべし文明18年(1486)神奈川県伊勢原市にて謀殺される。法名香月院殿春苑道灌大居士分骨して当山に葬る、と。少々きらびやかな経堂の外壁を彩る彫り物を眺め、境内脇にある熊野神社にお参りし、お寺を離れる。

梅本林道
少し進むと食事処・山猫軒。築130年という旧家を改築したもの。散歩をしていると、時々山の中、と言ってもいいようなところに洒落た食事処がある。高尾から津久井の城山湖に向かって歩いていた時も、案内川に沿って甲州街道を進み、峰の薬師参道を峠道に入った山中にも同じような雰囲気の食事処があった「うかい竹亭」。山中ではないけれど、仙川に沿って武蔵小金井をぶらぶらしていると懐石料理で名高い尼寺・三光院に出会った。食通にはうれしいお店ではあろうが、食にあまり興味のないわが身には、有難さも中位といったところ、である。
歩を進め、道が分岐するあたりの道脇にこじんまりとした社、というか祠。山神宮八幡神社とあった。ここから左に分岐する道は、高山街道へ続く道のようである。高山道は四寸道とも呼ばれる、越生から高山不動への参拝道。起点は大満の越辺川と龍ガ谷川の合流点より少し黒山に向かって進んだ下ケ谷の下ケ谷橋の袂。そこから下ケ谷薬師を経て、越辺川と龍ガ谷川に挟まれた尾根道上を薪山>駒ヶ岳>峰山、関場ガ原(関八州見晴台)と上り高山不動を目指す。
この梅本の分岐は龍穏寺から尾根道に直接進むショートカットのルートだろう、か。高山不動は龍穏寺の奥の院とも言われているので、昔は参拝人でにぎわったのだろうが、現在高山道は廃道寸前となっている、とか。ちなみに、高山道の別名四寸道の由来は、幅が四寸の露岩のやせ尾根を行くから、と。

旧秩父道への分岐
少し進み梅本集落の入口付近の道端に滝不動。ブロックの祠の中に、年代を経たお不動様。滝不動と呼ばれるように、男滝と女滝があるのだが、どちらもいかにもつつましやかな滝である。
滝不動を越えると、梅本林道の標識。ここから飯盛山の大平尾根へと上る林道がはじまる。林道を尾根に向かってゆったり上る。龍穏寺から2キロ強歩いたところで、梅本林支線が分岐。草むらに旧秩父街道との案内。秩父越生街道って、龍穏寺へのバスの途中、小杉、麦原から太平尾根に上っていた道筋。この道は龍穏寺方面からこの秩父越生街道に通じる道だったのだろう、か。
支道入口は通行止めとはなっていたのだが、これって車がダメだが、歩きは大丈夫だろうと、無理矢理解釈。とりあえず、どんな道筋か本線を離れ支道にはいる。ぐるりと曲がったゆったりとした坂道を上ると障子岩。断層としては専門家にはありがたい岩のようだが、門外漢には岩よりも、そこから流れ出す障子岩名水がありがたい。一口飲んで先に進む。が、ほどなく道は行き止まり。進めるかどうかブッシュの中に分け入るも、どうにも進めそうも無い。諦める。林道によって道筋が代わり、廃道となったのだろう。仕方なく本道に戻る。整備はされている。

野末張(のずはり)見晴台
尾 根に向かってジリジリと上ってゆく。旧秩父道への分岐から1キロ弱歩き、ほとんど180度ターンをするカーブのあたりで道の周囲は開ける。ほぼ尾根筋に来たのだろう。ヘアピンカーブのところに東のほうから林道に合流する尾根道があった。チェックすると、アジサイ公園方面との案内。ということは、ここらあたりが大平尾根。ということは、合流してきたこの尾根道は小杉、麦原方面から上ってきた秩父越生道なのだろう。少し尾根道を歩き、なんとなくの秩父越生道の雰囲気を楽しみ、元に戻る。
180度の折り返しの「中州」のところに展望台。野末張見晴台と呼ばれる。いやはや、素晴らしい展望。思いがけないプレゼントといった感じ。山並みのどこがどこだかわからないながらも、見晴らしを楽しむ。後でチェックすると、北は赤城山とか日光連山、南は新宿の高層ビルまでもカバーしていたようだ。


