木曜日, 2月 26, 2009

古甲州道 そのⅠ;秋川筋を歩く

秋川丘陵・秋川筋を五日市・戸倉まで
中里介山の小説に『大菩薩峠』がある。主人公の机竜之介が大菩薩峠で人を殺める。このシーンがずっと気にかかっていた。何故、1,900mもある峠に浪人がぶらぶらする必要があるのか、まったくわからなかった。この大菩薩峠が中世の甲州街道、今で言う主要国道筋であると知ったのは、つい最近のこと。武蔵と甲斐を結ぶ幹線道路であるとすれば、浪人や商人が往還してもなんら不思議では、ない。
現在の甲州街道は国道20号線。高尾から大垂水峠を越え、山梨に進む。江戸時代の甲州街道は高尾から小仏峠を越え相模湖付近の小原に下り、上野原から談合坂方面の山裾を通り鳥沢に下り、大月の西で笹子峠を越えて甲斐に至る。
今回辿る中世の甲州街道、別名、古甲州道は、府中からはじまり日野に進み、日野からは谷地川に沿って南北加住丘陵の間の滝山街道を石川、宮下と北上し、戸吹 で秋川丘陵の尾根道に入る。尾根道を辿った後は網代で秋川筋に下り、五日市の戸倉から檜原街道を西進。檜原からは浅間尾根を辿り青梅筋の小河内に下り、小菅を経て大菩薩を越え塩山に抜ける。
古甲州道を辿っての大菩薩行きを何回かに分けて歩く事にする。第一回は秋川丘陵の東端からはじめ、尾根道を進み、秋川筋の南側を五日市・戸倉まで歩くルート。おおよそ16キロとなった。


本日のルート:JR武蔵五日市線東秋留駅>東秋留橋で秋川を渡河>七曲り峠を越えて戸吹町>古甲州道の道筋滝山街道>上戸吹で秋川丘陵下の里道を経て尾根筋>尾根道を辿って御前石峠で旧鎌倉街道山ノ道に合流>網代から秋川南岸の谷筋の道>高尾、留原、小和田>佳月橋で北岸に>小中野で檜原街道に出る>JR武蔵五日市駅に出る


JR武蔵五日市線の東秋留駅
さて、散歩をどこからはじめようか、と少々考える。府中から日野ははじめからパス。車の騒音激しい国道歩きは御免蒙りたい。日野から先の滝山街道は、滝山城への散歩で既に歩いているし、これとても通行量の多い車道筋である。
車の騒音に煩わされないスタート地点を探す。秋川丘陵に入る手前の戸吹あたりがよさそう。が、交通の便がよろしくない。最寄りの駅はJR武蔵五日市線の東秋留駅だが、結構歩かなければならない。致し方なし、ということで中央線、青梅線と乗継ぎ拝島で武蔵五日市線に乗り東秋留駅に。

地蔵院
駅を降り、ひたすら秋川を目指す。南に向かって成り行きで進む。秋川

に近づくと川筋に向かって坂を下る。崖に沿った道は河岸段丘のハケの道。左手には加住丘 陵、右手には今から目指す秋川丘陵が見える。と、坂の下にお寺さま。用水路に沿って進むと門前に。門前にたたずむ3体の石仏にお参りし先に進む。

東秋留橋
ほ どなく秋川に架かる東秋留橋の袂に。秋川はその源を三頭山に発し、福生と昭島の境目あたりで多摩川に合流する。多摩川水系で最大の支流でもある。橋の北詰 に西光寺。境内に観音様があり、ために寺横にある坂は観音坂と呼ばれる。この西光寺のあたりには昔、渡しがあった。鎌倉街道のメーンルートは、この西の秋 川丘陵の中を通るが、ここにはその支道や間道が通っていたのだろう。

七曲り峠
人道橋も併設した東秋留橋を渡り秋川の南岸に。目の前には加住丘陵が横

たわる。スタート地点の戸吹に行くには、この丘陵の七曲峠を越えることになる。峠道を上る。昔は七つのカーブがあったのだろうが、現在はふたつ。大きな道路道となっており、古道の面影は、ない。
時に後ろを振り返り、秋川やその後ろに控える秋留野の台地の景色を楽しみながら、峠を越える。下りは一直線。ほどなく滝山街道との交差点・戸吹町に出る。滝山街道は古甲州道。大菩薩へと向かう古甲州道散歩のスタート、である。

谷地川
滝 山街道を進む。車の通行が多く、時に怖い思いも。滝山街道のすぐ西側には谷地川が流れる。秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵の流れを集めた谷地川は、上戸吹から滝山街道にそって南東に流れ、日野に入ると日野台地の北かすめて東に流れを変え、JR中央線の鉄橋のすぐ上流で多摩川に合流する。北を北加住丘陵、南を南加住丘陵に挟まれた回廊のような低地を進む古甲州道は、谷地川沿いに開かれていったのだろう。
いつだったか滝山街道沿いの滝山城跡に上ったことがある。この城もそうだが、あと五日市・戸倉の戸倉城、檜原の檜原城など、何故に、こんなところに城を築く必要があるのだろう、と考えたことがある。ほとんどが小田原北条氏が甲斐の武田に備えたもの。今回古甲州街道のルートを見て、それぞれの城は、この古甲州街道の道筋にあることがわかり、大いに納得。散歩を続けると、あれこれが繋がって、わかってくる。

桂福寺
滝山街道を北上すると道の右手に朱色の鐘楼山門。美しい門に惹かれて足を止めると、そこは桂福寺という禅寺。17世紀の始め、寛永の頃に開かれたお寺。このお寺は
新撰組の隊長である近藤勇が体得した天然理心流発祥の地。創始者近藤長裕は上州館林藩の出。浪人となりこの戸吹の地で道場を開く。二代目近藤三助、三代目近藤周介と続き、江戸に道場を開いた周介の後を継ぎ四代目となったのが近藤勇である。寄り道したおかげで、思いがけない史跡に出会った。とりあえず足を運ぶ、ってスタンスを再確認。

分岐点「上戸吹西」
滝川街道を進むにつれ、次第に秋川丘陵が近づいてくる。バス停「上戸吹」を過ぎると「上戸吹西」。滝山街道はここで大きくカーブし秋川丘陵を越えてゆく。古甲州道はこの分岐点で滝川街道と離れ、谷地川にそって秋川丘陵の南麓を進むことになる。

根小屋城址
分岐道へ入ると静かな集落。上流部に近づき、細流となった谷地川に沿って里を進む。
ほどなく、「根小屋城跡(二条城跡)この先800m」といった道標。道を右に折れ、秋川丘陵の尾根道に向かう。竹の葉で覆われた山道を上り尾根道に。そこにぽつんと祠が残る。そこが根小屋城址。
城址と言われても、何があるわけでもない。近くに空堀の遺構が残るというが、門外漢のわが身には、いまひとつよくわからない。よくわからないが、戦国の昔、この地に砦はあったのは事実のよう。滝山城を手にいれた北条氏は、秋川筋からの武田に備え、この砦を監視場とした、と言う。とはいうものの、永禄12年(1560年)、小仏峠からの武田軍の急襲以来、北条氏は加住丘陵の滝山城を捨て、裏高尾に八王子城を築く。ために、秋川筋の戦略的重要性も減り、この砦は不要となり捨て置かれてしまった。なお、この城というか砦は二条城とも新城(ニイジョウ)とも呼ばれる。サマーランド近くにある二条山の因るのだろ う。


「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

秋川丘陵の尾根道
根小屋城址から先、古甲州道は秋川丘陵の尾根道を走る。山道を進み、少し下った先に
T字路があり、ここで古甲州道は秋川丘陵の幹線尾根に当たる。道標があり、「網代弁天5.0km、武蔵増戸4.8km、二条城0.3km、秋川駅4.2km」といった表示。右に折れ網代弁天方面に進む。網代は「漁場」と言った意味。
T字路からは道幅はやや広くなる。が、周囲に雑草が茂る。少し進むと、道脇にふたつの石仏。石仏の後ろの石段を上るとささやかな祠。十一面観音が祀ってある。先に進み、深い谷筋脇の尾根道を過ぎると道は上り。上りきったところは木が払われ明るく開けた広場となる。再び道標「網代弁天4.3km、上戸吹バス停2.1km、二条城1.0km」と。
この広場から先は起伏もそれほどなく、ゆったりした尾根道。笹の茂る道は心地よい。しばらく進むと左手にゴルフコース。八王子ゴルフ場。ゴルフ場のフェンスにそって、ふたつほどささやかな広場をやり過ごして進むと霊園に近づく。上川霊園である。菊田一夫さんが眠る。ラジオドラマ「君の名は」で有名な脚本家である。とはいっても、「君の名は」を知っているのは、我々団塊の世代くらいまで、だろう、か。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」といった番組冒頭のナレーションとか、「君の名はと たすねし人あり その人の 名も知らず 今日砂山に ただひとり来て 浜昼顔に きいてみる」という歌など、きっちり覚えているのだけど。。。

鎌倉古道と合流
緩やかな坂を下ると尾根道は左右に開ける。鞍部になっているこのあたりは駒繋峠とか御前石峠と呼ばれる。道標には「右手は二条城2.8km、秋川駅6.7km、左手は網代弁天山2.5km、武蔵増戸2.3km」と。
この峠に南から向かってくる道は鎌倉街道山ノ道、通称秩父道と呼ばれる。秩父方面と鎌倉を結ぶ主要往還である。尾根道を進んできた旧甲州道はこの峠で秩父道と合流し、秋川に下るまでしばしの間、同じ道筋を進む。
鎌倉街道、って「いざ鎌倉」、と一旦鎌倉で事が起こった時に馳せ参じる道のこと。もっとも、こういった軍事面だけでなく、経済の流れにも欠かせない道筋であった、よう。また、鎌倉街道といっても、とりたてて新しく道を作った、というより、それまでにあった道筋を整備し、鎌倉との往還を容易にしたもの、と。ために鎌倉街道は間道や支道までを含めると数多くあるのだが、主要なものは秩父道と呼ばれるこの鎌倉街道山ノ道、上ノ道、中ノ道、下ノ道といったもの。鎌倉街道のあれこれは、先日高尾から秩父まで歩いた散歩のメモをしたので、ここでは省略。

