金曜日, 8月 14, 2009

古甲州道・大菩薩峠を越える;そのⅠ

古甲州道歩きも3回目。 初回は秋川丘陵を戸倉まで。2回目は檜原本宿から小河内へと抜ける浅間尾根を歩いた。本来なら3回目は浅間尾根の終点であった数馬から小河内へ抜け、小河内から小菅村といった段取りではあるのだが、途中を飛び越え、一挙に大菩薩越えと相成った。小説『大菩薩峠』の主人公、机龍之介が辿ったであろう、古甲州街道・大菩薩峠越えの道へのはやる想いを、といったところ、である。
ルートは塩山から大菩薩峠に上り、石丸峠、牛の寝通りを経て小菅村に出ることに。日程は1泊二日。無理すれば1日でも歩けそうにも思うのだが、小菅から奥多摩へのバスの最終便が5時過ぎということである。時間配分がいまひとつ見えない初めての山塊でもあるので大菩薩峠の山小屋で一泊することにした。


初日;東京を出発し大菩薩峠に
初日のルート:裂石バス停>雲峰寺>車道を丸川峠分岐へ>千石茶屋跡>ロッジ長兵衛>福ちゃん荘>富士見山荘>勝縁荘>介山荘>大菩薩峠>大菩薩嶺付近>小菅村への道_荷渡し場>介山荘泊

塩山
東京を出発。中央線で塩山に向かう。車窓からは相模川の発達した段丘を眺め、川沿いに続く江戸時代の甲州街道に想いをはせる。大月には駅前に岩山が聳える。気になり調べると岩殿山とのこと。このときがきかっけとなって、後日小山田氏の居城・岩殿城を歩くことになった。
笹子トンネルでは、雪の笹子峠越えを思い出す。トンネルを抜けると甲斐大和駅。武田勝頼自刃の地、天目山への最寄り駅。目的の塩山はその次の駅。
塩山からは山梨交通バスに乗り、国道411号線を大菩薩山登山口である裂石に進む。411号線は八王子と甲府をつなぐ1級国道。新宿から続く青梅街道は青梅市内でこの国道411号線につながる。ために、国道411号線は青梅街道とも呼ばれている。またこのあたりでは青梅街道・大菩薩ラインとも呼ばれる。

裂石
30分弱バスに乗り裂石で下車。国道411号線はそのまま柳沢峠へと向かうが、大菩薩峠への登山口は国道を離れ県道201に折れる。県道201号線は正式には「山梨県道201号線塩山停車場大菩薩嶺線」と呼ばれる。終点は大菩薩への登山ルートでもある、ロッジ長兵衛のある上日川峠。そこから先に続く道は県道218号線(大菩薩初鹿野線)となり、甲斐大和へと下り国道20号線・甲州街道に合流する。

雲峰寺
バス停から東にのびる県道を進むとほどなく道脇に古刹・雲峰寺。徒歩5分といったところ。「うんぼうじ」と読む。198段の高い石段を上ると本堂、書院、庫裏が建つ。天平17(745)年行基菩薩を開山とする臨済宗妙心寺派の名刹。武田家戦勝祈願寺として歴代領主の帰依が厚く、本堂、仁王門及び庫裡はすべて重要文化財。室町時代に武田信虎によって再建された。
甲斐国の府中からみて鬼門にあたるこの寺は、武田家代々の祈願所。武田家の家宝もあった日本最古の「日の丸の旗」が残る。後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜され、その後甲斐武田氏に伝わったもの。また、この寺には天正10年(1582)武田勝頼が天目山で自刃したあと、家臣が再興を期してひそかに当寺に納めた「孫子の旗」六旒をはじめ、信玄の護身旗である「諏訪明神旗」、そして「馬印旗」といった武田軍の軍旗が所蔵されている。
ちなみに「日の丸の旗」って、「御旗楯無」の「御旗」。武田軍は「御旗楯無も御照覧あれ」との必勝の誓いのもと出陣していた、と言う。「孫子の旗」って、有名な「風林火山」の旗。
裂石の地名の由来はこの名刹、から。寺の縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れたとき、突然の雷鳴。砕けた大岩に十一面観音が現れ、そこに萩の木が生える。行基菩薩はその萩の木で十一面観音像を彫り、雲峰寺を開基した、と伝えられている。裂けた石はどこにあるのかわからなかったが、萩の木云々は、このあたり上萩原と呼ばれているわけでもあり、それなりのストーリー展開となっている。。

丸川峠分岐
お寺を離れ、最初の目的地である上日川峠に向かう。県道201号線を進む。舗装道路を20分程度歩くと丸川峠への分岐点に。この地点から北に折れると大菩薩嶺の北にある丸川峠(標高1700m)へと続く。

千石茶屋
丸川峠への分岐から20分弱、道が大きくカーブするあたりに道標。ここが登山道への分岐点。千石平と呼ばれている。この道標を目安に県道を離れ小道に入る。橋を渡ると千石茶屋。店は閉まっていた。千石茶屋から少し歩くと大菩薩峠登山道入口の標識。ここから林道へと入る。
ここから先、上日川峠のロッジ長兵衛までは樹林の中。おにぎり石を見やり、第一展望台、第二展望台に。ここでおおよそ上日川峠への半分くらい、だろうか。「やまなしの森林百選大菩薩のブナ林」の看板を過ぎると、傾斜が厳しく、つづら折れの道となる。あと残り三分の一弱。大きな栗の木を越えると傾斜が緩やかになり、ほどなくロッジに到着。ロッジ長兵衛。千石茶屋からほぼ1時間。裂石から1時間半強、といったところである。

上日川峠・ロッジ長兵衛
いつの頃だったか、大菩薩峠に来たことがある。まだ子供が小学校の低学年の頃なので10年も前のことだろう。そのときは、このロッジ長兵衛まで車で上ったのだが、ここが峠とはまったく思えなかった。上日川峠。裂石から上ってきた県道201号線はここで終点。ここからは県道218号線として甲斐大和に下る。
こ こが峠と知ったのはつい最近のこと。笹子峠を越え、甲斐大和に下ったとき、山の中腹に「武田家終焉の地・甲斐大和」の大きな看板。武田家終焉の地って確か天目山だった、かと。チェックすると、天目山って甲斐大和のすぐ近くにあった。日を改めて甲斐大和に訪れ、県道218号線を上り、武田家ゆかりの寺・景徳院や、天目山栖雲寺を訪ねたのだが、その道すがらバス停に眼をやると、「上日川峠行き」、との案内。地図でチェックすると上日川峠はこのロッジ長兵衛があ るところと分かった次第、である。
ところで、上日川って、「かみにっかわ」なのか「かみひかわ」なのか、どちらだろう。この峠から甲斐大和へ下る県道に沿って流れる日川は「にっかわ」と呼ばれる。が、その上流の上日川ダムは「かみひかわ」と呼ぶようだ。この峠も現在は「かみにっかわ」ではあるが、そのうちに「かみひかわ」となるのだろう、か。
ロッジ長兵衛の長兵衛とは、安政の頃、この峠に棲んでいた山窩(さんか)の名前のこと。山窩とは山に暮らす住所不定の山の民。この長兵衛さん、あれやこれやよからぬことをしたとかしない、とか。








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

福ちゃん荘
上日川峠を離れ、福ちゃん荘に向かう。舗装路が先に続く。舗装路に沿って林の中を続く山道に入る。ミズナラとかカラマツの樹林帯を30分ほど歩くと福ちゃん荘。標高1720m。福ちゃん荘は唐松尾根への分岐点。雷岩を経て大菩薩嶺へと続く登山道がある。
福ちゃん荘といえば赤軍派の逮捕劇で有名。武装蜂起を企て、この地に潜伏して山中訓練を行っていた赤軍派のメンバーが、未明の警察部隊の突入により、53名が逮捕された。世に「大菩薩事件」と呼ばれる。

富士見山荘
福ちゃん荘を離れしばらく平坦な道を進むと富士見山荘前。10年ほど前に来たときも閉まっていたし、今回も閉まっていた。建物脇に展望台。富士が見えるというが、先回も今回も残念ながら姿現れず。子供とここに来たときのことを思いだし、と、少々の想いに浸る。

大菩薩峠・介山荘
ほどなく姫ノ井戸沢の脇に勝縁荘。福ちゃん荘から10分程度。このあたりまでは車道も通る。ここから先は小石が転がる山道となる。
ブナなどの林を抜けると笹に覆われた斜面が眼に入る。やや急な上りを越えると大菩薩峠。福ちゃん荘から30分強。上日川峠・ロッジ長兵衛から1時間弱。裂石登山口から2時間半強といったところであった。
大菩薩峠は標高1897m。ごつごつした岩場。その峠直下に介山荘がある。今夜の宿泊場所はここ。時間は少々早いので、玄関に荷物を置き、大菩薩嶺に向かうことに。
峠に建つ介山荘の前から奥多摩方面を眺める。集落らしきものは小菅だろう、か。天気がよければその先には奥多摩湖.背後には石尾根の稜線が見える、とか。塩山方面には南アルプス、そして手前に光る湖水は上日川湖であろう。
介山荘の前から北に稜線が続く。北に見えるピークは、親知らずの頭(あたま)と妙見の頭。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠、そして賽の河原。大菩薩嶺はその先、1時間半くらいの行程となる。

中里介山の文学碑
歩き始めるとほどなく中里介山の文学碑。1.5mの五輪塔には「上求菩薩下化衆生」、と。「上求菩薩、下化衆生」は仏教の教義を意味する。上求菩薩とは、悟りを求めて厳しい修行を行うこと。下化衆生とは、慈悲を持って他の衆生に救済の手を差し伸べること。仏の道を目指すものはこれら両方を合わせて修得すべきこととされている。


この文学碑は未完の長編小説『大菩薩峠』を記念するもの。「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡|萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
  標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺(みね)の頂(いただき)に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋(う)めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹(ふえふき)川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実(みの)らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿(しゅく)から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分(おいわけ)を右にとって往(ゆ)くこと十三里、武州青梅(おうめ)の宿へ出て、それから山の中を甲斐の石和(いさわ)へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊 (やまとたけるのみこと)、中世に日蓮上人の遊跡(ゆうせき)があり、降(くだ)って慶応の頃、海老蔵(えびぞう)、小団次(こだんじ)などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内(ぐんない)あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖(おそ)れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。(『大菩薩峠』)」
実のところ、つい最近まで小説の主人公である机龍之介が、何故に人里はなれた、標高2000m近い山奥を歩かなければならないのか、いまひとつ理解できなかった。それがなんとなくわかるようになったのは街道歩きを始めてから。古甲州道のルートを調べていると、江戸以前の甲州街道はこの大菩薩峠を越えていた。江戸期に相模川沿いに甲州街道が開かれてからもここは甲州裏街道。今で言えば国道1号線といった大幹線道路。であれば、そこを机龍之介、旅人が歩いていてもそれほど不自然ではない、などと納得した次第。









(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



旧大菩薩峠
稜線の登山道は親知らずの頭に登っていく。親知らずの頭は富士の展望ポイント。明朝はご来光を期待しよう。親知らずの頭を越えると旧大菩薩峠。賽の河原と呼ばれる鞍部には丸太組の避難小屋がある。このあたりが昔の大菩薩峠であった、とか。


峠はその昔、交易の場であった。『大菩薩峠』より;「妙見(みょうけん)の社(やしろ)の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑(やきばた)も作るという人たちであります。 
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅(こすげ)から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩(ぎょえん)を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。(『大菩薩峠』)」。
妙見の社がどこを指すのかはっきりしないが、賽の河原の先にあるピークが妙見の頭と呼ばれ、そこには妙見大菩薩が祀られていたというわけだから、このあたりのことなのだろう。
「荷渡し場」は峠から丹波・小菅に下る道にその跡が残る、と言う。ここ旧大菩薩峠は風の通り道でもあり、遭難も多かったため、場所を移したとも。おそらく昔は妙見の頭を巻くように小菅・丹波村へと続く道が伸びていたのだろう。現在、丹波・小菅に下る道は介山荘のそばから下っている。後ほど荷渡し場の跡まで歩く。

大菩薩嶺
妙見の頭のピークをそれ、なだらかな斜面を左に横切り先に見えるピークに進む。このピークは神部岩(神成岩)。標高2000m。神部岩から先に進み、標高を30mほどのぼったところが雷岩。ここは唐松尾根ルートの分岐。下れば福ちゃん荘脇に出る。介山荘からほぼ1時間といったところ。雷岩を過ぎ、10分強歩くと大菩薩嶺に。大菩薩嶺山頂は木々に囲まれ視界はない。標高2057m。日本百名山のひとつ。介山荘から1時間半弱といった行程であった。

荷渡し場跡

一休みし、荷渡し場跡に向かうため大菩薩峠へと戻る。「小菅村・丹波山村」ヘの指導標を目安に道を下る。所々に石畳の道、石組みの跡も残る。右側は崖。10分強下っただろうか、そこに荷渡し場の標識。「萩原村(塩山市)から丹波、小菅まで行ったのでは1日では帰れないので途中に荷を置いて戻った。萩原村からは米、酒、塩などを、丹波、小菅側からは木炭、こんにゃく、経木などが運ばれた」、と。

『甲斐国誌』によれば、「小菅村ト丹波ヨリ山梨郡ヘ越ユル山道ナリ。登リ下リ八里、峠ニ妙見大菩薩二社アリ、一ハ小菅、ニ属シ、一ハ萩原村(塩山市)ニ属ス。萩原村ヨリ、米穀ヲ小菅村ヘ送ルモノ此、峠マデ持来タリ、妙見社ノ前ニ置キテ帰ル、小菅ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置キテ、彼ノ送ル所ノ荷物ヲ持チ帰ル。此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」、とある。信用取引といったところ、か。実際の荷渡し場は、ここからもう20分弱下ったフルコンバ小屋(標高1680m)のあたりではないか、とも言われる。初日はこれでおしまい。介山荘に戻り一夜を過ごす。

日曜日, 8月 02, 2009

箱根越え:旧東海道・西坂

箱根峠から三島へと
箱根越えの二日目。今回は箱根峠から三島へと下る。歩くまでは峠から坂道を下り、その後平地を三島まで歩くと思っていた。東坂の湯本から小田原へは平地を進む、といったイメージを描いていた。が、実際は大違い。峠から一直線に三島に向かって下る、といったものであった。当初心配だった道も、道標がしっかりしており間違うことはない。箱根八里越えの後半戦を始める。