奥武蔵グリーンライン

尾根道を2キロほど進むと奥武蔵高原道路、通称奥武蔵グリーンラインに合流。案内に右に折れると飯盛峠、左は関八州見張台、どちらも1キロ程度。先を急ぐのだが、飯盛峠って、どんなものかピストン往復を。

飯盛峠
奥武蔵グリーンラインを飯盛峠に向かう。奥武蔵グリーンラインって、外秩父の尾根を走る林道。この尾根道には大野峠、七曲り、刈場坂峠、ブナ峠、飯盛峠、アラザク峠、傘杉峠、顔振峠といくつもの峠が連続する。このようにいくつもの峠が開かれた理由は、高麗川の谷筋に沿った吾野の村々、また、芦ケ久保といった秩父の集落から越生に通じる道が必要であった、から。今でこそ西武線が通り飯能や秩父にすぐに行ける吾野の町ではある

が、その昔は、生活物資を求めてこの地域の中心地である越生に向かうしかなかったようだ。
谷筋の村々からは炭を背負い、峠をこえて越生に向かい、そこで食料や衣料と交換した。また、芦ケ久保の集落からは、距離的には秩父が近いわけだが、お米など秩父までの運賃が高く、であれば、ということで秩父に比べて安いお米が手に入る越生に向かって、峠を越えた、と言う。(『ものがたり奥武蔵:神山弘(岳書房)』より)。今となってはどうということのない峠だが、昔は人々が足しげく往還したのだろう。少々の感慨。
尾根道を進むとほどなく飯盛峠。標高810m。ヒットエンドランでもあり、道端にある飯盛峠の標識にタッチし、梅本林道との合流点に戻り、そのまま尾根道を関八州見晴台に向かう。


関八州見晴台
梅本林道との合流点から1キロほど尾根道を進むと関八州見晴台。越生と飯能の境目。標高770m。安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸の関東八カ国が一望のもと、ということが地名の由来。

見晴台には奥武蔵グリーンロードから少々の高台に上ることになる。高台には高山不動の奥の院。つつましやかな祠といった風情であった。本尊の五代尊不動明王は関東鎮護のため東京に向けられている、とか。しばしの休息の後、本日最後の目的地である高山不動に向かう。

高山不動
杉林の中を下る。はじめは舗装もされているが、途中からそれも切れ山道をどんどん下る。奥武蔵グリーンラインにつかず離れずといった道筋。ほどなく高山不動の本堂脇に到着。素朴であるが堂々とした本堂である。創建の時期は7世紀とも言われるが、正確な時期は明らかでない。少なくとも平安時代末期には坂東八平氏・秩父重遠がこの地に居住し、高山氏を名乗ったわけで、古い歴史をもつことは間違いない。
本堂にお参り。石段の下にはひとつふたつ建物が見えるにしても、成田不動、高幡不動とともに関東三大不動のひとつとも言われる割には、ちょっと寂しい。七堂伽藍が林立、とまではいかなくても、もう少々堂宇が並ぶか、とも想像していたのだが、まったくもってさっぱりしたもの。往時は3

6坊を誇った堂宇も現在は3坊を残すのみ。明治の廃仏毀釈の洗礼を経たためであろう、か。江戸の頃は、参拝客で賑わい、賭博で賑わったお不動さまも、今は静かな風情である。
106段の石段を下ると、ひときわ大きい樹木。子育ての大イチョウと呼ばれる。成り行きで下り、庫裏前を進み道に出るとすぐにつつましやかな三輪神社。ちょっとお参りをし、吾野駅に向かう。
そうそう、高山不動は賭博が盛んであった、とメモした。神社仏閣と賭博はここだけの話でもない。足立区花畑の鷲神社もそうであった。酉の市で知られるこの神社も賭博で賑わった。で、賭博が禁止されると、人の動きがピタリと止まった、とか。信仰だけでなく、なんらかの現世利益、楽しみが必要ということ、か。当たり前と言えば当たり前。

