木曜日, 8月 10, 2017

伊予 歩き遍路:四十三番札所・明石寺から四十四番札所・大宝寺へ ➂:水戸森峠越え

四国霊場43番札所・明石寺から44番札所大宝寺までの80キロ近い遍路道を繋ぐ散歩も今回で最終回。当初、この遍路道の後半部、内子の辺りから大宝寺に辿るおおよそ40キロの途中のある峠越えだけのつもりではじめ、下坂場峠・鶸田峠越え、真弓峠・農祖峠越えルートで大宝寺に、更には44番札所大宝寺から45番札所・岩屋寺への打ち戻し無しの遍路道もカバーしたのだが、なんとなく収まりがよくない。
ついでのことならと、前半部40キロも歩き遍路道を繋ごうと43番明石寺のある卯之町から大洲、大洲から内子へと2回に分けて歩いたのだが、「接合箇所」手前で時間切れ。内子の町を離れ後半部の出発点である国道379号線・石浦バス停に抜ける水戸森峠越えの部分だけが残ってしまった。
遍路歩きの指南として活用させて頂いている「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、水戸森峠越えの箇所は、高速道路建設の因もあるのだろうが、あまりはっきりとしたルートが記載されていない。さてどうしたものかと、ちょっと気になっていたのだが、先回の散歩で水戸森峠への取り付き口である、内子町五百木の松尾集会所を訪ねた時、集会所前に地域の方の努力で作られた水戸森峠越えのルート図案内板が建てられていた。

ルート図もわかり、距離も4キロ弱。標高も180mほどであり峠というか丘を越えるといったもの。ピストンで往復するといっても余裕だろう、とお気楽に歩を進めたのだが、これがとんでもない展開となってしまった。
ルート途中で獣除けフェンス外し・戻しに気をとられ、その傍にあった道標を見落としたため、水戸森峠からの下りは、あらぬ方向に進んでしまい、ために炎天下を遍路道探しに右往左往。最後には偶然に遍路道に出合い水戸森峠越えのルートもクリア。前半と後半部を繋ぎ終え、43番明石寺から44番札所大宝寺までのおおよそ80キロの遍路道を繋ぐことができた。

本日のルート;五百木・松尾集会所>水戸森大師堂>五百木農免道碑>道標に従い遍路道に入る>獣侵入防止のフェンス>水戸森峠>舗装道路に出る >遍路道>石浦大師堂(西光寺大師堂とも)>石浦バス停>舗装道と遍路道交差部に戻る>水戸森峠の切通箇所に戻る

五百木・松尾集会所;9時44分
松山道の内子・五十崎インターで下り、国道56号を少し北に進み、大洲の街並み、曽根城があったという丘陵先端部の切通し箇所で、中山川を渡る五城橋を渡り内子町五百木(いおき)の松尾集会所前に。
集会所の駐車場には長時間駐車はダメ、との告知があり、集会所前の道を、中山川に沿って少し北に進み、道が大きくカーブする辺りにある道脇のスペースに車をデポし、松尾集会所に戻る。

さて、遍路道確認のため城廻自治会文化部が平成27年(2015)に作成したとある「遍路道案内」を見ていると、地図作成者メンバーの方が声をかけてくれ、説明していただく。

上述の如く、遍路道指南として活用している「えひめの記憶」の遍路道案内には、この水戸森峠越えルートの説明は「現在の五城橋の50mほど下流で中山川を渡り、田の中の道を通って水戸森大師堂を過ぎると水戸森峠(みともりとう)の上り口に至る。(中略)ここから道は上りになる。ただ、水戸森地区は松山自動車道の通過点に当たり、道は場所により寸断、付け替えられているが、平成3年建立の遍路道標が峠を案内している。
その案内に従って進むと、やがて水戸森中腹の三差路に至る。ここに、元禄2年(1689)建立の県内で2番目に古い道標(内子町歴史民俗資料館保管)があった。右折すると富浦にある石浦へ通じる道である。ここから700mほどで峠の頂上に達するが、そこは眺望もよく、遍路が休憩するのに絶好の場でもあった。 水戸森峠の頂上から下っていくと石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)に至る。かつて接待や休息の場所として賑(にぎ)わったという大師堂の下段には、菅生山まで8里の徳右衛門道標⑩が他の石碑などと並んで立っている。
遍路道は石浦大師堂を過ぎ民家の間を抜けて進むと、バス停石浦で迂回(うかい)する小田川に沿って内子の町並みから進んできた遍路道(国道379号)と合流する」とある。

水戸森峠越えの遍路道
しかし、「平成3年建立の遍路道標が峠を案内する」といってもその場所が分からず、峠から700m手前の三差路に関しては、「えひめの記憶」に掲載の明治37年の地図にはそれらしき三叉路から石浦に続く道筋が見えるのだが、現在に地図にはその道筋は載っていない。
「水戸森峠を越えて小田川に至る山道は、明治40年(1907)発行の地形図からも、国道379号が開通するまで、人々にとっての重要な生活道であり、また遍路道でもあった(「えひめの記憶)」とあるように、当時は重要な往還道ではあったのだろうが、国道ができた現在、その存在意義が失われ、往還道は消え去り、その代わりに出来た林道・作業道が地図の主役となった故のことではあろう。

ことほど左様に、事前でのルート確認はできず、所詮は4キロ弱の峠、というか丘陵といったもので、成り行きで進んでも何とかなるだとうと思っていたのだが、ここにこんなにしっかりした道案内があり、しかも作成当事者からルート概要も説明頂いた。
これで何も心配なしと、お気楽に歩を進めたのだが、道途中にあった獣除けのフェンスに、獣ならぬ我が身がそのトラップに嵌り、遍路道を大きく逸れて、炎天下右往左往する始末となったのは後の話ではある。

水戸森大師堂;9時50分
松尾集会所から右に、集落の中に入り左に折れて坂道を少し上ると水戸森大師堂があった。
ふと思う。松尾集会所で見た地図には城廻自治会とあった。この中山川左岸は五百木地区、右岸が城廻地区である。何故に五百木地区に対岸の自治会名? ここからは単なる妄想。五百木村と城廻村は明治期の町村制施行時に両村から1字を取り、五城村となった。同じ村であったが故の「城廻自治会」との自治会名だろうか。
因みに、城廻は曽根城との関連でわかるのだが、五百木の由来は?部民制の五百部と関係あるのだろうか?不詳である。

五百木農免道碑;9時56分
ほどなく道は「八日市街並 1.0km 水戸森峠 1.2km」と書かれた木標の建つ箇所で左手から道がわ合わさる。松尾集会所脇から左手にぐるっと廻って来た道である(車をデポした川沿いの道は中山川に沿って上って行くので間違わないように)。
道を進むと立派な舗装道路に出る。松山道に沿って先に進むと、高速道路下を抜けるアンダーパスの手前に石碑があり、「五百木農免道」と刻まれていた。 脇にあった解説石碑には「国営大洲喜多農業開発事業により、四団地が達成され、これにより中山間地域を縦断する基幹農道を整備し、生産団地の高生産性農業を確立する目的で建設された」とあり、事業概要として「事業名 農業漁業用揮発税財源 身替農道整備事業(農免農道) 地区名;五百木地区 受益戸数;二百三戸」などとある。
農免道路って地域名を冠した道路名かとおもったのだが、上記、事業名からわかるように公共事業の事業タイプのことのようだ。えらく長い事業名だが、要は昭和28年(1953)に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」により揮発油(ガソリン)税の収入は、国道や県道の道路の整備に充てられる」とされたが、農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費であるとして税金の「免除」が求められ、その要望に対し、税金の免除の替わりに農道の整備を行うということで発足した事業のようである。
道路は、昭和62年(1897)度着工、平成14年(2002)度完成。農業開発事業による生産団地の詳細は不詳だが、行政の資料に「大洲市を中心に実施された国営総合農地開発事業により開発された造成地については、落葉果樹及び草地等を主体とした利用を推進するほか、その他の山間部にある農用地についても、かき、 くり等の樹園地及び放牧地等を主体とした利用を確保していくことを基本とする」とある。このような造成地を繋いだ道と整備したということだろう。因みに解説にあった「中山間地域」とは「農村」と「農山村」を包括した呼称のようである。