本日のルート;箱根峠>箱根西坂旧道入口>甲石坂>兜石跡>接待茶屋>永禄茶屋跡・徳川有徳公遺跡>甲石>施行平>石原坂>大枯木坂>小枯木坂>山中新田>駒形諏訪神社>カシの巨木>山中城跡>宗閑寺>山中新田>富士見平>上長坂>笹原地区>笹原の一里塚>笹原新田>長坂>こわめし坂>三つ谷新田>松雲寺>小時雨坂>臼転坂>初音ヶ原松並木>錦田一里塚>愛宕坂>東海道線>大場川>三島大社前>三島駅

元箱根
前日は強羅にある会社の保養所に宿泊。朝、登山電車で強羅から小涌谷へ。そこからは駅傍の国道にあるバス停より元箱根に向かう。途中、車窓より、湯坂道入口のバス停や曽我兄弟の墓を見やる。近くには六道地蔵もある、と言う。
湯坂道入口は鎌倉・室町期の箱根越えの古道。鷹巣山、浅間山から湯坂山を経て箱根湯本に下る。曽我兄弟のお墓は国道の直ぐ傍。そのうちに、箱根東坂の権現坂手前にあった六道地蔵への指導標から歩みをはじめ、曽我兄弟・六道地蔵をへて湯坂道を辿ってみたい、と思う。バスは元箱根に

杉並木
元箱バスを下り、元箱根交差点を西に進み元箱根港手前で国道1号線に合流。ほどなく杉並木がはじまる。東海道といえば松並木を思い浮かべるが、箱根といった高所では松は生育が悪かったのだろう。はじめから杉が植えられていたとするには杉の樹齢が少し若すぎる、とか。試行錯誤の末の杉、ということだろう、か。

吉原久保の一里塚跡
杉並木の始点近くに吉原久保の一里塚跡。江戸の日本橋から数えて24番目。塚はすでになく碑が残るのみ。名前の由来は、往時このあたりの入り江を葭原久保と呼ばれていたから。


恩賜箱根公園
杉並木が切れるところに恩賜箱根公園。芦ノ湖に突き出した半島となっている。聖武天皇の頃、この地に観音堂が建てられ、堂ヶ島と呼ばれていた。明治5年からは明治天皇の箱根離宮跡となっていたが現在は恩賜公園となっている。旧東海道は、このあたりで少し半島方面へと右に少し折れる。

箱根の関所
恩賜公園を道なりに進み箱根関所跡に。慶長19年(1614年)の『徳川実記』に「今日より東海・東山の両道に新関を置きて、無券の往還を許さず」とあるので、関所開設はこのあたりだろう、か。関所の仕事は「入り鉄砲、出女(でおんな)」の監視。武器の流入防止、人質として江戸に詰めている諸藩大名の妻女の国元への逃亡監視、である。営業時間は午前6時から午後6時までとなっている。
関所の取り調べ項目は、「関所を出入りする者は笠や頭巾をとる;乗り物で出入りする者は戸をあける;関より西に出る女性はつぶさに証文に引き合わせる;乗り物で西に出る女性は番所の女性を差し出して相改める;手負い・死人ならびに不審なるものは証文なくして通してはならない;朝廷や大名は前もって連絡あれば、そのまま通してもいい」などと示してある(『あるく 見る箱根八里』)。西に向かう女性に対しては結構厳しい項目となっている。
箱根関所跡は立派な施設がつくられており、観光客もすこぶる多い。なんとなく施設

に入る気にならず、国道へと戻り関所を迂回する。関所裏の国道は切り通しの道。昔はここに道があるわけでもなく、関所前を通るしか道はなかったのだろう。

箱根宿
箱根の関を越えると昔の箱根宿跡となる。箱根宿は箱根の関所が設けられる頃と相前後し造られた。人里離れた山中に好んで住みたい人もいるわけでもなく、小田原藩から50戸、天領三島から50戸をこの地に移住させることに。移住に際しては支度金を用意したり、年貢を免除するなど、移住へのインセンティブを用意している。
19世紀の中ごろには160戸に。住民のほどんどは、茶屋や宿屋、運送業や飛脚といった宿場関係の仕事に従事していた。当たり前といえば当たり前。本陣と脇本陣合わせて7軒。通常の宿は2,3軒が普通のようであるので、規模は大きい。とはいうものの、箱根宿に泊まる大名はあまりいなかったようである。
箱根の関を越え、溝といった流川のあたりが小田原からの移住者が住んだところ。その先の大明神川という小川のあたりが三島からの移住者の町があったところである。途中、箱根駅伝記念館などを眺めながら道なりに進み、国道と県道737号線の分岐点に。旧東海道は県道737号線へと折れる。

駒形神社
県道737号線は湖岸を深良水門、湖尻方面に進む。県道とはいうものの、この道は自動車道はすぐ終わり、あとは歩道となるようだ。深良水門と言えば、先日、深良水門から裾野市の岩波までの深良用水跡を歩いた。江戸時代、芦ノ湖の水を引くため、箱根外輪山を1キロ近く掘りぬき水を通したもの。すごいものである。
県道を少し進むと芦川に当たる。芦川の手前に駒形神社。箱根宿の鎮守さま、と言う。ということは、この芦川の集落は結構古い歴史をもつ、ということ。箱根の関とか箱
根宿ができる以前の鎌倉時代、湯坂道を通る鎌倉街道を往来する人たちの宿場であったのだろう。
境内に犬塚明神社。お犬さまを祀る。箱根宿の建設がはじまった頃、付近には狼が多く、宿場の人を悩ました。で唐犬二匹をもって狼を退治し宿場が完成。傷つきなくなった二匹の犬を「犬塚明神」としてここに祀った、と。ちなみに唐犬とは戦国時代、南蛮より日本にもたらされた大型犬の総称である。

向坂
神社を後に芦川を渡る。すぐ県道と別れ左に進む道が旧東海道。峠道へと進む。ほどなく道脇に六地蔵。道の反対側には庚申塔とか巡礼塔。そこが峠道の最初の坂、向坂の
入口である。名前の由来は箱根宿の向かい、といった意味合いだろ
う。軽くおまいりを済ませ坂を上る。
ここからはいままでの開けた景観から一変し杉並木、と言うか山道に入る。向坂の石畳は国指定の石畳となっている。向坂を進み、国道1号線の下を潜り、石畳石が大きく右にカーブするあたりが釜石坂。次いで左に大きくカーブするあたりが風越坂。大きく迂回し峠を上ってきた国道1号線に合流する手前に挟石坂。木の階段を上り終わると国道に出る。

箱根峠
国道に出ると、鬱蒼とした峠道からは一変。国道1号線、箱根新道の出入り口、箱根外輪山を北に向かう芦ノ湖スカイラインと道路が入り組み誠に目まぐるしい。歩道があるわけでもなく、怖々進み、恐る恐る道を横断し豆相国境の箱根峠に進む。標高846m。湖畔の標高は740mといったとこであるので、100mほど上ってきたことになる。

親不知子不知の石碑峠の茶店というか自販機の並ぶ脇に親不知子不知の石碑。お地蔵さまはないのだが、親知らず地蔵とも脚気地蔵とも呼ばれる。昔々、勘当した息子を探して箱根峠を上ってきた商人が脚気を患いこの地で動けなくなる。通りかかった雲助が介抱しようとするに、懐のお金に目がくらみ殺害。財布を開けると名札にわが父の名。実の父を殺めた雲助は自害した、と。

茨ヶ平
箱根峠を離れ箱根西坂旧道入口に向かう。国道沿って進み、広い駐車場を越えるあたりで国道を離れ右に折れ芦ノ湖カントリークラブの南端と言うか、東端を進む。このあたりは茨ヶ平と呼ばれる。今はハコネダケが茂る一帯ではあるが、往時は茨の原であったのだろう。

箱根西坂旧道入口
道を200mほど進むと道標。箱根西坂旧道入口である。石碑には「是より京都百里、是より江戸25里」とある。入口は見落とすことはないだろう。これから箱根越え・西坂を下ることになる。

甲石坂
道に入るとすぐに休憩所。甲石休憩所とある。足元を直し、西坂の最初の坂である甲石坂を下る。ハコネダケのトンネルの中を進む、といった雰囲気。石畳も笹の葉に覆われている。坂名の由来は兜石があった、から。
ほどなく道脇にお地蔵様。三面八臂の馬頭観音。八つ手観音とも呼ばれる。坂の途中に兜石跡の石碑。兜石そのものは、現在は道を少し下った接待茶屋のところに移されている。『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の詠んだ歌。「たがここに 脱捨おきし かぶといし かかる難所に 降参やして」。

接待茶屋
ほどなく旧街道は国道に出る。接待茶屋バス停のところを大きくカーブすると、道は再び国道から離れる。道脇に接待茶屋の説明板と道標。道標には「三島宿二里二十一町(10.3km)、箱根峠三十三町(3.6km)」と。
接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所。お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。元々は江戸時代後期、箱根権現の別当がはじめたもの。箱根越え・東坂の畑宿手前にも接待茶屋があったが、それも箱根権現の別当、今で言う事務長さんがはじめたもの。
で、この接待茶屋も次第に財政が苦しくなり、江戸の豪商の助けを求めることにした。文政7年というから、1824年のことである。この接待(施行)も弘化2年というから、1845年頃まで続いたが、そこで再び財政難に陥り、江戸時代には再開されることなく終わった。
接待茶屋が再開されたのは明治12年。農民運動の指導者大原幽学率いる理性協会が施行を始める。理性協会が衰えた後も、鈴木さんといった個人がボランティアを続け昭和25年まで続く。まったくの無料奉仕。明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受けとらなかった、とか。

山中一里塚
道を進むと山中一里塚の碑。江戸から26番目。塚はすでに無い。ちなみに、一里塚には榎木が植えられることが多い。謂れは、家康に塚の建設を命ぜられた大久保長安が、塚に植える木を何にしようかとお伺い。と、「そのほうの ええ(好きな)木に植えよ」、と言ったとか、松のかわりに「余(よ)の木にせよ」と言ったのを聞き違いえた、とか。榎の根の強さ故が、本当のところだろう。

兜石
道の逆側に兜石。もとは甲坂にあったもの。由来は、小田原征伐のとき、秀吉が兜を置いた石であったから、とか、頼朝がどうとか、と。ここに移したのは箱根宮下・富士屋ホテルの料理人、鈴木某氏。このあたりを観光開発するために移したと言う。

徳川有徳公遺跡
道の左手に大きな石碑。有徳公・徳川吉宗が将軍になるため箱根を越えるとき、この地で休憩。茶店に永楽銭を賜ったとか。鈴木某氏が観光開発の目玉とすべく、この碑を建てた。

石原坂

分岐を進むと石原坂。石荒坂とも。石畳が続く。坂の途中に明治天皇御小休・御野立所への案内。細路を進めば石碑があるようだが、道はハコネダケで覆われており、なんとなく行きそびれる。

念仏岩
坂の途中に大石と石碑。石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもの。ために、岩は念仏岩と呼ばれる。「南無阿弥陀仏 宗閑寺」とある、ようだ。

仇討ち場
七曲とも呼ばれるカーブの坂道を下る。カーブの終わるあたりが、上でメモした吉宗公ゆかりの永楽茶屋があったところ。明るく開けた茶屋跡に仇討ち話が残る。
仇討ち事件は三島で起きた。明石の殿様の行列に幼女が闖入。一時は幼女のこととて、放免といった次第に。が、その子供の親が元尾張藩士と聞いた明石の殿さんは、幼女を手打ちに。さぞや尾張嫌いであったのだろう。で、怒り心頭の父親による仇討ちの現場となったのが、この地である、と。
この話には尾ひれがつく。明石の殿さんが三島宿で見染めた遊女。しかし、その遊女にすっぽかされ、機嫌が悪かったのも手打ちの一因、と。また、その遊女は手討ちになった子供の実の姉であった、とも。話がどこまで広がるのやら。
ちなみに、その子供、助けを求めて、「言い成りになりますから、どうか助けてください」と命乞いをした。で、その幼女の冥福をいのって造られたのだ「言成地蔵尊」ということだ。三島市内に残る、とか。

大枯木坂

少し窪地となった新五郎久保を通り、大枯木坂を下ると道は民家の庭先に出る

。本来の街道は直進し、小枯木坂へと進んだようだが、道は左に折れ国道に戻る。バス停は山中農場となっているので、先ほどの民家はその農場の一部であったのだろう。

願合寺石畳
国道を渡り階段を下りる。道はここで国道の谷側に移る。再び石畳の道、このあ
たりの石畳は結構最近のもの。平成7年に三島市が整備したものである。願合寺石畳と呼ばれる。

雲助徳利碑
西坂に入って始めての杉林の中を歩く。道脇に雲助徳利碑。雲助が酒飲みの仲間のために建てたもの。案内によると、酒でしくじり国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助に。この碑は、その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになったそのお武家を偲んで造られた。
雲助の由来はさまざま。住所不定で雲のように漂うから、とか、街道でお客を求め蜘蛛の糸を張り巡らせたていたから、とか、あれこれ。あまり評判のよろしくない雲助にもランクがあり、最上級は長持ちかつぎ。継いで、駕籠かつぎ、そして、一人持ちの道具類かつぎ、といったランクになっていた。

山中新田
雲助徳利碑を過ぎると、ほどなく国道に合流する。このあたりは山中新田と呼ばれる。新田とはいうものの、西坂の新田は、通常の田畑開墾のため、というものではない。箱根越えの人馬への便宜を図るためつくられた「間(あい)の宿」、とか「(継)立場」といったもの。三島代官の斡旋により、三島あたりの農家の次男、三男に呼びかけ移住させた。年後の期限付き免除といったインセンティブも用意したようだ。西坂には山中新田、笹原新田、三ツ谷新田、市山新田、塚原新田と5つの新田が開かれた。

駒形諏訪神社
山中新田入り口に念仏石、無縁塚、三界万霊塔。三界万霊塔とは、欲・色・無色の三界、あらゆる生物が生死輪廻する世界のすべての霊があつまるところ。鎌倉のはじめより供養はじまった、とか。
国道を渡ると駒形諏訪神社の鳥居。山中城の北丸のあったところ。境内に庚申供養塔
そしてアカガシの巨木が残る。巨木といえば、この近く、山中城跡に「矢立ての杉」がある。戦の勝敗を占ったもの、とか、国境を見立てる、といった目的で矢を射る。いつだったか笹子峠を越えたときにも「矢立ての杉」があった。
矢ではないのだが、先日信州の塩の道を歩き、大網峠を越えたとき、「なぎ鎌」といって、鎌を神木に打ち付ける神事があった。この神社と同じく、諏訪神社の神事である。諏訪神社って、木にまつわる神事が多いのだろう、か。そういえば御柱祭も諏訪大社の神事。

