水曜日, 7月 06, 2016

伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅥ:旧東予市内(一部丹原)の河野氏ゆかりの地を辿る

伊予国内の宮方との抗争とともに、同じ武家方ではあるも四国支配を目する細川氏の伊予侵攻に苦慮した第28代通朝の後を継いだのが第29代河野通堯。通堯も、細川氏と対するも敗れ南朝に帰順し細川氏と対抗する策をとる。 伊予の宮方と共に細川氏の支配下にあった宇摩郡、新居郡に侵入し細川氏を排除、南朝守護河野通直として府中に入った通堯であるが、中央での細川氏の失脚を受けて、中央の反細川勢力と結ぶため再び武家方に復帰する。

細川氏の伊予侵攻に対する河野家存亡の危機に対応すべく、武家方から宮方への帰順、さらに武家方帰順と、御家を守るため苦慮した通暁であるが、細川氏の伊予侵攻にて敗死。
その後を継いだ第30代当主・通義の頃に、幕府の斡旋により和議を結ぶことになる。和議により宇摩・新居郡を細川氏に割譲することになるが、河野氏は宇摩・新居郡を除く伊予の守護となる。これ以降、河野氏は伊予国守護職を相伝することになった。





南北朝騒乱の時代

武家方から宮方帰順、そして再び武家方へと、
武家方・細川氏の四国支配対策に苦慮。


河野通堯(第29代当主):細川氏対策として宮方への帰順、そして武家方への復帰。河野家存亡の危機を脱し旧勢力を一時的ではあるが回復する
通朝の子・第29代の通堯も同様に細川氏の動向に苦慮。細川勢に攻勢をかけるも、細川勢の反撃に遭い立て籠もった高縄山城も落城し、恵良城に逃れる。この状況に「宮方」の在地豪族が支援の手を差し伸べ、「河野家の安泰をはかるために、南朝に帰順するように勧誘した。すでに東予・中予の重要な拠点を占領した優勢な細川氏に対抗するためには、まず伊予国内における宮方・武家方の協力一致によって、陣容の整備をはかる必要がある(「えひめの記憶」)、と。 また「通堯にとって、武家方の勢力が潰滅した時であるから、ライバルであった土居・得能・忽那氏らをはじめとして宮方の兵力を利用する以外に、よい打開策はなかった(「えひめの記憶」)」とする。

河野通堯の宮方帰順
こうして通堯は九州の宮方の征西府へ帰順。細川氏に対抗するため宮方に与することになり、南朝から伊予国守護に補任された、との記事もある。正平23年(1368)伊予に戻った通堯は河野氏恩顧の武将とともに武家方の勢力を府中から掃討し、勢いに乗じ東予の新居郡・宇摩郡まで侵入し細川勢を排除。府中に南朝守護河野通直(通堯改名)と知行国主西園寺氏が入る。通堯の刑部大輔任官は南朝への貢献故のことである。

河野通堯の武家方復帰
武家方の管領として足利義満を補佐した細川頼之であるが、山名氏や斯波氏、土岐氏といった政敵のクーデター(康暦の政変)により管領職を失い、四国に落ちる。この中央政界の激変に際し、対細川対策として通堯は「宮方」から離れ、幕府に降伏し反細川派の諸将との接近をはかることになる。義満は通堯に対しあらためて伊予守護職に補任する旨の下文を与えた。
「えひめの記憶」に拠れば、「通堯が武家方に復帰した事情は、いちおう伊予国における失地回復に成功したこと、これまで利用した征西府、および伊予国の宮方の権勢が衰退して、昔日の姿を失ったこと、将来河野氏の政局安定をはかるためには、幕府の内部における反細川派の勢力と提携する必要があったことなどによると考えられる」とある。

北朝方から南朝帰順、そして再び北朝帰順と、対細川氏対策として16年に渡り、河野家の危機を防いだ通堯は、河野氏の旧勢力を回復し、その勢力は安定するかにと思われた。しかしながら、四国に下った細川頼之氏追討の命を受け進軍の途中、天授5年/康暦元年(1379年)、伊予の周桑郡の佐々久原の合戦で通堯は討死する。この戦で西園寺公も共に戦死する。


河野通堯(通直);(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

父の通朝の戦死の後、各地を転々とし、正平23年(1368)帰郷して失地を回復していく。
天授5年;(北)康暦元年に細川頼之が東予地区に侵入し、通堯は桑村郡吉岡郷佐志久原に陣をとったが、頼之の奇襲戦法にかかり総攻撃を受けて自害。佐々久山に五輪塔、善光寺に位牌がある。
甲賀神社境内に通堯と西園寺公俊を祀る。
続柄:通朝の子
家督:正平19年;(北)貞治3年(1364)?天授5年(1379);(北)康暦元年
関係の社・寺・城:善光寺(東予市)、甲賀神社(東予市)
墓や供養塔;佐々久山

千人塚;所在地:新町434‐4
「天授5年(1379)11月6日、佐々久原に於いて伊予の将河野通堯軍七千と阿波・讃岐・土佐の将細川頼之軍四万が激突。河野軍の敗北に終わった。このとき両者の戦死者を此の地に埋葬した。
別名四方塚、太平塚、鬼塚とも呼ばれ、今後このような悲惨な戦いが無いように、四方太平を願ったとも云われ、又「このような大石は鬼でなければ積めない」との意味から鬼塚の名もある。
この塚は甲賀原古墳群の南端に位置する古墳と云われ、直径30メートルを越える円墳であったとも云われる。千人塚に利用されたため唯一残ったと伝わる 吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進委員会」

西園寺氏と伊予
上のメモでお公家さんの西園寺氏の名前が河野氏とペアとなって登場する。宮方に帰順し伊予の守護となった通堯とともに知行国主として府中に入城したこと、そして武家方に復帰した通堯に与し同じ武家方の細川氏と戦い討死している。この場合の西園寺氏とは西園寺公俊公のことではあろう。
西園寺公俊の妻は河野通朝の娘というから、通堯とペアで動くその動向はわからなくもないが、それはともあれ、京のお公家さんである西園寺氏の流れが伊予に土着したのはこの公俊の頃と言う。
西園寺氏と伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。 その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
橘氏
橘氏ははじめ平家の家人であったが、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたてる。鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任される。その橘氏の所領の地に西園寺氏が触手をのばす。橘氏は、宇和は警護役として宇和島の日振島で叛乱を起こした藤原純友を討伐して以来の父祖伝来の地とも、頼朝よりの恩賞の地とも主張するも願い叶わず、宇和は西園寺氏の手に移り、橘氏は肥後に領地替えとなった、とのことである(「えひめの記憶」)。

