金曜日, 3月 06, 2009

比企散歩 ; 東松山城と吉見百穴を辿る

東松山城と吉見百穴に

会社の同僚が埼玉の小川町に遊び、ひょんなことから腰越城に上った、と。比企地方に点在する古城のことなどを、あれこれ話す。そのあたりで代表的な古城といえば松山城。前々から気になっていたお城でもある。
松山城、って散歩の折々に登場する。この城を巡って、関東管領・上杉氏、小田原後北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などが、争奪戦を繰り返す。要衝の地であったのだろう。それではと、同僚共々、比企の里を歩くことにした。
松山城のほか、周辺の見所をチェック。城のすぐ隣に吉見百穴がある。古墳時代後期の墳墓である。この比企地方には800基以上の古墳がある、と言う。
本日のお散歩、松山城だけでなく、いくつか古墳も併せて歩けそう。比企丘陵地帯の端から低地へと、室町時代と古墳時代を重ね合わせた時空散歩を楽しむことにする。



本日のルート:東武東上線・東松山駅>箭弓稲荷神社>国道407号線・日光脇往還>将軍塚古墳>新江川>古凍>おくま山古墳>市野川>東山道武蔵道>市野川の冠水橋>松山城跡>岩室観音堂>吉見百穴>東松山ウォーキングセンター

東武東上線・東松山駅

東武東上線に乗り、東松山に。このあたりの武将のことを「松山衆」と呼ぶ。町名も松山町、学校も松山中学とか松山高校などが残る。松山市となるのが自然なのであろう。それが、東松山となった経緯は、既に松山市があった、ため。愛媛の松山市である。自治省は同一の市名は認めなかった。郵便番号もない当時、同一市名で混乱することを避けたのであろう、か。で、愛媛の松山の東にあるので東松山、と。ちなみに、東久留米は九州の久留米市があったため、また、東大和は神奈川の大和市に対して東(京)の大和、ということで付けられた。

駅前で観光案内所を探す。見当たらない。駅前の交番で尋ねる。どうもそれっぽい施設はない、とのこと。東松山の名所巡りの地図を頂く。感謝。が、実のところ、駅を東に進んだところに「東松山ウォーキングセンター」があった。わかったのは、お散歩の最後の最後。あとの祭りではあった。

箭弓稲荷神社
駅前東口に大きな鳥居。地図を見ると西口に大きなお宮様がある。箭弓稲荷神社。この神社の参道が鉄路によって断ち切られたのか、とも思ったのだが、それは直接関係なさそう。市の観光協会がつくった、とか。駅前の再開発のため取り壊される、ようである。新駅舎も完成間近であった。

西口に廻り、箭弓稲荷神社に。創建は和銅5年(712年)。当時は小さな祠。立派なお宮様になったきっかけは11世紀前半、平安時代の中頃。案内によれば、下総の城主・平忠常が謀反を起こす。武蔵の国を乱し、川越まで押し寄せる。この動きに朝廷は源頼信をして、忠常の追討を命じる。源頼信は討伐の途中、この地・野久ケ原の野久稲荷に陣を張る。夢に箭と弓。これこそ吉兆と直ちに平忠常を攻め、これを破る。勝利を感謝し、神社を立て替え、野久稲荷を箭弓稲荷とした、とか。
以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主などの庇護を受ける。また庶民の信仰も厚く、特に享保年間はその隆盛を極め、江戸の日本橋小田原町の「箭弓稲荷江戸講中」を中心に江戸からの参拝も盛んに行われた。その数、百以上の講があったと言われる。
平忠常、ってあまり馴染みのない名前、である。チェックする。祖父は平良文。平将門の叔父。良文は将門のよき理解者であった人物。なんとなく時代背景が見え てきた。また、追討にあたった源頼信であるが、この勝利がきっかけともなり、坂東の武者が源氏を頭領として主従関係を結ぶようになった、と。八幡太郎義家は頼信の孫にあたる。

