火曜日, 1月 05, 2021

土佐 歩き遍路;第三十八番札所 金剛福寺から第三十九番札所延光寺まで

今回は金剛福寺を打ち、土佐最後の札所、宿毛の第三十番延光寺を目指す。金剛福寺から延光寺への遍路道は大きく分けて2つある。ひとつは既述の市野瀬の真念庵近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、幡多郡三原村を経由して宿毛市の延光寺に進むもの。真念はこのルートを歩いている。
もうひとつは足摺岬より西岸の道を進み、幡多郡大月町に建つ番外霊場として知られる月山神社を経て延光寺を目指すもの。月山神社は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。澄禅はこのルートを辿っている。
今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。

延光寺を打ち終えれば長かった四国遍路歩きも一巡したことになる。遍路歩きのきっかけは、田舎の愛媛に帰省の折時間を見付けて伊予の遍路道にある峠越え。いくつかの峠越えを楽しんだ後、どうせのことなら峠と峠の間の遍路道を繋いでみようか、で、ついでのことなら伊予の遍路道を繋いでしまおうと想い、予土国境の延光寺からはじめ四国中央市の第陸十五番札所三角寺まで辿り終えた。
これで大団円と思っていたのだが、どうせのことなら讃岐もカバーしよう、讃岐まで来なら阿波も、 せkっかく阿波を打ち終えたのであれば土佐もカバーしようということになり、結果的に四国八十八箇所霊場を一巡することになったわけである。
もとより深き信仰心があるとは言い難く、好きな峠越えからはじまった四国遍路歩きではあったのだが、四国遍路のあれこれ、また四国各地のあれこれをちょっとだけ「深く」知ることができた。また、道標、標石を目安に旧遍路道の道筋のトレースは結構し得たと思う。路傍に佇む古き道標、標石、丁石を探すのはなかなか大変ではあったが、「宝探し」ゲームのようでもあり楽しいものでもあった。
一巡し終え、事前準備は最小限、出たとこ勝負、少々格好良くいえば、セレンディユピティ(serendipity)、素敵な偶然に出合ったり、予想外のものを発見する喜びを基本とする散歩ではあったが、それはそれなりに得るものの多かったのだが、事前準備不測故の「後の祭り」も多かった。
時間をみつけ、見落としたところを再び訪れる楽しみを残し、とりあえず四国遍路歩きのメモは一応お終いとする。



本日のルート;
第三十八番札所金剛福寺 
■市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り三原村の地蔵峠を越えて延光寺へ 第三十八番札所金剛福寺>(市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り)>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点>下ノ加江の標石>( 成山峠越えの遍路道・成山峠) >狼内の「狼内城跡」の案内>真念道標>地蔵峠>江ノ村大師堂>西ノ谷集落>上土居川橋>中筋川を渡り国道56号に戻る>住吉神社手前四つ辻の自然石標石>39番札所延光寺参道口に標石2基>9番札所延光寺 
■月山神社経由の遍路道 第三十八番札所金剛福寺>松尾>中浜>清水(志水)>三原への分岐点>三崎>川口>具ノ川(具ノ河)>大津(粟津)>才角(サイツ野)> 月山神社 >西泊(西伯)>小筑紫(コヅク)>七日島>伊与野(イヨ野)滝厳寺>三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)>宿毛>9番札所延光寺 



 第三十八番札所金剛福寺

山門前の標石
三門前左側、大きな石灯籠傍に3基の標石。1基は最近のもの。金剛福寺本堂、岩本寺、延光寺などへの距離が刻まれる。延光寺へは真念庵まで打ち戻り三原経由では五五、一粁、海岸廻りの月山経由は七五、二粁、とある。
その前に立つ標石は風化は激しいが「従是寺山江打抜十三里 月山へ九り」と刻まれる。その左の標石は徳衛門道標。「是より寺山迄十二里」と刻まれる。
寺山は延光寺のこと。月山は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。西海岸廻りの高知県幡多郡大月町に建つ。
山門
山門は仁王像が並ぶ。寛永十年(1633)の作。扁額「補陀落東門」は元は嵯峨天皇の揮毫。現在のものは江戸初期に模写された、と。
奇岩を配した庭園風境内
山門を潜ると池、そして奇岩を配した庭園風境内となる。造作はそれほど古くない。平成26年(2014)が弘法大師四国霊場開場1200年記念の年であり、それを踏まえての平成の大修理によるのではないだろうか。
石灯籠
当日は見落としたのだが、山門を潜ると左手に元和の石灯籠と称される古い灯籠があるとのこと。元和4年(1618)松平土佐守(2代藩主山内忠義)の奉納したもので、「元和四戌午四月十七日」と刻まれている。元和2年(1616)東照大権現(徳川家康)菩提のために奉納したもの。伊豆半島の輝石安山岩で造られ、船でこの地まで運ばれたと言う。




奇岩に囲まれた手水場の左手、池の向こうに鐘楼堂と朱色の六角堂。正面に本堂、右手に護摩堂と多宝堂、その先に和泉式部の逆修塔。左手に愛染堂、十三重石塔、行者堂、権現堂、文殊堂、大師堂と並ぶ。 Wikipediaには「金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉?山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている。
六角堂と鐘楼堂
本堂前庭園と愛染堂

金峰(きんぽう)上人が住持の時、修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏すると、そのもの達が蹉?(私注;サダ)した(地団太を踏んだ)ことから、山号を月輪山から蹉蹉?山に改めたといわれる。 歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる。

権現堂
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、大師一夜建立ならずの華表、亀呼場、大師の爪書き石の「弘法大師の七不思議」[1]の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「?」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示していて、当寺は俗に足摺山という。また、大師御遺告の25条の第1条の中に「名山絶嶮の処、嵯峨孤岸の原、遠然(えんねん)として独り向ひ、掩留(おんる)して苦行す」とあるのは当地であるといわれる」とある。
弘法大師は寺建立に際し、「この地たるや、四国の南極に位し、うしろに大悲の山そびえ、前に弘誓の海漫々として観音菩薩の生の霊地たり」と述べたと言う。四国の南極と称される如く土佐の辺地にありながら、嵯峨帝ののちも代々天皇家の勅願所として、又、藤原氏や源氏一門はおろか、徳川時代には諸大名から帰依者も多くあったとのことであり、この岬一帯には、堂塔十六、二十二社が建ち並び、末寺十堂社二十七を支配するほどの大寺であった、と。
明治初年の排仏毀釈には一時衰えるも後に復興し、現在に至っている。
補陀落渡海信仰
那智参詣曼荼羅図全景(正覚寺本)
扁額に「補陀落東門」とあるように、また、弘法大師が「観音信仰の霊地」と讃えた如く、この寺は観音菩薩の補陀落浄土をめざして大海に漕ぎいだした紀州熊野と同じく、補陀落渡海信仰の地として知られる。此の金剛福寺のある足摺岬もまた補陀落渡海の行場であった。金剛福寺の本尊千手千眼観音菩薩が、熊野補陀落山寺の本尊と同じ三面形式であることは、熊野との強い結びつきを示しているといえる。
補陀落渡海の様子は、後深草天皇の中宮であった二条(藤原公子)の『とはずがたり』という日記文の一節に「土佐の足摺の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。かの岬には、堂一つあり。本尊は、観音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。・・・・一葉の舟に棹さして、南を指して行く。坊主泣く泣く『われを捨てていずくへ行くぞ』と言ふ。小法師、『補陀洛世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫瓶に立ちたり。心愛く悲しくて、泣く泣く足摺をしたりけるより、足摺の岬といふなり。・・・・・」とある。
また熊野より木の葉のような小舟に身を託した補陀落渡海について『吾妻鏡』は、に「彼は船に乗り家形に入って後、外より釘をもって皆打付、一扉も無し、日月光をみることあたはず、ただ燈びによるべし。三十余日のほどの食物ならびに油等をわずかに用意す」と記される。



足摺由来の変化
承応二年(1653)に書かれた澄神の『四国遍路日記』には、「足摺山当寺ハ大師ノ開基、嵯峨天皇ノ御願也。往古ハ此山魔所ニテ人跡絶タリ、然ヲ大師分入玉イ悪魔ヲ降伏シ玉フニ、咒力ニヲソレテ手スリ足スリシテニゲ去リケル間、元ト月輪山ト云シヲ改テ蹉?山ト号シ玉フ。二字ヲ足スリフミニジルト訓ズル故也。其訓ヲ其儘用ヒテ足摺山ト云也」とある。
女西行とも云われた上述後深草院二条の『とはずがたり』が書かれたのは嘉元四年(1306)のこと。このときは補陀落渡海の様より「心愛く悲しくて、泣く泣く足摺」とその由来を記すが、それから350年ほど後には、弘法大師が 修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたとする

Wikipediaには修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたの金剛福寺の上人とあったが、それが空海に置き換わっている。四国遍路における弘法大師一元化の一端が垣間見れて面白い。
多宝塔
金剛福寺多宝塔は、伝承(蹉?山縁起)では清和天皇の菩提のため源朝臣多田満仲が建立したとされる。
創建時の九輪の露盤銘文によると、南北朝時代の応安8年(1375)、九輪は摂州堺の鋳物師山川助頼が鋳造し、院主・南慶の歓進により建立されたと記される。その後、江戸時代の貞享3年(1686)には4代土佐藩主山内豊昌が本堂とともに多宝塔を修造される。
現在の多宝塔は、明治13年(1873)に地域の人々の寄進で建て替えられ、清松村大浜の大工棟梁市川安太郎の建築。九輪頂上の宝形中には水晶の五輪塔1基が納められ、その中には5粒の仏舎利が入ってい。近年、破損により取替えられた創建当初の九輪は、現在、多宝塔前に建てられている(土佐清水市HPより)。
天灯竜灯の松
室町時代専海法親王の磋?山縁起の中に「天灯松樹に輝き竜灯備前を照す云々」とあり、本堂前に松の大木があったが現在はそのあとをとどめるのである(土佐清水市HPより)
逆襲の塔
金剛福寺多宝塔前の宝篋印塔は、砂岩で作られたもので、室町時代前期の作と言われる。 上部の相輪が3つに割れ、笠の部分の四隅につけられた「方立」は1つが破損してが、他は完全に保存されている。また、和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔とも言い伝わる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、宝篋印阿羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納める塔を摸して造られた塔のことで、墓標や供養のために建てられる塔。形は下部に方形の石を置き、下から種々の形に積み上げ最上部に棒状の相輪をおく。
笠は上下に幾段にも積み重ねられ、最も広い部分の四隅に「方立(ほうだて)」という三角形の飾をつけている。
逆修
「コトバンク」には
1 煩悩に身を任せ、真理から遠ざかること。⇔順修。
2 生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。予修(よしゅ)。逆善。逆修善。
3 年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること。
4 生前に、墓石に戒名を刻むこと。朱書きとする。また、その戒名。逆修の朱。
とある。和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔の「逆修」は、はるばるこの地を訪れ死後の冥福を祈り建立した、との記事があるので、2の意味であろう。
五鈷杵
弘法大師留学先の唐より帰国の際、三種の鈷杵を投げ「密教の栄えるところに鈷杵とどまる」と諭された。五鈷杵はこの金剛福寺の松にとどまった、とも伝わるが、その他のふたつ、三鈷杵は高野山に、独鈷は三十六番青龍寺にとどまったとされる。

足摺の七不思議
時間に余裕がなく、また愛媛が田舎でもあるため足摺岬には時に応じて訪れており、足摺岬などや周辺の見どころは今回パスした。メモの段階で土佐清水市のHPに、「弘法大師が建立した四国八十八ヶ所第三十八番札所「金剛福寺」があり、それにまつわる数々の「不思議」が遊歩道沿いに点在しています。それを総じて「足摺七不思議」と呼んでいます。足摺岬灯台や椿のトンネルを通る遊歩道沿いにありますのでぜひ見つけて下さい。
※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です」とあった。弘法大師とゆかりのある話でもあり、写真と共に説明文も掲載されて頂く。
ゆるぎ石
弘法大師が金剛福寺を建立した時発見した石。乗り揺るがすと、その動揺の程度によって孝心をためすといわれています。
不増不滅の手水鉢
賀登上人と弟子日円上人が補陀落に渡海せんとしたとき、日円上人が先に渡海していったので非常に悲しみ、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。
追記;『蹉?山縁起』には、「長保頃にや賀登上人補陀落渡海のために難行苦行積功累徳し侍りしに、弟子日円坊奇瑞によりて先に渡海ありしに、上人嗟嘆のあまり五体投地し、発露涕泣し給ひし、其涙不増不減水となれりといへり。此外秘所秘窟久住老僧面受口伝せしむと云々」と記されている。
亀石
この亀石は自然石で、弘法大師が亀の背中に乗って燈台の前の海中にある不動岩に渡った亀呼場の方向に向かっています。
汐の満干手水鉢
岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれ、非常に不思議とされています。
根笹
この地に生えている笹はこれ以上大きくならない笹だといわれています。
大師一夜建立ならずの華表
大師が一夜で華表(とりい)を造らせようとしたが、夜明け前にあまのじゃくが鳥の鳴真似をしたため、夜が明けたと勘違いし、やめたといわれています。
亀呼場
大師がここから亀を呼び、亀の背中に乗って前の不動岩に渡り、祈祷をされたといわれています。
大師の爪書き石
これは弘法大師の爪彫りといって、「南無阿弥陀仏」と六字の妙号が彫られています。
地獄の穴
今は埋まっていますが、この穴に銭を落とすと、チリンチリンと音がして落ちて行き、その穴は金剛福寺付近まで通じるといわれています。






市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り
幡多郡三原村経由で地蔵峠を越え宿毛市の延光寺に至るへの遍路道

今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。
このルートは真念が『四国遍路道指南』(貞享四年(1687)に「(足摺山)・・・ 是より寺山迄十二里。右真念庵へもどり行。○真念庵〇成山村○おほうめうち村、真念庵より是迄山路、渓川。○上長谷村、しるし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし。○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」ルと記すートを辿ることになる。
「おほうめうち」は狼内(おおかみうち)、 「ゑ の村」は江ノ村、「いその」は磯ノ川のこと。

市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
金剛福寺から市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点までは前回メモを参照して頂くこととして(金剛福寺から分岐点までのルートマップは参考のため再掲しておく)

県道346号、市野瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。
道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かったようだ。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。
寺山は宿毛の延光寺のこと。五社は札所岩本寺の前身、五社(高岡神社)のこと。

下ノ加江の標石
遍路道分岐点より県道346号を左折し、下ノ加江川水系の市野瀬川に沿って進む。ほどなく道の左手に「伊豆田神社社叢」の木標、伊豆田神社と刻まれた標石。「鳴谷川に沿って0.8キロ、高知山背に鎮座。文化財・木彫ご神像」とある、そしてその傍に自然石の標石。手印だけが見える。
加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
伊豆田神社
市野瀬の遍路道分かれまでは伊豆田峠を越えてきたわけで、伊豆田神社って、なんらかこの辺りの由緒ゆかしき社かとチェック。
標石はあるのだが、参道の案内はない。道の北側に山に入る土径がある。それが参道だろうか。当日は時間に余裕がなく参拝することはできなかったのだが、メモの段階で伊豆田神社のことをチェックする;
創祀年代は不詳であるが、式内社・伊豆多神社に比定され、明治元年に伊豆田神社と改称されたようだ。現在は無社格。明治の頃由緒ある社として県社格を願い出たが叶わなかったようである。中世以降は伊津多大明神、伊都多大明神と呼ばれていた、との記事もあった。
伊豆多はイデユタ(出湯田)に由来すると。湯は冷水の湧き水も含む。市野瀬の市(イチ)も湯地(ユチ)の変化し たもの。また市野々は伊豆田神社の祭礼時の市に由来するとの記事もあった。 『土佐物語』にも長曽我部元親が「伊豆田神社は、當國廿一社の一つなればとて、立寄らせらる」とあるのでこの地の人々に深く信仰されていた社であったのだろう。

狼内の「狼内城跡」の案内
成川、家路川と川の名の付く集落を進むと土佐清水市から幡多郡三原村の成山集落に入る。その先で県道346号は市野瀬川の源頭域から離れ丘陵を上り長谷(ながたに)川の谷筋に下りる。 長谷川の谷筋に下りた県道346号は谷筋を北に四万十川水系中筋川の谷筋に下り四万十市の具同に向かうが、遍路道は長谷川の谷筋で県道346号から県道42号に乗り換え、長谷川を渡り川の右岸を狼内(おおかみうち)へと進む。
道の右手に「狼内城跡」の案内。「狼内城跡 城主・江口六太夫  天正十七~十八年領主として地検帳に記されているもと一条家の家臣であったが、天正三年一条氏亡びて長宗我部元親に仕えて帆(浦)奉行を勤めるなど政事にたずさわった。そして城の麓の土居館に領主として居住していた。中村市鍋島の豪族江口と一族と目され、三原村内に其の給地三町六反余をもっていた。城跡は二段にわかれ、前後三条の空堀が残っており、本丸は約二00平方メートルある。 」と記されている。
成山峠越えの遍路道
メモの段階で成山の先、分水界を越える県道から左に逸れる旧遍路道がある、という。Google Street Viewでチェックすると、成山集落の道の左手、県道から左に逸れる一段高い所に小祠、道標、案内板が見える。そこが成山峠越えの旧遍路道取り付き口だろう。
案内には「へんろ道跡 この道標から山腹の植林の中を登り成山峠越えて、狼内、川平郷の分岐にある指差造務まで、昔のへんろ道の姿が残る。
この道は昭和のはじめまで三原の百性が下ノ加江へ米売りに馬で通った道であり、魚を担うた浜の魚売りが越えた道である。江戸時代の遊路記に「谷間い長く木重なり、淋し」とある。 平成十年三月 三原村教育委員会」とある。
市野瀬の真念庵から市野瀬川を遡り、この道を通り江ノ谷から地蔵峠越え、江ノ村、有岡を経て三十九番寺山延光寺へ至るへんろ道で「寺山道」とも言われていたようである。
道はおおよそ県道に沿って丘陵を進み成山峠を越え、長谷川の左岸の道を西進し、下に記す真念道標のところに出るとの記事があった。峠を越えて里に出たところに手印だけの指指道標が残るようである。

上長谷の真念道標
長谷川の支流・木和田川に架かる木和田橋を渡り少し行くと右側に天満宮、その鳥居より西へ約30メートルほど進むと北に逸れる道があり案内板と標石2基と石仏らしきものが立つ。
案内には、「真念法師の道標 「右遍路みち左大ミつのときハこのみちよし」願主 眞念  為父母六親・貞享四年(六八七)丁卯三月廿日 施主大阪西浜町てらしま五良衛(私注;字がでないので「衛」で代用)門建之とある。真念法師はへんろみち道標の創始者と伝へられる。  平成十年三月三原村教育委員会」とある。