山中城跡
諏訪神社から道なりに山中城跡に進む。山中城は北条氏康が小田原防衛のために築城したもの。永禄年間、と言うから、16世紀後半のことである。秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦う。が、味方4,000に対し、敵方3万とも5万弱という圧倒的勢力差のため、半日で城が落ちた。この城で印象的であったのが、障子掘。棚田といった美しいつくりであった。

宗閑寺
城跡から国道に戻る。国道脇に宗閑寺。このあたりは山中城三の丸跡。北条、秀吉側両軍の戦死者をとむらうため江戸期につくられた。境内には山中城の守将であった松田康長や副将間宮康俊、秀吉側の一柳直末がまつられる。一柳直末はその討ち死にを聞き、秀吉が「関八州にもかえがたい人物。小田原攻撃はやめ」との取り乱したほどの逸材であった、とか。寺の開基は間宮康俊の妻。小田原落城後、家康に仕えた。

芝切地蔵
国道を少し下ると芝切地蔵。山中村で行き倒れになった旅人が、「なくなった後も、故郷の相模が見えるよう、芝で塚をつくり、その上に地蔵尊としてまつってほしい」と。村人は地蔵をまつり、供養した。で、接待につくったおまんじゅうが評判を呼び、多くの人が参拝に訪れ、村は大いに潤った、とか。

大高源吾の詫び証文

逸話と言えば、この地には大高源吾の詫び証文の話が残る。あらすじは箱根越え・東坂の甘酒茶屋での神崎与五郎と同じ。討ち入り前、大事の前の小事、ということで、ぐっと我慢。箱根峠を境に登場人物が変わって話が出来上がっている。三島宿にその侘び証文が残ると言うが、それによれば主人公は大高源吾である。

山中城岱崎(だいざき)出丸

国道を渡り山中城岱崎出丸に。尾根を活用した曲輪となっている。北条主力がここに籠もって秀吉軍を防ぐといった戦略でつくられた。こう見てくると、山中城って誠に大きな構え。もともとはここに北条の大軍が籠り秀吉勢に対峙する計画が、主力が小田原籠城と決まり、結果わずかな守備兵力しか残らず、ために広い城の構えが活かせず終わった,と言う。

山中新田石畳
出丸を離れ、ふたたび杉林の中を進む。道脇に箱根八里記念碑、司馬遼太郎さんの書いた北条早雲が主人公の『箱根の坂』の一文が刻まれている。

韮山辻
ほどなく国道に。このあたりは昔の韮山辻。伊豆の韮山に続く道があった。往古、このあたりも山中城の内。北条方の戦略拠点でもあった韮山城との往還を繋いでいた。その往還は、今は荒れ果て歩くことはできそうもない。道は国道を離れ、Uの字に大きく迂回する国道を一直線にショートかとする。

富士見平

道が再び国道に出るところに芭蕉の碑。風景は大きく開け、晴れた日には富士が見える。ということだが、当日はあいにくの曇り空。芭蕉がここを通った時も富士が見えなかったようで、「霧しぐれ 冨士を見ぬ日ぞ 面白き(野ざらし紀行)」などと詠んでいる、気持ちは大いにわかる。
この地は富士の名所。東海道名所図会にも 「三島より海道筋二里ばかりにあり。正面に冨士山・三保の松原、はるかに見ゆる」とある。
蜀山人こと大田南畝も『改元紀行』に、「やや行きて霧晴れわたり、四方の山々あざやかに見ゆ、富士見だいらといへる所のよしききつるに、ふじの山のみ曇りて見へぬぞ恨みなる。遠く川水も流れ行くは、黄名瀬川なるべし、南のかたに幾重ともなくつらなれる山あひより、虹のたちのぶるけしきいはんかたなし」と書いている。

上長坂
芭蕉の碑の先、道は再び国道を離れる。今度は、逆U字の基部をショートカットする。
階段をくだり石畳に。三島市が整備したとのことである。このあたりを上長坂と呼ぶ。途中明治天皇御小休所といった石碑もある。笹原地区石畳を国道に進む。

元笹原

国道に出る。しばらく国道に沿って進む。このあたりは元笹原。少し進み、道はモー

テル脇から再び国道を離れる。道はここから笹原新田まで一直線に下る。下長坂と呼ばれる。

笹原の一里塚
道を下り、民家が見える頃になると道の左手にシイの林。笹原の一里塚はその中にある。日本橋から27番目となる。塚は一基だけ残る。塚の上のシイの根元に箱根八里記念碑。「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」は詩人の大岡信の碑文。

笹原新田
笹原の一里塚を越えると道は国道に出る。街道は国道を横切り一直線に下る。急坂の両側には笹原新田の民家が並ぶ。今まで見たことのない、印象に残る景観である。
坂の途中に一柳庵。山中城の攻防戦で亡くなった豊臣方の武将一柳直末の胴塚が祀られる。首は敵に奪われることを恐れ三島市に近い長泉に祀られた、と言う。山中新田の宗閑寺の一柳氏のお墓は、ここから移された、と。
集落を過ぎても坂は続く。坂の名前は下長坂と呼ばれる。この坂は、別名、こわめし坂とも呼ばれる。こわめしの由来は、あまりの急坂のため、背中の米が汗と熱で強飯に「ゆであがるほど」であるから、と。西坂第一の急坂であるのは間違い、ない
。ハコネダケの生い茂る急坂を下ると国道に出る。

三ツ谷新田
国道に沿って三ツ谷新田の集落が続く。国道は尾根を通り、集落はその両側に連なる。この地の名前の由来は、その昔、ここに茶店が三軒あったため。当初は、三ツ屋と呼ばれていた。その後、大久保長安が家康の命により西坂に新田をつ
くったとき、三ツ屋を三ツ谷と改名した、と。

松雲寺
国道を進む。国道とは言うものの、三ツ谷新田の手前から国道はバイパスが別れている。車はそちらを走るので、集落中の国道は、比較的静かである。先に進むと松雲寺。江戸期に開山の寺。多くの大名が休息をとったところ。寺本陣と呼ばれる
。境内には明治天皇が腰掛けた石が残っていた。お寺の近くには、茶屋本陣も。言うまでもなく、本陣として使われた元茶屋跡である。
題目坂
国道を進む。集落を外れるころになると坂は急になる。ほどなく道は国道から離れる。このあたりの坂を小時雨坂と呼ぶ。坂小学校の横を通り、坂幼稚園手前を右に進むと階段となる。この坂は大時雨坂、別名題目坂と呼ばれていた。題目坂は、その昔、坂小学校のあたりに、日蓮宗のお寺があり、そこに「南無妙法蓮華経」の七文字が彫られた石、題目石があった。から。東海道名所図会には「市の山・法華坂、ここに七面祠(ほこら)・法華題目堂あり 」と記載されているように、法華堂からは一日中、お題目を唱える声が聞こえたのだろう、か。

市山新田

馬頭観音を見やりながら題目坂を上ると車道にでる。この道は元山中に続く道。元山中は鎌倉・室町の頃の箱根越えの道筋。鎌倉との往還でもあり、鎌倉街道とも呼ばれる。今回歩いた旧東海道のひとつ北の尾根筋を三島に向かって下ってゆく。そのうちに歩いてみたい。
道を左手に折れ国道に出るとそこは市ノ山新田。名前の由来は、箱根に上りはじめた一番目の山であったため、一山と。それが市山に転化した、と言う説と、市が立った山から、との説がある。

法善寺

国道に沿って歩くと右手に山神社。境内に道祖神がたたずむ。西隣に法善寺。題目坂の手前、坂小学校のあたりにあったものが、題目石とか、七面大明神、帝釈天などとともにこの地に移された。
七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂。七面堂と言えば『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の狂歌がある。「 あしかがの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いふべかりける 」。足利の(武将の建てた七面堂)と、(無精の七面倒)をかけている。七面堂は足利尊氏が建てたと言われる。この七面堂は、この地に移される前の法善寺にあった七面堂であることは、言うまでもない。
先に進むと市ノ山地蔵堂。六地蔵、と言うか、性格には、六地蔵が2セットと一体の地蔵の計13地蔵が知られる。
臼転坂
地蔵堂を先に進むと、道はまた国道から離れる。石畳の道は臼転坂と呼ばれる。臼が転がったから、とか、牛が転がったことからの転化、とか、あれこれ。石畳の道はすぐに終わり、再び国道に。

塚原新田
国道を進むと普門庵。境内には観音坐像、馬頭観音などが佇む。このあたりから塚原新田がはじまる。名前の由来は、この近辺に円形古墳が多いから。塚原古墳群とも呼ばれるようだ。道脇に宗福寺。境内には三界万霊塔や六地蔵。弘法大師が富士を見に、この寺に立ち寄ったとの話が伝わる。宗福寺を過ぎると集落も終わり、ほどなく国道のバイパスと合流。

初音ヶ原松並木
現東海道に沿った石畳の遊歩道を進む。整備された松並木となっている。初音ヶ原松並木
と呼ばれる。『豆州志稿』に「官道の老松背後に列立し、遠く駿遠の峯を望む風景頗る佳なり」と。初音ヶ原の名前の由来は、頼朝が箱根権現に詣でるとき、鶯の初音を聞いたから、とか、箱根に入るはじめての峯、初峰が転化したとか、これも例によってあれこれ。本当に地名の由来って、定まるところなし。


錦田一里塚
初音ヶ原の中ほどに一里塚。日本橋から28番目。地名は、錦の郷と谷田郷を足して二で割ったという、これも地名をつくるときによくあるパターン。初音ヶ原一里塚とも。元の姿が保存された、堂々とした塚である。

箱根大根恩人碑

1キロほど続く松並木も終わり、街道が再び国道と別れで右に入る手前に箱根大根恩人碑。
箱根の西坂でとれる大根とかニンジン、牛蒡など、所謂「坂もの」と呼ばれる農産物を世に広めようとした平井源太郎氏を称えるもの。昭和5年頃、東海道線が開通し、箱根の往来が寂れた村々を救おうと、はじめたのが坂もの販売のためのキャンペーンソング作戦。で、目に付けたのがこの地に伝わる「ノーエ節」。「富士の白雪や ノーエ富士の白雪やノーエ 富士のサイサイ 白雪は朝日に溶ける・・・」の、あのノーエ節。
ノーエ節は、もとは秀吉が小田原の陣を張ったとき、その場で歌われた今様、「富士の白雪朝日でとけて とけて流れて三島へ注ぐ」がはじまりと言われる。その後、農民の田草取り歌や盆踊り歌として伝わり、幕末にはやった尻取歌をへてノーエ節が出来上がっていた。そのノーエ節を「農兵節」と歌詞をアレンジ。「箱根の山からノーエ 箱根の山からノーエ 箱根サイサイ 山から三島を見れば 鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ 鉄砲サイサイ かついで前へ進め・・・」と。陣羽織に菅笠姿、願人坊主さながらの姿で歌い踊りながらキャンペーンを展開した。

愛宕坂

現国道から離れ、右に別れ坂を下る。この坂は愛宕坂。名前の由来の愛宕神社から。神社は今はなく、そのあとに三島東海病院が建つ。

東海道線

愛宕坂を下ると東海道線に当たる。いやはや、はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ。線路を越え。今井坂を下る。山田川に架かる愛宕橋を渡り道は国道に合流する。

川原ヶ谷陣屋跡
国道を進むと道脇に立派な塀構えの屋敷。川原ヶ谷陣屋跡。小田原藩の支藩荻野山中藩の役所跡である。このあたり一帯、東は塚原新田、西は三島宿にはさまれた地区(川原ヶ谷)は、元々は幕府天領として三島代官の管轄であった。が、18世紀の初め頃から幕末にかけて荻野山中藩となったり、韮山代官の支配になったり、またまた荻野山中藩と変わったりしているのだが、その際の荻野山中藩の役所跡である。陣屋の道を隔てた南には足利二代将軍足利義詮や堀越公方足利政知のお墓のある宝鏡院があるとの
ことだが、日も暮れてきた。今回はパスし先に進む。

新町橋
ほどなく国道は大場川を渡る。架かる橋は新町橋。橋を渡れば昔の新町。三島宿の東口である。箱根八里の終点。長かった箱根越えもこれでお終しまい。日も暮れた。お寺が並ぶ新町、現在の日の出町をどんどん進国道を進み、三島大社にお参りを済ませ三島駅にたどり着き、一路家路へと。 

土曜日, 7月 25, 2009

箱根越え;旧東海道・東坂

箱根湯本から元箱根まで
箱根八里を越えようと思った。昨年から、秩父や奥武蔵、奥多摩、津久井などの古街道を歩き、いくつもの峠を越えた。で、今回はその続き。旧東海道・箱根路越え。趣のある石畳が残ると言うし、杉並木・松並木もよさげではあるが、何よりも「天下の嶮」がどれほどのものか歩いてみよう、ということに。
古来箱根越えにはいくつかのルートがあった。大きく分けて、足柄峠を越えるルートと、箱根峠を越えるルート。ふたつのルートのうち、足柄峠を越えるルートのほうが古い。奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜ける。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった。これらのルートは箱根越え、というよりも、「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートである。
一方、箱根峠を越えるルートは文字通りの箱根の山を越えるもの。このルートも時代によってふたつに分かれる。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。
で、今回歩く箱根峠越えのルートが江戸になって開けた道である。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。箱根八里と言うから32キロ。2日に分けて、「天下の嶮」を越えてゆく。


本日のルート;箱根湯本駅>早川>箱根町立郷土資料館>白山神社>早雲寺>湯本茶屋>猿渡石畳>観音坂>葛原坂>須雲川集落>駒形神社>鎖雲寺>須雲川自然探傷歩道>割石坂>大澤坂>畑宿>畑宿一里塚>西海子(さいかち)坂>七曲の坂>樫の木坂>猿滑り坂>笈の平>甘酒茶屋>於玉坂>白水坂>天ガ石坂>湯坂道との合流点>権現坂>芦ノ湖


箱根湯本駅

小田急に乗り一路箱根湯本へと。小田原を越え、風祭、入生田へと進む。車窓からは見えることはないのだが、線路に沿って続く山腹には荻窪用水が走っている、はず。そのうちに実物を目にしたいものである。
入生田を越えると山崎の地。幕末、佐幕派の伊庭八郎を隊長とする遊撃隊が上総上西藩主林昌之介などと共に小田原藩・官軍と戦った地(中村彰彦さんの『遊撃隊始末(文春文庫)』に詳しい)。山崎を過ぎると、ほどなく箱根湯本駅に到着。