駒繋石(御前石)
鞍部を離れ、秋川筋に向かう。道はカーブしながら少し上りとなる。道脇の草むらに駒繋石(御前石)。鎌倉武士の鑑と目される畠山重忠が秩父から鎌倉への途中、馬を繋いだとされる石。三角錐の石には馬を繋いだとされる穴が残る。小さい穴であり、これが本当に駒繋の石なのか、何度も見直したほど、ではあった。言い伝えによると、駒を繋ぐ適当な石がなかったので、重忠が指を押し当ててあけた穴、ということであり、それであれば、それなりの穴であろう、と納得。駒繋峠(御前石)峠は、この石に由来すること

は、言うまでもない。
畠山重忠は文武に秀でた鎌倉武士。秩父や奥武蔵、そして青梅などに重忠ゆかりの地は数多い。妻との別れを惜しんだ妻坂峠、待ち構える女性を避けて山道を歩き、持っていた杖が折れたことが名前の由来となった棒の折山、遊女との恋の道行がその名の由来となった恋ヶ窪などなど、数え上げればきりがない。北条の謀略により二俣川で討たれた、悲劇の主人公であったことも一因ではあろうが、武蔵で最も人気のあった武将のひとりであったようだ。

網代トンネル出口
道を進む。道の北側はフェンスが張られている。そのむこうは木々が伐採され、開けてい る。そこは廃棄物処理場。しばらく道を下ると道の左脇はゴルフ場となる。東京五日市カントリークラブ。先に進むと道の両側にグリーンが広がる。そこまで下ると前方に秋川の北岸の丘陵地帯が見えてくる。草花丘陵だろう、か。さらに下り網代トンネル出
口あたりに出る。




山田大橋南詰め
トンネルから出た車道の先は山田大橋。橋まで進み、秋川の流れを楽しむ。駒繋ぎ峠から重なってきた秩父道と旧甲州道は秋川のほとり、山田大橋南詰めで再び別れる。秩父道はここから秋川を渡り馬引沢峠、または梅ガ谷峠を越えて青梅の軍畑に進み、そこから榎峠、小沢峠を越えて名栗の谷に入り、妻坂峠を越えて秩父に向かう。旧甲州道は秋川を越えることなく、秋川の南岸を五日市の戸倉へと進むことになる。

弁天橋
山田大橋南詰め手前から坂を下り、坂道が山田大橋の下に入り込む手前で、民家前の路地を左に折れる。路地に入ると杉林の中を進む小道となる。しばらく進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。この橋からの眺めもなかなか、いい。
弁天橋を渡ると橋の袂に禅昌寺。先に進むと車道に合流。道端にお地蔵様が2体。その後ろの丘にお稲荷さんの祠があった。この合流点を左に折れれば網代温泉へと続くのだが、旧甲州道はそのまま直進。旅館「網代」脇の坂を下るとT字路にぶつかる。網代橋から上ってきたこの道を左に折れ、高尾、留原へと向かう。

網代城址
山裾の道を進む。ほどなく秋川が近づく。美しい秋川渓谷を眺めながら先に進むと、やがて民家が現れる。先に進むとT字路。右に行けば高尾橋。旧甲州道はここを左に折れる。
坂道を上って行く。坂の途中に高尾公園には梅林が見える。道の反対側には大光寺。大光寺を越えると坂は終わり。その左手に高尾神社。社殿はちょっと奥まった所にある。足早にちょっとお参り。
このあたりまで来ると民家も少なくなる。ほどなくT字路に。道標があり、「網代城址、弁天山」と。網代城址って、もとは南一揆のこもった砦、とか。南一揆って、15世紀の中頃、地侍を中心にまとまった農山村民の自衛集団。が、この南一揆も16世紀の中頃となると、滝山城の北条氏によって潰され、ここにあった砦も甲斐の武田に備える滝山城の支城となった。それが網代城である。南一揆の頭領としては小宮氏、貴志氏、高尾氏、青木氏などがいる。

留原

T字路帯横には天王橋と言う橋。やがて道の両サイドに畑が広がる。ほどなく小峰峠から下り降りてきた秋川街道と交差する。「留原」(トトハラ)交差点。秋川街道を北進すると秋川橋で秋川を渡りJR武蔵五日市の駅に至る。
旧甲州道は交差点を横切り更に真っ直ぐ進む。樹木で覆われた山裾の長い下り坂となる。HOYAの工場の裏手をかすめ、小和田グランド脇を先に進むと秋川沿いの道となる。
留原は中世には「戸津原」、近世は「渡津原」と書かれている。「トツハラ」>「トッパラ」>「突つ原」、ということで、「突き出した原」。地形的にはよくなじむ説である。また、「トドハラ」と濁ると、「トド」は「イタドリ」。イタドリの採れた原っぱ、という説もあるが、定説はない(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。
ちなみに、愛媛では「たしっぽ」、関西では「すかんぽ」などと呼ばれる茎に酸味のある山菜。子どものころ、よく山に採りにいったものだ。先日、津久井の丘陵地を歩いていた時、道ばたにタシッポを見つけ、子どもへのお土産に持って帰ったのだが、子どもたちは嫌々、一口歯を入れただけて、それっきり見向きもしなかった。

小和田橋
前方上流方向に堰。その先に小和田橋が見える。対岸に阿伎留神社がある。いつだったか阿伎留神社を訪ねたことがある。歴史は古く、延喜式には武蔵多摩郡八座の筆頭。武将の信仰も篤く、藤原秀郷は将門討伐の祈願に訪れたと言うし、頼朝、尊氏、後北条氏、家康などからの寄進を受けている。秋川沿いの古木に囲まれた境内は、いい雰囲気であった。小和田橋の手前から川沿いの小道を進み、橋の袂からは南に折れ、小和田の里を進む。小和田(オワダ)の「和田(ワタ)」は「川岸や海岸の湾曲した地形を表す、と。地形的には、その通り。また、「オワダ」には小さな集落との意味もある、と言う(『五日市町の古道と地名;五日市町郷土感』)。はてさて、地名の由来に定説なし、がまた増えた。

広徳寺
畑の広がる道を歩く。左手になだらかな丘陵が見える。日向峰と呼ばれるようだ

。ゆったりとした坂を上ってゆくと、丘陵へ小径が分岐。広徳寺への参道である。参道入口には庚申塔など石仏・石塔が並ぶ。
丘陵を上ると境内に。開基は南北朝期というから14世紀の末、この地の長者の妻による。戦国期は北条氏の庇護を受けた。とか。本堂、山門、ともに堂々とした構え。特に山門は、如何にも「渋い」。如何にも、いい。道から離れ、丘に上るのには少々躊躇いもあったのだが、やはり、とりあえず行ってみる、って精神を改めて確認。

佳月橋
広徳寺を離れ、道に戻る。先に進み民家の中を歩くと分岐点。「佳月橋」の道案内。古甲州道は、佳月橋へと続く。急な坂を下り、ちいさな沢を渡り、分岐点を右に折れると佳月橋に。旧甲州道はここで秋川南岸から北岸に渡ることになる。橋の上からは秋川上流に戸倉城山が見える。戸倉城山には一度上ったことがあり、その特徴的な山容を覚えていた。留原あたりから遠くに見え始めてはいたのだが、ここまで来ると、くっきり、はっきり迫ってくる。
戸倉城は15世紀頃、南一揆の頭領のひとり、小宮氏により築かれたとする。戦国期には大石氏が居城であった滝山城を離れこの戸倉城に隠居した、とか。元は関東管領上杉方の重臣であった大石氏ではあるが、川越夜戦での勝利などで力をつけた小田原北条氏の圧力に抗しきれず、北条氏照を娘婿に迎え滝山城を譲り、自身はこの地に移った。とはいうものの、一筋縄ではいかない大石氏故に、諸説あれこれあり、大石氏のその後の動向についての定説はない。
この戸倉城、上りは結構怖かった。麓の光厳寺から上っていくのだが、南の盆堀川の崖上を進む尾根道にビビリ、山頂寸前の岩場に溜息をついた。山頂はほとんど狼煙台程度の

広さ。東の眺め眼下一望。西はここからは今ひとつよくなかったが、南北秋川の号合流点にある檜原城からこの戸倉城山はよく見えた。檜原城、秋川渓谷入口にあるこの戸倉城、秋川丘陵にある根小屋城、秋川と多摩川の合流点にある高月城、そして滝山丘陵にある滝山城へと続く「煙通信」の砦、と言うか、狼煙台であったのだろう。

檜原街道


佳月橋を渡り秋川沿いの道を進む。渓谷の雰囲気が増す道を進むと川沿いの道は行き止まり。ここからは道を右に折れ、民家の軒先をすり抜け急坂を上ると檜原街道に。そこはほとんど、檜原街道と本郷通りの分岐点である小中野の交差点。角には料亭黒茶屋。落語家、三遊亭歌笑さんの生家、とか。
古甲州道はここを本郷通りに折れ、沢戸橋を渡り、すぐ先で右に折れ、戸倉城山下の道(本郷通り)を通って再び檜原街道に戻り、檜原本宿へと向かう。が、今回の散歩はこれでおしまい。ぶらぶらと、途中五日市郷土館に立ち寄ったりしながら武蔵五日市駅に向かい、一路家路へと。


水曜日, 2月 25, 2009

奥武蔵散歩:越生から高山不動へ

龍穏寺に行く事にした。太田道灌ゆかりの寺である。越生の奥、龍ガ谷の中央にあり、市街からは結構離れている。市街とのピストン往復では、いかにも味気ない。地図でチェックする。と、龍穏寺の北の梅本集落から林道が奥武蔵高原の尾根道まで通じている。これは、いい。どうせのことならと、この尾根道、通称奥武蔵グリーンラインに進むことにした。
幾つもの峠が連なるこの尾根道はその昔、越生と吾野、秩父を結ぶ幹線道路であった。
信仰のため、商業活動のため、日々の生活のため、そして時には山中の寺で開帳される「賭博」のための往還でもあったのだろう。奥武蔵グリーンラインから先は、しばし尾根道を南に辿り、高山不動を経て吾野に下ることにする。高山不動は龍穏寺の奥の院。偶然とはいいながら、散歩のはじめと終わりが龍穏寺からみ、とは、これもなにかの因縁、か。