右端一番大きな標石には「へんろ道 右寺山道 左足摺山 願主 愛媛縣」と刻まれる。愛媛県ができたのは明治6年(1873)であるのでそれほど古いものではない。寺山は延光寺、足摺山は金剛福寺。その横の標石は案内にある「右遍ん路みち 左 大ミつのときハこのみちよし」と刻まれる。 

大水の時は遍路道の先、北を遮る山稜を越えた中筋川の谷筋が氾濫する、ということだろうか。 真念道標の隣、左端は風化激しく標石か石仏かの区別もできない。
中筋川洪水の特徴
中筋川地溝帯(Google Earthで作成)
国土交通省の資料に拠れば、「中筋川は、その源を高知県宿毛市白皇山(標高458m)に発し、ヤイト川、山田川、横瀬川等の支川を合わせ中筋平野を東流し、河口の四万十市実崎地点において四万十川と合流している1級河川である。
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奥部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地および丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地よりなっている。
・中筋川は低平地を流れ、洪水時に本川水位の影響を受けることから、内水被害が発生し やすい。
中筋川洪水の特徴として
中筋川流域の平均年降水量は2,200~2,600mmで日本有数の多雨地帯。
・降雨のほとんどが台風に起因し、大規模な洪水がしばしば発生。
・中筋川は、四万十川合流点から約11kの区間の河床勾配は約1/8,000と非常に緩やかであるため、沿川では四万十川の背水の影響により、度々内水被害が発生」と記される。
度重なる洪水対策として昭和4年(1929)よりはじまった改修工事によ り洪水被害が次第に減少してはいる」とある。
中筋川地溝帯
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奧部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地及び丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地より成っている。
地溝とは、ほぼ平行に位置する断層(中筋川の場合は北の国見断層と南の江ノ村断層)によって区切られ、峡谷の形状をなしている地塊および地形のこと。侵食によってできた谷とは異なり、基本的に正断層の活動によって形成される。
地殻において水平方向に伸張力が働くと、その地域には正断層が発達する。この断層線が、水平面においてほぼ平行に複数発達すると、一部地塊は沈降し、峡谷の形状を成す地溝となる。

大ミつのときハこのみちよし
洪水の時は左へとある。どのような道筋なのだろう。ちょっとチェック。県道44号を西行し、途中宗賀で下ノ加川に沿って南下する県道とわかれ、県道21号に乗り換え下ノ加江川水系の宮ノ川などの支流に沿って三原村役場のある村の中心部に。
村の中心部を越えた県道21号は下ノ加江川水系の分水界を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って中筋川ダム(洪水対策などの多目的ダム)を経て宿毛市平田に出る。
微妙な分水界
下ノ加江川水系と四万十川水系中筋川支流清水川の源頭部は急接近している。境は船ヶ峠と記された、峠というよりちょっとした「高み」といった箇所。船ヶ峠の標高は170mほど。両水系の谷筋の標高は150mほど。ちょっとした地殻変動で河川争奪が起こりそうに思える。






江ノ谷川を渡り北進し地蔵峠へ
真念道標を右折し天満宮の鎮座する丘陵西裾を進み、道なりに江ノ谷川を渡り車道に合流し、東西の丘陵に挟まれた江ノ谷川に沿って北進する。道は舗装されており古き趣はない。 真念道標からおおよそ50分弱、地蔵峠に出る。
上長谷(ながたに)城跡
遍路道の左手、県道に突き出た丘陵上は上長谷城跡。武元真季(敦いは武光兵庫ともいう)の居城。戦国時代天正のはじめ頃(一五七三)柚木城主敷地官兵衛、下長谷城主大塚八木右衛などと共に一条氏に仕えた。天正三年栗本城(具同村)にて一条勢と共に長宗我部元親軍と戦って破れ降伏、一命と領地は安堵されたが、その後の消息は不明とのこと。城の本丸と目される所330平方メートル、下段に三条の空堀あるようだ。

地蔵峠
坂を上り切ったところ、尾根道も舗装された道が走る。四万十市と幡多郡三原村を結ぶ県道344号だ。峠は四万十市と三原村の境となっている。
県道とのT字路交差点、正確には土径が北に下るため四つ辻といったほうがいいかもしれない。
その四つ辻の北西側、一段高いところに舟形石仏が3基佇む。その内1基は三体が刻まれたもの。なんだか惹かれる。この地蔵尊ゆえの地蔵峠ということだろうか。
県道344号
宿毛線・四万十くろしおライン国見駅の少し東で国道56号と分かれ間集落から山間のジグザグ道を上り、この地蔵峠を経由して三原町に抜ける。



江ノ村大師堂
地蔵尊を左上に見遣りながら、地蔵峠の四つ辻から土径となった遍路道を下る。峠の標高は260mほど。等高線に沿うように、250m、200mと緩やかに坂を下り、標高150m辺りの平坦地を過ぎ100m、50mと坂を下る。時に崖が崩れたところもあるが虎ロープなどでサポートされており、それほど危険な箇所はない。
峠から40分強で江ノ村大師堂。新しく建て直されたのだろうか、少し新しい建屋となっていた。林間から里が除く。

西ノ谷集落で里に出る
遍路墓のような石碑に頭を下げ数分歩くと西ノ谷集落の里道に出る。里道を進み東西に走る中村宿毛道路の高架手前に遍路休憩所と安らぎ大師像。高架を潜り中村宿毛道路の北を走る道に遍路道案内のタグ。西を指す。
中筋川を渡り国道56号に戻る 中村宿毛道路に沿って丘陵裾を西行すると水路が行く手を遮る。北に迂回し上土居川橋を渡るとその先、中筋川を渡る道筋と山裾を西行する道の分岐点。

中筋川を渡り国道56号に
橋を渡るところまでは遍路道タグがあったのだが、分岐点をどちらに進むかわからない。真念の『四国遍路道指南』には「○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」とある。 この記事に拠れば、中筋川を渡り磯の川村から有岡村へと向かっている。
分岐点の対岸は磯ノ川、有岡の集落がある。はっきりしないが、この辺りで中筋川を渡り磯ノ川、有岡へと向かったのだろう。分岐点を北に国道56号に戻る。

住吉神社手前四つ辻の道標
磯ノ川、有岡と進み中筋川支流横瀬川、山田川を渡ると四万十市から宿毛市に入る。先に進むと道の右手に住吉神社。その手前の四つ辻に自然石標石が立つ。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁  左 三拾九番寺山寺 六十五丁 文政治十丑龍 山田村講中」と刻まれる。ということは、真念の記事にある「やまだ村」とはこの道標の立つ辺りであろうか。東には山田川も流れている。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁」は何処を指すのか不明。

39番札所延光寺参道口に標石2基

国道を西行し平田、寺尾を越えると延光寺参道口に至る。参道口に大きな標石2基。高いほうの標石には「四国霊場第三十九番札所延光寺」とあり、線で彫られた矢印と共に、是ヨリ一キロ 約八丁 中村二十キロ 宿毛六キロ」 「文化財 本尊薬師如来・笑不動、銅鐘、いぶき」 「昭和三十九年三月一日 施主 滋賀県長浜 中尾多七・高田金二」と刻まれる。
中尾多七さんたちが建てた標石には遍路道の途次多く出合った。線彫りの矢印での方角指示が特徴的な角型標石をその典型とする。
もう一基の標石は茂兵衛道標。「東 中村 西 宿毛 」、手印と共に「寺山延光寺 足摺山江十一里 大正五年十二月」。茂兵衛227度目巡礼時のもの。またこの道標には添歌も刻まれており、「花の香や いと奥深き法の声」と刻まれる、と言う。

39番札所延光寺
標石を右に折れ、左折・右折で北に進み途中、左に分ける「40番 観自在寺 歩き遍路道」に入る土径の角に茂兵衛道標。正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。延光寺はすぐ。




市野々より県道21号を辿る遍路道

金剛福寺より真念庵近くの遍路道分岐点に打ち戻る途中、下ノ加江から県道21号を進み宿毛に出るお遍路さんもいるようだ。特段古くからの遍路道というわけでもないが、ちょっとメモしておく。距離は30キロほどだろうか。
市野々で県道21号に乗り換え、下ノ加川に沿って進み大川内の集落を越えると土佐清水市から幡多郡三原村に入る。芳井、久繁、下長谷と進む。下長谷の対岸、宮奈路の丘陵に下長谷城跡がある。
下長谷城跡
「下長谷城跡 大塚八木右衛生門の居城で一条氏に仕え、天正二年(一五七四)一条氏の家老(安並、羽生、為松)などが謀って其の主君兼定を豊後(大分県)に追放するも、是れに憤り加久見城(加久見左衛門)などと共に兵を挙げ三家老を亡した。
翌天正三年、一条兼定が中村に復帰を試み、伊予の援を得て栗本城において長曽我部勢と抗したがたが破れて降伏、一命と領地は安堵されたが、数年にして亡んだ。本丸は約100平方メートル、一条の空堀のあとが残る」、と。
奈路
四万十町地名辞典には、「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 成川・鳴川も同じ。

下長谷城跡のある丘陵を廻り込むとそして宗賀の集落。この地で県道21号は下ノ加川筋からその支流長谷川筋に入り三原村の中心をなす来栖野と進む。
来栖野を越えた県道21号は、長谷側源頭部の船ヶ峠を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って下り、多目的ダムである中筋川ダムを越え県道56号の平田へと下る。遍路道は平田で国道を右折し延光寺へと向かう。
藤林寺
県道が国道56号に合流する手前、沖前の丘陵裾に曹洞宗藤林寺がある。境内には一条家の房良、房冬、房基を弔う五輪塔・卵塔などの墓石がある。