西武秩父線吾野駅

三輪神社を経て上長沢地区の山道をどんどん下り、途中志田林道の合流箇所などを見やりながら高山不動参道入口に。お不動さんから3キロ強といったところ。さらに下り、瀬尾のあたりまで来ると民家も多くなる。瀬尾の集落は高山不動尊の参道として賑わった。道筋には材木店も見える。下長沢地区の山腹に点在する
民家を見やりながら渓流に沿って進み、国道299号線に合流。ここまでくれば吾野駅はすぐそこ、だ。



国道299号線の南には高麗川が流れる。高麗川は刈場坂峠付近に源を発し、飯能、日高、毛呂山と下り、坂戸で越辺川に合流する。名前の由来は、高麗郡より。716年、駿河など7カ国に住んでいた高句麗からの帰化人1799名を武蔵国に集め設置したもの。日高市にある高麗の里の巾着田を歩いたことがなつかしい。
川に沿って吾野の駅に向かい、本日の予定終了。ちなみに、吾野の駅って、西武秩父線の始点,、というか、1969年に正丸トンネルができるまでは西武線の終点であった。で、トンネルができて、秩父とつながったため、西武線終点であった吾野が秩父線の始点となった、ということだろう。西武鉄道のほとんどの電車が、始点・吾野ではなく飯能で折り返しているのは、歴史的経緯としての始点とは関係のない、なにか別の「合理的」理由によるのだろう。それにしても、それにしても、高麗川の谷筋と秩父が電車で繋がったのは、それほど昔のことではなかったわけである。


旧正丸峠越え

正丸峠を越えようと思った。名前が結構前から気になり、そのうちに歩こうとも考えていた峠である。飯能から高麗川の谷筋を進み秩父に入るには正丸トンネルを抜ける。正丸峠はこのトンネルからは少し離れた尾根筋あるのだが、秩父観音霊場巡りなどで頻繁に正丸トンネルを通っているうちに、おなじ名前の正丸峠が脳裏に刷り込まれていたのだろう。
ルートをチェックすると、西武秩父線・正丸駅近くから旧正丸峠への道がある。峠からは正丸トンネルの秩父口に下りる道もあるようだ。峠の上り下りは5キロ程度。それほどの距離ではない。秩父側の国道に下りてから、芦ケ久保駅までが4キロ弱と少々長く、大型トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇を歩くのは少々憂鬱ではある。バスの便でもあればそれに乗るのもいいか、といった成り行きに任せる事に。
秩父の峠で最初に覚えた峠が正丸峠。が、あれこれしているうちに、釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父や奥武蔵の峠を結構越えてしまった。遅れてやって来た主人公に会いに行く、といった気持ちではある。


本日のルート;西武秩父線正丸駅>国道299号線>坂元集落>八坂神社>峠道>正丸峠への車道と交差>旧道を旧正丸峠に>旧正丸峠>治山ダム>追分>横瀬川>山伏峠からの県道53号線に合流>国道299号線>西秩父線芦ケ久保駅


西武秩父線正丸駅

正丸駅に下る。駅前が結構広い。気になりチェック。どうもバスの発着所であった、よう。現在では西武線はトンネルで秩父と結ばれているが、西武秩父線の正丸トンネルが開通したのは1969年。武甲山の石灰の運搬と沿線の観光開発を目的に秩父と吾野間が電車で結ばれた。
西武秩父線が開通する前は、西武池袋線の終点である吾野と秩父駅は正丸峠を越えるバス路線が走っていた。また、トンネルが開通し、それまで西武池袋線の終点であった吾野駅と秩父駅が結ばれるようになってからも、秩父駅と正丸駅の間には峠越えのバス路線が走っていた時期があった、ようだ。国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年であり、それまでのある時期、バスが峠道を上り下りしていたわけで、「広場」はその時期のバスターミナルの名残であろう、か。
西武線秩父線の正丸トンネルの開通が1696年、国道299号線の正丸トンネルの開通が1982年。秩父と飯能、ひいては首都圏と繋がったのはそれほど昔のことでは、ない。秩父って、つい最近まで、結構「遠い」ところであったわけ、だ。