稲荷神社って、全国で3万とも4万ともあると言われる。神社の中では最も多い。「稲成り」、として農業の神さま、また、「居成り」として国替えを逃れ、領地安泰を願う武家の屋敷神として敬われたのであろう。
散歩の道々、お稲荷さんによく出合う。が、いまひとつよくわからない。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ(桜桃書房)』によれば、イナリには神様系と仏様系がある、と言う。神様系は伏見稲荷の流れ。京都伏見区稲荷山の西麓にある。有力帰化人である秦氏の守り神。狐が眷属となっているのは、狐は害虫を食べてくれる、から。稲の稔りの「守護神」としては如何にもわかりやすい。
仏様系とは京都の東寺の流れ。東寺建設の折、秦氏が稲荷山の木材を提供したことを謝し、稲荷神を東寺の守護神とした。仏教の荼枳尼天(だきにてん)が狐に跨がっていたということも関係したのか、荼枳尼天が稲荷神と習合。真言宗の普及とともにお稲荷様も全国に広がっていった、とか。豊川稲荷がこれにあたる。


「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)


壮麗な権現つくりの本殿裏に元宮。小さな祠の前に狛犬ならぬ、駒狐(?)。口に飾物らしきものをくわえている。これって何?と、同僚の指摘。玉に跨がっている狐もいる。チェックすると、玉は宝珠、飾物は鍵であった。鍵の替わりに巻物をくわえるものもいる、とか。鍵の形状は少々壊れやすく、ために巻物にした。ちなみに、この珠と鍵、って花火の、「鍵屋!玉屋!」、の起こり。お稲荷さまを信仰する花火問屋がお稲荷様が口にくわる鍵を見て屋号を「鍵屋」に。鍵屋から分家した問屋は「玉(珠)屋」とした。

国道407号線・日光脇往還
箭弓稲荷神社を離れ、次の目的地である将軍塚古墳に向かう。南東に3キロ弱といったところ。東武東上線を交差し、国道407号線に205号線がT字にあたる若松町1丁目交差点に。交差点で205号線の一筋南に、南東に下る道を進む。このあたり下野本の地は、河岸段丘面と行った雰囲気。
少し進むと再び205号線。バイパスであろう、か。八幡神社脇を進むと再び国道407号線にあたる。地図で見る限りでは、先程、若松町1丁目交差点のところを走る国道407号線がバイパスのようである。
この国道407号線、東松山あたりまでは八王子から日光へと続く、日光脇往還の一部となっている。江戸時代、八王子の千人同心が日光勤番に赴くため歩いた道。八王子から入間までは国道16号線。入間から東松山までは国道407号線。東松山から先、行田まではは国道66号線となっている。
八王子千人同心って、元は武田家の遺臣。徳川開幕の頃は、甲州口の防衛を担当していたが、泰平の世になると、その必要もなくなり、日光東照宮を護るのが、その仕事になった、とか。

将軍塚古墳
国道407号線の先に、林というか森というか、雑木林が見える。将軍塚古墳であろうと、407号線を越え、斜めに小径を入る。将軍塚古墳があった。誠に大きい。ちょっとした丘といった風情。全長115mの前方後円墳。行田市の「さきたま古墳群」にある二子山古墳に匹敵する規模。案内をメモ;全長115m、高さは前方部で7m、後円部で12mある。学術調査は未だ行われていない。将軍塚古墳を中心に東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群。西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布している。このような古墳の分布は、古墳時代既にこの地方が高度の社会的発展をとげていたものである、と。
比企地方には古墳が多い。845基もある、という。群馬よりの児玉地方の825基、大里地方の594基よりも多い。ちなみに南の入間地方は407と言う。このあたり一帯には、古墳をつくることのできる政治的・経済的な力をもつ有力者が誕生していた、ということであろう。
『埼玉県の歴史;小野文雄(山川出版者)』によれば、西日本で古墳がつくられるようになったのは4世紀に入ってから。埼玉県で古墳がつくられるようになったのは、5世紀になって、から。大和朝廷の影響がこのあたりまで及んできた、ということだろう。東松山では大谷地区にある雷電山古墳がその頃のもの。規模はそれほど大きくない。
県内に古墳が急増するのは6世紀以降。とくに6世紀の始め頃、行田市のさきたま古墳群に見られるような大型古墳が出現。全長120mの稲荷山古墳、140mの二子山古墳といったものである。この将軍塚古墳は6世紀末頃につくられたと言われる。
古墳はいづれも大小河川の流域にある台地・丘陵・自然堤防上に分布している。河川流域に発達した肥沃な耕地を押さえる立地である。広い耕地を所有しなければ、経済力をもてないし、経済力がなければ政治力ももてないわけで、当然と言えば当然のことで、ある。そういった気持ちで地形を眺めると、自ずと違った「風景」が見えてくる。
古墳に上る。後円部の頂きに「利仁神社」。藤原利仁。上野介、上総介、武蔵守を歴任し、延喜15年(915年)には鎮守府将軍となった、と言われる。「将軍塚古墳」と呼ばれる所以である。平安時代の代表的武人として多くの伝説があり、『今昔物語』にも登場している。芥川龍之介の『芋粥』はこの今昔物語のこの題材を小説にしたものである。
ここに利仁神社があるのは、古墳北側にある無量寿寺が武蔵守の時代の陣屋跡と伝えられているから、か。もっとも、この無量寿寺って、藤原利仁の子孫と称する野本氏の館があったところ。地名にも残るわけだから、結構な有力者であったのだろうが、この野本氏が先祖を祀るためにこの利仁神社をつくったとも言われる。
「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)

