火曜日, 11月 01, 2005

世田谷区散歩 Ⅰ:烏山川緑道・北沢川緑道を歩く

とある秋の日、前々から気になっていたこのふたつの川を源流から歩くことにした。烏山川跡と北沢川跡。ふたつの流れは国道246の近く、池尻で合流し目黒川となって南にくだる。 大雑把なルートとしては、久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川、といったところ。(火曜日, 11月 01, 2005のブログを修正)



本日のルート;久我山>烏山寺町>烏山川源流・玉川上水分水口>芦花公園>烏山川緑道>池尻>目黒川>北沢川緑道との合流点から淡島通り>代沢>代田>小田急梅が丘>小田急豪徳寺>赤堤>京王下高井戸駅

井の頭線久我山

井の頭線久我山下車。駅の近く、神田川上水が東西に流れる。商店街を南に少し歩くと玉川上水・遊歩道と交差。このあたりが神田川・井の頭上水と玉川上水が最も接近しているあたりだろうか。「くが」とは「陸(くが=りく)」のこと。「くぼ(窪)」とは逆の意味。川などの近くで小高い地形のうねりを意味する、との説がある。久我山の起伏がふたつの上水路の分水嶺となっているのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


玉川上水・岩崎橋

岩崎橋を渡る。左・岩通ガーデン、右・岩崎通信機。岩崎橋は岩崎通信機から来た名前だろう。少なくとも、橋が先にあったわけではない。なにせ、岩崎通信機は渋谷・代々木上原がスタートの地と聞いている。ともあれ、更に南に。久我山病院の手前、久我山1丁目を右折。久我山盲学校を越え、國學院大學付属幼稚園のあたり、歩道のない道路道を少々怖い思いしながら歩く。大きく曲がるカーブが終わるあたりで住宅街へと左折。烏山寺町通りへと。

烏山寺町
烏山寺町。1キロ程度の区間に26のお寺が集まる。関東大震災の後の区画整理により、下町にあったお寺さんがこの地に移ってきた。小京都、という人もいる。が、それは言い過ぎか。とはいいながら閑静な町並み。ここに移り住んだ住職各位が環境保全に努めたとか。

烏山川の源流のひとつである高源院の池
寺 町通りの北端に高源院。烏山寺町に来た理由は、高源院内にある池をチェックすること。烏山川の水源のひとつと言われている。もっとも、お寺が浅草から移ってくるまでは田畑の中の湧水池であったことは言うまでもない。シベリアから渡ってくる鴨がここで骨休み。ために鴨池とも。
烏山川水系にはこの湧水を水源とする流れ以外に、玉川上水からの分水(烏山用水)もあった、とか。ために湧水池からの川筋を古烏山川とも呼ばれていた。

寺町を巡る

次の目的は古烏山川筋のチェックと玉川上水からの分水口および烏山川用水の水路の確認。とはいうものの、ついでのことなので、寺町通りの左右に並ぶお寺を眺めながら進む。道左手に専光寺。喜多川歌麿の墓があった。妙寿寺は結構大きい。辛龍寺は江戸名所図会の挿絵画家・長谷川雪旦・その子雪堤の墓。称住院には俳人・宝井其角の墓。忠臣蔵で有名。

古烏山川筋をチェック
お寺巡りを終え、古烏山川筋のチェックに戻る。道端にある地図をみると、高源院の裏手あたりに、いかにも水路跡といった趣の道筋。寺町通りのひとつ東を通る松葉通りを少し北に戻る。
玄照寺の北にそれらしき細路。道は高源院裏手まで続いていた。民家の間を続く細路であり、お寺の塀で行き止まりになるあたりでは、道端で遊ぶ子どもたちに少々怪訝なん顔をされてしまった。
松葉通りまで戻る。水路は松葉通りを越え団地内に続き、団地中央あたりで南に折れ、中央道烏山トンネルの西端辺りに向かって下る。道筋は如何にも水路跡といった雰囲気が残っていた。

