木曜日, 3月 12, 2009

杉並区散歩 ; 善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、石神井川の水源に

いつだったか、善福寺川や妙正川の源流点を訪ね川筋を遡ったことがある。源流点には善福寺池や妙正寺池があった。現在は地下水をポンプアップしているとのことだが、その昔は、湧水であった、とか。

それぞれの湧水点は武蔵野台地の標高50m辺り。武蔵野台地の地下4mから6mあたりを流れる地下水は崖線の切れ目から湧水として流れ出る。流れは分水界を境に別水系となり、武蔵野台地を下る。善福寺川と妙正川の分水界は大雑把に言って青梅街道、といったところだろう。か。街道って、台地上の尾根道を走るのが普通であるわけで、その分水界を境に、善福寺川は青梅街道の南、妙正寺川はその北を流れる。そしてふたつの流れは台地が切れる目白あたりで合流する。


今 回の散歩は、善福寺川と妙正川の分水界を跨ぎ、源流点を繋いでみようと思う。ついでのことなので、石神井川の水源のひとつである石神井公園?・三宝寺池も繋ぐ。で、水源と水源の間は分水界の尾根道だけでなく、神社・仏閣で埋めることにする。水道もない昔、水源の確保は最優先事項である。権威の象徴でもある神社・仏閣がその地を押さえるのは当然のことではあろう、との推論。神社・仏閣も、川筋も何度か歩いたところ。少々視点を変えて歩こうという次第。だぶる箇所は2006年10月に歩いた杉並散歩メモを流用する
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



本日のルート;JR 西荻窪駅下車>荻窪八幡神社>観泉寺薬師堂(薬王院)>今川観泉寺>井草八幡宮>善福寺川源流点>善福寺>井草遺跡>西武新宿線>旧早稲田通り>石神井川>練馬区郷土資料室>石神井城址>三宝寺池>氷川神社>三宝寺>道場寺 />天祖神社>西武新宿線井荻駅>科学と自然の散歩道>妙正寺池>妙正寺>天沼弁天公園>桃園川跡 

JR西荻窪駅下車。商店街を北進む。善福寺川にかかる関根橋を越え、東に折れ道なりに進む。駅から川筋へとはゆったりとした下り坂。善福寺川脇の遊歩道は環七から西から環八まではいい雰囲気の遊歩道が整備されている。
が、環八近くから状況は一変。道幅が急に狭くなり、人がすれ違えない、といったところも出てくる。そういえば、石神井川も同様であった。源流点の花小金井の嘉悦大学のあたりから田無、というか現在の西東京市あたりは遊歩道も整備されてなく、川筋を辿るのに、結構難儀したことを思い出してしまった。

荻窪八幡神社
川筋からゆったりと坂を上ると青梅街道。この尾根を境に、雨水は南北に泣き別れ、となる。荻窪警察署交差点の南に「荻窪八幡神社」。旧上荻村の鎮守さま。寛平年間(889-898年)創祀と伝えられる。永承6年(1051年)、鎮守府将軍・源頼義が奥州東征のとき、この地に宿陣・戦捷を祈願。康平5年(1062年)凱旋するにあたって社を修繕・祝祭を行った、と。文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻略するにあたり軍神祭をとり行う。社前に「槙樹」1株を植栽。「道灌槙」である、と。


観泉寺薬師堂(薬王院)
青梅街道を渡ると信号東に観泉寺薬師堂(薬王院)。観泉寺の境外仏堂。本尊は薬師如来像。秘仏ゆえに公開されない、と。門も閉じられていた。元禄年間(1688~1703)に創設。この地の領主である名門・今川氏の祈祷所となる。1747年頃には観泉寺の末寺。明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)と。また、一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺・玉光山薬王院万福寺、とも言われている。
北に進む。西手に大きな公園。これって、昔日産プリンスの荻窪工場があったところ。現在は更地となり公園、に。件のリストラの影響か。この地は旧中島飛行機製作所跡。大正14年にエンジン研究工場として建設。太平洋戦争中の世界の名機・ゼロ戦のエンジンもここで開発された。

今川観泉寺
道なりに北に進むと山門に突き当たる。今川観泉寺。この地の領主・今川氏ゆかりの菩提寺。「慶長2年(1597年)、中野成願寺の和尚が下井草2-25に観音寺を創立。正保2年(1645年)に領主となった今川範英(直房)が現在地に移し観泉寺と。慶安2年(1649年)に将軍家光公より、寺領十石の朱印状が下付された。山門を入ると正面に立派な本堂。手入れの行き届いた庭。いい雰囲気のお寺さま。
この今川氏は駿河の名族。今川義元が織田信長に討たれてから衰退していたところ、名門好きの家康に旗本として召抱えられ、正保二年(1645)範英の代に杉並区今川付近に知行地を与えられた。家光の命により、朝廷におもむき家康の御霊に「東照大権現」の称号を授与されるに、多大の功績があった、ため。5ケ村の加増を受けた、とか。
石高は2500石。一万石以下ではあったが、名族故に、大名の格式を得て領内の青梅街道沿いに陣屋を構えた。が、この陣屋も長くは続かず、宝永四年(1707)に領内の開拓が一段落したとのことで陣屋を破却して耕地に払い下げられた。大名の格式は財政負担が重く、少ない石高では陣屋を維持できなかった、というのも理由のひとつ。

四面道交差点から2つ目の交差点に「八丁」というところがある。それは陣屋の敷地が八町あり、その跡地付近であった、から。陣屋がなくなってからは、観泉寺の境内で年貢の取立や裁判なども行われていた。つまりはこのお寺は代官所としての役割も兼ねていたよう。今川地区。地名の由来は「今川氏」にあるのはいうまでもない。
青梅街道から観泉寺あたりまでは見た目にはほとんどフラット。地図でチェックすると青梅街道から妙正寺川の源流点まで1キロ程度あるようであり、結構広い台地となっているように思う。

井草八幡宮
今川3丁目・4丁目を道なりに進み青梅街道戻る。早稲田通りと青梅街道が交差する井草八幡前交差点に。道を隔てて鬱蒼とした鎮守の森。「井草八幡宮」。往古、「遅ノ井八幡」と呼ばれた、旧上下井草村の鎮守様。この地には縄文時代から人々が生活していた、と。すぐ隣の善福寺池の豊富な湧水がポイントか。境内地及び周辺地域からも縄文時代 (約四千年前)の住居址が発見され、また多くの土器や石器が発掘されて、「井草新町遺跡」と呼ばれている。南に善福寺川の清流を望む高台にあり、中世初頭まで宿駅として、また交通の要衝として栄えた。

神社としての体裁がととのったのは平安末期。はじめは春日社をおまつりしていた。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州征伐の途次、戦勝を祈願して松樹を手植す。以来、八幡さまを主祭神と。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏攻略の折り、当社に戦勝を祈願したとの言い伝えもある。江戸時代になると三代将軍家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営せしめ、慶安3年(1649年)に朱印領六石を寄進。また歴代将軍何れも朱印地を寄進し江戸末期の 萬延元年に及んでいる。 今川家の氏神さまでもあった。

善福寺川源流点

井草八幡を離れ、台地道を善福寺公園・池に下る。善福寺川の水源。古来より武蔵野台地からの湧水地として知られる。池の西南部に弁天様(市杵島神社)をまつった小島。そのそばには「遅野井の滝」。源頼朝が奥州討伐からの帰途、この地に滞在。折からの旱魃で将士、渇きに苦しむ。頼朝、弁財天に祈り、7箇所地を穿つ。将士、渇きのあまり、「水の出ること遅し」とて、「遅ノ井」と。島の弁天さまは江ノ島弁才天をこの地にもってきた、もの。現在の「遅野井の滝」は千川上水から導水した人工の滝。昭和5年に町営水道の深井戸が近くで掘られて以来、泉は枯れた、と。
千川上水、って武蔵境の境橋のところで玉川上水から分流したもの。千川通りを進み、井草八幡のちょっと北西の関前交差点で青梅街道と交差し、北東へと進む。現在玉川上水から千川上水には1日1万トンの水が導水されているようだが、そのうち7000トンが善福寺へと流されている、ということである。

街道は通常、尾根道を通る、と上で述べた。同様に上水・用水といった人口の水路も通常、付近でもっとも「高い」ところ、つまりは尾根道に沿って開削される。水は高きところから低きところに流れるわけで、分水するには高いところを通っているのが至極もっともなわけである。つまりは上水路もほぼ尾根道と考えてもそれほど間違ってはいないと思う。
地図を眺めてみると、青梅街道と千川上水の尾根道の間の谷間を流れるのは妙正寺川水系。千川上水の北は石神井川水系、といったところ、か。少々大雑把ではあるが、「にぎり」としては結構正鵠を得ている、かも。


善福寺
善福寺公園の周囲を歩き、ゆるやかな坂道を上り青梅街道へと向かう。途中に善福寺。もとは今川観泉寺の境外仏寺で、福寿庵と呼ばれていた。善福寺となったのは昭和になってから。ということは、中世のころ、この地にあった善福寺ではないわけで、では本物の善福寺は?幕末に米国公使間のあった麻布善福寺の奥の院であった、といった説もあるが、よくわからない。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


井草遺跡
青梅街道に戻り、井草八幡前交差点を越え、上井草4丁目に進む。青梅街道からのゆるやかな下り坂を進み、ふたたび都立杉並工業高校脇のゆるやかな坂を登る。これって、千川上水の通る台地の尾根道への上りであろう。
坂の途中に「井草遺跡」の碑。メモ;上井草4丁目13を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)の遺跡。草創期の頃は、河川流域の湧水周辺のゆるやかな斜面に小規模な集落を形成する例が多く見られる。この遺跡もそのひとつで、井草川の西側斜面に位置しています。