道標に従い遍路道に入る;10時1分
高速道路のアンダーパスを潜り、道路に沿って農面道路を少し進むと、道の右手に石の道標があり、そこから農面道路の法面を斜めに進む道がある。「左 へんろ道」の側面には平成3年 城廻分・・(私注;以下、当日確認しなかった)」と刻まれている。先ほど松尾自治会で見た地図は平成27年(2015)よりずっと早い時期に道標を整備して頂いたようである。

獣侵入防止のフェンス:10時5分
ゆるやかな勾配の坂を上る。左手下に高速道路を見遣りながら坂をのぼると丘陵突端部となり、そこには「四国のみち」と「八日市街並み 1.5km 水戸森峠 0.7km」の木標が立つ。
丘陵突端を廻り込むと道は獣侵入防止のフェンスで遮られる。チェーンを外し・戻して先に進む。

水戸森峠;10時12分
道の左手下に果樹栽培の畑を見乍ら、道を辿ると、再び獣防止フェンスがあり、先ほどと同じくチェーンを外し・戻して先に進むと水戸森峠に着いた。
峠には四阿があり休憩もできる。四阿脇にあった案内には「水戸森峠 四国山地を東に眺めるこの山頂は、菅生山大宝寺(久万後)と、源光山明石寺(宇和町)のほぼ中間に位置します。水戸森峠は別名「安場の峠」とも呼ばれており、急峻な坂道を登りつめ、昔はこの辺りで一休みをしたものと思われます。
登り口の両地点には大師堂が祭られ、ゆきかう遍路さんが道中の無事を祈願したものと思われます。
この地は桜の名所でもあり、また山菜の豊富なところでもある為、憩いの場として親しまれています」とあった。

道標が見つからない
休憩するほど歩いてもいないので、ママ、峠から道を下ろうと、松尾集会所にあった四阿傍の道標を探す。が、見つからない。実のところ、道標は峠のすぐ手前、獣除けフェンスのすぐ傍に小さな切通しがあり、そこが東に下る道の分岐点であったのだが、フェンスのチェーン外し・戻しに気をとられ、そのすぐ右手にあった切通と道標を見逃していた。
この道標を見逃したため、炎天下の右往左往になってしまったわけである。

舗装道路に出る;10時25分
峠直ぐ手前にある石の道標、そこから東に下る道を見逃したため、結局道標が見つからないまま峠からの道を下る。結構立派な道が下っており、その時は、この道が遍路道と思い込み、道なりに下る。
北東に10分ほど下ると「たばこ栽培棟」だろう建物の場所に出る。建物の中を突き切る道と右へと廻り込む道がある。どちらもグルリと廻った後で合流するようであるので、とりあえず建物を迂回して下るとすぐに、立派な舗装道に出た。
炎天下の右往左往
舗装道路には下りたのだけど、松尾集会所にあった遍路道地図にある、道路を横切り国道379号沿いの石浦バス停に向かう遍路道が見つからない。今となっては、水戸森峠から下る道自体が間違い道であり、始まりの箇所から間違っているわけで遍路道が近くにあるわけはないのだが、その時はオンコースを下っているものと思っており混乱したわけである。
更に混乱に輪をかけたのが、舗装道路に下りたところにあった木標。「富浦バス停 0.7km 水戸森峠0.6km」と、西方向が富浦バス停、東方向が水戸森峠と示す。行きたいのは石浦バス停であり、富浦バス停ではないし、そもそもが、今下りて来た道が水戸森峠からの道であり、東に進むって、とういうこと?
これも後になってわかったことだが、石浦バス停には富浦バス停とも書かれてあり、同じところではあったわけで、それなら「富浦バス停」へと向かったのだろうが、その時は富浦バス停と石浦バス停が同じものと知る由もなく、富浦地区って結構広そうで、あらぬ方向に連れていかれそうで躊躇した(これもよく見れば富浦ではなく富長地区ではあったし、そもそもがバス停までの距離が0.7kmであり、冷静になれば「直ぐそこ」であることはわかったのだが。。。)。

ということで舗装道路に下りた辺りから道路を横断して国道に抜ける道があるはずと思い込み、右往左往。少し富浦バス停方向へと西に進むが道に沿って深い沢があり抜ける道はなさそうだ。東に戻るとタバコ栽培センター(これも前述生産団地のひとつだろか)がある。その敷地は台地端にあり、ひょっとすれば国道に抜ける道があるのではと敷地端をさ迷うが、抜ける道はまったく、ない。
松尾集会所で見た遍路道地図ではありえない場所ではあるが、たばこ栽培団地(仮称)を東に進むが、石浦バス停からどんどん離れてゆく。これはありえないと、峠から下りる途中で見たタバコ栽培棟まで戻り、建物の中を通る道を抜けるが、結局は地図にある通り、最初に下りた舗装道の少し東に戻るだけ。

炎天下1時間ほどの右往左往に疲れ果て、とりあえず富浦バス停まで下りて国道を石浦バス停まで戻ろうと、富浦バス停に向かって道を進む。しばらく歩くと沢筋から離れ東に突き出た丘陵突端を越えあたりに「遍路道」の案内があった。舗装同を横切り上下に踏み分け道があり、松尾集会所の地図にあった道標も道脇にあった。このルートが遍路道のオンコースであった。
その時は、峠から下る道のどこで踏み間違ったのか、と思っていたのだが、前述の如く水戸森峠のところで全く遍路道とは異なる作業道を下っていたことなど、その時は知る由もなし、ということであった。
師恩友愛碑
遍路道へのアプローチを探し右往左往しているとき、登り窯を見つけたり、「富浦バス停 0.9km 水戸森峠0.4km」の木標(この木標で水戸森峠への道は、国道379号側から前述農面道路などをへて水戸森峠に向かう道であろうということはわかったのだが、富浦バス停の疑問は残ったままであった)などに出合ったが、右往左往で唯一の成果といってもいい石碑に出合った。「師恩友愛碑」がそれである。
石碑脇にあった説明によると、「この地は旧五城村の中心地であった長岡山である。昭和十年五城青年学校が開校され、青年の鍛錬の場として県下の注目を浴びた。昭和十七年、愛媛県立女子拓殖訓練所が開設され、戦時(私注;汚れて読めなかった)の教育の場として全国に知られた。
昭和二十三年、義務教育六三制の実施により、村民の熱望と村当局(? 私注;汚れて読めず)の英断にて五城村立五城中学校が開校された。
昭和五十二年、八百余名の卒業生を送り出した学舎も町村合併により廃校となる。 ここに有志相図り記念の碑を建立し後世に残す 昭和五十四年」。

この石碑解説からわかることは、前述の明治期の町村制施行時に百木村と城廻村の両村から1字を取り成立した五城村の中心がこのあたりであった、ということ。その地に、「義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う(Wikipedia)」青年学校が設立されたこと。
そしてなにより気になったのが女子拓殖訓練所。チェックすると、この女子拓殖訓練所とは満州開拓花嫁養成所として設置されたものと言う、満蒙開拓の定着推進のためには、開拓者の花嫁が欠かせなかったのだろう。実際一部の方は花嫁として渡満したとのことである。
こんな「中山間地域」で歴史の一端に触れるとは思わなかった。あたりまえだが、世の中にはまだまだ知らないことが多くある。

