土曜日, 3月 23, 2013

守谷散歩そのⅣ;鬼怒川の開削水路を大木丘陵からはじめ、利根川との合流点まで辿る

先回の散歩で鬼怒川が小貝川に合流・乱流する地帯から、大木丘陵の鬼怒川人工開削流路の始点辺りまで辿った。今回はその人工開削地点辺りからはじめ、大木丘陵の鬼怒川開削流路を辿り、利根川への合流点へと歩く。

先回の散歩では鬼怒川の川筋近くに辿りつくのが如何にも大変であった。暴れ川故、と言うか、水量豊富な川故なのか、川筋と堤の間には調整池を兼ねたような畑地や森林があり、川筋に沿っての遊歩道といった類(たぐい)の道はない。今回は前回の轍を踏まないように、Googleの航空写真でチェックするに、川筋まで緑地、畑地、その先に葦原らしきブッシュが茂り、川筋に遊歩道といった道はない。それでも、よく見れば、ところどころに緑地が開けたようなところがあり、そのあたりから川筋に足を運べるかも、といった程度の散歩の準備を行い、守谷へと向かう。

本日のルート;関東常総線・小絹駅>鬼怒川の川筋>川の一里塚>大山新田>大日山遺跡>鬼怒川の砂州>板戸井>清瀧寺>滝下橋>清瀧香取神社>大木地区>六十六所神社>大円寺>がまんの渡し>鬼怒川と利根川の合流点>県道46号>香取神社>正安寺>成田エクスプレス守谷駅

関東常総線・小絹駅
家を離れ、成田エクスプレスで守谷駅へ。そこで関東常総線に乗り換え小絹駅で下りる。先回の散歩でメモしたように、小絹の南北は「つくばみらい市」。市域の大半が小貝川の東岸にある「つくばみらい市」はこの小絹地区、昔の北相馬郡小絹村の辺りだけが小貝川を越え、鬼怒川東岸にまで突き出ている。 駅を離れ、整備された住宅が広がる絹の台地区を鬼怒川へと向かう。絹の台もかっては小絹、筒戸の一部であり、森や林、そして畑地の広がる一帯ではあったようだが、昭和末期の常総ニュータウン開発構想の一環として区画整理事業が行われ、平成元年(1989)のニュータウンのオープンに合わせて「絹の台」として独立した地域となった。

鬼怒川の川筋
おおよそ標高15mの台地からなる絹の台地区を進み鬼怒川に近づく。川筋に進もうと思うのだが、「絹ふたば文化幼稚園」や自然雑木林の保護された敷地があり、川筋には入れない。保護林に沿って成り行きで進むと道が川に向かって下ってゆく。
道を下りきった辺りで、鬼怒川が開け、川に沿って上流に向かってちょっとした距離ではあるが道が造成中であった。造成中の泥道を越え鬼怒川の流れの傍に立ち、両岸に迫る台地を眺める。上流が15m台地、下流が20m台地と少し崖面が高くなっている。
この台地を開削した往昔の工事をしばし想い、鬼怒の流れを離れ造成中の道を逆に進むと台地に公園といった一画が見える。先ほど見た造成中の道も、この公園整備の一環であろうか。ともあれなんらかの案内でもあろうかと歩を進める。

川の一里塚
坂を上り切ったあたりに公園が整備されており、公園の一角に大きな岩が置かれ、その前に「川の一里塚」とあった。案内には「鬼怒川の源は栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼である。川は山峡をぬい、日光中禅寺湖に発する大谷川と合流して関東平野を南下する。流路延長176kmに及び、守谷町野木崎地先で利根川に合流する。鬼怒川は古代、毛野川、毛奴川、衣川、絹川と呼ばれたが、中世以降鬼怒川となった。
以前、鬼怒川は谷和原村寺畑において小貝川に合流していたが、小貝川がたえず氾濫し水難に悩まされたため、元和年間(1621年頃)、細代から守谷町大木に至る約6.5kmを、幕府の命をうけた関東郡代伊奈忠治が苦心の末、約10年間かけて、開削した。そのため常陸谷原領三万石は美田と化し、同時に板戸井川岸の景は、中国の赤壁も比せられる名勝の地となったのである。平成5年4月 守谷町長 會田真一」とあった。
案内には守谷町、とある。つくばみらい市の小絹で下り、成り行きで進んでいるうちに、知らず守谷市域に入っていたのだろう。「川の一里塚」の少し北が市境となっている。
案内に「細代から大木に至る6.5キロを開削」とある。先回の散歩で地形図を見て、15m台地が鬼怒川の両岸に迫る細代が開削始点かと想像したのだが、それほど間違いでもなかったようである。それはそれとして、鬼怒川の開削水路は「つくばみらい市」と守谷市の市境辺りで、細代から南に下っていた流路が大きく西に迂回する。
地形図を見るに、鬼怒川東岸の標高10m地帯のつくばみらい市小絹の南には、久保ケ丘、松前台といった標高20mから25mの台地が広がる。一方、鬼怒川西岸の常総市内守谷と守谷市西板戸の市境辺りには標高5mの谷が台地に切り込んでいる。丘陵開削に際し、より開削の容易なルートを求め西に大きく迂回したのではあろう。物事にはそれなりの「理由」がある、ということ、か。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

大山新田
「川の一里塚」の南は20-25m台地に標高15mの低地が切り込まれている。地名も「大山新田」などと、少々古風な地名を留め、その周囲を囲む台地の松前台、久保ケ丘の整地された住宅地と一線を画した畑地や森・林、そして谷戸が残る。
なんとなく気になり大山新田をチェック;太田新田は元は相馬郡大木村の飛び地であったよう。文献に大木村之枝郷大山村、ともあるので「大山村」と呼ばれていたのだろう。大山の由来は、一面杉の巨木が生い茂り、如何にも「大山」の景を呈していたため、とか。その大山村が大山新田と名を変えたのは、この地の領主であった徳川三卿のひとつ、田安家が江戸の明暦の大火に際し、江戸復興のため、この地の木をすべて伐採・拠出し、その跡地を新田として開墾したから、とか。なお、松前台、久保ケ丘も大山新田の一部であったが、常総ニュータウン計画に際し、大山新田から分離されて地名も松前台、久保ケ丘となった。

大日山遺跡
「川の一里塚」から鬼怒川に沿って進む。ブッシュの切れ目から川床まで足を踏み入れたりしながら、しばし川筋の景観を楽しみながら進むと、道は再び川岸から離れ、台地部分へと向かう。途中「山百合の里」といった緑地帯を見やりながら進む。道は畑地と森や林の残る大山新田地区と宅地開発された松前台の境界線を進む。右手に森や林、左手に宅地開発された風景を眺めながら先に進むと、道脇に石碑があり大日山遺跡とある。
説明もなにもなく、詳しいことはわからないが、この辺りに大日山と呼ばれる霊山があり、江戸の頃は近隣よりの善男善女で賑わった、とか。大日山がどの辺りを指すのが定かではないが、川岸の深い緑の一帯を見るに、手つかずの雑木林や落葉樹の巨木が茂っているようである。石碑は天和2年(1682)に建立された石塔の跡に建っているとのことである。

鬼怒川の砂州
大日山遺跡を越えると右手に鬼怒川が開ける。枯れて折り重なった葦のブッシュを踏み越えて川筋に出ると、岸から川の真ん中まで砂州ができている。こんなチャンスはなかろうと、岸辺に繋がれていた釣り用のボードを足がかりに砂州に進む。鬼怒川のど真ん中から前後左右、360度の鬼怒の景観を眺める。下流は標高25m台地の崖面が両岸から迫り、上流左手は川岸の5m低地の先に25m台地、右手には大日山遺跡辺りの標高25m台地など、開削された台地の地形を眺め、往昔の開削工事を想う。

板戸井
砂州で少しのんびりした後、岸に戻り松前台の宅地開発地の縁を進むと畑地帯に入る。宅地が切れるあたりから地区は板戸井となる。鬼怒川の両岸に迫る台地は標高25m地帯。大木丘陵の人工開削の最南部、最後の難工事の箇所ではあったのだろう。
鬼怒川の西岸に「西板戸井」地区が見える。鬼怒川の人工開削により台地が割られ、西側に残った昔の板戸井村の一部である。江戸の頃の板戸井村は現在の板戸井地区に松前台の5丁目から7丁目、薬師台の2丁目から7丁目までも含む一帯であったよう。上でメモした大山新田の地域分離と同じく、松前台、薬師台は常総ニュータウン計画時に板戸井地区から分離された。
なお、板戸井の地名の由来は平将門が相馬地方に七つの井戸を掘って飲み水とした、との伝説に拠る、と言う。「井」はそれで理解できるが、「板戸」ってどういう由来だろう。チェックするも、不明のままである。






清瀧寺
畑地を越え、豊かな構えの農家を見やりながら進むと県道50号、その南の緑の一画に清瀧寺。文正元年(1466)の開基ともいわれるが、しばしば兵火にかかり、記録が失われ詳しいことはわからない。境内では天台座主より「大僧正」の称号を受けた有徳のお住職の顕彰碑(平成15年建立)が目についた。また、札所番号だろうか、番号のついた小振りの石仏が点在する。



滝下橋
お寺を離れ国道を進み鬼怒川に架かる橋を渡る。滝下橋とあるが、橋名は先ほどお参りした清瀧寺に由来するものだろう。赤く塗られた鉄橋にような橋は、昭和30年(1955)に架橋されたもの。それまでは大木の渡しが鬼怒川の東西を繋いでいた、とのことである。