玉川上水からの分水口

古烏山川筋から離れ、次は、玉川上水からの分水口および烏山用水の水路チェックに向かう。玉川上水の分水口は岩崎橋の少し下流にある、と。玉川上水まで戻り、橋のあたりであれこれ分水口を探すが確認できず。分水口からの流れは岩通ガーデン内を南下し久我山病院あたりに出る。そこから、久我山病院前を走る下本宿通りを東に折れ、団地東端に沿って南下する。古烏山川と平行して団地内を下っている。

団地内に水路の痕跡
水路跡を求めて団地に戻る。あちこち歩く。一瞬、川筋が数m現れる。すぐ隠れる。どこへ?結局、川筋はこの数m以外見つけられなかった。すべて埋められているようだ。で、いかにも川筋を埋めたと思える道筋を下る。多分これが烏山川の道筋だろう、。金網で川筋跡を確保しているところもあれば、民家の軒先を走るところもある。川筋というか、道筋に沿って、甲州街道まで下る。

芦花公園駅

芦花公園の近くで甲州街道と交差。さらに進み、芦花公園駅の西端のあたりに如何にも水路跡といった痕跡。線路を迂回し水路の痕跡を探す。ちょっとした木立の中に痕跡発見。南方向から東に向って大きく曲がり世田谷文学館方面へと続いている。ここからはちょっぴり遊歩道といった雰囲気の道になる。(これは2005年のメモ。最近この辺りを歩いたときは、駅前が再開発され見違えるようなモダンな街並に変わってしまっていた)

世田谷文学館

世田谷文学館で休憩。いろんな発見もあった。が、もっとも印象的だったのは、世田谷の往時の写真。といっても昭和30年頃なのだが、世田谷の各地、ほんとうに武蔵「野」。世田谷の地に幾多の文人が武蔵野の自然を求めて移り住んだ、というフレーズも写真をみて納得。それにしても、この数十年の日本の変化って、結構すごかったわけだ。これも実感・納得。世田谷文学館のメモは別の機会にするとして、先を急ぐ。

環八
世田谷文学館前の遊歩道を東に。芦花中、芦花小、都営八幡山アパートを越え、環八に。陸橋を渡り川筋・道筋を探す。環八に沿って川筋が。暗渠でもなく、土で覆っているだけ。環八に沿って南に下り、芦花公園の交差点に。

芦花公園

前から気になっていた芦花公園にちょっと寄り道。芦花公園・芦花恒春園。徳富蘆花が愛子夫人と晩年を過ごした地。文豪トルストイに憧れ、ロシアの大地・自然につつまれた生活を送った徳富蘆花がロシアから帰国後すぐ、この地に住む。当時はこのあたり、雑木林と畑が一面に広がる地。芦花の『自然と人生』から:「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗(きれい)に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林(ていぜんりん)より秀でて翆蓋(すいがい)を碧空に翳(かざ)すあり。霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林(ふうりん)を羨まず。
 ・・・
春来たりて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう)など和(やわら)かなる色の限りを尽くせる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。
青葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面も青く、もし仮睡(うたたね)せば夢又緑ならむ。・・・ 。」
武蔵野の豊かな自然が彷彿とする。昔は一体どういった詩趣をもつ地だったのだろう。とはいいながら、国木田独歩の『武蔵野』の冒頭;「武蔵野の俤(おもかげ)は今僅かに入間郡(こおり)に残れり」と。これって明治37年頃の文章。今は今で、昔は昔で、そのまた「昔」の風情を懐かしむってわけ。これ世の習い。

蘆花記念館

夫妻の住居跡から蘆花記念館を廻る。記念館に行くまでは、芦花って『不如帰』のイメージが強く、『思出の記』『自然と人生』は文学史の試験対策で覚えたくらい。が、清冽なる人物であった。大逆事件で死刑判決の出た、幸徳秋水の助命嘆願書を天皇宛に出し、一高生に向っての大演説。素敵な人物である。奥さんの家系には幕末の思想家・経世家の横井小楠も。勝海舟が西郷以外に「怖い人物」と称した人物。人物をもう少し知りたい、小説を読んでみたい、と思った。ちなみに『思出の記』の舞台は愛媛の今治だとか。身近に感じる。