うむ?井草川?ということはこのあたりに井草川跡があるやも、と、地図をチェック。青梅街道にほど近い、「切り通し公園」あたりから、いかにも流路のような道筋が続いている。道に沿って三谷公園、道潅橋公園、上瀬戸公園など、いくつもの公園が続いている。川筋を利用した緑道であろう。ということで、「切り通し公園」に戻る。

切り通し公園

結構な勾配のある公園。谷頭あたりから昔、湧水が湧き出ていたのであろう、といった雰囲気。縄文時代の遺跡もあった、とか。公園下から、緑道が続く。元の井草川の跡である。切通し公園を源流点とする井草川は妙正寺川の水系。青梅街道を分水界に、数百メートルを隔ててふたつの水系に分かれている。
緑道を進み道潅橋公園に。太田道潅に由来のあるのだろう、とは思う。実際この公園の南、早稲田通りの今川3丁目交差点のあたりは「陣幕」と呼ばれていたらしい。道潅が豊島氏の居城・石神井城を攻めるに際し、この地に陣を敷いた、とか。

この切通し公園も、「道灌の切通し」とも呼ばれる。石神井城主・豊島泰経が井草八幡参拝の途上、この切通しを通る。で、この地で道灌の伏兵に襲われ、落命。王子の地・平塚城から石神井城に急いだ豊島泰明であるが、道灌軍に攻められ、結果落城することに。そのきっかけとなった地、と思うと少々の感慨、も。もっとも、これは伝説。実際、道灌との石神井城攻防戦に豊島泰経が登場しており、真偽のほど定かならず。

西武新宿線

歩を進め、上井草8丁目を過ぎ上井草2丁目。四宮森公園を過ぎると西武新宿線に当たる。道はここで切れる。迂回し西武新宿線の北に回り、さきほどの行き止まりのあたりまで戻る。

切通し公園から流れ出し、北東に上ってきた井草川はこのあたりで流路を変え、井荻駅方面に向かって東に進み、駅の東で南に下り、妙正寺川に合流する。切通し公園から井荻駅、そして妙正寺池を結んだちょっとした舌状台地に沿って流れているのだろう。北は千川上水の通る尾根道となっている。お散歩はここでいったん井草川から離れ、石神井川へと進む。

旧早稲田通り

ゆったりとした上りを進むと井草4丁目交差点。千川上水と新青梅街道が交差する。街道を北にこえると、道はゆるやかに下りはじめる。ゆったりとうねっている。石神井川への谷筋に向かっているのだろう。
ほどなくして旧早稲田通りに合流。本天沼2丁目で早稲田通りかわ分かれ、北西へとのぼる。所沢街道とも呼ばれたようだ、もともとはこちらがメーンルーとであったのだろうが、早稲田通りが本天沼から井草八幡方面へとのびたため、「旧」という名称と「なったのであろう。

石神井川
旧早稲田通りを少し進むと石神井川に架かる豊島橋に。石神井川の名前の由来は旧石神井村を流れていた、から。石神井村、現在の石神井のつく地名以外に、谷原とか高野台、そして関町といった、地域をカバー。大雑把に言って、笹目通りから西の練馬区一帯といったものであった、よう。

川を歩くとき、水源が気になる。目黒川は北沢川と烏山川が国道24号あたりで合流し、それより下流は目黒川となる。北沢川にも烏山川にも水などなにもないのだが、目黒川で急に水が流れ出す。この水源は下落合の下水処理場で高度処理された下水とのこと。延々地下を導かれ、この地で放流される。?川も同様であった。東京工大のある大岡山のあたりで放流される水は、これも下落合処理場からの導水であった。工場からの高度処理排水が水源となっている川もあった。東久留米の黒目川である。東京コカコーラボトリングからの処理排水から下流になると、水曜が多くなる。

先ほど訪れた善福寺川は千川上水からの導水による善福寺池を水源とする、とメモした。千川上水は玉川上水の分水である。で、この玉川上水は、小平までは羽村で多摩川から取水された水ではあるが、その水は小平からは村山浄水場に導水され、小平から下流は清流復活事業により昭島にある多摩川上流処理場で高度処理された下水がながれている。ということは、善福寺川の水源は昭島周辺の家庭や工場の排水、ということであろう、か。

石神井川はどうだろう。源流地点の嘉悦大学あたりには水はほとんどなかったし、西東京のあたり家庭排水が流れ込んでもいたようだし、水量がふえてくるのは武蔵関公園の富士見池のあたり。池の水はポンプアップだが、近くの早稲田大学のグランドからの湧水は現在も結構豊富、とか。また、この石神井公園の三宝寺池も水源のひとる。ポンプアップによって地下水をくみ上げている、と。

お散歩で東京近辺の川筋を結構歩いたが、自然の湧水が源流となっていたのは、あまりなかった。東京では、東久留米の落合川、国立の矢川、町田の鶴見川あたりが記憶に残る。それだけに、「自然」な川の流れが思いのほか有難く思う。寄り道が過ぎた。散歩に戻る。

練馬区郷土資料室

豊島橋を渡り、禅定院前の豊島橋交差点を西に折れる。道の北に台地。その向こうには石神井池が広がる。石神井池は人口の池。かつては三宝寺池からの水路が開かれ、田圃が広がっていたのだが、その水路を堰止め、池とした、と。

しばらく進み石神井小前交差点に。南北に走る道は、三宝寺池と石神井池の間を通る。交差点を少し北に石神井図書館。その地下に練馬区の郷土資料室がある。少々、つつましやかな施設。とはいうものの、いつだったかここを訪れたとき「千川用水」の資料を手に入れ、それをもとに、千川筋や千川が養水した谷端川などの散歩が楽しめたわけで、施設の大小に関係なく、有難い場所ではあった。

石神井城址
資料室を離れ、三宝寺池二向かい、ゆるやかな坂を上る。坂の途中で西に折れる。道場寺、三宝寺の裏を進む。小路の北の台地が石神井城址。鎌倉末期、豊島泰経の居城跡、である。保護フェンスがあり中には入れない。空堀と土塁らしきものを保護フェンス越しに眺める。

豊島泰経って、太田道潅との戦いに敗れた平安以来のこの地の名族。道灌との合戦の経緯;1477年、道灌軍は豊島氏の属城である平塚城を攻める為に江戸城から進軍。平塚嬢は、上中里にある平塚神社のあたりとにあった、と言われる。泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出陣。が、道灌軍は転じて石神井城方面に侵出。江古田・沼袋付近で両軍は激突(江古田原・沼袋の戦い)。豊島軍は敗れ、この石神井城に逃げ込むが落城。豊島泰経は,落城後,平塚城(北区平塚神社)に敗走。その翌年の1月25日に道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げた、と伝えられる。
そもそも何故、道灌と豊島泰経が争うことに成ったか、ということだが、遠因は関東管領と古河公方の争い、そして関東管領内部の内紛。元は鎌倉公方、つまりは、室町幕府の関東10カ国の最高責任者と、それを補佐する管領という立場ではあったが、京都の将軍家の下風に立つことを潔しとしない鎌倉公方と京都側に立つ関東管領が争い、結局公方が破れ、鎌倉を逃れ古河(茨城県古河市)で古河公方と称す。

道灌は関東管領の一族・扇谷上杉の重心。豊島泰経も関東管領山内上杉氏の重臣。もとはともに管領側の武将。同じ管領側が敵味方に分かれたのは、山内上杉家の重臣、長尾景春が跡目相続の恨みで主家に反旗を翻し、鎌倉公方から古河公方に移ったことによる。その際、豊島泰経は長尾景春に与力。泰経の妻が景春の妹、といった説もあり、両者の結びつきは強かったとも、新参者の道灌の活躍が名族豊島氏に目障りであったとか、諸説あり。ともあれ、泰経が古河公方側、というか長尾景春側についたため、関東官領の大田道潅と戦うことになった、ということだ。

後日談。大田道潅は出る杭は打たれる、ということか、主家扇谷上杉家に疑念をもたれ謀殺される。その後、後北条(ごほうじょう)氏、上杉氏、足利氏、長尾氏、太田氏による戦乱の中、扇谷上杉家は力を失い滅亡。一方山内上杉は越後に逃れ、管領職を重臣・執事の長尾氏に。長尾景虎こと、上杉謙信が関東管領として関東を窺うことになる。


三宝寺池

石神井城址のある台地を下ると三宝寺池。野趣豊かな池。ボートが浮かぶ公園といった雰囲気の石神井池とは少々赴きが異なる。昭和30年頃までは、結構湧水があったようだが、最近は地下水をポンプアップしている、とのこと。水面には葦なのだろうか、水草が茂っている。コウホネやハンノ木なども池中央の浮島に茂っている、と。
コウホネって渋谷川水系を辿っているとき、コウホネ(河骨)川に出合い、はじめて知った植物。河骨川って、童謡「春の小川」の舞台になった小川である。ハンノ木も同じ。荒川沿いを歩いているとき、園昔ハンノ木があった、といったことが語られていた。こういったきっかけでもなければ、花鳥風月を愛でる情感に乏しい我が身としては、一生知らなかった「単語」ではあった、ではあろう。

氷川神社
池の周囲をのんびり歩き、再び石神井城址のある台地へと戻る。城址の西に氷川神社。創建は室町時代。豊嶋氏が武蔵一宮である大宮の氷川神社から勧請したもの。石神井郷の総鎮守であった。