河野氏ゆかりの地を辿る
善光寺;愛媛県西条市安用甲1044


『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に挙げられた東予市の善光寺に向かう。場所は同冊子に説明のあった激戦地・千人塚の南西、安用(やすもち)地区から高縄山地の山麓を少し上ったところにある。お寺様というより、お堂といった趣。
お堂脇の案内には「善光寺 天授5年(1377)の佐々久原の戦いで、細川頼之に敗れた河野通堯、西園寺公御霊を祀るため建立された寺である。本堂にのこる両公の位牌は近郊例を見ない大きなものである。本尊薬師如来像は風早(北条市)の恵良城内薬師堂に祀られていたもので、戦火に遭ったためこの地に移し祀られたものと伝えられる」とあった。


河野氏ゆかりの地を辿る■
甲賀神社;愛媛県西条市上市甲460番地

大明神川が形成した扇状地が、高縄山地からの「出口」部分の扇の要の地から広がり始め、左右を高縄山地の支尾根に挟まれた「盆地状」の旦の上地区を離れ平野部を瀬戸の海に下る辺り、県道155号が大明神川を渡る少し東に甲賀神社がある。平坦地に盛り上がる緑の社叢が印象的な社の構えである。
県道155号を東に折れて境内に駐車。境内社をお参りし、市指定文化財 天然記念物の紅葉杉(コウヨウザン)を見遣りながら境内を進むと「甲賀八幡神社の祈請文」の案内。
案内には
「甲賀八幡神社の祈請文 
市指定文化財 有形文化財古文書
元亀三年(1572)阿波讃岐の三好勢が伊予に侵入して来た時、これを迎え討ち戦勝するため、河野一族が甲賀八幡神社に誓詞祈願した願文で、社宝として伝わる古文書である。
同年九月十二日付けの七十五名連判所と十三日付けの二十名連判所の二通が継ぎ合わされ、現在一巻となっている。氏名の下には、それぞれ花押がある 西条市教育委員会」とあった。
○祈請文は39代当主・通直の頃のもの
元亀三年(1572)というから、この起請文が書かれたのは、この項の主人公である通堯より、時代を下った河野家第39代当主・通直、その父である通吉の頃の話ではあろう。土佐の長曾我部氏の宇和郡侵攻の機に乗じ、阿波の三好氏が織田信長と結び伊予に侵攻した。それを迎え撃つ河野氏の決意表明といったものだろう。

境内を進み石段を上り拝殿にお参り。社の建つ独立丘陵の周りには、6世紀後半から7世紀初頭のものと推定される古墳時代後期の古墳群があるようだ(社殿の建つ丘陵自体が古墳、といった記事もあった)。拝殿横にある境内社に、河野通暁、西園寺公俊公を祀る祠などないものかと彷徨うも、これといった案内はなかった。
護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡神社
石段を下り甲賀神社の案内を見る。案内には「護運玉甲甲賀益(ごうんたまかぶとかがます)八幡神社  沿革 勧請年月不詳。往古、仲哀天皇・神功皇后が紀伊の国より南海道に巡幸のとき、行宮(宿泊所)をこの地に作り給いし夜、その夢裏の示現により天皇この山に登り、諸神を礼尊した。よってこの山を「神齋山カミイワイヤマ」と云う。、この時の祭神は吉岡宮に坐す吉岡二神と伝えられ御一神は猿田彦神に坐す。
天智天皇6年(667)2月朔(1日)、国司土師連(ハジシノムラジ)千嶋公この地を通行のとき、老翁忽然と現れ、我八幡大神と共にこの地を守護せんと神示あり。この翁こそ猿田彦命に坐す。国司は勅許を得て宮殿を建て合祀す。

其后、興國4年(1343年)2月3日、南朝勅願所の旨を持って新宮殿を建立し、猿田彦命を祀り八幡社を合祀した。興国4年(1343年)2月3日、南朝勅願所の旨を以て再建勅旨之有り、御衾田を下賜、御書今尚之を存す。文明7年(1475年)2月将軍足利義尚公より社領寄付状あり。
伊予守源頼義公より六孫王(経基王)以来相伝の密法たる開運護甲の秘法を祀主友麿に授けしが社名の由来であり、此の秘法を以て河野家数代の祈願所となる。後、松山藩主久松定行、永應2癸巳(1653年)社殿を再修し、久松家祈願所となり、明治5年(1872年)郷社に編入され今日に至る。

結構古い社である。が、吉岡宮って?近くに延喜式に記載される佐々久神社がある。仁徳天皇(大鸛鷯尊:おおささぎのみこと)の崩御に際し、その徳を慕い。社を建てたのがその始まりと伝わる古き社である。「おおささぎのみこと」の音にあわせ、社の名を「佐久」としたというこの社が建つ地の旧地名が吉岡村というから、佐々久神社のことだろうか。
また、土師連千嶋って誰?チェックすると、壬申の乱のとき、大友王子軍=天智天皇勢の将軍に土師連千嶋の名がみえる。野州川の戦いで敗死している。どういったコンテキストで土師連千嶋が登場するのか、ちょっと興味もあるのだが、話があらぬ方向にむかってしまいそうであり、本筋でもないのでここで思考停止とする。


河野氏ゆかりの地を辿る
千人塚;西条市新町434‐4

甲賀神社の南に続く長い参道を進み鳥居を出て更に南に下る。鳥居に「御運宮」とあった所以は、上記案内故のこと。境内を出て、車道の西側の畑の中に千人塚がある。
上述『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の説明にあるように、天授5年(1379)河野通堯と阿波・讃岐・土佐をその支配下に置いた細川氏が戦い、通暁が敗死したとの佐々久原の合戦で亡くなった両軍の将士の霊を弔った塚である。
武家方から宮方、そして武家方へと、お家存続のため細川氏対策として複雑な動きをした通暁であるが、この千人塚が祀られた佐々久原の合戦の頃は、宮方から武家方に復帰し中央の反細川勢力と合力し、細川討伐を目した頃である。 細川頼之は細川討伐軍の機先を制し伊予に侵攻。主力を宇摩・新居郡に派遣した通堯の本陣が手薄と見た頼之は本陣に総攻撃を加え、敗れた通堯は自害、通堯の伊予に帰着以降、河野勢に与していた南予地域の実力者西園寺公俊も、佐志久原で通堯と運命をともにした。


河野氏ゆかりの地を辿る■ 
佐々久山の通堯供養塔

『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』には佐々久山に供養塔があると記載されている。佐々久山は千人塚の南にある結構大きい独立丘陵である。それ以上の手掛かりはない。佐々久山には上に述べた延喜式内社の佐々久神社があるので、そこを手掛かりに供養塔を探そうと考える。
「河野通堯公御墓」と刻まれた石標
ところが、成り行きで車を丘陵の周囲を走らせても、この佐々久神社に辿りつけない。丘陵を一周回って再び甲賀神社、千人塚から南に下る道に戻り、丘陵北東端を回り込もうとしたとき、道脇に「河野通堯公御墓」と刻まれた石標があった。どちらに行けばいいのかはっきりしないが、とりあえず丘陵に向かい南に進む道に入り込む。