船橋
芦花公園を離れ、烏山川緑道に戻る。明治大学八幡山グランドに沿って南東に。船橋7丁目、希望が丘公園前に。船橋の地名、往時このあたり湿地帯であり、船で橋を渡したとか、船橋さんが住んでいたとか、例によっていろいろ。古文書にこのあたり「船橋谷」と書かれている、とも。このあたり、ちょっとした「谷地」だったのではなかろうか。そういえば芦花公園の南端を粕谷から流れてくる川筋、烏山川の支流だろうが、この地で合流している。湿地帯であった、というのが船橋の地名の由来であろう、と自分ひとり納得。

烏山川緑道

希望が丘公園の東隣・希望が丘団地あたりから烏山川緑道は始まる。が、案内はない。ここから小田急線・経堂駅の手前で小田急線を越えるあたりまでは南東にほぼ一直線で下る

。団地内を横切り、希望が丘小学校の東、船橋交番前交差点の南を通り、荒川水道と交差。

経堂3丁目で小田急線と交差
船橋3丁目と5丁目の境を下り、経堂3丁目で小田急線と交差。経堂中村橋あたりで東に向きを変え、車道に沿って続く。

世田谷線・宮の坂駅

経堂大橋・農大通りを越え、宮坂1丁目、鴎友学園前。「万葉の小径」の表示。植物に万葉時代の名前とともに、万葉集の歌。が、すぐ終わる。歩いていると突然行き止まり。はてさて、と思ったら、世田谷線との交差。宮の坂駅。

環七と交差

迂回し、再び緑道に。豪徳寺の南、世田谷城址公園の南を通り、おおきく北にカーブ。先日歩いた国士舘大学・若林公園・松蔭神社裏を越え、環七若林踏み切りに。環七と交差した世田谷線とほぼ平行に太子堂から三軒茶屋方面に。
世田谷城跡は足利一門でもある吉良氏の築城と言われる。鎌倉公方の足利基氏によりこの地を拝領し居城とした。長尾景春の乱に際しては、太田道灌方に与し豊島氏と戦い、道灌の居城でもある江戸城を守った。後に北条氏の傘下となり、吉良氏の蒔田城(横浜市南区の東洋英和女学院の敷地となっている)への移動とともに、北条直轄の城となる。
松蔭神社は吉田松蔭を祀る。安政の大獄で刑死し小塚原の回向院に眠る松蔭を、高杉晋作などの門下生がこの地に移した。

目青不動

三軒茶屋の北・太子堂4丁目と5丁目の境を通り、茶沢通りを交差。茶沢通りの西では八幡神社、目青不動、東では太子堂のある円泉寺などにちょっと立ち寄り。ちなみに、茶沢=三軒「茶」屋+下北「沢」。
目青不動は江戸五色不動のひとつ。目黒不動は目黒区下目黒の瀧泉寺。目白不動は豊島区高田の金乗院(明治期は小石川の新長谷寺。第二次世界大戦で焼失し金乗院に移る)。目赤不動は文京区本駒込の南谷寺。目黄不動はいくつかある。江戸川区平井の最勝寺や台東区三ノ輪の永久寺など。五色不動の由来は定説なし、と。もともとは目黒・目白・目赤の3不動との説も。目黄不動がいくつかあるのも、後発組ゆえのあれこれ、か。

山川緑道と北沢川緑道の合流点

三宿1丁目と2丁目の境を進む。三宿池尻の交差点の北あたり、池尻3丁目・4丁目と三宿1丁目・2丁目のクロスポイントに烏山川緑道と北沢川緑道の合流点が。仲東合流点。
三宿は水の宿=水宿=みしゅく、水が集まったところ、というのが地名の由来とか。隣の池尻は池の水の落ち口というし、井の頭線には池の上という駅も。このあたりはふたつの川が合流し、大きな池というか湿地帯になっていたのだろうか。