清瀧香取神社
滝下橋を渡り清瀧香取神社に。境内には清瀧寺でみた札所番号らしき番号のついた石仏が数多く佇む。鬼怒川の水路開削によって、清瀧寺とこの清瀧香取が水路によって隔てられる以前は、神仏混淆により寺と神社が同じ境内にあったのではあろう。寺と神社が別ものとして分けられたのは明治の神仏分離令以降のことであることは言うまでも、ない。
25m台地最南端にある神社の南には一面に平地が広がる。境内には「月読神社」、「御嶽神社」の石碑も建つ。「月読神社」、「御嶽神社」は散歩の折々に出合うことも多いのだが、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」と刻まれたちいさな石祠は初めてのもの。

○青麻(あおそ)岩戸三光宮
青麻神社。WIKIPEDIAによれば、主祭神は天照大御神・月読神・天之御中主神。常陸坊海尊を併祀する。宮城県仙台市宮城野区に総本社があり、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社、三光神社などと呼ばれる、と。社伝によると、仁寿2年(852)、山城国から社家の祖である保積氏が宮城に下り、一族の信仰していた日月星の三光を祀ったのが社の始まり。天照大御神が日、月読神が月、天之御中主神が星(宇宙)と言ったところだろう。
月読神って、その粗暴な所業故に天照大神の怒りをかい、ために月は太陽のでない夜しか、顔をだせなくかった、という昼夜起源の話となっている神様。その二人が共に祀られるのがなんとなく楽しい。境内の「月読宮」の石碑はそのことと関係があるのだろう、か。また、「青麻」は穂積氏が麻の栽培を伝えたことに由来する、とのことである。
その穂積氏は水運に携わっていたこともあり、「青麻(あおそ)岩戸三光宮」は水運の守り神であった、とか。滝下橋ができるまでは、この地に大木の渡しがあったとメモしたが、神社の境内を離れ、鬼怒川の川筋の近くに鳥居があり、そこに「船持中」と刻まれていた。船運に従事する人達によって奉納されたものであろう。なお、青麻岩戸三光宮の主祭神には月読神も含まれている。

大木地区
清瀧香取神社を離れ、滝下橋に戻り、清瀧寺脇を抜けて鬼怒川を下流に、利根川の合流点へと向かう。台地を下り川筋に沿って進むとささやかな水神宮の祠があった。このあたりは大木地区となっている。
地図を見るに、鬼怒川の東には「大木」、西には「西大木」とか「大木流作」と言った地名が残る。東側の大木には北は谷戸が入り組み、南は標高5mの低地が広がる。一方西側の西大木とか大木流作は一面の標高5m地帯。鬼怒川開削の後に利根川と鬼怒川に挟まれた三角地に新田開拓が行われ「大木新田」と称されたが、洪水の被害が夥しく、それ故に「流作場」と称されるようになる。現在残る「大木流作」はその名残り。年貢も洪水被害を前提とし、三年に一度の収穫で十分な年貢ではあったようである。
大木地区は明治10年(1877)に大木新田が大木村に合わさり、明治22年(1889)には北相馬郡の板戸井村、大山新田、立沢村を合わせ「大井沢村」の大字、昭和30年(1955)には北相馬郡守谷町、大野村、高野村と合併し、守谷町の大字、平成14年(2002)には市制施行により守谷市の大字として現在もその地名を残している。

六十六所神社
地図を見ると、鬼怒川の東、低地の境目辺りに、六十六所神社とか大円寺がある。六所神社は散歩の折々に出合うこともあるが、六十六所神社という社ははじめて。ちょっと立ち寄ることに。
舌状台地と谷戸の入り組む台地の端、民家のすぐに傍に朱の鳥居。石段を上ると、ささやかな社があった。社にお参りし、社殿の周囲を歩くと、社殿横に、由緒の案内があり、「後小松天皇の御世、応永4年(1397)、出雲大社の大国主命の分霊を当地に勧請した、と。当時の拝殿、本殿造りの社殿は筑波以南には数少ない荘厳なる構えであったようであるが、明治18年の大木村の大火で焼失し、現在の社殿は昭和46年に再建されたもの」と。社殿裏手には東照宮の祠もあった、社の名前の由来は、大木村660番にあったから、とか、諸国巡礼の六十六部から、とかあれこれあるとのことだが、どれもいまひとつ、しっくりこない。

大円寺
六十六所神社の隣に大円寺。寺には平安末期から鎌倉初期にかけての作とされる釈迦牟尼仏が伝わるが、印象的なのは鐘楼の横の斜面にある巨木、案内によると、「天然記念物椋の木」。椋(むく)の木は栃木、茨城の中央部が北限。川沿いの水分の多いところに生育し大きく成長する」と。大木村の地名の由来となった巨木ではある。なお、大円寺や六十六所神社のある丘陵は「御霊山」とも呼ばれ、将門の七人の影武者を葬ったところとの言い伝えがあるようだ。

がまんの渡
大円寺から再び鬼怒川の堤防に戻る、この辺りも堤防と水路は大きく離れており、堤防から流路は葦のブッシュの先に微かに見える。先に進むと「利根川との合流点から2キロ」の案内。利根川の川筋は未だ見えない。
左手に広がる低地、調整池(池)を兼ねた耕作地ではあろうが、その先低地と台地をくっきりと区切る台地斜面の斜面林に見とれながら進む。堤防の傍にあるごみ処理施設や常総運動公園を見ながら先に進むと、左手の堤防下に低地にぽつんと木が残り、その脇に石碑とか案内らしきものがある。堤防を下りて案内を見ると、「がまんの渡し場の由来」とあった。
案内によると、「元和元年(1615)、家康公が鷹狩のため当地を訪れ、野木崎地区の椎名半之助家に滞在したとき、大雨のため利根川を渡るのが困難な状態となっていた。そこで、家康公は舟夫に「我慢して渡してくれ」と頼み川を渡ったので、「がまんの渡し」と呼ばれるようになった。当時鬼怒川はこの地を流れていないので、対岸は千葉県野田市水堀地区である。
鬼怒川が開削されてからは渡し場は1キロほど下流に映り、野木崎河岸と呼ばれ、明治から大正にかけて茨城県南の波止場として隆盛を極めた。
今から380年前、天下人となった家康公が武将を引連れこの地を訪れ数日滞在。そのお礼に田畑9反9畝を椎名家に与えられ、また家康公が使われた井戸跡も残っている」とあった。
案内にある「元和元年の鷹狩」と、説明の後半にある「今から380年前天下人となった」のくだりが、同じ時期のことなのだろうとは思うのだが、この時の家康の鷹狩の話しは、領内の民情視察を兼ねたものとも言われる。行程は鷹場のある越谷に行くも雨で鷹狩が叶わず、野木崎に移動、椎名家に滞在し、大雨の利根川を葛西方面へと向かったとのことである。ちなみに、「家康・水飲みの井戸」は常総運動公園の南端を東に進み地蔵堂のある辺りの少し北(守谷市野木崎1587)にあるようだが、今回は見逃した。そういえば、六十六所神社の東照宮も、野木崎と家康ゆかりのコンテキストで判断すれば、わかりやすくなった。

鬼怒川と利根川の合流点
河川敷に飛ぶモーターハンググライダ^-を先に進むと「利根川合流点です」の案内。とは言うものの、ブッシュの向こうに鬼怒川の川筋が見えるか見えないか、といった状態で利根川など全く見ることができない。これはもう、ブッシュを踏み越えて鬼怒川の川筋に出るしかない、と堤防を下り、葦のブッシュに入り込む。
枯れた葦が重なり合ったブッシュの中を、足元に注意しながら川筋へのルートを探す。トライアンドエラー繰り返しなんとか鬼怒川の川筋にでると、大木流作の三角州の突端で利根川と鬼怒川が合流していた。鬼怒川の砂州に足を踏み入れ周囲の景観をしばし眺める。例によって、「はるばる来たぜ」と小声で呟く。 砂州から川岸にk、しばらくブッシュの中を鬼怒川に沿って藪漕ぎをし、利根川の対岸に、先日歩いた「利根運河」の取水口を確認。
利根運河って、利根水運の初期ルートである利根川を関宿方面へと遡上し、そこから分岐する江戸川を経由して江戸へと進んだようだが、日数も3日ほどかかるためその日数を減らすためと、もうひとつ、関宿当たりに次第に砂がたまるようになったため開削されたように記憶している。その時はあまり気にも留めなかったのだが、利根運河の取水口のすぐ上で鬼怒川が合流している、ということは、水量の安定確保の意味でも、利根運河がこの地で開削されたのだろうか、などと少々の妄想を楽しむ。

県道46号
念願の鬼怒川と利根川の合流点も確認し、気分宜しく川筋を離れ堤防に。さて、どんなルートで駅まで進むか地図を見る。近くに電車の駅はない。どうせ歩くなら途中に神社や仏閣でもとチェックする。と、堤防から北に延びる県道46号に沿って香取神社と正安寺がある。正安寺も守谷散歩の最初に訪れた守谷中央図書館で、なんらか将門ゆかりの寺とあった、よう。ということで、駅までの帰路は県道46号に沿って戻ることに。
堤防脇の大野第二排水機場傍の水神様にお参りし、明治乳業の工場脇を北に進む県道46号に入る。道は低地の中を台地斜面林に向かって一直線に進む。道が台地に入ったあたりに香取神社があった。

香取神社
道脇から鳥居をくぐり境内に。古き趣の社殿にお参り。境内には狛犬と言うよりも、猿に似た石像が佇む。香取神社の眷属は鹿であろうし、何だろう?因みに御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。
それにしても茨城に入ったら香取神社が如何にも多い。先の散歩でもメモしたが、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。