三宝寺
氷川神社を離れ旧早稲田通りへと台地を下る。通りに沿って三宝寺。由緒ある真言宗の寺。品格のある風情。ここにも将軍鷹狩の折って由緒書き。御成門もあるし、徳川家の祈願所でもある。もとは先ほど訪れた禅定院のところにあったようだが、豊島氏を破った太田道灌の命により、この地に移った。ちなみに三宝、って「仏・法・僧」。悟りを開いた人である「仏」、仏の教えである「法」、法を学ぶ仏弟子「僧」ということ。

道場寺
三宝寺能登なりに道場寺。豊島氏の菩提寺。開山も14世紀中頃と歴史も古い。建物は結構新しい。山門や三重塔は昭和40年代に建てられたものではあるが、落ち着いた雰囲気。本堂は唐招提寺を燃したもの、とのこと。

天祖神社

石神井池、というか三宝寺池巡りを終え、井草川緑道に戻る。石神井川の谷筋から千川上水の通る台地の尾根道に戻る。途中、下石神井6丁目に天祖神社。天祖神社って、昔は神明社と呼ばれていたが、明治の神仏分離の際に天祖神社となった例が多い、ここもその例にもれず、といった案配。
神明とは伊勢信仰、つまりは皇室の祖先神である天照大神が主神であり、明治の御代の皇威盛んなり折、皇室に対し「不敬」であろう、と自主規制した結果、天祖と改名したようだ(『江戸の町は骨だらけ;鈴木理生(桜桃書房)』)。

西武新宿線井荻駅

千川上水の尾根を越え、ふたたび井草川の流路のある谷地へと、ゆったりとしたうねりを下る。再び西武線近くの緑道に。すぐ東に矢頭公園。この公園越えると再び西武新宿線に交差。南に下ることになる。線路を渡り柿木北公園を過ぎると環八。環八を越えると西武新宿線井荻駅に。

科学と自然の散歩道

井荻駅前に「科学と自然の散歩道」の案内図。井草川遊歩道をノーベル賞受賞科学者・小柴先生の受賞記念事業としてつくられたもの。小柴先生の日常の散歩コースであったらしい。井草川遊歩道・妙正寺川・妙正寺公園・科学館をつないだ散歩道になっている。下井草5丁目・4丁目を下り、早稲田通りを過ぎると妙正寺公園にあたる。

妙正寺池
井草川は妙正寺池に流れ、この池の湧水を合わせ妙正川となって下ることになる。妙正寺池は昭和30年頃までは湧水が溢れていた、とか。池の東は台地となっており、いかにも湧水点、といった雰囲気。現在は地下水をポンプアップしているのは、井の頭池、三宝寺池、と同じ。

妙正寺川の始点に。妙正川の案内があった。「妙正寺川は、千川上水からの水もあつめ、神田川に合流する9キロなにがしの1級河川である」、と。北の千川上水から分水し、井草川を介して養水していたのだろう、か。

いつだったか、この始点から神田川との合流点まで歩いたことがある。川筋の道は、切れたり繋がったりと全面的に遊歩道が整備されているわけではないのだが、

 鷺宮とか沼袋とか、いかにも往時の湿地帯をイメージさせる地名にそって蛇行する川筋、弥生時代の遺跡の残る平和公園や、哲学堂の台地、目白の台地など、結構地形のうねりを楽しむことができる。

妙正寺
妙正寺池を離れ、公園に続く台地の上にある天祖神社に。先ほどの天祖神社と同じく、昔は神明社と呼ばれていたが、明治になって改名。その南に妙正寺。品格のある日蓮宗のお寺。慶安2年(1649年)、将軍家光が鷹狩りの際にお参りし、朱印地を寄進したことから、御朱印寺と呼ばれた由緒あるお寺だった。

天沼弁天公園
妙正寺の後は、一路JR荻窪駅に進む。清水地区を成り行きで進み天沼に。東京衛生病院裏手に天沼弁天公園。いつだったか、桃園川の源流点を探して歩いたときに来たところ。当時は、お屋敷の更地工事の最中。西武グループ総帥であった堤氏の「杉並御殿」の跡地であった、かと。現在は公園となり、池がつくられていた。
桃園川の水源であった弁天池はお屋敷が建てられたとき埋め立てれたようだが、再びそれらしき池として復活させたのであろう。公園内には杉並区の郷土歴史観の分館もある。

「天 沼」という地名の由来はこの弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。
天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。

『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。

桃園川跡

今日は、善福寺川、石神井川、妙正寺川の水源と、その間の尾根道・分水界を巡る散歩ではあったのだが、最後で思いもよらず桃園川の水源にも出合った。この天沼の地から阿佐ヶ谷、高円寺と大久保通りに沿って中野を下り、新宿区との境で神田川に合流する神田川水系の川。現在覇すべて暗渠の下水幹線とはなっているが、小径といった緑道が阿佐ヶ谷から下流に整備されている。
公園からは如何にも水路跡らしき道を辿り、天沼八幡さまなどちょっと立ち寄りながら、JR荻窪駅に到着。本日のお散歩を終える。 




J

金曜日, 3月 06, 2009

比企散歩 ; 東松山城と吉見百穴を辿る

東松山城と吉見百穴に

会社の同僚が埼玉の小川町に遊び、ひょんなことから腰越城に上った、と。比企地方に点在する古城のことなどを、あれこれ話す。そのあたりで代表的な古城といえば松山城。前々から気になっていたお城でもある。
松山城、って散歩の折々に登場する。この城を巡って、関東管領・上杉氏、小田原後北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などが、争奪戦を繰り返す。要衝の地であったのだろう。それではと、同僚共々、比企の里を歩くことにした。
松山城のほか、周辺の見所をチェック。城のすぐ隣に吉見百穴がある。古墳時代後期の墳墓である。この比企地方には800基以上の古墳がある、と言う。
本日のお散歩、松山城だけでなく、いくつか古墳も併せて歩けそう。比企丘陵地帯の端から低地へと、室町時代と古墳時代を重ね合わせた時空散歩を楽しむことにする。



本日のルート:東武東上線・東松山駅>箭弓稲荷神社>国道407号線・日光脇往還>将軍塚古墳>新江川>古凍>おくま山古墳>市野川>東山道武蔵道>市野川の冠水橋>松山城跡>岩室観音堂>吉見百穴>東松山ウォーキングセンター

東武東上線・東松山駅

東武東上線に乗り、東松山に。このあたりの武将のことを「松山衆」と呼ぶ。町名も松山町、学校も松山中学とか松山高校などが残る。松山市となるのが自然なのであろう。それが、東松山となった経緯は、既に松山市があった、ため。愛媛の松山市である。自治省は同一の市名は認めなかった。郵便番号もない当時、同一市名で混乱することを避けたのであろう、か。で、愛媛の松山の東にあるので東松山、と。ちなみに、東久留米は九州の久留米市があったため、また、東大和は神奈川の大和市に対して東(京)の大和、ということで付けられた。

駅前で観光案内所を探す。見当たらない。駅前の交番で尋ねる。どうもそれっぽい施設はない、とのこと。東松山の名所巡りの地図を頂く。感謝。が、実のところ、駅を東に進んだところに「東松山ウォーキングセンター」があった。わかったのは、お散歩の最後の最後。あとの祭りではあった。

箭弓稲荷神社
駅前東口に大きな鳥居。地図を見ると西口に大きなお宮様がある。箭弓稲荷神社。この神社の参道が鉄路によって断ち切られたのか、とも思ったのだが、それは直接関係なさそう。市の観光協会がつくった、とか。駅前の再開発のため取り壊される、ようである。新駅舎も完成間近であった。

西口に廻り、箭弓稲荷神社に。創建は和銅5年(712年)。当時は小さな祠。立派なお宮様になったきっかけは11世紀前半、平安時代の中頃。案内によれば、下総の城主・平忠常が謀反を起こす。武蔵の国を乱し、川越まで押し寄せる。この動きに朝廷は源頼信をして、忠常の追討を命じる。源頼信は討伐の途中、この地・野久ケ原の野久稲荷に陣を張る。夢に箭と弓。これこそ吉兆と直ちに平忠常を攻め、これを破る。勝利を感謝し、神社を立て替え、野久稲荷を箭弓稲荷とした、とか。
以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主などの庇護を受ける。また庶民の信仰も厚く、特に享保年間はその隆盛を極め、江戸の日本橋小田原町の「箭弓稲荷江戸講中」を中心に江戸からの参拝も盛んに行われた。その数、百以上の講があったと言われる。
平忠常、ってあまり馴染みのない名前、である。チェックする。祖父は平良文。平将門の叔父。良文は将門のよき理解者であった人物。なんとなく時代背景が見え てきた。また、追討にあたった源頼信であるが、この勝利がきっかけともなり、坂東の武者が源氏を頭領として主従関係を結ぶようになった、と。八幡太郎義家は頼信の孫にあたる。

稲荷神社って、全国で3万とも4万ともあると言われる。神社の中では最も多い。「稲成り」、として農業の神さま、また、「居成り」として国替えを逃れ、領地安泰を願う武家の屋敷神として敬われたのであろう。
散歩の道々、お稲荷さんによく出合う。が、いまひとつよくわからない。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ(桜桃書房)』によれば、イナリには神様系と仏様系がある、と言う。神様系は伏見稲荷の流れ。京都伏見区稲荷山の西麓にある。有力帰化人である秦氏の守り神。狐が眷属となっているのは、狐は害虫を食べてくれる、から。稲の稔りの「守護神」としては如何にもわかりやすい。
仏様系とは京都の東寺の流れ。東寺建設の折、秦氏が稲荷山の木材を提供したことを謝し、稲荷神を東寺の守護神とした。仏教の荼枳尼天(だきにてん)が狐に跨がっていたということも関係したのか、荼枳尼天が稲荷神と習合。真言宗の普及とともにお稲荷様も全国に広がっていった、とか。豊川稲荷がこれにあたる。