早川
湯本駅を下り箱根町立郷土資料館に。早川を渡った対岸の段丘上、というか、早川と須雲川の合流点の南側に残る小高い台地上にある。駅の改札を出て、地下通路で国道1号線を渡り、バスターミナル辺りへ。そこからは成りゆきで進み早川に架かる橋を渡る。
早川は芦ノ湖を水源とし、湖尻水門で取水され仙石より国道138号線(別名箱根裏街道)に沿って湯本に下る。橋から下流を眺めるに、三枚橋が見える。往時、長さ40m、幅も18mあるという大きな橋であった、とか。名前の由来は板を三枚並べた幅があった、から。とはいうものの、念仏三昧の「三昧」から、との説もある。往時の早川は現在よりずっと広く、中州を繋ぐ地獄橋・極楽橋・三枚橋があった、とのこと。いつものことであるが、地名の由来はあれこれ、定まることなし。

箱根町立郷土資料館
坂を上り郷土資料館に。旧東海道・箱根越えに関するあれこれを、スキミング&スキャニング。『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』を買い求める。この書籍で今回の東海道・箱根越えが急に充実したものになってきた。今回のお散歩メモは、この書籍や、その後に古本屋で手に入れた『ふるさとの街道 箱根路三島道石畳を歩く;土屋寿山・稲木久男(長倉書店)』、『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』、『はこね昔がたり;勝俣孝正他(かなしんブックス)』、『おだわらの歴史;小田原市立図書館』
などを参考にメモする。

白山神社
郷土資料館から下を眺めると、段丘の南の低地を挟み、その先に山塊が連なる。郷土館を離れ、箱根町役場本庁舎脇の細路を上る。後山と言う地名が示すように、ちょっとした小山。神明宮などが佇む。軽くおまいりを済ませ、旧東海道が通る県道732号線・湯本元箱根線へと成り行きで下ってゆく。
県道の南に白山神社。白山神社って、加賀白山市にある白山比咩神社が総本社。奥宮は標高2702mの白山に鎮座する。神仏習合で天台宗との結びつきを強め、天台宗の普及につれて白山神社も全国に。現在、全国に数千社がある、という。
白山神社の東には辻村伊助の屋敷があった。伊助は小田原の素封家の出。学生最後の1年を園芸の研究とアルプス登山のため渡欧。大正2年のことである。アルプスで雪崩の被害に巻き込まれる。看護を受けたスイス人女性と結婚し帰国。スイスの気候に近いこの地に家を構えるも、関東大震災のとき、山崩れで家族共々命を失った。スイスのアルプスに登り『スウヰス日記』を書く。登山小説の白眉と言う。

早雲寺
白山神社と県道を隔てたところに早雲寺。小田原北条二代目当主・氏綱が北条早雲の菩提寺として建てたもの。秀吉の小田原攻めの時に焼失。北条家当主の墓は一時散逸。現在境内にある北条五代の墓は江戸時代に再建されたもの。
境内には飯尾宗祇や山上宗二の供養塔が残る。飯尾宗祇は室町期の連歌師。旅の途中この地でなくなる。山上宗二は堺の豪商で千利休の高弟。失言より秀吉の不興を買い、追放されこの地へと流れ北条の庇護を受ける。小田原攻めの降り、秀吉に謁見を受けるも、再びの失言。秀吉の命により命を失う。口は災いのもと、の代表的人物。ちなみに、利休が秀吉を見限ったのが、山上宗二に対するこの秀吉の残虐な仕打ちにある、と言う。後に利休も秀吉により死を賜ることになるわけであるから、その遠因はこの宗二にある、とも。

正眼寺
道端の道祖神を見やりながら旧東海道を進む。ほどなく正眼寺。建武の頃、というから14世紀の中頃、足利尊氏が北条時行と戦った箱根山での合戦(中先代の乱)の記録に「湯本の地蔵堂」という名が見える。歴史の古いお寺さまである。
境内に大きな地蔵さま。湯本の地蔵堂と呼ばれていた頃の名残だろう。それにしても、このお地蔵様、なんとなく中国っぽい雰囲気。慶應4年(1864年)消失した当時の地蔵菩薩の替わりとして、入生田の名刹・紹大寺から移された。紹大寺が黄檗宗であるとすれば、大いに納得。おおらか、愛嬌のあるお地蔵様である。
このお寺には曾我堂というお堂もあった。曾我兄弟をまつるもの。兄弟二体の地蔵像が残る。地蔵堂も曾我堂も戊辰の戦乱に遊撃隊と官軍の戦いで焼け落ちるが、曾我兄弟の二体の地蔵は難を逃れ、今に残る。
曽我兄弟といえば、日本三大仇討ち話で有名。富士の裾野の巻狩で親の仇である工藤祐経を討ち果たし、といった話はだれでも知っている、と思っていた。が、なんかの折に、その話題を出したものの、廻りの人は、だーれも知らなかった。
正眼寺は北向きの斜面に建つ。境内からは北の早川の渓谷、湯本の温泉街、そしてその北に聳える北箱根の山稜が見える。

湯本茶屋
先に進むと、道端にまたまた道祖神。二体あり、一体は稲荷型、もうひとつは双立型と呼ばれる(『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』)。稲荷型はお稲荷様のお堂の姿、双立型は男女ふたりが仲良く手を組む姿。
このあたりは湯本茶屋と呼ばれる。その昔、二軒のお茶屋があった、とか。街道脇に石造りの貯水槽。この貯水槽は馬の水飲み場。往時、この地は「立場」があり、馬も人も休憩したのだろう。立場とは、江戸時代に設けられた五街道の宿場を補助するところ。宿場間が遠い所とか、峠などの難所が間にあるところなどに設けられる。一里塚の案内もある。江戸から22里。とはいうものの、一里塚特有の「塚」は既に、ない。

猿渡石畳
道脇に石畳道の案内。街道を脇にそれた崖下に石畳道が続く。旧東海道の石畳道である。石畳道ができたのは、江戸の五街道制度がはじまって、しばらくたった西暦1680年頃。はじめは、ぬかるみ道を整備するため、箱根の特産の「ハコネダケ」の束を敷いた、と言う。
が、タケは毎年敷きなおす必要があり、駆り出されるこの地の農民が根を上げる。ということで、石畳道にした、と言う。とはいうものの、石畳は滑りやすく少々危険。実際、この箱根越えの日は雨模様。何度も滑り、怖い思いをした。苔むした石畳道の、ヌルヌル、ツルツルは誠に、怖い。
石畳の道を下る。石畳を歩くだけで、なんとなく、江戸の時代を歩いている、といった気持ちになる。箱根の旧東海道には9キロ弱の石畳が残されている、と言う。ここがその第一歩。道を下ると沢に。猿沢と言う。その先は上り。石畳を進み、県道に戻る。

観音坂
県道を進む。沢を跨ぐ観音橋を越えると、湯本滝通りから上る道と合流。昔、あたりは宇古堂と呼ばれ、観音堂があったのが、その名前の由来。現在、観音坂の途中に箱根観音(大慈悲山福寿院)があるが、それとは別物の、よう。案内に「海道(東海道)の西片にあり、登り2町ほど(218m)ばかりなり」と。昔は、県道下をこのあたりまで東海道が続いていたのだろう。

葛原坂
勾配が増してきた県道を進む。北の景色が開けてきたのは、県道の標高が上がってきたのだろう。標高は200mから250mの間、といったところ。湯本のあたりは標高100mから150mの間であるので、50mから100m程度上ったことになる。
このあたりは葛原坂と呼ばれる。「クズ」がたくさんとれた、から。クズとは葛餅の「クズ」である。葛原坂を過ぎると、湯本茶屋の集落を離れ、須雲川の集落に進むことになる。

須雲川集落

二の戸沢にかかる二の戸橋を越え、道祖神に迎えられ須雲川の集落に入る。須雲川の向こうの稜線は湯坂山、浅間山、そして鷹巣山へと続く湯坂道。室町期の箱根越えの道である。
建設工事の技術が発達した現在の道は、川沿いがあたりまえではあるが、往時、街道は尾根道を通るのが基本であった。現在の川沿いの道は、岩を穿ち、邪魔な山塊にはトンネルを通し、沢は橋脚でひと跨ぎ、というわけだが、昔は谷間の川沿いの道など、一雨降れば土砂崩れ、といったことで、不安定この上もない。ために比較的安定している尾根道を通った、と言う。江戸時代に開かれたこの旧東海道は須雲川に沿った道。江戸になると、土木工事の技術も発達し、谷間を通せるようになったのだろう。かなた山道、こなた谷道と新旧街道が並走する。

駒形神社
集落に駒形神社。箱根の駒ケ岳山頂にある駒形権現の分社だろう。駒形神社って、往古関東に覇を唱えた毛野氏が、関東や東北にその勢を拡大したとき、地域の秀峰を駒ケ岳とか駒形山と名づけ山頂に駒形大神を祀ったことによる、と。とはいうものの、箱根の駒形権現は、大磯の高麗(こま)山に祀られていた高麗権現を勧請した、という縁起もある。
いつだったか、息子のサッカーの試合の応援で平塚に行った折、高麗山に足を伸ばした。海岸近くにこんもり聳える小山は印象的。はるばる海を越えやってきた帰化人が上陸の目印としたって説も大いに納得したことがある。毛野氏が崇敬した赤城山の赤城神社を「カラ社(コマ社)」とも呼ぶようであるし、駒ケ岳が渡来した高麗人によって開かれたって説は、結構納得感がある。

鎖雲寺
街道脇に水の音。岩を下る、かわいい滝。霊泉の滝と呼ばれる。滝横に鎖雲寺。境内に木食観正の名号碑。木食観正って、江戸期の木食遊行僧。米類を食べず木の実だけで精進する念仏行者。
境内には勝五郎・初花の墓がある、と言う。曽我兄弟と同じく、仇討ち話の主人公。仇を追って箱根に入り、夫婦力を合わせて、また箱根権現のご加護も受け見事 本懐を遂げた、ってお話。初七って、どこかで聞いた覚えがある、と思ったら、須雲川の北面の山腹にある滝の名前。初花の滝、って勝五郎の病気快癒を祈り、毎夜初花が滝行に通ったところ、とか。

須雲川探勝歩道

鎖雲寺を先に進むと、道は須雲川を渡る。現在の橋・須雲橋は川床より結構高いところにかけられているが、江戸のころはずっと下。明治初年の写真を見ると、川面より1mといった程度の小橋である。旧東海道はこの橋を渡り、斜面を直登した、と言う。その坂の名前は「女転ばしの坂」と呼ばれた。急峻な坂道に女性が難儀したことであろう。
須雲川の手前に左に折れる道がある。須雲川探勝歩道との案内。舗装の車道に少々飽きもきたので、探勝歩道に入る。入り口に「女転し坂の碑」。元のところから移されたものだろう。須雲川の南岸を進む。杉林の中をしばし進むと、道は川に下る。岩場に架けられた架設木橋を渡り、坂を上ると舗装道路に。県道から近くにある発電所に続く道だろう。道を進むと再び県道に。

割石坂
県道を少し進むと「割石坂」の案内。曽我兄弟が富士の裾野に仇討ちに向かうとき、刀の切れ味を試さんと路傍の石を切り割った、とか。旧東海道はここで県道と別れ、山に入る。ほどなく石畳の道が始まる。「江戸時代の石畳」といった案内があった。須雲川探勝歩道
の案内を見ながら進むと、再び「江戸時代の石畳」の案内。これだけ案内する以上、江戸期の石畳を保存しているものなのだろう。
畑宿まで0.9キロといった案内、古代から江戸に至るまでの箱根越えルートの変遷の案内などを見ながら先に進む。ほどなく県道に出る。合流点手前に「接待茶屋」の案内。「江戸時代後期、箱根権現の別当如実は箱根を往還する人馬のために、湯茶や飼葉を提供していたが、資金難に。で、江戸の商人の援助で東坂ではこの地、箱根峠から三島に下る西坂には施行平に接待茶屋を設けた」と。

大澤坂

県道を少し進むと道の左に再び古道へのアプローチ。ガードレールの切れ目から谷方向に降りてゆく。下りきったあたりで沢に架かる橋を渡り先に進む。再び石畳の道に。「大澤坂」の案内。別名「座頭転ばし」と呼ばれた、とか。
いつだったか、江戸期の甲州街道を歩いていたとき、談合坂パーキングエリアあたりの古道に「座頭転ばし」と呼ばれる箇所があった。そこは急坂というより、崖上の細路といったところ。国語辞典によれば、座頭転がし、って「かつて座頭が踏みはずして墜落死したという言い伝えのある、山中の険しい坂道」とのこと。石畳の大澤坂を上る。苔むした石畳はいかにも危ない。座頭でなくても結構、転びそう。

畑宿
ほどなくして県道に戻ると、そこは畑宿。畑宿は、「宿」とは言うものの、正式な「宿」ではない。このあたりでの正式な宿場は小田原、箱根、そして三島の宿。とはいうものの、ここは名立たる「天下の嶮」。途中、人馬の継ぎ立てをしなければ難路は乗り切れないということで設けられた「立場」である。「民戸連なり宿駅の如し(新編相模国風土記原稿)」と称されるほどの賑わいであった、とか。
道脇に畑宿茗荷屋本陣跡。名主である茗荷屋の茶店で、大名諸侯も休憩したのであろう。茗荷屋と言えば、この畑宿で有名な箱根細工と大いなる関係がある、とか。
箱根細工、は「挽物」と「指物」に分かれる。挽物は、ろくろを利用してつくられるお盆とかお椀と言ったもの。指物は箱類で、表面を寄木細工とか象嵌細工で装飾される。で、全国的にろくろ師が住む山中の平地を「畑」と呼ぶところが多い、とか。この地も「畑宿」だし、名主・茗荷屋の主人の名前も代々「畑」さん、である。また、ろくろ師のすむ近くには「ミョウガ」が栽培されていたところが多い。「茗荷屋」の屋号にも「歴史」がある(『あるく・見る箱根八里』より)。ちなみに、畑宿には寄木細工をこの地ではじめた、石川仁兵衛のお墓がある。

畑宿一里塚

駒形神社などをおまいりしながら集落を進み、県道が集落の出口で大きくカーブするあたりから古道は県道と分かれ直進する。寄木細工のお店やお蕎麦屋さんの脇をすすむと畑宿一里塚。湯本茶屋の一里塚は碑だけであったが、この地の一里塚は江戸期の姿を残す。道を挟んで一対のこんもりとした塚は結構目立つ。古道はこの一里塚を境に、山道に入り込む。ここからが「天下の嶮」のはじまりである。