正安寺
香取神社を離れ、県道46号を少し北に進み、成り行きで小道に入り正安寺に。構えはそれほど大きくないが落ち着いたお寺さまである。案内によれば、「創立は今から700年前の西暦1300年頃。安政3年(1856)に火災で焼失するも、安政5年に再建。本尊の阿弥陀如来は行基作との伝えあり、と。合祀されている寅薬師如来は静岡の峯の薬師の分身。元は野木崎辺田前(へたまえ)にあった医王寺に祀られていたが、明治に廃寺となり、ここに移された。
寅薬師の眷属である十二新将の真達羅(しんだつら)大将(寅童子)の化身が徳川家康であると言い伝えられており、徳川家の安全祈願を行ったことから「寅薬師」の名が起こったといわれている。 慶安2年(1648)には三代将軍家光から40石2斗あまりの御朱印地を賜っている」とある。
寅薬師如来の霊験は、特に眼病に効くとされるほか、薬師如来故か、あらゆる病気に霊験あらたか、ということで第2次世界大戦以前は埼玉県・群馬県、千葉県銚子地方の沿岸から水運を利用して多くの参拝に訪れた、とか。特に眼病には「瑠璃水」という目薬を施薬することを許可されていたとほどである(当然のこと、現在は、薬事法により許可されてはいない)。

成田エクスプレス守谷駅
正安寺を離れ、成田エクスプレス守谷駅に向かう。正安寺から県道46号に戻り、を東に進めば常磐道を越え、大柏交差点あたりで、つくばエクスプレスに交差し、線路高架に沿って進めば守谷の駅につけそうである。道を成り行きですすんでいると、県道46号の南に太子堂があったので、ちょっと寄り道。特に何の案内もない、お堂ではあった。
再び県道46号に戻り、常磐道を越え大柏交差点に向かう。と、道脇に「大柏橋」バス停の案内。橋という以上川があったのだろうか。地形図でチェックすると、台地に細い谷筋が切れ込んでいる。谷を流れる水路でもあったのだろう、と妄想する間もなく、丁度到着したコミュニティバスに飛び乗り守谷の駅に。後は一路家路へと。



金曜日, 3月 22, 2013

三増合戦の地を巡る:武田軍の帰路を相模湖へ

三増合戦の地を巡る:武田軍の帰路を相模湖へ

  津久井から相模湖に

ふとしたことから目にした三増合戦の記事に惹かれ、その戦いの地を二度に分けて歩いた。今回はその仕上げ。武田なのか北条なのか、どちらが勝ったのか、負けたのか今ひとつはっきりしないのだが、ともあれ、武田軍の甲斐への帰路を相模湖まで歩こうと思う。

武田軍の引き上げルートは、斐尾根から長竹三差路、三ヶ木をへて寸沢嵐(すあらし)に進み、そこで道志川を渡り相模湖へ、と伝えられている。ということで、今回の散歩のスタート地点は長竹三差路。先回辿った斐尾根から少し北にすすんだところにある。交通の便は少々よくない。先日と同じく、本厚木からバスに乗り、半原に、それから志田峠を越えて斐尾根へと進むのも芸がない。で、今回は橋本から三ヶ木行きバスに乗り、途中の太井で降り、そこから城山の南を進み、長竹三差路へ。長竹三差からは三ケ木、寸沢嵐、相模湖へと歩くことにする。



本日のルート:太井>諏訪神社>パークセンター>巧雲寺>根小屋>串川>三増峠への道>串川橋>長竹三差路>青山神社>三ケ木>道志橋>寸沢嵐石器時代遺跡>正覚寺>鼠坂>相模湖

太井
京王線で橋本駅に。そこから三ケ木行きのバスに乗る。川尻、久保沢、城山高校前を過ぎると津久井湖。城山大橋というかダムの堰堤を通り、津久井城跡のある城山の北麓にそって湖畔を進むと太井に。太井は津久井城跡のある城山の麓、相模湖にかかる三井大

橋の近くにある。昔は太井の渡しがあり、津久井往還が相模川を越えるところであった、とか。ちなみに、ここから北に三井大橋を渡れば、峰の薬師への道がある。峰の薬師から城山湖への道もなかなかよかった。

諏訪神社
本日は太井のバス停から南に向かう。左手に津久井城のある城山を見やりながら、台地へと坂道を上る。この台地は相模川の河岸段丘。山梨から下る桂川と丹沢から流れ落ちてきた道志川の流れが合わさった大きな流れによってかたちづくられたのだろう。上りきったあたりに諏訪神社。道端にあるお地蔵さん。なかなか風情があった。境内にある樹齢800年の杉で知られる。

パークセンター
諏訪神社から南は下りとなる。尻久保川への谷筋に下る坂道の途中、道を少し東にはいったところにパークセンター。津久井城や城山についての歴史やハイキングコースなどの資料が整っている。
いつだったか津久井城跡を訪ねた折、このパークセンターに訪れたことがある。そこで見たジオラマに惹かれた。城山の南の地形、河岸段丘がいかにもおもしろい。城山の南を流れる串川の両側は、複雑で発達した河岸段丘が広がっていた。地形大好き人間としては、この先が楽しみではある。

巧雲寺
パークセンターを離れ、尻久保川へと下る。尻久保川にかかる根小屋橋の手前を東へと折れ、ゆるやかな坂を少し上ると巧雲寺。戦国時代の津久井城主内藤景定の開基。景定の子景豊の墓もある。景豊は三増合戦のときの津久井城主。三増合戦の折、城からの援軍を出すことも無く、「座視」。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、合戦後、北條氏照が上杉に送った書状に「山家人衆、自由を遣うに依り罷り成らず(勝利が)、今般信玄を打留めざる事無念千万候」、とある。「津久井衆(山家人衆)が命令に従わず勝手に行動したため、信玄を撃ちもらし、悔しくてたまらん」、といった意味。「役御免、今後永久この分たるべし」と、禄高も10分の一に減額している。よほど腹に据えかねたのだろう。景豊の言い分はなにも残されていないので、真相は不明。

根小屋

巧雲寺を離れ、尻久保川にかかる根小屋橋を渡り、再び台地へと上る。ここから当分は台地の上を歩くことになる。なんとなく高原の地、といった雰囲気。先日歩いた斐尾根あたりと雰囲気が近い。発達した河岸段丘によってつくられた地形がもたらすものであろう。
根 小屋地区をのんびり歩く。根小屋って、城山の麓につくられた、家臣団の屋敷があるところ。散歩するまで知らなかった「単語」だが、歩いてみると結構多い。秩父であれ千葉であれ、「時空散歩」には、折にふれて登場する。「城山の根の処(こ)にある屋」という、こと。「根古屋」とも書く。

串川
台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。
かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。
大きく弧を描き串川へと下る坂道の途中に飯綱神社。津久井ではこの飯綱神社をよく見かける。津久井城跡のあ る城山にもあった。津久井湖の東、津久井高校あたりから城山湖に上る道の途中にも飯綱大権現があった。高尾山もそうである。飯綱信仰は信州の飯綱より発し た山岳信仰。戦の神としても上杉謙信を筆頭に、戦国の武将に深く信仰された。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠への道
坂を折りきると車道に交差。城山の東、相模川にかかる小倉橋から南西に、串川に沿って城山の南を走る道である。交差点を少し西に進むと、南から上ってくる道に合流。この道は、先日歩いた三増峠方面からの道。三増峠下のトンネルをとおり、一度串川に向かってくだり、再びこの道筋へとのぼってきている。
合流点から南の山稜を見る。正面方向が三増峠であろう、か。先日、峠を東に進まず、西に折れれば、この道におりることができたわけだ。道の雰囲気を感じるため、串川に向かって下る。串川にかかる中野橋まで進み、峠下のトンネルへと向かう上りの道を眺め、少々休憩し、もとの合流点へと戻る。
地図の上では三増峠と津久井城って結構離れている、と思えたのだが、実際に歩いてみると、そうでも、ない。武田軍が津久井城の動静に気を配ったわけが、なんとなく分かった、気がした。ちなみに、三増峠からの道は県道65号線。これって津久井の中野で国道413号線に合流している。つまりは、太井から歩いた道は、ほぼこの県道を進んできた、ということであった。

串川橋
合流点から串川に沿って進む道筋を長竹へと進む。西というか、南西に道を進む。道の北に春日神社。ちょっと立ち寄る。このあたりまで来ると、串川は山稜から離れてくる。離れるにしたがって串川も渓谷といった雰囲気もなくなり里をゆったりと流れる小川といった姿となる。串川の名前の由来は例によってあれこれ。櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
御堂橋で串川を渡る。このあたりでは串川は少し大きな「小川」といった雰囲気。更に進み、串川橋で再び串川を渡る。道はここで国道412号線と合流。412号線、って半原から斐尾根の台地を抜け進んできた道。先日、半原へと歩いた道である。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。


長竹三差路

串川橋を離れ、道を西に。串川中学、串川小学校を過ぎると長竹三差路に当たる。三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。と言うことは、三増峠を貫く県道65号線の道筋などなかったのであろう。ともあれ、今も昔もクロスロードであった、ということ。

青山神社
先に進む。相模湖方面と、串川に沿って宮ケ瀬方面へと分岐する手前に青山神社。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

三ケ木

青山神社を越えると412号線は三ケ木に向かって、北西に進む。道の両側に開けた青山集落を過ぎ、道の両サイドに山容が迫るあたりから青山川が顔を出す。しばらくは青山川に沿って進む。青山交差点で道志方面へと進む国道413号線との分岐手前に八坂神社。結構な石段をのぼる。
八坂神社を越えると青山川は北西に、道は北にと泣き別れ。青山川はそのまま進んで道志川に合流する。道をしばらく進むと周囲が開け、三ケ木の集落、に到着、だ。
三ケ木は「みかげ」と読む。由来は良く分からない。中世、「日影之村」の「三加木村」として現れる。集落と書いたが、このあたりではもっとも「にぎやかな」ところだろう。橋本からのバスも結構動いている。逆の相模湖方面にもまあまあ動いているよう、だ。