本日のルート:東武東上線越生駅>上大満>越辺川>竜ガ谷集落>下馬門>龍穏寺>龍穏寺の熊野神社>山神社>瀧不動_男瀧と女瀧>林道梅本本線>林道梅本支線>行き止まり>障子岩名水>大平尾根合流>野末張見晴し台>グリーンロード>飯盛峠>グリーンロード>関八州見晴し台>高山不動>三輪神社>高山不動の 参道と志田林道の合流点>高山不動参道口>瀬尾>下長沢>国道299付近>高麗川>西武秩父線吾野駅


東武東上線越生駅
池袋から東武東上線に乗り、坂戸で東武越生線に乗り換え越生の駅に。越生は今回がはじめてではない。何時だったか、道灌ゆかりの「山吹の里」を訪ねてこの地に足を運んだ。龍穏寺のことを知ったのも、その時である。
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」で知られる「山吹の里」は散歩の折々にそこかしこで出会うので、それはそれでいいとして、名刹・龍穏寺がなにゆえ、この越生にあるのか気になっていた。なにせ、奥武蔵の山の中である。チェックする。と、越生はその昔、このあたりの中心地であった、よう。鉄道が通る現在では中心は飯能であり、秩父に移っているわけだが、それが鉄道もなかった昔からの中心地であったかどうかは、別の話である。「現在軸」からの思い込みには注意が必要、か。

麦原バス停
越生駅より黒川行きのバスに乗る。山裾に沿って市街地を北に向かい、山稜が切れたあたりを西に折れる。山稜が切れたところを越辺川が流れる。越辺川によって開かれた山稜の間の低地を西に進む。津久根地区と呼ばれる。
津久根を西に向かい、越生梅林あたりからは南西に向かう。越辺川によって開析された谷筋である。川に沿って進むと麦原バス停。ここは、小杉、アジサイ公園、麦原を経て飯盛峠に向かう昔の秩父越生道の入口。吾野の谷や秩父から、背に炭を背負い峠を越え、食料や衣料と交換するために物々交換の中心地である越生にやって来たのだろう。

上大満バス停
麦原バス停を過ぎ、大満地区を1.5キロほど進み上大満バス停で下車。越生の駅から30分ほどかかっただろう、か。バス停の脇を流れるのは越辺川の支流・龍ガ谷川。龍穏寺はこの龍ガ谷川を2キロ弱上ったところにある。
大満とはいかにも奇妙な地名。気になってチェックした。すると、その地名は龍ガ谷にまつわるある伝説に由来する、と。
昔々、この龍ガ谷一帯は大きな湖であった。底には龍が棲んでいたとのことだが、それはそれとして、ある日大雨で堤が決壊し、一面が水浸しとなった。大満とは、その「水が溢れた地」のこと。ちなみに、バスで通り過ぎた津久根は、もともとは「築根」。決壊した水を防ぐべく堤防を築いたところ。そういえば、津久根の地は、越辺川が山間から平地に流れ出す喉元。ここに堰をつくれば、確かに洪水が防げそうではある。
そうそう、湖に棲んでいた龍の話。名栗の龍泉寺から越生の龍穏寺にお手伝いに来ていた小坊主さんを背に乗せて名栗と越生を往復していた、とか。龍泉寺の和尚さんの看病のためである。で、洪水で棲むところをなくした龍は名栗の有馬の谷に逃れ、そこに棲むことになった、とか。直線距離でも10キロ以上はなれている名栗と越生ではあるが、このふたつの地域は一衣帯水であったということ、か。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

龍穏寺
上大満バス停から龍ガ谷川に沿って歩く。半時間弱で龍穏寺の入口。如意輪観音様が迎えてくれる。龍穏寺は役の行者の創始とされる。縁起は縁起として、開山は14世紀末とも15世紀初め、とも。足利義教だか、足利義政だか、ともあれ足利氏が尊氏以下の足利氏の冥福を祈るため、関東官領上杉持朝に命じて開いた。その後、兵火に焼失。15世紀の後半に太田道灌、道真が再建した。
16世紀末には豊臣秀吉より御朱印100石。17世紀初頭には徳川家康より総寧寺(千葉県・市川市)、大中寺(栃木県・大平町)とともに関三刹とも呼ばれる大寺院に。全国の曹洞宗寺院のうち、23ヶ国の寺院、その僧侶など二万人を統括していた、とか。

参道を進むと堂々とした門。無相門。彫刻は榛名の名工岸亦八の手による。先に進むと江戸城の石。江戸城外濠に架かる神田橋の橋台として使われていたものである。本堂にお参りし、続いて太田道灌銅像に。案内をメモ;「太田道灌公墓;永享4年(1432)龍穏寺寺領(父・居城居城居城居城居城太田道真の)に生る幼名鶴千代丸後雲崗舜徳襌師(龍穏五世)について出家道灌と号す「瑞巖主人公」の公案を受け大悟徹底す長禄元年(1457)江戸城(皇居)を築き川越城・岩槻城・鉢形城を修築し野戦に長じ関東雄将たり。しかるに惜むべし文明18年(1486)神奈川県伊勢原市にて謀殺される。法名香月院殿春苑道灌大居士分骨して当山に葬る、と。少々きらびやかな経堂の外壁を彩る彫り物を眺め、境内脇にある熊野神社にお参りし、お寺を離れる。

梅本林道
少し進むと食事処・山猫軒。築130年という旧家を改築したもの。散歩をしていると、時々山の中、と言ってもいいようなところに洒落た食事処がある。高尾から津久井の城山湖に向かって歩いていた時も、案内川に沿って甲州街道を進み、峰の薬師参道を峠道に入った山中にも同じような雰囲気の食事処があった「うかい竹亭」。山中ではないけれど、仙川に沿って武蔵小金井をぶらぶらしていると懐石料理で名高い尼寺・三光院に出会った。食通にはうれしいお店ではあろうが、食にあまり興味のないわが身には、有難さも中位といったところ、である。
歩を進め、道が分岐するあたりの道脇にこじんまりとした社、というか祠。山神宮八幡神社とあった。ここから左に分岐する道は、高山街道へ続く道のようである。高山道は四寸道とも呼ばれる、越生から高山不動への参拝道。起点は大満の越辺川と龍ガ谷川の合流点より少し黒山に向かって進んだ下ケ谷の下ケ谷橋の袂。そこから下ケ谷薬師を経て、越辺川と龍ガ谷川に挟まれた尾根道上を薪山>駒ヶ岳>峰山、関場ガ原(関八州見晴台)と上り高山不動を目指す。
この梅本の分岐は龍穏寺から尾根道に直接進むショートカットのルートだろう、か。高山不動は龍穏寺の奥の院とも言われているので、昔は参拝人でにぎわったのだろうが、現在高山道は廃道寸前となっている、とか。ちなみに、高山道の別名四寸道の由来は、幅が四寸の露岩のやせ尾根を行くから、と。

旧秩父道への分岐
少し進み梅本集落の入口付近の道端に滝不動。ブロックの祠の中に、年代を経たお不動様。滝不動と呼ばれるように、男滝と女滝があるのだが、どちらもいかにもつつましやかな滝である。
滝不動を越えると、梅本林道の標識。ここから飯盛山の大平尾根へと上る林道がはじまる。林道を尾根に向かってゆったり上る。龍穏寺から2キロ強歩いたところで、梅本林支線が分岐。草むらに旧秩父街道との案内。秩父越生街道って、龍穏寺へのバスの途中、小杉、麦原から太平尾根に上っていた道筋。この道は龍穏寺方面からこの秩父越生街道に通じる道だったのだろう、か。
支道入口は通行止めとはなっていたのだが、これって車がダメだが、歩きは大丈夫だろうと、無理矢理解釈。とりあえず、どんな道筋か本線を離れ支道にはいる。ぐるりと曲がったゆったりとした坂道を上ると障子岩。断層としては専門家にはありがたい岩のようだが、門外漢には岩よりも、そこから流れ出す障子岩名水がありがたい。一口飲んで先に進む。が、ほどなく道は行き止まり。進めるかどうかブッシュの中に分け入るも、どうにも進めそうも無い。諦める。林道によって道筋が代わり、廃道となったのだろう。仕方なく本道に戻る。整備はされている。

野末張(のずはり)見晴台
尾 根に向かってジリジリと上ってゆく。旧秩父道への分岐から1キロ弱歩き、ほとんど180度ターンをするカーブのあたりで道の周囲は開ける。ほぼ尾根筋に来たのだろう。ヘアピンカーブのところに東のほうから林道に合流する尾根道があった。チェックすると、アジサイ公園方面との案内。ということは、ここらあたりが大平尾根。ということは、合流してきたこの尾根道は小杉、麦原方面から上ってきた秩父越生道なのだろう。少し尾根道を歩き、なんとなくの秩父越生道の雰囲気を楽しみ、元に戻る。
180度の折り返しの「中州」のところに展望台。野末張見晴台と呼ばれる。いやはや、素晴らしい展望。思いがけないプレゼントといった感じ。山並みのどこがどこだかわからないながらも、見晴らしを楽しむ。後でチェックすると、北は赤城山とか日光連山、南は新宿の高層ビルまでもカバーしていたようだ。


奥武蔵グリーンライン

尾根道を2キロほど進むと奥武蔵高原道路、通称奥武蔵グリーンラインに合流。案内に右に折れると飯盛峠、左は関八州見張台、どちらも1キロ程度。先を急ぐのだが、飯盛峠って、どんなものかピストン往復を。