新江川

将軍塚古墳を離れ、次の目的地、古凍地区に向かう。西に2キロ弱といった、ところ。新江川に沿って進む。新江川の源流点は関越道・東松山インター東、国道254号線脇にある不動沼。ここから南東に3キロ強流れ、古凍地区で市野川に合流する。川の北は台地、南は低地となる。

古凍
しばらく歩き、国道254号線を越える辺りが古凍地区。古代、武蔵国比企郡の郡衙があったところと言われる。郡衙って、大和朝廷の力が全国に及んだときに設けられたお役所。国府の出先機関として郡の行政をおこなっていた。
また、時代を遡る古墳時代、このあたりは屯倉(みやけ)の地であったとも言われる。屯倉、って朝廷の直轄地。国造(くにのみやっこ)と呼ばれる地方豪族の所有する土地が朝廷のものとなったのは、「武蔵国造の乱」がきっかけ。
「武蔵国造の乱」って、武蔵国造の座を巡って笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が争った事件。笠原直使主は鴻巣あたりを本拠とした豪族。小杵は南関東、多摩川流域を本拠としたとも言われる。が。定かではない。で、形勢不利の小杵は上毛野国(群馬)の小熊に援助を求める。それに対抗し、笠原直使主は大和朝廷に助けを求め、勝利を得る。国造となった笠原直使主は、救援へのお礼として四カ所を屯倉として朝廷に献上したとのこと。そのひとつ、横渟(よこぬ)がこのあたりとの説がある。

「武蔵国造の乱」は単に国造の地位をめぐる地方豪族同士の争い、というだけでなない。豪族同士での解決がつかず、大和朝廷の力を借りなければ争いは解決できなかった、という事件。言い換えれば、地方豪族が大和朝廷の力に屈したという事件、とも言えよう。屯倉として朝廷に献上されたと言われるこのあたりは、その象徴のように思える。ちなみに屯倉を献上した笠原直使主って、さきたま古墳群に関係あるとの説も。稲荷山古墳から発見された鉄剣に記された人物が笠原笠原直使主である、とも言われている。
古凍って名前が如何にも気になる。古郡が転化した、との説もある。福島の郡山、福岡の小郡など、「郡」が郡衙の地を示す例があるから、ということだが、はっきりしない。


おくま山古墳
国道254号線を少し東に入った所に等覚院。重要文化財の木造阿弥陀如来像があるとのことだが、拝観できるわけもない。落ち着いた境内で少しのんびりとし、お寺の北西、すぐのところにある「おくま山古墳」に。このあたりは、古凍・柏崎古墳群と呼ばれるように、十数基の古墳が点在する。おくま山古墳は、全長62m、後円部の径が41・5mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と言われる。前方部分は削平されており、後円部に鎮座する祠の参道となっている。

市野川

古凍地区を市野川へと東に進む。道なりに進み川の傍に。川床との比高差が結構ある。この柏崎・古凍地区って、市野川に沿って舌状に延びた台地であろう。市野川の堤に下りたいのだが、道がない。崖線といった台地端を下りるわけにもいかず、堤への道を探して、台地端を北に進む。少し歩き、市野川終末処理場を越えた辺りで堤への道にあたる。
市野川の源流は寄居町。小川町、嵐山町、東松山市、吉見町、川島町を経て、北本市あたりで荒川に合流する。全長35キロ程度。堤防に上り、少々休憩。どのあたりか定かではないのだが、このあたりで昔の東山道武蔵道の遺跡が見つかった、とか。