道志橋
三ツ木の交差点から1キロ弱北西に進むと道志橋。道志川が津久井湖に注ぐところにある。橋の対岸は相模湖町寸沢嵐(すあらし)。信玄軍が道志川を渡ったところ言われる。一隊は三ヶ木から、落合坂を下り沼本の渡し(落合の渡し)を経て、また、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡った、とある。
現在橋は川面よりはるか高いところ、高所恐怖症のひとであれば少々足がすくむ、といったところに架かっている。が、もとより、合戦当時の道は、ずっと低いところに下りていだのろう。実際、落合坂を下り切ったところは道志川と相模川の合流点であったという。湖も無いわけで、川幅も現在よりずっと狭かったのだろう、か。

寸沢嵐石器時代遺跡
道志橋を離れ、沼本地区を越え、津久井警察署の先から国道を離れ少し南に入ったところに寸沢嵐石器時代遺跡。地元の養蚕学校教諭、長谷川一郎氏が発掘し発表した。寸沢嵐は「すわらし」と読む。「スワ」は低湿地・沼沢・斜面。「アラシ」は川の斜面から材木を投げ下ろす場所、と(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)。近くに「首洗池」もある。武田軍が討ち取った首を洗ったと言われる池。その数3269、とも。またこの地ではじめて勝鬨をあげた、とも。戦場を大急ぎで離脱し、ここ、道志川を越えた台地上に着くまでひたすらに駆け抜けた、と。それって勝者の姿でもあるまいといった評価もあり、それが三増合戦の勝者を分かりにくくしている、という識者も多い、とか。

正覚寺
寸沢嵐石器時代遺跡を離れ、国道に戻る。少し西に進み阿津川にかかる阿津川橋を渡る。ここから道は阿津川に沿って進む。蛇行する川を、山口橋、正覚寺橋と渡る。道の北は相模湖林間公園。道のそば、深い緑の中に品のいいお寺様が見える。正覚寺。丁度境内

には五色椿が咲いていた。
縁起はともあれ、このお寺は柳田国男を中心とするチームによっておこなわれた日本で最初の民俗学の調査の本拠地。大正7年(1918年)のことである。チーム(郷土会)がこの地(内郷村)を選んだのは、その地形が「一方は高い嶺の石老山を境界とし
、他の三方は相模川と道志川に囲まれ、近年まで橋のない弧存状態にあり、農山村としての調査条件がそろっていた(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)」ということはもちろんである。が、同時に、長谷川一郎(寸沢嵐石器時代遺跡の発掘・発表者)さんの存在も大きい、かと。当時長谷川さんは地元の小学校の校長さん。こういった理解者があったことも実施を実現した大きなファクターであろう。長谷川さんはその後村長さんまでになった。柳田国男の句碑。「山寺やねぎとかぼちゃの十日間」

鼠坂
正覚寺を 離れ先に進む。道の北はさがみ湖ピクニックランド。しばらく歩く
と国道から分岐する道。分岐点に八幡神社。近くの民家、というか喫茶店のそばに「鼠坂関址」。メモする;「この関所は、寛永八年(1638)9月に設置された。ここは、小田原方面から甲州に通じる要塞の地で、地元民の他、往来を厳禁し、やむを得ず通過しようとする者は、必ず所定の通行手形が無ければ通れなかった。慶安四年(1651)には、由井正雪、丸橋忠弥の陰謀が発覚し、一味の逃亡を防 ぐため、郡内の村人が総動員し、鉄砲組みっと共にこの関を警固したという。この道は甲州街道の裏街道。この関も甲州街道の小仏関に対する裏関所といったものであったのだろう。ともあれ、一般庶民が往来するといったところではなかった、よう。

相模湖
鼠坂を離れ西に進む。峠を越えた辺りに関所跡。このあたりから道は下る。道の左手に湖が見えてくる。鼠坂より1.5キロほどで相模湖大橋。橋を渡り台地に上る。甲州街道を越える中央線相模湖駅に到着。三増合戦ゆかりの地を巡る津久井散歩もこれでお仕舞い、とする。


ちなみに、津久井って、もともとは三浦半島に覇をとなえた鎌倉期の武将三浦一族にはじまる。三浦一族の一武将が津久井の地(現在の横須賀市)に移り住み津久井氏を名乗った。その後、この地に移り築城。津久井城と名づけ、津久井衆と名乗った、ということだ。

木曜日, 3月 21, 2013

三増合戦の地を辿る;志田峠越え

三増合戦の地を辿る;志田峠越え


武田の遊軍が進んだ志田峠、そして、北条方が陣を構えた半原の台地をぐるっと巡る

三増合戦の地を巡るお散歩の二回目。今回は志田峠を越えようと思う。相模と津久井をふさぐ志田山という小山脈の峠のひとつ。先回歩いた三増峠の西にある。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「道はよいが遠いのが本通りの志田峠、いちばん東にあり、いちばん低く、いちばん便利なのが三増峠」、とある。はてさて、どのような峠道であろう、か。
で、本日の大雑把なルーティングは、志田峠から菲尾根(にろうね)の台地に進み、そこから折り返して半原に戻る。武田の遊軍が進んだ志田峠、津久井城の押さえの軍が伏せた菲尾根の長竹ってどんなところか、また北条軍が陣を構えたとされる半原の台地、ってどのような地形であるのか、実際に歩いてみようと、の想い。



本日のルート;三増合戦みち>三増合戦の碑>信玄の旗立松>志田峠>清正光・朝日寺>韮尾根>半原日向>半原・日向橋>郷土資料館>辻の神仏>中津川

三増合戦みち
小田急線に乗り、本厚木で下車。半原行きのバスに乗れば、志田峠への道筋の近くまで行けるのだが、来たバスは先回乗った「上三増」行。終点の手前で下りて少し歩くことになるが、それもいいかと乗り込み、「三増」で下車。
三増の交差点から「三増合戦みち」という名前のついた道が半原方面に向かって東西に走っている。交差点から300m程度歩くと道は下る。沢がある。栗沢。結構深い。三増峠の少し西あたりから下っている。

三増合戦の碑
栗沢を越え台地に戻る。北は志田の山脈が連なり、南に開かれた台地となっている。ゆったりとした里を、のんびり歩く。再び沢。深堀沢。三増峠と志田峠の中間にある駒形山、これって、信玄が大将旗をたてた山とのことだが、その駒形山の直下に源を発する沢。誠に深い沢であった、とか。現在は駒形山あたりはゴルフ場となっており、地図でみても沢筋は途中で切れていた。
深堀沢を越えて300m程度歩くと「三増合戦の碑」。このあたりが三増合戦の主戦場であったようだ。
「三増合戦のあらまし(愛川町教育委員会)」を再掲する。:永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。
とはいうものの、新田次郎氏の小説「武田信玄」によれば、北条方は三増峠の尾根道に布陣し、武田方の甲斐への帰路を防ぎ、小田原からの援軍を待ち、挟み撃ちにしようと、した。一方の武田軍がそれに向かって攻撃した、となっている。先回、三増峠を歩いた限りでは、尾根道に2万もの軍勢を布陣するのはちょっと厳しそう、とも思うのだが、とりあえず歩いたうえで考えてみよう、ということに。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


信玄の旗立松
「三増合戦の碑」のすぐ西隣に、北に進む道がある。志田峠に続く道である。「志田峠」とか「信玄旗立松」といった標識に従い道なりに進むと「東名厚木カントリー倶楽部」の入口脇に出る。「信玄旗立松」は現在、ゴルフ場の中にある。
案内標識に従い、ゴルフ場の中の道を進む。結構厳しい勾配である。駐車場を越えると、前方に小高い丘、というか山がある。更に急な山道を上ると尾根筋に。ここが信玄が本陣を構えた中峠とも、駒形山とも呼ばれたところ、である。
「信玄旗立松」の碑と松の木。元々あった松は枯れてしまったようだ。旗立松はともあれ、ここからの眺めはすばらしい。180度の大展望、といったところ。南西の山々は経ヶ岳、仏果山、高取山なのだろう、か。半原越え、といった、如何にも雰囲気のある峠道が宮ヶ瀬湖へと続いている。とのことである。
尾根道がどこまで続くのか東へと進む。が、道はすぐに切れる。この山はゴルフ場の中に、ぽつりと、取り残されている感じ。しばし休息の後、山道を降り、ゴルフ場の入口に戻る。

志田峠
ゴルフ場に沿って道を北に進む。田舎道といった雰囲気も次第に薄れ、峠道といった風情となる。道の西側には沢が続く。志田沢。足元はよくない。小石も多い。雨の後ということもあり、山肌から流れ出す水も多い。勾配はそれほどきつくはない。しばし山道を進むと志田峠に。ゴルフ場入口から2キロ弱、といったところだろう。
志田峠。標高310m 。展望はまったく、なし。峠に愛川町教育委員会の案内板;志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で、愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、
津久井町韮尾根に抜ける道である。かつては切り通し越え、志田峠越の名があった。
武田方の山県三郎兵衛の率いる遊軍がこの道を韮尾根から下志田へひそかに駆け下り、
北条方の背後に出て武田方勝利の因をつくった由緒の地。
江戸中期以降は厚木・津久井を結ぶ道として三増峠をしのぐ大街道となった。」 と。