飯盛峠
奥武蔵グリーンラインを飯盛峠に向かう。奥武蔵グリーンラインって、外秩父の尾根を走る林道。この尾根道には大野峠、七曲り、刈場坂峠、ブナ峠、飯盛峠、アラザク峠、傘杉峠、顔振峠といくつもの峠が連続する。このようにいくつもの峠が開かれた理由は、高麗川の谷筋に沿った吾野の村々、また、芦ケ久保といった秩父の集落から越生に通じる道が必要であった、から。今でこそ西武線が通り飯能や秩父にすぐに行ける吾野の町ではある

が、その昔は、生活物資を求めてこの地域の中心地である越生に向かうしかなかったようだ。
谷筋の村々からは炭を背負い、峠をこえて越生に向かい、そこで食料や衣料と交換した。また、芦ケ久保の集落からは、距離的には秩父が近いわけだが、お米など秩父までの運賃が高く、であれば、ということで秩父に比べて安いお米が手に入る越生に向かって、峠を越えた、と言う。(『ものがたり奥武蔵:神山弘(岳書房)』より)。今となってはどうということのない峠だが、昔は人々が足しげく往還したのだろう。少々の感慨。
尾根道を進むとほどなく飯盛峠。標高810m。ヒットエンドランでもあり、道端にある飯盛峠の標識にタッチし、梅本林道との合流点に戻り、そのまま尾根道を関八州見晴台に向かう。


関八州見晴台
梅本林道との合流点から1キロほど尾根道を進むと関八州見晴台。越生と飯能の境目。標高770m。安房、上野、下野、相模、武蔵、上総、下総、常陸の関東八カ国が一望のもと、ということが地名の由来。

見晴台には奥武蔵グリーンロードから少々の高台に上ることになる。高台には高山不動の奥の院。つつましやかな祠といった風情であった。本尊の五代尊不動明王は関東鎮護のため東京に向けられている、とか。しばしの休息の後、本日最後の目的地である高山不動に向かう。

高山不動
杉林の中を下る。はじめは舗装もされているが、途中からそれも切れ山道をどんどん下る。奥武蔵グリーンラインにつかず離れずといった道筋。ほどなく高山不動の本堂脇に到着。素朴であるが堂々とした本堂である。創建の時期は7世紀とも言われるが、正確な時期は明らかでない。少なくとも平安時代末期には坂東八平氏・秩父重遠がこの地に居住し、高山氏を名乗ったわけで、古い歴史をもつことは間違いない。
本堂にお参り。石段の下にはひとつふたつ建物が見えるにしても、成田不動、高幡不動とともに関東三大不動のひとつとも言われる割には、ちょっと寂しい。七堂伽藍が林立、とまではいかなくても、もう少々堂宇が並ぶか、とも想像していたのだが、まったくもってさっぱりしたもの。往時は3

6坊を誇った堂宇も現在は3坊を残すのみ。明治の廃仏毀釈の洗礼を経たためであろう、か。江戸の頃は、参拝客で賑わい、賭博で賑わったお不動さまも、今は静かな風情である。
106段の石段を下ると、ひときわ大きい樹木。子育ての大イチョウと呼ばれる。成り行きで下り、庫裏前を進み道に出るとすぐにつつましやかな三輪神社。ちょっとお参りをし、吾野駅に向かう。
そうそう、高山不動は賭博が盛んであった、とメモした。神社仏閣と賭博はここだけの話でもない。足立区花畑の鷲神社もそうであった。酉の市で知られるこの神社も賭博で賑わった。で、賭博が禁止されると、人の動きがピタリと止まった、とか。信仰だけでなく、なんらかの現世利益、楽しみが必要ということ、か。当たり前と言えば当たり前。

西武秩父線吾野駅

三輪神社を経て上長沢地区の山道をどんどん下り、途中志田林道の合流箇所などを見やりながら高山不動参道入口に。お不動さんから3キロ強といったところ。さらに下り、瀬尾のあたりまで来ると民家も多くなる。瀬尾の集落は高山不動尊の参道として賑わった。道筋には材木店も見える。下長沢地区の山腹に点在する
民家を見やりながら渓流に沿って進み、国道299号線に合流。ここまでくれば吾野駅はすぐそこ、だ。



国道299号線の南には高麗川が流れる。高麗川は刈場坂峠付近に源を発し、飯能、日高、毛呂山と下り、坂戸で越辺川に合流する。名前の由来は、高麗郡より。716年、駿河など7カ国に住んでいた高句麗からの帰化人1799名を武蔵国に集め設置したもの。日高市にある高麗の里の巾着田を歩いたことがなつかしい。
川に沿って吾野の駅に向かい、本日の予定終了。ちなみに、吾野の駅って、西武秩父線の始点,、というか、1969年に正丸トンネルができるまでは西武線の終点であった。で、トンネルができて、秩父とつながったため、西武線終点であった吾野が秩父線の始点となった、ということだろう。西武鉄道のほとんどの電車が、始点・吾野ではなく飯能で折り返しているのは、歴史的経緯としての始点とは関係のない、なにか別の「合理的」理由によるのだろう。それにしても、それにしても、高麗川の谷筋と秩父が電車で繋がったのは、それほど昔のことではなかったわけである。


旧正丸峠越え

正丸峠を越えようと思った。名前が結構前から気になり、そのうちに歩こうとも考えていた峠である。飯能から高麗川の谷筋を進み秩父に入るには正丸トンネルを抜ける。正丸峠はこのトンネルからは少し離れた尾根筋あるのだが、秩父観音霊場巡りなどで頻繁に正丸トンネルを通っているうちに、おなじ名前の正丸峠が脳裏に刷り込まれていたのだろう。
ルートをチェックすると、西武秩父線・正丸駅近くから旧正丸峠への道がある。峠からは正丸トンネルの秩父口に下りる道もあるようだ。峠の上り下りは5キロ程度。それほどの距離ではない。秩父側の国道に下りてから、芦ケ久保駅までが4キロ弱と少々長く、大型トラックの風圧に怖い思いをしながら国道脇を歩くのは少々憂鬱ではある。バスの便でもあればそれに乗るのもいいか、といった成り行きに任せる事に。
秩父の峠で最初に覚えた峠が正丸峠。が、あれこれしているうちに、釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父や奥武蔵の峠を結構越えてしまった。遅れてやって来た主人公に会いに行く、といった気持ちではある。


本日のルート;西武秩父線正丸駅>国道299号線>坂元集落>八坂神社>峠道>正丸峠への車道と交差>旧道を旧正丸峠に>旧正丸峠>治山ダム>追分>横瀬川>山伏峠からの県道53号線に合流>国道299号線>西秩父線芦ケ久保駅


西武秩父線正丸駅

正丸駅に下る。駅前が結構広い。気になりチェック。どうもバスの発着所であった、よう。現在では西武線はトンネルで秩父と結ばれているが、西武秩父線の正丸トンネルが開通したのは1969年。武甲山の石灰の運搬と沿線の観光開発を目的に秩父と吾野間が電車で結ばれた。
西武秩父線が開通する前は、西武池袋線の終点である吾野と秩父駅は正丸峠を越えるバス路線が走っていた。また、トンネルが開通し、それまで西武池袋線の終点であった吾野駅と秩父駅が結ばれるようになってからも、秩父駅と正丸駅の間には峠越えのバス路線が走っていた時期があった、ようだ。国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年であり、それまでのある時期、バスが峠道を上り下りしていたわけで、「広場」はその時期のバスターミナルの名残であろう、か。
西武線秩父線の正丸トンネルの開通が1696年、国道299号線の正丸トンネルの開通が1982年。秩父と飯能、ひいては首都圏と繋がったのはそれほど昔のことでは、ない。秩父って、つい最近まで、結構「遠い」ところであったわけ、だ。


坂元集落
正丸駅を離れ国道299号線に出る。国道を700mほど歩くと坂元集落に入る道が分かれる。道脇に「旧正丸峠、正丸峠、刈場坂峠」への道標。国道を離れるとすぐに高麗川を渡り坂元の集落に。高麗川の源流は刈場坂峠(かばさか)の近く。飯能、入間、毛呂山を流れ坂戸市で越辺川に合流する。
正丸トンネル手前で国道から右に分かれ正丸峠へと上る道がある。道はほどなくふたつにわかれ、左に大きくカーブする道が旧国道、そのまま直進する道が刈場坂峠への道。高麗川はその直進する道に沿って刈場坂峠へと続く。源流の碑もあるということであり、そのうちに歩いてみたい。
集落にはいると道脇につつましやかな祠。八坂神社とあった。お参りをすまし、5分も歩くと道は次第に山道となる。舗装も切れた杉林の道脇には石仏が佇んでいた。

沢沿いの道を上る

沢沿いの道を上る。ここからは丸太橋や仮設橋で沢を渡ることになる。ささやかな沢である。沢の右岸を上る。第一の仮設橋で左岸に移る。鉄パイプのつくりは少々味気なし。ほどなく道脇に大岩。この巨岩脇を抜けると第二の橋に。丸木でつくられた橋を渡り右岸に戻る。道なのか沢なのかといった道筋のすぐそばを歩くことも。
三番目の橋は再び仮設橋。ここで左岸に渡る。第四の橋は越流状態。木橋の上は土砂に埋もれ、そこを水が流れる。右岸に移り第五の仮設橋で左岸に。ここからは北に延びる沢筋を上ることになる。谷筋を過ぎると急斜面。一気に上る、のみ。



旧国道に合流

上り切ったところで車道に合流。正丸トンネル手前から正丸峠を越え、県道53号線に合流する昔の国道である。県道53号線は名栗谷の名郷から山伏峠を越えて正丸トンネルの秩父側口の近くに下る道。現在の国道299号線の正丸トンネルが開通したのは1982年というから昭和57年。ほんのつい最近まで、飯能方面から秩父に車で入るには、このクネクネした山道を上っていたわけだ。
旧国道の合流点から100mほど上ると再び山道に入る。目印は反射鏡。道の左下に旧国道を見ながら大きくカーブする山道を旧正丸峠に向かって進む。最後の橋は桟道。桟道って、岩場や崖など歩きにくいところに足場を組んだ、もの。桟道を越え鬱蒼とした杉林の中を進むと旧正丸峠に。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