坂元集落
正丸駅を離れ国道299号線に出る。国道を700mほど歩くと坂元集落に入る道が分かれる。道脇に「旧正丸峠、正丸峠、刈場坂峠」への道標。国道を離れるとすぐに高麗川を渡り坂元の集落に。高麗川の源流は刈場坂峠(かばさか)の近く。飯能、入間、毛呂山を流れ坂戸市で越辺川に合流する。
正丸トンネル手前で国道から右に分かれ正丸峠へと上る道がある。道はほどなくふたつにわかれ、左に大きくカーブする道が旧国道、そのまま直進する道が刈場坂峠への道。高麗川はその直進する道に沿って刈場坂峠へと続く。源流の碑もあるということであり、そのうちに歩いてみたい。
集落にはいると道脇につつましやかな祠。八坂神社とあった。お参りをすまし、5分も歩くと道は次第に山道となる。舗装も切れた杉林の道脇には石仏が佇んでいた。

沢沿いの道を上る

沢沿いの道を上る。ここからは丸太橋や仮設橋で沢を渡ることになる。ささやかな沢である。沢の右岸を上る。第一の仮設橋で左岸に移る。鉄パイプのつくりは少々味気なし。ほどなく道脇に大岩。この巨岩脇を抜けると第二の橋に。丸木でつくられた橋を渡り右岸に戻る。道なのか沢なのかといった道筋のすぐそばを歩くことも。
三番目の橋は再び仮設橋。ここで左岸に渡る。第四の橋は越流状態。木橋の上は土砂に埋もれ、そこを水が流れる。右岸に移り第五の仮設橋で左岸に。ここからは北に延びる沢筋を上ることになる。谷筋を過ぎると急斜面。一気に上る、のみ。



旧国道に合流

上り切ったところで車道に合流。正丸トンネル手前から正丸峠を越え、県道53号線に合流する昔の国道である。県道53号線は名栗谷の名郷から山伏峠を越えて正丸トンネルの秩父側口の近くに下る道。現在の国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年というから昭和57年。ほんのつい最近まで、飯能方面から秩父に車で入るには、このクネクネした山道を上っていたわけだ。
旧国道の合流点から100mほど上ると再び山道に入る。目印は反射鏡。道の左下に旧国道を見ながら大きくカーブする山道を旧正丸峠に向かって進む。最後の橋は桟道。桟道って、岩場や崖など歩きにくいところに足場を組んだ、もの。桟道を越え鬱蒼とした杉林の中を進むと旧正丸峠に。