遍路道;11時19分
遍路道の案内があるところが見つかったのが、11時19分。おおよそ1時間ほど右往左往していたことになる。上に続く遍路道脇にある道標も確認し、とりあえず石浦バス停へと遍路道を繋ぐことにする。木立の中、遍路道の標識などを見遣りながら5分ほど下ると里に出た。

石浦大師堂(西光寺大師堂とも);11時24分
大師堂は扁額に「金栄山 西光寺」とある。西光寺大師堂とも称されるようである。素朴な造りの大師堂が多い中、この大師堂は細やかな木彫りの意匠で飾られていた。
お堂から美しい棚田を眺めながら一休み。お堂に佇む地元の方にお供えのお饅頭の御接待を受けた。毎月21日に地元の方が茶菓子を持ち寄り、大師堂に集うとのこと。当日は七月二十五一日。地域の方が三々五々おお堂に集まりはじめていた。子供の頃、祖母に連れられて近くの大師堂に行った記憶が蘇る。
徳右衛門堂標
お堂前には光明真言百万遍供養と並び徳右衛門道標が建つ。「是より菅生山迄はは八里」と刻まれる。菅生山は44番札所・大宝寺の山号である。手水鉢には天保十年の銘が刻まれる、とのことである。
●四国へんろ道案内 (4)
御堂の遍路道傍に「四国へんろ道案内 (4)」が建つ。「四国遍路の旅は阿波の“発心の道場”(1‐23番)に始まり、土佐の“修行の道場”(24番-39番)を経て、伊予の”菩提の道場”(40番‐65番)に入り、最後は讃岐の“涅槃の道場”(66番‐88番)を巡って結願となります。
水戸森峠を下ったお遍路さんは、この石浦大師堂に参拝し一休みしました。この大師堂では春の縁日には近郷の人びとがお米を持ち寄り、お接待をする習慣もあったようです。
また、旧暦3月21日と7月21日には、近在の力士達を集めて相撲が行われ、多くの客を集めていましたが、これらの風習もと絶え、近年は盆踊りが復活しています。
へんろさんはここからさらに歩を進め、小田川沿いに大瀬方面に向かい、曾我五郎・十郎の首塚を参詣した後、44番札所大宝寺(上浮穴郡久万町;私注;旧地名)をめざして足を運ぶのでした」とあった。

石浦バス停;11時32分
お堂で地元の方と少しお喋りし、ちょっと休憩の後、道なりに進み国道379号に出る。国道に面した福岡酒店の前に「四国の道案内図」があり、そこには現在地として「富浦バス停」とある。
小田川傍にある小屋建てのバス停には「石浦」と書いてある。石浦、富浦が混在なのか併在なのか、ともあれ、表記が統一されていなかった。山中での右往左往も「富浦バス停?石浦バス停」と分かっておけば、もう少し混乱がセーブできたかとも思う。
それはともあれ、本来はこれで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部を繋ぎ終えるはずではあったのだが、水戸森峠からの下り一部区間が抜けている。その部分をトレースすることになるのだが、車デポ地へのピストン行。いつもは少々ウザったいピストン行も、今回は誠にありがたく感じ、気持も軽く復路ルートを開始する。

舗装道と遍路道交差部に戻る;11時48分
国道379号から折り返し、石浦大師堂脇の「へんろ道案内」すぐ脇を進む。この箇所は左手にも道が伸びており、間違って進み途中で気づいて折り返した。ちょっと間違いやすいので注意が必要。
後は道なりに進むとほどなく舗装道と遍路道が交差する箇所の戻る。

水戸森峠の切通箇所に戻る;11時58分
道傍にある石の道標の「右 へんろ道」の案内に従い、斜めに上る踏み分け道に入る。杉木立の中を進むと林道にあたる。左に折れるとすぐに切通し。切通しを抜けると往路で出合った二番目の獣除けフェンス前。右には水戸森峠の休憩所に廻り込む道、足元の切通箇所には松尾集会所の地図にあったとおり石の道標があり、「右 へんろ道」と刻まれていた。

獣除けフェンスの開け閉めに気をとられ、この切通の道と道標を見逃したのが今回のドタバタのすべての因。よくみれば松尾集会所のへんろ道地図は、道標は水戸森峠あずまやに接してはいるが南に描かれている。休憩所あずまやの裏手にも廻り込み、道標や遍路道が見つからないと、あらぬ道を進んだのだが、まさか切通しがあったとは。切通から直ぐ上に水戸森峠の休憩(あずまや)が建っていた。
これで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部の未踏ルートも繋がった。あとは来た道を車デポ地に戻るだけ。

車デポ地に戻る
山道を下り、農免道路を下る。炎天下で結構疲れていたのか、知らず松尾集会所から農免道路に合流した箇所を見逃した。結局農免道路を下りきり、中山川に架かる田中橋を渡り、結構な遠回りでデポ地に着いた。峠越えのルート図があっただけで「勝った気になり」道を見落とし、散歩の最後でも合流点はわかるものと思い込み間違い道。気を抜いたらダメだよな、と改めて思った水戸森越えではあった。

日曜日, 7月 30, 2017

埼玉 古利根川散歩;葛西用水を大落古利根川起点から姫宮まで

会の川、浅間川跡と辿った旧利根川流路を辿る散歩も、先回は会の川と浅間川が合わさる旧川口溜井のあった川口分水工(加須市川口)から、旧利根川筋ではあろうが旧渡良瀬川筋とも称される、東に流れる現在の中川筋を離れ、南に下る葛西用水(旧利根川筋)を辿った。
東に大きく弧を描く葛西用水を下り琵琶溜井を経て青毛堀川との合流点へと進むと、そこが葛西用水の一部に組み込まれてきた大落古利根川の起点でもあった。 古利根川跡を辿ろうと会の川締め切跡からはじめた散歩も、ここに来るまで結構時間がかかってしまった。後は一気呵成にとは思うのだが、頃は夏。気持は沢登りに傾いており、はてさていつ今回の古利根川跡散歩のきっかけとなった葛飾・足立区境を画す古隅田川(旧利根川流路)に辿りつけるのだろぅ。

ともあれ、今回は旧利根川流路跡、悪水落とし故の命名ではあろう大落古利根川の起点よりはじめ、東武伊勢崎線・姫宮駅付近まで下った。当日はわからなかったのだが、大落古利根川の起点へと、最寄り駅である久喜駅から辿った中落堀川は南埼玉郡宮代町の北端、終点の姫宮はおなじく宮代町の南端。知らず大落古利根川に沿って宮代町の北端から南端まで歩いたことになった。奇しくも大落古利根川を挟んだ対岸は、これも郡名を今に留める数少ない町である北葛飾郡杉戸町であった。

本日のルート;久喜駅>斎興寺>東公橋>中落堀川>蓮ヶ原落>向地大橋>中落堀川と古利根川の合流点に>和戸橋>大落古利根川治水記念碑・大落堀悪水路土地改良区記念碑>一里塚>備前前堀川>備前堀川が右岸に合わさる>南側用水路>西行法師見返りの松>万願寺橋>鎌倉橋>東武日光線>南側用水路水路記念板>南側揚水場跡地>南側用水の碑>古川橋>清地橋>姫川落川が合流>笠原沼落が合流>東武伊勢崎線・姫宮駅