旧正丸峠

標高670m。県道の正丸峠が開通されて以来、旧正丸峠と呼ばれるようになった。坂元集落から2キロ程度。正丸駅からでも4キロ程、といったところ。ここまでは飯能市。稜線を越えると秩父に入る。
峠は狭い切り通しとなっている。稜線を左に進むと1.3キロで正丸峠、右に上ると虚空蔵山まで1.8キロ、刈場坂峠までは3.3キロ。直進し、峠を秩父に下ると初花、芦ケ久保に達する。伊豆ガ岳から正丸峠を経て北に延びる稜線を「正丸尾根」と呼ぶ。伊豆ガ岳>正丸峠>ガンゼ山>旧正丸峠>虚空蔵峠>大野峠>丸山へと続く。この横瀬の丸山を大丸山と呼び、旧正丸峠横のガンゼ山(川越山)を小丸山と呼ばれていた、と。正丸峠の名前の由来は、この小丸>しょうまる>正丸、となったとの説もある。正丸という親孝行な少年が、母親を背負ってこの峠を越えたのが、名前の由来との説よりは、なんとなく、納得感がある(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
もっとも、この峠は昔から正丸峠と呼ばれていた訳ではない。二子峠と呼ばれていた、。昔は現在国道299号線が走っている芦ケ久保川沿いには道は無く、秩父から高麗川筋に出るには、二子山の南肩を越え、処花に下り、それから虚空蔵峠を越えて坂元に出ていた。二子峠と呼ばれたのは、このためである。正丸三角点であるカンゼ山(川越山)の東肩の按部であるこの旧正丸峠を越えるようになったのは、その後のことであると言う(『ものがたり奥武蔵;岳書房』)。
正丸峠が秩父と奥武蔵をつなぐ主要往還道と思い込んでもいた時期がある。秩父観音霊場を廻るため幾度となく秩父を往復したとき、飯能から高麗川の谷筋(秩父凹地帯)を進み正丸トンネルを抜けて秩父に入る。正丸峠はこのトンネルからは少し離れたところにあるのだが、今日の主要往還である正丸トンネルを頻繁に通っているうちに、おなじ名前の正丸峠も「主要」峠であろう、と刷り込まれていたのだろう。
その後、正丸峠を越える前に釜伏峠、粥仁田峠、飯盛峠、妻坂峠など、秩父と奥武蔵の峠を越え、あれこれ歩いているうちに、秩父と奥武蔵を結ぶ峠は数多くあり、正丸峠はそれら峠のひとつに過ぎない、といったことがわかってきた。そして、それよりなにより、当時の往還のメーンルートは越生と秩父・高麗川筋であり、秩父から高麗川筋って、それほど人の往来があったわけでもなかったようだ。『ものがたり奥武蔵;岳書房』によれば、秩父と飯能を結ぶこの正丸峠は普段は旅商人などが通るほかは人影もない寂しい道、獣道のようであった、とか。唯一この峠が賑わうのは年に一度の三峰神社のお祭りのときだけ。そのときだけは飯能、高麗、吾野の人々がこの峠を越え、終日賑わった、とある。「現在軸」だけからのあれこれの判断は慎重に、ということであろう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

峠からの下り
芦ケ久保に向かい峠を下る。飯能側の杉林と異なり、明るい雑木林の中を歩くのだが、道筋が少し分かりにくい。踏み跡を探しながら下る。涸れ沢の谷筋に出る。道と谷が土砂で埋もれたのだろうか、道筋が誠に分かりにくい。ただ、杉林と違い雑木林の木もまばらであり見通しがつけやすいので、それほど道に迷う不安は少ない。
涸れ沢を過ぎると沢の脇の細路を下る。カタクリの群生地脇を進むと広場のようなところにでる。ベンチなどもあり、川筋には治山ダム。谷筋の浸食を止め森林の維持・造成を図るもの。この広場も治山ダムにより沢筋が固定され、土砂が溜まり緑地が広がったものだろう、か。門外漢のため、単なる所感ではある。

追分
林道を進むと道は舗装されている。しばらく歩くと追分に。大カエデのそばに石仏。
追分で山伏峠に行く道と分かれる。松枝あたりで県道53号線に合流しているようだ。

県道53号線

石仏にお参りし、横瀬川の流れを見やりながら初花(処花)あたりで山伏峠か

らの県道53号線に合流。

国道299号線
初花から500mほど歩くと国道299号線の正丸トンネル秩父口に到着。正丸峠越えはこれで完了。上り下り、それぞれ1時間程度、といったところではあった。初花(処花)って美しい名前。由来はよくわからない。ただ、初花、って新年に一番最初に咲く花、季節毎に最初に咲く花のこと、とか。それから転じて、若い女性やいつまでも新鮮なパートナーのことを指すとも言う。この集落の名前の由来は、はてさて。

西武線秩父線芦ケ久保駅



国道を芦ケ久保駅に向かう。4キロ強といったところ、か。道の脇には横瀬川。その南には二子山。こんな話がある。昔、二子山にはダイダラボッチが棲んでいた。山や川、池をつくる大男。その神様が秩父に山をつくるためにやってきたのだが、この芦ケ久保の窪地で足をとられて運んできた土をこぼした、と。この足を取られた窪地が「足窪」。それが転化して「芦ケ久保」。で、こぼした土でできたのが二子山であった、と。そういえば、我が家の近くにある杉並区の代田橋も、この大男ダイダラボッチの足跡が由来、とか。
日も暮れてきた。国道を歩き、成り行きでバス停でバスに乗り、西武秩父まで進み本日の予定終了。



金曜日, 1月 30, 2009

鎌倉街道山ノ道 そのⅣ:妻坂峠を越えて秩父路に

名栗の谷から秩父路に
高尾から秩父へと辿る鎌倉街道山ノ道の散歩も最終回。名栗から妻坂峠を越えて秩父の横瀬に入る。妻坂峠は鎌倉武士の鑑、畠山重忠が秩父から鎌倉に向かう時,愛妻と別れを惜しんだ峠。畠山氏は坂東八平氏のひとつである秩父氏の一族。父親も秩父庄司というから、荘園の管理者といったところ。重忠の時代には館は秩父にはなかったと思うのだが、秩父に大いに縁のある武人である。源平合戦での大活躍、そして北条氏の謀略による二俣川での憤死。悲劇の主人公として秩父・奥武蔵の人々に語り継がれてきたのだろう、か。重忠の峠越えの真偽はともかくも、多くの人が秩父との往還に使った峠道が、如何なる風景が広がるのかちょっと楽しみ。


本日のルート:西武線飯能駅>名郷>山中林道>入間川起点>横倉林道分岐>妻坂峠>二子林道>武甲山の表林道>生川の延命水>西武線横瀬駅

西武線飯能駅
家を出て、西武線飯能駅で下車。名郷・湯の沢行きのバスに乗る。湯の沢は山伏峠の手前。秩父道の妻坂峠越えは名郷バス停で降りることになる。飯能を離れ県道70号線を進む。途中、下赤工、原市場、赤沢の町を見やりながら名栗の谷筋を進む。名栗渓谷を越え、下名栗のあたりになると道は小沢峠方面より北上してきた県道53号線に合流。その先は県道53号線として山伏峠を越えて秩父に通じる。
いつだったか、名栗湖から飯能に向かって歩いたことがある。いくら歩いても名栗の谷筋から抜け出せず、10キロほど歩いて結局日没時間切れ。その場所が原市場のあたりであった。子の権現詣でが華やかなりしその昔、飯能を出発した人々は、この名栗川の原市場まで進み、そこからは中藤川沿いに子の権現に上った、という。そのうちに、このルートで子の権現へと歩いてみようと思う。

名郷
小沢、市場、浅海道、名栗湖へのバス停である河又名栗入口を越え名郷で下車。飯能から1時間ほどかかった。バス停近くにつつましやかな弁財天の祠。バス停横には材木屋さん。さすが、西川材として栄えた地域である。
名郷はこの地域の商業の中心地であった。山伏峠方面の湯の沢集落、妻坂峠方面の山中集落、鳥首峠方面の白石集落の人達は、毎日薪を背負ってこの名郷に下り、そこで必要な日用品と交換し、再び集落に戻るのを日課とした、と(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。現在はただ静かな集落となっている。
ところで、西川材って、名栗の材木のこと。名栗川を流し、西から江戸に運ばれたために、西川材と呼ばれた。材木問屋のある千住まで10日ほとかかった、と言う。名栗はその材木故に、天領であった。年貢などはなく、幕府の要請に応じて木材を提供すればよかった、とか。ために名栗は豊かであった。名栗がばくち、賭博が盛んであったことは、豊かな村であった証でもあろう、か。
ところで、名栗の由来が気になる。いまひとつ、これだという由来がわからない。木工技術に名栗という技法がある。木材(主に栗)の輪郭面を六角形や四角形などに加工するこの技法は数寄屋建築に欠かせない技法、とか。歴史は古く、縄文・弥生の頃から使われている、と言う。
この名栗の技法は、もともとは山から伐採した木を出すとき、腐りやすい白太の部分をはつり取ったのが始まり、とも言われる。この名栗の地は西川材と呼ばれるように木材で名高い地域でもあるので、名栗の由来はひょっとすれば、この木材加工の言葉にあるの、かも。素人解釈であり、真偽の程定かならず。
名郷でバスを降りず、そのまま先に進めばバスの終点である湯の沢に進む。そしてその先は山伏峠を越えて松枝、初花を経て国道299号線・正丸トンネルの秩父側に至る。湯の沢の名前が気になる。温泉が湧くという話も聞かない。子の権現近くに湯ノ花というところがあるが、それは猪の鼻から転化したものという(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。湯の沢も、猪沢からの転化であろう、か。山伏峠の名前の由来は、「ヤマフセ」という山の形から、との説がある。山伏(修験者)にまつわるあれこれの話もあるが、釜伏峠などもあるわけで、どうも地形に由来する説のほうが納得感が高い。
ついでに名郷の由来。これも名栗同様、よくわからない。あれこれチェックすると、長尾峠のことを名郷峠と呼ぶところもある。ながお>なごう、と転化したのであろう、か。これまた素人の田舎解釈であり、真偽の程、定かならず。