西海子(さいかち)坂
石畳の道を進む。途中、箱根新道を跨いだ、よう。橋が石畳仕様で作られているので、知らずに通り過ぎていた。新道を越えて石畳は続く。石畳の構造や排水についての案内を眺めながら進むと(西海子さいかち)坂。結構急な坂。「此の坂山中第一の嶮にして、壁立する如く、岩角をよじて上る。一歩を誤れば千仞の谷底に落つ(新編相模国風土記稿)」と言うほど現在は険しくはないが、それでも相当のものである。坂道を上りきると県道に出る。

七曲りの坂
しばらくは県道脇の歩道を進む。ヘアピンカーブが続く。七曲りの坂とは言われるが、実際は11曲がりあると言う。箱根新道の下をくぐり先に進む。旧東海道、県道、箱根新道と新旧の道筋が重なり合って進む。樫の木坂バス停を越えると道は再び山道へと入る。

樫の木坂
この坂も昔はもっと厳しかったようである。『東海道中膝栗毛』に「樫の木の坂を越えれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼれる、との記述がある(『あるく見る箱根八里』)。とはいうものの、現在は石段となっている。

猿滑り坂
道は再び県道に出る。が、その先には再び石段があり、県道から分かれる。ほどなく石段道が分岐。直進すれば見晴台バス停。元箱根は左に折れる。再び石畳の道。元箱根まで3キロの案内。小さな沢をまたぐ山根橋を渡ると道は少し平坦になる。等高線に沿ってトラバースする、って感じ。甘酒橋という小さな橋を渡り先に進むと県道への合流点手前に猿滑り坂。道脇の案内に「殊に危険 猿、といえども たやすく登りえず。よりて名とす」、と。

笈の平
県道に出る。歩道は道の反対側、山肌を県道より少し高いところを進む。ほどなく道は県道脇に下りる。階段を下りると歩道は県道に沿って続く。山側に「追込坂」の案内。「ふっこみ」坂と呼んだ、とも。その脇に石碑。「親鸞上人と笈の平」の案内。東国教化の旅を終え、箱根を越えて都に戻る親鸞聖人と、東国に残るその弟子が、悲しい別れをしたところ。とか。
笈の平の名前の由来は、親鸞上人が背負っていた笈を下ろしたことから。はいうものの、親鸞の頃は湯坂道しかないはずで、あれあれ、とは思いながらも、伝説はそういったものか、と納得しようとも思うのだけれども、実際、このあたりは「大平」とも呼ばれていたようで、オオダイラ>オイノタイラと変化した、というのが、妥当なところだろう。。

甘酒茶屋
県道の山側に道が続く。ほどなく藁葺き屋根の民家。箱根旧街道資料館。江戸時代、街道を往来した旅人の衣装や道具が残る。
資料館の横に甘酒茶屋。ドライブを楽しむ多くの人が集まる。甘酒茶屋の案内によれば、「赤穂浪士の神崎与五郎の詫び状文の伝説が残る茶屋。畑宿と箱根宿の中間にあり、甘酒を求める旅人で賑わった」と。神崎与五郎の詫び状文って、三島には同じ赤穂浪士の大高源吾の詫び状文の話が残る。いずれも、仇討ち本懐を遂げるまで、無用のトラブルは起こさじ、と、馬喰の無理難題を耐える赤穂浪士。で、見事本懐を遂げ、その噂を耳にした馬喰が己が行為を恥じ、菩提を弔うべく泉岳寺の墓守となる、って話。忠臣蔵の人気のほどが偲ばれる。

於玉坂
旧街道は甘酒茶屋の裏手を進む。道脇に「於玉坂」の石碑。三島の奉公先から逃れ箱根に。通行手形をもたないため関所破りをしたお玉が処刑されたのがこのあたり、とか。少し先の県道脇にある「お玉ケ池」は、その首を洗った池、と言う。元禄15年(1702年)のころ、本当にあった話のようだ(『あるく見る箱根八里』)。道は県道に当たる。県道を渡ると、そこからまた山道に入る。再び石畳の道となる。

白水坂
道に入ると石畳。白水坂と書かれた石碑を眺めながら坂を上る。城不見(しろみず)坂とも。小田原征伐の秀吉の軍勢が二子山に陣を張る北条勢のため先に進めず、小田原の城を見ることなく引き返したのが、その名の由来、とか(『あるく見る箱根八里』)。

天ガ石坂
ほどなく道にせり出した大石。「天ガ石坂」の石碑。天蓋石とも呼ばれるように、坂の上、天を覆う蓋のような大石、ということ、か。で、この坂を上れば、箱根・東坂越えの最高標高地点。805m。箱根湯本が標高100mほどであるので、700ほどの比高差がある。箱根湯本から延々と続いた上りもやっと終わる。

湯坂道との合流点
山側に向かって「箱根の森 展望広場」との案内がある。お玉ヶ池にも通じているよう。石畳の道が続く。と、道脇にベンチや石碑、案内板。八町平と呼ばれる平坦地。箱根権現まで八町(880mほど)と言うこと、だろう。
石碑には「箱根八里は馬でも越すが」といった有名なフレーズが刻まれる。案内板には北にそびえる「二子山」の案内。とはいうものの、木々に囲まれ見通し効かず。ほどなく十字路。右に折ると「芦の湯」方面へのハイキングコース。道脇にあった「旧東海道」の案内によれば、この地は江戸期の東海道と鎌倉期の東海道、つまりは湯坂道が合流したところ。江戸の頃は湯坂道を通ることはあまりなかったようだが、湯坂道・芦の湯方面にある曽我兄弟の墓へと寄り道した旅人も多かった、とか。

権現坂
十字路を越えると後は芦ノ湖に向かっての最後の下り。道脇に「権現坂」。箱根権現への最後のダウンヒル、ということだろう、か。八町坂とも呼ばれる。坂をくだり切ると「史跡 箱根旧街道」の石柱。道の右脇下に県道が見える。
道路を跨ぐ木橋を渡り歩道橋を下りると「ケンペル バーニーの碑」。ケンペルはドイツ人博物学者。鎖国の頃、唯一入国できるオランダ人と偽り入国。長崎のオランダ商館の総領事とともに箱根を越えた。箱根の美しさを描いた『日本誌』で知られる。バーニーはオーストラリア人貿易商。大正の頃、この近くに別荘をもつ親日家、この地の人たちとの友情を記念し、この碑を建てた。

芦ノ湖
興福院脇を下り元箱根の商店街に。元箱根のバス停を少し西に進み、芦ノ湖の湖面をタッチし、なんとなくの達成感を得る。仕上げというわけではないのだが、芦ノ湖に沿って道を東に戻り箱根神社におまいりし、本日の箱根・東坂越えはこれでおしまい。次回は箱根・西坂を下る。    

金曜日, 6月 26, 2009

塩の道散歩 そのⅡ;大網峠越え

塩の道散歩の二日目は大網峠越え。姫川筋を離れ、小谷山地にとりつき、その昔、荷継ぎ場とし賑わった大網集落に。大網の集落からはひたすら大網峠へと上る。 峠からは、これまたその昔、関所のあった山口集落に向かって下っていくことになる。距離12キロ、比高差600m弱、おおよそ5時間の峠越えである。

日本海側から小谷に至る塩の道のルートはいくつかある。大きく分けて姫川の西側(西廻り道)を進む「山の坊道」と、東側(東廻り道)を進む「地蔵峠道」、そしてこの「大網道」。糸魚川の少し西、青海を発した西廻り道は、虫川(関所があった)、夏中を経て大峰峠、山の坊を越え平岩の南で姫川筋に下る。糸魚川を発した東廻りみちは、山口のあたり(大網峠手前のルートもある)で二手に分かれる。「大網道」は大網峠を越えて平岩の南で姫川を渡り、葛葉峠手前で「山の坊道」と合流し、姫川西岸を南に下る。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

一方、地蔵峠道は、山口(または大網峠手前)から戸土、横川へと進み、小谷山地の中を一路南下。1000mを越える 地蔵峠、三坂峠を越え南小谷駅の北(下里瀬)のあたりで姫川を渡る。ここで「山の坊・大網峠・地蔵峠」道はひとつになり、松本へと下ってゆく。
どの道がもっとも古く開けたのかは、はっきりしない。山の坊道の虫川の関は、所謂、謙信の「義塩」エピソードの頃に設けられたという説もある。地蔵峠道は、もっと古いかもしれない。横川集落からは大和朝廷時代の須恵器や土師器室町期の鍔口といった出土品が出ている。また、そもそもが、三坂峠(みさか)は御(み)坂峠との名前が示すように、古代祭祀跡ではないかとも言われる(『北アルプス 小谷ものがたり』)。実際、この地蔵峠道は他のふたつの道より、ずっと南で姫川筋に下る。古代の道は土砂崩れなどの危険が多い川筋を避け、尾根道を通ることが多い、とすれば、この地蔵道が最も古い道筋かとも思える。

で、今回歩く大網峠道であるが、この道は地蔵道が土砂崩れで不通になったときに開かれたとも言われる。姫川に橋がかかったことが転機になったとの説もある。 1647年に、「幅32mの橋がかけられ」とのことである。ともあれ、比較的新しい道かとも思う。歴史は新しいが、大網峠道は千国街道の「大通り」と呼ばれる。安政5年、1858年の記録によれば、塩の荷が、山口の関で6628駄、虫川では313駄。魚類は山口で13070駄、虫川では780駄。物流では山の坊道を圧倒している(『』塩の国 千国街道物語)。大網峠道が「大通り」と呼ばれた所以である。

大網峠道が塩の道・千国街道の代表的道筋であったことは間違いないだろう。とはいうものの、大網峠道に物流のすべてが集中した、ということでもないようだ。千国街道の物流を差配していた糸魚川の3軒の問屋毎にどの道筋を通るかを決めていたとも言う。また、現在でも土砂崩れで時に国道が普通になる、といった地崩れ地帯。一本の道筋で物流ルートが確保されたとは到底思えない。現代でも、平成7年の姫川温泉付近の土砂崩れのため国道が不通になった時には、山の坊道のルートに近いところに林道を作り、交通路を確保したとも言われる。時に応じ、状況に応じそれぞれの道がネットワークを組み、物流機能を確保していたのではあろう。少々イントロが長くなってきた。そろそろ散歩に出かけることにしよう。


本日のルート;姫川温泉>大網>芝原の六地蔵>横川の吊り橋>牛の水飲み場>菊の花地蔵>屋敷跡>大網峠>角間池>角間池下道標>白池>根道合流点>日向茶屋>大賽の一本杉>山口関所跡>糸魚川


姫川温泉
宿泊したのは姫川温泉・朝日荘。大糸線平岩駅を降り、姫川を渡ったところに宿があった。温泉は湯量も豊富。平岩と言う地名と関係あるのか、ないのか、温泉の大浴場は大岩を取り込んだ造りとなっていた。
この姫川温泉も平成7年の豪雨で地滑りの被害にあっている。どこだったか、土砂災害のため平岩駅付近で大糸線の線路が宙づりになった写真をみたことがある。復旧には2年ほどかかった、とも。
8時23分、宿を出発。近くにコンビニがあるわけでもないので、昼食用におにぎりを用意して頂いた。感謝。宿を出るとすぐ、崖から豊かな湯滝「源泉は姫川上流3キロ。温度は55℃」との案内。大網集落に向かって車道を歩き始めると、宿屋の女将の呼ぶ声が。何事かと引き返すと、「車で大網まで送りましょうか」、と。車での送迎が却って迷惑かと、遠慮してくれていた、よう。塩の道を歩く人にはストイックに「完全徒歩」を目指す方も多いのだろう。大網峠道は姫川温泉から姫川に沿って南に少し下ったあたりから山道に入り、大網集落へと続くわけで、車道を歩き始めた我々を見て、声をかけてくれたのだろう。
車で230mほどを一気に上る。山腹から大きな2本の導水管が姫川へと下っている。電気化学工業大網発電所への導水路。取水位標高357m、放水位標高234m、というから落差120mほど。姫川の上流5キロのところで取水している、とか。
七曲りの車道を車が進む。途中、道の右側に「塩の道」の道標が見えた。大網峠道なのだろう。5分程度で大網の集落に到着。[姫川温泉発;8時23分、標高257m]

大網

車は集落の中ほどまで進み、「塩の道」スタート地点まで送って頂く。宿のご主人に感謝し、車を降りる。あたりを見渡すに、大網は数十軒といった単位の山間の集落。江戸時代はこの地に千国街道の荷継ぎ問屋があり、大いに賑わったそうである。荷の積み替えを待つ牛が1日100頭近くもいた、とも言われるこの村落も、明治にはいり姫川筋に馬車道(現在の国道筋)ができて以来、静かな山村に戻った。
大網(おあみ)の集落が歴史に登場したのは、戦国末期と言われる。武田氏の流れの一族がこの地に住み、そして大網峠越えの道を開いた、と。実際、大網集落の北の山峡を通る地蔵峠道には、上杉軍と武田軍の戦いの跡や城跡(平倉城;上杉方)なども残る。現在でも大網には武田さんと竹田(ちくた)さん、って姓の住民が多いと言うことだし、武田の一族が、って話は、なかなかもってリアリティがある。
大網の地名の由来は例によって諸説あり。奴奈川姫が建御名方の出産に際し、産所に網を張ったことによる、との説がある。峠の遥拝、「拝む」からとの説もある。また、「麻績(おうみ)」「麻編(おあみ)」といった、「麻」に由来するとの説もある。大網は戦前まで麻の産地であった、と言うし、この説も捨てがたい。ともあれ、地名って、最初に音があり、それに物識り、というか文字知りが、なんらなかの蘊蓄を加え文字表記する ことが多いわけで、諸説定まることなし、ってことになるのだろう。[大網:8時28分、標高388m]

芝原の六地蔵

大網集落の塩の道始点は集落の中ほど。民家の裏といった細路を進むと上り坂。両サイドには草が生い茂る。墓地の間の道を上ると運動場のような広場に出る。案内もないので広場をうろうろ。近くの村人に道を尋ね、広場の小さな崖下に続く塩の道に出る。
道に沿ってグリーンのネット。マレットゴルフのコースとなっている。ゲートボールとゴルフを足して二で割ったようなこのスポーツは長野で生まれたもの。18ホールよりなる。そう言えば、先ほどの広場にも、それっぽいマットもあった。
道脇に石仏群。芝原の石仏群と呼ばれる。先に進むと、今度は赤い帽子をかぶった6体のお地蔵さん。これが「芝原の六地蔵」。六地蔵は散歩の折々に出会う。お地蔵さん、って釈迦の入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの仏不在の時期、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を迷う衆生を救済する菩薩。正確には地蔵菩薩。六地蔵って、六道それぞれに相対した地蔵菩薩であろう。