清正光・朝日寺
峠を越えると道はよくなる。1キロほどゆったり下ると道の脇にお寺様。志田山朝日寺。200段以上もある急な石段を上る。境内に入ろうとしたのだが、犬に吠えられ、断念。トットと石段を戻る。案内によれば、13世紀末に鎌倉で開山されたものだが、昭和9年、この地に移る。本尊は清正光大菩薩。現在は「清正光」という宗教法人となっている、と。
「清く、正しく、公正に」というのが、教えなのだろう、か。

韮尾根(にらおね>にろうね)
道なりにくだると、東京農工大学農学部付属津久井農場脇に。このあたりまで来ると、ちょっとした高原といった風情の地形、となる。北東に向かって開かれている。のどかな畑地の中をしばし進む。と国道412号線・韮尾橋の手前に出る。韮尾根沢に架かる橋。住所は津久井市長竹である。
長竹と言えば、武田方の遊軍・山県勢5千に先立ち、津久井城の押さえのため進軍した小幡尾張守信貞の部隊が伏せたところ。1200名の軍勢が、中峠から韮尾根に下り、串川を渡り、山王の瀬あたりの窪地に隠れ、津久井城の北条方に備えた、と。現在の串川橋のあたりに長竹三差路と呼ぶところがある。そこは三増峠に進むにも、韮尾根・志田峠に進むにも、必ず通らなければならない交通の要衝。小幡軍が布陣したのは、その長竹三差路のあたりでは、なかろう、か。
韮尾橋から長竹三差路までは2キロ程度。串川橋や長竹三差路まで行きたしと思えども、本日の予定地である半原とは逆方向。串川、長竹三差路は次回、武田軍の相模湖方面への進軍路歩きのときのお楽しみとし、本日は412号線を南へと進むことにする。

半原日向
韮尾橋から国道412号線を1キロ弱歩くと、峠の最高点に。もっとも、現在は大きな国道が山塊を切り通しており、峠道の風情は、ない。が、この国道412号線が開通したのは1982年頃。それ以前のことはよくわからないが、少なくとも、三増合戦の頃は切り立った山容が、韮尾根と半原を隔てていたのだろう。峠を越えると、真名倉坂と呼ばれる急勾配の坂道が北へと下る。どこかの資料で見かけた覚えもあるのだが、江戸以前は志田越えより、この真名倉越えのほうがポピュラーであった、とか。これが本当のことなら、三増合戦のいくつかの疑問が消えていく。
何故、北条方が半原の台地に陣を構えたか。その理由がいまひとつ理解できなかったのだが、武田軍がこの真名倉越えをすると予測した、とすれは納得できる。半原の南の田代まで進んだ武田軍は半原の台地に構える北条軍を発見し、真名倉越えをあきらめる
。そうして、駒形山方面の台地に進路を変える。志田峠、三増峠、中峠と進む武田軍を見た北
条軍は、半原の台地を下り、武田軍を追撃。そのことは織り込み済みの武田軍は踵を返し、両軍衝突。で、志田峠を引き返した山県軍が北条軍の背後から攻撃し、武田軍が勝利をおさめる。真名倉越えが峠道として当時も機能していたのであれば、自分としては三増合戦のストーリーが美しく描けるのだが。はてさて、真実は?

半原・日向橋
半原日向から中津川の谷筋を見下ろす。半原の町は川筋と台地に広がる。国道12号線は台地の上を南に進む。北条方が半原の台地に陣を構えた、というフレーズが実感できる。台地下を流れる中津川に沿って南から進む武田軍をこの台地上から見下ろしていたのだろう、か。
半原日向交差点から中津川筋に降りる。結構な勾配の坂である。中津川に架か
る橋に進む。日向橋。南詰めのところにあるバス停で時間をチェック。結構本数もあるようなので、町の中をしばし楽しむことに。鬼子母神とあった顕妙寺、半原神社へと進む。宮沢川を越え、県道54号線から離れ、台地に上る。愛川郷土資料館が半原小学校の校庭横にある、という。結構きつい勾配の坂道を上る。途中に、「磨墨(するすみ)沢の伝説」の碑。平家物語の宇治川の先陣に登場する名馬・磨墨(するすみ)は、この沢の近くに住んでいた小島某が育てた、との伝説。とはいうものの、源頼朝に献上されこの名馬にまつわる伝説は東京都大田区を含め日本各地に残るわけで、真偽のほど定かならず。

郷土資料館
坂を上り台地上の町中にある半原小学校に。野球を楽しむ地元の方の脇を郷土資料館に。残念ながら、閉まっていた。郷土館は小学校の校舎を残した建物。半原は日本を代表する撚糸の町であるわけで、撚糸機などが展示されているとのことではある。八丁式撚糸機が知られるが、これは文化文政の頃につくられた、もの。電気もない当時のこと、動力源は中津川の水流を利用した水車。盛時、300以上の水車があった、とか。

辻の神仏
郷土館を離れる。道端に辻の神仏。案内をメモ;辻=境界は、民間信仰において、季節ごとに訪れる神々を迎え・送る場所でもあり、村に入ろうとする邪気を追い払う場所でもあった。そのため、いつしか辻は祭りの場所として、さまざまな神様を祀るようになった、と。

中津川


台地端から急な崖道を下る。野尻沢のあたりだろう、か。川筋まで下り、中津川に。この川の水、道志川の水とともに、「赤道を越えても腐らない」水であった、とか。水質がよかったのだろう。ために日本海軍などが重宝し、この地の貯水池から横須賀の海軍基地に送られ、軍艦の飲料水として使われていた、と言う。水源は中津川上流の宮ケ瀬湖に設けられた取水口。現在も、そこから横須賀水道路下の水道管を通って横須賀市逸見(へみ)にある浄水場まで送られている。距離53キロ。高低差70m。自然の高低差を利用して送水している、と。中津川を日向橋に戻り、バスに乗り一路家路へと。

一回目の三増峠、今回の志田峠、韮尾根の高原、半原台地と三増合戦の跡地は大体歩いた。次回は、ついでのことなので、合戦後の武田軍の甲斐への帰還路を相模湖あたりまで歩いてみよう、と思う。

水曜日, 3月 20, 2013

三増合戦の地を辿る;三増峠越え

三増合戦の地を辿る;三増峠越え  

武田・北条が相争った三増合戦の地・三増峠を越える

何時だったか、何処だったか、古本屋で『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』を買ったのだが、その中で「三増合戦」という記事が目にとまった。津久井湖の南の三増峠の辺りで、武田軍と小田原北条軍が相争った合戦である、と。両軍合わせて5千名以上が討ち死にした、との記録もある。日本屈指の山岳戦であった、とか。
「三増合戦」って初めて知った。そもそも、散歩を始めるまで、江戸開幕以前の関東、つまりは小田原北条氏が覇を唱えた時代のことは、何にも知らなかった。お散歩をはじめ、あれこれ各地を歩くにつれ、関東各地に残る小田原北条氏の旧跡が次々にと、登場してきた。寄居の鉢形城、八王子の滝山城、八王子城、川越夜戦、国府台合戦、などなど。三増合戦もそのひとつである。
三増合戦についてあれこれ調べる。と、この地で激戦が繰り広げられたのは間違いないようだが、合戦の詳細については定説はないよう、だ。新田次郎氏の『武田信玄;文春文庫』の「三増合戦」の箇所によれば、峠で尾根道で待ち構えていたのが北条方とするが、上記書籍では、北条方が山麓の武田軍を追撃した、と。峠を背に攻守逆転している。峠信玄の本陣も、三増峠の西にある中峠という説もあれば、三増峠の東の山との言もある。よくわからない。これはう、実際に歩いて自分なりに「感触」を掴むべし、ということに。どう考えても一度では終わりそうにない。成り行きで、ということに。
(2005年9月の記事を移行)


本日のルート:小田急線・本厚木>金田>上三増>三増峠ハイキングコース>三増峠>小倉山林道>相模川>小倉橋と新小倉橋>久保沢・川尻>原宿・二本松>橋本

小田急線・本厚木
三増への道順を調べる。小田急・本厚木駅からバスが出ている。北に進むこと40分程度。結構遠い。だいたいの散歩のルーティングは、三増峠を越え、津久井湖まで進み、そこからバスに乗り橋本に戻る、ということに。
小田急に乗り、本厚木駅に。北口に降り、線路に沿って少し東に戻り、バスセンターに向かう。バスの待ち時間にバスセンター横にあるシティセンター1階にあるパン屋に立ち寄る。奥はレストランになっている。店の名前は「マカロニ広場」。サツマイモを餡にしたくるみパンが誠に美味しかった。
厚木の名前の由来は、この地が木材の集散地であったため「あつめ木」から、といった説もある。が、例によって諸説あり。ともあれ、厚木が歴史書にはじめて登場したのは南北朝の頃。江戸の中期は、宿場、交易の場として繁盛した、と。

金田
バスに乗り、北に向かう。市街を出ると川を越える。小鮎川。すぐ再び川。中津川である。川に架かる第一鮎津橋を渡ると、妻田あたりで道は北に向かう。ちょうど、中津川と相模川の間を進むことに成る。
金田交差点で国道246号線を越えると、道は国道129号線となり、更に北に進む。下依知から中依知に。この辺りは昔の牛窪坂といったところ。三増合戦にも登場する地名である。
小田原勢の籠城策のため、攻略戦を一日で諦めた武田軍は小田原を引き上げる。どちらに進むのかが、小田原方の最大の関心事。武田方が陽動作戦として流布した鎌倉へと進むか、相模川を渡り八王子方面に進み甲斐路を目指すか、はたまた三増峠を経て甲斐に引き上げるのか、はてさて、と思案したことだろう。
で、結局のところ、平塚から岡田(現在の東名厚木インターあたり)、本厚木、妻田、そしてこの金田へと相模川の西を進んできた信玄の軍勢は、相模川を渡ること無く、牛窪坂の辺りで相模川の支流である中津川に沿って進むことになる。それを見届けた北条方の物見は、三増峠に進路をとると報告。中津川を上流に進めば、三増峠の麓へと続くことに、なるわけだ。