山中林道

名郷バス停で県道53号線と別れ、県道73号線を進む。渓流に沿って歩いていくと大鳩園キャンプ場。川傍にバンガローが点在するキャンプ場を越えると道は分岐。県道73号線は白岩集落から鳥首峠に向かって進む。秩父道は県道73号線から別れ妻坂峠に向かう山中林道(山中入)に入る。川筋もふたつの道筋に沿って続く,と言うか、道筋はふたつの川筋・沢に沿って開かれた、というべき、か。
鳥首峠は昔の浦山村に進む峠道。秩父観音霊場巡の橋立堂に向かう時、ちょっとかすった浦山ダムのあたりに出てくるのだろう。ちなみに、鳥首山の由来は、峠付近の山稜線の姿が鳥の形に似ており、その峠のたるみが首にあたる、との地形から(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。語感からは少々、オドロオドロしいが、実際は山容から来た名前であった、よう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


入間川起点

山中林道(山中入)を進む。この夏に熊が出たらしく、注意書きなどもあり、少々緊張。舗装された道を1.2キロ程進むと焼岩林道が分岐。沢に沿って進み、道が大きくカーブするあたりに「1級河川入間川起点」の石碑。とはいうものの、すぐ上には砂防ダムだろうか、コンクリートの堰もあるし、なりより、まだまだ川筋は先に続いている。
それまで知らなかったのだが、起点と源流はどうも違うようだ。源流は言葉そのもので、水の源。起点は管理起点とも呼ばれるように、行政管理上の河川の始まりのよう。そういえば、川って幾多の沢筋の水を集めて出来る訳で、源流などは考えようによってはいくつもあるわけだろうから、ある程度の源流地域で、えいや、と起点を造る必要がある、ということだろう。

横倉林道分岐
先に進むと横倉林道が分岐。大持山登山口とかウノタワ登山口に続く。山中林道入口から1.9キロほどのところである。ウノタワは鳥首峠と大持山の中間点にある。ここの窪地はかつて沼があった、とか。その沼には神の化身の鵜が棲んでいた。が、猟師がその鵜を矢で撃ち殺してしまう。沼は鵜もろとも消えてしまった、と。ウノタは鵜の田、から
急勾配の峠道
横倉林道の分岐を越え、渓流を見やりながら進む。勾配もきつくなり、沢の手前で林道や終点。舗装もなくなり、ここからは山道の峠越えとなる。小さな赤い橋を通って沢を渡り、杉林の中に入る。結構な急勾配。沢に沿って進む。古い石垣らしきものもあり、少々の古道の雰囲気を感じる。とはいうものの、石が転がり足元はよくない。
沢から道が離れるあたりから、上りは結構厳しくなる。峠手前のジグザグ道では勾配が40度もあろう、か。峠道を結構歩いたが、息のあがり具合というか、汗の出具合というか、顔の上気加減というか、雨上がりの湿気が多い日とは言いながら、尋常ではなかった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



妻坂峠
峠でしばし休憩。お地蔵様が鎮座する。延享4年というから1747年からこの峠に住まいする。峠からは名栗方面の見晴らしはよくない。秩父方面は展望がよく、晴れた日は武甲山や横瀬の町が一望のもと、ということだが、今回は雨上がりの靄の中。
1572年には上杉謙信がこの峠を越えたという。畠山重忠もこの峠を越えた、と。峠の名前も重忠に由来する。重忠が秩父から鎌倉に出仕すろとき、この峠で別れを惜しんだから、と言う。とはいうものの、重忠の館は男衾郡畠山郷(深谷市畠山)であったり、菅谷館(武蔵嵐山)である、と言う。秩父に館があったというわけでもないのだが、秩父一族の代表的武人・文人としての重忠に登場してもらわなければ洒落にならない、ということだろう。事実、
奥武蔵や秩父には重忠の伝説が多い。山伏峠には重忠が桐割ったという切石の話が残る。有馬の奥、棒の折山もその名前の由来は、重忠が持つ杖が折れたから、とも。散歩をはじめて、武蔵の各地に残る幾多の伝説から、重忠の人気のほどが改めて実感できる。
妻坂って語感は心地よい。重忠の話もいかにも心地よい。が、もともとは「都麻坂」と表記されていた、とも言う。「都麻」って、「辺境の地」といった意味があると、どこかで見たことがある。味気はないが、このあたりが地名の由来としては納得感が強い。


二子林道
峠を下る。急な斜面。丸木橋などもあり、足元が危うい。下るにつれて道筋が少々わかりにくくなる。道なのか沢なのか区別のつかない道筋をとりあえず下ってゆく。この沢は生川(うぶかわ)の源流といったところだろう。沢に沿って下り二子林道に出る。登山道は林道を突き切って進む。
生川も畠山重忠に由来する。文字通り、産湯につかった川であった、とか。
武甲山の表参道
二度ほど林道と交差し石仏のあるところに出るとそこは武甲山の表参道。御嶽神社一の鳥居の裏手には車が駐車している。武甲山にのぼっていったのだろう。峠からは2キロ弱か。30分程で下りる。ここからは歩きやすい舗装道となる。
武甲山を最初に秩父で見たときは、結構インパクトがあった。甲冑そのものの、堂々とした山容であった。また、石灰を採るために削り取られた白い山肌も、これまたインパクトがあった。武甲山の名前の由来は例に寄ってあれこれ。日本武尊が甲冑を祀った、との説。このあたりを領する武人が武光氏であり、「たけみつ」を音読みで「ぶこう」としたとの説。「向う山(むこう)」が転化して「ぶこう」となったとの説。この中では「向う山(むこう)」が納得感が高い。神戸の「六甲(ろっこう)山」も、もともとは「向う山」から来ており、昔は武甲山とも表記されていたと言う(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。

生川の延命水
舗装道路を進むと道ばたに湧き水。生川の延命水と呼ばれる。小さな祠を挟んで2カ所から導管から注ぎ出る。涌き口は斜面の上なのだろう。ペットボトルに補充し生川沿いの林道を進む。
湧水は心地よい言葉である。散歩では湧水というキーワードだけで、無条件でそこに足が向かう。秩父でも寄居からの秩父往還を歩いて釜伏峠を越えるとき、「日本(やまと)水」という湧水の案内が登場。尾根道を下り水場に到着。渇きを癒し、さて下山。が、尾根道下りで道に迷い、転びつつ・まろびつつ、不安と戦いながらブッシュ道と格闘したことがある。この延命水は道端にあったことを大いに感謝。

西武秩父線横瀬駅
いくつかの石灰工場を見ながらひたすら歩き、横瀬の駅を目指す。谷筋が切れるあたりから、ぼちぼち民家が現れる。横瀬の町である。表参道から5キロほど歩いたように思う。単調な道筋を結構な距離歩いた。
横瀬の町は昔、根古屋と呼ばれた。根古屋って、山城の下にある城下町、というか家臣の館のあるところの意味で使われることが多い。はてさて、このあたりのど 

こにお城があったのか、チェックする。秩父観音霊場8番札所西善寺の近くの御嶽神社に「城谷沢の井」といった井戸があるが、いかにもこのあたりといった地名。どのあたりかはっきりは知らないけれど、この根古屋集落裏の尾根筋に城があった、よう。二子山には物見台があったと言うし、正丸峠筋からの敵襲に備えていたのだろう、か。


いつだったか、秩父観音霊場巡りで、西善寺にも訪れた。コミネカエデの古木が見事であった。御岳神社も訪れた。ここは武甲山頂にある御岳神社の里宮。山に上ることのできないひとの信心の場であった。城谷沢の井は、その豊富な水量と水質の良さを活用し、絹の染色に使いはじめ、秩父絹発祥の地とされる。
はてさて、寄り道が過ぎた。見慣れた三菱マテリアルの工場などを見ながら西武線に沿って西に向かい、横瀬の駅に到着し、本日の予定を終了する。また、高尾からはじめ、4回に分けて辿った鎌倉街道山ノ道、秩父道散歩もこれで予定終了とする。



鎌倉街道山ノ道 そのⅢ:青梅筋から名栗筋に

高尾から秋川、そして青梅へと歩いてきた秩父道散歩も3回目。今回は青梅筋から峠を3つ越え、名栗川の谷筋に向かう。距離にしておおよそ12キロ程度だろうか。名栗まで行けば、後は妻坂峠か正丸峠を越えれば、そこは秩父。そう考えれば、秩父って、結構近い。


本日のルート:JR青梅線・軍畑>鎧塚>榎峠>佐藤塚>松ノ木トンネル>小沢峠>庚申の水>河又名栗湖入口>竜泉寺>名栗湖

JR青梅線・軍畑駅
軍畑駅で下車。広々としていた多摩川の谷筋も軍畑あたりまで進むと、ぎゅっと狭まってくる。そういえば、御岳渓谷は、この辺りからはじまるのではなかろう、か。駅は川面より相当高いところにあり、眺めも、いい。
青梅の地は鎌倉、室町の頃、杣保(そまほ)と呼ばれていた。「そま」とは「山の方」といった意味。その杣保を支配していたのが三田氏。小田原北条氏が勢力を伸ばすにつれ、大方の武将は北条傘下となったが、この三田氏は北条と対立。この地で合戦をおこなったのが、軍畑という地名の由来、とか。

鎧塚
無人の駅舎の坂を南に下り、T字路を青梅街道方面と逆方向にすすむ。民家のそばにこんもりと樹々に覆われた塚がある。鎧塚と呼ばれるこの塚は、辛垣城を守る三田氏と、その攻略をはかる小田原後北条の武士の鎧や亡骸を埋めたところと言う。2メートルもないようだが、狭くて急な石段を怖々上ると、こじんまりとした祠が祀られている。
祠に手を合わせ、石段を慎重に下り、先に進むと青梅線の鉄橋の下。平溝川のつくる深い谷を越えるこの鉄橋は、結構迫力がある。山陰本線・余部鉄橋の少々小型版、といったところか。ちなみに、余部鉄橋は現在工事中である、とか。
坂を下ると道は平溝川に沿って北に進む。これが秩父道である。地図で見たときは、峠に進む道であり、はたしてどういった道なのか少々心配ではあった。が、実際は車の走る舗装道。ちょっと安心。