月山経由延光寺への遍路道

金剛福寺から西へと海岸廻りの遍路道を記す。実際に歩いたわけではないので、このルートを歩いた澄禅の『四国遍路日記』 (承応二年=一六五三)をもとに遍路道をトレースする。金剛福寺前の案内では、三原経由55.1キロ、月山経由が73.2キロである;
澄禅の『四国遍路日記』
「六日逗留ス(金剛福寺)。 七日、寺ヲ立テ足摺山ノ崎ヲ往廻リテ、松尾 ・志水・三崎ナド云所ヲ経テ行ニ、海辺ノ事ナレバ、厳石ノ刃ノ如ナル所モ有リ、平砂泙々タル所モ在、カカル所ニ、三崎ノ浜ニテ高野・吉野ノ辺路衆、阿波國ヲ同日ニ出テ逆ニメグルニ行逢タリ。互二荷俵ヲ道ノ傍ニ捨置テ、半時斗語居テ泪ヲ流シテ離タリ。夫ヨリ川ロト云所ニ正善寺ト云浄土宗ノ寺二一宿ス。 八日、寺ヲ立テ海辺ヲ十町斗往テ、大坂ヲニツ上リ下リテ貝ノ河ト云所ニ至ル。夫ヨリ坂ヲ上リテ粟津・サイツ野ナド云所、坂ヲ上リテ浜ヲ下リ下リテ御月山ニ至ル。
御月山ハ、樹木生茂リタル深谷を二町斗分入テ其奥ニ厳石ノ重タル山在リ、山頭ニ半月形ノ七尺斗ノ石有、是其仏像ナリ、誠ニ人間ノ作タル様ナル自然石也。
御前ニ二間三間ノ拝殿在リ。下ニ寺有、妻帯ノ山伏ナリ住持ス、千手院ト云。当山内山永久寺同行ト云。此寺ニ一宿ス。
九日、御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ。
十日、寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル。爰ハ土佐・伊与両國ノ境目ナリトテ、太守一門 山内左衛門佐ト云仁ヲ置タリ。七千石ノ城下也。城ハ無テ屋舗カマエナリ、侍小路町如形也。真言・禅・浄土・一向宗都テ四ケ寺浄土寺ト云。浄土寺ニ宿ヲ借リ荷ヲ置テ寺山エ往ク。宿毛ヨリ二里也、五十町一里ナリ。
寺山本堂東向、本尊薬師。二王門・鐘楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ太守ヨリ再興在テ結構ナリ。寺ハ近所ニ南光院ト云妻帯ノ山伏在リ」。

松尾・志水(清水)
寺を西に白山神社、白山洞門、県道27号を進む。大戸を過ぎると澄禅の記す松尾。大浜を越え、中浜に。この地にはジョン万次郎の生家がある。
中浜を越えると清水。澄禅が志水と記した地である。この地、県道右手に「清水の名水」。土佐清水の地名の由来ともなった湧水である。

三原への分岐点
土佐清水市で県道27号と分かれ町並みを抜け国道321号に乗り換える。養老を越え益野川を渡ると三原への分岐点。「宮ノ川経由36.8キロ 下川口経由41.8キロ」の遍路案内があるようだ。 宮ノ川への道は益野川の源頭部を詰め、山稜を越えて下ノ加川の谷筋に下り三原の中心部来栖野の傍に宮ノ川へと辿るのかと思うが、結構な山越えのよう。

三崎・川口・具ノ川(具ノ河)
分岐点から浜に下ると澄禅が記す三崎。その先、奇岩で知られる竜串がある。国道を西に進むと下川口。澄禅の記す川口正善寺は廃寺となり現在は大師寺となっている。下川口は上述遍路案内にあった地名。
下川口の先には国道に二つのトンネルがあるが遍路道は海岸線に沿った旧道。二つ目のトンネル出口で国道に戻り、澄禅が「貝ノ河」と記す貝ノ川を越え大津へ。大津は澄禅の記す粟津と比定される。

才角(サイツ野)
大津の先にもトンネルふたつ。トンネルを迂回する旧道を進むと小才角。土佐サンゴ発祥の地として知られる。
ここから幡多郡大月町となる。その先才角。澄禅の記す「サイツ野」である。才角の先、大浦分岐で国道321号から離れ大浦に向かう。切り込んだ谷筋を北に進み廻り込み、再び南に下ると朴碕(ほうざき)の岬の断崖の上に出る。「月山神社1.4キロ」と記された「四国のみち」指導標が立つ、という。
土佐サンゴ発祥の地
ここ月灘沖を含めた渭南海岸には, 徳川時代からサンゴのあることがわかっていました。一人の漁師が桃色サンゴを釣り上げた偶然が日本サンゴ史の始まりとされて います。
土佐藩では厳重に採取を禁止し, その所在を口にすることを固く禁じました。このことは今なお残る童唄

お月さんももいろ だれんいうた あまんいうた
 あまのくちひきさけ
  (注:だれん=誰が いうた=言った あまん=あま)

にうかがい知ることができます。この唄は口をとざされた漁師や子供たちによって唄いつがれたものでここ小才角はこの唄の故郷であります。
明治維新後この禁令は解かれ, 明治七年にこの付近の海域ではじめてサンゴ船による採取が行なわれその後は急速に発展し, 明治三十年代には七百隻の採取船が出漁し, 愛媛県からも多数の船が沖の島周辺に来て採取しました。乱獲の結果資源が涸渇, ついに大正十二年頃には ほとんど中止の状態となりました。
その後, 五島, 台湾, 奄美大島, 小笠原諸島周辺やミッドウェー沖にて多くとれ, 当地方では今もなお, その 加工が盛んです。最近また月灘沖の赤サンゴが大変注目されています」と案内にある。 赤サンゴ、または「血赤珊瑚」は「トサ」の代名詞で世界中から注目されているとの説明もある。ヨーロッパのバイヤーは血赤珊瑚のことを「トサ」と呼び、高知県で生産される宝石珊瑚は「土佐珊瑚」と別格視され、またイタリア産カメオの原木は日本(高知)より供給されています、といった記事もあった。

月山神社
「月山神社 当神社は、月夜見尊、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祭神とし、表筒男(うわ つつお)、中筒男(なかつつお)、底筒男(そこつつお)の三神と事代主尊を合祀し、もと月山霊場「守月山月光院南照寺」と称せられ、神仏混合の霊場であったが、明治元年に月山神社と改称され現在に至っている。
月山の名は、神社の御神体が月形の石であり、月夜見尊を奉斎したことによる。伝承によれば、遠く白鳳の世、後世に修験道の開祖といわれる役小角がはじめて此の山に入り、月影の霊石を発見し、月夜見尊、倉稲魂尊を奉斎したのが開基といわれる。後、僧空海が此の霊石の前に廿三夜月待の密供を行い、それより陰暦一月二十三日を例祭とされた。
由来、サンゴの名産地で知られる大月一帯の護り神として、また四国八十八ケ所番外札所として今も参詣する人が絶えない。
特に家内繁栄、海上安全、大漁祈願などに霊験ありとする。
なお、当神社は昭和三十三年、大月町有形文化財に指定されている」との案内がある。
境内の大師堂は文政五年頃の建築と推定されており、現社殿は明治二十二年の建築という。

西泊(西伯)・小筑紫(コヅクシ)
月山神社から先、澄禅の記事には「御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ」としごく大雑把に記されている。 あれこれ記事をチェックする。月山神社を出た遍路道は一度赤泊の浜に出て、澄禅の記す西伯(西泊ではあろうに進み、赤泊の音無神社から谷筋を北に向かい、国道321号に合流し、北上。馬路を越えた先、福良川が海に注ぐ河口域に出ると行政区域幡多郡大月町から宿毛市に変わる。地名は小筑紫。澄禅の記す「コヅクシ」であろう。

七日島
福良川を渡った先、道の左手に天満宮があり、その横に「七日島」と地図にある。澄禅記す「七日島」がそれ。菅原道真が大宰府に配流される途次、嵐のため宿毛漂着し、「筑紫はここか」と問うたのが、小筑紫の地名の由来。また嵐がおさまるまで七日間船をこの地に留めた故の「七日島」であった。

伊与野(イヨ野)滝厳寺
国道を北に少し進むと、澄禅が「イヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス」と記す滝厳寺が国道右手、伊与野川右岸の丘陵に建つ。

三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)
滝厳寺を出た澄禅は「寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル」と記す。 ミクレ坂は三倉坂または御鞍坂)、宿毛市小筑紫町小浦から同市坂ノ下に下る道であったよう。現在の国道321号は海岸線を走っているが、往昔は海岸線の小筑紫町から山越えの道に入り、松田川が宿毛湾に注ぐ河口部の坂ノ下に出る道を辿ったのであろうか。
この後、宿毛市内から延光寺を目指したようである。


これで四国霊場を一巡し終えた。古の標石を目安に旧遍路道を辿る散歩は母親の介護に6年ほど毎月帰省した折の気分展開ではじめたものではあったが、山あり谷あり、里や海辺を辿る旅となり変化の富む四国の景観を知るいい機会となった。 旅の途中、見逃した旧遍路道、バリエーションルートも結構多い。暇を見付け「後の祭り」フォローアップの散歩にでかけようと思う。