横川の吊り橋

芝原の六地蔵を過ぎると、本格的に山道となる。要所要所に道標があるので迷うことはない。木々の間の道をしばらく下ると沢にでる。開けた沢にかかる木の橋を渡り、再び山道を上る。細い山道を進むと水の音。木々に覆われた沢に吊り橋が懸かる。「横川の吊り橋」である。吊り橋は沢を跨ぐ。ガイドブックやインターネットでは、断崖絶壁といった記述があったが、高所恐怖症気味のわが身でも、それほどに足元が「ゾンゾン」するってこともなかった。
姫川は雨飾山の南麓に源流を発し、西に流れ姫川温泉の北で姫川に合流する全長15キロの川。山中の横川集落からは古代や、室町期の遺物が見つかっている。また大木の産地で明治14年には京都東本願寺の大柱用の欅の大木を送り出している。横川集落は塩の道・地蔵峠道の道筋。集落の近くの長者が原では、越後を目指す武田とそれを迎え撃つ上杉が相争ったと言うし、往時は交通の要衝であったのだろう。その横川の集落も現在は地崩れで全滅し廃村となっている、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。[横川の吊り橋;9時11分、標高289m]

牛の水飲み場
吊り橋を渡ると道は急な上りとなる。道は小さな沢に沿って上ってゆく。何度か小石を踏んで沢を渡る。沢の水が流れ落ちる岩場の脇も何度か横切る。山道を進む。結構きつい。何度目だったろう、小さい滝の流れ落ちる岩場をぐるりと廻り、岩場の上にでる。と、そこに「牛の水飲み場」の案内。足元の岩盤がそれっぽい。岩に穴があいているのは、牛を繋ぐためのものだろうか。
とはいうものの、こんな急峻な坂、しかも岩場を牛が上れるとは思えない。昔は人や牛の往来も多く、現在より道幅も広く、踏み固められていたわけだから、現在の荒れた山道のイメージでは判断はできないだろう。けれども、それでも、牛がこの山道を上るイメージは浮かばない。実際、この牛の水飲み場の穴は、崖下に落ちるのを防ぐ柵を立てる穴であった、という説もある。
牛がこの坂を上ったか、どうかの詮索はさておき、急峻な山道の荷運びの主役は牛ではなく人であった。歩荷と書き「ボッカ」と呼ぶ。当初、「カチ二」と呼ばれていたようだが、いつの頃からか「ボッカ」と呼ばれるようになった。
急峻な山道もさることながら、ボッカが大活躍するのは冬の時期。牛が荷を運ぶ時期は八十八夜(5月2日)から小雪(12月23日)まで、といった取り決めがあったとのことなので、それ以降はボッカが荷を運ぶことになる。急峻・狭隘な山道では道を進む優先権も決まっていた、と。北から南に進むボッカには必ず道を譲ることになっていた。根拠は何もないのだが、この南行(北塩)が幅をきかすのは、なんとなく荷受けの糸魚川の問屋の「力」って気もするのだけれど、北から南に流れる、塩とか魚類といったもののほうが、南から北に流れる麻、竹、漬わらび、タバコといったものより、有難かった、ということだろう。[牛の水のみ場;9時36分、標高463m]

菊の花地蔵
牛の水飲み場から30分弱ほど歩いただろうか、大きな杉の木の根元に佇むお地蔵さま。遭難したボッカを供養するため、と。豪雪地帯のこの地では半年近く雪に埋もれていることだろう。道から少し脇に上り、お参りを済ませ先に進む。このあ たりから道が少し広くなりブナの原生林に入っていく。[菊の花地蔵;9時59分、標高571m]

屋敷跡
菊の花地蔵から20分程度歩いたところに、いかにも人工的に開かれた場所。屋敷跡と呼ばれる。茶屋があったとも、炭焼き小屋があったとも言われる。10時21分、標高661mあたりの屋敷跡を離れ、最後の上り。沢筋なのだろうが、人牛の往来により、斜面が徐々に削られ道がU字に掘り込まれている。「ウトウ」呼ばれるようだ。U字部分の底のところを上る。結構キツイ。どのガイドにも、屋敷跡から峠がそれほどキツイ、とは書かれていなかったのだが、とんでもなかった。30分弱で、比高差170mほどを上ることになる。落ち葉に埋まった道を、疲れた足を引きずるように、大汗をかきながら這い上がると大網峠に到着。大網を出て2時間半、比高差560m上り続け、やっと大網峠についた。

大網峠
大網峠越えは、道に迷わないかどうか、少々緊張しながら歩いた。 Garminの専用GPS端末を購入したのは、この大網峠越えが心配だった、から。結果的には道に迷うようなことはなかった。秩父の釜伏峠越えのとき、日本三大名水という「日本水(やまと)」の案内に誘われ道に迷い、結構パニック状態になったことがある。今回は何もなくて、誠によかった。また、峠あたりには、ウルルと呼ばれる虻(アブ)の一種が生息し、刺されて腫れて始末が悪いとのことであり、マジに防虫ネットでも買おうとしたほどだが、これも、なんのこともなかった。
峠越えは、この大網峠を含め30ほどは越えただろう、か。山上りはそれほど興味がないのだが、街道を歩き、結果的に峠を越えることになった。甲州街道の小仏峠や笹子峠、甲州古道の時坂峠や大菩薩峠、鎌倉街道・山ノ道の妻坂峠、秩父巡礼道の釜伏峠や粥仁田峠、などなど。川に沿って道があり、邪魔な山塊があればトンネルを掘る、沢があれば橋を架けて一跨ぎといった現在の道路事情とは異なり、昔の人は、国を越えるときは峠を越えるしか道は、ない。
峠は、「たわ」に由来するとの説がある。山稜の「たわんだところ=鞍部」を越える、たわごえ>とうげ、ということ、だ。「手向け」からとの説もある。「遥拝」するところ、でもあったのだろうか。峠はもともとの漢字にはない。日本での造語である。山の上、下、を合わせたもの。言いえて妙で ある。木々に覆われ、全く見通しのきかない大網峠。上り続けた体を休め、ここからは、ひたすら下ってゆくことになる。
[大網峠;10時59分、標高834m]

角間池
大網峠から20分弱、標高差60mほど下るとブナやユキツバキの森の中に池が現れる。エメラルドグリーンといった色合いの水面。この池って、大蛇が流した涙の跡だとか。この地に伝わる伝説によれば、角間池の北東にある戸土の近くの大久保集落に池があり、そこにつがいの大蛇が棲んでいた。ある日、子供が誤って池に落ち溺れ死ぬ。村人は大蛇が飲み込んだと思い込み、夫の大蛇を殺してしまう。妻の大蛇は難を避け、野尻湖に逃れたのだけれど、そのとき悲しみのために流した涙が、角間池、白池、蛙池となった、ということだ(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
角間(かくま)は関東・東北によくある地名。かくれる>陰地、といった語義ではないか、とか。鹿熊と表記するものも、ある。
[11時12分、標高783m]

角間池下道標
池の畔にある戸倉山への登山口を横に見ながら、次の目的地白池へと下る。ほどなく道脇に石の道標。「右松本街道大網 左中谷道横川」と書いてある、とか。文政元年というから1818年の建立。ということは、ここが大網峠を越えて姫川に下る大網峠道と、粟(安房)峠、横川、大峠、地蔵峠、大峯峠と峠伝いに進む地蔵峠道の分岐点。中谷とは南小谷の北、姫川東岸にある集落。地蔵峠道が姫川へと下る南端あたりである。中谷道って、地蔵峠道の別名だろう、か。千国街道 も、新潟県側では、根知越、仁科街道、松本街道などと呼ばれ、長野側では小谷街道、千国街道、大町街道、糸魚川街道などと呼ばれていた。
[11時18分、標高770m]

白池
角間池から下ること30分弱。標高も200m以上下ったところに白池。角間池とは異なり、景色は開けている。池の畔、少し小高いところに諏訪神社の小さな祠。往時、この神社の神事が国境紛争解決の決め手のひとつになったと言う。
江戸時代、元禄の頃、この白池あたりの領有を巡り越後領の山口村と信州領の小谷村で争いが起こる。材木や芝の切り出しを巡る諍い、とも言う。山口の住民は横川が国境線であり、この白池一帯は越後領と主張。このあたりは上杉と武田が合い争ったところ。取ったり、取られたり、ということで、国境線などはっきりするわけもない。一種の国境紛争となる。
山口の住民は、紛争解決のため幕府に訴え出る。幕府は小谷村に対し、白池のあたりが信州領であることを示す明確な証拠を提出しろ、とのお触れ。小谷村は証拠を揃え江戸に出向く。中央区馬喰町の公事宿にでも泊まったのであろう。
それはともかく、幕府からは現地視察も踏まえ裁定を行い、結局は信州領と決まったのだが、その決め手のひとつが諏訪神社の神事。信濃一ノ宮の諏訪大社御柱祭りに合わせ、7年に一度、この白池そばの神木に「なぎ鎌」を打ち込む、という神事である。信濃の神さまのテリトリーということが信濃領である、との証しである、と・池の畔の小さな祠にも歴史あり、ってことだろう(『北アルプス 小谷ものがたり』)。

国境紛争の原因が、たかが材木と言うなかれ。昔は材木や芝は重要なエネルギー源であり、建築資源。建築云々は言わずもがな、ではあるが、エネルギー源としては、たとえば武蔵野の雑木林。これは江戸の人々のエネルギー源確保のため、一面の草原を薪用の雑木林に変えていった結果の姿。利根川の舟運路開発も、物流もさることながら、燃料用の芝木を運ぶことにあった、と言う。
塩の道に関しても、木材は重要な意味をもつ。一般に「塩木」と呼ばれることもあるが、これは塩をつくるための燃料用木材の呼び名。原初は、山の住民が木材を川に流し、海岸端で拾い上げ、それで塩水を煮て自分用の塩をつくる。ついで、多めに木材を流し、海岸端の人にその木材で塩を塩をつくってもらい、材木提供との交換に塩を手に入れる。大量に塩をつくる専業業者が登場するころになると、木材を塩の製造に関係なく日用燃料の薪として売り現金を得、そのお金で塩を買うようになった、と言う。材木や芝を巡っての諍いも、昔は生活に直接かかわる重大案件であったわけだ。

諏訪神社の祠から池脇に下る。池を望む休憩所で一休み。池脇の清水、湧水なのだろうがいかにも美味しかった。ここでお昼。ホテルで握ってもらったおにぎりを食べる。美味。
食後、あたりをぶらぶら。休憩所の裏手に平地。「白池のボッカ宿跡」との案内。文政7年、というから1824年。その年の12月17日朝、戸倉山から大雪崩が発生。2軒の家が押しつぶされ、宿泊者の信州ボッカ15人中12人が即死、家人11人のうち9人も即死と言う大惨事が起きた。その後この地にボッカ宿がつくられることはなかった。平成6年に発掘調査が行われ、約170年ぶりにボッカ宿の全体像が現れた、と言うことだった。
[11時39分、標高634m]

尾根道合流点
白池を離れ次の目標「尾根道合流点」に向かう。といっても、地図に尾根道合流点といった地名があるわけではない。勝手に付けただけ。地図を見ると、白池から大久保、戸土に向かって尾根道っぽい道が北東に向かて走っており、途中大きく西に折れ、しばらく進み北に折れ、それからは一路、山口集落へと向かっている。
塩の道は、地図にはないのだが、白池から尾根道を離れ北に向かい、尾根道をショートカットするようにまっすぐ進む。一度谷に下りて、再び尾根道に上るのか、とも思ったのだが、ぐるっと回る尾根道筋も標高を下げており、結局は下りだけで済んだ。地図には載っていないルートなので、道に迷わないように、GPSに合流点のポイントを登録したりと、結構慎重に準備したのだが、それは杞憂に終わった。白池から20分弱で到着した。
[12時16分、標高563m]

日向茶屋
尾根道との合流点あたりまで来ると、風景も少し里めいてくる。道も山道ではあるものの、雑草が生い茂り、野道めいてきた。標高も530mほど。大網峠からは300mも下ったことになる。尾根道への合流点から10分強歩くと日向茶屋跡。ここは、白池にあったボッカ宿が雪崩れて壊滅した後、それに替わるものとして建てられた、と言う。
ところで、日向って日当たりのいいところ。対するものが日影。この地名は東北から関東・中部地方に多い地名。GISを使い、関東・中部地方の日向230例と日影133例の立地を解析したデータによると、日向、日影とも山沿いの地帯に分布するのは当然として、日向は標高が低く、日影は標高が高い。太陽光を少しでも多く取りたいと、日影は標高が高いのだろう。日向の斜方位は南、南東、南西。日影は北、北西、北東が多く、一部に東と南東。日向の傾斜は比較的緩やかであるが、日影は傾斜が急。日向では耕地としていることも多いので傾斜は緩やかではあろうし、日影の傾斜が急なのは、そもそもが標高が高いのだから当然ではあろう(『GISを用いた「日向」「日影」地名の立地の解析;宮崎千尋』)。GIS,GPSを使ったデータ解析は地形フリークとしては大変ありがたい。
[12時半、53m]

大賽の一本杉

20分ほどかけて、150mほど下る。道端に大きな一本の杉。塞の大神と呼ばれる。「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多い、よう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。
「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様問えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
[12時49分、標高389m]

山口関所跡

一本杉から30分、標高を130mほど下ると山口の集落。姫川を出たのが8時半前。おおよそ5時間で到着した。今夜の宿は糸魚川。が、糸魚川へと向かうバスは午後4時過ぎに一便あるだけ。車道脇の山口関跡を眺めたり、塩の道資料館に向かって歩いたり、雑貨屋でスナックを買ったりするにしても、時間が十分ありすぎる。どうせのことなら、JR大糸線の根知駅に向かって歩こう、とは思うものの距離は直線でも5キロ弱。また、なんとか、かろうじてもってきた天候も山口集落に入ったころから、雨がぽつぽつ。ということで、集落内、スキー場のところにある温泉で時間をつぶす。
山口は文字通り、「山への入り口」、から。地蔵峠道にしても、大網峠道にしても、この山口を通ることになる。戦国時代、上杉と武田の攻防においては戦略的要衝の地であったのだろう。ために、この地に口留番所が設けられ、街道の「出入り口」での物流を「留め」、物品に税を課す。塩一駄(塩俵2俵)に対しては、塩二升程度。そのほか穀物や魚の種類毎に細かく税金が定められていた。
藩の大きな財源を番所で徴収するって、縦横に「道」が通っている現在では想像するのは難しい。が、昔は、往来できる道など数限られており、数少ない往来のほかは人も通れぬ森や林や草地や湿地。交通の要衝の地に関や番所を置いておけば、効率的に運上金・銀を回収できたのであろう。
ちなみに、中世の頃、道路は基本的に有料道路であった。道なき道を悪戦苦闘して通るより、関所でお金を払い、道を進む。とはいうものの、淀川沿いの道だけでも380か所の関があった、と言う。それはあまりにやりすぎ、そんなことでは経済の流れが止まってしまうと通行税を廃止したのが織田・豊臣。その後徳川の時代に設けられた関所も、「入り鉄砲と出おんな」といった、政治・軍事上の監視所であった、よう。番所での運上徴収って、昔の道の姿を想像して、少しリアリティを感じることがでいる、かと・[13時18分、標高256m]