久喜駅
本日の散歩起点の最寄り駅、久喜駅に。現在の久喜市は平成の大合併により旧久喜市、東の旧南埼玉郡菖蒲町、北葛飾郡栗橋町、同郡鷲宮町と合併し誕生している。旧久喜地区は久喜駅を取り巻く一帯ではあろうが、その久喜地区について知ることはほとんど、ない。
久喜について唯一想い起こし得るのは、いつだったか関宿辺りを歩いたときに登場した第二代古河公方・足利政氏の隠居地ということぐらいである。
本筋には関係ないのだが、メモの記憶も薄れかけてきているので、ちょっと頭の整理;
足利政氏
鎌倉公方・持氏と京都の将軍&関東管領上杉家の争いである「永享の乱(永享10年;1438)」は、持氏の死をもって終わる。持氏の遺子は各地に逃れるが、第四子・永寿王丸を鎌倉から逃したのが息女を持氏に嫁した簗田氏(やなだ)である。簗田氏にとって、永寿王丸は孫にあたる。
その後紆余曲をへてこの永寿王丸が古河公方・足利成氏となる。持氏に従った簗田氏は領地を下河辺荘、本拠は下総猿島郡水海(総和町;現在の古河市)に移すことになる。居城は、関宿城。長禄元年(1457)の頃と言われる。足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから勃発した、古河公方と関東管領上杉家の騒乱「享徳の乱(享徳3年;1455)」の真っ最中のことだ。結城合戦(永享12年;1440)のころ、幾筋もの河川が交錯するこの地に下河辺氏がつくった砦がもとになる、とのこと。
簗田氏は、持氏に息女を嫁したように、代々古河公方に息女を嫁していた。当然のことながら、両者強い結びつきを保っていた。古河と関宿という強力なフォーメーションによって、舟運・交通の要衝を押さえていたわけだ。 とはいうものの古河公方も簗田氏も常に一枚岩であったわけではない。二代古河公方・足利政氏のとき、政氏と嫡男・高基と不和。簗田氏も古河政氏方、高基方に分かれて対立。足利高基が簗田高助の関宿城に移り、古河城の足利政氏・簗田政助と対峙することになったことも。最後は、足利政氏は太田氏をたより岩槻城に移り、出家。永正15年(1518)、現在の本町7丁目に館(現在の甘棠院)を構えた、とのことである。最後は足利高基も、政氏と和解した、ということだ。

久喜に関する唯一の知識というだけで、本筋から離れたメモが長くなった。長くなった次いでに、江戸の頃をチェックすると、この地には米津氏のもと久喜藩が立藩され陣屋が設けられた(現在の久喜市久喜中央および本町、久喜本)。Wikipediaに拠れば、「日光街道への道筋や、常陸・下総方面への道が通じていたことから産業が発達し、職人や商人の街として、物資流通が盛んに行われ」たとのことである。
久喜の由来
因みに久喜の地名の由来は、例によって諸説ある。『久喜市史 民族編』に拠れば、「薪・柴等の燃料採取地を意味する地名」、「山、岡、自然堤防などの小高い所」、「久木の当て字であり薪山の意」といった説を挙げたうえで、現在の主流としては、自然堤防などの小高いところをさすという説が有力だとする。

斎興寺
駅から成り行きで進むと古い堂宇に出合う。お堂かと思ったのだが、18世紀中頃に創建された黄檗宗のお寺さまであった。本堂とその前に燈籠、地蔵尊といったさっぱりしたものだが、なんとなく気になるお寺さまであった。



東公橋
斎興寺から成り行きで進むと先回の散歩で久喜駅へと辿った中落堀川に架かる東公橋に出る。東公橋を渡り先に進む。
中落堀川
「中落堀川(なかおとしほりがわ)は、埼玉県北東部を流れる準用河川である。歴史は比較的古く、元禄6年(1693年頃)にすでに排水路として描かれている。昭和29年(1954)に合併するまでは、久喜町(現:久喜地区)と太田村(現:太田地区)の町村界を成していた。
今日では、久喜駅の北北西数キロメートルの場所を起点に、久喜区域の市街地を西から東へほぼ貫流し、いくつかの水路と合流した後、大落古利根川に合流・終点となる。久喜駅北側(東口)より本川終点までコンクリート護岸がなされている(Wikipediaより)。
新川用水の落を集めるいくつもの悪水路が源流のようであり、わし宮団地の南あたりからはじまるようだ。

蓮ヶ原落が中落堀川に合流
東公橋を渡ると直ぐ下流の右岸に合流水路が見える。チェックすると蓮ヶ原落(蓮ヶ原川とも)であった。Wikipediaに拠れば、「水源は主に新川用水の農業排水で、久喜市上早見の田園地帯に端を発する。上早見字新田付近を東へ流れ、途中で一旦暗渠となり、久喜地区消防本部や県道3号さいたま栗橋線を横断した後、久喜警察署北側にて開渠となる。途中の久喜自動車学校北側(久喜東6丁目付近;私注;東武伊勢崎線と合わさる辺り)にて北東へ流路を変え、久喜東1丁目にて中落堀川に至り合流・終点となる。久喜市本町4丁目付近に管理起点がある」とあった。
Wikipediaには同じく「蓮ヶ原とは旧大字久喜新の小字である。蓮ヶ原という土地はもともと蓮の自生する湿地帯であったが、水田として開墾された地域であり、1927年(昭和2年)には耕地整理が行われた」とある。久喜新 とは現在の久喜中央、南、久喜東のそれぞれ一部の地域のようだ。確かに水路はその地域を流れている。
それはともあれ、この蓮ヶ原落は新川用水の農業排水とある。地図を見ると葛西用水から分水された新川用水が蛇行をしながら蓮ヶ原落の源頭部を流れていた。
新川用水
新川用水は埼玉県北東部を流れる農業用水路であり、上流部では騎西領用水(きさいりょうようすい)と呼ばれる。埼玉県加須市外田ヶ谷の星川(見沼代用水)より分水し、加須市・久喜市・南埼玉郡宮代町を流れ、久喜市・南埼玉郡宮代町との境界付近で備前前堀川に合流する。久喜市内ではかつての南埼玉郡久喜町・江面村との町村界の一部を成していた。また、久喜市(六万部・上清久)・北葛飾郡鷲宮町(中妻・久本寺)の市町界を成していた。備前前堀川との合流地点には「万年堰」という堰がある(Wikipedia)。

向地大橋
中落堀川を少し下り、これも先回久喜駅への道すがら出合った向地大橋に。そこから中落堀川から少し離れ、これも成り行きで大落古利根川へと進む。 道を少し南に下ると左手に「古利根川流域下水道東中継ポンプ場」がある。中落堀川を少し下流に進むと、左岸に「古利根川水循環センター」があり、下水処理をおこなっているが、市内6カ所に中継ポンプ場が稼働し、久喜市と加須市(一部)の下水処理をおこなっている、と。

中落堀川と古利根川の合流点に
前方に圏央道の高架を見ながら平坦な地を進む。圏央道手前の道の分岐点に庚申塚が建つ。庚申塚を左に道をとり、圏央道の高架を潜り宮代総合運動公園の北端を中落堀川に沿って右岸を進み大落古利根川との合流点に着く。 先回久喜駅に戻る時は中落堀川左岸を少々難儀しながら進んだのだが、右岸は合流点までアプローチが整備されていた。

大落古利根川・和戸橋
宮代町総合運動公園の西端、大落古利根川との間はフェンスで囲まれている。堤への出口はあるだろうと、とりあえず南に下ると出口があり、大落古利根川の堤を通る道に出た。
緩やかに弧を描く水路に沿って進む。南東に流れる流路が南西に弧を描く辺りで水路が合わさる。あれこれチェックしたが水路名はわからなかった。 ゆったりと流れる大落古利根川を更に南に下ると和戸橋にあたる。橋傍に案内板があり、そこに和戸橋、古利根川の渡し、そして対岸に日光御成街道と一里塚などのガイドがある。
久喜と同じく、この辺りについての何の知識もなく、案内がなければ、ママ通り過ぎるところであったが、案内に従い和戸橋を渡り日光御成道の一里塚にちょっと立ち寄ることに。
和戸橋
橋傍の案内には「和戸橋は日光御成道に架かった橋です。この橋のたもとには明治2年(1869)に成立した河岸場がありました。昭和3年(1928)でもその様子が分かります。この河岸場は琵琶溜井(幸手市)から松伏溜井(春日部市)に至る航路で使用されました。和戸橋の河岸場から粕壁宿の河岸場へ多くの貨物が輸送されたと伝わっています。
和戸は日光御成道の岩槻宿から幸手宿への間の宿(幕府非公認の宿場)でした。そのため多くの商人や百姓屋敷が並んでいました。写真にも和戸宿の家並みの一部が写っています」とあった。

