土曜日, 10月 05, 2019

讃岐 歩き遍路;八十二番札所・根香寺より五台山を下り八十三番札所 一宮寺へ ① : 香西口ルート

根香寺より一宮寺への遍路道はふたつある。ひとつは五台山を東に下り、香西(神在)口から鬼無を経て一宮寺へ向かうもの。おおよそ15km弱。もうひとつはお山を南東に下り、直接鬼無を経て一宮寺へ向かう遍路道である。おおよそ13km強の遍路道である。
東へ香西口へと下りる遍路道は2キロほど大廻りのように思えるのだが、四国遍路の最古の資料とも言われる澄禅の『四国遍路日記』には「東の浜に下ってカウザイ(高松市香西地区)から南へ向かって、大道(金毘羅高松街道)を横切り三里行って一ノ宮(田村神社、高松市一宮町、現在の八十三番一宮寺の東隣)に至る」とある。江戸時代初期の遍路道は香西口に下っていたようだ。思うに、香西西町にある古刹・四国別格霊場十九番香西寺をお参りした後、一宮寺を打ったのかとも。
根香寺から一宮寺への遍路道は、オーソドックスには香西口への下るものだろうが、距離的には鬼無へとお山を下りる道が近そう。で、どうせのことならと、ふたつの遍路道をカバーする。鬼無に下るルートの案内はあまり見当たらないのだが、行けばなんとかなるだろうと、常の如く行きあたりばったりのスタンスで散歩に出かけた。

本日のルート;
■香西口ルート
82番札所・根香寺>香西口への下山口>山道を下る>八丁目>9丁目>里の車道と合流>民家生垣の標石>桑崎下橋の東に標石>十五丁舟形地蔵丁石>地蔵堂>神在口の鳥居と標石2基>香西寺>萬徳寺>御旅地蔵>瀬戸大橋線・鬼無駅>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無口ルート
82番札所・根香寺>根香寺仁王門前を根香寺道に>根香寺道三丁目休憩所>根香寺道と鬼無口への分岐点>遍路墓>車道に出る>車道を逸れて土径へ>車道をクロスし坂を下り再び車道へ>一瞬土径に入り再び車道に>盆栽通り分岐>車道を右に折れる>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
香西口・鬼無口共通ルート
自然石灯篭と標石>標石>民家脇に標石>あごなし地蔵堂と石の卒塔婆>飯田お遍路休憩所>高地蔵>飯田の観音さん>古宮社>茶臼塚>定木の常夜灯と標石>舟形地蔵丁石>遍路標石と舟形地蔵>四ッ又地蔵>潜水橋>遍路墓2基>自然石の標石>成合橋北詰めの石仏標石>成合神社参道口の標石>小堂の舟形地蔵丁石>Y字路の標石>遍路小屋>一宮寺


香西口ルート

香西口への下山口;10時27分
根香寺から香西口へと下る道筋をチェックする。と、根香寺の近くから国土地理院地図にお山を東へと下るルートが描かれている。お寺の山門を出て舗装された道を少し下ると、「四国のみち」の指導標があり、そこに「一瀬神社2.5km 香西口4.4km」とあり、「遍路道」のタグもついている。下山口はあっけなく見つかった。
「四国のみち」の指導標の脇が根香寺の駐車場となっており、そこに車をデポし山道に入る。常の如く山道を下りて車道まで下り、そこからピストンで引き返し山道と車道合流点へと車を廻し、ピストンを繰り返し、遍路道をトレースすことになる。

山道を下る
ジグザグの山道を下る。「四国のみち」として整備されており快適なコースだ。随所に「四国のみち」の指導標が立つ。25分ほど歩き標高を70mほど下げると小さな沢(10時52分)。沢を跨ぎ、獣侵入防止柵(10時57分)を出ると空が開ける。途中六丁の丁石があるとのことだが、見付けることはできなかった。