この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、275号)」



旧正丸峠

標高670m。県道の正丸峠が開通されて以来、旧正丸峠と呼ばれるようになった。坂元集落から2キロ程度。正丸駅からでも4キロ程、といったところ。ここまでは飯能市。稜線を越えると秩父に入る。
峠は狭い切り通しとなっている。稜線を左に進むと1.3キロで正丸峠、右に上ると虚空蔵山まで1.8キロ、刈場坂峠までは3.3キロ。直進し、峠を秩父に下ると初花、芦ケ久保に達する。伊豆ガ岳から正丸峠を経て北に延びる稜線を「正丸尾根」と呼ぶ。伊豆ガ岳>正丸峠>ガンゼ山>旧正丸峠>虚空蔵峠>大野峠>丸山へと続く。この横瀬の丸山を大丸山と呼び、旧正丸峠横のガンゼ山(川越山)を小丸山と呼ばれていた、と。正丸峠の名前の由来は、この小丸>しょうまる>正丸、となったとの説もある。正丸という親孝行な少年が、母親を背負ってこの峠を越えたのが、名前の由来との説よりは、なんとなく、納得感がある(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
もっとも、この峠は昔から正丸峠と呼ばれていた訳ではない。二子峠と呼ばれていた、。昔は現在国道299号線が走っている芦ケ久保川沿いには道は無く、秩父から高麗川筋に出るには、二子山の南肩を越え、処花に下り、それから虚空蔵峠を越えて坂元に出ていた。二子峠と呼ばれたのは、このためである。正丸三角点であるカンゼ山(川越山)の東肩の按部であるこの旧正丸峠を越えるようになったのは、その後のことであると言う(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
正丸峠が秩父と奥武蔵をつなぐ主要往還道と思い込んでもいた時期がある。秩父観音霊場を廻るため幾度となく秩父を往復したとき、飯能から高麗川の谷筋(秩父凹地帯)を進み正丸トンネルを抜けて秩父に入る。正丸峠はこのトンネルからは少し離れたところにあるのだが、今日の主要往還である正丸トンネルを頻繁に通っているうちに、おなじ名前の正丸峠も「主要」峠であろう、と刷り込まれていたのだろう。
その後、正丸峠を越える前に釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父と奥武蔵の峠を越え、あれこれ歩いているうちに、秩父と奥武蔵を結ぶ峠は数多くあり、正丸峠はそれら峠のひとつに過ぎない、といったことがわかってきた。そして、それよりなにより、当時の往還のメーンルートは越生と秩父・高麗川筋であり、秩父から高麗川筋って、それほど人の往来があったわけでもなかったようだ。『ものがたり奥武蔵;岳書房』によれば、秩父と飯能を結ぶこの正丸峠は普段は旅商人などが通るほかは人影もない寂しい道、獣道のようであった、とか。唯一この峠が賑わうのは年に一度の三峰神社のお祭りのときだけ。そのときだけは飯能、高麗、吾野の人々がこの峠を越え、終日賑わった、とある。「現在軸」だけからのあれこれの判断は慎重に、ということであろう。
この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、275号)」

峠からの下り
芦ケ久保に向かい峠を下る。飯能側の杉林と異なり、明るい雑木林の中を歩くのだが、道筋が少し分かりにくい。踏み跡を探しながら下る。涸れ沢の谷筋に出る。道と谷が土砂で埋もれたのだろうか、道筋が誠に分かりにくい。ただ、杉林と違い雑木林の木もまばらであり見通しがつけやすいので、それほど道に迷う不安は少ない。
涸れ沢を過ぎると沢の脇の細路を下る。カタクリの群生地脇を進むと広場のようなところにでる。ベンチなどもあり、川筋には治山ダム。谷筋の浸食を止め森林の維持・造成を図るもの。この広場も治山ダムにより沢筋が固定され、土砂が溜まり緑地が広がったものだろう、か。門外漢のため、単なる所感ではある。

追分
林道を進むと道は舗装されている。しばらく歩くと追分に。大カエデのそばに石仏。
追分で山伏峠に行く道と分かれる。松枝あたりで県道53号線に合流しているようだ。

県道53号線

石仏にお参りし、横瀬川の流れを見やりながら初花(処花)あたりで山伏峠か

らの県道53号線に合流。

国道299号線
初花から500mほど歩くと国道299号線の正丸トンネル秩父口に到着。正丸峠越えはこれで完了。上り下り、それぞれ1時間程度、といったところではあった。初花(処花)って美しい名前。由来はよくわからない。ただ、初花、って新年に一番最初に咲く花、季節毎に最初に咲く花のこと、とか。それから転じて、若い女性やいつまでも新鮮なパートナーのことを指すとも言う。この集落の名前の由来は、はてさて。

西武線秩父線芦ケ久保駅



国道を芦ケ久保駅に向かう。4キロ強といったところ、か。道の脇には横瀬川。その南には二子山。こんな話がある。昔、二子山にはダイダラボッチが棲んでいた。山や川、池をつくる大男。その神様が秩父に山をつくるためにやってきたのだが、この芦ケ久保の窪地で足をとられて運んできた土をこぼした、と。この足を取られた窪地が「足窪」。それが転化して「芦ケ久保」。で、こぼした土でできたのが二子山であった、と。そういえば、我が家の近くにある杉並区の代田橋も、この大男ダイダラボッチの足跡が由来、とか。
日も暮れてきた。国道を歩き、成り行きでバス停でバスに乗り、西武秩父まで進み本日の予定終了。