東山道武蔵道
西吉見条里2遺跡。2002年、朝日新聞の西埼玉版に「古代の官道と橋脚跡吉見で出土 多彩な土木技術」という見出しで紹介される。道幅は10mほどもあり、東山道武蔵道ではないか、とも言われる。発見された場所が南吉見という低湿地であり、そんなところを主道が走るわけもないから、支道ではないか、との説もあり。定説は未だ、ない。

東山道武蔵道は、武蔵国の国府に通じる古代の官道。東山道は律令時代の行政区域。当時武蔵国は東海道ではなく、東山道に属していた。武蔵道のルートは下総国を通るもの、古利根川沿いの微高地を通るものなど諸説ある。埼玉を通るルートもそのひとつ。
いつだったか、国分寺で東山道武蔵道の遺構に出合ったことがある。所沢市の久米地区、柳瀬川のあたりでも、東山道武蔵道と言われる「東の上遺跡」に出合った。ともに道幅10mを越える堂々たる古代の幹線道路である。
所沢あたりから先は、これといって遺構が発見されていない。が、この西吉見遺跡が、武蔵道の遺講としても、それほど違和感は、ない。このあたりには多くの古墳もあり、また、延長線上には埼玉古墳群といった巨大古墳群もある。っまりは古墳時代から開かれたところである。大和朝廷が東国を支配する時代になったとき、古代官道が通っても十分に納得感はある。
比企丘陵の笛吹峠には鎌倉街道が毛呂山町、鳩山町から小川町に向けて走っている。この比企の地は、古墳時代、古代から鎌倉時代にかけて幹線道路が通る「開かれた地」であったのだろう。


市野川の冠水橋
堤防下の低水路に冠水橋が見える。流川橋と呼ばれる。増水時に橋桁の上を水が流れ、橋が沈む、ため。四国で四万十川では沈下橋と呼ばれていた。京都では流れ橋、とか潜没橋とも。潜水橋とも呼ばれる。
何故だかわからないのだが、冠水橋って、気持ちが和む。Dreams ComeTrue"のヒット曲『晴れたらいいね』の一節に「昔みたいに 雨が降れば 川底に 沈む橋越えて 胸まである草分けて」って箇所があるけれど、小川に架かる「昔の橋」風の冠水橋には、なんとなく子供のときの懐かしい記憶、郷愁を感じさせるものがあるの、かも。
冠水橋は埼玉では荒川水系に残る。全部で38基あると、言う。利根川水系からは姿を消したようだ。荒川水系で前々から気になっている冠水橋としては、熊谷市の久下橋がある。全長282m。車も通る。久下って、荒川の西遷事業、つまりは、元の荒川の流路を西に流路を変えるため、荒川を締め切ったところ。荒川水系から吉野川・入間川水系へと瀬替えしたところに冠水橋が架かっている。そのうちに歩いてみたい。

松山城跡
川の堤防を進む。市野川の傍に台地がせまる。「比企丘陵の東端、南を低地、西を市野川の流れに囲まれた要害の地に松山城は聳える」、というフレーズを、大いに納得。
冠水橋・流川橋を東に渡り、土手道から台地下の車道の出る。台地下を少し進むと松山城跡への上り口。標高60m程度。上り道は整備されておらず、自然のまま。土塁や空堀といった造作を眺めながら進む。切り通しの虎口らしき場所を過ぎると台地上に。それほど広くない。真ん中あたりに礎石跡。神社でもあった雰囲気。主郭があったことろ。
主郭の東に城址碑。このあたりは物見櫓があった、とか。その先は、切り立った空堀。深さ10mほどもある。空堀の先に二郭。ふたつの台地は木橋で結ばれていたようだ。
二の丸の先には春日郭、三の丸、広沢郭と続く。それぞれ深い空堀で隔てられ、それぞれ木橋が掛けられていた、と。
松山城の築城は応永年間、というから室町時代、14世紀の末頃。扇谷上杉の家老であった、上田氏の築城と伝えられている。この松山城、武蔵と上州を結ぶ戦略上の要衝であった、と言われる。とはいうものの、文字面だけでは今ひとつリアリティが乏しかった。が、実際にこの地を歩き、古墳時代から開けた一帯であった、とか、関東管領・山内上杉の本拠である上州、そして扇谷上杉の居城・川越城とは指呼の間である、とか、荒川や利根川の低地を隔てた、言わば、「川向こう」に古河の地がある、といった地理的関係が実感できると、この城が戦略上の要衝であったことが十分に納得・実感できる。