八丁目:10時59分
柵を出ると直ぐ、道の右手に2基の舟形地蔵丁石。一基は「八丁」と読めるが、もう一基は上部が破損し「丁目」だけが残る。
丁石の辺りはちょっとした展望台となっている。当日は雨模様で見ることはできなかったが、晴れていれば前面に屋根形をした勝賀山が見えたようである。標高364mの山頂は南北約350m、東西約160mの平坦地となっており、そこに勝賀城跡があるとのこと。土塁を巡らせた中世の山城である。
勝賀城
後鳥羽上皇が北条氏討伐を策した承久の乱(1221)で鎌倉幕府に与し、その戦功によりこの地の郡司として任じられた香西氏が要城とした城跡。香西氏は室町期には讃岐守護の管領細川氏の重臣として、また塩飽・村上といった水軍と通じ大いに栄え、秀吉の四国攻めで滅ぼされるまでおよそ4世紀に渡りこの地を支配した。

9丁目;11時16分
みかん、びわ畑に囲まれた道を下る。「四国のみち」の指導標が左を指すところに、道を右に入れとの遍路タグ。「四国のみち」から逸れて、ビワ畑の間の道を少し下ると小さな祠に舟形地蔵丁石があり、「九丁目」とあった。

里の車道と合流
九丁目の丁石から少し下り、車道に合流。何となく里に下りた感もあり、GPSに合流点のウエイポイントを取り、根香寺の車デポ地まで引き返す。ピストンは結構大変ではあるが、「ピストンで行く」と性根を決めれば、あれこれの段取りを考える必要もなく気楽ではある。
ともあれ、下った道をデポ地へと引き返す。復路、見落としたであろう「六丁目」の丁石に注意し乍ら戻ったが、前述の如く結局見付けることはできなかった。

民家生垣の標石
根香寺からの山道が車道と合流する地点まで車を廻し、そこにデポし散歩を再開。道なりに進むと桑崎池の土手下にある民家の生垣に隠れるように標石があった。「右 ねごろ」と読める。が、現在の道筋では方向が間尺に合わない。舗装された車道ではない遍路道があるのか、または標石がどこからか移されたのか不明である。



桑崎下橋の東に標石
「右 ねごろ」の標石から先の遍路道ははっきりしない。桑崎下橋の東に標石があるとのことであり、ということは桑崎池からの流れに架かる橋であろうと桑崎池から流れる水路に沿って下り桑崎下橋に。
桑崎下橋を渡ると直進方向は民家の鉄骨屋根下に入る。民家の敷地のようでもあるが、その先に坂らしき道筋。控えめに歩を進めると、道は鉄骨屋根の下を抜けて坂に続いており、上り口に標石があった。なんとなく道が繋がった。
標石には「すくこうさい道二十五丁 すく祚ころ寺道十五丁 白み祚寺道六十五丁 天保二年」と刻まれるという。

十五丁舟形地蔵丁石
坂を少し上ると右に折れる細路があり、分岐点に十五丁と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。道なり進み大きな池の土手下を進む。この辺りに十七丁の丁石があるとのことだが、生い茂った草に隠れているのか見付けることはできなかった。が、あちこちと探し彷徨っていると、土手上の池の畔に「十六丁」の舟形地蔵丁石があった。

地蔵堂
池の土手が切れる辺りで道はふたつに分かれる。「四国のみち」の指導標は立つのだが、ちょっと方向がわかりづらい。遍路道は右手にある勝賀山の山裾を進むといった記事もあり、なんとなく右に折れる。
道を折れて進むと結構大きな車道と合流。これが遍路道?と、少し不安になるが、しばらく進むと地蔵堂があった。桑崎池の先で遍路道は地蔵堂前を通る、といった記事もあり、オンコースと一安心。