通堯供養塔
成り行きで進むと水道施設があり行き止まり。道筋には何も案内はない。丘陵側もコンクリート塀でガードされ丘陵には入れそうもない。さてどうしたものかとあきらめかけたのだが、丘陵手前の畑地がある。手前には侵入を阻むロープが張られているのだが、なんとなく、何かを感じる。ロープを越え丘陵裾を進み丘陵北東端部に成り行きでのぼると、そこに供養塔が建っていた。お参りしもとに戻る。





南北朝騒乱の時代

幕府の斡旋で宿敵細川氏との和議が成立。宇摩郡・新居郡を割譲し、 
その地以外の伊予の守護職として以降、相伝することになる


河野通義(第30代当主);細川氏との和議と河野氏の伊予守護職安堵
父通堯の戦死のあとをうけて、河野氏の家督を継承した嫡子(後の通義;第30代当主)は当時10歳。細川氏の攻勢を退けることは困難であり、また、細川氏の勢力が四国全域に拡大することを危惧した将軍足利義満は和議を斡旋。四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予(宇摩・新居の両郡を除く)を河野氏に与えて勢力均衡策をとった。
和議の背景は、頼之が再び管領となって上洛し、執政に多忙で領国を顧みる余裕のなかったことが挙げられる。これ以降、河野氏が伊予国守護職を相伝することになる。

「伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ」の通盛の項で、拠点を湯築城に移したことに異説があるとしたが、湯築城に河野氏が移ったのは、河野氏が室町幕府の統制下、伊予国守護職を相伝することになった、この頃との記事もある(『湯築城と中世の伊予』)。

河野通義(通能):(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)▼

父、通堯の戦死のあとをうけ、幼少で家督を継ぐ。(北)永徳元年弘和(1381)に宿敵細川氏と和議を結び、宇摩・新居二郡を細川氏が領し、残りの地については河野氏が領することになる。
細川氏が通義に書状を送り、周布郡北条郷の多賀谷衆の保護を依頼している。 元中9年(北)明徳3年(1392)将軍義満より「義」を賜る。同年三島神社(桑村)を再建。
続柄;通堯の子
家督:天授5年(1379);(北)康暦元年-応永元年(1394)
関係の社・寺・城:北条里城(東予市北条)、桑村三嶋神社(東予市)



 ■河野氏ゆかりの地を辿る
多賀谷氏北条里城址(多賀小学校:愛媛県西条市北条1504番地)

四国支配を目する細川氏との伊予侵攻に対し、幕府の斡旋により和議のととのった河野氏はしばしの小康状態を得る。和議に際し宇摩郡と新居郡を割譲することにはなったが、細川氏に侵された周敷・桑村の旧領を回復することになる。 ここで問題となるのが北条里城をその館とした多賀谷氏の存在。
「えひめの記憶」に拠れば、多賀谷氏は、はじめ河野氏に属したが、細川氏の勢力が強大になると、旧領主から離反して細川氏に仕え忠勤をはげんだ。ところが周敷郡が河野氏の勢力圏に復帰すると、多賀谷氏は同氏の復讐を恐れるの余り、頼之に懇願してその保護を求めた」とある。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に「多賀谷衆の保護を依頼」とあるのは、和議によって河野氏の領地に属すことになった多賀谷衆に、圧迫を加えないことを求めたわけである。「頼之は通義に書簡を送り、彼らに課せらるべき国役等は勤仕させるから、屋敷奪取の強行措置に出ないように要請した(築山本河野家譜)」とある。
北条里城址
北条(西条市)には、鎌倉時代から室町中期まで多賀谷修理太夫の館があった。天正の頃まで飯塚氏の館(北条里城)と云われたが、秀吉の四国侵攻によって破却された。
その後、塩見氏、黒河氏の屋敷となり、江戸末期には西の庄屋の屋敷となった。明治になって多賀小学校の校地となる。近藤篤山と黒川石漁の母親、菅女の手植の松と云われる大木(根廻り4.3m)があったが、昭和62年10月、自然に倒れた。切り株は小学校、公民館、東予郷土館に残る(「今どきの西条」HPより)。

宇摩・新居二郡
和議の結果、細川氏に割譲された伊予の二郡について。「えひめの記憶」をもとに、その後の経緯を掲載する。
「宇摩・新居両郡が細川氏の支配下になってのちは、この両郡を実質上支配したのは石川氏であると思われる。石川氏は元来細川氏の一族で、同氏の指示によって伊予に入国し、新居郡高峠(高外木)城を拠点として、細川氏の代官として両郡を支配するようになったのではないかといわれているが、その辺の事情は明らかではない。
石川氏は、戦国時代に入るころには、細川氏にかわってほぼ両郡の支配権を確立していたのではないかと思われるが、しばしば武将たちの反抗に悩まされた。天文二〇年(一五五一)ころには兵乱で領国内は騒然としたが、金子城の金子元成らの活躍で鎮定することができた。さらに弘治二年(一五五六)にも兵乱が発生したが、この時にも、元成らの活躍で事なきを得た。そこで、石川氏は細川氏にかわって新しく台頭した三好氏と結んで勢力の維持につとめたが、領内の動揺はその後も続いた。
元成は、二郡の政情の安定を願ってか、河野氏の実力者村上通康に使者を立てて厚誼を求めたが、このような状況のなかで、金子氏の勢力がしだいに台頭し、戦国末期には実質上金子氏が宇摩・新居両郡旗頭の地位に立ったものと思われる(「えひめの記憶」)。



河野氏ゆかりの地を辿る
桑村三嶋神社;愛媛県西条市桑村448‐1

社は前述の甲賀八幡から大明神川を少し下ったところにある。鳥居から誠に長い参道を進む。もとは松並木であったものを檜の並木に植え替えたとのことである。
参道の中程に道場の趣がある建物が建つ。境内にあった案内に拠れば、「建武館」と呼ばれる県下有数の剣道場で、昭和9年(1935)に宮司により建てられたとのこと。
車を建武館の脇にデポし、拝殿にお参り。境内には絵馬殿があり、多くの絵馬が掲げられていたが、その中でひとつ、ガラスの額に入った絵馬は伝狩野元信の筆になる、と。

伝狩野元信の絵馬
境内にあった案内には「狩野元信の*(注;読めない)馬の図は愛媛新聞社編「伊予の絵馬」にも掲載され、作者については疑義あり伝元信としながらも、「県下の絵馬の中でも群を抜いた作品の一つ」と称賛している。あまりに迫力に夜中額面から馬が抜け出して野草を食うとの伝説がある。(本県第二の古額という)。同様の話が河野氏ゆかり地の最初の回、赤滝城址に向かう途中、大野霊神社の絵馬にもあった。

で、本筋の河野氏との関連であるが、境内にあった案内には「(前略)和同5年8月23日創建。社記によれば、慶雲3年(706)国司越智祢玉興が勅を奉じて大三島から勧請し、以降度々遣使奉幣があったという。一説には和同4年(711)大山祇神を祭祀し、一の宮三島大明神と称し、同5年大三島より雷・高?(たかおがみ)二神を勧請合祀して三島別宮地の御前宮と号したともいう。 その後、河野家の尊崇を受け、国司河野通信をはじめ通村、通綱らはそれぞれ社領を寄進した。