大落古利根川治水記念碑・大落堀悪水路土地改良区記念碑
和戸橋を渡ると県道372号と県道65号の交差する和戸橋交差点の傍に「大落古利根川治水記念碑」と「大落堀悪水路土地改良区記念碑」が建つ。
治水記念碑は昭和9年建立(1934)とのこと。建立の背景は、利根川の東遷事業により源頭部を失い廃川として取り残された旧利根川跡は新田開発のため、見沼代用水と葛西用水を核として農業用水路・排水路として再整備される。
しかし、近代になると葛西用水の一部として組み込まれた大落古利根川は荒廃し、堆積した土砂により水害が多発することになる。河道の浚渫が必要となった。
大正7年(1918)から昭和3年(1928)にかけ国営の庄内古川の改修事業により中川が開削される。それに合わせて大落古利根川の改修工事が実施されることになる。
大正7年(1918)から昭和9年(1934)にかけ、埼玉県の事業として第一期改修工事が実施され、大落古利根川とその支川である青毛堀川、備前前堀川、備前堀川、姫宮落川、隼人堀川(庄兵衛堀、栢間堀)の河川改修が実施された。大落古利根川全体の河川改修が行われたということだろう。建立年代から見て、河川改修の完成を記念したものだろう。土地改良区記念碑は解散の詳細は不詳。

中川開削と大落古利根川の関係
現在の中川水系一帯の水田を潤し、その悪水落となっていた島川筋、庄内古川筋も、当初は江戸川(元の太日川)に水を落としていた。しかし江戸川の水位が高く「落ち」が悪く、逆流で被害を受けることもあった。
そこで目をつけたのが最低地域を流れていた大落古利根川(旧利根川跡)。江戸川落口と比較すると2mも低かったようだ。島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事がはじまった。大正8年(1919)の頃、という。 島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川に繋ぎ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川と繋いだ。こうしてできたのが「中川」であった。昭和3年(1928)の頃である。
中川開削の発端が、大落古利根川(旧利根川跡)に水を落とすことにあったとすれば、上述記念碑にあるように中川開削とあわせて大落古利根川(旧利根川跡)の河川改修をおこなうのは自然なことであろう。

一里塚
和戸橋を渡ると北葛飾郡杉戸町。県道65号を少し北に進むと道の右手に一里塚があった。 道路脇の案内に拠れば、 「下高野一里塚【下高野一里塚】埼玉県指定史跡  大正15年2月19日指定 慶長九年(1604)江戸幕府は大久保石見守長安に命じ、江戸日本橋を起点に一里ごとに塚を築かせた。
この一里塚は、下野田(南埼玉郡白岡町大字下野田)の一里塚より北東一里の地点に位置している。
ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の南側に五問(9メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは東塚だけである。これらの塚上には松が植えられていた。 一里塚は、旅人にとっては里程の目標に、また馬や駕籠の賃金を支払う時の目安にもなった。 埼玉県教育委員会 杉戸町教育委買会」とある。

和戸橋の傍にあった「日光御成道と一里塚」の案内には「江戸時代に整備された日光街道の脇街道であり、将軍が日光東照宮へ社参する際に利用されました。 宮代町和戸の日光御成道沿いには、かつて和戸宿が形成されていたと伝えられています。下高野一里塚は、下高野と下野のほぼ境界に所在し、頂上には松が植えられています。もとは街道の両側にありましたが、現在は東塚のみが残されています。里塚は一里(約4㎞)ごとに設置され、旅行者の行程の目安となりました」とあり、下高野一里塚の案内にある、「この街道」とは日光御成道であった。
日光御成道
日光御成道(にっこうおなりみち)とは、江戸時代に五街道と同様整備された脇往還の一つである。中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道である。将軍が日光社参の際に使用された街道であり、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれている。

ちょっと混乱。大落古利根川の左岸、杉戸にある杉戸宿は日光街道の宿場町。ルートはどうなっているのだろう?チェックすると、日光御成道は大落古利根側の右岸、岩槻から県道65号を進み、白岡市を経て和戸橋辺りで大落古利根川を渡り、大落古利根川の左岸を進み、先回の散歩で御成道の道標のあった琵琶溜井傍をへて幸手市に向かう。
一方の日光街道は春日部(粕壁宿)から国道4号を大落古利根川の左岸に沿って進み杉戸宿に。杉戸宿で一旦旧道に入るが、宿を出た辺りで大落古利根川を離れ再び国道4号を北東に向かい、途中東武日光線の手前で国道4号から分かれ北に進み県道65号で日光御成道と合流する。

で、何故に日光街道があるのに日光御成道をつくったのだろう?チェックすると、川口の錫杖寺を休息所としたことがそのきっかけといった説明もあったが、実際のところは、将軍が動くとなると大層な人馬が連なるわけで、五街道である日光街道の往還を妨げないため、往昔の鎌倉街道中ツ道筋のこのルートを整備した、ということではないだろうか。

和戸橋に戻る
一里塚から和戸橋に戻る。左岸から見ると、和戸橋の西詰に水路が合わさる。備前前堀川である
備前前堀川
埼玉県久喜市所久喜で、加須市から南流する農業排水路の五ヶ村落を合流して端を発する。(中略)久喜市清久町において西側より流下する備前堀川と中堤防にて面し並行して流れる。(中略)途中、外谷落・磯沼落および仏供田落を合流、宮代町の和戸橋東側にて北側より流下する大落古利根川と合流する。 新川用水が備前前堀川に落ちる合流付近には「万年堰」という堰が設けられており、1902年(明治35年)に建設されて1979年(昭和54年)に撤去された旧堰の記念碑もある。
この備前前堀川は1728年(享保13年)に河原井沼(私注;現在の久喜菖蒲工業団地辺り;昭和沼が名残で残る)での新田開発に併せ、沼の北縁に沿って流下するように河原井沼周辺では附廻堀として整備された。この河川の開削当初の名称は新笊田堀(しん ざるたぼり)とされていた(Wikipediaより)。
五ヶ村落
この五ヶ村落は備前前堀川の上流河川であり、加須市油井ヶ島の中北部よりはじまり、久喜市所久喜にて備前前堀川と変称し流下する農業排水路である。

備前堀川が右岸に合わさる
和戸橋を少し下ると右岸から水路が合わさる。備前堀川である。Wikipediaによると、「埼玉県加須市の新川用水排水路の備前堀大英寺落(私注;葛西市上埼の田ヶ谷綜合センター北が管理起点)と備前堀古笊田落(私注;葛西市上埼;大英落の南700m付近)との合流点を起点とし、久喜市北中曽根の西端で備前堀八ヶ村落(私注;源頭部は加須市正能の騎西中央公園北東にある大道公園辺り)を併せ、さらに清久町(清久工業団地)の南側からは備前前堀川と平行して流れる。その後同市河原井町東側で備前前堀川と離れ白岡市・南埼玉郡宮代町を流れ、大落古利根川に合流する。
かつての河原井沼の北側付近の流域は、この沼での新田開発時に北側の附廻堀として整備された区間である。今日では主に新川用水からの農業排水路として利用されている。
流域には清久大池や清久西池、昭和沼といった池沼が存在し、昭和沼とは水路で接続されている。また、久喜菖蒲工業団地が造成される以前に河原井沼からの排水路として用いられていた「新北落」が備前堀川に流入する直前の地点に水門が設けられていた。久喜菖蒲工業団地の造成によって「新北落」が埋め立てられてしまった現在においてもこの水門のみは現存している。
久喜市北中曽根の西端には備前堀治水記念碑(びぜんぼりちすいきねんひ)がある。同市北中曽根(北側)と同市菖蒲町三箇(南側)との間に古笊田堰(こざるたせき)という1906年(明治39年)竣工の堰が置かれている。
流域は主に農地として利用されているほか、清久工業団地や久喜菖蒲工業団地といった工業団地が存在する。また久喜菖蒲公園や清久公園など公園化されている地域もある」とある。