火曜日, 12月 15, 2020

土佐 歩き遍路;第三十七番札所 岩本寺から第三十八番札所 金剛福寺へ その②四万十川の渡しから金剛福寺まで

旧土佐中村市(現四万十市)の四万十川右岸より足摺岬突端に建つ金剛福寺までをメモする。その距離おおよそ50キロ弱だろうか。四万十市と土佐清水市を画する伊豆田峠を越えた市野瀬に真念庵がある。そこまでおおよそ12キロ。この地は足摺岬にある38番金剛福寺と土佐最後の札所、宿毛市の39番延光寺への分岐点。多くのお遍路さんは真念庵より金剛福寺を打ち、此の地まで打ち戻り宿毛の延光寺を目指すと言う。
その真念庵から先、時に「あしずり遍路道」の案内が立っていた。真念庵にあった案内には、 「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とのみの案内があった。当日は「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道として残る道筋の指導標とは思わず、単に金剛福寺への遍路道標識と思っていた。
「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道への指導標とわかったのは、メモの段階で土佐清水市の「あしずり遍路道」の案内を知ったことによる。そこには、真念庵から金剛福寺までの間に、10余の遍路道名とともにマークが示されていた。国道改修工事から逃れ、現在に残された旧遍路道が約14キロ整備されているようである。
遍路名とマークだけでルートが示されていないのが少々残念ではあるが、遍路道マークの場所から推測すると、それは国道筋を逸れた山道・沢筋といったルートのようである。「あしずり遍路道」の標識は旧遍路道への出入り口指導標であった。
当日は知らず、いくつかの「あしずり遍路道」を辿ったが、ほとんどが後の祭り。 「あしずり遍路道:標識をもとにGoogle Street Viewでそのルートを推測するという為体(ていたらく)であった。 事前準備なし、ほとんど成り行き任せのお散歩をその基本としているため、思いがけない出合いの楽しみもあるが、残念!との想いも多くある。室戸岬東岸でも多くの旧遍路道を見逃したが、足摺岬東岸でも同様の想いを残すことになった。
共に土佐を代表する岬の東岸。この2地域はもう一度しっかり旧遍路道をトレースしようと思う。 ともあれ、メモを始める。



本日のルート;
■四万十川の渡しから伊豆田峠へ
四万十大橋>県道321号を南下>県道343号を南下し旧遍路道に入る>津蔵渕川左岸を国道321号に>津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に>徳右衛門道標
伊豆田峠越え
国道を右に逸れ旧道に>伊豆田峠への山道に入る>伊豆田峠>峠から林道へ>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ
真念庵への標石>真念庵>真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む>市野々・あしずり遍路道分岐点>国道321号に戻る>小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む>下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ>鍵掛(かいかけ)>久百々(くもも)>ふた浜>大岐東道>大岐浜>下港山へのあしずり遍路道>以布利>窪津分岐>県道27号と県道347号分岐点>窪津>津呂道>あしずり遍路道・赤碆東道分岐点>舟形標石>第三十八番金剛福寺


●旧土佐中村市(現四万十市)四万十川右岸より金剛福寺への遍路道●

■四万十川の渡しから伊豆田峠へ■

四万十大橋
先回の散歩では往昔の遍路道は下田の渡しへの道筋であろうと四万十川河口部の渡船場へと向かったのだが、事前の準備不足で渡船は予約制とのことで渡船できず、また、それよりなにより下田の渡しは昭和初期から開始されたとのことを知り、往昔の四万十川の渡しがあったとされる高島の渡し、現在の竹島大師堂まで辿った。
現在は高島の渡し・竹島の渡しは運行されておらず、お遍路さんは上述下田渡しを利用するか、四万十大橋を渡り四万十川右岸に移ることになるわけだが、今回の散歩は澄禅や真念も辿ったであろう竹島・山路の渡しにより近い四万十大橋を渡り、四万十川右岸に移る。
山路の渡し跡
四万十大橋の南北に、四万十川と中筋川を分ける砂洲・河川敷が続く。高島の渡し・竹島から四万十川右岸に渡る山路の渡し跡は、四万十川に沿って走る国道321号を北に進み、国道が中筋川右岸から中州・河川敷に入り、四万十川に後川が合流するあたりにあった。
この河川敷のどこかに往昔の竹島・山路の渡しの船着き場があったのだろう。
旧中村市
更に上流、四万十川・中筋川・後川により形成された沖積平野にかつての幡多郡の中心地であった旧中村市(現在四万十市)がある。
平成17年(2005)に西土佐村と合併し四万十市となる。Wikipediaには「国造が割拠した7世紀には、中村は、都佐国造ではなく波多国造の領土に属していた。律令制が敷かれると、都佐国造と波多国造が合併して土佐国となり、旧の波多国造の領土は幡多郡となった。
戦国時代には土佐一条氏の城下町となり、「土佐京都」と呼ばれるように京都をモデルとした都市造りが行われ、幡多郡の中心地へと発展した。しかし、土佐一条氏は、天正時代になると、高知を本拠地とする長宗我部氏によって倒され、長宗我部氏の領内に入れられた。
江戸時代になると、長宗我部氏から山内氏に統治者が変わり、中村は山内氏が治める土佐藩の領内に入った」とある。
土佐一条氏
一条氏の土佐下向とは、応仁の乱を避けた前関白一条教房公は京を離れ家領の中村に移り、京に模した町作りを行なった。町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整備し、土佐国にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。次第に武家化し伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれ、断絶した。

県道321号を南下
四万十川と中筋川を跨ぐ四万十大橋を渡り、橋の西詰で左折し国道321号に乗る。中州によって四万十川と分けられた中筋川の右岸に沿って実崎(さんざき)地区を南下。中州も切れ中筋川を合わせた四万十川の右岸を進むと、道の左手に「間碕の枕状溶岩」の案内。道の右手の岩盤を指す。
枕状溶岩
マグマが水中で噴出する際にできるもの。西洋枕が積み重なったように見えこの名が付く。おもに玄武岩質のマグマに寄る、と言う。



四万十川
何時だったか訪ねた四万十川源流・松場川の一滴の水は下田・初崎間では1.2キロの大河となっている。
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われる。それゆえの「四万十」とされるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。
東流から西流へ
現在は上述の如く、窪川辺りで西に流れ、山地を大廻りする四万十川の流れではあるが、はるか昔には、松葉川も梼原川も広見川も、その流れは窪川盆地から、そのまま太平洋に注いでいた、と言う。梼原川や広見川は現在の流れとは逆に、「東流」していたことになる。その流れが西に向かうことになったのは、南海トラフの跳ね返りで、海岸線に山地が現れ(興津ドーム)、南下を阻まれた流れは西に向かうことになった、とか。
興津ドームの隆起によって太平洋に注ぐ流れを妨げられた四万十川は、何故に、このように海に背を向けて大きく弧を描く特異な流れとなったかについて『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』は「四万十川が山地の中を激しく蛇行していることから、この流域を含む一帯はむかし、海面に近い平坦な低地だった、と考えられる。そこを川は自由気ままに蛇行していたのである。
しかし、その後土地が隆起したため、川は侵食力を回復して、その流路を保ちながら谷を削り込んでいった。その結果、現在のような穿入蛇行(山地にはまりこんだ蛇行)の状態が出来上がった。但し、この隆起は全体的に一様に起こったのではなく、たまたま四万十川の流域の中央部が最も高くなるように起こった」とあった。このことは時系列で言えばV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、四万十川上流部に近い窪川辺りの谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっており、下流部がU字・V字と通常の地形生成プロセスと逆転していることからもわかる。
四万十川・渡川
地図を見ると四万十川(渡川)と記される。かつては四万十川とも渡川とも呼ばれていたが、明治になり河川法が作られた際に、正式名称は「渡川」、俗称四万十川とされた。 それが「四万十川となったのは、昭和58年(1983)、NHKが放送した「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」がきっかけ。この放送により「清流四万十川」が世に広まり、平成6年( 1994年)には法改正により四万十川を正式名称とすることにした。もっともこの四万十川は本流を指す名称であって、支流310とも言われ、またその支流に中筋川と後川いう1級河川をももつ水系のことは渡川水系と称されている。四万十川は渡川水系四万十川と言うことだ。

県道343号を南下
左手、四万十川の大きな中州を見遣りながら間碕(まさき)地区の丘陵裾を回り込むと、ほどなく県道343号が国道から南に分かれる。分岐点手前に、「初崎分岐」バス停、分岐点には「四国のみち」の指導標があり県道直進は「大文字山」、左折『初崎」とある。遍路道はここで左折し県道343号に乗り換える。


県道343号を右に逸れ旧遍路道に入る
少し南下し、道の右側の作業小屋から右に入る道がある。遍路道の案内はないが、遍路道はここを右に折れて西進する。
ここは下田の渡しで四万十川を渡り初崎から県道343号を北進してきた遍路道との合流点でもある。



初崎からの遍路道
下田渡船場から1.2キロ、四万十川河口部の初崎からの遍路道は上述、県道343号を北進するコースと、南の海岸沿いを歩く二つのコースに分かれる。海岸沿いの立石・布浦経由下ノ加江まで17キロ、澄禅や真念も歩き、今回辿る山越えの遍路道はその距離14キロである。
〇初碕
中世にさかのぼる地名で、古くは福崎村。いわば 「地域の果てとなるところの崎」河口の岬(土佐と銘往来)

津蔵渕川左岸を国道321号に
作業小屋で県道343号を右折し旧路に入る。左右草で覆われた道を進むと右手に「四万十川野鳥自然公園」。道端に立つ使途不明の石碑を見遣りながら津蔵淵川左岸を進むと国道321号とクロスする。
大文字送り火
この交差箇所から国道を北に戻り、四万十川野鳥自然公園の北西端北に見得る小丘陵に「大」の跡が残る。この丘陵で、大文字送り火が行われるとのこと。
国道脇にあった案内には 「大文字の送り火 今から五百有余年前、前関白一条教房公は京都の戦乱を避けて家領の中村に下向され、京に模した町作りを行なった。東山、鴨川、祇園など京都にちなんだ地名をはじめ町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
此の大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良(かねら)、父教房の精霊を送ると共に、みやびやかな京都に対する思慕の念からはじめたと、この間崎地区では云い伝えられている。現在も旧盆の十六日には間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている」とある。
四国のみちの指導標には「大文字山」とあったが、十代地山と呼ばれているようである。