246号線の南から目黒川が流れる


で、烏山川と北沢川が合わさった川筋は、ここからは目黒川となる。左手は小高い丘。見晴らし公園とあった。駒場東邦学園も丘の上。合流点からしばらくは親水公園、というか水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が引き込まれている。目黒川清流復活事業の一環。先日歩いた呑川と同じ。
崖に沿って246号線まで下り、横断歩道を南に渡り目黒川が開渠となる地点を確認。それにしても結構な水量。源流点からまったくの暗渠。姿を見せたらこの水量。すぐ近くで「補給」された落合処理場からの高度処理水なのだろうが、少々複雑な気持ち。そもそも「川」とはなどと一瞬頭を過ぎる。が、それまで。本日のメーンエベントは完了。

当初の予定ではここで終了の予定だった。が、先ほどの北沢川合流点、その先が気になった。水源は京王線・上北沢の近く。どちらかといえば家路への方角。どうせのことならと、北沢川緑道を水源に向かって歩くことにした。


合流点から北沢川緑道を遡る合流点に戻る。合流点から北沢川の源流点に向って歩きはじめる。遊歩道は中央に水が流れる。西落合処理場からの高度処理水が代沢4丁目のせせらぎ公園経由でひかれているとのこと。

淡島通りと交差
池尻2丁目と4丁目の境を北西に上り、淡島通りと交差。淡島通りは 代沢3丁目にある淡島神社 (森巌寺)に由来。

環七交差

淡島交差点で淡島通りを渡る。前にせせらぎ公園。代沢3丁目と4丁目の境を進み、茶沢通りを越え、代田1丁目と2丁目の境を通り、小田急・世田谷代田の南、宮前橋交差点のすぐ北で環七と交差。ここまでは、一部工事中の箇所を除き、水の流れる気持ちのいい遊歩道。が、環七を越えると事情が一変。水なき普通の遊歩道となる。代沢=代「田」+下北「沢」。代田は以前にもメモしたが、伝説の巨人「ダイダラボッチ」の足跡から。これが詰まって「ダイダ」となった、と。

梅が丘駅の東で小田急と交差

環七を渡る。遊歩道の入口は通行止め。横の駐車場から入る。北西に一直線、梅が丘駅の東を小田急と交差。

世田谷線・山下駅

羽根木公園手前で西に振れ、小田急に沿って豪徳寺駅の北へ。突然道が切れる。無理して進むと民家に入ってしまった。こんなに早く緑道が終わるはずはないのだが、日も暮れ地図も見えない。仕方なく豪徳寺駅に行き地図を見る。世田谷線・山下駅で遮断されただけ。世田谷線の西から緑道は続いていることを確認し、出発。

赤堤1丁目からユリの木緑道

経堂駅あたりまでは小田急線に沿って続く。赤堤1丁目のユリの木公園を越えたあたりから、ユリの木緑道となる。宮坂3丁目のあたりからは北に振れる。

緑道の終点に佐内弁財天
赤堤小学校の裏手を北西に登る。赤堤3丁目の交差点あたりで赤堤通りと交差。東経堂団地前の交差点の北を進み、団地内の道を進み、団地の端で緑道が終わる。道端につつましい弁天の祠。このあたりの名主・鈴木佐内の屋敷内にあったもの。ために佐内弁財天、と。

この先一時緑道は切れ、再び日大桜ヶ丘高校と緑丘中学の間、勝利八幡神社と競技場の間、都営上北沢アパートから都営第二上北沢アパートのほうに川筋っぽい道が続く。その先は都立松沢病院。構内には入れないが池もある。そのあたりが北沢川の水源なんだろうと、辺りを歩き、最寄の京王線の駅、下高井戸に戻り、本日の予定を終える。


メモに際し北沢川のあれこれをチェック。この川、水量がそれほど多いわけでなく、玉川上水から養水をおこない、この地域一帯の生活・灌 漑用水として使われる。ために、北沢用水(上北沢用水)とも呼ばれる。京王線の桜上水あたりにも分水口があったよう。地図をチェックすると桜上水駅あたりから、松沢中、松沢高、日大文理学部に向かって南東にすすむ、いかにも水路跡といった道がある。桜上水支流なのだろう。尾根道を進んできた玉川上水が、尾根を下り烏山川であれ北沢川であれ、水量の少ない自然の川を養水し地域に水を供給してきたことを実感した。

0 件のコメント:

コメントを投稿