神在口の鳥居と標石2基
しばらく広い車道を進むと右手に「四国のみち」の指導標が立ち、そこから右へ分岐する道がある。
道を右に入り細路を進むと鳥居と2基の標石、そして地蔵堂。標石には手印と共に、「志ろみね道」「左根香寺道 大正三年」と刻まれていた。遍路道はここで県道16号に合流する。
神在(しんざい)
神在は香西(こうざい)に由来すると思っていた。神在を「こうざい」とよめないこともない。「こうざい」の音に神在の漢字を当てたのだろうと思っていた。が、はっきりとはわからないのだが、神在(しんざい)は菅原道真由来、といった記事も見かけた。
神在口の北に牛ノ鼻と呼ばれる岬があるが、そこは菅原道真が大宰府配流の途中、舟を繋いだと伝わる地。どこ特定できなかったが、神在山は道真こと菅神のいた山故とのこと。鎮西、新祭、深際などとも呼ばれたが後に神在となった、とか。
と、あれこれの説もあるが、なんとなく神在はこの地の有力氏族である香西(こうざい)氏故との感が強い。

香西寺
県道16号を進み香西北町交差点で県道を離れ右に折れて香西寺へ。参道左手に手印と共に「香西寺 立石公園」とある。立石公園は香西寺の裏山にある公園のようだ。さぬき百景 香西寺と刻まれた寺名碑を見遣り仁王門を潜ると正面に毘沙門堂。国の重要文化財指定の毘沙門天立像を安置する。
その左手に本堂。真言宗大覚寺派。四国別格二十霊場第十九番札所。本尊は地蔵菩薩。 Wikipediaには「寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。この場所は奥の堂と呼ばれており、奈良時代?平安時代の瓦片が出土することから寺院跡とみなされ、勝賀廃寺と呼称されている。平安時代前期の弘仁8年(817年)空海(弘法大師)が現在地に寺院を移し、地蔵菩薩像を刻んで安置したと言われる。

嵯峨天皇の勅願寺となり、朱雀天皇の讃岐国勅旨談議所となったが、その後は衰微していたようである。 鎌倉時代になり、この地の豪族・香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。その後は香西氏の庇護を受けることとなった。
南北朝時代には室町幕府の守護大名の細川頼之が本津(現在の香西東町)に移転し、香西氏11代当主の香西元資が地福寺と改称した。
戦国時代の天正年間(1573年 - 1592年)には戦火により伽藍が焼亡した。桃山時代に讃岐国の大名として配された生駒親正が復興し高福寺と名を改めた。
江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山 香西寺と改称した。しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている」とある。
四国別格二十霊場
空海ゆかりの番外霊場のうち、20のお寺様が集まり昭和43年(1968)に組織したもの。高知と愛媛の県境からはじめた歩き遍路の道すがら、宇和島の龍光院、大洲の十夜ヶ橋永徳寺、西条市の西山興隆寺と生木地蔵正善寺、四国中央市の延命寺と龍仙寺(札所三角寺奥の院)そして椿堂常福寺、香川に入り観音寺市の萩原寺、多度津町の海岸寺、そして徳島県の箸蔵寺と知らず別格霊場をカバーしていた。

お寺さまは香西氏が要城とした勝賀城のある勝賀山の北東麓。前述立石公園からは勝賀山が見渡せ、そこには香西伊賀守(香西住清)の石碑が立つという。
香西住清
鎌倉期、勝賀城を築いた香西資村の後裔は室町期に入り二系に分かれる。ひとつは京にあり管領細川氏に仕え(上香西氏)、もうひとつは讃岐の領地を差配した(下香西氏)。香西住清は下香西氏の流れ。下香西家は細川、三好氏といった讃岐支配者の傘下となるも、住清の代になり三好氏と離反。その後長曾我部傘下に入り、秀吉の四国征伐時に下野した。