しかし、である。旧中村市内に館を持つ一条氏が何故に、館より結構離れたこの地を選んだのだろう?また、一条氏の威を示すにはあまりに規模が可愛らしすぎる。
あれこれチェックすると、平成2年(1990)6月13日の高知新聞に「中村市の大文字送り火 市文化財保護審が確認 一条公ゆかり説覆る 起源250年遅い享保年間」という記事があり、それによると、同審議会が確認したとする原典は、江戸後期の文化八年(一八一一年)に山之内家の家老だった深尾氏の家臣で、国学者の岡宗泰純が著した『西郊余翰』(「南路志翼四十二」に原本収容)の記述。
幡多地域一帯を見聞した泰純は同書に「間崎村西山の山腹に大文字あり」と記し、続けて「享保年中見善寺の僧侶江翁良邑京都東山に模して作りたりとそ」とし、更に「世々一条公の名残といへとも左にあらす」と一条公との関りを否定している。
見善寺は現在の間碕の薬師堂近くにあったとされる。澄禅の『四国遍路日記』にも「真碕ト云所二見善寺トテ妙心寺流ノ禅寺有リ。是二一宿ス」とあるので見善寺があったのは間違いないだろう。 尚、真念は『四国遍路道指南』に「ま崎村、薬師堂有」と記す。
僧侶江翁良邑についてははっきりしないし、そもそも原典となっている書籍が確認されていないようではある。
とはいうものの、一条公ゆかりとする文書も残らず口伝であり、なんとなく享保説のほうにリアリティを感じる。素人妄想。真偽のほど不明。
間碕
四万十川の下流右岸。南の初崎と北の実崎との間が 間崎(土佐地名往来)

津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に
国道をクロスし、津蔵渕左岸を進み津蔵渕集落西端部で橋を渡り国道321号に戻る。国道に出た山側にお堂がある。寺庵と書かれていた。




徳右衛門道標
しばらく国道を進むと、道の右手に赤いエプロンをつけた石仏と石碑。石碑は大師像より下が埋まった徳右衛門道標。徳右衛門道標に特徴的な梵字と大師像、文字は「是*足*」と言った文字が残る。





■伊豆田峠越え■


国道を右に逸れ旧道
国道をしばらく進むと右に逸れる道がある。旧国道のようである。現在の国道321号の伊豆田峠を抜ける新伊豆田トンネルが開通したのが平成6年(1994)というから、それほど遠い昔ではない。 
尚、伊豆田峠越を避け国道321号を進むと全長1650mの新伊豆田トンネルを抜け市野瀬川の谷筋に出る。トンネル手前に覇今大師が建つ。
今大師
今大師の由来には、「この「今大師堂」には弘法大師、不動尊、玉還喜伝坊の三体をお祀りしている。最初のお堂は玉還喜伝坊を祀って明治5年(1872)に建てられた。その後昭和28年(1953)に規模を広めて改築し、新たに弘法大師、不動尊もお祀りするようになった。
さて玉還喜伝坊を「今大師」と称するのは、信者達が坊の並々ならぬ人徳と霊力に敬服して「今大師」とよび、高野山もそれを認めて許していたからだと言う。
坊の出身地は信州筑摩郡瀬波村(長野県諏訪郡富士見町瀬波)である。徳川時代の文化6年(1809)この地に出生、若くして出家し、本州、四国、九州と日本全国を巡歴して50年近くも修行を重ねた。
そして明治4年(1871)四国巡礼のとき幡多郡八東村高野谷にあった植田常蔵宅に宿をとるが、滞在中に病におかされ同年旧10月9日に逝去した。享年63歳。墓碑は坊の希望した現本堂のそばに建てられた。
然し間もなくはるばる泉州堺より「六根祈念行者大菩薩」と刻まれた石塔が送られてきた。つまり坊には二つの法名があり、この法名のもと本州に多くの信者がいたことになる。この石塔は現本堂内にまつられている。
今大師の念忌は明治5年より毎年旧10月9日植田家を先達に多くの信者の協力をえて行われている。平成8年旧10月9日には第126回忌がとり行われた。平成9年3月吉日」とあった。
             
伊豆田隧道
旧国道を進むと右に逸れる道があり、遍路道案内も右への道を示す。遍路道案内を見遣り、旧 国道に残るという伊豆田隧道をちょっと見に行く。遍路道分岐点からほどなく道が突然藪に遮られ、その先に閉鎖された旧国道・伊豆田隧道の入り口が藪の中に残っていた。






伊豆田峠への山道に入る
伊豆田隧道から遍路道の案内のあった場所に戻り、林道へと右に逸れる。ほどなく道の右手に「伊豆田道」の案内。林道を逸れて山道に入る。




伊豆田峠
10分弱歩き、標高を50mほど上げると稜線鞍部に。特に案内はないが伊豆田峠であろう。文字は読めないが標石らしき自然石の石柱が立つ。「七里半」の文字がかすかに読める。足摺山との文字も刻まれているようだ。
峠には茶屋があったようで、如何にも小屋跡といった一画が残る。峠を境に四万十市から土佐清水市に変わる。共にかつての幡多郡に属した地域である。

峠から林道へ
峠からの下りは等高線に沿って少し少し険しい坂を50mほど高度を下げ、その先少し緩くなった垢を更に50mほど高度を下げた後は、緩やかな坂を50mほど高度を下げた、最後にトラバース気味に50mほど高度を下げると舗装された林道に出る。峠からおおよそ1時間弱といったところだろうか。

澄禅は『四国遍路日記』に「イツタ坂トテ大坂在、石ドモ落重タル上二大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。是ヨリ坂ヲ下リテ一ノ瀬ト云所ニ至ル」とある。大雨大嵐の後であるとは言え、歩いた感じではそれほど厳しい峠越えではなかったように思えた。地元の方の道整備の御蔭かと感謝。

剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
市野瀬川の支流に沿って山裾の林道から里道を南に進み、市ノ瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰で県道346号に合流。その北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。

道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かうことになる。この地が金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点ということだ。
案内には「ここより三十八番札所金剛福寺(足摺岬)まで七里の遍路道には、三百五十基の丁石(道標石)が設けられていましたが、道路工事や開発等でその数が少なくなり、現在、約十四キロメートルの遍路道と道沿いには五十五基の丁石が残っております」とあった。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。


真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ■

真念庵への標石
市野瀬川を渡り県道を少し進むと、道の右手に2基の石碑。小さいほうには「日本第一霊場 真念庵 昭和十二年」、高いほうは標石。「番外霊場 真念庵一八〇米 三原村経由延光寺二五、六粁 窪津経由金剛福寺 二九、八粁」とある。
その横に真念の案内。 「真念 大阪寺島で活躍していた真念法師は、四国八十八ヶ所札所中 三十七番札所岩本寺から三十八番札所金剛福寺、三十九番札所延光寺までは距離が長く難行道程であるため三寺を結ぶ中間地(市野瀬)に、天和(一六八一から一六八三年)の頃、地蔵大師堂を建立しました。
この地蔵大師堂はいつしか真念庵と呼ばれるようになり庵の前に四国八十八ヶ所札所の本尊仏を設置し、三十八番札所足摺金剛福寺巡礼の打戻りの宿や荷物置場として利用されるようになりました。
この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。これを「足摺遍路道三百五十丁石」と呼んでいます。
足摺の地は古くから「補陀落東門」(観音菩薩の住む山の東門)と呼ばれ、各地から多くの遍路 (巡礼者)が巡礼に来ています。地図のない時代、知らない土地で、この丁石を頼りに金剛福寺への巡礼をしたと思われます。
これらの丁石の大部分は作州(岡山県)や播州(兵庫県)摂州(大阪府)の遍路と地元の人々によって建てられています
最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあった。

真念庵
真念庵の案内前の自然石でできた石段を上る。境内右側に最近建て直された風情の新しい大師像が建つ。その対面には二列になった88基の舟形石仏がミニ霊場として並ぶ。ミニ霊場右手の2基の舟形地蔵に囲まれた角柱石碑には正面梵字の下に「真念法師 中開(?)實道」の文字が読める。実道は明治初期の庵主であり、四国巡拝をおこない浄財を集め88体のミニ霊場を造ったとのことである。
舟形石仏の前に自然石の標石。「是よ里足摺山江 三百四十九丁 弘化二」の文字が読める。その右手、地蔵立像の彫られた小さいがなんとなく印象深い石仏の前に、手印と友に「此の方 あしずり道」と刻まれた標石がある。
真念は『四国遍路道指南』に、「市野瀬村、さが浦より是まで里で八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。これよりあしずりへ七里。但さ々やまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。初遍路ハさ々やまへかへるといひつたふ。右両所の道あないこの庵にてくハしくたづねらるべし」と記す。
『下茅の歴史』には、「真念が、お大師さんの遺蹟を訪ねて巡錫中、成川にさしかかったところ、音瀬寺という三十三間堂を模ねたお堂が荒れ放だいになっているので、本尊の地蔵菩薩を市野瀬に移し、弘法大師の像と薬師如来の二体とともに祭り、真念がイオリを結んだ跡」と記す。寺伝には真念が高野山より等身大の大師像を背負い安置したともあるが、この地に伝わる三度栗の話、また「くわず梨」の話と同じく伝説は伝説として聞き置くべし、か。
さ々やま
さ々やまは「篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のこと。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む
あしずり遍路道標識A
真念庵より先へと「あしずり遍路道」の標識がある。県道に沿った丘陵を10分ほど歩くと県道346号と国道321号が合流する辺りで遍路道は舗装道路に下りる。
石段を下り切ったところに「道標アリ あしずり遍路道」の標識(便宜的に、「あしずり遍路道標識A」とする、以下の標識も同様)があり、その横に丸い自然石がある。標石かもしれない。
メモの段階でわかったことではあるが、この箇所の「あしずり遍路道」は「真念道」と称される。 ここからしばらく国道321号を辿ることになる。