興国3年(1342)細川頼春侵攻し社殿焼失したが、明徳3年(元中9年;1392)、河野通能によって再興され、元亀元年(1570)象ヶ森城主櫛部兼氏は神鏡を奉納し社殿を修復した。これより先郡司越智深躬は新市の桑村館に拠って威を張り、春秋の祭祀料として水田1町3反を寄進したという。
永禄年間(1558-1569)桑村少輔俊直これに居り神鏡を奉納、崇敬篤かったが天正13年(1585)小早川隆景のために滅亡した。当社も再び炎上し社宝日記を失い、社領もことごとく没収された。当時の三島田・神楽田などの名が明治初年地租改正の頃まで残っていた。
元禄12年(1669)、(中略)三島神宮社殿を造立、寛保3年(1743)松山藩主の寄進を受けた。昭和10年、拝殿、渡殿を造営し旧拝殿は祓殿及び絵馬殿に改築した」とある。

通能=通義
 『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に、この三島神社を再建したという通義の名が見当たらない。チェックすると、河野通能がその人であった。通義とも通能とも称されたようだ。
それはそれとして、案内には今まで登場しなかった氏名が挙がる。チェックすると、越智玉興とは越智河野氏系図に拠れば、玉興は河野氏の祖とされる越智玉澄の兄で、文武天皇の頃、越智郡大領となる、とある。また、通村、通綱は宮方で活躍した得能氏。通村は通綱の父である。
象ヶ森城主櫛部兼氏は既に観念寺(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)でメモしたように河野家の重臣のひとり。案内ではその櫛部氏の後に、「これより先郡司越智深躬は新市の桑村館に拠って威を張り」とあるが、文の流れとしては少々唐突。「これより先、とは「ずーっと遡り、河野氏の祖の玉澄の2、3代後、桑村に館を構えた。時代は平城天皇の頃だろうから8世紀末の話である。
桑村少輔俊直は平安末期郡司として居住した桑村氏の後裔。天文22年(1553年)、桑村治部少輔俊直公が再居住して以来、代々この地を治める。ために桑村氏中興の祖といわれる。天正13年(1585年)通俊公の代に、豊臣秀吉の四国征伐で小早川隆景と戦い、陣没した、とあるので河野氏の家臣であったのだろう。

南北朝争乱記の河野氏の動向とそのゆかりの地についてメモした。次回は無る町時代をメモする。また、メモの中に出てきた高縄山城や恵良城は、善応寺、雄・雌甲山とまとめて、旧北条市(現在松山市)の河野氏ゆかりの地として後日訪ねようと思う。

火曜日, 7月 05, 2016

伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅤ:旧東予市内(一部丹原)の河野氏ゆかりの地を辿る

南北朝争乱期、武家方に与する総領家と宮方に与する庶家の得能・土居氏など、一族が分裂。中央では、延元3年(北朝建武5年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方が優勢になるも、九州西征府を反撃の拠点とし、そのためにも瀬戸内の制海権を支配せんとする宮方は伊予を重視。新田氏をその祖とする大館氏明氏を伊予の守護として下向させ、新田義貞と共に北陸に散った伊予の宮方である得能通綱・土居通増の後を継いだ忽那・土居氏と共に伊予を一時宮方の拠点とした。
伊予の更なる体制強化のため脇屋義助(新田義貞の弟)を伊予に送った宮方であるが、脇屋義助の病死、阿讃両国を掌握した武家方細川氏の伊予侵攻による大舘氏明の世田城での戦死などにより、伊予での宮方優勢が次第に崩れることになる。
この間、武家方に与した河野総領家は宮方に分かれた一族間の抗争に加え、四国支配を目する武家方細川氏の伊予侵攻に苦慮する。





南北朝騒乱の時代

宮方との抗争とともに、同じ武家方・細川氏の伊予侵攻に苦慮する


河野通朝(第28代):同じ武家方・細川氏の侵攻に苦慮
河野通盛の隠退のあとをうけて、惣領職を継承した通朝(第28代)が苦慮したのは、同じ武家方(北朝)の細川氏の動向である。はじめて資料を流し読みしたとき、何故に幕府の管領をも務める細川氏が、同じ武家方の河野氏を攻めるのか、さっぱりわからなかった。「えひめの記憶」を少し真面目に読み込むと、細川氏の動向は、四国支配がその根底にある、といったことが見えてきた。
細川氏の四国制覇の野望
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。

伊予での宮方・武家方の騒乱に、武家方内部での同じ武家方である細川氏との抗争と少々入り組んだ絵柄となっている。それは足方尊氏が伊予の国人勢力の拡大を牽制する意図もあった、と言うが、それはともあれ、この記事にもあるように、通朝(第28代)は貞治3年(1363)、細川頼之の東予侵攻により今治の世田山城で2カ月にわたる攻防の末、敗死。通盛も河野郷で病死する。


河野通朝(『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』より)

貞治3年(1364)四国統一をめざす細川頼之が侵入、これを世田山城に迎えうったが、城内に寝返るものがあって城が落ち討死。伊予温故録には墓は道場寺(河原津)、伊予史精義には西山興隆寺にあると記されている。
続柄;通盛の子
家督:正平18年;(北)貞治2年(1363)?正平19年;(北)貞治3年
関係の社・寺・城世田山城(東予市)道場寺(東予市)、興隆寺(丹原町) 墓や供養塔;伊予温故録;道場寺(東予市)、伊予史精義;興隆寺(丹原町)、大通寺(北条市)

世田山 328米
東予市旧楠河村に属し、峰続きに朝倉の笠松山に連なり国立公園地帯である。興国3年の頃(1342)守将大舘氏明は伊予官軍の勢力を盛り返そうとして脇屋義助卿を迎えたが不幸にも病没し、そのすきに阿波讃岐の敵将細川勢が大挙して来襲し世田城を包囲攻撃した。
守兵達はこれに対してよく奮戦したが遂に落城し氏明は戦死した。この時脇屋卿の家来篠塚伊賀守はただ一人城門より打って出て、自慢の鉄棒を揮い敵中を突破して、今張の浦に至り敵船を分捕って沖ノ島に上陸したという。沖の島は今の魚島といわれている。
守将氏明や戦死した家来を祀る碑が山麓の医応院(瀬田薬師)の傍にある。