扇谷上杉氏の時代
松山城を巡る関東管領・上杉氏、小田原後北条氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などの争奪戦をまとめる;文明6年(1474年)。太田道灌が五十子(本庄市)に向かう途中、上田氏の支配する小河(小川市)に一宿したとの記録がある。山内上杉家の家宰筋の家柄でありながら、その主家に反旗を翻した長尾景春に対抗した出陣の途上のこと。道灌は扇谷上杉家の家宰。上田氏も扇谷上杉家の武将として道灌をもてなしたのであろう。
扇谷上杉家の家宰として、古河公方や、山内上杉家、さらには長尾景春を相手に武蔵の地を駆け巡った道灌であるが、主家扇谷上杉氏の謀略で暗殺される。道灌死後、扇谷上杉氏は、山内上杉氏との争いや、また両上杉家の内輪もめの間隙をぬって力をつけてきた小田原北条氏に攻められ、江戸城から川越城、さらにはこの松山城に退くことになる。上杉朝定の時である。
北条氏の時代
川越城奪回を図る朝定は、敵の敵は味方、と、それまでの戦いの相手である、山内上杉氏、そして古河公方と同盟を結び、北条氏の拠点・川越城を囲む。その数8万人、北条方の10倍とも言われる数の同盟軍ではあるが、天文15年(1546年)、川越城の籠城群の救援に赴いた北条氏康の奇襲作戦で敗北。扇谷上杉は滅亡。山内上杉は上州の本拠地に逃れる。これを川越夜戦と呼ぶ。この結果、このあたりの武将はほとんどが北条傘下に。松山城の上田氏も北条方の「松山衆」の一翼を担うことになる。比企丘陵に腰越城、青山城、小倉城、青鳥城と、上田氏の支城というか砦が連なる。

再び、上杉氏、今度は山内上杉氏の時代

永禄3年(1560年)、上州から越後に逃れていた山内上杉氏は、上杉謙信の助けを得て関東に攻め入る。北条氏は小田原での籠城策をとる。ために、松山城は落城。城主上田氏は秩父の安戸城に逃れる。謙信は松山城を岩槻城主・太田三楽斉資正にまかす。
太田三楽斉資正、って魅力的な人物。道灌の養子。道灌が扇谷上杉氏に謀殺され、山内上杉氏につくようになった大田一族ではあるが、扇谷上杉に戻ったり、北条氏についたり、といった一族の中にあって、一貫して山上上杉に属した武将。知略に優れ北条氏も一目置いていた、と。

再び、北条氏の時代

永禄5年(1562年)、謙信が越後に戻ると、今度は松山城を北条・武田連合軍が包囲。謙信の救援を待たないで城は開城。再び北条方の手に戻る。城主に上田氏が復帰する。開城の理由のひとつが水の手を断たれたこと。籠城軍は2500名余りいたようで、水の確保は生命線であろう。春日郭と三の丸の南に「池跡」、本丸の南に井戸郭といったものがあったようだが、そのあたりが北条方に押さえられたのだろう、か。

小田原の役で落城。江戸時代初期に廃城

天正18年(1590年)の小田原の役。北条方の松山城は上杉景勝・前田利家の軍勢により落城。家康の関東移封の後は、松平氏がこの地を治めるが、慶長6年(1601年)に浜松に領地替えとなって以降は、松山城は廃城となった。