上三増
国道129号線を進み、山際交差点で県道65号線に折れる。この県道は、三増峠下をトンネルで貫き、津久井に至る。道は中津川に沿って進んでいる。三増に近づくにつれ、山容が迫る。『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』によれば、「三増は、丹沢・愛甲の山々が相模川まで押し出して、南相模と都留・津久井がつながる狭い咽首(のどくび)になっているところだから、昔も今も交通の生命線である。(中略)。その咽首の狭いところを志田山という小山脈がふさいでいて、越すにはどうしても小さいが峠を通らなければならない。東に三増峠、真ん中に中峠、西に志田峠の三カ所があった」、とある。北に見える尾根が三増峠のあたりなのだろう、か。
終点の上三増でバスを降りる。バス停は峠に上る坂道のはじまるあたり。近くには三増公園陸上競技場などもあった。バス停の近くにあった史跡マップなどをチェックし、三増峠へと進むことにする。

三増峠ハイキングコース
県道65号線を峠方面に進む。車も結構走っている。道の先に尾根が見える。標高は300m強といったところだろう。しばらく進み、三増トンネルのすぐ手間に旧峠への入り口がある。「三増峠ハイキングコース」とあった。スタート時点は簡易舗装。しばらく進むと木が埋め込まれた「階段」。上るにつれ古い峠道の趣となる。深い緑の中を進み、峠に到着。それほどきつくもない上りではあった。
三増合戦のとき、この三増峠を進んだ武田方は、馬場信房、真田昌幸、武田勝頼の率いる軍勢。新田次郎の『武田信玄』によれば、峠の尾根道で待ち構える北条方では「勝頼の首をとるべし」と待ち構えていた、とか。もっとも、先にメモしたように、陣立てには諸説あり、真偽のほど定かならず。愛川町教育委員会の「三増合戦のあらまし」を以下にまとめておく。

三増合戦のあらまし :
永禄十二年(1569年)十月、武田信玄は、二万の将兵をしたがえ、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰路に三増峠越えを選ぶ。これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え討つことに。が、武田軍の近づくのをみた北条軍は、峠の尾根道を下り、峠の南西にある半原の台地上に移り体勢をととのえようとした。
信玄はその間に三増峠の麓の高地に進み、その左右に有力な将兵を配置、また、峠の北にある北条方の拠点・津久井城の押さえに、小幡信定を津久井の長竹へ進める。また、山県昌景の一隊を志田峠の北の台地・韮尾根(にろうね)に置き、遊軍としていつでも参戦できるようにした。
北条方からの攻撃によりたちまち激戦。勝敗を決めたのは山県昌景の一隊。志田峠を戻り、北条の後ろから挟み討ちをかけ、北条軍は総崩れとなる。北条氏康、氏政(うじまさ)の援軍は厚木の荻野まで進んでいたが、味方の敗北を知り、小田原に引き上げた。
信玄は合戦の後、兵をまとめ、寸沢嵐・反畑(そりはた・相模湖町)まで引き揚げ、勝鬨をあげ、甲府へ引きあげたという。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠

峠に到着。2万とも言われる北条の軍勢がこの尾根道で待ち構えるとは、とても思えない。愛川町教育委員会の説明のように、尾根道を下り、半原の台地で待ち構えていたのでは、などと思える。足もとから車の走る音。峠を貫く三増トンネルの中から響くのだろう。
さて、峠を西に向かうか、東に向かうか。標識が倒れておりどちらに進めばいいのかわからない。
少々悩み、結局東に向かう。これが大失敗。当初の予定である津久井の根小屋への道は、西方向。そうすれば、峠を下り、トンネルの出口あたりに進めたのだが、後の祭り。あらぬ方向へ進むことになった。

小倉山林道
東へと進む。快適な尾根道。後でわかったのだが、この道は小倉山林道。歩いておれば、麓が見えるか、とも思うのだが、山が深く、どちらが里かさっぱりわからない。なんとか里に下りたいと思うのだが、道が下る気配もない。山腹を巻き道が続く。人が歩く気配もない。心細いこと限りない。分岐で成り行きで進み、行き止まりになりそうで引き返したりしながら、小走りで林道を進む。頃は春。山桜が美しい。
結局、4キロ程度歩いたただろうか。東へと東へと引っ張られ、気がついたら、小倉山の南の山腹を進んでいた。車の音も聞こえる。ここはどこだ。川らしきものも眼下にちょっと見える。どうも相模川のようだ。やっと、下りの道。結構な勾配。どんどん下る。車の往来が激しい道筋に。道路への出口は鉄の柵。車、というかバイク、などが入れないようにしているのだろう、か。

相模川


道のむこうに相模川。このあたりは城山町小倉。三増峠から、津久井の長竹・根小屋、津久井城の南麓を串川に沿って相模川に進み橋本へ、といったルートは大幅に狂ってしまったが、小倉から串川・相模川の合流点まで2キロ強。どうせのことなら、串川・相模川の合流点まで進み、橋本まで歩くことにする。橋本まで、7キロ強、といったところ、か。
橋を渡り、大きく曲がる上りの坂を進み、新小倉橋の東詰めに。谷は如何にも深い。

小倉橋と新小倉橋

相模川を眺めながら北に進む。串川を越えると小倉橋。趣のある橋ではあるが、幅は狭い。相互通行しかできなかったようで、結果大渋滞。ために、バイパスがつくられた。小倉橋の北に聳える巨大な橋がそれ。新小倉橋、という。2004年に開通した、と。   
久保沢・川尻
台地の道を久保沢、そして川尻へと進む。途中に川尻石器時代遺跡などもある。久保沢とか川尻と行った地名は少々懐かしい。はじめて津久井城跡を歩いたとき、橋本からバスにのり、城山への登山口のある津久井湖畔に行く途中で目にしたところ。江戸時代の津久井往還の道筋でもある。
津久井往還は江戸と津久井を結ぶ道。津久井の鮎を江戸に運んだため、「鮎道」とも。もちろんのこと、鮎だけというわけではなく、木材(青梅材)、炭(川崎市麻生区黒川)、柿(川崎市麻生区王禅寺)などを運んだ。道筋は、三軒茶屋>世田谷>大蔵>狛江>登戸>生田>百合ケ丘>柿生>鶴川>小野路>小山田>橋本>久保沢>城山>津久井>三ヶ木、と続く。

原宿・二本松
川尻から城山町原宿南へと成り行きで進む。原宿近隣公園脇を進む。この原宿の地は江戸・明治の頃には市場が開かれていた、とか。原宿から川尻を通り、小倉で相模川を渡り厚木をへて大山へと続く大山道の道筋でもあり、津久井往還、大山道のクロスする交通の要衝の地であったのだろう。
二本松地区に入るとささやかな社。二本松八幡社。なんとなく気になりお参りに。由来を見ると、もとは津久井町太井の鎮守さま。その地が城山湖の湖底に沈んだためこの地に移る。二本松の由来は、津久井往還の道筋に二本の松があったから、とか。

橋本

車の往来の激しい道を進み、日本板硝子の工場前をへて橋本の駅に。橋本の名前の由来は境川に架かる両国橋から。現在の橋本駅の少し北、元橋本のあたりが、本来の「橋本」である。橋本が開けたのは黄金の運搬がきっかけとなった、と前述、『八王子南郊;史話と伝説(小泉輝三朗;有峰書店新社)』は言う。


久能山東照宮にあった黄金を、家康をまつる日光東照宮に移すことになった。久能山から夷参(座間市)までは東海道を。そこから八王子へと進むわけだが、座間宿から八王子宿までは八里ある。馬は三里荷を積み進み、三里戻るのが基本。途中には御殿峠などもあるわけで、座間と八王子の間にひとつ宿を設ける必要があった。で、どうせなら峠の手前で、ということで元橋本のあたりに宿が設けられた、と。社会的は必要性からつくられた、というより、黄金運搬という政治的目的にのためにつくられた「人工的」宿場町がそのはじまりであった、とか。
少々長かった本日の散歩、ルートも当初の予定から大幅に変更になった。次回は、三増合戦の舞台となった峠のひとつ志田峠、信玄が本陣の旗をたてたとも言われる駒形山などを歩いてみようと思う。

土曜日, 3月 16, 2013

守谷散歩そのⅢ;小貝川と鬼怒川の分流事業の跡を想い、往昔の両川合流地点から大木丘陵の鬼怒川人工開削路始点へと辿る

守谷散歩そのⅢ;小貝川と鬼怒川の分流事業の跡を想い、往昔の両川合流地点から大木丘陵の鬼怒川人工開削路始点へと辿る

将門ゆかりの地と小貝川・鬼怒川分流工事跡を訪ねようとはじめた守谷散歩もこれで3度目。過去2回の散歩で将門ゆかりの地を巡り、今回は小貝川・鬼怒川分流工事の跡を訪ねることにする。
現在小貝川と鬼怒川は常磐自動車道・谷和原インターの北、つくばみらい市寺畑の辺りで、直線距離1キロを隔てるほどに急接近するも、鬼怒川は大木丘陵を南に下り守谷市野木崎で利根川に合わさり、小貝川は大木丘陵手前で南東に進み、茨城県取手市、北相馬郡利根町と千葉県我孫子市の境で利根川へ合流している。
現在は別の流れとなっているこのふたつの川であるが、かつて鬼怒川は大木丘陵の手前、寺畑の辺りで小貝川に乱流・合流し、両川が合わさり暴れ川となり、下流一帯を氾濫原と化していた。この暴れ川による洪水被害を防ぎ、合わせて合流点より下流一帯の氾濫原に新田開発すべく鬼怒川と小貝川の分流、そして鬼怒川の新水路の開削が行われることになる。鬼怒川の新水路はそれまで南流を阻んでいた大木丘陵を人工的に開削し、鬼怒の流れを南に落とし利根川と繋いだわけである。