「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)


壮麗な権現つくりの本殿裏に元宮。小さな祠の前に狛犬ならぬ、駒狐(?)。口に飾物らしきものをくわえている。これって何?と、同僚の指摘。玉に跨がっている狐もいる。チェックすると、玉は宝珠、飾物は鍵であった。鍵の替わりに巻物をくわえるものもいる、とか。鍵の形状は少々壊れやすく、ために巻物にした。ちなみに、この珠と鍵、って花火の、「鍵屋!玉屋!」、の起こり。お稲荷さまを信仰する花火問屋がお稲荷様が口にくわる鍵を見て屋号を「鍵屋」に。鍵屋から分家した問屋は「玉(珠)屋」とした。

国道407号線・日光脇往還
箭弓稲荷神社を離れ、次の目的地である将軍塚古墳に向かう。南東に3キロ弱といったところ。東武東上線を交差し、国道407号線に205号線がT字にあたる若松町1丁目交差点に。交差点で205号線の一筋南に、南東に下る道を進む。このあたり下野本の地は、河岸段丘面と行った雰囲気。
少し進むと再び205号線。バイパスであろう、か。八幡神社脇を進むと再び国道407号線にあたる。地図で見る限りでは、先程、若松町1丁目交差点のところを走る国道407号線がバイパスのようである。
この国道407号線、東松山あたりまでは八王子から日光へと続く、日光脇往還の一部となっている。江戸時代、八王子の千人同心が日光勤番に赴くため歩いた道。八王子から入間までは国道16号線。入間から東松山までは国道407号線。東松山から先、行田まではは国道66号線となっている。
八王子千人同心って、元は武田家の遺臣。徳川開幕の頃は、甲州口の防衛を担当していたが、泰平の世になると、その必要もなくなり、日光東照宮を護るのが、その仕事になった、とか。

将軍塚古墳
国道407号線の先に、林というか森というか、雑木林が見える。将軍塚古墳であろうと、407号線を越え、斜めに小径を入る。将軍塚古墳があった。誠に大きい。ちょっとした丘といった風情。全長115mの前方後円墳。行田市の「さきたま古墳群」にある二子山古墳に匹敵する規模。案内をメモ;全長115m、高さは前方部で7m、後円部で12mある。学術調査は未だ行われていない。将軍塚古墳を中心に東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群。西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布している。このような古墳の分布は、古墳時代既にこの地方が高度の社会的発展をとげていたものである、と。
比企地方には古墳が多い。845基もある、という。群馬よりの児玉地方の825基、大里地方の594基よりも多い。ちなみに南の入間地方は407と言う。このあたり一帯には、古墳をつくることのできる政治的・経済的な力をもつ有力者が誕生していた、ということであろう。
『埼玉県の歴史;小野文雄(山川出版者)』によれば、西日本で古墳がつくられるようになったのは4世紀に入ってから。埼玉県で古墳がつくられるようになったのは、5世紀になって、から。大和朝廷の影響がこのあたりまで及んできた、ということだろう。東松山では大谷地区にある雷電山古墳がその頃のもの。規模はそれほど大きくない。
県内に古墳が急増するのは6世紀以降。とくに6世紀の始め頃、行田市のさきたま古墳群に見られるような大型古墳が出現。全長120mの稲荷山古墳、140mの二子山古墳といったものである。この将軍塚古墳は6世紀末頃につくられたと言われる。
古墳はいづれも大小河川の流域にある台地・丘陵・自然堤防上に分布している。河川流域に発達した肥沃な耕地を押さえる立地である。広い耕地を所有しなければ、経済力をもてないし、経済力がなければ政治力ももてないわけで、当然と言えば当然のことで、ある。そういった気持ちで地形を眺めると、自ずと違った「風景」が見えてくる。
古墳に上る。後円部の頂きに「利仁神社」。藤原利仁。上野介、上総介、武蔵守を歴任し、延喜15年(915年)には鎮守府将軍となった、と言われる。「将軍塚古墳」と呼ばれる所以である。平安時代の代表的武人として多くの伝説があり、『今昔物語』にも登場している。芥川龍之介の『芋粥』はこの今昔物語のこの題材を小説にしたものである。
ここに利仁神社があるのは、古墳北側にある無量寿寺が武蔵守の時代の陣屋跡と伝えられているから、か。もっとも、この無量寿寺って、藤原利仁の子孫と称する野本氏の館があったところ。地名にも残るわけだから、結構な有力者であったのだろうが、この野本氏が先祖を祀るためにこの利仁神社をつくったとも言われる。
「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)

新江川

将軍塚古墳を離れ、次の目的地、古凍地区に向かう。西に2キロ弱といった、ところ。新江川に沿って進む。新江川の源流点は関越道・東松山インター東、国道254号線脇にある不動沼。ここから南東に3キロ強流れ、古凍地区で市野川に合流する。川の北は台地、南は低地となる。

古凍
しばらく歩き、国道254号線を越える辺りが古凍地区。古代、武蔵国比企郡の郡衙があったところと言われる。郡衙って、大和朝廷の力が全国に及んだときに設けられたお役所。国府の出先機関として郡の行政をおこなっていた。
また、時代を遡る古墳時代、このあたりは屯倉(みやけ)の地であったとも言われる。屯倉、って朝廷の直轄地。国造(くにのみやっこ)と呼ばれる地方豪族の所有する土地が朝廷のものとなったのは、「武蔵国造の乱」がきっかけ。
「武蔵国造の乱」って、武蔵国造の座を巡って笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が争った事件。笠原直使主は鴻巣あたりを本拠とした豪族。小杵は南関東、多摩川流域を本拠としたとも言われる。が。定かではない。で、形勢不利の小杵は上毛野国(群馬)の小熊に援助を求める。それに対抗し、笠原直使主は大和朝廷に助けを求め、勝利を得る。国造となった笠原直使主は、救援へのお礼として四カ所を屯倉として朝廷に献上したとのこと。そのひとつ、横渟(よこぬ)がこのあたりとの説がある。

「武蔵国造の乱」は単に国造の地位をめぐる地方豪族同士の争い、というだけでなない。豪族同士での解決がつかず、大和朝廷の力を借りなければ争いは解決できなかった、という事件。言い換えれば、地方豪族が大和朝廷の力に屈したという事件、とも言えよう。屯倉として朝廷に献上されたと言われるこのあたりは、その象徴のように思える。ちなみに屯倉を献上した笠原直使主って、さきたま古墳群に関係あるとの説も。稲荷山古墳から発見された鉄剣に記された人物が笠原笠原直使主である、とも言われている。
古凍って名前が如何にも気になる。古郡が転化した、との説もある。福島の郡山、福岡の小郡など、「郡」が郡衙の地を示す例があるから、ということだが、はっきりしない。


おくま山古墳
国道254号線を少し東に入った所に等覚院。重要文化財の木造阿弥陀如来像があるとのことだが、拝観できるわけもない。落ち着いた境内で少しのんびりとし、お寺の北西、すぐのところにある「おくま山古墳」に。このあたりは、古凍・柏崎古墳群と呼ばれるように、十数基の古墳が点在する。おくま山古墳は、全長62m、後円部の径が41・5mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と言われる。前方部分は削平されており、後円部に鎮座する祠の参道となっている。

市野川

古凍地区を市野川へと東に進む。道なりに進み川の傍に。川床との比高差が結構ある。この柏崎・古凍地区って、市野川に沿って舌状に延びた台地であろう。市野川の堤に下りたいのだが、道がない。崖線といった台地端を下りるわけにもいかず、堤への道を探して、台地端を北に進む。少し歩き、市野川終末処理場を越えた辺りで堤への道にあたる。
市野川の源流は寄居町。小川町、嵐山町、東松山市、吉見町、川島町を経て、北本市あたりで荒川に合流する。全長35キロ程度。堤防に上り、少々休憩。どのあたりか定かではないのだが、このあたりで昔の東山道武蔵道の遺跡が見つかった、とか。

東山道武蔵道
西吉見条里2遺跡。2002年、朝日新聞の西埼玉版に「古代の官道と橋脚跡吉見で出土 多彩な土木技術」という見出しで紹介される。道幅は10mほどもあり、東山道武蔵道ではないか、とも言われる。発見された場所が南吉見という低湿地であり、そんなところを主道が走るわけもないから、支道ではないか、との説もあり。定説は未だ、ない。

東山道武蔵道は、武蔵国の国府に通じる古代の官道。東山道は律令時代の行政区域。当時武蔵国は東海道ではなく、東山道に属していた。武蔵道のルートは下総国を通るもの、古利根川沿いの微高地を通るものなど諸説ある。埼玉を通るルートもそのひとつ。
いつだったか、国分寺で東山道武蔵道の遺構に出合ったことがある。所沢市の久米地区、柳瀬川のあたりでも、東山道武蔵道と言われる「東の上遺跡」に出合った。ともに道幅10mを越える堂々たる古代の幹線道路である。
所沢あたりから先は、これといって遺構が発見されていない。が、この西吉見遺跡が、武蔵道の遺講としても、それほど違和感は、ない。このあたりには多くの古墳もあり、また、延長線上には埼玉古墳群といった巨大古墳群もある。っまりは古墳時代から開かれたところである。大和朝廷が東国を支配する時代になったとき、古代官道が通っても十分に納得感はある。
比企丘陵の笛吹峠には鎌倉街道が毛呂山町、鳩山町から小川町に向けて走っている。この比企の地は、古墳時代、古代から鎌倉時代にかけて幹線道路が通る「開かれた地」であったのだろう。