糸魚川
温泉でのんびり時を過ごし、4時過ぎのバスに乗り、今夜の宿泊地のあるJR大糸線・姫川に。夕飯はホテルで、などと考えていたのだが、事前に申し込まなければダメ、とのこと。仕方なく糸魚川市内に出向く。
適当に食事を済ませ、町をぶらぶら。偶然に塩の道の起点の案内。案内に誘われ海岸端に。打ち寄せる波を見ながら、北前船によってこの地に運ばれ、塩の道を牛や人の背で運ばれた品々に思いをはせる。千国番所の記録によれば、塩や四十物(あいもの;塩肴や乾物)、越中の木綿、越中高岡お金物、能登の輪島塗、加賀九谷の陶磁器類、九州の伊万里・唐津が塩の道を通過した、と。



「塩の道」と呼ばれるほど塩が大量に運ばれるようになったのは、瀬戸内海で作られた塩が大量に運ばれるようになってから。糸魚川近辺の塩田で作られる塩もさることながら、瀬戸内で塩の大量生産が可能になり、「売るほど」塩が生産されるようになってはじめて、商品としての塩が塩の道を大量に運ばれるようになったのだろう。
塩の道を歩く前は、塩の道って、越後の塩を信濃に運び込む道のこと、と思っていた。が、実際は、地元だけでなく瀬戸内海からの塩が運ばれるようになって本格的な「塩の道」となる。
また、塩の道を運ばれたのは塩だけではない。塩や魚類、日用品などを信州へと、また信州からは山の産物を越後へと運ばれた物流の大幹線であった。塩の道は、大名が参勤交代などに往来した街道ではなく、物流専門の幹線道路。牛の背で運ばれたであろう高原の千国越え、人の背で運ばれたであろう険路の大網峠越えを体験した2日の散歩でありました。

火曜日, 6月 16, 2009

塩の道散歩 そのⅠ;千国越え

5月も末の週末、2泊3日で塩の道・千国街道を歩いた。千国街道って、日本海側の糸魚川から信州の松本まで続く全長120キロにも及ぶ道筋。明治にいたるまで、日本海側からは塩や魚、信州側からは麻や木綿、タバコや炭などが人や牛の背により運ばれた物流の道である。今回歩いたのは、栂池高原から南小谷へと続く「千国越え」、それとその先、大網の集落から大網峠を越え山口集落に続く「大網峠越え」。合わせて20キロ程度の行程となった。距離としては全体の六分の一、といったところだが、「千国越え」も「大網峠越え」も、どちらも塩の道・千国街道散歩の代表的コース。千国越えは姫川西岸の高原山麓をゆったり・のんびりと歩くコース。大網峠越えは、姫川東岸・艱難辛苦の「峠越え」。結構変化に富んだふたつのタイプの散歩が楽しめた。

そもそも、塩の道散歩のきっかけは、義兄からのお誘い。昨年の初冬、「塩の道を歩きませんか」、と。同じころ古本屋で、『塩の道・千国街道物語;亀井千歩子(国書刊行会)』を買い求め、読み始めていた。奇しくも、はたまたなんたる因縁、というわけでもないのだが、街道歩き大好きなわが身としては、一も二もなく話に乗った。
さてと、塩の道を歩く、といっても、どこを歩けばいいのやら皆目見当がつかない。前述の『塩の道・千国街道物語』は塩の道にまつわる歴史や民俗についての学術書といったもの。とてものこと、お散歩コースを確定するといった実用書ではない。ということで、インターネットで情報を探し、データを補強するため書籍を探した。『塩の道一人行脚;宮原一敏(文芸社)』、『古道紀行 塩の道;小山和(保育社)』などを買い求め、あれこれ検討した結果が上に述べた、「千国越え」であり、「大網峠越え」というわけである。

コースは決まった。で、「道行きの日」ということになるのだが、さすがに初雪の峠越えは少々怖い、ということで、年を越し気候もよくなる5月ということにした。出発まで半年の準備期間。いきあたりばったりのお散歩を身上としているわが身には少々「まだるっこしい」のだが、宮本常一さんの『塩の道(講談社学術文庫)』(講談社刊の『道の文化』でも同じ記事を読んだ)を読んだり、『北アルプス 小谷ものがたり;尾沢健造他(信濃路)』を読んだり、『塩の道を探る;富岡儀八(岩波新書)』を読んだり、道があまり整備されていないかも、との恐れゆえGarmin社のGPS専用端末を購入したり、熊がでるかも、との恐れゆえ3000円ほど投資し、スイスのアーミーナイフ・VICTORINOXを購入し、熊と戦うシミュレーションを繰り返し行うなど、それなりに熟成期間を楽しみ出発の日を迎えた。

本日のルート;大糸線白馬大池駅>「千国越え」のスタート地点・松沢口>百体観音>前山>沓掛>親坂>親沢>千国番所跡>千国諏訪神社>源長寺>黒川沢>大別当小土山>三夜坂>南小谷

大糸線5月23日(土曜日)、千国越えコースの始点のある、栂池高原スキー場へと向かう。最寄りの駅は大糸線白馬大池駅。新宿発午前7時のスーパーあずさで松本駅に。松本からは大糸線に乗り換え大町に。大町で再び大糸線に乗り換え白馬大池に向かう。
この大糸線、昭和のはじめ、大町から北に向かって建設がはじまった。で、糸魚川につながったのは昭和32年。戦時中には工事が止まるばかりではなく、敷設された線路や鉄橋までも戦地で使うために取り外されるなど、紆余曲折をへての完成であった、とか。
大糸線の完成が塩の道・千国街道の物流ルートとしての役割に与えた影響はあまり、ない。明治23年には姫川に沿って道が完成し、馬車による塩の運搬が可能となっているし、それよりなりより、明治22年には中央線が名古屋から松本まで開通し、名古屋経由で瀬戸内の塩か運搬されるようになっている。糸魚川からの塩(北塩)は既に、その歴史的割を終えていたわけ、だ。
ちなみに大糸線って、大町から糸魚川と思っていたのだが、実際は松本から糸魚川まで。これは、「松本から大町」を走っていた私鉄が戦時中の国策で国有化され「大町から糸魚川」を走っていた国鉄と一体化したため、と。

大糸線白馬大池駅
午前11時過ぎに白馬大池駅に。駅は無人駅。駅前を流れる姫川のほかにあたりに何も、ない。川の向こうに河岸段丘が迫る、のみ。有名な栂池高原スキー場へのアプローチ駅であり、土産物屋のひとつもあるだろうし、そこで食事でもなどと目論んでいたのだが、駅前の店もシャッターを閉じている。
食事は我慢するとしても、困ったのは足の便。乗り合いバスはない、ということはわかっていたのだが、駅から千国越えコースのスタート地点まではタクシーでも、などとのお気楽に考えていた。少々甘かった。ということで、スタート地点の栂池高原・松沢口へと歩くことに。距離は3キロ弱、比高差は300mといったところ、か。[大糸線白馬大池駅;11時21分、標高592m]


駅前を離れ、姫川を渡る。川に沿って国道148号線を越えて高原へと続く道へと進む。川床より河岸段丘に這い上がる、といった感じ。道は曲がりくねる。歩き始めるとすぐに、いかにもショートカットといった畦道。これはいい、と進んだ瞬間、道に蛇。蛇はご勘弁、ということで退却を、とは思うのだが、パートナーは少々強気。渋々後を追い、とっとと本道に戻る。30分ほど歩くと、道脇に「そば」の幟。古民家を改築したような趣のある建物。一時はお昼抜きを覚悟したパーティ二人、迷うことなくお店へと。
しばし休息の後、再び歩を進める。曲がりくねった車道を上る。30分も進むと峠を越える。眼前には北アルプス、そしてその山麓にスキー場が広がる。目指す栂池高原スキー場である。雄大な眺めをしばし楽しむ。
山裾に広がるスキー場のあたり、峠と北アルプスの山地の間は、お椀の形のような窪んだ地形になっている。『北アルプス 小谷ものがたり』によれば、往古、姫川はこのあたりを流れていた、と。急峻な北アルプスからの流れにより、気の遠くなるような時間をかけて形成された扇状地が、姫川の流れにより、これまた気の遠くなるような時間をかけ、やや幅広い谷がつくられる。そして、その後再び浸食をはじめ、さらに深い谷(現在の姫川)がつくられた。
現在、扇状地や広い谷の一部が川岸に沿って二、三段の河岸段丘となって分布していると言われるが、スキー場一帯の平原というか、高原は、その扇状地の名残か、はたまた、広い谷となって残る高位段丘面であろう、か。[峠;12時20分、標高807m]


「千国越え」のスタート地点・松沢口
峠より、少し窪んだ高原に向かって道を下る。ほどなく道脇に「千国街道」の標識。千国越えコースのスタート地点・松沢口である。千国街道は、この松沢口から南へと山裾を進み、姫川に沿って南に下るが、千国越えはこの地より北に向かうことになる。
千国越えの始点なっているこのあたりは親の原と呼ばれる。昔は共同の茅場であったようだが、現在はスキー場のゲレンデだろう。フラットな平地が広がる。親の原の名前の由来は、親王原から、との説がある。その昔、この地に後醍醐天皇の皇子である宗良親王が足跡を残したから、と。大町を中心にこのあたり一帯に覇を唱えた仁科氏は南朝方の武将。南朝方の総帥として伊那谷を拠点に各地を転戦した宗良親王が仁科氏を頼ってこの地に来ることは大いにあり得る。
とはいうものの、親の原には湿原を現す「ヤチ」に由来する、といった説もある。「オオヤチハラ>オオヤノハラ>オヤノハラ」ということだ。現在でも近くに湿原が残っておるとのことだし、その昔、ここを姫川が流れていたとすれは、この説も捨てがたい。はてさて。ともあれ、歩を進める。[松沢口;12時39分、標高800m]

百体観音
松沢口からゲレンデの中の一本道をしばし進む。右側に小高い山が迫るあたり、道脇に石像が並ぶ。百体観音と呼ばれている。江戸の頃、高遠の石工によってつくられた。もともとは、街道の各所に置かれていたようだが、明治期の道路改修のとき、この地に集められた、とか。現在でも80体近くの観音様の石像が残る。
百体観音というのは、百観音巡礼のための観音さま。百観音巡りの思想は平安時代には既があったようだが、百観音とは通常、西国33箇所、坂東33箇所、秩父34箇所の、合わせて百の観音霊場巡礼を指す。百観音霊場巡りの記録は1525年に登場するから、そのころまでには百観音霊場信仰はそれなりに普及していたのではあろう。
平安貴族の西国、鎌倉武家の坂東、江戸庶民の秩父と配列の妙もある。とはいうものの、庶民がおいそれと全国を巡礼するわけにもいかないわけで、その代わりにつくられたのが「うつし百観音巡礼」。庶民が「余裕」をもってきた江戸期のことだろう。この地の百体観音も東国各地に残るそのひとつ。道すがら、ちょっと手軽にその功徳を、といったところだろう、か。

その観音さまを彫った石工のこと。高遠の石工って、散歩の折々に登場する。先日、五日市・秋川筋を歩いていたとき、伊奈の町で出会った。伊奈は石工で名高い。江戸城築城のとき、石垣を組んだのは伊奈の石工と言われる。高遠の出であった、という。

で、何故に高遠が石工で名高いか気になった。調べてみると、高遠の地にはこれといった産業がなかった。ために、大量に産出される石材を使い石工、石屋が盛んになった、と。物事の発達には、それなりの理由がある、ということ、か。そう言えば、宮本常一さんの『塩の道』の中に木地つくりで名高い近江の永源寺町の記事があった。そこは、木地つくりに欠かせないいい鑿がつくれるところであり、その鏨をつくるためのいい鉄の産地であった、と言う。物事には、それを生み出すそれ相応の「理由」がある、ということ、だ。

前山
右手に続く小高い「山地」に沿って歩を進める。百体観音って、前山の百体観音と呼ばれる。ということは、この小山は前山であろう、か。地形図をみると標高873mある。山地は段丘面の端を南北に連なる。先端が盛り上がった地形は段丘面としては少々異な印象がある。ひょっとすると、これって、往古の「土砂崩れ」の名残り?山の中腹斜面が窪み、その下方に地すべりで盛り上がった地形というのが小谷の風情、とか(『北アルプス 小谷ものがたり』)。小谷は地すべり頻発の地で名高い(?)。その要因はこの地を南北に貫く大地溝帯、フォッサマグナの地質と地形に大いに関係があるよう、だ。
フォッサマグナとは日本を東西に分断する大地溝帯。実のところ、このメモを書くまで、フォッサマグナって、姫川の谷筋=線のこと、と思っていた。この谷筋が日本の地形が東西に分断するラインであると思っていた。が、実際のフォッサマグナは大地溝帯と呼ばれるように幅100キロの「面」。西端は北アルプスの山の連なり。「糸魚川・静岡構造線」と呼ばれる。東端は上信越・関東山地の連なり。こちらは西端のように鮮明ではなく、「直江津・柏」のラインなど諸説あるようだ。

フォッサマグナ東端の詮議はともあれ、西端はこの小谷のあたり。2億年のその昔、北アルプス・中央アルプスを境として、その東の大地が幅100キロにわたって陥没し海となる。北アルプスの山並みを考慮すれば、深さは数千メートルになるだろう。陥没し海底に沈んだ「溝」には北アルプスや中央アルプスの山並みから大量の土砂が流れ込み海底に厚い地層をつくった。その後、2000万年ほど前、海底が松本・諏訪方面から隆起をはじめた。この小谷のあたりも1000万年前ころ隆起をはじめ山地となった。これが姫川の東に連なる山々・小谷山地である。小谷山地に限らず、北アルプス・南アルプスと上信越・関東山地の間にある山々は、陥没した地形・フォッサマグナの上に盛り上がった山地ということ、だ。