河野氏ゆかりの地を辿る
世田山城

Google Earthをもとに作成
河野氏ゆかりの地として、貞治3年(1363)河野通朝が細川頼之により敗死した世田山城に向おうと思うのだが、上記『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』の河野通朝の項の「世田山」の説明には通朝はなく、細川氏と戦い討死した大館氏明氏の案内があった。
通朝と同じ武家方の細川氏との抗争に関しては、上でメモしたが、宮方の大館氏と武家方の細川氏の抗争については今一つはっきり理解できていない。そもそもが、大館氏って誰?といった程度の知識である。丁度いい機会でもあるので、大館氏をとりまくあれこれをチェックしておこうと思う。
大館氏の四国への下向
先ず、時代からいえば、大館氏と細川氏の交戦は興国3年の頃(1342)と言うから、河野通朝が細川氏と交戦し敗死した貞治3年(1364)より少し前、時代背景から言えば、新田義貞、北畠顕家といった南朝の重臣、伊予の宮方に与した得能通綱・土居通増も新田義貞の北陸への退却戦の途中討死するといった、南朝の威勢に陰りが見える頃のことである。
Google Earthをもとに作成
制海権支配の地としての伊予の戦略的重要性
「えひめの記憶」に拠れば、「中央では、延元三年(北朝建武五年;1338)、南朝の重臣である北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死により武家方の地盤はますます強力なものとなった。この時南朝では、奥羽の諸国ならびに瀬戸内海の沿岸および九州地方の経営に力をつくし、背後から武家方の活動を間接的に阻止しようと企図した。この難局にあたったのが、宮方柱石の重臣といわれる北畠親房であった。
大舘氏は新田氏の支族
親房は上記戦略のもと、内海では忽那・土居・得能氏らと連和して、肥後国の菊池氏と相通じて、内海の制海権を完全に掌握し、あわせて九州の宮方の活動を援助しようとしたようである。
この当時、伊予の宮方は忽那氏が瀬戸の海を中心に、土居通重・同通世らが久米郡を根拠地として活動を続けていた。さらに、伊予の南朝勢を強化すべく大館氏明が伊予国守護として来任し、桑村郡世田山城に居を構える。時期ははっきりしないが、後醍醐天皇が吉野に逃れた後とのこと、というから建武3年(1336)以降のことではあろうと思う。
大館氏は新田氏の支族であって、上野国新田郡大館に居住し、その地名をもって氏とした。大館宗氏(氏明の父)は新田義貞に従って鎌倉幕府攻略の節、極楽寺坂に戦没した、といった「大物」の下向である。
宮方が伊予で優位にたつ
その頃の河野氏は、建武4年(1337)通盛が都から伊予に戻ったとするから通盛の時代である。その通盛に対して宮方は、「土居通世の軍と協力して、通盛の本拠である湯築城を攻撃し、さらに土居氏の拠る土肥城を後援し、すすんで道前地域の武家方の諸城を撃破して、宮方のために気勢をあげた。(中略)その結果、伝統的に偉大な権勢を維持してきた河野氏は、一大打撃をうけたのに対して、一時忽那・土居氏を中心とする宮方の隆盛期を迎えた」とある。
細川氏の伊予侵攻
中央での劣勢に反し宮方の拠点となった伊予では、その体制を更に強化すべく新田義貞の弟である脇屋義助を伊予に下向させた。興国3年(北朝暦応5年;1342)のことと言う。「えひめの記憶」には「義助の胸中に描かれた経営策は、東は北畠氏によって吉野朝廷と連絡を保ち、西は九州の征西府と相通じ、南は土佐国の宮方と提携し、北は備後国の宮方および忽那氏の率いる水軍の援助によって、武家方の総帥の細川氏の権勢を抑圧して、南朝の一大勢力を樹立しようとするにあったといっても、決して過言ではないであろう」とある。
しかしながら、義助の病死により南朝方の思惑は崩れることになる。そこに伊予の宮方の最大の脅威として登場するのが細川氏である。
「えひめの記憶には」、伊予を南朝の一大拠点とした宮方にとっての「最大の強敵は阿讃両国を掌握した細川氏であった」、とし、続けて「頼春は義助の急死を知り、宮方の形勢の動揺に乗じて、伊予侵略の歩をすすめた。頼春はまず国境を越えて、土居氏の拠る川之江城を攻撃し(中略)。頼春は、勢に乗じて宇摩・新居両郡地域を征服し、ついに大館氏明の拠る世田山城を目ざして進撃し(中略)陥落(中略)。宮方にとって世田山城の喪失は一大痛撃となり、この地域の形勢が全く逆転する結果となった。
義助・氏明らの相つぐ不幸により、統率者を失った伊予の宮方の活動が、以前に比較すると、次第に孤立的になったのも当然であろう」とある。
『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』にあった、細川勢とは細川頼春のことであり、この世田山城での宮方・大館氏の敗北により伊予の宮方の威は衰え、伊予は宮方と細川氏の抗争から、同じ武家方である河野氏と四国支配を目する細川氏の抗争の時代へと向かうことになる。その間の状況は上で通朝のメモで示したとおりである。 
土居氏
伊予国の豪族河野氏の支族。蒙古襲来に活躍した河野家第26代当主・通有の弟伊予国久米郡石井郷南土居に住したのに始まる。
土居氏は、元弘3年(1333)後醍醐天皇に与し挙兵し、同族得能氏や忽那氏と連合して伊予の武家方を攻め、後醍醐天皇の伯耆よりの帰着を兵庫に迎えた。 建武の新政が破れ、河野通盛が足利尊氏から河野氏の惣領職を認められ、帰国して伊予の南朝方に攻撃を加えた頃、土居氏は得能氏らと共に新田義貞傘下で各地を転戦、義貞の北陸退却戦の折、土居家当主は越前で討死した。
土居氏一族はその後も忽那氏と提携して、宮方として重きをなしたが、興国3年(1342)細川勢と戦いで敗れ、土居氏の威は消えることになる。


世田山に上る
愛媛に育ちながら、伊予での南北朝の騒乱、一族敵味方に分かれての抗争、大物・新田氏支族の伊予下向など、あまりに知らないことが多すぎ、山に上る前に少々メモが長くなった。とっとと山に向かう。

世田薬師;12時16分
世田山城のある世田山へは世田薬師から登ることになる。実家のある新居浜市から西条の国道196号を今治へと向かい、周桑平野が山地に阻まれる西条市と今治市の境を、少し今治市に入ったところ、予讃線が国道196号にほぼ接するところをヘアピンで曲がり、再び西条市へと山麓の道を走ると世田薬師がある。 広い駐車場に車をデポ。
本堂にお参り。「世田のお薬師さん」と子供の頃から聞き知っているが、正式には世田山 医王院 梅檀寺と称する。寺伝によれば、奈良時代の神亀元年(724年)、行基が四国を巡錫している折に、世田山上に薬師如来の姿を見つけ、栴檀の木にその姿を刻んだとある。梅檀寺と称する所以である。
きゅうり封じ
お寺さまは、元は山腹にあったようだが、昭和2年(1927)大師堂と三宝荒神堂を山麓に移し本坊を構え、山腹の本堂は奥の院とした(Wikipedia)。 このお寺様は厄除け「きゅうり封じ」で知られる。きゅうりに名前や病名などを記入し祈祷ののち家に持ち帰り、体の悪い部分をそのきゅうりで撫で土に埋めて病気平癒を祈願する。体力の衰えやすい夏、とりわけ土用の丑の時期に江戸の頃からおこなわれている「きゅうり加持」とのこと。 何故「きゅうり加持」?弘法大師空海が中国から伝えたという厄除けの秘法とのこと。秘法は秘法としておくとして、「きゅうり加持」はこの世田の薬師さんに限らず、京のお寺様など各地に見られるようである。
大館氏明公位牌殿
登山口を探して境内を彷徨って居ると、本堂に向かって右手、道路から境内に入ってすぐのところに石碑があり、「嗚呼忠臣大館氏明公至誠存。。。」と刻まれる。
石碑脇の案内には「大館氏明公位牌殿」とあり、「大館氏明公は新田義貞公の甥にあたり、南北朝時代(14世紀)に南朝方の重鎮として全国各地で大活躍し、伊予の守護とし、世田山城の城主となる。
1342年に北朝方細川頼春と壮烈な戦いの後、戦死す。墓は山上本堂横に有り、位牌はこの三宝荒神尊社横にまつられている。
太平洋戦争終了戦までは命日の9月3日には位牌殿前で盛大に大館祭りがおこなわれていた。社殿前には大正12年に大館保存会にて顕彰碑が建てられている」とあった。