市野々・あしずり遍路道分岐点
あしずり遍路道標識B
国道を少し南下すると右に逸れる道があり、その分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識B)が立ち、「真念庵水車口(国道1,7km)-市野々分岐=長野道北口(県道約1.2km)」の案内もある。
国道を右に逸れ旧道に入る。ほどなく道の右手、民家の角に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識と共に板状の大きな標石が立つ。文字は読めなかった。
あしずり遍路道
分岐点のあしずり遍路道の標識に「長野道北口」と記されれていた。「長野道」って何だ?チェックすると土佐清水市観光協会のページにあしずり遍路道として「出発点>真念道>長野道>鍵掛道>久百々(くもも)道>ふた浜道>大岐東道>大岐浜道北口>ジンべー道駄馬口>以布利浜道駄馬道>ホウノ谷道>窪津鯨道>下駄馬道>権現道>津呂道>つばき道>赤碆道>赤碆東道>切詰道>足摺岬道>第38番札所金剛福寺」の地図が示されていた。
真念庵の案内にあった「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあるのがそれだろう。
出発点は伊豆田峠を越え県道346号に合流した地点、6基ほどの標石の立っていた金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点であった。
金剛福寺まで、あしずり遍路道の区間道を頭に入れ乍ら進むことにする。

国道321号に戻る
左折分岐点(遍路タグ
分岐点から少し進むと左を指す遍路タグがある。上述標識にあった長野は未だずっと南。直進すれば上述あしずり遍路道にあった、長野道>鍵掛道と続く。直進べきか、左折すべきか躊躇。
真念の『四国遍路道指南』に「〇市のゝ村〇をがた村、しるし石有。川有、洪水の時ハ下ノかやうら舟渡り有り。此かやうら太郎左衛門其外やどかすなり。常にはをがわしるし石より右へ渡る」とある。 をがた村(小方村)は下ノ加江川左岸。とりあえず、真念の記述に従い左に折れ国道321号に戻る。

小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む

国道321号に戻り、すぐ左に逸れ旧路に入り直ぐ国道に復帰。このあたりで市野瀬川は下ノ加江川に合わさり、下流は下ノ加川として南流する。
下ノ加江川に沿って南に進み小方から左に逸れる旧路に入る。旧道を進み左八坂神社のあるところで右折し下ノ加江大橋に向かう
下ノ加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
小方
下ノ加江川の河口左岸、昔は小さな入り干潟。やが て土地となり集落となる小潟が小方(土佐地名往来)

初崎より東海岸廻り遍路道との合流点
初崎より伊豆田峠を越えることなく、東海岸を歩くお遍路さんもいる。初崎・立石・布経由・下ノ加江まで17キロほど。伊豆田峠越えより3キロ長い。海岸線とはいいながら山が海岸に迫り、前線舗装ではあるが、山道といった道筋ではあるという。

下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ
八坂神社で右折し下ノ加江大橋を渡り対岸の鍵掛へ。上述真念の『四国遍路道指南』には、市野々村から下ノ加江川を左岸の小方村に移り、下ノ加江浦で舟で鍵掛村に渡ったように読める。ゆえに、このルートを辿ったのだがなぜ市野々から長野・鍵掛と下ノ加江川右岸を進まなかったのだろう。歩けるような道がなかったのだろうか。



あしずり遍路道:長野道
あしずり遍路道標識C
メモの段階で少し気になり土佐清水市の「あしずり遍路道」を参考にGoogle Street Viewでチェックすると、左折することなく下ノ加川右岸を進むと「道標有り(あしずり遍路道)」の標識(あしずり遍路道標識C)が立っていた。傍に道標は見えなかったが、長野道はこのコースのようだ。 真念の『四国遍路道指南』にも、「 つねにはをがたしるし石より右へわたる」とある。小方から下ノ加江川を渡ればこの「道標有り(あしずり遍路道)」の辺りに出る。長野道が下ノ加江川の右岸を直進するのか、一度左岸に渡り小方村から再度川を渡り直して右岸に出たのか不明ではある。

鍵掛(かいかけ
あしずり遍路道標識Dと標石
下ノ加江大橋を渡ると、橋の西詰、四国霊場巡拝案内所 御接待の一心庵の前に標石と「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識D)。少し新しい標石には「延光寺 金剛福寺 岩本寺」の方向が示される。
この辺りが「 鍵掛道の始点かとも思う。ルートははっきりしないが、国道から逸れる旧道が通る。それが鍵掛道かもしれない。旧路から国道に戻り、左に浜を見遣りながら久万地岬を進む。
鍵掛(かいかけ)
中世以前の地名で古くはかぎかけ、かぎがけ。カケ は崩壊地名。カイは欠きから転じたもの

久百々(くもも
あしずり遍路道標識E
あしずり遍路道標識F

久万地岬を廻り込むと久百々の浜に出る。遍路道は浜を走る国道を右に逸れ山裾を進む。直ぐ久百々に架かる橋。橋の北詰に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識E)。ここが「あしずり遍路道」の久百々道の始点かとも思う。
旧道を進み再び国道に合流する手前に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識F)。そのまま国道に戻る。
あしずり遍路道・久百々道
当日はそのまま国道に出たのだが、メモの段階で標識をよく見ると山に向かって進むようにも見える。久百々道は標識から道に折れ山道に入り双浜に向かうのかとも思える(推定)。

ふた浜
あしずり遍路道標識G
当日は山道に入ることなく国道321号に戻り「ふた浜」に進む。浜の南端、小川を渡ると「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識G)。当日はそのまま蟻碕の岬へと先に進んだ。





あしずり遍路道・ふた浜道
あしずり遍路道標識H
これもメモの段階で標識を見ると、国道を進むことなく山道に入る案内ではないかと思えてきた。その根拠は、蟻碕の岬にある漁港の辺り、旧道が国道に合流する箇所に「あしずり遍路道」の標識が立っていたため(あしずり遍路道標識H)。「あしずり遍路道・ふた浜道」は山側の道を進み国道合流点の標識に出て来たのかもしれない(標識たけからの推測)



大岐東道
あしずり遍路道標識I
蟻碕に入ると国道から法面壁手前から右に逸れる道がある。入り口左側には舟形地蔵。右側には」あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識I)が立つ。遍路道はここで右に逸れ旧道に入る。

 

旧道に入ると右手に標石。さらには地蔵を祀る小祠、欠けた石造物などが目に入る。国道の山側を進む「あしずり遍路道」はほどなく国道32号に合流する。
この箇所は土佐清水市の「あしずり遍路道」にある「大岐東道」だろう。

大岐浜
国道に合流するとほどなく道の左手、海側に展望・休憩スペース。「大岐松原」の案内。「大岐松原は官有地であったが、上灘村三代目村長の十年の長きにわたる運動により終に払下に成功した。当時は今の倍位あったものが半分は開墾し畑にして部落民にわかち与え、現在残っているのは部落共有である。
松原の由来は不詳でであるが古老の言によれば江戸時代野中兼山の植林せものが樹齢三百年、三年、高さメートルの松になったものという。
天空に聳え林立して壮観なものであったが、昭和三十年頃、マツクイムシのために括れて、長さ十八メートル、節悪しの見事な木材として浜より高知市種崎の造場所に運ばれた、現在は古本は 一本もなく、海寄りの松の内、大きいものは七十年位前に大岐青団の手により植林されたものである」とある。
砂浜に沿って続く松林がそれだろう。

下港山へのあしずり遍路道
あしずり遍路道標識J
遍路道は直ぐ先、国道を右に逸れ浜垣集落に入る旧路を進んだ後国道に戻り南下、大岐浜が切れる辺り、大岐南橋を渡ると左に逸れる旧道がありそこに「あしずり遍路道 大分岐2.1km」の標識(あしずり遍路道標識J)が立つ。国道を逸れ下港山の集落へと進む。




大岐浜道北口
あしずり遍路道標識K
上述、展望・休憩所で大岐浜を見ていると、大野川と大岐川が合わさり海に注ぐ流れに橋が架かる。この橋を渡り浜を進むお遍路さんもいるようだ。どこから浜に入るの探してみる。
展望・休憩所より少し先に進むと浜に出る道があり、そこに「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識K)が立つ。「あしずり遍路道」にあった「大岐浜道北口」がこのあたりかもしれない。 大岐浜道は上述大岐南橋を渡り下港山集落に進む旧路に上がってくるのだろう。当日はその上り口を見逃した。