鬼怒川の開削水路は利根川合流点まで7キロ以上。丘陵部だけでも5キロほどもある。大工事である。このような大工事をした目的は上にメモしたこの地域の洪水対策、新田開発だけでなく、利根川東遷事業の一環として、利根川から江戸への船運の開発、そして、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海を陸化して新田開発を行うといった壮大な構想のもとに行われた、とも言われる。



(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」

利根川の東遷事業
現在銚子へと注ぐ利根川の流路は江戸時代に行われた利根川の東遷事業によって造られたものである。それ以前の利根川筋は栗橋より下流は現在の大落古利根川、中川の流路を南に下り、途中で昔の荒川筋(現在の綾瀬川。荒川は西遷事業により西の入間川筋に移された)と合流し江戸湾へと注いでいた。
利根川の東遷事業とは、江戸湾に注いでいた利根川の流路を東へと変え、銚子へと流す河川改修事業のこと。大雑把に言えば、南へと下る流路を締め切り、その替わりに、東へと下り銚子方面へと注ぐ川筋に繋ぐという工事である。そして東流する流れとして元の利根川と繋がれたのが常陸川の川筋である。

上で大木丘陵を開削し鬼怒川を利根川に繋いだ、とメモした。が、正確には常陸川と言うべきではあろう。鬼怒川と小貝川の分流工事、大木丘陵の開削は、利根川を常陸川に繋ぐ水路開削の以前、つまりは利根川の東遷事業以前に工事が実施されており、大木丘陵の開削工事が行われた当時は常陸川と呼ばれていた。常陸川が利根川と呼ばれるようになったのは利根川と常陸川が結ばれた後のことである。
その常陸川であるが、その呼称も近世になってからの名称である。将門の時代には上流部は広川(河)とも呼ばれ、現在の利根川・江戸川分流付近を北端に、途中長大な藺沼(いぬま)を経て毛野川(鬼怒川)を合わせ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼を合わせた広大な内海である香取の海に注いでいた。
広川は川とは言うものの、狭長な谷地田の流末に発達する大山沼・釈迦沼・長井戸沼などの沼沢の水を集めて流れる小河川であり,その流れは現在の菅生沼・田中・稲戸井遊水池付近にあった藺沼という浅い沼沢地に注ぐわけであり、川と言うより沼沢地の連なり、と言った方が正確かもしれない。

○船運路の開発
その常陸川・広川に大木丘陵を開削して鬼怒川の流れを通した。丘陵を切り開くという難工事をおこなったのは、その結果として常陸川・広川への合流点を 開削工事の前に比べて30キロも上流に押し上げ、常陸川に豊かな水量を注ぎ、それまでは細流であり、小舟がやっと通れるといった常陸川の上流部の水量を増やした。小貝川と鬼怒川の分流工事・鬼怒川の新水路開削が完成した後、南流を締め切った利根川の流れと、水量の豊かになった常陸川を繋ぐ水路を新たに開削し、利根川の流れを江戸ではなく銚子方面にむけた。その結果、銚子と江戸が利根川を介し結ばれ、「内川廻し」と称される船運網が出来上がった。

○新田開発
また、また、新田開発も、古来より「香取の海」と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼などが一帯となった広大な内海が利根川の東遷事業によって、上流から運ばれた土砂の堆積が進み、多くは低湿地の沖積平野と化し、その地に本格的な新田開発がはじまることになる。潮来市(茨城県)や旧佐原市(現香取市、千葉県)が陸地化されたのは江戸時代になってからと言われるが、それは東遷事業により銚子へと下った利根川の流れを堤防で固定化し、周辺の低湿地の水を抜き干拓・陸化していった苦難の新田開発の賜とのことである。

ことほど左様に、利根川の東遷事業の一環としても重要な位置づけをもつ、小貝川と鬼怒川の分流事業の跡を辿ろうと、小貝川と鬼怒川の合流・乱流地帯と鬼怒川の新水路開削地点を求めて守谷へと向かった。

本日のルート;関東常総線・水海道駅>関東常総線・小絹駅>谷原大橋>伊奈橋>寺畑>鬼怒川の堤>玉台橋>香取神社>関東常総・小絹駅

関東常総線・水海道駅
家を離れ、成田エクスプレスで先に進みながらiphoneで小貝川と鬼怒川の合流点についての情報を探す。ちゃんと家で調べておればいいものを、いつもの通り基本は事前準備をきちんとしない成り行き任せ故のことである。社内でチェックするに、旧谷和原村(現つくばみらい市)寺畑、とか杉下辺りで合流とあるが、正確な合流点の記述が見つからない。関東常総線・小絹駅で下りて、成り行きで進もうとも思うのだが、なんとなくすっきりしないので、水海道まで上り、図書館でチェックすることに。

水海道駅(みつかいどう)で下り、県道357号を少し守谷方面に戻ると常総市立図書館に。水海道市は平成18年(2006)、近隣の町を編入・合併し現在は常総市となっていた。それはともあれ、水海道の図書館まで進んだのは守谷の中央図書館には既に訪れていた、ということもあるが、「水海道」という、如何にも川の流れを連想させる地名故に、小貝・鬼怒川に関する情報が多いのだろうと勝手に思った次第。実際の水海道の地名の由来は、平安時代の坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませた(水飼戸;ミツカヘト)故事に拠るとのことで、河川とは関係なかった。
それ故、ということもないだろうが、常総市立図書館は郷土資料に関する整備されたコーナーのある素敵な図書館ではあったが、残念ながら小貝川と鬼怒川の合流点に関する資料は見つからなかった。河岸工事を行い河川の流路が定まっている現在の河川とは異なり、洪水のたびに流路が変わっていた往昔の流路の合流点を特定するのは困難ではあろう、とひとり納得し、当初下車予定の関東常総線小絹駅に戻ることに。

関東常総線・小絹駅
ささやかなる小絹駅で下車。妙なる響きをもつこの小絹という地名も、元は新宿(にいじゅく)と呼ばれていたとのことだが、明治22年(1889),北相馬郡の村が合併し北相馬郡小絹村となった。小絹の由来は、小貝川と鬼怒川の間にあるので、両川の名前を一字ずつ取って小絹、とした。妙なる地名と思っていたのだが、実際は、足して二で割るといった新たに地名を造る際によくあるパターンではあった。
ところで、この小絹は「つくばみらい市」となっている。つくばみらい市は基本的に小貝川の東側であるのだが、この小絹地区の南北の部分だけ小貝川を越え、鬼怒川東岸までその市域が突き出ている。地名をよく見ると、杉下、筒戸、平沼、寺畑、細代と明治22年(1889)に北相馬郡小絹村となった地域である。つくばみらい市は旧伊奈町、旧谷和原村など旧筑波郡からなっており、この小絹川を越えて鬼怒川東岸までのびた地域だけが北相馬郡。住民はつくばみらい市ではなく旧北相馬郡地域である守谷市への合併を望んだ、といった話も故なきことではない、かと。

谷原大橋
小絹駅を下りる。駅前は商店街といったものもなく、のんびりした佇まい。それでも駅の西側は家屋があるが、線路を東に渡ると葦(?)が茂る一帯とか畑地が広がる。とりあえず成り行きで小貝川方面へと向かい小貝川の川筋に。川面を眺めながら少し北に進むと谷原大橋に出る。現在の橋は二代目。昭和38年(1963)に架けられた先代の橋が歩道もなく、老朽化したこともあり平成16年(2003)新たに建設された。
谷原? 谷和原?どっちだ?チェックする。谷原大橋の東に鬼長、川崎地区があるが、これらば元は鬼長村、川崎村であったが、明治22年(1889)に北相馬郡長崎村(これも両村の一字ずつを取ったもの)となるも、昭和13年(1938)に鹿島村(現在の加藤、上小目、下小目、成瀬、宮戸、西丸山、東楢戸、西楢戸、古川)と合併し「谷原村」となる。橋名はその「谷原」からきたものだろうか。ちなみに「谷和原村」となるのは昭和30年(1955)。筑波郡谷原村、十和村、福岡村が北相馬郡小絹村と合併してからである。谷原村に加わった十和村の「和」を足した、ということではあろう、か。地名をあれこれ考えるのは誠にややこしいが、しかし、実に面白い。

伊奈橋
小貝川の堤防を北に進む。谷原大橋辺りでは平地であった地形が、先に進むにつれて堤の左手に平地の向こうに小高い丘陵地が見えてくる。地名も西ノ台とその地形を現している。地形図でチェックすると川沿いの標高10m地域と、台地の15mから20m地帯に分かれている。
台地部分が切れ、平地に変わる境目を求め先に進む。おおよそ伊奈橋の辺り寺畑地区まで進むと、なんとなく台地から平地にたどり着いたといった感がある。伊奈橋の少し南西に池があり、四ケ字入排水機場を介して小貝川と繋がるっているが、そのあたりが小貝川と鬼怒川の合流地点跡とも言われる。もとより、水路定まらぬかつての流路が一か所で合流していたとも思えない。
地形図によると元の水海道市域は標高15mから20mとなっており、この水街道と寺畑を北端とする台地に挟まれた平地一帯に、洪水の度に流路を変える鬼怒川の幾筋もの流路が小貝川に乱流・合流していたのであろう。単なる想像。根拠なし。