萬徳寺
香西寺のすぐそばに萬徳寺。山門は鐘を上部に吊った鐘楼門となっている。また、山門左右に立つ像は石造り。仁王様のようでもあり、仁王・金剛力士と同じく天部の護仏天のようでもある。
なんとなく気になりチェックすると、「萬徳寺山門に置かれている仁王像は金剛力士像ではなく、甲冑をつけた二天将姿の石像。獣の皮を剥いで作った鎧を着た姿に彫られた武将像で、向って左側の像は右手に獅噛(しかみ)も彫られている。おそらく四天王の中の持国天と増長天(または持国天と多聞天)が二尊形式をとって山門(二天門)を守っていると思われる。(ふるさと探訪資料)」といった記事があった。
またこのお寺様の本尊である毘沙門天は聖徳太子作とも伝わる。手足に聖徳太子手刻と伝わる銘文があるとのこと。33年に一度御開帳の秘仏とされる。

天長7年(830)。天長山祥福寺として毘沙門天を本尊に開基され、国司時代の菅原道真により修造が進んだとのことである。
鐘楼山門に惹かれて何気なくお参りしたお寺さまで、あれこれと興味深い事柄に出合った。取り敢えず訪ねてみるという散歩のポリシーを再確認

御旅地蔵
萬徳寺を離れた遍路道は南へと下る。宇佐八幡参道から南に延びる道と交差する箇所で遍路道は右に折れる。県道177号とある。
県道177号を南に下ると。ほどなく道の右手に小祠。傍の石碑に「御旅地蔵」とある。御旅って?チェックすると、この地蔵祠の北にある宇佐八幡の御旅所が香西南町にあり、それゆえの「御旅」のようであった。
小祠の脇に「勝賀城跡 登山道」の標識があり、勝賀山へと続く道が南西へと延びていた。
宇佐八幡
香西資村が承久の乱の戦功により幕府御家人としてこの地に来た時に、備前の宇佐八幡を勧請したもの。藤尾山山上に鎮座する。
藤尾山には上述香西住清が長曾我部への備えとして勝賀城より本拠を移した藤尾城があったようである。

瀬戸大橋線・鬼無駅
御旅地蔵から南に、薬師山(標高78m)の東裾を下り県道33号に合流。県道33号を更に南に鬼無駅の手前で左に折れ、踏切を渡る。踏切を渡った遍路道は直ぐに右に折れ、瀬戸大橋線・鬼無駅前を南に下ることになる。
鬼無
寛永10年(1633)の「讃岐国絵図」には「毛無」とあるようだ。毛無とは木無からの転化で、木が生えていない地を意味する。 また、「香西(こうざい)記・全讃史・讃州府志」にはこの地にある熊野神社(昭和63年に熊野権現桃太郎神社と社名変更)の項に、「熊野権現が悪行を働く鬼の害を除き、鬼無(おにな)しになった。そこで祠を建て奉斎し、遂に地名の由来となった」とある。どちらが正しいのかわからない。
桃太郎伝説
鬼退治といえは桃太郎ということで、鬼無を桃太郎のお話と被らせた説明も多い。が、我々がイメージする桃太郎の鬼退治といったストーリーは江戸の頃、草双紙などでほぼ定着し、明治に入り明治20年(1887)の国定教科書を嚆矢に絵本などで人々の間に広まったもののようだ。元々の桃太郎伝説とは異なる、と。
桃太郎伝説は全国各地に伝わる。桃太郎といえば岡山を連想するが、これは1960年以降のキャンペーンの成果と言う。結構新しい。きび団子と吉備団子、岡山といえば桃といったイメージも桃太郎>岡山と言う図柄形成に大きく作用しているのだろうか。
香川では昭和の初期から桃太郎伝説発祥の地との主張があったようだ。鬼無の地名の由来に桃太郎が登場するのも、また元は熊野神社であったものを桃太郎神社とその名を変えたもの、その流れの一環かとも思える。
岡山にしろ香川にしろ、瀬戸の島にすむ鬼・外敵(塩飽諸島の海賊など)との攻防があっただろうし、今に伝わる桃太郎伝説との親和性は高いと思える。