岩室観音堂

本丸から北に下りる。兵糧倉跡。先に進み総郭跡の台地に。台地の端は切り立った崖となっており、下りること叶わず。麓への道を探す。 兵糧倉跡の台地から北、総郭の西端は切通し、というか巨大な竪堀となっている。かすかな湧水などを認めながら、切り通しの岩場を下る。
下り切ったところに岩室観音堂。脇の洞窟に石仏。この石仏を拝めば四国88カ所を巡るのと同じ功徳がある、とか。由来によれば、観音さまは嵯峨天皇の御代、弘法大師が彫ったもの、と。また、小田原の役の時、松山城が石田三成の家来により全焼したときも、その観音さまだけが、残った、とか。岩肌にくっついたような、岩、切通しと一体となった建物となっている。

吉見百穴

岩室観音を離れ、真ん前にある茶屋で休憩。吉見百穴を尋ねると、松山城の隣とのこと。比企丘陵の先端が松山城、その北側が吉見百穴である。近づくにつれ、丘陵の斜面に多数の横穴が現れる。埋蔵文化センターも兼ねた「園内」の入園料は「大人300円。遠目だけでも結構インパクトあったのだが、近くに寄ると横穴がリアルで迫力も増す。斜面には階段があり、台地に上ることができる。
吉見百穴、とはいうものの、実際には219ほどあると言う。明治に発見されたときは、土蜘蛛族の住居跡か、とも呼ばれたが、現在では、古墳時代後期の横穴墓であるとされる。6世紀末から7世紀末のことである。
横穴式古墳って、散歩の折々で出合った。記憶に残るものは、川崎の市ケ尾横穴古墳群。多摩丘陵の谷戸を支配した地方豪族のお墓であった。そのときは「横穴」って、斜面に穴を開けるとすれば「横」しかないでしょう、ということで、たいして気にもとめなかったのだが、どうも「横穴」って、結構な意味をもっていたようだ。
古墳の初期の頃は竪穴式構造。「竪穴」の意味合いは、「ひとりだけ」のもの。一度古墳がつくられると、再び石室に入るには古墳を壊さなければならない構造、である。古墳時代初期の造営者は大王、大豪族といった一握りの大権力者であるので、経済的に、それはそれで問題なかった。
が、時代が下るにつれ、中小豪族といった人たちも「一族」の古墳を造営するようになる。大和朝廷の力が地方にまでおよび、大豪族の影響力が衰えてきたという時代背景も影響するのかもしれない。が、中小豪族であるので、経済力もそれなり。毎回古墳を造り直すのは、かなわんなあ、と思っていたのかどうか知らないが、ちょうどそ
の頃大陸から、横穴式石室構造が伝わってきた。その最大のメリットは、「追葬」に際し毎回造り直す必要がない、ということ。
こうして比較的小規模な横穴式古墳がつくられるようになる。それが、吉見百穴のように、古墳というより、横穴式群集墓となっていくのは大和朝廷による「薄葬令」の発令と「仏教」の影響がある、と言う(「吉見町のHP」より)。埋葬を質素にしろ、ということと、死後の世界観の浸透による、個々人のお墓を、というふたつのニーズを満たすものとして、吉見百穴のような群集墓が登場したのだろう、か。ちなみに、吉見には、もう少し北に黒岩横穴古墳群といった、もっと規模の大きな群集墓があると、言う。
台地下には大きなトンネル。古墳ではなく、第二次大戦時の軍需工場跡地。荻窪の中島飛行機の部品工場をこの地につくろうと計画。米軍の空襲を
避けるためということであったが、完成前に終戦になった、とか。また、横穴には天然記念物の「ヒカリゴケ」が自生している。

東松山ウォーキングセンター

本日の予定はおおむね終了。東松山駅に向け、市野川にかかる市野川橋を渡り、国道407号線の百穴前交差点を越え、駅に向かって西に進む。新明小学校交差点前に人だかり。背中に「武蔵十里」のゼッケン。人だかりの中に「東松山ウォーキングセンター」があった。
センターはウォーキングに関する資料も豊富。「3デイマーチ」といったウォーキングのイベントも開催している。1日3万人以上、3日で10万人以上参加するウォーキングの一大イベント。また、ゼッケンの「武蔵十里」は、浦和からこのセンターまで40キロを歩く、といったイベントであった。センターの資料によれば、吉見町の東部など、古代瓦窯跡とか古墳跡とか、源範頼館跡など見所も多い。近々、再訪すべし、ということで、本日はセンターを後に、東松山駅に戻り、一路家路へと急ぐ。



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