市野川の冠水橋
堤防下の低水路に冠水橋が見える。流川橋と呼ばれる。増水時に橋桁の上を水が流れ、橋が沈む、ため。四国で四万十川では沈下橋と呼ばれていた。京都では流れ橋、とか潜没橋とも。潜水橋とも呼ばれる。
何故だかわからないのだが、冠水橋って、気持ちが和む。Dreams ComeTrue"のヒット曲『晴れたらいいね』の一節に「昔みたいに 雨が降れば 川底に 沈む橋越えて 胸まである草分けて」って箇所があるけれど、小川に架かる「昔の橋」風の冠水橋には、なんとなく子供のときの懐かしい記憶、郷愁を感じさせるものがあるの、かも。
冠水橋は埼玉では荒川水系に残る。全部で38基あると、言う。利根川水系からは姿を消したようだ。荒川水系で前々から気になっている冠水橋としては、熊谷市の久下橋がある。全長282m。車も通る。久下って、荒川の西遷事業、つまりは、元の荒川の流路を西に流路を変えるため、荒川を締め切ったところ。荒川水系から吉野川・入間川水系へと瀬替えしたところに冠水橋が架かっている。そのうちに歩いてみたい。

松山城跡
川の堤防を進む。市野川の傍に台地がせまる。「比企丘陵の東端、南を低地、西を市野川の流れに囲まれた要害の地に松山城は聳える」、というフレーズを、大いに納得。
冠水橋・流川橋を東に渡り、土手道から台地下の車道の出る。台地下を少し進むと松山城跡への上り口。標高60m程度。上り道は整備されておらず、自然のまま。土塁や空堀といった造作を眺めながら進む。切り通しの虎口らしき場所を過ぎると台地上に。それほど広くない。真ん中あたりに礎石跡。神社でもあった雰囲気。主郭があったことろ。
主郭の東に城址碑。このあたりは物見櫓があった、とか。その先は、切り立った空堀。深さ10mほどもある。空堀の先に二郭。ふたつの台地は木橋で結ばれていたようだ。
二の丸の先には春日郭、三の丸、広沢郭と続く。それぞれ深い空堀で隔てられ、それぞれ木橋が掛けられていた、と。
松山城の築城は応永年間、というから室町時代、14世紀の末頃。扇谷上杉の家老であった、上田氏の築城と伝えられている。この松山城、武蔵と上州を結ぶ戦略上の要衝であった、と言われる。とはいうものの、文字面だけでは今ひとつリアリティが乏しかった。が、実際にこの地を歩き、古墳時代から開けた一帯であった、とか、関東管領・山内上杉の本拠である上州、そして扇谷上杉の居城・川越城とは指呼の間である、とか、荒川や利根川の低地を隔てた、言わば、「川向こう」に古河の地がある、といった地理的関係が実感できると、この城が戦略上の要衝であったことが十分に納得・実感できる。

扇谷上杉氏の時代
松山城を巡る関東管領・上杉氏、小田原後北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などの争奪戦をまとめる;文明6年(1474年)。太田道灌が五十子(本庄市)に向かう途中、上田氏の支配する小河(小川市)に一宿したとの記録がある。山内上杉家の家宰筋の家柄でありながら、その主家に反旗を翻した長尾景春に対抗した出陣の途上のこと。道灌は扇谷上杉家の家宰。上田氏も扇谷上杉家の武将として道灌をもてなしたのであろう。
扇谷上杉家の家宰として、古河公方や、山内上杉家、さらには長尾景春を相手に武蔵の地を駆け巡った道灌であるが、主家扇谷上杉氏の謀略で暗殺される。道灌死後、扇谷上杉氏は、山内上杉氏との争いや、また両上杉家の内輪もめの間隙をぬって力をつけてきた小田原北条氏に攻められ、江戸城から川越城、さらにはこの松山城に退くことになる。上杉朝定の時である。
北条氏の時代
川越城奪回を図る朝定は、敵の敵は味方、と、それまでの戦いの相手である、山内上杉氏、そして古河公方と同盟を結び、北条氏の拠点・川越城を囲む。その数8万人、北条方の10倍とも言われる数の同盟軍ではあるが、天文15年(1546年)、川越城の籠城群の救援に赴いた北条氏康の奇襲作戦で敗北。扇谷上杉は滅亡。山内上杉は上州の本拠地に逃れる。これを川越夜戦と呼ぶ。この結果、このあたりの武将はほとんどが北条傘下に。松山城の上田氏も北条方の「松山衆」の一翼を担うことになる。比企丘陵に腰越城、青山城、小倉城、青鳥城と、上田氏の支城というか砦が連なる。

再び、上杉氏、今度は山内上杉氏の時代

永禄3年(1560年)、上州から越後に逃れていた山内上杉氏は、上杉謙信の助けを得て関東に攻め入る。北条氏は小田原での籠城策をとる。ために、松山城は落城。城主上田氏は秩父の安戸城に逃れる。謙信は松山城を岩槻城主・太田三楽斉資正にまかす。
太田三楽斉資正、って魅力的な人物。道灌の養子。道灌が扇谷上杉氏に謀殺され、山内上杉氏につくようになった大田一族ではあるが、扇谷上杉に戻ったり、北条氏についたり、といった一族の中にあって、一貫して山上上杉に属した武将。知略に優れ北条氏も一目置いていた、と。

再び、北条氏の時代

永禄5年(1562年)、謙信が越後に戻ると、今度は松山城を北条・武田連合軍が包囲。謙信の救援を待たないで城は開城。再び北条方の手に戻る。城主に上田氏が復帰する。開城の理由のひとつが水の手を断たれたこと。籠城軍は2500名余りいたようで、水の確保は生命線であろう。春日郭と三の丸の南に「池跡」、本丸の南に井戸郭といったものがあったようだが、そのあたりが北条方に押さえられたのだろう、か。

小田原の役で落城。江戸時代初期に廃城

天正18年(1590年)の小田原の役。北条方の松山城は上杉景勝・前田利家の軍勢により落城。家康の関東移封の後は、松平氏がこの地を治めるが、慶長6年(1601年)に浜松に領地替えとなって以降は、松山城は廃城となった。

岩室観音堂

本丸から北に下りる。兵糧倉跡。先に進み総郭跡の台地に。台地の端は切り立った崖となっており、下りること叶わず。麓への道を探す。 兵糧倉跡の台地から北、総郭の西端は切通し、というか巨大な竪堀となっている。かすかな湧水などを認めながら、切り通しの岩場を下る。
下り切ったところに岩室観音堂。脇の洞窟に石仏。この石仏を拝めば四国88カ所を巡るのと同じ功徳がある、とか。由来によれば、観音さまは嵯峨天皇の御代、弘法大師が彫ったもの、と。また、小田原の役の時、松山城が石田三成の家来により全焼したときも、その観音さまだけが、残った、とか。岩肌にくっついたような、岩、切通しと一体となった建物となっている。

吉見百穴

岩室観音を離れ、真ん前にある茶屋で休憩。吉見百穴を尋ねると、松山城の隣とのこと。比企丘陵の先端が松山城、その北側が吉見百穴である。近づくにつれ、丘陵の斜面に多数の横穴が現れる。埋蔵文化センターも兼ねた「園内」の入園料は「大人300円。遠目だけでも結構インパクトあったのだが、近くに寄ると横穴がリアルで迫力も増す。斜面には階段があり、台地に上ることができる。
吉見百穴、とはいうものの、実際には219ほどあると言う。明治に発見されたときは、土蜘蛛族の住居跡か、とも呼ばれたが、現在では、古墳時代後期の横穴墓であるとされる。6世紀末から7世紀末のことである。
横穴式古墳って、散歩の折々で出合った。記憶に残るものは、川崎の市ケ尾横穴古墳群。多摩丘陵の谷戸を支配した地方豪族のお墓であった。そのときは「横穴」って、斜面に穴を開けるとすれば「横」しかないでしょう、ということで、たいして気にもとめなかったのだが、どうも「横穴」って、結構な意味をもっていたようだ。
古墳の初期の頃は竪穴式構造。「竪穴」の意味合いは、「ひとりだけ」のもの。一度古墳がつくられると、再び石室に入るには古墳を壊さなければならない構造、である。古墳時代初期の造営者は大王、大豪族といった一握りの大権力者であるので、経済的に、それはそれで問題なかった。
が、時代が下るにつれ、中小豪族といった人たちも「一族」の古墳を造営するようになる。大和朝廷の力が地方にまでおよび、大豪族の影響力が衰えてきたという時代背景も影響するのかもしれない。が、中小豪族であるので、経済力もそれなり。毎回古墳を造り直すのは、かなわんなあ、と思っていたのかどうか知らないが、ちょうどそ
の頃大陸から、横穴式石室構造が伝わってきた。その最大のメリットは、「追葬」に際し毎回造り直す必要がない、ということ。
こうして比較的小規模な横穴式古墳がつくられるようになる。それが、吉見百穴のように、古墳というより、横穴式群集墓となっていくのは大和朝廷による「薄葬令」の発令と「仏教」の影響がある、と言う(「吉見町のHP」より)。埋葬を質素にしろ、ということと、死後の世界観の浸透による、個々人のお墓を、というふたつのニーズを満たすものとして、吉見百穴のような群集墓が登場したのだろう、か。ちなみに、吉見には、もう少し北に黒岩横穴古墳群といった、もっと規模の大きな群集墓があると、言う。
台地下には大きなトンネル。古墳ではなく、第二次大戦時の軍需工場跡地。荻窪の中島飛行機の部品工場をこの地につくろうと計画。米軍の空襲を
避けるためということであったが、完成前に終戦になった、とか。また、横穴には天然記念物の「ヒカリゴケ」が自生している。