実のところ、この世田山に登ったのは、河野氏ゆかりの地を辿る散歩の一年ほど前のこと。大館氏って誰?細川氏と何故この地で交戦?とは思えど、それ以上の深堀りをすることもなく、当日は「えひめの自然100選」に選定されており、瀬戸内海国立公園の一部になっている世田山から笠松山の景観を楽しみに上っただけのことである。以下の散歩の記録もその時のログをメモしたもの。

登山口
駐車場からお寺様に向かう石垣には「世田山」の案内、「世田山遊歩道入口」への案内、「世田山(1.5km)奥の院」の案内があり、境内を少し右に出たところにある登山口はすぐわかる。
奥の院までの「遍路道」の案内、笠をかぶったお地蔵さんを見遣りながら進み、竹林の中を抜け、次第に傾斜もきつくなる山道を進む。時に見晴らし台を兼ねたベンチがあり、周桑の平野の展望が楽しめる。



石灯籠:12時34分
二つ目の展望所、ベンチを越えると石灯籠が建つ、「笠松山1.6km」、「奥之院400m」の木標を見遣りながら進むと石段状の登山道となる。左手に見える今治方面の海の眺めを楽しみながら道を進むと平坦地が見えてくる。






船曳地蔵・不動明王;12時39分
うぐいす谷と称される平坦地入口にはお地蔵様が並び、船曳地蔵が祀られる。 「船曳地蔵」には「日本一体 海上・交通案内」とある。船に乗っているように見える。「日本一体」とあるが、googleで検索しても他にヒットしない。「船曳地蔵」と称する石仏はこの一体だけ、ということだろうか。右手の崖面には不動明王が造立途中であった(2014年7月)。

奥の院;12時43分
「奥之院200m」の案内を見遣り、左手が開け、古代城跡のある永納山の向こうに瀬戸の海を眺めながら先に進むと右手に石段がある。直進しても道があるようだが、石段を上る。108段あるようだ。
上り切ったところに注連縄のついた大きな石がある。「腹こわり石」と称され触るとお腹をこわす、とか。何故にそのような言い伝えが出来たのか興味はあるのだが、チェックしてもそれらしき資料は見つからなかった。奥の院にお参り。
古代城跡
永納山城は百済救援のための白村江の戦いに敗れた大和朝廷が、新羅・唐の侵攻に備え築造した防御拠点。

大館氏明公墓所
本堂向かって右手に大館氏明公墓所。案内には「大館氏明公墓所(世田城主贈勢四位)
南朝の忠臣大館氏明公は、新田義貞の甥にあたり武勇すぐれ、伊予の守護に任ぜられ世田城主となる。
伊予の宮方(南朝)を守るべく活躍するも、1342年(興国2年;注ママ)北朝方細川頼春の大軍1万余騎が攻め入り遂に力尽き城に火を放ち17勇士と共に切腹する。
時9月3日、氏明38才なり。これを世田山の合戦という。(大平記より) この墓は1837年(天保8年)氏晴(17代)建立する。寺説では左後の小さな墓が元々の墓といわれる。
世田山城はその後も二度の大戦(1364年)と(1479年)がある。名実共に世田山城は中世伊予の国の防衛の拠点であった」とあった。

上にもメモしたが、はじめて「大館氏明氏」の名を見たとき、大館氏って誰?また、何故に細川氏が伊予で戦う?など??満載であったが、その時は、瀬戸内国立公園に指定された世田山の景観を楽しこの山に登っただけであり、特段散歩のメモをすることもなく疑問のまま残っていたのだが、今回河野氏ゆかり地を辿る散歩で世田山が登場し、大館氏、細川氏のあれこれについてはなんとなく疑問は解消した。因みに案内に興国2年とあるのは3年の間違い、かと。
なお、お墓は基本的に写真を撮らない方針なので写真は遠慮した。


大館氏明
大館氏が伊予の守護に下向する背景は既にメモしたが、大館氏の宮方の大物たる所以を、守護下向以前の軍歴から補足する。まずは、新田義貞の鎌倉攻めに参陣、その後北畠顕家に従い近江佐々木氏を攻撃、尊氏西国に敗走後は播磨の赤松氏を攻撃。尊氏の再起による湊川の合戦に参陣。宮方敗北後、後醍醐天皇の叡山への避難・抵抗に従う。新田義貞の北陸転戦に従うことなく、吾醍醐天皇の吉野入り・南朝宣言後、守護として伊予に下ることになる。
なお、氏明自刃後の大館氏であるが、氏明の子義冬は九州に隠れていたが、北朝方の佐々木道誉に見いだされる。室町幕府に出仕。この系統の大舘氏は室町幕府内では、足利氏と同族(源義家子息義国流)の新田氏支族であったという由緒ある家柄故か、一族は政所奉行人を務めるに至った、とのことである。

世田山頂;12時55分
大館氏明公墓所の左手の道を進み、杉木立の中を進み、途中右手に開ける周桑の平野を見遣りながら10分ほど進むと尾根に出る。木に無造作に「世田山 339m」の標識が括り付けられていた。







城址展望所;12時58分
登山道が尾根に合わさったところから左右に通る尾根道がある。とりあえず左手に向かうと『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に記載「世田山328米」の案内があった。その先には木標に「世田城址(展望所)」とある。その先の大岩の左手を迂回すると素晴らしい展望の岩棚に出る。
周桑の平野、その先の四国山地も一望ももと。往昔迫りくる細川勢を大館氏、河野氏共に、この地から物見をしたのではあろう。
山に上り、その戦略上の要衝たる所以を実感
また、散歩の当日は、なんと景色のいい所よ、さすが瀬戸内海国立公園に指定されるだけのことはある、などとお気楽に景色を眺めていたのだが、この城を巡って、細川氏と大館氏、その後も正平19年(1364)には河野通朝(第28代当主)と細川頼之との戦い、それから更に時代を下った文明11年(1479年)には細川義春と河野通生(第33代当主・教通の弟)との戦も繰り広げらたことを知る及び、美しい景観も異なる視点で見えてくる。
周桑平野と国府のあった今治平野を画する山地の頂きにあり、その周囲を睥睨する眺めは軍事上の要衝の地であったと思われる。周桑の平野を侵攻した敵から伊予の中心である府中を守る最後の盾といった山城である。「世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶ」と言われる所以がよくわかる。