備前堀は備前守である伊奈氏の開削故の命名。開削当初は江面村(久喜市江面)から和戸村への短い悪水落であったが、後年井沢弥惣兵衛により河原井沼の干拓が実施され、河原井沼への悪水落の迂回路(附廻堀)として新笊田堀や外谷落が開削され、古笊田堀や八ヶ村落を新笊田堀へ繋げ、さらに新笊田堀は備前堀へと繋がれた。こうして、備前堀川は河原井沼の主要な排水路として整備された。河原井沼は久喜菖蒲工業団地の中心部に残る大きな調整池(昭和池)にその名残を残す。

南側用水路
水路を下ると道脇に案内があり、先ほどの一里塚などとともに、「西行見返りの松」の案内がある。地図で確認すると左岸を少し東に進み、水路に沿って戻ることになるのだが、とりあえず行ってみようと。
成り行きで進むと目安の水路にあたる。地図でチェックすると琵琶溜井から下ってきた南側用水路であった。昭和初期の改修工事により廃川となった水路は結構美しく保たれている。なんとなく気になりチェックすると、ドブ川となった用水路は地元の方々の力で美しく保たれているとのことであった。
南側用水
埼玉県幸手市大字上高野の葛西用水路・琵琶溜井より分水し、主として大落古利根川より東側の水田地域を灌漑する。用水路は現在でも開削当時の面影を残す素掘りの区間が多い。北葛飾郡杉戸町杉戸4丁目より周辺は市街地となり、南側用水路は暗渠化され地上は遊歩道となる(Wikipedia)。

「西行法師見返りの松」
南側用水路に沿って北に戻り、途中足利氏の流れをくむ幸手城主・一色氏の創建によるとの全長寺にお参りし、永福寺に向かうと境内前に松と石碑があった。 先ほど川沿いで見た案内とこの地の案内をまとめると、「文治2年(1186)、歌人としても知られる西行法師は、69歳の身で奈良東大寺再興の寄付を請う旅の途中、この地で激しい風雪に倒れ土地の人に救われた。
庭の松をこよなく愛した法師は、村人との別れを惜しみ、この地を去る際にこの松を何度も振り返って旅立った。村人はこの松を「西行法師見返りの松」と呼んだと伝わる。 碑には、室町時代の十四世紀前半、足利尊氏の有力武将高師直の歌「道以そく遠近人の毛駒と免て、三可邊梨松御見かえら佐らめや(みちいそぐ おちこちびとも こまとめて みかえりまつを みかえらさめや)」と、碑を建てたと思われる信州高遠の人の名、そして「西行法師見返松」の文字が刻まれる。
永福寺
「西行法師見返松」の建つ永福寺は、寺の案内や杉戸町の案内をもとにまとめると、「寺の縁起を記した「龍燈山伝燈紀」によると往昔は阿弥陀寺と称した。所以は本尊である阿弥陀仏は行基菩薩(ぎょうきぼさつ)の作と伝わる故。
この寺は関東三大施餓鬼のひとつ、「永福寺どじょう施餓鬼」で知られる。その由来は14世紀の後半、当寺の51世日尊上人に遡る。その父は因幡前司藤原長福朝臣。貞治(じょうじ)元年(1362年)高野浅間台に高野城を築き、田宮庄近郷を領した。長福は後に酒食遊芸におぼれ、非道な行いがあり、その子日尊上人(幼名は藤王)は、父の乱行を憂い、仏門に帰依し比叡山に登り修行の後高野に帰り、阿弥陀寺を建立した。
父長福は乱行の後ついに狂死。えん魔大王のお告げを受け、亡父が地獄に落ちているお告げを受けた日尊上人は、大王から伝授された施餓鬼の秘法(「えん魔王の示す日尊の偈(げ)」)を修行し、父親をはじめ地獄に落ちている人々を救った、とのこと。
施餓鬼とは、生前の悪道を行ったため地獄に落ちているものを、施餓鬼の修法により施食をほどこして、これらを救う法会であり、永福寺の施餓鬼は、放生(生きものを放ってやる行事)として、“どじょう”を池に放つ。その為、俗に「どじょう施餓鬼」と言われている。 因みに、関東三大施餓鬼とは当寺のほか、秩父四萬部寺、さいたま市の玉蔵院を指す。

万願寺橋
永福寺から少し北に愛宕神社辺りまで南側用水路を辿り、大落古利根川筋まで戻り、下流へと進む。少し下ると万願寺橋がある。和戸橋傍にあった案内には、中世に「高野の渡し」があった、と。
古利根川の渡し
「昭和初期以前、古利根川の渡河には渡し船も用いられており、江戸時代から近代の杉戸・宮代周辺では、上流から「高野の渡し」「河原の渡し」「矢島の渡し」「紺屋の渡し」「ガッタの渡し」の五箇所の渡船場がありました。中世にも現在の万願寺橋付近に「高野の渡し」があったといわれています(「案内板」より)。

鎌倉橋
万願寺橋を越え、鎌倉橋に。名前からのイメージと異なり、ちょっと現代的な人道橋となっている。とはいえ、なにか鎌倉街道との関連はあってしかるべし、とチェック。
日光御成道とほぼ同じルートとの鎌倉街道中ツ道であるが、白岡市下野田から杉戸町下野までは少し異なり、御成道から右にそれ、この鎌倉橋辺りを渡っていたようである。
旧利根川(大落古利根川)を渡った後は、南側用水路に沿った微高地・自然堤防上を進み、御成道筋に戻っているようだ。

東武日光線
先に進むと東武日光線が川を跨ぐ。遊歩道は手前で切れるが、草を踏み分け堤防に沿って進むが行き止まり。仕方なく、成り行きで県道372号に出る。踏切を渡る手前まで続いた南側用水は、線路を境に暗渠となって姿を消した。

南側用水路水路記念板
線路を越して、ママ進むと左手に車道と分かれた遊歩道といったアプローチがある。如何にも地下に暗渠となった南側用水路が続いているような道である。少し進むと道脇に「南側用水路水路記念板」が建つ。「南側用水路は江戸時代初期に万治3年(1660)利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が設けられた際に、その支流として幸手領(幸手市から杉戸町をへて春日部市まで)に農業用水を供給するためにもうけられました。
杉戸町を9.5kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に探く(私注;ママ)係りながら、身近な水辺として親しまれてきました。
しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年に300年あまりにわたる用水路としての役割を終えました。
南側用水路の跡地は杉戸町の貴重な都市空間であり、町民共有の財産でもあります。
この貴重な用水路跡地を町民の皆さんにより親しん頂けるよう、散策路として整備したものですが、この場所には大落し古利根川からの水を用水として取水し、南側の用水を管理するための水門がありましたが、散策道工事によりやむをえず取り壊すことになったことから、ここに記念として残すものです」とあった。

南側揚水場跡地
「南側用水路 水路記念板」傍に石碑が建ち、杉戸宿と刻まれた文字の上に、「30m南側揚水地跡地」とある。上の案内に説明とともに写真にあった、大落古利根川から取水する水門跡地であろうかと、指示に(どっち方向か少しわかりにくい)従い遊歩道を離れ大落と古利根川脇に向かう。