香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無駅前を南に下ると道の左手に大きな自然石の燈篭が見える。「八幡宮」と刻まれた石灯篭の前に標石があり、「左いちのみや」と刻まれる。
八幡社とは後述する、飯田の八幡様と称される岩田神社のことだろうか。 標石脇には遍路道表示もあり、ここでY字となった径に折れる。と、すぐに墓地を囲む生垣に埋もれるように標石が立ち、「是よ里一宮六十七丁」と刻まれる。
なおこの地は次回メモする根香寺からお山を直接鬼無に下る遍路道との合流点でもある。

民家脇に標石
径を進むと県道177号に当たる。遍路道は県道を突き切り民家の間の径に入る。径の角に標石があり、手印と共に「是よ里一のみや」と刻まれる。
径を進むと古さびた堂宇。道端大師堂とある。地蔵堂を超えると遍路道は本津川の堤に出る。昔の遍路道は本津川に下り、そこに架かる接待橋を渡ったようである。現在は少し下流に架かる永代橋を渡るが、この橋を接待橋とも呼ぶようだ。

あごなし地蔵堂と石の卒塔婆
永代橋を渡るとあごなし地蔵堂とその後ろに4mほどの卒塔婆。お堂の前の案内には、「孔雀藤 ふじなみや 音なきかぜのよりどころ 梅下庵主人
孔雀藤は樹齢八百年を数えると推定され、その名称は明治三十年(1897)ころに、孔雀の羽ように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(1939)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(1971)県の自然物の指定となる(この孔雀藤は岩田神社境内にある)。
遍路道
遍路道には一見してそれとわかる道標・丁石が立てられている。遍路は、それを道案内に札所から札所へ迷うことなく、大師の辿られた跡を慕って修行して歩けば、解脱成仏できると信じたようである。
根香寺から永代橋(接待橋)を渡ると卒塔婆・顎無地蔵・源岩田山蓮香寺本尊千手観世音菩薩安置所(観音さん)がある。これを東に進み、道祖伸より代官道を通り四ッ又地蔵へ、さらに一宮寺に行く道を遍路道という」とあった。

あごなし地蔵の説明はなかったが、歯痛に後利益あり、という。あごがどうして歯痛?チェックすると大阪府豊中市にある萩乃寺の秘仏・あごなし地蔵尊のいわれが見つかった。そこには、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれた隠岐の島の伴桂寺より難を逃れるべく萩乃寺に遷座したとあり、秘仏あごなし地蔵尊のいわれとして、「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています」とあった。
また、埼玉の広済寺にある「あごなし地蔵」は文字通り顎がない。顎がなければ歯もないわけで、歯痛がおきることもない、とのこと。
前者はいわれとしては面白いが、一般化するとすれば後者の広済寺のほうがわかりやすどうだ。お地蔵さまも心ももち顎がないように思える。

飯田お遍路休憩所
道なりに東に進むと岩田神社に。飯田の八幡さまとして知られる岩田神社は旧飯田郷四ケ村の氏神である。拝殿左手の藤棚は前述の如く孔雀藤と称され名所とのことだが季節外れ。拝殿にお参りし遍路道に戻る。
遍路道は岩田神社前で右に折れ、南下するが、右折する少し手前に真新しい遍路休憩所があった。飯田お遍路休憩所と呼ばれる。今まで結構多くの遍路休憩所や遍路小屋を見てきたが、この休憩所は最上のカテゴリーに入るように思える。

高地蔵
岩田神社前を右に折れ南に下る道に入るとすぐ、道の右手に二本柱の小屋根をいただいた高地蔵がある。台座を含めておおよそ6m弱あるだろうか。飯田の南、檀紙地区の旧家が牛の供養に立てたという。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭にかけて途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。

飯田の観音さん
高地蔵の横に集会所といった趣の建物がある。そこが飯田の観音様。外壁に取り付けられた木の札には「源 岩田山蓮香寺 本尊千手観世音菩薩安置所」とある。飯田神社の別当寺であった蓮香寺跡という。