榎峠
道脇の庚申塚などを眺めながら、ゆるやかな上りを進む。地蔵堂やお不動さんも道端に現れる。古道の名残であろう、か。しばらく進むと平溝橋。平溝川はここで左に分かれる。この川筋にそった道は高水山への上り口となっている。
このあたりを歩いていると高水三山という看板をよく見かける。高水山、岩茸石山、惣岳山の三山。700m程度の山の連なりで、1日で歩ける手頃なハイキングコース、と言う。そのうちに歩いてみよう。
分岐点をやり過ごし、そのまま坂を進む。道はカーブを繰り返す。途中に「青梅丘陵ハイキングコース」への入口も現れる。先日、JR青梅駅から尾根道を通り辛垣城まで辿ったのだが、この道筋が青梅丘陵ハイキングコース、であった。この時は辛垣城から二俣尾に下ったが、ハイキングコースはその先の雷電山を経て、この入口まで続いているようだ。先に進むとほどなく榎峠に到着。標高330m。車道でもあり、これといった古道の趣は、ない。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


佐藤塚

峠を越え、カーブの道を下る。しばらく歩くと沢筋が近づく。この沢は北小曽木川の源のひとつ。右へ左へと曲がる坂を下りていくと分岐道。高水山への登山口となっているようだ。少し入ったところにある大泉院にちょっとお参りし、先に進むと佐藤塚橋。道はここで左右に分かれる。右は青梅方面。秩父道は左に折れる。秩父道はこの辺りは「松の木通り」とも呼ばれている。
分岐点のところに大きな杉。その傍に佐藤塚がある。案内によれば、ここは佐藤助十郎という北条家家臣の屋敷跡。佐藤助十郎は秀吉の八王子城落城のとき、城を脱出し、このあたりに落ち延び、その後、石灰を焼きだすことを始めた。江戸初期にはじまるこの地方での石灰産業史を語る上で欠かせない人物、とか。石灰は武家屋敷などの白壁につかう漆喰の原材料。家康が江戸に幕府を開いた時、お城や武家屋敷の白壁に無くてはならないものであった。

松ノ木トンネル
松ノ木通りを進む。道に沿って北小曽木川の支流が流れる。ほどなく前方に松ノ木トンネル。このトンネルができたのは1979年。それ以前はトンネルの上にある松ノ木峠へと上る道があったのだろうが、現在は道は荒れて道筋がよくわからない。ということで、今回は、峠上りをあきらめトンネルを抜ける。
トンネルを抜けるとT字路。成木川に架かる新大指橋を渡ると成木街道に出る。成木街道はこの辺りの成木村で焼いた石灰を江戸の町に運ぶためにつくられた道筋。大久保長安の指揮のもとでつくられた。大雑把に言って、青梅街道の全身といった街道である。
小沢峠
成木川に沿って進む。松ノ木通りは道の両側に山塊が迫り、少し寂しい道筋ではあったが、この成木街道は広がり感もあり、明るい道筋である。清流を眺めながら進むとY字の分岐点。左に進む道が秩父道。秩父道は途中で右に折れるが、真っすぐ進むと黒山や棒ノ峰へと続く。右の道は小沢トンネルに続く道である。
秩父道はほどなく右に折れ、小沢トンネルへの道に合流する。道の先にトンネルが見えてくる。トンネルの手前に上成木橋。秩父道は、この橋の手前を右に入り、小沢峠へと上ってゆく。小沢峠を越えればそこは埼玉。
小沢峠への山道を上る。最初はブッシュ。ほどなく杉木立の山道となる。坂をのぼると峠に到着。一休みの後、峠を下る。下りはいまひとつ整地されておらず、ちょっと歩きにくい。道も荒れており、この峠を下る人はあまりいないのではないか、とも感じる。ともあれ、山道をどんどん下ると小沢トンネルの出口脇に出る。トンネル脇には小沢峠への案内もあった。

名栗川
ト ンネルの先は下り坂。名栗の谷に向かって下ってゆく。道脇には「ようこそ
名栗路へ」といった案内も現れ、やっと名栗に入った、と実感。道脇の民家を見ながらしばらく進み、途中左に分かれる新道をやり過ごし、名栗川(入間川)に架かる海運橋を渡るとT字路にあたる。右に行けば飯能。秩父道はここを左に折れ、名栗川に沿って進むことになる。
名栗川は下流に下ると入間川と呼ばれる。入間川は川越辺りで荒川に合流する。否、合流するというのは正確は表現ではないかもしれない。この合流点から下の荒川の川筋はもともとは入間川の川筋。現在の元荒川の流路を流れていた荒川の流れを熊谷のあたりで瀬替えをし、入間川の川筋と繋げた。世に言う、荒川の西遷事業である。


庚申の水

道を西に進む。谷筋は開けており、山塊による圧迫感もなく伸びやかな印象。道脇の茶畑、名栗川で釣りをする人、バーベキュー場など、ほどよく開けた山里の風景が続く。バス停「峯」のあたりに「庚申地下水」。名水なのだろうか、多くの人がポリバケツに水を詰めている。
左右の山々の樹々に目をやる。名栗は木材の産地である。江戸では西川材と呼ばれていた。文字通り、名栗川(入間川)を流し、西から江戸に材木が運ばれてくるから、だ。材木の産地であるが故に、この名栗の地幕府の天領であった。幕府の要請に応じて材木を供給するだけでよく、年貢米や御用金の義務もなかった。名栗は豊かな村であったようである。そして、豊かであるが故に、名栗は、「ばくち」で名高いところともなった。昭和7年頃でも、名栗の郷で賭博の前科者でないものはほとんどいなかった、という(『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』)。こんなことを思いながら歩くと、風景もちょっと違ったものに見えてくる。

河又名栗湖入口
先に進み、名栗橋のあたりで道は新道と合流。合流点近くの趣のある郵便局を見やりながら進むと、ほどなく「河又名栗湖入口」に到着。秩父道は、ここから道なりに先に進むが、今回の秩父道散歩はここでおしまい。ここからは秩父道を離れ名栗湖に向かうことに 
する。数年前、棒の折れ山に上った時、名栗湖畔に車を止めて山に登ったのだが、その時、湖畔の休憩所で田舎饅頭を見つけた。この饅頭は子どもの頃、なくなった祖母がつくってくれた饅頭の味によく似ていた。で、それ以来、「田舎饅頭」を食べるのが、散歩の楽しみともなった。
田舎饅頭は秩父ではよく見かけた。利根川を越えた古河でも食べた。越谷の久伊豆神社の境内でも近在のおばあさんの手作り田舎饅頭を見つけた。奥多摩の御嶽山のケーブル山頂駅にもあった。そんな田舎饅頭行脚のきっかけとなった場所に再訪し、久しぶりに原点の味を楽しもうと思った次第。ちなみに、愛媛ではこの田舎饅頭を「柴餅」と呼んでいた。

竜泉寺(龍泉寺)
名栗川にかかる有馬橋を渡り、坂道を名栗湖に向かって進む道の途中に竜泉寺。15世紀後半に開かれたこのお寺には、竜にまつわる伝説が残る。『ものがたり奥武蔵;神山弘(岳書房)』の記事をまとめる;竜泉寺の小坊主が手伝いに出かけた越生の竜(龍)穏寺
 で、竜泉寺住職が病気であることを知る。戻りたしと思えども名栗はあまりに遠しと嘆く。それを知った越生付近の湖に棲む竜が小坊主を背に乗せて運んだ、とか。また、こんな話もある。越生に棲む雄竜と名栗の有馬の谷に棲む雌竜が高山不動の上を通りデートを繰り返す。それを、不愉快に思った高山のお不動さまが雄竜の尾っぽを切り落とした、と。
この竜泉寺(龍泉寺)は雨乞い寺としても知られていた。それも昭和の頃まで続いていたようだ。お願いするのは有馬の谷の大淵に棲む竜神さま。この竜神さまは、もともと越生の湖に棲んでいたのだが、大雨で湖が決壊し、水が干上がったため、この地に移ってきた、とか。当初、竜泉寺(龍泉寺)に池に棲んでおったのだが、村人が肥桶を洗ったため、それはかなわんと、有馬谷の大淵に移っていった、とも。
いつだったか、越生の竜穏寺から飯盛峠を越え、高山不動まで歩いたことがある。竜の伝説を読みながら、越生や竜穏寺、高山不動などといった、伝説ゆかりの地の風景

を思い出す。散歩を続けると、あれこれと物事が繋がってくるものである。

名栗湖
竜泉寺の向かいには「さわらびの湯」。先回の棒の折れ山登山の時、下山後ひと風呂浴びたところ。土産物屋に田舎饅頭を発見。早速買い求め、懐かしい味を楽しみながら湖に向かう。次第に勾配を増す坂をのぼりきると名栗湖有馬ダム。名栗湖有馬ダムは昭和61年完成。有馬山を源にする有間川を堰止めてできた。
ダム脇の道を進み土産物屋で田舎饅頭を探すが見つからず。少々残念ではあったが、さわらびの湯で買い求めることはでき

たので、よしとする。しばし湖からの景色を楽しみ、先ほどのさわらびの湯まで戻り、バスに乗り飯能へと向かい本日の予定は終了。

鎌倉街道山ノ道 そのⅡ:秋川筋から青梅筋に



鎌倉街道山ノ道、別名秩父道散歩の第二回。第一回の高尾から秋川までの散歩に続き、今回は秋川筋からふたつの峠を越えて青梅筋に進む。途中峠をふたつ越え、最後は多摩川に沿って軍畑まで、およそ13キロ程度といった散歩を楽しむことにする。

本日のルート;JR武蔵増戸駅>平井本宿>平井川・西平井橋>平井川・玉の内橋>玉の内川・車地蔵橋>二つ塚峠>馬引沢峠>吉野街道・明治橋>梅ヶ谷峠入口>山谷橋・町谷橋>吉野梅郷・梅観通り>即清寺>草思堂通り>吉川英治記念館.JR軍畑駅