以布利
「四国のみち」指導標X
「四国のみち」指導標Y
下港山の旧道を進み国道に合流。その先旗陽小学校の先で遍路道は国道56号を離れ以布利の町に入る。道なりに進み、以布利港を越えると道は上りとなる。その上りはじめる道の左手に「四国のみち」の指導標。坂を上り北へと大きく蛇行する北端に「四国のみち 大岐 窪津」の指導標が立つ。その先で県道27号に合流。ここが窪津への分岐点。窪津へはこの分岐点を左に折れる
あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口
あしずり遍路道標識L1
あしずり遍路道標識L2
土佐清水市の「あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口」はこの道筋の辺り。メモの段階でGoogle Street Viewでチェックすると国道321号から以布利の町に左に折れる分岐の少し北に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L1)があった。位置からすればこの辺りがジンべー道駄馬口ではあろう。
更にGoogle Street Viewでチェックすると、国道から逸れた旧道から港へと左に折れる道を進むと左に逸れる分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L2)が立つ。
道を左に逸れ、再び旧路車道に合流し港へと向かうと、切通状の道の左手に「遍路道」の案内があった。これが「ジンべー道駄馬口」の道筋かどうか不明だが、海岸を進む遍路道ではあったのだろう。
また、当日は由布利の町を抜け、「四国のみち」の標識を見遣りながら車道を県道27号・窪津分岐へとすすんだのだが、遍路道は坂を上る手前、道の左手にあった「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標X)からから車道を左に逸れ坂を上る。すぐ蛇行して上ってきた車道とクロス。そこが上述「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標Y)が立つところ。そこから車道を横切り更に上り県道27号窪津分岐に数むようである。
駄馬
駄馬は河岸段丘の意味との記事があった。

窪津分岐
あしずり遍路道標識M
窪津への分岐点には舟形地蔵など3基の石造物。道を左に入り先に進むと「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識M)の標識。道は海岸側から合流している。







あしずり遍路道標識N
さらにその先、南西に切り込む沢筋を大きく迂回すると突端に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識N)と「四国のみち 以布利1km 窪津4km」の指導標、そして「金剛福寺」と刻まれた結構新しい道標が立つ。






あしずり遍路道標識O
あしずり遍路道標識P
沢を迂回し、更にもうひとつ沢を迂回するとその先、道の左右に「あしずり遍路道」の標識が立つ。 谷川の標識には「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」(あしずり遍路道標識O)とあり谷筋から上ってきている。また山側の「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識P)は車道を逸れて山側に入っている。
はてさて、これはどういうこと?あれこれチェックすると今まで辿ってきた遍路道とは異なる「あしずり遍路道」が現れた
海岸廻りの遍路道
ジンべー道駄馬口もそうだが、それ以外にもGoogle Street Viewでチェックすると以布利港の西に窪津分岐へと辿った道を左に折れ浜方面に向かう遍路道案内がある。
漁港を越え砂浜を少し歩き山道に入る。山道を上り切ったところが上述、窪津分岐の先で出合った「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識M)のところのようだ。
そこから車道を歩き、これも上述金剛福寺の石碑があったところに進むが、この石碑のあるところいが「あしずり遍路道ほうの谷道」のスタート地点(あしずり遍路道標識N)。あしずり遍路道はここから沢に下り、上り返したところが、これも上述「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」の「四国のみち」指導標(あしずり遍路道標識O)の箇所。

あしずり遍路道標識Q
ここから遍路道は車道をクロスし、山側にあった「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識P)の標識から山道に入り伊予駄馬へと向かうようだ。車道を進むと尻貝の浜の先、民家の建傍で大きく道が弧を描く道の山側に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識Q)が立っていた。伊予駄馬道の出口ではあろう。
上記「あしずり遍路道」はその標識を基にしたあくまでも推定コース。当日は「あしずり遍路道」の標石が旧路を案内するものとは思わず、ルートがオンコースである目安程度であろうとに歩いていたのだが、もう少しちゃんと調べておけば結構面白そうな遍路道を歩けたのに、と常の如く後の祭り。今回は残念な思い強し。

県道27号と県道347号分岐点
あしずり遍路道標識R
海岸沿いの鬱蒼とした樹林帯の中、道を進むと県道27号と県道347号が左右に分かれる分岐点に出る。分岐点には「四国のみち」の指導標。「窪津1.9km  以布利3,3km」とある。
遍路道は左へと県道27号に折れる。そこには「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識R)が立っていた。
当日は、遍路道オンコースの案内であろうと海岸沿いの道を進み窪津の町へと入った。
あしずり遍路道・窪津寺下道
メモの段階でチェックすると、県道分岐点の「あしずり遍路道」標識の直ぐ先から山に入るようだ。Google Street mapでチェックすると右手に山に入る道が見える。ルートははっきりしないが、窪津寺下道と称されるように、山中を進み窪津の町にある海蔵院辺りで里に出るようだ(推定)。




窪津
窪津鯨道が象徴するように、窪津は東海岸最大の漁港。藩政時代は捕鯨、と言うか、鯨の生け捕りで栄えた町とのこと。このあたりの古名は「伊佐」とのことだが、それは鯨(いさな)由来と言う。昭和初期まで伝統的捕鯨が続いたようだ。
当日は窪津を抜け海岸沿いの県道27号を津呂へと向かった。
あしずり遍路道・下駄馬道
あしずり遍路道標識S
四国のみち」の指導標と遍路道案内
窪津漁港の南端、窪津の旧道が県道に合流する箇所に「四国のみち」の指導標が立つ。その傍に遍路道案内があり、県道と逆方向を指す。この県道を右に逸れる旧道から山道に入る遍路道があるようだ。清水市観光教会の資料にある「下駄馬道」がそれだろう。地図にも窪津碕をぐるりと廻る県道をショートカットし、丘陵部を進み県道に続く実線が描かれている。その県道合流部には「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識S) が立っていた。
あしずり遍路道・権現道
あしずり遍路道標識T
あしずり遍路道標識U
下駄馬道が県道に合流するところ(推定)から更に南に進むと権現という地名がある。Google Street Viewでチェックすると松碆の辺り、道の右手に「あしずり遍路標識」(あしずり遍路道標識T) があった。更に南、柳駄馬辺りで道の左手から県道に合流する箇所に「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識U)の標識があった。
想定するに、北の標識より県道を右に逸れた遍路道は南下し県道を横切り柳駄馬にあったあしずり遍路標識のところに出るのだろう。

津呂道
あしずり遍路道標識V
県道27号を進み左に金毘羅宮を見遣り先に進むと、道の分岐点に3基の石仏が立つ。遍路道はここで県道を離れ右に逸れる道に入る。分岐点には「四国のみち」指導標、「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識V)の標識も立つ。





2基標石
道を進むと右手に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識。傍に自然石の標石2基。大きな標石には「六十五丁」の文字、また「七ふしぎ」の文字も刻まれる。「七ふしぎ」って何だろう。 その横、誠に小さな標識には「五十六丁」と刻まれる。


3基石造物
右手の竈戸神社社の先に遍路墓。少し進むと「道標あり(あしずり遍路道)」の標識があり石造物3基。右端は「五十五丁」、その横は「五十*丁」と読める。左端は文字は読めなかった。
先に進むと石造物の並ぶ覆屋。その先で遍路道は県道27号に戻る。県道合流点には「遍路道」案内が立っていた。
この遍路道はあしずり遍路道・津呂道である。
津呂
津呂は山間で川水の淀んで波静かなところを指すトロ(瀞)の土佐での転化とも言われる。この地の津呂も自然の浦曲の状をなし、内部に侵入した海水もここでは穏やかな淀みになっていたものと考えられる、と「四万十町地名辞典」にある。

あしずり遍路道・赤碆東道分岐点
あしずり遍路道標識W
津呂道から県道に戻った遍路道は県道27号を駄馬、大谷、赤碆、赤碆東へと進み県道から左右に道が分岐する箇所に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識W)が立つ。土佐清水市のあしずり遍路道の案内と比較すると、この分岐点が「あしずり遍路道・赤碆東道」への分岐点かと推定する。
あしずり遍路道
津呂からこの赤碆東道分岐点までにもあしずり遍路道がある。津呂道を出た先、駄馬地区のあたりに「つばき道」があると言う。標識はみつからなかった。つばき道とは、この辺り河岸段丘面に強風を避けるために椿を植えたゆえではあろう。
「つばき道」の先に「赤碆道」があると言う。赤碆地区を下り、白碆と黒碆の岩礁部の間、赤碆東地区の海側に「赤碆道」のマークが示されるが、県道にはその出入口の標識は見るからなかった。

舟形標石
あしずり遍路道・赤碆東道分岐点から海岸に沿って県道27号を南下。右に伊勢宮の小さな社を過ぎると道の右手に舟形地蔵。横に消えかけた手書きの案内があり、「この石地蔵は金剛福寺への 道しるべ”として建てられたものです。県道開通以前の旧道には、足摺のお山にかかる切詰の谷から金剛福寺までの約八百八十メートルの間にこのような石地蔵が一丁(約百十メートル)ごとに八体建てられおり、ここからはお寺まで一丁あります」とある。
あしずり遍路道・切詰道と足摺岬道
この案内に拠れば、海岸沿いの県道ができる前は赤碆東道分岐点を右に折れた後、丘陵の中を抜けこの舟形地蔵のところに出て来たようだ。その遍路道が切詰道であり、足摺峠道ではあったのだろう。土佐清水市の案内にはあしずり遍路道・赤碆東道分岐点から県道を離れ右に折れると道は南下しヘアピン状で曲がる突端あたりに「切詰道」のマークがあり、道から離れた南に「足摺岬道」のマークがある。
国土地理院の地図には県道の山側に破線が描かれている。この破線に沿って遍路道は続いているのだろうか。

第三十八番金剛福寺
舟形標石の先、足摺岬を廻ると第三十八番金剛福寺に着く。 本日のメモはここまで、次回は金剛福寺から土佐最後の札所延光までの遍路道をメモする。