南側用水の碑
川に向かうと、堤防手前に大きなポンプが展示され、その下に「南側揚水の碑」の案内があった。案内には「目の前を流れる古利根川がかって利根の本流であった。当時の南側流域は葦の茂る湿原地帯と、地理的条件のよいところがわずかに水田として利用されてきたのであろう。
南側の水田用水は万治三年(1660)羽生市本川俣で利根本流から取水された葛西用水によって、恒常的に安定確保されることとなった。しかし各用水施設の原始的粗雑な構造は用水の消費も大きく、ため琵琶溜井堰における中郷用水を含めた幸手領と下流域との交互番水を余儀なくされていた。加えて倉松落の改修、戦中戦後の食糧増産としての土地改良、陸田用水など農業用水が急増し、用水不足に拍車をかけることとなった。
昭和23年南側用水路共通水利組合は上流域の約350ヘクタールには3日通水分をあて下流の約500ヘクタールには現在地に揚水機を設置し併せて各所の用水堰を撤去し用排両面の整備改善を行うこととしたのである。
本事業は県営事業として昭和24年から昭和27年に亘り総工費1870万円で完成し国民食料の確保に貢献した。しかしながら、その後に続く急激な都市化の進展は社会資本の充実を促しながらも半面歪みを生ずることとなった。 即ち大落古利根川の川床即水位である。出水増に対処すべく土砂礫の浚渫を行ったためポンプは吸水不能に陥ったのである。
このため南側用水土地改良区は昭和54年に本郷地区に揚水機場を新設し下流の用水を補ったのである。しかし主機場の揚水不能は南側流域に深刻な用水不足を生じ、関係者の苦労も筆舌に表し得なかったのである。 この時すでに当地域を含めた農業用水合理化対策事業が実施中であり、これは農業用水を家庭の蛇口の如く、栓ひねれば田に給水できるという超近代的な構造であり、地区民挙げてこれが早期実現を要望することとなった。
しかし、中郷、南側流域全域であり昭和48年着工以来15年の月日と200億円余りを費やして昭和63年に完成をみたのである。
ここにおいて南側流域は上下流万遍なく均等に用水が供給されることとなった。又、有史以来杉戸の市街地を流れていた南側は水田供給の使命を終えたのである。そして今後は都市排水河川として生きていくことであろう。
まこと南側用水の歴史は地域の変貌を今に伝えるものとして感慨深いものがある。 ここに往時を偲びポンプ展示を期にその所以を石碑に誌して後世に伝えるものである。南側用水管理組合」とある。

説明を少し補足すると、揚水機を設置したのは昭和27年(1952)のようである。その後昭和37年(1962)には琵琶溜井は比例分水堰に改修され、江戸時代より続いたと言われる幸手領3日、下流7日の番水制度は廃止されるも大落古利根川の浚渫による川床低下、即ち水位の低下によりポンプ吸水が困難となったようで、本郷(和戸橋あたりに本郷の地名が見えるがそこだろうか)に揚水場を設けるも、この地の揚水機による吸水機能低下は地域に困難な状況をもたらした。
この状況は昭和63年(1988)の農業用水のパイプライン化により南側流域は上下流万遍なく均等に用水が供給されることとなった。
◇倉松落の改修と用水不足
案内に、「倉松落の改修が用水不足に拍車をかけた」とある。倉松落は南側用水路の余水吐きでは?それと用水不足と何の関係が?
チェックすると、倉松落の改修は昭和8年(1933)から15年(1940)にかけて実施されたおうだが、要点は倉松落の排水先を大落古利根川から中川に改めたられた。葛西用水の水位が高く排水不良が要因とのことだが、そのため葛西用水の送水路としての役割を持つ大落古利根川への水の循環が切れることになる。水不足云々とはこのようなことではなかろうか。

古川橋
ポンプ展示箇所を離れ、河原橋を渡り古川橋に。橋を少し越えたところに大落古利根川や周辺の案内を記した看板がある。散策路の案内はいいとして、看板にある案内をメモする;
古川橋
「古川橋は明治32年(1899)8月の東武鉄道の開通による杉戸駅開設により架けられた橋です。それ以前は百閒と須賀境に架かる河原橋と杉戸宿御伝馬道にかかる清地橋まで間には橋はありませんでした。
そしてこの看板付近は古利根川の流作場(川の縁辺の堤外地)新田でした。この新田は寛延2年(1749)に江戸本所の大寿院が請け負って開発が行われました。田に比べて水田が多いのが特徴です(案内板より)」。

ここにある「杉戸駅」は現在の東武動物公園駅。昭和51年(1981)に改称された。
流作場新田開発とは、現在の東武動物公園あたりのあった笠原沼の干拓・新田開発といった大規模なものではなく、河川敷などの不安定な土地への耕作を認め、作柄に応じて年貢を徴収するといったもの。この百閒村には上記流作場新田(百閒村新田)を含め3箇所の流作場新田があった、という。大寿院は江戸本所にあったお寺さまのようである。
地名(宮代町)
「宮代町は昭和30年(1955)、須賀村、百閒村が合併してできた町です。その町名は百閒村の総鎮守である姫宮神社の「宮」と、須賀村の鎮守である身代(このしろ)神社の「代」をそれぞれとって出来たものです。
旧村名である百閒の最古の記録は姫宮神社々前に掛けてあったといわれる鰐口の銘であり、応永21年(1414)と記されており、古い地名であることが確認されています。
一方須賀は、鎌倉時代の寛喜2年(1230)の小山朝政の文書に出てくるのが最古であり、古い地名であることがわかります。
また、字名は旧須賀地区については明治22(1889)年の旧村名を大字とし、旧百閒村についても旧村名を大字としましたが、昭和5年(1930)大字を廃止し新たに?の字(あざ)に変更し、現在に至っています(案内板より)」。

後半の「字」の説明が現在の地名との関係が不詳であり、その有り難さが今一つ理解できないが、それはともあれ、説明にあった小山朝政って誰?
小山朝政 
下野国の生まれ。小山源頼朝の平氏打倒・鎌倉幕府の開幕に貢献した幕府の宿老。頼朝上洛時、石清水八幡宮参拝では行列の先頭を務める。常陸国村田下庄の地頭、播磨国守護、検非違使兼任、下野守などに任じられる、といった結構有力御家人であったようだ。今更に、知らないことが多くあることを実感する。

ところで、宮代町であるが、大落古利根川右岸は南埼玉郡宮代町、左岸はこれも北葛飾郡杉戸町。平成の市町村大合併にも抗して、未だ「郡」を守るなにか「矜持」といったものでもあるのだろうか。
チェックすると、平成13年〈2001〉頃から春日部市を含んだ宮代町と杉戸町の合併話が、出ては住民投票で反対過半数といった状態が繰り返され、未だ合併に至っていない、というのが実情のようであった。

また、この案内に「身代神社」が登場する。名前に惹かれ、訪ねてみようと思いながら、大落古利根川の左岸を歩き東武日光線を過ぎた河原橋まで橋がなかったことや、南側用水路路の水門・ポンプ揚水機場あたりで、そちらに気をとられ忘れてしまっていた。
今回の散歩では左岸の日光街道杉戸宿もパスしているので、次回の散歩スタートにこの社も組み入れて歩いてみようかと思う。
大落古利根川
「大落古利根川は、久喜市と杉戸町の境にある葛西橋から松伏町下赤岩付近で中川に合流するまでの延長26.7キロ,流域面積182.3平方キロメートルの一級河川です。
その名の示す通り昔は利根川の本流としていくたびかの洪水を引き起こしました。江戸時代の初期に利根川が現在の流路に付けかえられたため、この流れは大落古利根川として残されました。その後、この川は数回の改修を経て今日の姿となり、中川流域の主要河川として、また、葛西用水の幹線として治水と利水の両面で重要な働きをしています(案内板より)」。
大落古利根川周辺の地形の特徴
「大落古利根川が合流する中川流域は、北に利根川、東に江戸川、西に荒川と大宮台地に囲まれ、全体的に低平な流域で、水のたまりやすいお皿のような地形になっています。更に河川の勾配が緩やかで水が流れにくい特徴があります。 また。大落古利根川沿いの鷲宮、幸手、春日部、松伏、??川と連なる自然堤防など、周辺の河川沿いには、かつて利根川水系のもたらした豊富な砂による大規模な自然堤防が形成されています(案内板より)」。
用排路としての大落古利根川
大落古利根川は利根川の東遷により水源を断たれ水量の減った泥川と化してしまいました。また、周辺の低湿地の内水を低い水位で排水するため、大落古利根川を介して中川に排水する改修が行われました。
大落古利根川は上流で葛西用水と直結しており、中流部では青毛堀川、備前堀川、隼人堀川など多くの河川が合流します。
下流部は古利根堰でせき止められ、松伏溜井という用水溜になり、堰から下流が純粋な排水路として中川に合流しています。
このようにさまざまな用排水路が合流することから「大落」を冠する大落古利根川は、埼玉県内の穀倉地帯である中川流域を支える用排水路として機能しています。