古宮社
南下した遍路道は右手に「岩田神社御旅所」の案内があるコンクリート打ちっぱなしといった土台、左手に地蔵堂のある角を左に折れる。道を進むと左手に「五大神」と刻まれた自然石の石碑と「古宮社」と刻まれた石碑の立つお堂がある。

古宮社は地図に飯田神社と記される。これは上述岩田神社の旧地であり。延喜式内帳には式外社として『射田神』を祀るとある。およそ800年前に現岩田神社のある場所に遷座した、と言う。
五大神
お堂の前に「五大神」と刻まれた自然石が立つ。五大神って何だろう?チェックする。なんとなくではあるが、地神(じしん)さま、地神信仰と関連あるように思える。その年の稲の豊作を願い、農業にゆかりの深い土地神様を祀るようだ。
で、五神との関係は? どうも農業に関係深い神として「天照大神(あまてらすおおかみ)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」の五神が挙げられ、五角柱の各面に五神名が刻まれる地神塔が見受けられるとのことだが、ここは「五大神」と刻むことで良しとしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

茶臼塚
古宮社から少し進むと道の左手にふたつの小祠。これこそ地神さまかと思ったのだが、井岩田神社近くにあった案内に「茶臼塚」と記された場所のようだ。
で、茶臼塚って?これもはっきりしないが、応仁の乱の頃、この辺り(定木)を領した飯田氏がその祖先を祀るため立てられたようだ。
貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に細川氏に与し、その後も、頼之傘下で伊予の河野氏討伐に出張っている。 その後、香西氏に与しその重臣として長曾我部と戦う。秀吉の四国征伐の後は讃岐の領主となった生駒氏の家臣となった、とある。茶臼と飯田氏のいわれは不詳。

定木の常夜灯と標石
遍路道は東に進む。県道176号との合流点に常夜灯と標石がある。常夜灯は高さ4mほどの大きな自然石の灯籠。灯籠横の標石には手印と共に、「右 一宮 三十五丁 天保十三年」といった文字が刻まれる。標石の手印は直進ではなく右折を示す。



舟形地蔵丁石
手印に従い右折し、県道に沿った細路を少し南に下ると舟形地蔵丁石が立つ。「左 一ノ宮道」と示す指示に従い左折し県道に当たる。県道の対面には「一宮寺」と刻まれた石柱と遍路タグ。県道を渡る。

遍路標石と舟形地蔵
細路を進み民家の並ぶ通りにT字に当たる。遍路道はそのすぐ先を左折する。ほどなく道の右手に遍路標石と舟形地蔵。お大師さまを彫りぬいた標石には「一の宮へ三十二丁」とある。手印に従い右折する。




四ッ又地蔵
道なりに進むと友常池の北に小さな地蔵堂と標石がある。標石には手印と共に「左 一ノ宮道 三十一丁 明治廿九年」と刻まれる。あれ?手印は右を指すが、文字は左一ノ宮と相反する。手印と文字が間尺に合わない標石を時に見る。標石側からみての手印とも言うが、少々わかりづらい。
地蔵堂に案内があり、おじぞうさんの説明と共に四ッ又地蔵の由来として、「夫婦塚の飯田用水と檀紙からくる水路が合流して四つに分流するところ(四ッ又)にある」故とする。 夫婦塚はこの先、香東川に架かる潜水橋の少し上流にある墓地のようだ。源平合戦の死者をまとめて弔った塚で、道を挟んで両側にあったため夫婦塚と呼ばれたとする。檀紙からの水路は本津川支流の古川からの養水だろうか。