笠松山へ向かう
城址展望所から尾根道を引き返し、登山道との合流点を越えるとすぐに展望台。少し荒れており、休憩する勇気なし。また草木に遮られ、見晴らしもそれほど良くはなかった。
展望台を即離れ、笠松山に向う。散歩の当日は、特に河野氏ゆかりの云々で歩いたわけではなく、とりあえずついでのことだから行ってみようと思った程度ではあった。結果的には、笠松山にも河野・大館氏ゆかりの事蹟もあり、なによりも尾根道からのすばらしい景観を楽しむことができた。成り行き任せではあるが、結果オーライの散歩とはなった。

笠松山への尾根筋;13時5分
尾根道を笠松山に向う。市域は今治市になる。尾根の稜線の左右が開け、素晴らしい展望が楽しめる。進行方向正面には岩肌の見える小ピーク、右手は今治市と瀬戸の海、左手は県道155号が走る朝倉谷。この眺めだけで、この地が瀬戸内海国立公園に指定されているのが納得できる。石段になった小ピークを上り、先に進む。

笠松山が見える;13時11分
小ピークから緩やかな下りを進むと道は直角に曲がる箇所に来る。ここが世田山から笠松山への尾根道の乗り換えポイント。左手前方に笠松山の電波塔が見えるのだが、一度山を下り、笠松山に登る石段の登山道が前方に見える。
一度下り、また上り返しの道筋がこうもはっきり見えると、少々気が重くなる。

笠松山・姫宮神社;13時34分
下り切ったあたりに木標があり、笠松山・世田山へそれぞれ0.5kmとあった。丁度中間点である。またその木標には「水大師」への案内もあった。笠松山を通らず、谷筋を集落へと下る道が地図にあった。
その先は、笠松山への上り返し、尾根道に上り切れば、ほぼ平坦となった尾根道からの景観を楽しみながら進み、アンテナ手前で少し上ると神社があし、そこが笠松山の頂上となっている。
社は姫宮神社の観音堂のようである。また、お堂そばの尾根平坦地には笠松山の案内があった。
笠松山
「笠松山 357米 朝倉村の笠松山は国立公園の一つであり昔名木傘の形の松があったが現在は枯れてない。
わたくしにふる雨しのぐかさまつの
滝の水木のあらんかぎりは 河野為世 詠
年代は明らかでないが河野四郎為世の隠居所があったといわれ、南北朝の忠臣篠塚伊賀守の居城があった笠松山観音堂は伊賀守が城を落ちのびる際、兜の内側に秘めていた一寸八分の黄金観音像を笠松山頂に安置して去ったものを戦の後、村人がこの地に小祠を建てて祀り、その後度々改築されて現在に至っている」とあった
河野四朗為世
越智氏の流れをくむ玉澄を初代当主とする河野氏の系図には、第15代当主として四朗為世の名が掲載されている(子の系図では、このメモの当主表示の家系図。通清が22代当主となっている)。ただ、四朗為世を同じく越智氏の流れをくむとする新居氏の祖とする記事もある。
メモの初回に述べたように、鎌倉以前の確たる記録は残ってにないようであり、河野氏であれ新居氏であれ、その祖を伊予の豪族越智氏と結びつける家系図作成故の「交錯」ではあろう。玉川町鍋地には四朗為世の霊を祀る四朗明神があるという。

●気になった山肌の質感は山火事跡
当初の予定ではこの笠松山で引き返すことにしていた。が、笠松山から眺める朝倉谷方面に延びる尾根筋の景観が気になり、そのまま成り行きで下ることにした。下りてしまうと、高縄山地から海岸部に延びた山地の峠を越え、ぐるっと山麓を一周して車のデポ地に戻ることになる。結構距離がありそうだが、なんとかなるだろうと道を下る。
で、気になった朝倉谷方面に延びる尾根のむき出しになった山肌だが、後日チェックすると、どうも山火事による木々の焼失跡のようである。独特の質感の山肌と見えたその原因は山火事のようであった。

水大師;13時57分
それはともあれ、20分ほど道をくだると、ふたつの沢が合わさるあたりに祠があった。山道の案内にあった「水大師」のようである。伊予府中八十八番霊場の第16番・野々瀬水大師と称するこの祠は、近在の農民が農作業に必要な水をお祀りしている、とか。
因みに、この野々瀬口が世田山合戦最大の激戦地であったと『太平記』にあるようだ。成り行き任せで歩いても、それなりの地に巡り合うものである。

野々瀬古墳群;14時9分
野々瀬の谷の道を下ると、道脇に野々瀬古墳8号の案内がある。案内がなければ草の繁った塚といったもの。更にその先に「七間塚古墳」の道案内がある。道を右に折れて進むと「野々瀬古墳3号」の案内。塚の下に石室の口が開いていた。その先に「野々瀬古墳2号」。この古墳も石室への口が開いていた。












七間塚古墳
道なりに進むと「七間塚古墳」があり、手前には案内があった。 案内には「野々瀬古墳具の中で最大の積室を有する。巨石を用いて見事に築造された典型的な横穴式円墳として県下でも有名である。特に天井石は素晴らしい。
墳丘 直径18m 高さ6m
石室 奥行9m 高さ2.2m」とあった。
また石室口の手前には「野々瀬古墳1号(七間塚)の案内と共に石碑があり、 「この古墳群は県下最大のもので、昭和初期の記録によると百基を超していたが現在は跡と共に四六基となり、なかでもこの七間塚は大規模なもので群を代表するものであろう。これらの古墳は横穴式円墳で、建立の年代は六世紀の終わりから七世紀半ばまでのものと考えられる。埋葬された人の数は多く、身分階級の範囲は広いものと推定される。」とあった。
笠松山北麓から朝倉谷の田園地帯には古墳だけでなく弥生時代の遺跡も多数残っているようである。鉄製農具の普及により豊かな地を耕し、富を蓄積した有力豪族が出現していたのでああろう。

県道;14時36分
思いがけなく出合った古墳群を離れ、右手に北に延びる高縄山地からの支尾根を見遣りながら朝倉地区を県道162号に出る。
朝倉
今治平野の内陸部に位置。北は開けるが、他の三方は山地で囲まれている。山地は森林でおおわれている。東予市(現:西条市)に源流を発する頓田川の上流域にあたり、頓田川は朝倉地区を貫き、今治市東部を経て、燧灘(瀬戸内海)に注いでいる。
村名の由来は、周囲を山に囲まれ朝暗いから「あさくら」との説、斉明天皇が、百済への援軍を派遣する際に、この地に約滞在され、その後、九州の朝倉に兵を進められた故との説、斉明天皇が滞在の時、木で御殿を建てたが、建築様式が校倉づくりであったことから、「あぜくら」が「あさくら」に転訛したものなど諸説あり。なお、斉明という地名も残っており、何らかの形で斉明天皇にちなむものとみるのが適当といわれている(Wikipediaより)。