案内にある「大落古利根川を介して中川に排水する改修」とは、上述の大正8年(1919)頃からはじまった島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事のことだろうか。
上にメモしたが、現在の中川水系一帯の水田を潤し、その悪水落となっていた島川筋、庄内古川筋は、当初は江戸川(元の太日川)に水を落としていた。しかし江戸川の水位が高く「落ち」が悪く、逆流で被害を受けることもあった。 そこで目をつけたのが最低地域を流れていた大落古利根川(旧利根川跡)である。江戸川落口と比較すると2mも低かったようだ。
島川・庄内古川を大落古利根川(旧利根川跡)に落とす改修工事がはじまった。島川は利根川の改修で廃川となった権現堂川を利用したうえで、幸手市上宇和田から杉戸町椿まで約6キロを新開削して庄内古川に繋ぎ、庄内古川は松伏町大川戸から下赤岩まで約3.7キロ開削して古利根川と繋いだ。こうしてできたのが「中川」であり、大落古利根川を介して中川に排水する改修が完成した。昭和3年(1928)の頃である。中川開削の発端が、大落古利根川(旧利根川跡)に水を落とすことにあったということである。

清地橋
古川橋から東に向かって大きく弧を描く大落古利根川筋を下り清地橋に。上の古川橋の説明の箇所に、「杉戸宿御伝馬道が通る清地橋」とあった。杉戸宿御伝馬道って?はっきりとはしないが、どうも江戸の頃、右岸百閒村から左岸の杉戸宿へと向かう道とある。その目的は日光街道杉戸宿の助郷のようだ。仙台藩、会津藩といった大藩が通行する際、杉戸宿の問屋場へと馬や人足が動いた道筋であろうか。杉戸宿の旅籠には飯盛女が多数いた、という。悪所へと向かう道でもあったのだろう。
清地橋を渡れば杉戸宿に入れるのだが、当日は何となくその気になれなかった。炎天下で少々疲れていたのであろうか。今となって、立ち寄ってよればなあ、などと思う。次回の散歩でカバーすることにする。

姫川落川が合流
ゆったりと流れる大落古利根川に沿って宮東橋を越え、南西へと緩やかに弧を描く川筋を進むと姫川落との合流点に。ぼちぼち散歩を終える時刻。最寄りの駅である東武伊勢崎線・姫宮駅に向かう。
姫宮落川
Wikipediaに拠れば、「埼玉県久喜市下早見字内谷付近(江面地区)を起点(私注;圏央道と東北道が交差する少し東、久喜菖蒲工業団地南端、県道396号脇:下早見が飛び地となっており場所の特定に混乱した)とし、白岡市・南埼玉郡宮代町を流下し、北葛飾郡杉戸町との境界で大落古利根川に至る一級河川(一部準用河川)である。 姫宮堀(ひめみやぼり)とも称されている。
姫宮落川は笠原沼(現在の南埼玉郡宮代町;私注>現在東武動物公園)からの流出河川として整備された。この姫宮落川は笠原沼にて新田開発が行われ、笠原沼代用水が整備されるまでは笠原沼より下流域の村々にて農業用水に利用されていた。姫宮落川ないし姫宮堀という名称は地名の姫宮(現在の南埼玉郡宮代町の地名)ないし姫宮神社にちなんだものである。
笠原沼より上流の流域はかつて河原井沼(現在一部が昭和沼として残る、現在の久喜市;私注>久喜菖蒲工業団地傍に大きな池として残る)と称されていた沼地からの排水路である。
この排水路は河原井沼に端を発し、笠原沼へと流入するもので、流下する途中「埼玉郡爪田ヶ谷村(現在の白岡市爪田ヶ谷)」を流下していたのでこの村にちなみ爪田ヶ谷堀(つめたがやぼり)ないし爪田ヶ谷落堀(つめたがやおとしぼり)と称されていた。
このように笠原沼への流入河川であった爪田ヶ谷堀と流出河川であった姫宮落川を笠原沼の開発時に笠原沼北側の附廻堀として整備し、この2つの河川は1つの河川へと改修された。このときの改修もあり、現在では全区間姫宮落川と称されている。
流路は多くの区間においてほぼ直線的に流下する。(中略) 一部宅地の周辺を流れるが、多くの区間での流域は水田である。また姫宮落川は素掘りの区間と護岸された区間が並存する」とある。
要は、久喜菖蒲工業団地のところにあった河原井沼(現在昭和池として、また河原井の地名も残る)から笠井沼(現在の東武動物公園)への落と、笠井沼からの落しを繋いだものが、姫川落川、ということだろう。

笠原沼落が合流
姫川落川左岸を上流に進み、最初の橋である中州嶋小橋を渡り右岸を大落古利根川筋まで戻る。地図を見ると、少し下流に水路が見え、その水路が東武伊勢崎線・姫宮駅前を掠っているため、その水路を辿ろうとの想い。
川筋を少し下ると水路が大落古利根川に合わさる箇所についた。当日は下流から県道85号、県道406号と交差する橋を辿ったのだが、特に橋名、河川名を書いた親柱がみつからず、河川名不詳であったが、メモの段階でチェックすると「笠原沼落」のようである。
笠原沼落
Wikipediaに拠れば、「この笠原沼落は江戸中期に井沢弥惣兵衛為永が中心となり笠原沼を掘り上げ田形式にて新田開発した際、沼の中央部からの排水のために開削・整備された排水路である。
このため、起点付近の流路はかつての笠原沼のおおよそ中央部を横断するような流路となっている。今日においては起点付近では東武動物公園の園内を流下し、園内に所在している多くの池とも接続する。新しい村や宮代町立図書館周辺付近より下流から東武伊勢崎線橋梁付近までの流域周辺は水田などの農地となっており、東武伊勢崎線橋梁より下流域の流域周辺は一部農地などもみられるが、主に宅地などの市街地となっている」とある。

笠原沼落は、白岡市爪田ヶ谷の水田などの農地(かつての笠原沼の西部)からの農業排水を集めながら東北東へ流下し、東武動物公園内を蛇行しながら進み、東武動物公園を出ると姫宮落川の南側に並行し流下。東武伊勢崎線を越えるとS字に弧を描き、姫宮駅前を進み大落古利根川に合流する。
昔は、笠原沼の水を抜くため姫宮落に繋がれたこともあったようだが、水捌けが悪く享保14年(1729)には排水先を大落堀に付け替えたようである。

東武伊勢崎線・姫宮駅
笠原沼落に沿って姫宮駅に。姫宮神社に寄ってはみたいのだが、時間切れ。次回は、今回予備知識不足でパスした、杉戸宿、身代神社、姫宮神社と姫宮落川や笠原沼落とからめて歩き、大落古利根川筋に戻り、春日部へと下ろうと思う。