○伊奈忠治
ところで、伊奈橋。由来は伊奈町から。伊奈町ができたのは昭和29年(1954)のことで、そんなに古い歴史があるわけではないのだが、伊奈といえば小貝川と鬼怒川の分流工事を指揮し、小貝川の東、旧伊奈町を含む現在のつくばみらい市一帯の氾濫原を谷原三万石とも称される新田開発に貢献した関東郡代伊奈忠治に由来するのは言うまでもないだろう。
伊奈忠治の指揮のものと、鬼怒川と小貝川の完全分離と新河道掘削による鬼怒川の常陸川(後の利根川)への付け替え工事により、従来、鬼怒・小貝両川の氾濫源であった谷原領、大生領(常総市辺り)一帯は両川合流の水勢から解き放たれ、水量の安定した一帯の新田開発が可能となった。因みに「谷原」とは葦などが茂る湿地の意味である。
その小貝川には、伊奈氏によって、福岡堰、岡堰、豊田堰が設けられる。関東流とも溜井方式とも称される伊奈氏の治水・利水工法によって造られたこれらの堰はその規模もあり、関東の三大堰とも称されるが、その堰の力もあってか新田の開発が進み、「谷原領三万石」「相馬領二万石」などと呼ばれる新田地が誕生した、とのことである。
それにしても、散歩の折々、関東郡代伊奈氏の事蹟によく出合う。玉川上水、利根川の東遷事業、新綾瀬川開削、荒川西遷事業、八丁堤・見沼溜井、宝永の富士に大噴火にともなう足柄一帯の復興工事、酒匂川の改修など枚挙に暇がない。武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に拝領した伊奈氏の赤山陣屋を辿った散歩が懐かしい。

○溜井方式・関東流
伊奈氏の治水法である溜井方式・関東流とは自然河川や湖沼を活用した灌漑様式であり、自然に逆らわないといった手法である。伊奈流の新田開発の典型例としては、葛西用水がある。流路から切り離された古利根川筋を用排水路として復活させる。上流の排水を下流の用水に使う「溜井」という循環システムは関東流(備前流)のモデルである。また、洪水処理も霞堤とか乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった思想でおこなっている。こういった「自然に優しい工法」が関東流の特徴と言える。しかし、それゆえに問題も。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。

こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。見沼代用水に代表される伊沢為永の紀州流は自然をコントロールしようとする手法。堤防を築き、用水を組み上げる。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。
為永は乗越提や霞提を取り払う。それまで蛇行河川を堤防などで固定し、直線化する。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることに。また、見沼代用水のケースのように、溜井を干拓し、用水を通すことにより新たな水田を増やしていく。用水と排水の分離方式を採用し、見沼代用水と葛西用水をつなぎ、巨大な水のネットワークを形成している。こうした水路はまた、舟運としても利用された。
とはいえ、伊奈氏の業績・評価が揺るぐことはないだろう。大水のたびに乱流する利根川と荒川を、三代六十年におよぶ大工事で現在の流路に瀬替。氾濫地帯だった広大な土地が開拓可能になった。1598年(慶長三年)に約六十六万石だった武蔵国の総石高は、百年ほどたった元禄年間には約百十六万石に増えた、と言う。民衆の信頼も厚く、ききんや一揆の解決に尽力。その姿は上でメモした『怒る富士』に詳しい。最後には、ねたみもあったのか、幕閣の反発も生み、1792年(寛政四年)、お家騒動を理由に取りつぶされた、と。とはいえ、伊奈忠次からはじまる歴代伊奈氏は誠に素敵な一族であります。

寺畑
確たるものではないが、小貝川と鬼怒川の乱流・合流点らしき一帯に足を踏み入れ、所定の目的は達成。堤を離れ、かつては小貝川と鬼怒川が合流していたであろう寺畑地区の平地を彷徨うことに。
堤を下りるとささやかな祠。薬師堂とあった。寺畑って、寺院の所有する畑のことだろうが、まさか、この小さな祠の所有地とも思えない。寺畑をチェックすると、この地は下総佐倉藩大給松平氏と下総関宿藩板倉氏の相給地であった、とか。どちらかの地の寺院ゆかりの地であったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
寺畑地区をあてどもなくさまよい、鬼怒川の堤方向へと向かう。成り行きで進んでいるうちに、知らず標高10m地帯の平地から標高15mの台地へと入っていった。
ところで、「寺」。我々はこの漢字を音読みの「じ」とともに、訓読みで「てら」とも読む。現在「寺」は仏教のお寺様と同一視するが、この「寺(てら)」という漢字は仏教伝来以前より日本に伝わっており、その語義は「廷也」。邸とは役所のこと。仏教がインドから中国に伝わったころ、僧侶は役所を拠点として活動を始めたようで、そのうちに僧が定住するところとなり、邸也が仏寺の意味を持つようになった、とか。「じ」とも「てら」とも読むのは核の如き歴史を踏まえたものであろう、か。

鬼怒川の堤
台地を進み、関東常総線を越え、県道294号を渡り、鬼怒川の堤に向かう。先回の小貝川散歩のときも、堤と川筋が離れ、その間に畑地や林があった。洪水時に水を貯めるバッファー地帯なではあったのかとも思うのだが、鬼怒川のそれはもっと幅が大きい。堤から川筋などなにも見えない。
堤に沿って北にも緑の森が見える。地形図を見るに、標高10mの台地の先端部が北に細代辺りまで突き出している。台地と平地の境まで行ってみようと堤を北に向かって進む。と、途中に堤から川筋が見えそうな箇所がある。ここなら川筋まで進めるかと、堤を離れ川筋へと向かう。が、残念ながら葦のブッシュに阻まれ、川筋に進むことはできなかった。

川筋に足を踏み入れるのを諦め、耕地なのか遊休地なのか定かではない堤下の地を抜けて堤に戻る。と、堤下の耕地・遊休地の真ん中を一直線に通る細路があり、いかにもウォーキングをしているといった人たちがそこを歩いている。ひょっとすれば川筋への道があるのかと、再び堤を下り道を進む。
少々の期待を持って先に進むも、結局この道も川筋にでることはなく、標高15mから20mの台地部分に出てしまった。道の終点部にはベスト電器やファッション量販店、企業の物流センターなどが集まっていた。この辺りからも川筋に入れる道はなく、結局道なりに玉台橋に出る。

玉台橋
玉台橋からやっと鬼怒川の流れを目にする。玉台橋の由来について、「内守谷町玉台と鬼怒川の間に架かるのが玉台橋。この一帯を玉台と呼ぶのは、菅生城主・菅生越前守の妻であるお玉の方、から。戦に破れてこの地までたどり着き、力尽きたという伝説からきた、とのことである。菅生城はこの玉台橋から西の菅生沼辺りにある。
玉台橋からの眺めは川の両岸に台地が迫り、なかなか美しい。橋にあった案内によると、「玉台橋から鬼怒川を望むと、江戸の人の手でつくられた壮観な谷小絹が広がります。利根川とは独立した河川であった鬼怒川を天慶年間に西に移し、小貝川を東に付け替えて二つに分けました。
さらにその後、鬼怒川の支流であった小貝川を切り離し、利根川につなぎました。そのとき開削されたのが小絹です」、とあった。

橋から、先ほどブッシュで苦戦した川岸を見るに、崖に緑の木々が茂り、とてもではないが人が歩けそうなところではなかった。はやく藪漕ぎを諦めたのは正解ではあった、よう。
川の岸を見るに、川の東側は15mの台地が北にずっと続く。一方西側は橋の辺りは15mの台地ではあるが、その先には標高10mの低地が広がり、そしてその先には15mの台地が見える。地形図を見るに、東岸の細代と西岸の樋ノ口あたりで台地が両岸から鬼怒川に迫る。この両岸に台地が迫る辺りが人工開削の始点ではあろう、と妄想する。

香取神社
橋から眺めると川の西側には川傍に堤がありそう。できれば平地から台地部分、玉台橋の辺りを眺めてみようと橋を渡り、鬼怒川の西岸に進む。玉台橋西交差点から未知なりに川筋への道を進む。川岸の小さな森を抜けると玉台排水機場があるが、そのあたりから一瞬、鬼怒川の西岸は低地となるも、その先には緑の台地部分があり、台地と平地の境はまだ先のようである。






堤から離れ川筋まで下りてみるも、今一つ平地から見た台地、といった景観が描けない。先に進み森の香取の社にお参り。茨城に来るとさすがに香取の社が目につく。鈴木理生さんの『幻の江戸百年』によれば、香取の社は上総の国、川筋で言えば古利根川(元荒川)の東に400社ほど分布しており、一方西側には氷川の社が230社ほど鎮座する。そして、香取と氷川の「祭祀圏」に挟まれた越谷の元荒川一帯には久伊豆神社が祀られている、と。「祭祀圏」がきっちりと分かれている。結構長い間散歩しているが、このルールをはずしていたのは赤羽に香取の社が一社あっただけである。往昔、川筋に沿って森を開き、谷の湿地を水田としていったそれぞれの部族が心のよりどころとして祀ったものではあろう。
香取の社を越えると平地が前面に広がるも、その先にも耳鳥の台地がある。東岸の細代と西岸の樋ノ口あたりの台地開削地点辺りではあろう。

関東常総・小絹駅
先に進もうと思えども、そろそろ日暮、時間切れ。道を折り返し玉台橋まで戻り、最寄の駅である関東常総・小絹駅にむかい、一路家路へと。