石打峠;14時43分
県道を進み、ほどなく支尾根の峠に。そのときは、車道が走る、ありふれた峠と通りすぎたのだが、帰宅後地図を見ると「石打峠」とある。なんとなく気になりチェックすると河野氏に関係するエピソードが登場した。
話はこういうことである;頼朝の平氏打倒に呼応して四面楚歌の中挙兵した第22代当主・通清であるが、備後より渡海し攻め寄せた平氏方の奴可(ぬか)入道西寂に「山の神古戦場」で敗れ、討死した。通清の子、河野家第23代当主・通信は奴可入道西寂を攻めこの朝倉の地まで追い詰める。追撃戦の途中、矢玉を切らした通信軍は近くを流れる頓田川の小石を礫に投げかけ、西寂軍は峠を越え、桜井郷長沢に逃れた。ために、この峠を「石打峠」と称するようである。

国道196に;14時51分
峠を下り長沢地区に出る。あとはひたすら国道に沿って歩き、50分ほどかけて瀬田薬師への分岐点に。時刻は15時38分になっていた。

世田薬師に戻る;15時53分
分岐点から20分弱あるき、世田薬師に。後さきを考えず笠松山から下ってしまったのだが、おおよそ2時間半ほど歩くことになった。また、途中で野々瀬古墳にも出合えたし、石打峠と言う河野氏ゆかりの地も出合えた都いう事で、良しとする。



河野氏ゆかりの地を辿る
興隆寺;愛媛県西条市丹原町古田1657

世田山城と同じく、西山興隆寺には別の機会に既に訪れていた。いつだったか丹原地区の利水史跡を辿った折、かつての西山興隆寺の門前町とも云われた古田(こた)の水路を探しに訪れ、その時に興隆寺にも足を運んだ。
河野氏ゆかりの地とは言いながら、河野通朝が眠るとの説があるお寺さまであるので、その時のメモをもとに簡単にまとめる;
興隆寺は河野家第27代当主・河野通盛(伊予西条 河野氏ゆかりの地散歩 そのⅣ)の項の中でメモした、南朝方忠臣・得能通綱の居城・常石城の少し南、急傾斜の扇状地を形成した新川支流が流れ出す谷合の山中にある。
御由流宜橋
県道151号を山に向かって急な坂道を登り駐車場に車を置き、沢に架かる風情のある橋を渡る。御由流宜橋(みりるぎ)橋の由来は弘法大師がこの橋のたもとで、「み仏の法のみ山の法の水 流れをも清く みゆるぎの橋」と詠んだことから。橋裏には梵語で経文が書かれていることから無明から光明への架け橋ともされる。





仁王門・本堂
仁王門をくぐり頼朝が本堂再建に折、この地で力尽きた牛を弔った牛石、千年杉の古株、寺男に化けて参拝人を助けた狸の夫婦が棲んでいたと伝わる楠の大木・お楠狸を見遣り、石垣を見ながら最後の石段を上り本堂にお参り。
Wikipediaによれば、「西山興隆寺(にしやまこうりゅうじ)は、真言宗醍醐派の別格本山。山号は仏法山。仏法山仏眼院興隆寺と称する。本尊は千手千眼観世音菩薩。紅葉が有名で、紅葉の名所である「西山」を付して「西山興隆寺」と呼ばれている。四国別格二十霊場第十番札所、四国三十六不動尊第八番札所、四国七福神(えびす)。
創建の経緯は定かでない。寺伝によれば、皇極天皇元年(642年)に空鉢上人によって創建されたといい、その後報恩大師、空海(弘法大師)が入山し、桓武天皇の勅願寺ともなったという。源頼朝、河野氏、歴代の松山藩主、小松藩主をはじめとする地元の有力者の尊崇を得て護持されてきた。現在では、真言宗醍醐派の別格本山となっている。
興隆寺は、多数の国・県・市指定文化財を有しているが、本堂 (寄棟造、銅板葺き。文中4年(1375年)の建立。寄棟造であるが、大棟が著しく短いため、宝形造のように見える)、宝篋印塔、銅鐘は重要文化財(国指定)に指定されている」とあった。



河野氏ゆかりの地を辿る■
道場寺;西条市河原津甲123

国道196号を走り西条市と今治市の境、国民休暇村のある大崎ヶ鼻の手前、車で走るときに、「カブトガニ繁殖地」といった大きな看板のある海岸の南が河原津地区。道場寺は国道196号の海側傍にある。
集落の中を通る道は車一台がギリギリ、といったもの。昔の集落のつくりが今に残っているのだろうか。その狭い道を進むと道場寺があった。天暦元年(947)に越智氏が再建した河原道場がその前身。道場寺と呼ばれる臨済宗のお寺さまとなっている。
河野通朝が眠ると記録にあるお寺さまのようだが、同じく通朝が眠ると別資料にある西山興隆寺共々、これといった案内はない。河野氏ゆかりの案内はなかったが、他の寺社でも見かけた小松藩主・一柳直卿の扁額の案内があった。
河原津の埋め立て

河野氏との「有るか無いか」といったお寺さまの話より、気になったのがお寺さまの海側に広がる埋立地。地域の南に大明神川、北に北川が流れこんでいる。ふたつの河川から流れ込む土砂によって堆積され形成された干潟をもとに、壬生川と同じく江戸の幕政時代に埋め立てたのかと思ったのだが、この地の埋め立て工事は昭和32年から開始されたものであった。
「えひめの記憶」に拠れば、元々の河原津の集落は「大明神川河口より燧灘の海岸線に沿って、海抜二・五mの浜堤が続く。河原津の集落はこの浜堤上に立地する細長い列状の集落であり、付近は遠浅の海岸で干潟が分布する。七〇年に一度は干拓が可能であるといわれるぐらいに土砂の堆積がすすむ干潟」とあった。
その干潟を、計画では大明神川から北川まで、北川から大崎ヶ鼻まで埋め立てる計画であったようだが、大明神川から北川までの「河原津新田」、北川から先の漁港のある「河原津」地区まで埋め立て、その先の計画は中止となったよう。その理由は、昭和四〇年東予国民休暇村に指定され、休養地、観光地的面から汀線の保存が配慮されたとのことだが、戦後の食糧不足の時期に立案した新田開発が時代の趨勢とともに食料増産の埋め立て計画が不要となった、ということである。結果的にはそのおかげで「カブトガニ」の生息地が保護されたことになるのだろうか。
因みに、埋め立てされた、漁港のある河原津の埋立地は漁業関係者との調整がつかず、現在も放置され、雑草が生い茂ったままになっていた。

なお、河野通朝ゆかりの地として北条市(現在の松山市)の大通寺が挙げられているが、北条地区の河野氏ゆかりの地は別の機会にメモすることにして、今回のメモを終える。