東松山ウォーキングセンター

本日の予定はおおむね終了。東松山駅に向け、市野川にかかる市野川橋を渡り、国道407号線の百穴前交差点を越え、駅に向かって西に進む。新明小学校交差点前に人だかり。背中に「武蔵十里」のゼッケン。人だかりの中に「東松山ウォーキングセンター」があった。
センターはウォーキングに関する資料も豊富。「3デイマーチ」といったウォーキングのイベントも開催している。1日3万人以上、3日で10万人以上参加するウォーキングの一大イベント。また、ゼッケンの「武蔵十里」は、浦和からこのセンターまで40キロを歩く、といったイベントであった。センターの資料によれば、吉見町の東部など、古代瓦窯跡とか古墳跡とか、源範頼館跡など見所も多い。近々、再訪すべし、ということで、本日はセンターを後に、東松山駅に戻り、一路家路へと急ぐ。



木曜日, 3月 05, 2009

鎌倉散歩 そのⅤ;名越・釈迦堂切り通りから祇園山へ

逗子、名越・釈迦堂の切通し、そして祇園ハイキングコースへ


逗子からのアプローチ。名越の切通しを超えて鎌倉に入ることになる。その後は、お寺を巡りながら釈迦堂切通しに。ついで祇園山ハイキングコースを歩きJR鎌倉駅に、といったコース。通常、切通しは鎌倉と周辺地域とのゲートウエイではあるが、釈迦堂切通しは鎌倉市内のバイパスといったもの。この名越の地は北条一門の館があったところである。朝比奈方面からのアプローチを容易にするため、山が削られたのであろう、か。残念ながら崩落のおそれありと、通行禁止となっていた。





本日のコース;JR逗子駅>池田通り>久木郵便局前>小坪入口>岩殿寺>久木ハイランド入口>法性寺>名越切通し>まんだら堂>安国寺>妙法寺>釈迦堂切通し>大宝寺>安養院>八雲神社>祇園山ハイキングコース>高時切腹やぐら>東勝寺跡>宝戒寺>妙本寺>JR鎌倉駅

逗子駅
名越の切り通しへのアプローチを三浦半島方面から攻めようと逗子駅下車。逗子の名前の由来は「厨子」から。市内、延命寺に弘法大師が設けた厨子があった、から。逗子といえば、徳富蘆花、泉鏡花などの作家がこの地に住んでいる。蘆花の代表作『不如帰』は逗子が舞台。文人墨客だけでなく政治家・実業家が別荘を設けているが、そのきっかけは葉山に御用邸が設けられた、ため。道路などの環境整備が進んだのであろう。ともあれ、散歩に出かける。駅前を池田通り、久木郵便局前、小坪入口の交差点に。交差点を少し行ったあたりに岩殿寺への案内。

岩殿寺
坂東三十三観音第二番札所。頼朝とかその娘・大姫が足しげく通ったお寺。悲劇の姫君・大姫の話は、唐木順三さんの『あずまみちのく:(中公文庫)』に詳しい。民家の間を通り、谷戸というか谷津の奥に進むと岩殿寺、ガンデンジ、と読む。岩窟が自然の社のように見えることが名前の由来。山の斜面に観音堂、鐘楼堂が建つ。全体の雰囲気は大和・長谷寺を小ぶりにした感じだなあ、と思っていたら、長谷寺の開基徳道上人が、この地で熊野権現の化身に逢ったとの寺伝。
開創は僧行基とか。十一面観音の石像を安置し本尊とする。で、この観音様は頼朝の生涯の守り本尊。石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房に逃れるとき、観音さまが船頭として窮地を救ったとか。
建長寺での半僧坊伝説ではないけれど、船頭として窮地を救う話しって、多い。将軍家の信仰篤く御台所、大姫、実朝など一族の参詣もしばしば。『吾妻鏡』に「姫公岩殿観音堂に参りたもう」とある。正暦元年 (990)に花山法皇が、承安四年(1174)には後白河法皇が参詣したという。
熊野でしばしば顔を現した花山法皇もここにも登場。もっとも、花山法皇が関東に来たという事実はない。西国観音霊場を開いたという花山法皇の名前を出すことで、坂東観音霊場のブランドイメージを高めようとしたのだろう、か。
ともあれ、長い階段を 上り眺める谷津の景観は落ち着いて美しい。本堂左手にお稲荷さん(?)があり、右手には熊野社。どちらもそのまま先へ進んでいくと本堂の裏の山というか、 尾根道に。このまま名越に行けるか、とは思ったが、少し歩くと行き止まりではあった。階段を下り、元の道に戻る。ちなみに岩殿寺、明治の文豪・泉鏡花がすず女との恋愛模様の折り、逗子逗留。このお寺によく訪れたよう。鏡花の「普門品 ひねもす雨の桜かな」の句碑がある。泉鏡花の『逗子より』には、岩殿寺の在りし日の情景が描かれている。







(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

法性寺
横須賀線に沿って鎌倉方面 に。久木ハイランド入口の交差点。横浜・横須賀道路の朝比奈インターで下り、朝比奈切通しというか、鎌 倉霊園の丘を越え、ハイランドの住宅街を登り下りし出てくるのがこの久木ハイランド入口。海岸道へのショートカットとしてよく使われる。交差点を進み、道路道が横須賀線と交差する手前を右に山、というか丘方面に進む。「法性寺・名越の切り通し」の案内。
猿畠山法性寺。日蓮宗のお寺。名越の山の反対側の谷(やつ)・松葉ケ谷に草庵を結んだ日蓮が、他宗派非難の激しさ故、鎌倉中の僧門から迫害を受け、草庵を焼き討ちされた。そのとき、山王権現の化身である数匹の白猿が現れ、名越の尾根沿いにこの法性寺の地まで日蓮を導く。で、岩窟に身を隠し法難から遁れた、という白猿伝説が残る。
山王権現=日吉山王権現。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。
境内の坂道を尾根に向って進む。頂上あたりに、仏殿。その脇にちょっとした岩山。山王権現がまつってある。ここが白猿伝説の岩窟のあたり、と。伝説は別にしても、ここからの眺めは素晴らしい。海が広がるのびやかな風景だ。それにしても、日蓮が危難に遭う時には、白いお猿が現れる。確か、房総から三浦に渡ろうとして猿島に流れ着いたときも、白猿が現れた、とか。ともあれ、この猿畠山から墓地横の道を抜け、 尾根に進む。途中山肌に「やぐら」。磨り減った石段を登る。尾根に出る。「右・大切岸。左・名越切通し」の道標。

大切岸
名越の逆方向、右に行く。大切岸(おおきりぎし)がある。石切の跡とも、巨大な防御崖とも言われる大切岸に向い結構歩くが、どこにあるのか良く分からない。道標がない。足元の崖がそうなんだろうが、尾根から見れるわけでもない。どんどん進む。この先は一体何処まで。ハイランドへと続く尾根道だろうが、途中まで進み引き返し、名越の切り通しに向う。大切岸は法性寺からの尾根道で見るのがいい。




名越の切通し

途中、落葉樹と照葉樹に囲まれたコジンマリした広場。無縁仏をまつる石碑。少し下ると名越の切通し。大岩がゴロゴロしている。切り取った岩が転がっているだけなのか、防御用の意図的ものなのか、ともあれ野趣豊か。
名越の切通しは鎌倉七切通しのひとつ。鎌倉東南の出入り口。古代から旧東海道と思われるルートが名越の坂をこえて沼浜(ぬはま;逗子)に通っていた。名越の切通しは三浦半島から房総へと至る交通の要衝であった、とか。すこし下り気味に進むと「まんだら堂」への入口。普段は文化財調査のため工事・閉鎖中。 が、今回は幸運にも公開日にあたる。
「やぐら」群。石仏、というか石を積み重ねた仏様。石仏を見ながらしばし休息。切り通しに戻る。途中の崖にも「やぐら」の横穴が口を開いている。垂直に切り立った、いかにも切り通し、といったところを越えると山道が途切れ突然平地に。亀ヶ岡団地のはずれ。ちょっと団地の中を進むが、海岸線まで結構ありそう。で、名越切通しに引き返し、先日と同じルートを大町に下りる。

安国論寺
横須賀線にそって進み、逗子から続く県道に出る。長勝寺交差点で横須賀線を越え、道なりに進む。安国論寺が。日蓮宗の寺院。建長5年(1253)、安房から鎌倉に入った日蓮上人がこの地・松葉ケ谷(やつ)に来て、初めて草庵を結んだ所の一つ。この草庵で「立正安国論」を著して前執権・北条時頼に建白。為に、幾多の法難を受け、法性寺の白猿伝説と相成る。




妙法寺
道なりに行くと妙法寺。同じく日蓮上人が松葉ケ谷に結んだ草庵のひとつ。日蓮宗最初の場所。護良親王の遺子・日叡が、亡き父の菩提を弔ったお寺でもある。松葉ケ谷の草庵って、一体何処だったのか確定はしていないよう。いくつかのお寺が、「我こそは」といった由来を書いてある。道なりに歩く。