潜水橋
道なりに進み香東川の土手に出る。土手には舟形地蔵が佇む。檀が繁茂したのはこの香東川との記事も見かけたが、それはともかく遍路道は土手を下りて潜水橋を渡ったという。 潜水橋ということは沈下橋だろう。今も川に橋というか、堰と一体となった沈下橋があるのだが、通行止めの指示があり、少し上流の中森大橋を渡り右岸にでる。因みに香東川にはいくつか所謂、「沈下橋」が残るようだ。
標石
潜水橋から中森大橋に向かう途中、土手下に墓地がある。前述夫婦塚の辺りではあろうとおもうのだが、その墓地の土手上に笠のついた結構大きな標石があり手印と共に「一宮道」とあった。手印は中森大橋の方向を指していた。

遍路墓2基
中森大橋を渡り、潜水橋が香東橋を渡る箇所まで戻る。その土手には2基の遍路墓があった。ひとつには「摂州兵庫津船大工町 俗名義兵衛 文政十」、もう一方には「法名 知膳尼 嘉永元年」と刻まれると言う。遍路道は東進し、香川高専の辺りで右に折れ、南下する。


自然石の標石
南に下り高松自動車道の高架と当たる手前、道の右側にある「おへんろさん休憩所」と書かれた食事処の前に自然石の標石。手印と共に「一のみや道」と刻まれる。
高松自動車道の下、香川高専前交差点を渡り更に南下。県道171号に当たるとそこを左折し東進。県道282号・高松市勅使町交差点を右折し香東川に架かる成合橋へと南下する。



成合橋北詰めの石仏標石
香東川に架かる成合橋手前、道の左手に四本柱屋根付きの石仏が佇む。造りは結構新しい。享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。



成合神社参道口の標石
遍路道は東に向かい、国道32号・成合大橋東交差点を横切り成合神社境内の北端を進む。境内の社叢を越えた先、民家の塀に遍路道の案内があり右折すると神社参道に。その角に雑草に隠れるように標石があり手印と共に「南 一宮道 根香寺道」と刻まれる。
成合
成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として。「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

小堂の舟形地蔵丁石
参道を抜けると遍路道は南に折れる。民家の間の一車線ほどの道を進むと、道の左手に小堂があり、中に祀られる舟形地蔵は「此方 一宮道 文化九年」と刻まれ丁石となっている。舟形地蔵丁石の横には小さな石造座像も祀られていた。





Y字路の標石
道なりにしばらく進み、南北に走る道に合流。少し南に下るとY字路がありその分岐点に標石が立つ。手印と共に「一宮道 右安原道 弘化三年」と刻まれる。安原道は南の塩江町への道のよう。遍路道は手印に従い左の道に入る。





遍路小屋
道なりに進み一宮中学校の西側を下り、一宮小学校の傍で御坊川を渡り民家の間のクランク状の道を右折・左折・右折と進み南に下ると遍路小屋がある。




八十三番札所・一宮寺 
遍路小屋を南に下り、県道12号・一宮町交差点を南に越え道なりに進み、高松南高等学校の辺りで左に折れると札所八十三番一宮寺の境内北側にあたる。

これで一宮寺への香西口ルートはお終い。次回は鬼無ルートをメモする。

火曜日, 10月 01, 2019

播磨 西国三十三観音霊場:性空上人ゆかりの書写山 圓教寺を歩く その③

書写のお山へと東坂参道を上り、広い境内を巡り、今回は西坂参道下山ルートをメモする。下山の参道にも丁石が立ち、特段のメモすることもないところは上りと同じく、「山を下りながら こうかんがえた」妄想を付け加える。


本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


西坂参道

東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。



妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。



二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。




和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。

■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。

■「 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の“大きな恋”が始まります」

三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。

■「 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この“歌魂”(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。

■「 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。

しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。

■「 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。

■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。

四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。

■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。

五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。

■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」

パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。

六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。



双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。

七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。

八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。

九丁;13時48分
性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。

十丁;13時49分
普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。

十一丁;13時51分
『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」

十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか

十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。

十四丁;14時3分
如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。

十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。

十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。

十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。



下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。