で、この小谷山地であるが、その地質は砂岩とか泥岩からなる。海底に蓄積された土砂からできたものであり、年代も1000万年と比較的(?!)新しい。当然のことながら、地質はもろく、浸食されやすい。しかも小谷山地の地形が造山活動の圧力で曲がりくねり、急傾斜となった。小谷が地滑りの要因がフォッサマグナにその要因がる、というのはこう言うことである。物事には、それ相応の理由がある、ということ、か。実際、姫川筋では昭和36年から48年の間に20回もの大規模地滑りが記録されている。
フォッサマグナへと少々寄り道が長くなった。長くなったついでに、姫川西岸の土砂崩れについて。実際、土砂崩れは西側でも起きている。代表的なものは明治に大災害をもたらした稗田山の崩壊。大量の土砂によって姫川筋の川床が65mも盛り上がり、大きな湖ができた、と言う。北アルプスの山々は2億年の年月を経た硬い結晶片岩といった硬い土質が中心だが、白馬山の北あたりは少々地質の軟弱。しかも火山帯の断層面が走るため、土砂崩れを起こしやすい、とのことである。現在でも土砂崩れのたびに道路が寸断され交通が遮断される。昔はもっと頻繁に災害にみまわれたのであろう。千国街道も姫川筋を避け、比較的安定している尾根道、峠越えのルートがいくつもある。そのことが少々のリアリティをもって感じられてきた。塩の道散歩へと先を急ぐ。

沓掛
左手に北アルプスを眺めながら、前山(?)の山裾を1.キロ強進むと舗装された道路にあたる。沓掛の集落である。と、ほどなく道脇に牛方宿。塩や魚類を背に、街道を往来した牛とその手綱をひいた牛方のお宿。藁ぶき屋根のこの建物は19世紀初頭のもの、と言う。
牛は明治になって、姫川筋に馬車道が通るまで、千国街道における「大量輸送」の主役であった。6頭から7頭をひとつのユニットとして、背に塩俵2表をのせた牛が街道を往来した。塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
それでは、どのくらいの牛がこの街道を往来したのか。詳しい資料はわからないが、糸魚川の3つの問屋に、1日300頭の牛が集まったという記録がある(『塩の道 千国街道物語』)。トラック300台の物流スケールと考えれば、結構な規模感、かも。[沓掛;13時3分、標高772m]

親坂

牛方宿を離れ車道を少し進む。道が大きくカーブするあたりに千国街道の道標。脇に庚申塚。道はここから車道を離れ、坂を下る。親坂と言う。名前の由来は、千国越えのスタート地点であった親の原に続く坂、とのこと。そういえば牛方宿のあった沓掛って地名も、親の里と同様に、この親坂と大いに関係ありそう。沓とは牛や馬にはかせる「わらじ」といったもの。坂道にさしかかる手前で沓を履き替え、履き替えた沓を道中の安全を祈って木などに掛けた。難路・親坂の手前で、沓を掛けたところだから沓掛とよばれたわけだ。
坂を下る。石ころ道で少々足元に注意が必要。坂道の途中に「弘法の清水」、「錦石」、「牛つなぎ石」といった案内が。弘法大師が錫杖を地面に立てたところ、あら不思議、水が湧き出た、という弘法の清水って全国に数百ある。四国八十八箇所の札所だけでも8箇所ある、と言う。この清水、上段が人用で下段が牛用。佇む弘法大師像は安永3年というから、1774年の作。親坂のことを清水坂と呼ぶこともあるようだが、それって、この弘法の清水からきているのだろう。
錦岩は、天候によって石の色が変化するとか、しない、とか。牛つなぎ石は、牛の手綱を通す穴のあいた岩。散歩をしていると、牛ばかりではなく馬をつなぐ石にも折に触れて出会う。駒繋ぎ石と呼ばれている。[親坂;標高761m]








(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


親沢
急な坂を下っていくと沢に出る。親沢と呼ばれる。沢にかかる橋の手前に石仏群。馬頭観音が佇む。牛馬へのご加護を祈ったのであろう。親沢は乗鞍岳東麓を源流とし千国で姫川に合流する。この沢には何箇所か滝がある、と言う。滝って、川や沢による谷筋の開析が、もうこれ以上進めない、というところ。滝の上流の地質が硬く削れないのだろうか。はたまた、下流の開析のスピードに上流部分がついていけず、一時的に段差ができているだけなのだろう、か。下流の姫川って、名にしおう暴れ川。1000分の13の勾配で流れる川である。とすれば、後者の可能性が強いように思うが、はてさて。
ともあれ、こういった段差って、地すべりのもと、である。事実、昭和14年にこの親沢で大規模な地すべりが起きた。とはいうものの、このときの地滑りは姫川対岸の風張山が崩れ、その土砂が親沢地区にまで押し寄せた、とのことである。[親沢;標高658m]

千国番所跡
沢を渡り県道千国北城街道に出る。舗装された道を下ると千国の集落。集落の中ほどに千国庄資料館。いくばくかのお代を払い中に。千国番所跡や塩倉があった。昔ながらの民家の風情を残す資料館の炉端に座り、千国街道のビデオを見ながら、しばし休憩。
この地の歴史は古い。はじめて開かれたのは平安の頃。平将門を征伐した藤原秀郷、と言うか、むかで退治で名高い田原(俵)藤太の子孫と称する田原千国がこの地を開拓した、と。鎌倉期には白川上皇の長女の御所である六条院の荘園・千国庄となる。地方豪族の税金逃れとして荘園を寄進したのだろう、か。実際、大町に覇を唱えた仁科氏は伊勢神宮に領地を寄進し、「仁科御厨」として税金対策を実施している。で、六条院が亡くなった後は、その菩提寺となった万寿院領に組み入れられる。その時の実際的支配者は仁科氏の支族、というから千国庄が地方豪族の税金対策って空想も案外当たっている、かも。で、千国は領地支配の役所である政所としてこの地方の中心地となった。

戦国時代には武田方により口止番所が設けられる。信濃領最北の要衝の地として、千国街道の往来に睨みをきかせることになる。江戸時代は松本藩の番所として、一日千荷駄と言うから、俵にして2000俵が行き交う。が、明治になり、姫川筋に馬車道が作られて以降は経済・流通の幹線から外れ、静かな山村として今に至る。

千国街道が、この重要拠点であった千国の地名に由来することは、言うまでも、ない。この「ちくにみち」が歴史上に登場したのは平安期。六条院領となり、領主の住まいする京の都との往来に使われたのだろう、か。実際、大町の豪族仁科氏、京に対する憧れも強く、大町を京風に仕上げたようなのだが、それはともあれ、京との往来は越の国、つまりは新潟とか北陸経由であった、と言う。千国街道を往来したことだろう。鎌倉期になると、信濃や越後は鎌倉幕府の領地となる。当然のこととして、越後と鎌倉との往来が盛んになる。政治・経済、そして軍事上の道として、千国街道はその「存在感」を強めたこと、だろう。

千国街道が「塩の道」として歴史に登場するのは永禄年間というから16世紀の中頃。全国に幾多の塩の道があるなか、この千国街道が「代表的」となったのは、上杉謙信の義塩のエピソード。今川氏との対立のため太平洋側からの塩(南塩)が止められた宿敵・武田信玄に対し、塩を送った、と。この美談、実際に「お助け塩」を送ったといった記録はないようだ。が、信濃への送塩を意図的に止めることもなかった、よう。とはいうものの、後世信州の松本藩が南塩の搬入を禁じ、北塩のみを受け入れた時期が長かったことを考えると、信濃の人が越後に恩義を感じる、何かがあったの、かも。ちなみに、「塩の道」という言葉が定着したのはそれほど昔のことではない。20~30年程度前のこと。地元の有志が千国街道の整備をはじめ、観光資源としてPRし始めた頃のこと、と言われている。[千国番所跡;13時34分、標高620m]

千国諏訪神社

千国番所跡を離れ、先に進む。千国の集落を少し進むと道はL字に曲がる。趣のある民家を眺めながら道なりに進むと小谷小学校。道の下に国道148号線が接近する。千国越えは、小学校を越えたあたり、街道案内の道標を目印に脇道に入る。少し進むと千国諏訪神社。
千国諏訪神社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。信濃国を開いたという神である。父は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲の神であった建御名方命が国譲りを潔しとせず、出雲を追われて科野(信濃)に逃れるが、その際の経路として、越(高志)の国・新潟から、姫川を上った、と。母は姫川の由来ともなった奴奈川姫(沼河比売)である、ということでもあるので、建御名方命の姫川遡上説は、神話ではあるが、ストーリーとしては違和感が、ない。実際、姫川筋には20もの諏訪神社がある、と言う。[千国諏訪神社;14時10分、標高588m]

源長寺
諏訪神社を離れ、細路を進む。ほどなく源長寺。おおきな道祖神、庚申塔わきの石段を上る。六地蔵、筆塚、子持ち地蔵、西国33観音像などが境内に。元亀元年というから室町末期、16世紀後半の開基。開基の洞光和尚は小蓮華(2766m)に大日如来をまつったことで知られる。小蓮華山は新潟県で最高峰の山。大日如来故に、大日岳とも呼ばれる。数ヶ月前、新田次郎さんの『槍ヶ岳開山;文春文庫』を読み終えた。3180mの鋭峰を開く幡隆上人の物語。上人たちは、天に聳える高峰に清浄静寂な極楽浄土を見るのであろう、か。ちなみに、幡隆上人は飛騨の霊峰笠ケ岳(2898m)も開いている、
それはともかく、この源長寺は赤蓑騒動で知られる。凶作に苦しむ姫川筋の農民が蜂起。一時は千国番所を打ち破り南に下る勢いであったが、この寺の和尚が宥め、暴徒化することを鎮静化させた、とか。今は、なんということのない静かなお寺さまではあるが、往時、この小谷の地の中心的なお寺さまであったのだろう。

黒川沢
源長寺の前の道を進む。山に向かっている。どうも、この道ではないよう。源長寺前に戻り、古道らしき道筋を探す。パートナーが崖下に道標を見つける。千国越えで唯一、道に迷ったところであった。崖下の細路を進む。小谷中学校の裏手といったところ。沢筋まで進む。道は沢筋を右手に眺めながら、少し上流に進み簡易な木橋で沢を渡る。この沢は黒川沢と言う。[黒川沢;14時34分、標高593m]

大別当
黒川沢を渡り、大別当へと向かう。沢を上ると田圃の畦道と言った道筋となる。眼前に姫川東岸の山々・小谷山地が開ける。心持ち丸みを帯びた山容である。柔らかい地質故に浸食されたものだろう。硬い地質でできている北アルプスの急峻なゴツゴツした山容と比較すると、2億万年の風雪に耐え枯れた風情の北アルプスと、たかだか(?)1000万年ほどの、軟な風情の小谷山地、と言ったこところ、か。
道を進むと大別当の集落に。大別当って、結構ありがたそうな名前。「別当」とは、お寺を仕切る事務長さんといったものだが、政所の長官と言った使い方もあるようだ。千国には六条院の政所があったわけで、それとなにか関係ある地名だろう、か。千国越え始点の親王原しかり、また、近くの中土地区には御所平という地名もある。今は静かな山里ではあるが、往時、やんごとなき方々がこの地を往来したのだろう
路傍に石仏、庚申塚、道祖神。大別当石仏群と呼ばれる。先に進むと杉林に入る。東斜面を、少しづつ下る。30分ほどで小土山(こづちやま)集落に出る。[大別当;14時42分、標高646m]

小土山
穏やかな山麓の集落といった風情の小土地のあたりも明治32年、そして昭和46年と大規模な地滑りに見舞われている。姫川西岸から崩れた土砂は姫川を堰き止めた。行き場を失った姫川の流れは、川に沿って通る国道に押し寄せ、道の両側に連なる家々に被害をもたらした、と(『北アルプス 小谷ものがたり』)。
集落の中ほどに石仏群。庚申塔などの石仏が佇む。千国越えの道すがら、結構、庚申塔を見かけた。庚申信仰の「記念」として60年に一度石塔をたてる、とか。庚申信仰って、あれこれ説があってややこしいが、60日に一度、庚申の日、体内にいる「「三尸説(さんしせつ)」という「なにもの」かが、寝ている間にその者の悪しきことを天帝にレポートする。そのレポートの結果寿命が縮むことになるので、寝ないで夜明け待つ、という。日待ち、月待ち信仰のひとつ、と言う。信仰もさることながら、娯楽のひとつであったのだろう。[小土山;14時52分、標高594m]

三夜坂
風景の開けた小土山を先に進むと杉林に。曲がりくねった坂を下る。この坂を三夜坂と言う。
道脇の少し小高い構えの中に二十三夜塔。二十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどといった月待ち信仰の中で最もポピュラーなもの。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒に月を待つ。庚申待ちと同じく、ささやかな娯楽ではあったのだろう。二十三夜待ちは三夜待ちとも言う。三夜坂の名前の由来だろう。

南小谷
三夜坂を下り国道148号線に出る。南小谷に到着。特急停車の町と言うには、少々静か。山間の町である。小谷の名前の由来は諸説ある。「麻垂」はそのひとつ。麻を垂らす、の意。昭和のはじめ頃までは、小谷の地は麻の名産地であった、とか。
国道の沿って少し進み、おたり名産館や小谷郷土館をひやかし、姫川筋に。両岸の緑が美しい。対岸にある南小谷駅で糸魚川駅行きの電車を待ち、本日の宿泊地である姫川温泉に向かう。本日の散歩はおおよそ4時間、11キロ。


千国越えで気になったのは石仏の多いこと。道祖神とか庚申塚といったものは散歩の折々で目にするのだが、観音さまの石像が多いのが目に付いた。信州は観音信仰が盛んであったとよく言われる。六条院領など親王の領地であったことが京との往来を盛んにし、西国33観音信仰といった観音信仰をもたらしたのか。鎌倉期、信濃は鎌倉幕府の領地。観音信仰がひとかたならぬ将軍頼朝の影響、か。はたまた、その鎌倉幕府が庇護し全国区となった善光寺さんの影響か。よくはわからないが、はっきりしていることは「牛にひかれて善光寺詣り」の牛って観音様の化身。それであれば、幾多の観音様が道端に佇むのは大いに納得。さて、明日は大網峠越え、となる。[南小谷;15時23分、標高502m]