釈迦堂切通し
釈迦堂切通し「釈迦堂切通し」の道標。小さく通行止め、と書いてある。が、とりあえず進む。谷(やつ)の奥まったところに、釈迦堂切通し。切り通し、というより、岩をくり貫いた洞門のよう。洞門の向こうは釈迦堂谷戸。三代執権泰時が父である二代執権義時の菩提をとむらうべく建立した釈迦堂があったのが名前の由来。が、現在それがどこにあったか不明とのこと。
釈迦堂切通しの近くに「北条時政名越山荘」と伝えられる跡地がある、とのこと。立ち入り禁止のようだが、ここは時政の屋敷跡、政子の御産所とも、浜の御所とも。鎌倉の七つの切り通しの地には北条一族の館がある。外敵に対する抑えの意味をもつ。この地は、三浦半島への交通の 要衝。三浦半島に勢力をもつ頼朝以来の有力御家人、三浦一族に対する押さえとして住まいしたものだろうか。地図をよくよく確認すると、釈迦堂切通しの上の山は、先日登った衣張山。眺めが素晴らしいところ。ともあれ、この切通し、他の切通しは鎌倉と外部とのゲートウエイではあるが、ここは金沢街道から名越地区へのショーカット、鎌倉内部の連絡路。この地区に館を構える北条一門の力の象徴と考えてもいいかもしれない。ちなみに、時政の浜の御所、横須賀線を挟んで松葉ケ谷の反対側、海に近い谷・弁ケ谷、新善光寺のあたり、という説もある。
photo by jmsmytaste

安養寺・別寺
通りに戻る。道脇に安養院。北条政子の法名でもある浄土宗のこのお寺、政子が頼朝の菩提をとむらうために建立した長楽寺がその前身。別願寺。鎌倉における時宗の中心となった寺。室町時代には足利一門の信仰篤く、鎌倉公方代々 の菩提寺であった、とか。






八雲神社
別願寺から少し、大町四つ角手前を右に。八雲神社。祇園ハイキングコースの入り口がこの神社の境内にある。鎌倉最古の「厄除開運」の社。鎌倉で疫病が流行し、多くの人々が苦しむ様子をみた 八幡太郎義家の弟である新羅三郎・源義光が京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まり、と。祇園社の祭神、って「牛頭天王(ごずてんのう)」。牛頭天王は朝鮮半島慶尚道楽浪郡にある牛頭山に祀られる神さま。その名前をスサノオ,と言う。スサノオノミコトが朝鮮半島の神様である、というのも驚きだ。この話しは、鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ』に詳しい。「桜桃書房」、または「ちくま学術文庫」から出ている。ともあれ、この牛頭天王社、明治の神仏混交廃止令によって「天王・明神・権現」といった神仏習合の呼び名が禁止され、多くののところが、八雲神社と改名されている。この八雲神社もその伝、であろう。

祇園山ハイキングコース
ハイキングコースに上る。どこに続いているのだろう。うまくゆけば衣張山まで尾根が続いているかも、などと思いを巡らしながら登る。木立が茂りそれほど眺めはよくない。しかし、いい雰囲気のハイキングコース。尾根道を進む。15分か20分程度歩いたであろうか、道は急に下りはじめる。
北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ。

東勝寺橋
先に進むと滑川にかかる東勝寺橋。青砥藤綱の銭さらいの話の舞台。ある夜、この橋の辺りで、誤って十文の銭を落とす。
五十文で松明を買い、川ざらい。落とした銭をみつける。「愚かなり」と笑う人に、「十文は小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に 益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此辺に於て演ぜられしものならんと伝へらる(10文は小なりといえど失えば天下の損。50文の出費は自分には 損だが、人々のためになったのだからそれでよい)」と。
ちなみに、葛飾区青戸七丁目・環七沿いにある御殿山公園(葛西城址)は青砥藤綱の邸宅跡との説も。地名が青戸であるのに、京成線の駅名が青砥であるのは、このあたりに由来するの、かも。橋を渡ると右手に宝戒寺。左折し若宮王子幕府跡あたりから若宮王子をとおりJR鎌倉駅に戻る。


水曜日, 3月 04, 2009

座間の湧水を巡る

座間といえば、米軍基地であり、戦前は帝国陸軍士官学校など軍都、といった印象でしかない。また、ニッサンの座間工場などといった工場の街といったイメージが強い。そんな座間には湧水点が多い。市内を南北に座間丘陵が走る。
その西には中津原段丘面、そしてその下に田名原段丘面、更にその西には相模川のつくる沖積低地が広がる。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別される。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出るもの、台地面の谷奥=谷頭より湧き出るもの、に大別される。市内に点在する湧水を、地形を実感しながら辿ることにする。


本日のルート:
小田急線・座間駅 >谷戸山公園の湧水 > 入の谷戸上湧水 >星谷寺 > 心岩寺湧水 > 龍源院湧水 >鈴鹿明神社 >鈴鹿の泉湧水 > 番神水湧水 > 座架依橋 > 相模川湧水 > 神井戸湧水 >
国道246号線 >いっぺい窪湧水 >目久尻川 >第三水源脇の湧水 >第三水源湧水 > 小田急線・相武台駅


 小田急線・座間駅
座間。往古この地は街道の宿場町。古の古東海道、また、平塚から八王子へと通じる八王子街道の宿場町であった、とか。地名の由来も、古代この地にあった街道の駅名から、との説もある。「伊参(いさま)駅」が伊佐間となり、ついで「座間」となった、ということだ。また、高座郡にある間(小平地)であるので、座間といった説もあり、例によって、あれこれ。

谷戸山公園内の湧水
湧水散歩スタート。第一の目標は、「谷戸山公園内の湧水」。県立座間谷戸山公園内にある。東口に下り、南東へと上る台地へと進む。台地の上に進み、道が再び下る手前で北に折れ、座間谷戸山公園に向かう。公園南口から園内に。シラカシ観察林の中をゆっくり歩く。ここは雑木林を手を入れないで自然のまま推移させる極相林。そしてシラカシの林になった、とか。道を下ると里山体験館。いかにも昔の農家といった建物が再現されている。体験館の前は水田。確かに里山の景観ではある。
田圃の脇を進み、湿生生態園を越えると水鳥の池。湧水池。夏には1日1600トン、冬でも100トン、という。結構なボリュームである。湧水点を求めて奥に進む。いかにもそれらしき、「わき水の谷」に。案内によれは公園内には9か所の湧水があり、そのうちふたつがこの谷にある、と。湧水点っぽい雰囲気の場所はあるのだが、いかにも人工的。自然の湧水点ではあるのだろうが、周囲を整地しているようだ。石の井戸といった構えの中から水が湧き出ている。座間市内の湧水についての案内があった。座間の湧水状況がよくわかる。メモする;「本公園は、座間丘陵のほぼ中央部に位置しており、本公園を含む座間市内には多くの湧水地が分布している。それらは座間基地西端から小田急線座間駅西方に続く相模野台地西縁の崖下と、栗原方面の相模野台地を刻む目久尻川とその支流芹沢川の谷とに分布している。これらは共に相模の台地の下に広がっている砂礫層の中より湧き出ている」、と。

入の谷戸上湧水

わき水の谷」を後に、「入(いり)の谷戸上(やとうえ)湧水に。目印は公園・東口近くの「ひまわり公園テニスコート」。湧水点はテニスコート脇にある、という。木の階段を上り台地上に進む。雑木林の中を進むとテニスコート脇に。湧水点のありそうなところを求めてあちこち、ぶらぶら。テニスコート脇を下り、公園の手前にごく僅かな「水気」を見つける。湧水というには、あまりに「僅か」。昔は、ここから小さい谷筋が通り、目久尻川に向かって湧水が流れていた、という。その谷筋は現在の市役所の東の道筋である、とか。「入の谷戸上湧水」は、付近の住民の生活用水ともなっていた、とのことであるので、ある程度の水量もあったのだろう。が、現在は見る影もない。それでも、夏は6トン(日)、冬は0.9トン(日)あるらしい。

星谷寺
坂東観音霊場のひとつ。真言宗大覚寺派の古刹。建立は奈良時代、とか。坂東8番札所。縁起によれは行基菩薩がこの地を訪れ、だれも足をふみいれたことのない「見不知森(見知らず)」に入る。法華経が聞こえ、星が降り注ぐ。そして、古木の下から観音像が。これが現在に残る聖観音、と。もっとも、聖観音は行基菩薩が彫ったという言い伝えもある。

また、星谷の由来も『風土記稿』によれば、「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とある。観音霊場といえば定番の花山上皇が訪れた、という縁起もあるが、花山上皇が武蔵に下向した事実はない、ということは秩父でメモしたとおり。縁起は縁起として受け入れる、べし、ということだろう。とはいうものの、名刹であることに変わりはなく鎌倉以降も、頼朝、家康などの武将の庇護を受けている。梵鐘は国の重要文化財。源氏の武将・佐々木信綱の寄進とされる。


心岩寺湧水
星谷寺を離れ、次の目的地・心岩寺湧水に向かう。入谷地区。深い谷があった地形に由来。崖線が楽しみ。西に進み、相武台入谷バイパス・星の谷観音坂下に。交差点を少し南に下り、道路を離れ心岩寺(しんがんじ)に。座間丘陵の段丘下にある。
本堂はコンクリートつくり。境内に入ると池。崖下から水が湧き出ている。湧水を見るだけで、これほどに心躍る、ってどういうことであろう、か。夏には日量437トン、冬には14トンほど湧き出している、と。この心岩寺からは境内から土器が見つかったり、台地上には縄文期の遺跡が見つかったりしている。湧水脇に人々が集まって生活していたのであろう。