JR五日市線武蔵増戸駅
中央線で立川を経由しJR五日市線武蔵増戸駅に。まことにつつましい駅舎。駅を出て西に向かい車道に出る。JR五日市線の踏み切りを渡り、最初の交差点が森ノ下交差点。秩父道はここから車道を離れ、左斜めに続く小径となる。民家と畑に挟まれた、どうということのない道ではある。古道といった趣があるわけで な、ない。道なりに進むと先ほどの車道に合流。先に進むと、ほどなく「平井本宿」の案内が。

平井川
平井本宿は文字通り、昔、宿場町であったところ。とはいうものの、道路脇の街並にとりたてて昔の名残といったものは感じられない。平井本宿の信号を越えた辺りから、道は左にカーブし下りとなる。平井川の川筋へと下ってゆくわけだ。坂を下り切ったところが西平井交差点。西平井橋がかかる。
平井川は日の出町と青梅の境にある日の出山に源を発し、日の出町、あきるの市を東流し、あきる野市と福生市の境で多摩川に合流する。そういえば先日御岳山から日の出山を経てつるつる温泉に下ったことがある。つるつる温泉でひと風呂浴びた後バスで武蔵五日市駅まで戻ったが、その道筋に沿って流れていたのが平井川であった。
この平井川筋って、なんとなく気になる。川に沿って神社やお寺が点在する。この西平井交差点から少し西にいったところにある新井薬師は鎌倉期のもの。その横の山麓にある白山神社も結構な規模。本殿までは相当の山道を上らなければならなかった。また、この交差点から少し東にある東光院の妙見宮。これも、本殿のある丘陵上まで長い階段を上らなければならない。
秩父平氏の祖平良文が中興の祖とされるこの妙見様には畠山重忠にまつわる話も残る。北条の謀略により二俣川にて討ち死にした重忠は、その道の途中、この平井の地で突然の光の洗礼。それは、二俣川行きを留めようとする平井の妙見様のサインであった、とか。また、東光院より少し東の尾崎観音様は頼朝ゆかりの寺とも言う。ともあれ、そのうちにこの平井川筋の時空散歩もまとめておこう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


地蔵堂
西平井交差点から平井川に沿って北に進む。ほどなく玉の内橋。このあたりで平井川に玉の内川が合流する。秩父道はこの玉の内川に沿って北に進むことになる。玉の内橋を渡り、北に向かい消防の火の見櫓などを見やりながら川に沿って北に上る。沿道左には「これより花菖蒲の里」といった案内もある。ゆったりとした穏やかな田舎の風景が続く。
「花菖蒲園」らしきものを左手に見ながら進むと地蔵堂のある辻に出る。このあたりが玉の内集落。秩父道は本来、この辻を直進し馬引沢峠に直登した、と言う。しかし現在この道は辻を少し進んだところにある秋川街道下のトンネル入口で行き止まりになっている。秋川街道の西に広がる砂利砕石工場や廃棄物処理場所などの工事のため道が切れてしまったのだろう。

二つ塚峠
地蔵堂の辻を右に折れ二ツ 塚川に沿った迂回路を進む。静かな山道を進むとその先に砕石工場。またその先は木立の中を上り道。ほどなく道は秋川街道に出る。合流点あたりに二つ塚峠への上り口がある。
上 り口は雑草が生い茂りちょっと見つけにくい。また、ブッシュ道嫌いの我が身としては少々躊躇する。が、このブッシュはすぐ終わり、木々の中を進む道となる。道の左側は廃棄物処理場のフェンス。下に処分場が開ける。ガレ場の道を上るとそこは二つ塚峠。標高358m。峠には塚らしきもの。二つ塚の由来となるものだろう。塚のあたりに案内;不治の病の母が生きながら山に埋められる事を願う。それを悲しんだ親思いの娘は、母とともに生きて埋められる事を村人に願う。村人は母娘を偲び塚を供養した、と。

馬引沢峠
二つ塚峠から馬引沢峠に向かう。尾根道はしっかりしている。ほどよいアップダウンを繰り返す尾根道を進むとほどなく峠に。標高340m。南はフェンスが張られ、少々味気ない。フェンスの下の処分場のため南の木々は開かれており。寂しい峠、といった雰囲気はない。
馬引沢峠の名前の由来は畠山重忠から。峠道を愛馬をいたわり馬を下りて引いていった、という故事による。そういえば、先日歩いた世田谷の駒沢って、もともとは駒引き沢、から。上馬は上馬引き沢>上馬、下馬引き沢>下馬、と。もっともこの地で馬を引くように命じたのは重忠ではなく、頼朝であった、かと。

吉野街道
峠を青梅筋に向かって下る。峠近くは一瞬簡易舗装。それもすぐに終わり、山道を馬引川に沿って下る。川といっても沢筋といったもの。北面の日当りのよくない道を下ってゆくと川側に八幡様。八幡様を過ぎ、川沿いに進むとればすぐに吉野街道・清水橋に出る。場所は畑中と和田町の境。秩父道はしばらくこの吉野街道に沿って進む。

梅ケ谷峠入口

道を少し進むと地蔵堂が。赤い帽子とエプロンをした子育て地蔵の姿はなかなか、よい。先に進み和田2丁目交差点に。和田橋への分岐となっているこの交差点の南面にこじんまりとした稲荷神社。吉野街道はここでT字路となっている。
交差点の名前は梅ヶ谷峠入口。梅ケ峠を越えて秋川筋に抜ける道である。この道も秩父道の道筋である。馬引沢峠より後にできた、とか。青梅・二俣尾の辛垣城に籠る三田氏を攻めるために滝山城主の北条氏照がこの峠を越えた。また、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城を攻略するため上杉景勝が進んだのも梅ヶ谷峠であった、とか。
ついでに、三田氏の居城・辛垣城であるが、いつだったか、青梅から結構なアップダ

ウンの尾根筋を進みこの辛垣城まで歩いたことがある。城、といってもなにがあるわけでもない。江戸時代以降に石灰の採掘のため、遺構が相当削り取られている、とも言う。見る人が見れば土塁だの、郭だのが見て取れるのだろうが、門外漢の者には、城跡と言われなければ、ただの山、といったものではあった。

吉野梅郷
峠入口の交差点からほどなく、町谷川にかかる町谷橋に。橋を越えると梅の里。地名も梅郷と言う。先に進むと吉野川の手前の信号から左に折れる道。観梅通りと呼ばれるこ
の道は秩父道の道筋である。少しに進むと右に折れ、吉野街道にそって進むことになる。
吉野の梅郷とは言うものの、本来、吉野といえば桜である。この地も、もともとは桜の名所を目指した、と。明治の頃である。が、桜はうまく根付かず、結局はこの地に育っていた梅をもとにこの地を梅の名所とすべく大量に植樹した、と。青梅・金剛寺に伝わる平将門の梅の木の話をまつまでもなく、昔からここは梅の郷であった、よう。
道の左には「梅の公園」。いつだったか、会社の同僚と梅を愛でるために来た事がある。山の側面が梅の花で埋まる様は、とは言いたいのだが、梅見には少々早く、つぼみといった案配ではあった。
道を進むと下山八幡神社。11世紀中頃の創建と伝えられる古社。梅郷の鎮守さま。八幡様を過ぎると道はT字路にぶつかる。右に折れ吉野街道に戻る。

草思堂
街道を少し西進し、川を渡るとすぐに即清寺。9世紀末の創建。鎌倉期には頼朝の命をうけ畠山重忠が再興した、と。即清寺を越え、吉野街道からひとすじ山際にはいったところに通る草思堂通りを進む。草思堂は作家・吉川英治ゆかりの建物。第二次世界大戦末期の昭和19年から戦後の昭和28年までこの屋敷に住んでいた。『新平家物語』、『宮本武蔵』、『鳴門秘帳』などが有名。

愛宕神社
先に進むと道の左手に愛宕神社。平将門の子孫と称する三田氏の辛垣城を護る社

であった、とか。長い石段を上りお参り。ここからの見晴らしは気持ちよい。青梅の谷筋、辛垣城のある山の稜線などの眺めが楽しめる。本殿脇には奥の院へ続く山道。
いつだったか、御岳山から日の出山を経て、この愛宕神社へと下ったことがある。下りの途中に奥の院があったが、相当荒れていた。ちなみに、この山道はハイキングコースとなっているが、愛宕神社から日の出山への上りは相当厳しそう。日の出山からの下りの途中で外国人のハイカーに出会ったが、相当消耗していた。

軍畑大橋
愛宕神社を離れ吉野街道に戻り、先に進む。軍畑大橋南交差点で右折し軍畑大橋に出る。軍畑は、「いくさばた」と読む。秩父道はここの軍畑の渡しを渡ったり、水量が少ないときは丸太橋を利用した、とか。

軍畑は名前の通り、合戦が行われたところ。鎌倉時代中期の13世紀の中頃から、この奥多摩渓谷(三田谷)を支配してきた三田氏と小田原北条氏の合戦の地。三田氏の居城はJR東青梅駅の北にある勝沼城。この軍畑の北の山に北条なのか、武田なのか、何れにしても侵攻への備えのため支城として辛垣城を築く。永禄6年(1563年)、滝山城の北条氏照が梅ヶ谷峠を越え侵攻し多摩川南岸に布陣。軍畑大橋のあたりと言われる。迎え討つのは三田弾正忠綱秀。両軍激しい合戦の末、三田氏の敗北。辛垣城は落城し、三田弾正忠綱秀は岩槻城に太田氏を頼って逃れる。が、結局その地で自害し、名門三田氏は滅亡した、と。綱秀の残した「からかいの 南の山の 玉手箱 開けてくやしき 我が身なりけり」という歌はよく知られる。
橋を渡ればJR軍畑駅はすぐ近く。橋を渡ったところにある青梅街道の交差点脇から、少々きつい勾配の坂。眼下の多摩川筋などの眺めを楽しみながら坂を上りきり、無人の駅舎に到着し本日の予定終了。