鈴鹿明神社
心岩寺湧水の次は龍源院湧水。心岩寺のすぐ北にある。龍源院の手前に鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある。

龍源院湧水
龍源院は鈴鹿神社の東側の段丘下にある。本堂裏手から湧き出す湧水は、夏には942トン(日)、冬には225トン(日)、と。近くの鈴鹿神社から縄文後期の遺跡が発掘されているので、この湧水は縄文人の生活に欠かせないものであったのだろう。境内には「ほたるの公園」といった湧水池もあった。清流故のほたる、であろう。






鈴鹿の泉湧水
龍源院の北側の段丘下から湧き出す湧水。お寺の隣にありそう、ということで境内をぶらぶら歩いていると、北の隅にみつけることができた。水量は豊富。夏には622トン(日)、冬には32トン(冬)ほど湧き出ている、と。途中柵があり、湧水点までは入れない。しかし、清冽な流れはいかにも心地よい。








番神水湧水
鈴鹿の泉湧水を離れ、北に進む。道に沿って清流が流れる。美しい。これって今から訪れる番神水湧水からの流であろう、か。しばらく歩き、円教寺の東側の段丘下にある祠(ほこら)「番神堂」の裏手から湧き出る湧水。湧水点は柵があり中には入れない。なんとなく崖下から湧き出る雰囲気は感じられる。夏には659トン(日)、冬には27トン(日)の湧水がある、と。日蓮上人が地を杖で突いたところ、清水が湧き出したとの言い伝え、あり。湧水は昭和初期、座間台地上に陸軍士官学校が移ってきたころから、半減した、と。水源が切られた、ということであろう。

座架依橋
座間丘陵西端を一度離れ、相模川に向かう。川床から水が湧き出ている、と。場所は相模川の座架依(ざかえ)橋の下にある水辺広場の南側の護岸付近。台地下から2キロ弱といったところ。ひたすら西に向かって歩く。西に広がる山地は丹沢山系だろう。また、最高峰の峯は、大山ではなかろうか、と思う。なかなか見事な眺めである。相模川左岸用水や鳩川の水路、相模線の鉄路を越え、30分ほど歩いただろう、か。座架依橋に到着。厚木と座間を結ぶ。この橋ができたのは平成4年、とそれほど昔のことではない。それ以前は木造の橋であった、よう。また、木造の橋ができたのも昭和34年。それまでは渡し船があった、とのことである。座架依の由来は、座間と川向うの依知の間に架けられた橋、ということから。ありがたそうな名前であり、なんらかの由来ありや、とも思ったのだが、拍子ぬけ。

相模川湧水
湧水点を探す。なにか案内があるか、とも思ったのだが、なにもなし。あてどもなく、勘だけを頼りに歩く。取りつく島もなし。橋の南の川床に水の溜まり。本流からちょっと分かれたものか、湧水なのか定かならず。とりあえず進む。本流につながっているような、いないような。進につれて護岸下あたりに生える芦原あたりにも水がたまっている。家族づれが釣りをしているそばを進み、溜まりの「はじまり」部分を探す。うろうろしていると、川床の、ほんとうになんでもないところから、水が浸み出ていた。そこが湧水点なのだろう。ここの湧水は、上流域などで浸透した雨水が、古の相模川の砂利層を下り、ここから湧き出している、と。ちなみに相模川って、源流は山中湖。富士吉田、都留、大月をへて相模湖・津久井湖に来たり、その先厚木・平塚・茅ヶ崎の境近くで相模湾にそそぐ。全長100キロ強の一級河川。

神井戸湧水

座間高校の北東側あたりにある。相模川から再び台地に向かうことになる。2キロ強、といったところ。道脇に湧水があった。腰を下し一休み。現在はちょっとした井戸、程度の大きさの湧水地、ではあるが、昔はこの10倍くらいあった、とか。湧水は豊富。現在でも夏には632トン(日)、冬には102トン(日)ほどの水量がある、と。泉の名称については、神様からの賜り物、ってことだろう。湧水マップにはこの神井戸湧水の南150mほとのところに根下南(ねしたみなみ)湧水がある、ということだが、見つけることができなかった。



目久尻川
座間丘陵台地西縁崖下の湧水散歩、相模川湧水の後は、栗原方面に移り、相模野台地を刻む目久尻川に沿って点在する湧水を巡ることに。台地に上り、北に緑地を見ながら中原小学校脇を進むと国道246号線にあたる。少々味気ない国道に沿って栗原地区を北東に進み、西原交差点に。交差点を南東に折れ、先に進むと「栗原巡礼大橋」に。

目久尻川によって開析された深い谷を跨ぐ大橋である。目久尻川に。相模原市にある小田急線・相武台駅近を水源とし寒川町で相模川に注ぐ。昔、栗原村にあった小池から流れ出ていたので、「小池川」とも、また、湧水からの冷たい=寒い水が流れるため寒川とも呼ばれていた。目久尻川と呼ばれたのは、相模一之宮・寒川神社の領地・御厨から流れているためその下流で「みくりや尻川」と呼ばれていたのが、いつしか「めくじり川」となった、とか。また、この川に棲む河童のいたずらを懲らしめるため、目をえぐり取った=目穿(くじる)から、とか、例によってあれこれ。




いっぺい窪湧水
「いっぺい窪湧水」は目久尻川脇。橋の手前を川に向かって下りる。目久尻川を少し南にくだる。目印は巡礼橋。坂東観音霊場を巡る巡礼者がこのあたりを通った、と。橋の脇から台地に上る坂道を巡礼坂、という。橋を南に下る。遊歩道脇に「いっぺい窪湧水」。民家の敷地内、ということで、柵があり、水源点のチェックはできない。「わさび」を栽培しているように思う。水量はいかにも豊か。夏には1,300トン(日)、冬には800トン(日)になる、と。いっぺい窪の名前の由来は、例によって諸説あり、定かではない。が、巡礼者がこの湧水の「一杯」の水で、乾きを癒したことであろう。この湧水から南にすこし下ったところに「大下(おおしも)湧水」があるとのこと。近くには縄文時代の遺跡もある、という。今回はパス。

第三水源湧水
座間の上水は現在でも豊富な地下水を活用しているようで、水道水の85%は湧水である、という。「いっぺい窪」より第三水源に向かって目久尻川を北に進む。栗原巡礼大橋下をくぐり、座間南中のある台地下に沿って進む。しばらく進むと芹沢川が合流。第一・第二水源のある芹沢公園の湧水から流れ出る川、であろう。ちなみに、芹沢公園の近くに、第一、第二水源がある。
国道246号線を越え、蛇行する川筋に沿って歩く。246号線から1キロ強、といったところにいかにも水源といった場所。ここが市営水道・第三水源であろう。衛門沢湧水、とも呼ばれていた、と。湧水点はわからない。水源地から滾々と湧き出ているのであろう。水道用として一日、3,500トンほど汲み上げる、とか。また、水源とは別に現在も夏季には日量3,700トン(日)、冬には2,800トン(日)ほど湧き出ている、ということである。湧水点というより水源地、といった規模の湧水である。

第三水源脇の湧水
第三水源近くのスポーツ広場にも湧水がある、という。グランド土手の斜面から僅かに湧き出る、ということだ。水源の東と北にグランド。どちらにあるのか、少々迷う。東のグランドにはそれらしき水路は見当たらない。北のグランドに進む。地形としては、台地に近いこちらのほうが本命ではあろう。土手の斜面に目をこらす。あった。とはいうものの、まことにささやかなもの。ちょっとしたお湿り程度、といったものであった。湧水点はこの少し北、下小池橋のあたりの護岸にもあるようだ。そこが、目久尻川の湧水点では最上部、と言われる。昔は相武台東小学校の北にも豊富な湧水があったようだが、現在では埋め立てられ児童公園となっている



小田急線・相模台前駅

駅名はもとは「座間駅」。陸軍士官学校本科が当時の座間村に移ったのを契機に、「士官学校前」に。後に「相武台」、と。相武台とは士官学校の別名。朝霞の陸軍予科士官学校は「振武台」、豊岡(現入間市)の陸軍航空士官学校は修武台。市谷から淺川(八王子)に移った陸軍幼年学校は建武台とよばれたよう。ちなみに、命名は昭和天皇による、と。陸軍士官学校跡地は現在在日米軍キャンプ座間となっている。ついでのことながら、相武って、相武国造(さがむの くにのみやつこ)から、だろうか。相模国のもとの名前であろう、か。
座間の湧水を巡った。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別されると上にメモした。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出る入谷地区の湧水群、後者は台地面の谷奥=谷頭より湧き出る栗原地区の「いっぺい窪」とか「第三水源湧水」といった湧水群ではあろう。座間市のホームページの資料によれば、市内の湧水は次のようにカテゴライズされていた。
1.座間丘陵西側の段丘崖の湧水群・・・・・番神水、鈴鹿の泉、龍源院、心岩寺、神井戸、根下南
2.座間丘陵の谷底低地・・・・・・・・・・・・・・谷戸山公園、入りの谷戸上
3.目久尻川沿いの谷底低地・・・・・・・・・・大下、いっぺい窪、芹沢川護岸、第三水源、第三水源脇、目久尻川護岸
4.その他の湧水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相模川に湧き出す湧水 -----

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)